2021年7月30日金曜日

いじめる側にまわるいじめられっ子

 

 中学三年生の春、転校生がやってきた。
 転校生の名前はイソダくん(仮名)。
 イソダくんは太っていて、もちろん運動は苦手で、勉強はあまりできなくて、特におもしろいことを言うわけでもなく、早い話がぱっとしない子だった。
 転校生は関心を持たれるものだが、みんなは早々にイソダくんに対する興味を失った。とはいえイソダくんは何人かの友だちもできて、教室の隅でカードゲームなんかをしていた。

 イソダくんは優しい子ではなかった。スネ夫タイプというか。先頭を切って誰かをいじめることはないが、誰かが攻撃されていたら周囲に便乗して攻撃に参加するタイプ。安全な位置から安全な相手に対してだけ攻撃を加えるタイプ。
 べつにめずらしくもない。世の中の大多数がこういうタイプだ。


 さて。
 イソダくんが転校して一年が経った。ぼくらは卒業式を迎えた。
 卒業式の後、三年生の保護者と担任の教師で謝恩会なるものが開かれた。先生ありがとうございましたと言っておしゃべりをする場だ。

 謝恩会に出席したぼくの母は、帰ってきてから言った。
「転校生のイソダくんって子がいたんだって?」
「うん」
「あの子、前の学校でいじめられてたんだって。だから転校してきたんだけど、『こっちの学校の子はみんな優しくてぜんぜんいじめられなかったから良かったです』ってイソダくんのお母さんが涙ぐみながら言ってた。すごく感謝してた」

 それを聞いて、ぼくは納得感と意外な気持ちの両方を味わった。

 イソダくんがいじめられていたというのはわかる気がする。太っているし、頭も良くないし、性格も良くないし、実際うちの学校でも「イソダ嫌いやわ」というやつはいた。ぼくも好きじゃなかった。どっちかっていったら嫌いなぐらい。
 うちの学校ではイソダくんはいじめられていなかったが、それはべつにぼくらが高潔だったからではなく、担任の先生がこわもての体育教師だったとか、二年生の後半ぐらいからヤンキーが学校にあまり来なくなったのでクラスの雰囲気が良くなったとか、イソダくんよりむかつくやつがいたからとか、そういうちょっとしたことによる結果にすぎない。うちの学校の生徒が優しかったわけではない。めぐりあわせが悪ければイソダくんはいじめられていただろう。

 意外だったのは「いじめられてたやつがあんなふうにふるまうんだ」ということ。
 前の学校で何をされたのかは知らないが、家族で引っ越して転校するぐらいだから相当ひどい目に遭っていたのだろう。
 ぼくの想像するいじめられっ子は〝気が弱くて何をされても言いかえせないおとなしい子〟だったが、イソダくんは決してそういうタイプではなかった。みんなといっしょになって、弱い子にからかいの言葉をぶつけるような生徒だった。


 でも今ならわかる。
 イソダくんはいじめられないためにいじめる側にまわっていたのだと。いじめられていたからこそ、いじめる必要があったのだと。
 長期化するいじめ、深刻化するいじめって、「クラスで弱いほうのやつがやっぱり弱いほうのやつをいじめる」みたいなパターンが多い。

 動物が闘うのって、「餌や異性を狙っているとき」か「自分の立場が脅かされるとき」じゃない。後者は、命を狙われたり、群れから追いだされそうになった場合。

 人間の場合もあまり変わらない。中学生のいじめなんて「金品を狙う」か「こいつより上に立ちたい」かのどっちかしかないとおもう。極端に言えば。
 で、自分より圧倒的に強いやつや、あるいは逆に圧倒的に弱いやつに対しては「こいつより上に立ちたい」とおもうことはない。
 闘う必要があるのは、上から2番目~下から2番目のやつらだけだ。


 いじめられるつらさを知っているから優しくなれる、なんてことはない。
 逆だ。
 いじめられるつらさを知っているからこそ、いじめる側にまわるのだ。


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奥田 英朗『沈黙の町で』

2021年7月29日木曜日

【読書感想文】サレンダー橋本『全員くたばれ!大学生』

全員くたばれ!大学生

サレンダー橋本

内容(e-honより)
包茎大学哲学科に入学した亀田哲太は、5月になっても友達ができず、休み時間は机の木目を見ながらパリピの声を盗み聞きする日々…。おしゃれカルチャーグループに近づこうとしたり、麻雀ができると嘘をつき、スタバでバイトしているフリをしたり、胸が苦しくなるほどイキってしまう。そんな彼に友達はできるのか―!?大学生活で最も大切な一年生を描いた意欲作。

 理想のキャンパスライフと現実とのギャップに苦しむ自意識過剰な大学生が主人公。

 クラスメイトをランク付けしたり、彼女がいるふりをしたり、ギターも弾けないのにからっぽのギターケースを持ち歩いたり。
 楽しそうにしている大学生を小ばかにしているが、ほんとは混ざりたい。混ざりたいけど高すぎる自意識が邪魔をして言えない。

 ギャグ漫画なのだが、読んでいて胸が痛くなる。自分にも思い当たるフシがありすぎるから。




 ぼくの大学時代の思い出も、どちらかというと暗い。

 三回生ぐらいになってようやくサークルに居場所ができたり、念願の彼女ができたり、アルバイトにも慣れたりしたが、特にはじめの二年はいろいろきつかった。
 彼女はいなかったし、もちろん童貞だったし、腹を割って話せる友人はいなかったし、サークルも嫌なところが目についたし、実家を出て姉とふたりで暮らしていたのだが喧嘩は絶えなかったし、自動車教習所は苦手だったし、バイトもあわずに数ヶ月でやめてしまったし、貴重な学生生活なんだから何かしなきゃという重圧と何もしたくないという思いに挟まれて鬱々としていた。長期休みのたびにずっと実家に帰って高校の友人とばかり遊んでいた。

 一方周囲に目をやると、大学生というのは必要以上に楽しそうに見える。やれバイトだ、やれコンパだ、やれバンド結成だ、やれ徹夜飲みだ、やれ旅行だ、やれ学園祭だ、やれ彼氏彼女だ。とかく大騒ぎしている。
 ぼくの通っていた大学にはチャラついた学生は少なかったが、それでも田舎から出てきてファッションのファの字も知らないぼくから見るとみんなこじゃれて見えた。

 入学して一週間ぐらいすると、あっという間にイケてる人たちはグループは結成している。連絡先を交換して、もうゴールデンウィークの予定を立てたりしている。
 ぼくも少ないとはいえ友だちができたが、何度か話しているうちに「こいつはちょっとちがうな」とおもうようになった。ぜんぜん悪い人ではないのだが、価値観とか笑いのポイントとかがまったくちがうのだ。たぶん向こうも同じように感じたのだろう、すぐに疎遠になった。

 遠目で見ていて「あいつおもしろいな」という人もいるのだが、彼らは人気者なので既に友だちに囲まれている。そしてそういう人にかぎって「妙にいきがってていけすかないやつ」「つまんないくせに声だけでかいやつ」に囲まれてるのだ。あの輪には入りたくない。

 小学生のときは、楽しそうなグループがあれば素直に「おれも入れて」「あそぼ」と言うことができた。でも大学生だとそれができない。断られたら恥ずかしい、断られなくても嫌な顔をされるかもしれない、嫌な顔をされなくても後で悪口を言われるかもしれない。




 この漫画の中で主人公は「モテようとしてるのにモテないやつ」になるぐらいだったら「モテようとしてなくてモテないやつ」になるほうがマシ、という理論を展開するのだが、その感覚はよくわかる。ぼくもまったく同じことを考えていた。
 いちばんかっこいいのは「モテようとせずにモテるやつ」だ。これが理想だが、自分がそのポジションに就けないことぐらいはさすがに二十年生きていればわかる。

 だから競争から降りたフリをして「おれモテようとかおもってないから」とあえて同じ服ばかり着たりしてしまう。
 テスト前に「おれぜんぜん勉強してねーわ」と言うやつといっしょで、その姿勢こそがいちばんダサいし、何もしないよりちょっとでもおしゃれになる努力をするほうがまだマシなのだが、肥大した自意識が邪魔をして「モテるための努力」をすることができない。
 そして茶髪にしたやつを見て「似合ってねえのに恥ずかしいやつ」と小ばかにする。
『全員くたばれ!大学生』の哲太はまさにぼくの姿だ。


「友だちを作りたいけど輪に入れない」も「彼女がほしいけどモテるための努力をするのが恥ずかしい」も根っこは同じで、「自分は変わりたくない。周囲に変わってほしい。ありのままの(=何もしない)自分を受け入れてほしい」ってことなんだよね。

 もし今大学生の自分に会ったら「そんな虫のいい話あるわけねーだろ。おまえが歩み寄るんだよ!」ってほっぺたをつねってやる(やっぱり自分はかわいいからぶん殴ることはできない)んだけどな。
「大丈夫だよ、おまえのことを気にしてるのなんておまえだけなんだから。だからどんどん恥をかけ!」って言ってやりたい。


 この漫画、大学卒業して十数年たった今だから「あー昔のぼくと同じで自意識過剰なイタいやつだなー」とおもえるけど、二十代の頃だったら胸が痛すぎて読んでいられなかったかもしれない。


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2021年7月28日水曜日

【読書感想文】宮台 真司『社会という荒野を生きる。』

社会という荒野を生きる。

宮台 真司

内容(e-honより)
ニュースの読み方が変わる!現代社会の「問題の本質」と「生きる処方箋」。

 社会学者である宮台真司さんがラジオでニュースの裏側を解説し、その文字起こしをニュースサイトに転載。で、その文章を書籍化したもの。
 とりあげられているニュースは2015年のもの。安保法制反対デモと強行採決があった頃だね。

 この人の文章ははじめて読んだけど、かなり刺激的だ。良くも悪くも。
「クソ保守」という言葉で「日本国憲法は押しつけ憲法だ」と主張する連中を批判し、その一方で「民主主義はアメリカによってもたらされた」とする連中を「クソ左翼」とたたっ斬る。

 書いてあることはまっとうな内容も多いのだが、なんせ言葉が過激。学者にはけっこういるよね。作らなくてもいい敵を作るタイプ。
 こうやって文章を読んでいるだけなら楽しいんだけどね。お近づきになりたい人ではないな。




 日本の民主制のデタラメぶりを象徴するのが「党議拘束」。そんな英語があったかなと調べてみたら、複数の辞典にcompulsory adherence to a party decisionとありました。無理やり党の決定に従わせることという文章です。単語としては存在していないのです。
 ひどいでしょ? 何がひどいって分かりますか? 候補者個人が選挙公約をしても、党議拘束に従うしかなければ、意味がなくなるでしょ。また、党が予めこうすると決めているなら、国会審議も意味がなくなる。初めからシナリオ通り振る舞うしかないのだから。
 党議拘束があると、どんなに審議時間をかけても――安保法制の審議に100時間以上使ったとホザく輩がいますが――議員の内部で生じた気づきや価値変容に従って立場を変えられません。何のための審議ですか? 審議しても結果が変わらないなら審議って何よ。

 これなあ。ぼくもずっとおもってた。
 国会議員は党の決定に従いすぎだ。従うというか顔色を窺うというか。

 地方議員には骨のある人もいるのだが、国会議員はほんと腰抜けばかりだ。与野党問わず。
「党はこう言っているが、私はまったくそうはおもわない」ということが言えない。
 自民党員が自民党を批判したっていいじゃない。むしろそっちのほうがまともだ。党員だからって党の方針と一から十まで一致しているほうが異常だ。
 やっぱり小選挙区制と小泉純一郎の〝刺客候補〟のせいかね。党に物申せるまともな国会議員がいなくなったのは。

 アメリカ政界のニュースを見ると、共和党議員がトランプ政権を公然と批判したり、わりと〝造反〟を目にする(ぼくから言わせるとあの程度で造反というのがおかしいんだけど)。
 でも日本の国会議員は〝議員〟であるより〝党員〟であることのほうを優先させているように見える。やっぱり小選挙区制ってゴミ制度だよなあ。さっさとなくなってほしいわ。




 レファレンダム(政治に関する重要事項の可否を、議会の決定にゆだねるのではなく、直接国民の投票によって決める制度。住民投票など)について。

第一に、景気対策・雇用対策・社会保障政策など他の人気がある政策パッケージと一緒にしてしまえば、本当は再稼働や安保法制に反対でも、背に腹は替えられない国民は再稼働や安保法制を進める党を支持する。議会制民主主義でありがちです。
 かくて国民の意思が反映されなくなった個別イシューが、日本国民の命運を左右する重大問題であることがありえます。原発再稼働や安保法制の問題はそうした問題の典型です。だからこそ個別イシューで国民投票を行なうのです。ワンイシュー選挙よりもずっと安い。

 レファレンダムは議会制の否定なんて批判もあるみたいだが、宮台氏はこの本の中でそういった批判を明確に否定している。

 たしかにね。ある政党/候補者を全面的に支持できるという有権者はそう多くないだろう。
「消費税増税には反対だけど経済政策は今のままでいいから自民党支持」とか「安保法制には反対だけど野党には入れたくない」とかの人が大半だとおもう。
 ぼくも選挙のたびに今回はどこに入れようかと悩む。「消費税についてはA党の考えに近いけど外交の姿勢はB党なんだよなあ」ってなぐあいに(ここだけはぜったいに入れない、という党もあるが)。
 パッケージングしていることが問題なんだよな。個々の政策ごとに有権者に問うてくれたらいいのに。

 選挙はもっと頻繁にやったらいいとおもう。
 選挙や住民投票があるたびに「選挙で○億円が使われることになる。もったいない!」なんて言う人がいるけど、いいじゃん、使っちゃえば。
 だって選挙をおこなうために使われた金って外国にあげたとかじゃないんだよ。日本の会社や人に払ってるんだよ。国が貯めこんでる金が企業や国民に還元されてるわけじゃん。つまり経済を回してるわけだ。

 すばらしいことだ。選挙は公共政策。どんどんやればいい。




 政府が2015年6月に開催した「すべての女性が輝く社会づくり」会議の話題。

 日本の男の家事参加は、せいぜいお風呂掃除とかゴミ出し。そんなことは、家事参加とは言えないよ。会社に行く途中にゴミを出せばいいだけだろ。そういうことじゃなく、洗濯をし、料理を作り、子育てに平等に関わる。これが非常に重要です。もちろん僕はやってます。
 でも、そのためには日本の労働法制や労働慣行が変わらなければダメ。男性の育児休暇の取得率が今の20倍以上になり、それがなおかつ不利益にならない制度が必要です。何らかの不利益を被った場合に、その会社にペナルティが課せられる制度がなきゃ、ダメなんですよね。
 その意味で、女性の問題というのは男性の問題でもあるんです、当然だけど。女性の妊娠・育児に関わる負担軽減の旗を振るなら、男性の仕事に関わる負担軽減の旗も、同時に振らなきゃいけないの。昔の性別分業から見て、女が男に近づくだけでなく、男も女に近づくこと。
 内閣官房は「男が女に近づけ」ってことが全く分かってない。どれだけ低レベルの役人だらけなんだ。それで結局「仕事をしてもいいよ、だけど家事もね」という風に女性が二重負担になっちゃうから、女性が働けないんじゃないか。あるいは子育てできなくなっちゃう。どっちかを選ぶしかなくなるんだよ。

 そうだよなあ。女性が働きやすい社会って男性も働きやすい社会なんだよな。
 早く帰れて、休みの日はきっちり休めて、急な休みもとれて、望まない転勤や出張もない。もちろん十分な給与が出る。女性だけでなく男性も。そうなってはじめて家事育児を分担できて、女性も働きやすくなる。

 でも少子化対策の話になると、子どもと女性の話ばかりになる。「女性が働きやすくなるにはどうしたらいいか」っていう発想からしてもうずれてるんだよな。


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小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』



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2021年7月27日火曜日

【読書感想文】吉田 修一『キャンセルされた街の案内』

キャンセルされた街の案内

吉田 修一

内容(e-honより)
新人社員くんの何気ない仕草が不思議に気になる、先輩女子今井さんの心の揺れ動き(「日々の春」)。同棲女性に軽んじられながら、連れ子の守りを楕性で続ける工員青年に降った小さな出来事(「乳歯」)。故郷・長崎から転がり込んだ無職の兄が弟の心に蘇らせる、うち捨てられた離島の光景(表題作)など―、流れては消える人生の一瞬を鮮やかに切りとった、10の忘れられない物語。


 なんでもない一瞬を切り取った短篇集。

 うーん、ほんとになんでもない……。ちょっとした一瞬にもほどがあるというか……。あまりにも何も起こらない。たしかに文章はうまいけど、それにしても内容がなさすぎる。

 吉田修一作品はこれまでに何作か読んでるけど、文章力がうまいだけでなく、ストーリーもちゃんとおもしろかった。
 ミステリ要素も含む『怒り』『悪人』はもちろん、作品中では大した事件の起こらない『パレード』『元職員』も背景には大きな事件が隠れていた。

 ただこの短篇集、特に前半に収められている作品は凪すぎた。あまりにイベントが起こらなさすぎる。一度も敵に遭遇しないままクリアしてしまうロールプレイングゲームみたいなもので、いくらグラフィックや音楽がきれいでも楽しめない。




 その中で『奴ら』は、明確に事件が起こる。

 主人公である専門学校生の男は、ある日電車内で痴漢に遭遇する。目撃したのではない。自身が痴漢に遭うのだ。男が、男から、尻や股間をまさぐられる。
 痴漢に遭った男は動転して、犯人を捕まえることはおろか、抵抗することも声を上げることすらできない。そして後になってから怒りがこみあげてくる。痴漢に対して、そしてそれ以上に何もできなかった自分に対して。


 ぼくは痴漢に遭ったことはないが、理不尽な暴力の被害に遭ったことはある。夜中に自転車に乗っていたら、すれ違った男にいきなり肩を殴られたのだ。

 何が起こったのかまったくわからなかった。痛っ、とおもってそのまましばらく自転車で走りつづけて、少ししてから殴られたのだと気づいた。だがなぜ殴られたのかまったくわからない。呆然としていたが、少ししてからやっと恐怖や怒りがこみあげてきた。とっさには何が起こったかわからなくて恐怖も怒りも感じることができなかったのだ。あのやろう、とおもったときには殴った相手はどこかへ行った後だった(追いかける勇気はぼくにはなかった。返り討ちに遭う可能性もあるのだから)。

 突然殴られてからしばらくの間はショックを引きずっていた。
 今おもうと、単に殴られたことがショックだったというより「こいつは理由なく殴っていいやつ」とおもわれたことがショックだったんじゃないかとおもう。
「肩ぶつかっておいてあいさつもなしかよ」みたいな明確な理由があって殴られたほうが、まだ納得できたんじゃないかとおもう。


 ぼくは経験がないから想像するしかないけど、痴漢に遭う怖さもそれに似ているんじゃないだろうか。
 尻をさわられることよりも「こいつなら触っても反発しないだろう」「こいつならいざとなってもねじ伏せることができるだろう」とおもわれることが恐怖なんじゃないだろうか。
 自分のことを屈服させることができるとおもっていて、そして実際屈服させようとしてくるやつがすぐ背後にいる。これはすごく怖い。

 力関係とかだけの話ではない。もし自分が世界一腕っぷしの強い男だったとしても、「おまえなんかいつでも殺せるんだからな」と言われたら怖い。悪意を向けられること自体が怖い。

 ぼくは男だから「痴漢に遭ったら声を上げて警察に突きだせばいいじゃない」とのんきに考えてたけど、やっぱり実際痴漢に遭ったらめちゃくちゃ恐怖だろうな。ぼくもとっさには声を出せないかもしれない。
 女性からしたら何を今さらって話なんだろうけど。




『大阪ほのか』の中の一節。

 今の世の中、結婚しない男など珍しくもない。ただ、結婚しない「男」だから許されるのであって、これが「男」でなくなったとたん、目も当てられぬ存在になる。もちろん男として生まれてきたからには、死ぬまで男であるに違いないのだが、男が男のままでいるのはなかなか難しく、この年になると、ちょっとでも気を弛めたとさたん、「男」という称号をすぐに奪われてしまいそうになる。

 たしかになあ。
 ぼくは結婚していて、独身で遊び歩いている男がうらやましくなることもあったけど(最近はあまりない)、それは「男」だから楽しそうに見えるんだよな。
「独身男」はうらやましくても、「独身おじさん」や「独身じいさん」をうらやましいとおもう人はほとんどいないもんなあ。

 独身男は独身女よりは社会的に許容されやすいけど、あくまで独身「男」でいる間だけの話だよね。高齢になったらむしろ独身おばさんや独身ばあさんより居場所がないかもしれない。

 でも子どもが二十代の生活を想像できないように、二十代には四十代五十代の生活が想像できない。
 ぼくは三十代後半になったことで四十代五十代の生活が見えてきたけど、二十代の頃にはわからなかった。とりあえず、こんなに性欲が減退するなんておもってもみなかったなあ。
 二十代の男なんて脳内の半分は性欲なんだから、「性欲減退」って人格ががらっと変わるぐらいの変化なんだよな。想像できなかったなあ。


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吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

【読書感想文】誰の心にもあるクズな部分 / 吉田 修一『女たちは二度遊ぶ』



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2021年7月26日月曜日

【読書感想文】高野 秀行『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』

移民の宴

日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活

高野 秀行

内容(e-honより)
日本に住む二百万を超える外国人たちは、日頃いったい何を食べているのか?「誰も行かない所に行き、誰も書かない事を書く」がモットーの著者は、伝手をたどり食卓に潜入していく。ベリーダンサーのイラン人、南三陸町のフィリピン女性、盲目のスーダン人一家…。国内の「秘境」で著者が見たものとは?

 「日本に住む外国人たちの食事会」にまぎれこませてもらい、日本在住外国人たちがどこで食材を買っているか、どんな料理をしているか、さらにはどんな生活を送っているかをつづったルポ。まあルポというほど堅苦しくないが。

 たしかに、ぼくが子どもの頃は(田舎育ちだったこともあって)外国人を目にする機会は少なかったが、今は日本にいる外国人の姿もめずらしくない。
 コロナ禍で旅行者の数は激減しているのにそれでも街を歩く外国人(っぽい見た目の人)は少なくないのだから、住んでいる人も多いのだろう。

 だが、ぼくは彼らがふだん何を食べているのかほとんど知らない。
 たしかに中国人のやっているお店には中国人っぽいお客さんが多いし、ネパール料理屋ではネパール人らしき人をよく目にする。とはいえ彼らだって年中外食をしているわけではなく、自炊したり買ってきたものを食べたりしているのだろう。どんなものを食べているか、ほとんど知らない。

 でも、よくよく考えてみればべつに外国人にかぎらず、周囲の人が家でどんなものを食べているかほとんど知らない。なんとなく同じ日本人だから同じものを食っているだろうとおもっているが、もしかしたらぼくの友人や同僚は毎日カレーだけを食べたりバッタを食べているのかもしれない。




 正直言って「外国人の料理レポート」部分は、高野秀行さんの本にしてはあまりおもしろくなかった。まあこれはぼくが食にあまり関心がないせいだけど……。

 結局、外国人であろうとそれほど変わったものを食っているわけではないんだよな。日本に暮らしていて日本のスーパーに行っていれば買うものだって似たようなものになる。一部の食材は祖国から取り寄せることもあるだろうが、日本で買い物をせずに暮らしていくことはできない。
 調理法に多少の違いはあるが、それは日本人同士でもおなじこと。

 たとえば同じく高野秀行さんが書いた『辺境メシ ~ヤバそうだから食べてみた~』に出てくる強烈な料理の数々に比べると、「日本で暮らす外国人の料理」はインパクトが小さい。




 とはいえ「日本在住外国人の暮らしぶり」や「価値観のちがい」についてはおもしろかった。

 レストラン業のベテラン二人に「どうしてフランスでなくわざわざ日本に店をオープンしたのか」と訊くと、異口同音に「フランスで店を開くのは日本の十倍難しい」という答えが返ってきた。
 フランスでは店舗をレンタルするという習慣がなく、丸ごと買わねばならない。しかも「商業権」というものがある。前の店の一年分の売上を支払わねばならない。例えば一月の売上が二百万の店なら二千四百万円。仕事も顧客もすべて買うという発想らしい。しかも、アルコールを売る、料理をするという全てにライセンスが必要で、とにかくお金がかかるのだそうだ。
 日本でのレストラン経営のコツは? と訊くと、「きめ細かくサービスすること」。フランスのビストロなら客が来ても「あ、その辺に座って!」と声をかける程度だが、日本ではテーブルを整え、席まで案内する。「日本人はちょっとしたことを大切にするからね」。ナビルさんは日本に初めて来たとき、日本式の接客を一から学ぶため、あえて一番下の見習いから始めたのだという。

 フランスのレストランのほうが接客とかマナーとかうるさそうだけど、意外にも日本の脚のほうがうるさいんだね。

 ヨーロッパって職人組合とかが発達した歴史があるから、レストラン業界にも保護権益があるのかもしれない。
 消費者からするといろんなお店が林立して味やサービスや価格で競ってくれるほうが安くておいしいものが食べられていいんだけど、労働者の立場で考えると商業権があるほうがいいよね。無理な値下げ競争とかする必要がないから。

 そういやぼくもイタリアに行ったことがあるけど、レストランの店員がだらだらしているし、日本ほどメニューも多くないし、その割にけっこういい値段をとるんだなとおもった。サイゼリヤのほうがずっと安くて同じくらいおいしくていろいろ食べられる。あれは商業権のおかげで楽に商売ができていたからなんだろうな。




 ロシア正教会ではユリウス暦を使っているので、グレゴリオ暦(いわゆる西暦)とは日付がずれる。ロシア正教会のクリスマスは一月だ。

 そのせいで過去にはこんな〝大事件〟が起きたそうだ。

 なんと、昭和天皇はロシアン・クリスマス当日に亡くなったのだ。在日ロシア人たちは動揺した。世間は祝い事をみな「自粛」している。パーティなどもってのほかだ。しかし、彼らにとってのクリスマス・パーティとは遊びではない。主イエス・キリストの生誕を祝うという宗教行事なのだ。
「だから窓もカーテンをぴったり閉めて、音が外に漏れないようにして、ひっそりと『メリー・クリスマス!』ってやったのよ」
 付け加えれば、在日ロシア正教会は日本にひじょうに気を遣っている。この教会では、ミサの度に、「天皇陛下と日本政府の幸せと長命」を祈るのだそうだ。

 クリスマスパーティーなのにまるで黒ミサだ。

 日露間は国交は続いているが、アメリカ寄りである日本にとってロシアとの関係は決して良好とはいいがたい。
「警察に監視されていた」なんて話もあるし、日本で暮らすロシア人はいろいろ嫌な目にも遭ってきただろう。
 だからこそ、こうして「我々は日本人の敵じゃないですよ」というアピールを懸命におこなっているのだ。なんとも健気な話だ。
 天皇陛下と日本政府の幸せと長命を祈るなんて話を聞くと「さぞかしつらいおもいをしたんだろうなあ……」と同情してしまう。




 この本に出てくる海外の料理は、日本人がふだん食べているものより手が込んでいるものが多い。 まあ食事会の料理だからふだんよりは手が込んでいるのだろうが、それでも四時間煮込むとか、前の日から仕込んでおくとかとにかく手間ひまをかけている。

 だが日本人が楽をしているということではない。

 取材を重わて行くうちにだんだんわかってきた。日本人の食事はあまりに幅が広いのだ。和食、中華、洋食と大きく三種類は作れないといけない。油一つとっても、サラグ油、ごま油、オリーブ油は常備している。酒も日本酒、焼酎、ワイン、ビールと飲みわけ、肴もそれに合わせる。その他、テレビ・雑誌・ネットのレシピでは、タイ料理や北アフリカのタジン鍋、インド・カレーなどをせっせと紹介する。
 昨日は麻婆豆腐だったから、今日はマリネとアンチョビ・パスタにしよう。で、明日はさんまの塩焼きで日本酒にするか」なんていうのは、日本人の主婦(主夫)としてごく普通だ。こんなでたらめなメニューで動いている主婦は世界広しといえども、日本だけではないか。
 多くの外国人は「私たちの料理は作るのは大変だけど、一回作ると同じものを何日も食べる」と言う。日本人は目先をころころ変えないと気が済まないのだ。

 海外の料理は手間ひまをかける。その代わり大量につくって、同じものを何日もかけて食べる。
 日本の料理はシンプルなものが多いが、毎日べつのものを食べる。そもそもの考え方がちがうのだ(たぶん湿度が高いから作りおきができないという事情もあるのだろうが)。

 しかし日本の料理はいつからこんなにバラエティに富んだものになったんだろう。昔の日本人は毎日同じものを食べていたはず。火を使うのだって今みたいにかんたんではなかったんだから。

 たぶん戦後だろうね。女性が専業主婦になり(専業主婦が一般的になったのは戦後)、調理家電が発達して時間ができたことで、さまざまな料理をつくる余裕ができた。
 小林カツ代さんの評伝を読んだことがあるが、料理研究家の大家である彼女は結婚当初まったく料理ができず、テレビ番組に「料理コーナーを作ってほしい」と投書をしたことで料理研究家の道を歩むことになったそうだ。ちょうどその頃が、日本人が食にこだわりだした時代だったんだろうね。

 しかしもう時代は変わった。専業主婦の数は再び減り、商業権のない日本では労働時間は減らない。家庭料理にかけられる時間は減りつつある。
 この先日本も「大量に作って何日もかけて食べる」になっていくのかもしれない。今は保存技術も発達したわけだし。


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