2018年の今、赤川次郎という作家の評価について書いてみる。
若者向けミステリーの旗手であり、長者番付作家部門の常連であり、『三毛猫ホームズ』シリーズや『セーラー服と機関銃』などメディアタイアップ作品は多数で、全盛期には年間十冊以上のペースで新刊を出していた……。
1990年代の古本屋にもっとも多くの本が置いてあった作家は、ダントツで赤川次郎だろう。
つまり「よく読まれるが手元に置いておくほどでもない本」を量産していたのが赤川次郎という作家だった。
中学生時代、ぼくの書架にも五十冊以上の赤川次郎作品があった。が、今は一冊もない。いつの間にか処分してしまった。処分したときのことを覚えてすらいない。
五十冊以上読んだのに作品の内容はまったく覚えていない。タイトルも覚えていない。今思いだしてみたら『上役のいない月曜日』というタイトルだけ浮かんだ。内容は少しも覚えていない。
1990年当時、いわゆる「ライトノベル」という言葉は今ほどの市民権は得ていなかったが「ライトミステリー」という言葉はあった。そして「ライトミステリー」は「赤川次郎作品」とニアリーイコールだった。
多くの人が読んでいるのに「読んでます」とは公言しにくいジャンル、それが「ライトミステリー」であり「赤川次郎」だった。
ある程度の量の本を読む人にとっては
「ああ赤川次郎ね……。売れてるみたいね。よく知らないけど。ああいうのでも読書好きになるきっかけになるのであれば、まあいいんじゃない?」
みたいな位置づけだった。
十年前のケータイ小説みたいな扱い。
現在、赤川次郎作品のことはほとんど論じられない。あれだけ売れていたにもかかわらず、書店からはすっかり姿を消した。文学界からもミステリ界からも、徹底的に無視されているかのように。
商業的に赤川次郎の及ぼした影響はすごく大きいのに、文学的価値はゼロであるかのような扱われ方。あと西村京太郎も。
これは、1990年代後半の音楽界における小室哲哉の扱われ方によく似ている。すさまじく売れるのに評価されない。いや、売れるからこそ評価されない。
「薄っぺらい」「大衆受け」というラベルを貼られ、売れれば売れるほど業界内の評価は下落していく。
正直、ぼく自身も生意気な学生時分は「赤川次郎を読んでいるなんて人には言えない」と思っていたけど、五十冊以上も読んでいたということはやっぱりおもしろさを感じていたんだろう。
それだけ読んだにもかかわらず何も記憶に残っていないというライトさは、それはそれですごい(皮肉ではなく)。1983年の流行語に『軽薄短小』という言葉があるが、赤川次郎の作品はまさに軽薄短小。
時代に即していた、という点ではもう少し再評価されてもいい作家なんじゃないかな、と少しだけ思う。文学ではなくカルチャーとしてでもいいから。