2022年10月20日木曜日

いちぶんがく その16

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



今や早死にの危険は減ったけれど、長生きの危険が高まっているといえます。

(久坂部 羊『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』より)




これは、真相を知らない者同士の抗争なのだ。

(奥田 英朗『真夜中のマーチ』より)




おそらく、「噂話」説と「川の近くにライオンがいる」説の両方とも妥当なのだろう。

(ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 柴田 裕之(訳)『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』より)




宇宙人が立候補を表明した。

(矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』より)




「……あの、メールばかり送って付きまとうしか脳のない、自分本位な執念深い女のことですね」

(麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』より)




ジェームズはまず、被験者の「ジョン・ヘンリー度」を調べた。

(クロード・スティール (著) 藤原 朝子(訳)『ステレオタイプの科学』より)




高校時代初めてお付き合いした彼女に、「アンタがあと五センチ身長高かったらほんまに好きになったかも」と言われた。

(せきしろ・又吉 直樹『まさかジープで来るとは』より)




出産祝いに地球儀を持ってきた。

(東野 圭吾『嘘をもうひとつだけ』より)




やっぱ、なるなら社長か泥棒だわ。

(パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』より)




「そうだろ、おれたち、みんなどろぼうなんだよ。」

(那須正幹『ぼくらは海へ』より)




 その他のいちぶんがく


2022年10月19日水曜日

【読書感想文】『たのしい授業』編集委員会『仮説実験授業をはじめよう』 / 予習はドロボウの始まり

仮説実験授業をはじめよう

『たのしい授業』編集委員会(編)

内容(仮説社 ONLINE SHOPより)
 「仮説実験授業なんて知らない、やったことない。だけど、たのしいことならやってみたい!」という人のために,授業の基本的な進め方や役に立つ参考文献、授業の進め方が分かる授業記録など、役に立つ記事を一つにまとめました。巻末には、すぐに始められる授業書《水の表面》《地球》と、その解説も収録しました。


『仮説実験授業』を知っているだろうか。

 ぼくは小学五年生のときに体験した。当時の担任が理科を好きな人で(保田先生お元気でしょうか)、理科の時間を使って仮説実験授業をやってくれた。

 仮説実験授業では、教科書ではなく授業書なるものを使う。ぼくらが使ったのは『ものとその重さ』『月と太陽と地球』『もしも原子が見えたなら』といった授業書だった。原子なんて中学理科で習うものだから、五年生にしてはむずかしめの内容だった。

 仮説実験授業は、問題、予想、集計、理由の発表、討論、予想変更、実験、実験結果といった流れで進む。

 まず問題が出される。たとえば「はかりの上に水と食塩が乗っている。その後、食塩を水に入れて完全に溶かすと重さはどうなるでしょう? ア)増える イ)減る ウ)変わらない」といったように。

 この時点で生徒たちはまず答えを予想する。相談はしない。で、答えを集計して公開する。

 次になぜそうおもったのかを発表する。このとき、少数派から発表する。多数派が先に理由を言ってしまうと、少数派が自分の意見を言いづらくなるからだ。発表する人は挙手で名乗り出ることもあれば、教師が指名することもある。理由はなんでもいい。「こっちのほうがおもしろいから」でも「なんとなく」でもいい。

 次に討論。「○○君はこう言ったけど、✕✕だからちがうとおもいます」など、意見、反論、補足などをおこなう。

 仮説実験授業では予想変更も認められている。他人の意見を聞いて予想を変えてもいい。再度予想をして、集計する。

 そして実験。かんたんな実験であれば生徒がそれぞれ手元でおこなうこともあるし、教師がみんなの前でおこなうこともある。実験・観測ができないもの(原子がどうつながっているかなど)は答えを発表する。

 そして結果。予想が当たっていたか、感じたこと、疑問におもったことなどを書く。ただしこれは実験の結果であって、この時点では結論や普遍的な法則などは導きださない。なぜその結果になったのかの解説がないことも多い。

 終われば次の問題。これを何回、何十回とくりかえす。『ものとその重さ』であれば、条件を変えた問題が次々に出題される。

 当時はわからなかったが、今にしておもうとこの仕組みは実によくできている。

 仮説実験授業は、考えるための授業である。誰もが考えることを要求される。予想、討論、予想変更。どの時点でも考える。実験結果が明らかになっても、結論や法則が伝えられないのもいい。わからないものはわからないままにしておく。だから考える。

 全員参加なのもいい。予想は全員が手を挙げるし、理由の説明も求められる。うまく言葉にできない子は「なんとなく」でもいいが、とにかく参加することが要求される。

 仮説実験授業では、活躍する子が他の授業とはちがった。正解をたくさん知っている子ではなく、間違っていても自分の意見を言える子や、場を盛り上げられる子が活躍する。むしろ間違いは討論を盛り上げるために必要不可欠だ。満場一致ではおもしろくない。仮説実験授業でいちばん盛り上がるのは「少数派の予想が当たっていたとき」だ。

 ぼくが五年生のときのクラスには知的障害児がいた。五年生にもなると勉強がむずかしくなるので、算数のときなどは彼は特別学級に行っていた。けれど仮説実験授業には彼も参加していた。そして学年最後の文集で彼は「かせつじっけんがおもしろかった」と書いていた。選択肢の中から選ぶクイズのようなものなので、誰でも参加できるのだ。

 ぼくは仮説実験授業で、討論のおもしろさや科学のおもしろさを知った。自分のイメージを他人に伝えるためにはどうしたらいいか、どういう話をすれば場が盛り上がるか、そして多数派が必ずしも正解ではないことも知った。




 そんな仮説実験授業のやりかた、目的、事例、失敗例などを解説した本。

 ぼくは教師でも塾講師でもないので仮説実験授業をやることはこの先たぶんないだろうけど、おもしろかった。


 子どもは(大人も)たいていクイズが好きだが、仮説実験授業がクイズと異なるのは問題と正解発表の間に、集計、討論、予想変更があることだ。これがあるから頭を使う。

 また、仮説実験授業ではブレインストーミングのようにどんな意見も否定されることはない(さすがに個人攻撃とかはだめだが)。

 仮説実験授業では、「なんとなく」という理由も認めています。
「なんとなく」と言える心安さが、子どもにとっては考えるための自由な雰囲気につながります。だからといって、先生が「なんとなく」と言わせている訳ではありません。
 イメージが描けなくても予想が立つということもあります。それは、当てもの式かもしれません。でも、そういう段階で参加している子がいたって、それは受け入れていかないといけないわけです。やはり、どんな段階であろうとも、子どもが授業にのってくるような場を作るってことが大事なんです。「ちゃんと理由が言えないような予想ではだめだ」なんてことを言ってたら、子どもは授業にのってこないですから。

 教科書では常に原因が求められるけど、世の中には「なんとなく」「そういうもんだから」としか言いようのないことはたくさんある。むしろそっちのほうが多い。

 なぜ水は高いところから低いところに流れるのでしょう、と訊かれたって、ほとんどの子はそういうもんだから、としか答えようがないだろう。

 なまじっか知識があれば重力があるから、万有引力があるからと答えるかもしれないが、じゃあなぜ重力があるのか、すべてのものが引き合うのかと訊かれると、最終的には「そういうもんだから」にいきつく。

 だから「なんとなく」でもいい。逆に、なんでもかんでも原因や法則を求めてしまうほうが危険かもしれない。すべてに原因を求める人が陰謀論に飛びつくのだ!(これはこれで極端な意見)




 とある教師が仮説実験授業をするとき、他の教師からこんなことを言われたそうだ。

 予想を立てるとき、「班で討論をさせてはどうか」とか「班で意見をまとめてはどうか」などという考えも出されましたが、その形態は絶対おかしいと、僕自身は思います。
 仮説実験授業では実験して答えをたしかめます。予想が当たっていたかはずれていたかを決めるのは実験です。実験がすべてです。実験で誰の考えが正しいか決めるんです。だから、班で一つの考えに集約するような議論は絶対におかしいです。
「人数が少ない班なら意見が言いやすい」とも言われましたが、そのような方法は必要ないと思います。班で討論させるということは、「言わせたい、言わせたい」と、子どもたちに強烈に圧力をかけることになりますから、反発されてしまいます。適当に、自分の考えに自信が持てて言えるようになればいいんです。もちろん、仮説実験授業を一年間やっていても、発表できるようになるかは分かりませんよ。
 待てばいいんです。中学・高校と勉強が進む中で、手立てをとりながら、待てばいいんです。
「子どもが気持ちよく考えられる問題を用意して、何を考えても良い自由な雰囲気の場を作ることが大切です。先生が「何か言わせなきゃならない」という強い意志で子どもたちに接したら.「先生に何か言わなきゃならないけど、分からない。どうしよう……」ということで頭がいっぱいになって、肝心の問題を考えられなくなってしまうことだってあります。

 班で意見をまとめる! これはいかにも学校教育に毒された人の意見って感じだよなあ。学校にいると多数決バカになってしまうんだなあ。多数決が正しいとおもってしまう、多数決が民主主義だと勘違いしてしまう。

 多数決ってのは「他のあらゆる手段で解決できないけどどうしても決めなきゃいけないときの、最悪よりはちょっとマシな手段」でしかないのに、バカはそれを最善手だとおもってしまう。

 だいたい科学を理解していたら「班で意見をまとめる」なんて発想が出てくるわけないよね。クラス委員を決めるんじゃないんだから、班で「塩は水に溶けない」と決めたら溶けなくなるとおもってるのかね。

 科学は観測結果がすべて。それを導くために実験があり、実験をするために予想がある。「意見のすりあわせ」なんて何の意味もない。


 仮説実験授業の討論はディベートではない。自分の意見が他人によって変えられることはあっても、ねじふせられるようなことがあってはならない。意見をねじふせていいのは、他者の意見ではなく、実験によってだけだ。




 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣氏の話。

そこで、仮説実験授業では「予習はドロボウの始まりとも言って、生徒が予習しないように、授業書の内容を秘密にするのに大きな配慮をしてきました。私たちが、著作権裁判も辞さない姿勢で授業書の秘密を保持してきたのはそのためです。それは、これまでのところ成功してきました。
 授業書の内容を秘密にして、「クラスの誰も予習していない」という授業を実施した結果、予想はしていたことですが、大きな成果が得られました。これまでの教育界では「たいていのクラスには、優等生、劣等生、問題児が混じっている。そこで、優等生に合わせて授業をすると、劣等生がついてこれなくなくなり、劣等生に合わせると優等生が退屈する結果になる。クラスのすべての生徒を対象にして授業をすることは困難だ」と考えられてきたのです。ところが、予習を禁止した仮説実験授業では「誰が優等生で誰が劣等生かが分からなくなって、優等生から劣等生の序列がほとんどなくなる」という結果になりました。
 仮説実験授業では予習の効果が期待できません。そこで、「たまたま何かのことで知った知識」や「たまたま思いつきが当たった」という子どもが特に目立って活躍するようになります。多様な生活や遊びの中で得た知識や思いつきが、他の子どもたちを「アッ」と言わせるような成果をあげることになるのです。そこで、仮説実験授業では、特に活躍する子どもが毎時間変わります。
 そこで、人間関係が多様化して、子どもたち同士が認め合う機会が圧倒的に増える結果になります。また、ふだん「問題児」と呼ばれているような変わった子どもたちが英雄的な活躍をするようにもなります。真に「生きた学力」が問題になってくるわけです。討論では、説得の仕方のうまい子ども、発想の豊かな子どもが目立つことにもなります。そこで、いままでの学校にありがちだった序列社会がなくなって、「たのしい学級」が実現するようになるのです。

「予習はドロボウの始まり」。いい言葉だなあ。


 今の小学校はどうだか知らないけど、ぼくが小学生の頃は(田舎だったこともあって)進学塾に通っている子はクラスの一割ぐらいだった。で、そういう子らは授業では活躍する。みんなが頭を悩ませるむずかしい問題にもやすやすと答えられたりする。

 今にしておもうと「ただ先にやったから知っているだけ」でえらくもなんともないのだが、小学生は単純だから「あいつは頭がいい」という評価になる。

 だが、仮説実験授業で活躍するのは進学塾に通っている子ではない。独自の意見を言える子、他人の話を聞いた上で補足や反証をできる子、とんでもなくばかなことを言いだす子などだ。どっちかっていうと協調性のないタイプのほうが活躍できる(ぼくもそのひとりだった)。朝礼でじっとしていられなくて怒られるタイプこそが仮説実験授業向きの子だ。

 もちろんおとなしく先生の話を聞けるタイプの子もえらいが、そうでない子が褒められる時間があってもいい。ぼくの場合はそれが仮説実験授業だった。


 この本を読んでいると、仮説実験授業をやった五年生のときのことがいろいろ思いだされる。仮説実験授業、またやりたいなあ。近所の子ども集めてやったろかな。


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2022年10月18日火曜日

【読書感想文】又吉直樹・ヨシタケシンスケ『その本は』 / ザ・安易コラボ

その本は

又吉直樹  ヨシタケシンスケ

内容(e-honより)
本の好きな王様がいました。王様はもう年寄りで、目がほとんど見えません。王様は二人の男を城に呼び、言いました。「わしは本が好きだ。今までたくさんの本を読んだ。たいていの本は読んだつもりだ。しかし、目が悪くなり、もう本を読むことができない。でもわしは、本が好きだ。だから、本の話を、聞きたいのだ。お前たち、世界中をまわって『めずらしい本』について知っている者を探し出し、その者から、その本についての話を聞いてきてくれ。そしてその本の話を、わしに教えてほしいのだ」旅に出た二人の男は、たくさんの本の話を持ち帰り、王様のために夜ごと語り出した―。お笑い芸人で芥川賞作家の又吉直樹と、大人気の絵本作家ヨシタケシンスケによる、笑えて泣けて胸を打たれる、本にまつわる物語。

 母親から「あんたこれ好きでしょ」とプレゼントされた本。

 ごめんなさい、ぜんぜん好きじゃないです。おかあさん、わかってないですね。何十年ぼくの親やってるんですか。

 たしかにヨシタケシンスケさんの絵本はおもしろいし、又吉さんの本も何冊か読んだけど、この手の「売れてる人と売れてる人を組ませたら売れるっしょ」という安易なコラボは大嫌いだし、なによりぼくはポプラ社の文芸本は買わないことにしているんだ! 商売のやり方が嫌いなので。

 まあ自分ではぜったい買わない本だけど、だからこそもらっておく。で、気が進まないながらも読んでみた。

 あー。

 やっぱり、ぼくの嫌いなタイプの本だー。

 忙しい人が力を抜いて書いた、って感じが伝わってくる。




「その本は」で始まる物語をふたりが交互につづってゆく。又吉直樹氏が小説、ヨシタケシンスケ氏がイラストと短文で表現しているのだが、特に又吉パートはひどかった。申し訳ないけど、ことごとくつまらない。

 まずこの手の企画に又吉さんの文章があっていない。文体も発想もショートショート向きじゃない。この手の企画をやらせるのはもっと軽妙な文章で切れ味鋭い短篇を書ける人だろう。全盛期の阿刀田高氏のような。

 驚くような展開もなければ、気の利いたオチもない文章がだらだらと続く。読んでいられない。ことわっておくと又吉氏のせいではない。この企画をやらせた編集者が悪い。マラソン選手を100メートルリレーに抜擢するようなものだ。

 少しも頭を使わずに金だけ使った企画、という感じ。いかにもポプラ社らしい。

 最近の又吉さんは「芥川賞受賞芸人」という肩書のせいで身の丈以上のものを背負わされていて、見ていて気の毒になる。テレビでも、作家でも芸人でもない立場で呼ばれたりしてるしな。そんなに器用なタイプじゃないだろうに。

 粗製乱造、という言葉がぴったりの作品だった。


 一方のヨシタケシンスケさんパートは、まずまず楽しめた。特に『自分の個人情報がすべて書かれた本』は好きだった。

 ショートショートとしても一定のクオリティを保っている上、絵自体に魅力があるのでそれぞれが作品として読みごたえがあった。




 ところで『その本は』はすべてが同じ書き出しで始まる短篇集だが、五十年以上も前にこの形式に挑戦した作家をご存じだろうか。

 そう、ショートショートの神様・星新一氏である。「ノックの音が」で始まる十五編の短篇を書き、しかも『その本は』と違っておもしろい。まあ神様と比べたらかわいそうだけど。

 ということで、『その本は』を買う前にぜひ『ノックの音が』を読んでみてくださいね!


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2022年10月17日月曜日

【読書感想文】岡本 雄矢『全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割』 / 自虐を言う人の傲慢

全員がサラダバーに行ってる時に全部のカバン見てる役割

岡本 雄矢

内容(e-honより)
誰にでもあるこんなトホホ、あんなトホホ。でも、ここにあるのは、とびきりのトホホ。―世界の片隅で、僕の不幸をつぶやきました。“歌人芸人”による、フリースタイルな短歌とエッセイ。


 お笑い芸人による歌集。

 北海道でスキンヘッドカメラというコンビで活動しているらしいが、売れない芸人、と断定してもいいだろう。調べたところM-1グランプリ7年連続で予選2回戦敗退だそうで、どう控えめに言っても売れない芸人だ。少なくとも今のところは。

 そんな芸人による歌集。

 言っちゃあ悪いけど、「なるほど。さすが売れない芸人だな……」という感想。つまり、いろいろと足りなかった。



  作品作りのスタンスとしては、「ぼくって不幸な目にばかり遭うんですよ。一家離散とか難病とかではの本格的な不幸ではなくほんのちょっとした不幸なんですけど」というスタンス。二十数年前に原田宗典氏が書いていたエッセイみたいなテイストだね。おなじみというか、目新しさに欠けるというか。

 まあ不幸自慢自体はエッセイの定番ネタだから、独自の切り口があればいいんだけど、扱われているのが
「自分のスクーターにホストが座っていたけど遠慮して注意できなかった」
「スパゲッティと言ったら『今はパスタっていうんだよ』と言われていまいち納得いかない」
「飲み会で気づけばぽつんとひとりっきりになってしまっている」
「深夜におもしろいとおもって書いたネタが、翌朝読み返したらぜんぜんおもしろくない」
みたいな、手垢にまみれたテーマ。何度となく見聞きした話題だ。

 しかもこの手の自虐って、よほどうまくやらないと「自虐に見せかけた自慢」になっちゃうんだよね。


 昔は「私ばっかり不幸な目に遭うんですよー。トホホ」的エッセイを素直に楽しめたんだけど、いろんな人のこの手のエッセイを読むうちに最近は「私は不幸な目に遭いやすい」タイプの人って繊細どころか傲慢なんじゃないかっておもうようになった。

 だってそうでしょう。みんなそれぞれ苦悩や不幸を抱えていて、でもそれを表に出さないように生きているわけじゃない。毎日ハッピーだぜイエーイ!ってやってる人だってひとり涙を流す夜もあるわけでしょ。万事順調な人なんかいるわけなくて、金持ちには金持ちの、人気者には人気者の、美人イケメンには美人イケメンなりの苦悩がある。自分とあの人のどっちが不幸かなんて誰にも比べられない。

「私ばっかり不幸な目に遭うんですよー」の人って、そういうことを考える想像力が欠如してるわけじゃない。自分ばっかりがうじうじ悩んでいて、周囲の人間は悩みも傷つきやすい心も持っていないと思いこんでいる。それってなにより傲慢でがさつだよね。ぜんぜん繊細じゃない。



 

 これが売れない芸人かぁ……やっぱりなあ……となんだか同情してしまって読んでいて切なくなってしまった。たぶん作者が意図したのとはちがう切なさだ。

 着眼点に目を惹くものはないし、リズムも良くないし、こういうのを読むとやっぱりプロ歌人ってすごいんだなあ、と感じる。


 そんで、短歌の後にだらだらとエッセイが続くんだけど、これがまた蛇足。

 いやわかるから。凝った技法も趣向を凝らした隠喩もないストレートな短歌なんだから、それだけで十分意味が伝わるから。

 なのに、長々と解説が入る。しかも切れ味が悪い。まるでコントの後に「今のコントは何がおもしろかったかというと……」と演者自身による解説が入るようなもの。まったくもって見ていられない!




 あんまり悪く言ってばかりでもあれなので、好きだった短歌をいくつか。

 

窓の外にラジオ体操はじまってダビスタの馬は20連勝


クリップを買うクリップを1つ使うクリップが119個余る


ちょい待ってあなたが好きですあなたからもらった電話で恐縮ですが


 せっかく「売れない芸人」というパーソナリティがあるんだから、それをもっと活かした歌が見てみたかったな。




 短歌としてもエッセイとしても退屈だったけど、古典の授業でしか短歌を鑑賞したことがない、という人にはそれなりに楽しめるんじゃないかな。短歌ってこんな表現もできるんだ、って伝わるだけで。

 でもこれをちょっとでもおもしろいとおもったなら、もっとプロ歌人の短歌を知ってほしいな。短歌のおもしろさってこんなもんじゃないから。ぜんぜん。


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2022年10月14日金曜日

【読書感想文】爪切男『クラスメイトの女子、全員好きでした』 / さすがにこれはエッセイじゃないだろう

クラスメイトの女子、全員好きでした

爪切男

内容(Amazonより)
小学校から高校までいつもクラスメイトの女子に恋をしていた。
主演・賀来賢人、ヒロイン山本舞香でドラマ化もされたデビュー作「死にたい夜にかぎって」の前日譚ともいえる、全20篇のセンチメンタル・スクールエッセイ。きっと誰もが“心の卒業アルバム”を開きたくなる、せつなくておもしろくてやさしくて泣ける作品。


 爪切男さん(こういう名前)が学生時代に好きだった女の子たちとの思い出を書いたエッセイ集。

 エッセイというか、かなり創作が混ざっている感じがあるけど……。




 好きだった女の子といっても、登場するのはクラスのアイドル的な美少女ばかりではなく、なにかしら問題を抱えた女の子ばかりだ。

 よく吐く女子、男子の金玉を攻撃する女子、水飲み場の蛇口に直接口をつけて飲む女子、ひげの濃い女子、家が貧しくて泥棒をする女子、まったくしゃべらない女子……。

 人気者ではなく、他の子から避けられたり嫌われたりしてる子に爪切男は愛を込めた目を向ける。歪んだ性癖だ。

 いや、違う。白状しよう。実は、私は嬉しかった。勉強もスポーツもできて、おまけに美しい林さんが、下品な水の飲み方をするのが本当に嬉しかった。ひねくれ者なだけかもしれないが、私は人のダメなところ、欠落した部分が可愛くてたまらないのだ。林さんの恥ずかしいクセをずっと見ていたかったが、このまま岩崎君に彼女が汚され続けるのは、もう我慢ならない。


 しかしこの気持ちはちょっとわかる。ぼくも小学生時代はいちばんかわいい子が好きだったけど、中学生からはクラスの人気者じゃなくてちょっと陰のある子を好きになった。あんまり男子としゃべらない女の子と言葉を交わした後に、ささいなしぐさが気になって、「この子の魅力に気付いているのは自分だけかもしれん」とおもうとどんどん気になってしまう。

 ただのあこがれから、「自分のものにしたい」欲が強くなってくるからかな。中学生ぐらいになってから異性の好みは多様化していくよね。

 爪切男さんは小学生で「目立たない子の、自分だけが気付いている魅力を発見する」歓びを覚えているのだから相当マセているなあ。




 書かれているエピソードはどれもおもしろいんだけど、エッセイとして発表されている以上、あまりにおもしろいと眉に唾をつけてしまう。

 そんなにたくさん、クラスの女子とのおもしろいエピソードがあるわけないだろ、という気になってしまう。

 窃盗癖のある〝ナッちゃん〟とのエピソード。

「ヒロ君、ごめん。私、泥棒してるんだ」
「……そうか。いいよ。何を盗ったんだよ。金か? 本か?」
「言うのが恥ずかしいんだけど……」
「怒らないから言って」
「うん、私……」
「……」
「友達のシルバニアファミリーを……遊びに行くたびにひとりずつ盗んでるの」
「え? シル?」
「友達は動物が住む大きな家まで持っててさ、羨ましくて……。みんな私に自慢ばっかりしてくるから、家族をひとり誘拐してやったの」
「えーと、誘拐」
「ちょっとしたら返そうって思ってたんだよ。本当に! でもいざ返そうと思ったら情がわいてさ。この子は私の子供だって」
「……」
 二〇一七年十一月。東京で暮らす私のもとに、地元から結婚式の招待状が届いた。差出人はナッちゃんだった。四十の大台に乗る前に、ようやく独り身を卒業するらしい。出欠を確認するハガキを取り出し、欠席に大きく丸を付けた私は、余白の部分にメッセージを書く。
 ナッちゃん。結婚おめでとうございます。あの盗んだシルバニアファミリーなんですけど、結局もとの人に返さなかったでしょ。俺は何でも知ってます。
 ナッちゃん。シルバニアファミリーに負けない幸せな家族を作ってくださいね。

 おもしろいんだけどさ。でもこれはもう小説でしょ。




 作り話感が強すぎる本題の「クラスメイトの女子との思い出」よりも、個人的には家族のエピソードのほうがおもしろかったな。

 実は私も、小学校低学年の頃は幽霊をこの目で見ることができた。近所の墓地や裏庭に生い茂る竹林の中で、人型にぼんやりと光る物体やボロボロになった兵隊さんの姿をよく目撃したものだ。
 初めて幽霊を見たとき、恐怖で腰を抜かしそうになりながらも、なんとか家までたどり着いた私は、事の顛末を親父に報告した。すると「よし、今から幽霊退治に行くぞ!」と親父は私の手を引いて現場へと向かった。幽霊のいる場所に戻るのは怖かったが、親父が私の話を信じてくれたことが嬉しかったのをよく覚えている。
 兵隊さんの幽霊は先程と同じ場所からこちらをじっと凝視していた。私はその姿をハッキリと捉えることができるのだが、親父には何も見えていないようだった。
「父ちゃんを、幽霊の場所まで案内しろ」と言われた私は、スイカ割りを誘導するのと同じやり方で「父ちゃん、もっと右! あ、行き過ぎた! 左、あと少し左!」と必死でナビゲーションする。
 やがて親父と幽霊の顔が真正面から向き合うフェイス・トゥ・フェイスの状態になった。
「父ちゃん! 目の前にいる!」と私が叫ぶと同時に「オラァァ!」と獣のような咆哮を上げ、親父は兵隊の幽霊に頭突きをぶちかました。「かました」というよりも「すり抜けた」というのが正しい表現だ。次の瞬間、幽霊の姿はそこからたちまち消え去ってしまった。「父ちゃんすごいや! 幽霊を倒した!」と、私は心の底から親父を尊敬した。

 ま、こっちも創作っぽさはすごいんだけど。でも、変に「あまずっぱい恋の思い出」にしている女の子との思い出よりも、こっちのほうがばかばかしくて笑えた。


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