2022年5月24日火曜日

一年に一度の服を捨てたくなる瞬間

 一年に一回ぐらい唐突に「服を捨てたくなる瞬間」が来るので、「よっしゃきたー!」って言いながらどんどん捨てる。


 基本的に服を捨てられない人間だ。基本っていうか応用も発展も捨てられない。ふだん服を捨てるのは「外から見えるところに穴が開いたとき」ぐらいだ。

 Tシャツだと、何回も洗濯してよれよれになって、ぶどうの汁とかがついて汚れが目立つようになってもまだ捨てない。パジャマにまわす。いったんパジャマにすると襟元がびろびろになってもカレーがこぼれても「家の中で着るだけだからまあいっか」となって捨てられない。へたすると二十年ぐらい前に買ったシャツをまだ着ている。

 靴下は穴が開くので、明確に「終わり」がわかる。穴が開いたら捨てる。シンプルだ。
 しかし両方は捨てない。ぼくは黒の無地の靴下しか買わないので(洗濯後にペアの相手を探すのが面倒なので)、片方に穴が開いた靴下が二足あればそれで新たにワンペアできる。したがって片方は置いておく。

 パンツは、うんこを漏らしたら終わり。これもわかりやすい。
 しかしぼくもいいおっさんなのでそうそう漏らさない。数年に一回ぐらいだ。したがってパンツも捨てられない。こないだパンツを履こうとおもったらお尻のところに穴が開いていた。パンツに穴が開くってどれだけ履いたのだろう。十年以上履いたかもしれない。


 身だしなみには気を遣わないけどさすがに外に着ていく服は選ぶ。三ヶ月に一回ぐらいユニクロなどに行ってどかっと買いこむ。
 スーツは毎年買う。仕事ではそこそここぎれいにしないといけないという意識はある。

 買うけど捨てられない。だからどんどん増える。たんすがいっぱいになる。


 そんなわけで、一年に一回の「服を捨てたくなる瞬間」はぼくにとってチャンスタイムだ。
 これは汚い。これは襟がよれよれになっている。これは一年以上着ていない。どんどん理由をつけて捨てていく。ちらっと「もったいない」という意識もよぎるが、ここで立ち止まったらたんすが爆発するので、むずかしいオペに集中しているブラック・ジャックみたいに「なむさん!」と言いながらどんどんごみ袋に放りこむ。

 ひととおりごみ袋に放りこんだらものすごくすっきりする。はあ、やってやったぜ。厄介な癌細胞をとりのぞいた気分だ。


 だが油断は禁物だ。今度は「着なくなった服を捨てにいく」という作業がある。
 これがなかなかおっくうで、すべての仕事を終えた気になっているぼくにとってはなかなかの難事業だ。だがこれはその日のうちにやらなくてはならない。

 なぜなら、このごみ袋を捨てに行かないと、後日洗濯物がたまったときに「着る服ないなー。おっ、これまだ着れるやん」とごみ袋から服をひっぱりだして着てしまうからだ。そういうやつなんだよ、ぼくは。

 これで何度癌が再発したことか。



2022年5月23日月曜日

【読書感想文】井手 英策『幸福の増税論 財政はだれのために』/増税は(理論上は)いいこと

幸福の増税論

財政はだれのために

井手 英策

内容(e-honより)
なぜ日本では、「連帯のしくみ」であるはずの税がこれほどまでに嫌われるのか。すべての人たちの命とくらしが保障される温もりある社会を取り戻すために、あえて「増税」の必要性に切り込み、財政改革、社会改革の構想を大胆に提言する。自己責任社会から、頼りあえる社会へ―著者渾身の未来構想。

 おもしろかった。

「税を増やそう」「消費税は悪くない」といった提言なので、反射的に拒否反応を示す人も多いだろう。

 案の定、Amazonのレビューを見ても「☆一つ。なぜ消費税増税が必要なのでしょうか」みたいなひどいレビューが並んでいる。その理由を本の中に書いているのに。読まずにレビューを書いていることが一目瞭然だ。


 税金をとられることを好きな人はほとんどいない。ぼくだって免除されるんなら免除されたい。ただし免除されてうれしいのは「自分だけ免除」の場合だけだ。「日本国民全員から税金をとるのはやめます!」は困る。学校も警察も消防も医療もインフラもあっという間に立ちいかなくなる。

 勘違いしがちだが、ぼくらはべつに税金が嫌いなわけではないのだ。嫌いな理由は「正しく使われていないのではないか」「払うべきやつが払ってないのではないか」という不公正感があるからであって、税金制度自体に反対する人はまずいないだろう。

 そもそも税金というのはほとんどの人にとっては得なのだ。それぞれの家に水道を引こうとおもったら、いったいいくらかかるか想像もつかない。個人浄水場と個人上水道と個人下水道と個人下水処理場を作れる金持ちはまずいない。それだけでも、生涯に納める税金額を超えるはずだ。そんなサービスが税金と水道料金あわせてもせいぜい月数千円で利用できるのだ。おとく~!


 だから税金を上げるべき、という主張はしごく正しい。正しく徴収して正しく使えば、税金は高ければ高くてもいい。所得税が50%を超えたって、それ以上のサービスを受けられるのであれば得だ。じっさい、日本よりも高い税率の国はいくらでもあるわけだし。

 もちろん「正しく徴収して正しく使えば」の部分がむずかしいわけだが、それはまた別の問題。税金自体が悪いわけではない。




 著者はまず「勤勉に働けば経済が成長する時代は終わった」と説明する。どう考えたって高度経済成長期やバブルのような時代は二度とやってこない。その時代に築いた経済モデルでやっていくのは無理がある。

 日本人が勤勉でなくなったわけではない。必死に働いてもあんまり経済成長しない。他の国もそうだ。アメリカも成長率は落ちている。中国だって近いうちにそうなる。


 ぼくもまったくの同意だ。多くの人が気付いているだろう。永遠の経済成長なんてまやかしだということに。歴史上、ずっと成長を続けた国も企業も存在しない。

「〇〇すれば成長する!」という人は現実を見ていない。「毎日運動を続けていれば身体能力は向上する!」はある時期までは正しいが、一定の年齢を超えると通用しなくなる。永遠の経済成長を信じられる人は百歳超えても若い肉体でいられるために筋トレでもしてなさい。


 経済は成長しない。格差はどんどん拡がる。そんな状態で消費が伸びるはずがない。ますます経済は成長しなくなる。もはや個人の努力ではどうにもならない。だったら分配のしかたを変えるしかない。

 だが「困っている人を税金で救う」ことを嫌う人は多い。

 自分も税金で得している(払っている額より受けているサービスのほうがずっと大きい)くせに、公務員や生活保護受給者を非難する人たちだ。

 だから「困っている人を税金で救う」ことはなかなかうまくいかない。


 そこで筆者が提案するのは「ベーシック・サービス」だ。

 ここでひとつの提案をしよう。現金をわたすのではなく、医療、介護、教育、子育て、障がい者福祉といった「サービス」について、所得制限をはずしていき、できるだけ多くの人たちを受益者にする。同時に、できるだけ幅ひろい人たちが税という痛みを分かちあう財政へと転換する。ようは財政のあるべき姿への回帰をめざすということだ。
 僕たちは、だれもが、生まれた瞬間に保育のサービスを必要とし、そして育児のサービスを必要とするようになる。一生病気をしないという人はいない。歳をとって介護を絶対に受けなくてすむと断言できる人もいない。教育はだれもが必要とする。だれだっていつ障がいをもつようになるかわからない。
 すべての人びとが必要とする/必要としうる可能性があるのであれば、それらのサービスはすべての人に提供されてよいはずである。また、そのサービスは、人びとが安心してくらしていける水準をみたす必要がある。これらを「ベーシック・サービス」と呼んでおこう。
 人間が生きていくプロセスには、自己責任で対応すべき領域と、おたがいに頼りあい、ささえあいながら、解決するしかない領域とが存在する。そのうち、後者を、財政によって確実に保障する。一人ひとりがささえあう領域を拡大し、いかなる不遇にみまわれても、みなが安心して生きていける社会をめざすのである。

「困っている人を救う」のではなく「全員を救う」のだ。これなら抵抗感も減るだろう。

 困っている人を救うための政策が反対されるのは、不公平だからだ。

 低所得者や子育て世帯や高齢者の医療費を税金で出すことには反対の人でも、全国民の医療費をタダにするのであれば少なくとも「不公平だ」という批判はなくなるだろう。

 ベーシック・インカムにも似ているが、「ベーシック・サービス」は金銭ではなくサービスで支給する。これにより必要な人にだけ必要なサービスを提供できる。医療費がタダになったからって健康なのに病院に毎日通う人はほとんどいないだろう。

 ベーシック・インカムであれば、結局難病になったときなどに医療費をどうするかという不安は解消されない。むしろ、「毎月金をもらってるんだからその中でやりくりしろよ」と自己責任論が幅を利かせそうだ。だからベーシック・インカムよりもベーシック・インカムのほうが不安解消にはいいと著者は説く。


 これはすごくいいとおもう。将来が不安なのは、未来がどうなるかわからないからだ。

 病気や怪我で働けなくなるかもしれない。介護が必要になるかもしれない。だから貯蓄が必要になる。

 でも、医療費も介護費用も子どもが大学まで行くお金も全部タダであれば、不安はだいぶ軽減される。貯蓄はずっと少なくて済む。

 今でも生活保護制度はあるが、これはほとんど「最後の手段」だ。条件は厳しいし、申請はたいへんだし、後ろめたさも感じる。ところが「全国民がタダ」であれば後ろめたさを感じる必要もない。

 サービスの自己負担が少ない北欧諸国を見てみると、社会的信頼度が先進国のなかで最高水準にあることがわかる。それは彼らが善良な人間だからではない。受益者の範囲をひろげ、他者を信頼した方が自分のメリットになるメカニズムを生みだしているからである。
 このメリットは低所得層の心のありかたにまでおよぶだろう。いかに自分がまずしく、はたらく能力がないかを告白して、生活保護によって救済されるという社会ではなく、だれもが堂々と生存・生活に必要なベーシック・サービスを受けられる社会になる。低所得層は「社会の目」「他人の目」から自由になり、尊厳をもって生きていくことができるようになる。
 所得の平等化だけではなく、人間の尊厳を平等化するという以上の視点は、きわめて重要である。ベーシック・サービスは「尊厳ある生活保障」を可能にするのだ。
 それだけではない。所得制限をはずしていけば、現在、所得審査に費やされている行政職員の膨大な事務を大幅に削減することができる。だれが嘘つきかをあばく所得審査のために労力を費やすのはおろかなことだ。ムダづかいを探しあて、人間不信をあおりたてることの結果ではなく、人間の生の保障と幸福追求の結果として、自然に行政も効率化していくのである。


 うちには子どもがいるので毎年子ども手当をもらっているのだが、毎年毎年手続きが必要になる。役所から書類が送られてきて、それに記載して返送。役所でチェックをして、後日指定した口座に子ども手当が振り込まれる。それでもらえる額が年一万円だ。

 毎年「ばっかじゃないの」と毒づきながら書類に記載をしている。この書類の作成、郵送、記入、返送、チェック、振り込みに使っている額を時給換算したら数千円になっているだろう。一万円の支給をするために数千円かけて手続きをする。実にばかばかしい。最初から現金書留で一万円送ってきたらいいのに。多少は送付ミスも起こるかもしれないが、それで失われる額よりも手続きにかかる金のほうがずっと多いにちがいない。

 でも、公的支援においては効率よりも公正が求められる。こないだ、誤って数千万円の給付金が振り込まれた人が返還を拒否したために大騒動になった。あれはよくないことだが、逆に考えればあれが大ニュースになったということは「誤って大金が振り込まれて返還に応じない人」というのはめちゃくちゃ稀少な存在だということだ。数十年に一度発生するぐらいの。

 予言するが、きっと今後役所の振り込み手続きは今よりずっとずっと面倒なものになるだろう。誤入金をなくすために。そしてそれにより失われる金額は数千万円どころではないはずだ。

 公正におこなうために誰も得しない煩雑な手続きを課しているのだ。

 ベーシック・サービスが実現すれば、こういう無駄な手続きもずっと少なくなるはずだ。「還付する」よりも「はじめっから徴収しない」ほうがずっと楽なのだから。


 ま、手続きが簡便になるってことは、これまで中抜きをしてうまい汁を吸ってた人や、特定の団体を優遇することで集票に使っていた政治家からしたら困ることだろうけどね。




 ぼくらは「貯蓄はいいことで、税金をとられるのは悪いこと」と考えてしまう。

 だが、貯蓄と税金は表裏一体のものだと著者は説く。

 もう少し議論を深めておこう。貯蓄をすれば、資産が増えることは事実である。ただし、それが将来へのそなえであり、いま使うことのできない資産である以上、税を取られるのと同じように消費は抑えられている。(中略)
 注意してほしいのは、人間は自分が何歳で死ぬのかを知らないということだ。したがって、九〇歳、一○○歳まで生きてもいいように過剰な貯蓄をする。マクロで見ればこの分の消費抑制がおきるうえ、相続人も高齢化がすすむため、相続した貯蓄をそのままためこんでしまう。
 頼りあえる社会では、人びとが将来へのそなえとして銀行にあずけている資金を税というかたちで引きだし、これを医療、介護、教育といったサービスで消費する。たしかに僕たちは取られる。だが、自分が必要なときにはだれかがはらってくれる。
 さらには、手元にのこったお金は、貯蓄ではなく、遠慮なく消費にまわしてよい。「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」が頼りあえる社会のめざす究極の姿である。
 もちろん、税によって短期的には消費が抑制されることは事実である。この点は、次章であらためて検討する。ここでいっておきたいのは、社会保障・税一体改革の反省をもとに、税収を財政健全化ではなく、僕たちのくらしの保障に財源を回せば回すほど、税による消費の抑制効果は小さくなるということだ。税の使いみち次第で経済効果はちがってくる。

 多くの人は「増税すれば消費が鈍る」と考える。しかしこれは正確ではない。消費が鈍るのは「増税しても受ける公的サービスが増えないから」だ。

 たとえば所得税が月に一万円増える代わりに、大学の授業料がすべて無料になったとしたらどうだろう。多くの子育て世帯はむしろ自由に使えるお金が増えるんじゃないだろうか。

 そう考えると増税はぜんぜん悪い話じゃない。




 増税をして公的サービスを充実させようという著者の提案はすばらしい。猫も杓子も(財務省以外)減税せよしか言わないので、こうした意見はたいへん貴重だ。

 著者の言っていることは、理論上は正しいとおもう。


 でも……。やっぱりむずかしいだろうな。

 すべての人が納得する税の使い方なんてないもの。おまけに不正な金の使い方をする政治家や役人は(少数とはいえ)ぜったいに存在するし。

「不正はあるけどそれはそれとして増税しましょう」に多くの国民が納得するかというと……。ま、無理でしょうな。

 せめて政治家だけでもこういう考えを持ってくれると助かるんだけど。


【関連記事】

【読書感想文】今こそベーシック・インカム / 原田 泰『ベーシック・インカム』

【読書感想】井堀利宏『あなたが払った税金の使われ方 政府はなぜ無駄遣いをするのか』



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2022年5月20日金曜日

『ベイクオフ・ジャパン』の感想

ベイクオフ・ジャパン

内容(Amazonプライムより)
イギリスの大人気番組『ブリティッシュ・べイクオフ』の日本版がついに登場!全国から選ばれた10人のアマチュアベイカーたちがお菓子やパン作りなどベイキングの腕を競います。審査員は、一流パティシエの鎧塚俊彦さんと日仏ベーカリーグループオーナー/パン職人の石川芳美さん。ベイカーたちは各話3つのチャレンジに挑戦。審査員によるジャッジの後、各話ごとに1位が選ばれスターベイカーの栄誉を与えられます。しかし同時に敗者も選ばれ、そのベイカーは会場を去ることに。最終話で選ばれる「日本一のスターベイカー」の称号を目指し、ベイカーたちは自慢のレシピでスイーツやパン、審査員に用意された課題を焼き上げます! 番組ホストに坂井真紀さん、工藤阿須加さんを迎え、おいしく楽しい、そしてドキドキする時間が始まります。


 Amazonプライムにて視聴。

 パンやケーキ作りが趣味の10人が、毎回3つの課題に挑戦。審査の結果、最下位だった人は次のステージに進めない。何度ものコンテストをおこない、チャンピオンを決めるという番組。
 NHKでもやっている『ソーイング・ビー』という裁縫コンテスト番組の、ベイカー版。

 もともとは英国の番組でそれを日本に輸入したらしい。英国版は観たことない。


 ぼくはパン作りもお菓子作りもやらない。焼き菓子といてば、大学生のときに二度ほどブラウニーを焼いただけだ。大学祭で売るために。パンはといえば、結婚祝いでGOPAN(お米でパンを焼ける機械)をもらったので何度か挑戦したが、買った方がだんぜん早いしうまいとおもってすぐにやめてしまった。

 そんな、もっぱらパンもお菓子も食べるの専門のぼくですら、この番組(シーズン1)はおもしろかった。


■ テンポがいい

 とにかくテンポがいい。

 1時間の番組で3つの課題に挑戦する。たとえば第1回なんかは10人の参加者がいるから、10人×3種の料理をつくるわけだ。30種の料理を1時間で紹介するわけだから、どんどん紹介される。だからまったく退屈しない。

 決勝になると3人になるが、それでも1時間で9品だ。ぜんぜん間延びしない。このテンポの良さはすごく現代的だ。


■ 金と時間のかけ方が贅沢

 日本国内とはおもえない、だだっぴろい高原に作られた広くて使いやすそうなキッチンスタジオ。そこでの長期に渡る戦い(1年近くかかってるんじゃないの?)をたったの8話で流す贅沢さ。

 それでいて余計なものは一切ない。必要なところにはふんだんに金をかけ、無駄はすべてそぎ落とす。金と時間の使い方がうまいなーと感じる。

 この番組を日本のテレビ局が作ったら、きっと無駄にきらびやかなセットを作り、コメンテーターとしてアイドルや俳優や芸人を並べ、要所要所で音楽や効果音を流し、ものすごく下品なものにしてしまうだろう。

 あくまで主役は参加者であり、作られたパンやお菓子。それを最大限に引き立てるために効果的に金と時間をかけている。


■ 参加者が魅力的

 よくもまあこんなに素敵な10人を集めてきたものだとおもうほど、10人が10人とも上品。年齢も職業もばらばらなのに、みんな品がある。

 こういう対決形式の番組だと特に「こいつは好きじゃないな」みたいな人がいるものだけど、この番組に関しては皆無。みんなそれぞれ好感がもてる。

 それでいて、キャラクターが立っている。

 AikaさんとYuriさんの関係は『ガラスの仮面』の北島マヤと姫川亜弓を見ているようだった。粗削りながらもすごい吸収力で驚異的な成長を見せるAikaさんと、豊富な実績に裏打ちされた高い技術を安定して披露するYuriさん。たぶん年齢も近い。評価も拮抗して、いったいどっちが紅天女の座を射止めるの!? と目が離せない(紅天女は目指しません)。

 随所に人柄の良さがにじみでているKoheiさん。美的センスがアレなところも、本人の人柄を表しているようでかえって好感が持てる。この人、絶対いい人だもんな。Koheiさんに「すまないけどお金貸してくれないか」と言われたら5万までなら貸せる。
 Koheiさんは知れば知るほど好きになる。ぼくが女性なら狙ってる。でもKoheiさんは交際中の彼女にゾッコンなんだよなー!

 あとトークにふしぎな説得力があるSatoruさん。Satoruさんが自信たっぷりに「このお菓子はこうやって作るんですよね」としゃべっているのを聞いていると、「この人の作るお菓子ぜったいおいしいやん!」という気になる。その自信の割にけっこう失敗するところがほほえましい。

 参加者たちの成長が見られるのも楽しい。最初は毒々しい見た目のケーキを作っていたAikaさんが後半では同じ人が作ったとはおもえないほど上品なケーキを仕上げてきたり、うまくいかないとあわてふためいていたYumikoさんが回を重ねるごとにメンタルをコントロールできるようになったり。

 高い評価を受けてびっくりしすぎて無表情になっていたToshiharuさんもチャーミングだったし、Nobuoさんはこの人の淹れるコーヒーめちゃくちゃうまいだろって感じだったし、10人それぞれが非常に魅力的だった。


■ 余計な演出がない

 さっきもちょっと触れたけど、テレビ番組にありがちな余計な演出がないのもいい(一部あるけど、それについては後で触れる)。

 余計な音楽もないし、同じ場面をくりかえしたりもしない。制作陣が参加者たちに敬意を払っていることがうかがえる。

 また、コンテスト形式ではあるが過剰に対決をあおってないのもいい。

 参加者たちに勝ちたい気持ちはあるが、とはいえ彼らにとってお菓子作りはあくまで〝趣味〟なのだ。楽しむこと、自分の技術が上がることが第一で、勝ち上がることが最優先ではない。だから難しい技術にも果敢に挑戦するし、ときにはライバル同士助け合う。他の参加者にアドバイスを求めたり、作業を手伝ったり、道具を貸してあげたり。

 このあたりも、テレビ番組だったら過剰に対決姿勢を求めちゃうんだろうなー。そうやってストーリーをつくった方が作り手としては〝仕事をした気〟になれるんだろうけど、見ている側はべつにそんなもの求めてないからね。素材のまんまでおいしいから。

 なんかついついテレビ批判ばかりしちゃうけど、〝日本のテレビ番組じゃない番組〟を見ると、日本のテレビ番組がいかに凝り固まった思想にとらわれているかがわかるなあ。


■ 司会はダメダメ

 余計な演出がないと書いたけど、唯一余計だったのが司会者のふたり。まあ脚本があるんだろうけど……。

 まず坂井真紀さんが1話目の結果発表時に泣く。えっ、しらじらしすぎて気持ち悪いんですけど……。

 関係性が深くなってからならともかく、たった数時間、料理をしているのを見ただけの人が退場するだけで泣くの……。会話を交わしたのも二言三言でしょ。この人の涙腺どうなってるのよ。これぐらいで泣いてたら常にポカリ飲んでないと脱水症状起こしちゃうよ。

 この泣き真似が毎回あるのか、イヤだなあ、とおもっていたら、一話目で泣いてたくせに二話目以降はぜんぜん泣かない。どないやねん。なんで関係性深くなってからのほうが別れがつらくないんだよ。
 あれかな。
「あの坂井さん、さっき泣くフリしてたじゃないですか。ああいうのほんとうちの番組にいらないんで二度とやらないでください。気の利いたコメントができないもんだから困ったら泣けばいいとおもっていた『探偵!ナイトスクープ』の西田敏行前局長じゃないんで」
と、きつめに注意されたんだろうか。だとしたら注意した人はえらい。

 もっとひどかったのが工藤阿須加さん。まあこれは本人が悪いというより起用した人や演出を考えた人が悪いんだろうけど……。
 いわゆる「スベリキャラ」の感じで出てくるのだが、これが痛々しい。つまらないジョークを飛ばしたり、意味不明なダンスを披露するのだが、肩に力が入っているせいで「一生懸命やっている」ことが伝わってきてちっとも笑えない。もっといえばやらされている感というか。

 ぼくは本家英国版を見たことがないのだけれど、どうやらこれは本家のノリをそのまま持ってきたものらしい。だったら芸人にやらせるとか、他の人選があったんじゃないだろうか。下手な人のスベリ芸ほど見ていてつらいものはない。

 彼が出てくるシーンだけ学芸会の空気になるんだよね。「拙いですけどあたたかい目で見守りましょう」という空気になる。

 まあつまらないだけならまだいいんだけど、参加者が制限時間内に追われながら一生懸命作っている間にやる。そのたびに参加者は手を止めて学芸会を見てあげる(なにしろみんないい人たちだから無視できないのだ)。じゃまでしかない。

 司会のふたりがちょいちょいうんちくなんかを披露するのも、にわか仕込み感が濃厚に出ていて哀れだ。審査員はプロ、参加者はアマチュアとはいえセミプロレベルなんだから、司会のふたりは素人に徹したらいいのに。「素人として、視聴者の代わりに質問をする」役であれば存在価値もあるとおもうのだが。

 他の部分の演出が洗練されているだけに、司会ふたりの稚拙さ、もっといえば〝下手なくせにうわべだけうまい人のまねをしている感〟が鼻についた。


■ 味がわからない

 これはもう番組である以上しょうがないんだけど、作ったものの味がわからないのが残念。見ている側もいっしょに審査したいのに! 「見た目がきれいか」と「おいしそうか」しかわからず、肝心の「おいしいか」がわからない。

 だから審査結果を聞かされてもいまいち腑に落ちない。「見た目もきれいでおいしそうだったけど、食べたらおいしくなかったんです」と言われたら、こっちは「はあそうですか」と引き下がるしかない。

 これはもう味まで伝えられる次々々々々々世代テレビの登場を待つしかないな。

 ちなみにぼくが審査員だったら、抹茶が嫌いなので抹茶のケーキをつくってきた参加者には軒並み低い点をつけます!(そんなやつ審査員にさせるか)


2022年5月19日木曜日

老害の漢字

一 右 雨 円 王 音 下 火 花 貝 学 気 九 休 玉 金 空 月 犬 見 五 口 校 左 三 山 子 四 糸 字 耳 七 車 手 十 出 女 小 上 森 人 水 正 生 青 夕 石 赤 千 川 先 早 草 足 村 大 男 竹 中 虫 町 天 田 土 二 日 入 年 白 八 百 文 木 本 名 目 立 力 林 六


 上に挙げた漢字の共通点がわかるだろうか。


 答えは、「小学一年生で習う漢字」だ。

 こうして見ると、いくつかの共通点が見えてくる。

 まず、当然ながら「画数の少ない漢字」。龍とか躑とか簫とかは出てこない。

 それから「具体物を指す漢字」が多いことに気づく。一年生でも理解できる、身の回りにあるものを指す漢字だ。

 たとえば「干」「丈」「乞」はいずれも三画の漢字だが、一年生では意味をつかみにくい。こうした漢字はまだ習わない。

 また、ほぼ熟語でしか使わない漢字「凡」「寸」「士」なども三画だが、まだ習わない。一年生で習う漢字は、ほとんどがそれ単体で具体物や具体的な行為を指すものばかりだ(上下左右などは抽象的概念ではあるが一年生でも理解できる)。


 二年生になってもこの傾向は大きくは変わらない。


引 羽 雲 園 遠 何 科 夏 家 歌 画 回 会 海 絵 外 角 楽 活 間 丸 岩 顔 汽 記 帰 弓 牛 魚 京 強 教 近 兄 形 計 元 言 原 戸 古 午 後 語 工 公 広 交 光 考 行 高 黄 合 谷 国 黒 今 才 細 作 算 止 市 矢 姉 思 紙 寺 自 時 室 社 弱 首 秋 週 春 書 少 場 色 食 心 新 親 図 数 西 声 星 晴 切 雪 船 線 前 組 走 多 太 体 台 地 池 知 茶 昼 長 鳥 朝 直 通 弟 店 点 電 刀 冬 当 東 答 頭 同 道 読 内 南 肉 馬 売 買 麦 半 番 父 風 分 聞 米 歩 母 方 北 毎 妹 万 明 鳴 毛 門 夜 野 友 用 曜 来 里 理 話


 これが二年生で習う漢字。家族、身体の部位、動物、色、季節、自然現象など、やはり低学年でも理解できる概念が多い。

 よく考えられているなあと感じるとともに、ちょっと時代に合わないのではないかと感じる漢字もいくつか混ざっている。


「村」「麦」「刀」「矢」「弓」あたりは、昔は身近なものだったのだろうが今ではあまりなじみのないものになっている。というか刀や弓矢が身近だったのっていつの時代だ。
 このあたりの漢字を習うのはもう少し後でもいいんじゃないか。


 特によくわからないのが「京」と「汽」だ。

「京」を使う熟語といえば、上京、帰京、在京などで、いずれも低学年はまず使わない。

 固有名詞(東京、京都、北京など)でよく使われるじゃないか、という意見もあるだろう。だが、「奈」「栃」「沖」「賀」「群」「徳」「富」「城」など「都道府県名で使われている漢字シリーズ」は四年生で習う。「阪」「茨」「埼」「潟」「媛」「阜」など地名以外ではまずお目にかかれないような難しい漢字もみんな四年生だ。「京」だけ特別扱いをするのはおかしい。「京」も四年生でいい。


 さらに解せないのが「汽」だ。

「汽車」「汽笛」「汽船」「汽水」……。はっきりいって今の小学生にはまったくなじみのない言葉ばかりだ。というか大人のぼくでも汽車や汽船なんて実物を見たことないぞ。

 きっと汽車があたりまえに走っていた時代に「これは身近なものだから二年生で習うべき」と定められて、ずっとそのままになっているんだろう。


 おい「汽」よ。おまえ、いつまで子どもの身近な存在みたいな顔をして二年生の教科書に居座るつもりだ。はっきりいって子どもはおまえなんかに興味ないんだよ。さっさと引退して後進(通信の「信」とか)にその座を譲りやがれ! この老害が!



2022年5月18日水曜日

【読書感想文】『大当たりズッコケ占い百科』『ズッコケ山岳救助隊』『ズッコケTV本番中』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第八弾。

 今回は20・21・22作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら、20・23・19の感想はこちら、28・23・19作目の感想はこちら


『大当たりズッコケ占い百科』(1989年)

 占いにハマったハチベエが、クラスメイトの市原弘子から〝レイコンさん〟なる占いを紹介される。死者の霊を呼びだすというその占いは驚異の的中率を見せ、すっかり〝レイコンさん〟に魅せられる三人組。
 ところがクラスの女子がなくしたペンダントが他の子の鞄にあることを〝レイコンさん〟が当てたことによりクラスメイトたちの関係が悪化する……。


 なかなかの問題作。オカルト、呪い、不登校、嫉妬など扱われている題材がとにかく陰湿だ。だが、個人的にはかなり好きな作品に入る。こういう〝ふつうの人の嫌な部分〟をちゃんと書いてくれる文学は信用できる。

 特に児童文学だと、悪い人が出てこなかったり、出てきたとしても〝頭の先から足の先までぜんぶが悪い単純な人物〟として描かれることが多い。
 でも現実はそうじゃない。誰しも優しい面もあれば意地悪な面もある。クラスの九割から好かれている人物が、残りの一割からものすごく憎まれていたりする。

 その点、ズッコケシリーズには根っからの悪人も出てくるが、ごくごくふつうの人の醜い姿や意地悪な面も書かれている。『ぼくらはズッコケ探偵団』の学級会のシーン、『花のズッコケ児童会長』で優等生がおこなったいじめ行為、『ズッコケ結婚相談所』の男子の恋心をもてあそぶ女子や、暴かれた母親の嫌な過去、『ズッコケ文化祭事件』での小説家の狭小な態度……。

 特にそれが顕著なのがこの『大当たりズッコケ占い百科』だ。占いを引き合いにクラスメイトをこばかにしたり、持ち物がなくなったときにクラスメイトを犯人だと決めつけたり、ターゲットにわかるように〝呪いのおまじない〟を実行したり、うわさ話を広めたり……。そういった行動をとるのは特定の悪い子ではない。ごくごくふつうの子である。主人公の三人組も加担している。

 学校でのいじめもだいたいそんなものだ。めちゃくちゃ悪いやつ、なんてのはそんなにいない。いじめの加害者がクラスの人気者で被害者のほうが問題行動の多い嫌われ者、なんてケースも多い( 奥田 英朗『沈黙の町で』もそんなリアルないじめを描いていた)。

 クラス内に疑心暗鬼が蔓延してギスギスしている様子なんか、挑戦的ですごくいい。しかも最終的に「悪いやつがやっつけられてめでたしめでたし」にならないのもいい。悪役もいるが、懲らしめられることもないし、悔い改めたりもしない。
 でもそれでいいとおもう。世の中、勧善懲悪ってわけにはいかないし、「クラスみんな仲良くしましょう」なんて欺瞞だ。そんなことを言っても弱い子は助からない。「嫌なやつもいるけどほどほどの距離をとってつきあっていきましょう」こそが教えなきゃいけないことだ。


 ちなみにこの本に、栄光塾という過激な塾が出てくる。毎月のテストで生徒を順位付けし、成績下位者は上位者のために靴をそろえてやらなければならない、というとんでもないやりかたをとっている。これ、人によっては「そんな塾ねーよ」とおもうかもしれないけど、今はどうだか知らないけど三十年前は野蛮な時代だったからこういう塾もあったんだよ。ぼくの友人が通っていた中学受験対策塾でも「まちがえた回数だけ物差しで叩かれる」って言ってたし。

 厳しいシステムをとりいれた結果、一生懸命勉強するよりも他の生徒に嫌がらせをして足を引っ張るようになる、というのが現実的でおもしろい。
 そうなんだよね。狭いコミュニティで競争させたら自分が向上するより他人を蹴落とすほうが楽なんだよね。こういう成果主義の弊害を1989年に書いていた、というのもすごいなあ。まだまだ「これからは欧米を見習って日本企業も成果主義だ!」って言われていた時代だもんなあ(そして国全体での凋落がはじまった時代でもある)。


『ズッコケ山岳救助隊』(1990年)

 子ども会の登山旅行に参加することになった三人。ところが悪天候やハプニングにより、三人組+同学年の有本真奈美だけがはぐれてしまう。霧、豪雨、土砂崩れ。最悪の状況でやっとたどりついた山小屋で出会ったのは、なんと誘拐されて監禁された少女。誘拐犯が戻ってくるかもしれないこの小屋で一夜を過ごすことになった子どもたち……。


 とまあ、これまでに様々な危険な目に遭ってきた三人組だが、その中でもかなりのピンチに陥る。にもかかわらずあまり緊迫感がない。

 山は怖い。が、その怖さはどうも伝わりにくい気がする。海で溺れるとか、高いところから落ちるかもとか、殺人犯に狙われるとか、そういう一刻一秒を争う危機に比べるとどうも「山での遭難」は人間の本能に訴えかけてくるものが小さい。だからこそ人々は山をなめ、遭難するのだろう。


 次から次にいろんなことが起こるので決してつまらないわけではないのだけれど、いまいち印象に残らない作品。ただ出来事が説明されるだけで、登場人物たちの心の動きが伝わってこない。終始三人組と行動をともにする真奈美という新キャラクターも、これといった活躍を見せるわけでもないし。

 唯一内面の苦しみが伝わってきたのが、引率役の有本さん。おもわぬアクシデントや一瞬の甘さのせいで子どもたちを遭難させてしまい、大いに苦しむ。もちろん自分の娘も心配だろうが、それ以上に心配なのはよその子。十分に監督しなければならない立場だったのに、ほんのわずか目を離してしまった隙にはぐれてしまったのだから悔やんでも悔やみきれないにちがいない。さらには子どもたちが遭難して夜になっても見つからないことを保護者に連絡しなければならない状況、その心痛は想像するにあまりある。

 子どもの頃は引率する大人の気持ちなんてまったく考えなかったけど、自分が親になると痛いほどよくわかる。『となりのトトロ』でも、いちばん共感してしまうのはカンタのおばあちゃんだもん。面倒を見るといっていた四歳の子が迷子になる……、こんなおそろしいことはないぜ。もしものことがあったら、と考えると自分が死ぬよりも怖い。


 ぼくが小学校四年生のとき、担任の先生が「初日の出を見るツアーをする!」と言いだして、子どもたち(希望者だけ)を連れて大晦日の夜から山に登った。

 当時は夜中に友だちと出かけられる楽しさしか感じていなかったけど、今考えたら「担任たったひとりで小学生数十人を深夜の山登りに連れていく」ってめちゃくちゃリスキーなことやってたなあ(ご来光目的の登山客が多かったとはいえ)。おお、こわ。



『ズッコケTV本番中』(1990年)

 ひょんなことから放送委員になったモーちゃん。慣れないカメラ操作に悪戦苦闘していると、見かねたハカセやハチベエが練習につきあうことに。折しも町内で放火事件が相次いでいるので、放送委員の後輩である池本浩美もくわえて放火犯を追うドキュメンタリー映画をつくることになった。
 ところがハチベエの不用意な発言のせいで池本浩美が放送委員内で孤立。めずらしくモーちゃんがハチベエに対して怒りをぶつけ……。


 後半こそ放火犯をつきとめることになるが、中盤までは学校の委員活動などの描写が多く地味な作品。

 ……というのが小学生時代のこの作品に対する評価だったのだが。

 今読むとおもしろい。たしかに町内だけで完結するので派手さはないが、モーちゃんやハチベエの胸中の動きが丁寧に描かれていて引きこまれる。

 温厚なモーちゃんがハチベエに対して怒る展開がいい。
 自分のことではまず怒らないモーちゃんが、自分を慕ってくれる後輩の女の子が放送委員内で吊しあげを食らい、原因をつくったハチベエに対して堪忍袋の緒が切れる。これが熱い。

 モーちゃん VS ハチベエの喧嘩にいたるための流れも丁寧だ。モーちゃんが当初は苦手意識を感じていた放送委員の仕事にやりがいを感じるところ、いつもなら「モーちゃんがハチベエを誘おうとしてハカセが渋る」なのに今回はその逆「ハカセがハチベエを誘おうとしてモーちゃんが渋る」になっていること、ハチベエやハカセたち VS 放送委員 という対決構図になって両方に属するモーちゃんが板挟みになることなど、周到に喧嘩の伏線が組まれていく。

 また今作のキーパーソンである池本浩美の存在も重要だ。モーちゃんにはあまり主体性がないが、後輩から頼られることで責任感を持ちはじめるあたり説得力がある。恋をしても終始もじもじしていた『ズッコケ㊙大作戦』のときから比べると飛躍的な成長だ。

 モーちゃんの怒りもいいが、ハチベエの心中描写もリアリティがあって好きだ。
 うっすら見下していた相手から怒りをぶつけられ、とっさに逆ギレしてしまう。さらには相手の痛いところをつく攻撃的な言葉までぶつけてしまう。自分の落ち度にも気づいているので後悔するが素直に謝れず、そのくせ妙に下手に出てしまう。このへんの心の動きは実に現実的だ。ぼくも何度こんな失敗をしたことか。おもわぬ人から急に怒られるととっさに攻撃的になっちゃうんだよね。自分が悪くても。

 また、はっきりとした仲直りが描かれないのも好感が持てる。そうそう、友だちと喧嘩をした後って仲直りなんかしないんだよ。なんとなくうやむやになって、いつのまにか元の関係に戻っている。友だちってそんなもんだよね。謝罪しないと仲直りできない関係なんて友だちじゃないぜ。

 いやあ、よかった。かつては平均点ぐらいの作品だとおもっていたけど、今読むと『花のズッコケ児童会長』の次ぐらいに繊細な心の動きが描かれたいい作品だ。

「放火魔を捕まえる」が後半の見どころではあるが、正直いってこのくだりはなくてもいいぐらい。日常の枠内でも十分おもしろい作品になったとおもう。


 放送委員の連中がかなり痛々しいのもおもしろかった。

 委員以外の子を「素人さん」と呼び、自分たちを「プロ」と呼ぶ。バイトを始めていっぱしの社会人になった気分でイキがる大学生みたいだ。十代って妙に優劣をつけたがるもんね。どうでもいいことを鼻にかけて。

 大人になってみると、放送委員の仕事に慣れてることのなにがえらいんだって感じだけど、子どもにとってはこういうのがすごく誇らしいんだよなあ。


 あと、映像作品というものに対する意識の違いが今とずいぶん違うのも興味深かった。

 テレビカメラで撮影されると町の人たちが喜んでインタビューに答えてくれたり、自分たちが映っている映像を子どもだけじゃなく大人も熱心に眺めたり。

 今となっては忘れがちだけど、この頃って「自分が映像に記録される」ってめちゃくちゃ貴重な体験だったんだよなあ。ほとんどの人にとっては一生のうちに数えるほどしかない出来事だった。ぼくは大学生のときにビデオカメラを買ったけど、17万円した。で、それを向けられた友人たちは例外なくテンションが上がった。それぐらいビデオカメラというのはめずらしい存在だった。

 子どもでもスマホを持っていてあたりまえのように動画撮影をして、撮影どころか全世界に向けてかんたんに配信できる今じゃ考えられないことだけど。


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