2024年12月28日土曜日

2024年に読んだ本 マイ・ベスト10

 2024年に読んだ本の中からベスト10を選出。

 去年までは12冊ずつ選んでいたけど、今年は10冊にしました。

 なるべくいろんなジャンルから。

 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


奥田 英朗

『オリンピックの身代金』



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 小説。

 昭和39年開催の東京オリンピック。その直前の東京を舞台にした、クライムサスペンス。

 息をつかせぬスリリングなストーリー展開も見事なのだが、感心したのは、小説内で描かれる「国民の命よりも体面を気にする国家の体質」が現実の2021年東京オリンピックでも発揮されたこと。見事な予言小説にもなっている。汚職にまみれた2021年東京オリンピックを知っている身としては、犯人がんばれ、オリンピックを中止にしろ! と犯人を応援してしまう。






マシュー・サイド

『多様性の科学
画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織』 



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 ノンフィクション。

 多様性は重要だよ、という話。べつに道徳のお話ではなく、多様な考えをする人が集まったほうがより優れた知見を導きだせるから、という現実的な話。

 とはいえ多様性を確保するのは容易なことではない。多種多様な人で議論をするより、学歴や職業や趣味嗜好が近い人と話すほうがずっと楽だ。

 また多様な人を集めても、“えらいリーダー”がいると他の人が自由にものを言えず、結局似たような意見ばかりが提出されることになる。

 また、多様な人が集まりすぎると、その中でグループが生まれてかえって多様性が失われることになるという。

 組織というものについて考えるのに実に有益な本。



武田 砂鉄

『わかりやすさの罪』



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 エッセイ。

「わかりやすさ」ばかりが求められる時代だからこそ、わかりにくいことの重要さをわかりにくく伝える本。

 物事がわかりにくいのは、伝え方が悪いからとは限らない。「自分の前提知識や理解が足りないから」「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「シンプルな理由なんてないから」などいろんな理由がある。

「わかりやすいもの」は、虚偽や嘘であることが多い。〇〇が××なのは悪いやつがいるから、という陰謀論はすごくわかりやすい。2024年の兵庫県知事選でも多くの人が「わかりやすい説明」に飛びついてしまった。

 わからないものをわからないまま置いておく。脳にストレスをかけることだけど、意識しておく必要はある。



渡辺 佑基

『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』



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 エッセイ。

 著者は、バイオロギング(生物に記録装置をとりつけてなるべく自然な行動を測定する方法)を使って野生生物の生態を研究している生物学者。

 生物について調べるためには物理学が必要なのだ。こういう複数の学問分野を横断する話は魅力的だ。

 マグロが100km/h近いスピードで泳ぐのはたぶん俗説だとか、鳥は早く飛ぶより遅く飛ぶ能力のほうが重要だとか、いろいろおもしろい知見があった。



小泉 武夫

『猟師の肉は腐らない』


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 エッセイ。

 著者が猟師の友人を訪問して山中に数日滞在した記録。あらゆる獣、小動物、魚、虫などを捕まえて食う描写がなんともうまそう。

 こんな生活いいなあ、とちょっとあこがれはするが、同時にぼくのような怠惰な人間にはぜったい無理だな、ともおもう。山の中で自給自足の生活を送ろうとおもったら毎日忙しく動きまわらないといけない。読書を通してお金のない生活を疑似体験をすることで、お金って便利だなと改めておもう。



『清原和博 告白』



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 インタビュー。

 ぼくの少年時代のヒーローだった清原和博。誰もが知るスーパースターだった清原選手は高校時代、プロ一年目と華々しい活躍を見せ、その将来を嘱望されていた。だが徐々に成績は低下し、かつて自信を裏切ったジャイアンツに入団するもおもうような結果は出ず、怪我にも苦しんだ。引退後は家族が離れてゆき、覚醒剤取締法で逮捕された。

「絵に描いたようなスーパースターの転落人生」だが、インタビューを読むと、清原和博という人は野球の才能に恵まれていたこと以外はごくふつうの人だったんだなとおもう。純粋でまっすぐな人だったがゆえに、周囲からの期待に応えられない自分にもどかしさを感じ、不安を取り除くために筋肉をつけ、酒を飲み、やがて覚醒剤に手を出してしまった。

 いろいろあったけど、やっぱりぼくにとってはスーパースターだ。



坪倉 優介

『記憶喪失になったぼくが見た世界』



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 エッセイ。

 バイク事故で一切の記憶を失った大学生とその母親の手記。一切というのはほんとに一切で、おなかがすいたらごはんを食べるとか、おなかがいっぱいになったら食べるのをやめるとか、そんなことまでわからなくなっていたのだという。もちろん言葉も。生まれたての赤ちゃんとまったくいっしょ。

 本人の記述もさることながら、お母さんの心中描写が胸を打つ。死なれるよりもショッキングかもしれない。

 記憶喪失後の生活に慣れてくると同時に、今度は記憶を取り戻してしまうことが怖くなる。そうかあ。そうだろうなあ。



浅倉秋成

『六人の嘘つきな大学生』


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 小説。

 就活の選考会を舞台にしたサスペンスミステリ。就活を舞台に選んだのはうまい。就活って異常なことがあたりまえにおこなわれる空間だからね。みんな嘘をつくし。

 さらに就活後にさらなる展開が待っている。すっきりと白黒がつく終わりにならないところも個人的に好き。世の中のたいていの出来事ってよくわからないままだからね。



逢坂冬馬

『同志少女よ、敵を撃て』



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 小説。

 いやあ、とんでもない小説だった。王道漫画のような手に汗握るストーリー。でも王道漫画とちがうのは、はっきりした正邪がないこと。みんなに正義があるしみんなが悪でもある。戦争という異常な空間で生きていくには狂っていないとだめなのだ。登場人物はみんな狂ってる。狂ってない人は死んでいく。

 デビュー作とおもえないほど精緻な取材にもとづいて書かれていて、戦記物としても冒険小説としても友情小説としても一級品。数年に一度の名作だった。



アントニー・ビーヴァー

『ベルリン陥落1945』


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 ノンフィクション。

 様々な証言をもとに、独ソ戦末期の様子を書く。ノンフィクションではあるが、数字などのデータは少なめ。証言を中心にまとめているので情景が浮かびあがってくる。

 教科書なんかだと、ナチスドイツはシンプルな悪だ。でも現実はそんなことない。ドイツ市民にも家族があり、生活があり、平和を望んでいる。ソ連軍もナチスに負けず劣らず残虐なことをしている。でも教科書に書かれるのはドイツが悪かったこと。勝者の歴史だけだ。

 読めば読むほど、戦争で負ける国ってどこも同じなんだなとおもう。都合の悪いニュースは報道せず、いいことだけを大きく伝え、美談で愛国心を煽り、一発逆転の無謀な作戦が採用され、愛国心を唱え威勢のいいことを言うやつから真っ先に逃げていく。日本と同じだ。

 戦争における生命の軽さがよく伝わってくる。



 来年もおもしろい本に出会えますように……。


2024年12月25日水曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『武道館』 / グロテスクなアイドルの世界

武道館

朝井 リョウ

内容(e-honより)
「武道館ライブ」を合言葉に活動してきた女性アイドルグループ「NEXT YOU」。さまざまな手段で人気と知名度を上げるが、ある出来事がグループの存続を危うくする。恋愛禁止、炎上、特典商法、握手会、スルースキル…“アイドル”を取り巻く様々な言葉や現象から、現代を生きる人々の心の形を描き表した長編小説。

 かけだしのアイドルとして生きる少女を主人公にした小説。

 炎上やSNSでの批判を乗り越え、武道館ライブを目指すアイドルグループ。しかし主人公が幼なじみの男の子と恋仲になってしまい……。



 ぼくの話をすると、アイドルというものにはまるで興味がない。どっちかっていうと嫌いだ。

 特にぼくが音楽というものに興味を持ちだした90年代中盤は、アイドルなんてくそくらえという時代で、アイドルが好きとかいうより、そもそも女性アイドルがいなかった。

 ちょっと前はおニャン子とかがいて、90年代後半からはモーニング娘。が台頭してくるんだけど、ちょうどその間ってほんとに女性アイドルがいなかった。女性グループはあったけどSPEEDとかPUFFYとか「かっこいい女性」をめざしているような感じで、少女性を売りにしたようなアイドルグループは(少なくともメジャーには)存在していなかった。

 だから高校生になってはじめて、モーニング娘。という“いわゆるアイドル”を目にしたとき、とっさに嫌悪感をおぼえた。意識的に避けていたのをおぼえている。

 その理由が当時はわからなかったんだけど、今にしておもうと、その商品性が気持ち悪かったんじゃないかな。


 アイドルって「商品」感が強いじゃない。アーティストではなく、商品。その背後で糸を引いている大人の存在が強く感じられてしまう。

 もちろんロックシンガーだってシンガーソングライターだってその周囲にはたくさんの大人が商売として関わっているわけだけど、そこまで不自由な感じがしない。表現者としての意思を感じる。

 アイドルは、当人たちの意思よりもその後ろにいる“大人たち”の意思が強く感じられる。あと子役も。だから気持ち悪い。




『武道館』は小説なのでもちろんフィクションなのだが、ある程度は事実に即している部分もあるのだろう。

 読んで、あらためてアイドルはグロテスクな稼業だな、とおもう。

 他にある? 恋愛禁止なんて決められる職業?

 それってつまり、アイドルは365日24時間アイドルでいなきゃいけないってことだよね。

 テレビでは明るく振るまっている芸人が私生活では物静かだったり、怖い役ばかりしている俳優が実は優しい人だったりしてもいいわけじゃない。「イメージとちがう」ぐらいはおもわれるだろうけど、それで所属事務所から怒られるということはないだろう。

 でも、アイドルに関しては私生活にまで干渉することがまかりとおっている。

 まあ実際は「恋愛するな」ではなく「恋愛するならばれないようにやれ」なのかもしれないけど、今みたいに誰もが写真や動画を撮って広めることのできる時代だとそれも厳しいだろう。

 そのアイドルを嫌いな人たちが、彼女たちが不幸になることを願うならば、まだわかる。だがもっとひどいことに、アイドルのファンたちが、彼女たちが恋愛をし、ステップアップし、歳をとることを拒絶する。応援している人たちが足をひっぱる。なんともグロテスク。もちろんそんなファンだけではないんだろうけど。


『武道館』はアイドル業界の暗部を描きながらも、最終的には希望をもたせたエンディングを見せている。

 でも、特にアイドルに思い入れがない、どっちかっていうと懐疑的に見ている人間からすると、ずいぶんとってつけたハッピーエンドに見えてしまう。まあ、アイドルファンはそうおもいたいよね。なんだかんだあっても最終的にアイドルが幸せになっているとおもいたいよね。自分たちが若い女性の人生をつぶしたとはおもいたくないよね。そんな願望を都合よく叶えるラストにおもえてしまう。


 アイドル好きが読んだらまたちがった感想になるんだろうけど、まったく興味のない人間が読むと「やっぱりアイドル業界って狂ってんな」という感想しか出てこないや。


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2024年12月20日金曜日

【読書感想文】今和泉 隆行『考えると楽しい地図 ~そのお店は、なぜここに?~』 / おじさんは道が好き

考えると楽しい地図

そのお店は、なぜここに?

今和泉 隆行(著)  梅澤 真一(監修)

目次
第1章 これも地図?いろんな地図をみてみよう
(地図マスターへの第一歩!どんなときにどの地図をつかう?他)
第2章 おぼえるときは地図をみながら!地図のやくそくごとを知ろう
(上下左右ってどっち?方位をつかって方向をしめそう他)
第3章 そこってどこ?地図を読む練習をしよう
(これでは会えない!ざんねんなまち合わせ他)
第4章 まちの歴史もみえてくる?地図から土地の特色を読みとろう
(地形を一気にかえるスーパーパワー!火山のすごさを地図から読もう他)
第5章 正解は人それぞれ!地図を読んで自分なりの考えをまとめよう
(もしこのまちに引っこすならどこに住みたい?他)

 空想地図作家(存在しない街の地図を空想で描いてる人)である今和泉隆行さんが子ども向けに地図のおもしろさを伝える本。

 問題(ただひとつの正解があるとは限らない)と解説がセットになっているので読みやすい。

 地図に関する幅広い内容を扱っているのでちょっと地図に興味がある、ぐらいの子どもにはちょうどいい内容かもしれない。

 今和泉さんのファンでありこれまでに何冊か著作を読んでトークショーを聴きにいったぼくにとってはほとんどが既知の内容だったけど……。



 地図は魅力的だ。ぼくは地図好きとは到底言えないレベルだが、それでも地図は楽しい。

 誰しも、近所の地図を描いて遊んだり、オリエンテーリングで地図を見ながら宝探しをすることに喜びをおぼえた経験があるだろう。

 地図がおもしろいのは、ありとあらゆることが地図につながっているからだ。

『考えると楽しい地図』では、地図のおもしろさを伝える問題をバランスよくとりそろえている。

 地図を見て、ラーメン屋を開くならどこがいいか、図書館を作るならどこが向いてるか、ここから見える景色はどんなのか、川や火口の近くにはどんな施設があるか、自分が江戸時代の藩主だとしてらどこに築城するのがいいか……。

 経済、歴史、行政、地学、軍事、法律、あらゆることが地図と密接に関係している。

 城下町は敵に攻めこまれにくくするために曲がり角が多いとか、江戸時代は家の間口が広いほど税が高かったので古い町は今でも細長い敷地が多いとか、地図を見ると昔の生活が浮かびあがってくる。


 以前、あるラジオで「おじさんは道の話が好きだよね」という話をしていた。

 車で□□に行く、という話をしているとすぐにおじさんが寄ってきて、それだったらどの道を通るのがいい、ここで高速を降りて下道を通ったほうが早い、と言いだす、という話だった。

 たしかに。世のおじさんには道好きが多い。今まで生きてきた中で蓄えてきたあれやこれやがみんな道につながるから、歳をとると道を好きになるのかもしれない。


 今和泉さんのトークショーの中で「より正確な地図を書くためには地形の成り立ちを知る必要があるからプレートテクトニクスを勉強している」という話があった。

 そうやってどんどん興味の幅が広がっていくのはすごく幸せなことだ。知に対する興味が衰えない人は一生楽しめる。


【関連記事】

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【読書感想文】手書き地図推進委員会『地元を再発見する! 手書き地図のつくり方』 / 地図は表現手法




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2024年12月19日木曜日

小ネタ28 ( でかい顔の市 / おばけなんてないさ )

でかい顔の市

 日本三大「市のくせに県よりでかい顔をしている市」といえば、神戸市、横浜市、金沢市であることは全国民が知っているところだ(次点で仙台市)。

 奇しくも、神戸市には兵庫区があり、横浜市には神奈川区がある。「兵庫(神奈川)の中に神戸(横浜)があるんじゃない、神戸(横浜)の中に兵庫(神奈川)があるんだ」というために兵庫区(神奈川区)をつくったのだろう。あいつらならそれぐらいのことはやる。

 だが石川区はない。そもそも金沢市は政令指定都市ではない。

 金沢区はあるが、石川県ではなく、神奈川県横浜市の中にある。横浜はどこまでも貪欲だ。


おばけなんてないさ

 童謡『おばけなんてないさ』の一番の歌詞はみんなよく知っているように
「ねぼけたひとが みまちがえたのさ」だ。

 あまり知られていないが、あの歌は五番まであり、二番以降はAメロを二回くりかえす。

 二番は「ほんとにおばけが でてきたらどうしよう れいぞうこにいれてかちかちにちちゃおう」

 三番は「だけどこどもなら ともだちになろう あくしゅをしてから おやつをたべよう」

 四番は「おばけのともだち つれてあるいたら そこらじゅうのひとが びっくりするだろう」

 五番は「おばけのくにでは おばけだらけだってさ そんなはなしきいて おふろにはいろう」


 いい歌詞だ。世界の広がりがある。

 一番はただ今の心情を歌っているが、二番では「でてきたらどうしよう」と心配から空想になる。

 三番、四番はその空想を発展。「ほんとにおばけがでてきたら」「こどもなら」「つれてあるいたら」と想像の上に想像を重ね、ともだちになったおばけと歩く空想までしている。

 五番では「そんなはなしきいて おふろにはいろう」と一気に現実に引き戻される。夢オチみたいなものだ。ここだけ、前の章とのつながりが途切れているように感じる。

 だが、“おばけだらけだってさ” “そんなはなしきいて”を読むと、歌い手におばけの話をしてくれた者がいることがわかる。それは誰か。おとうさんやおかあさんとも考えられるが、ぼくは“おばけのともだち”じゃないかとおもう。おばけのくにの話を聴かせてくれるのはおばけだろう。

 つまり五番は現実に引き戻されたわけではなく、まだ空想の中にいるのだ。空想の中で空想のおばけから空想の話を聴いて、空想の中でおふろに入ろうとしているのだ。

 どこまでも広がってゆく空想。空想に終わりなんてないさ。


2024年12月17日火曜日

【読書感想文】村中 直人『〈叱る依存〉がとまらない』 / 叱らずに済む人は幸せである

〈叱る依存〉がとまらない

村中 直人

内容(e-honより)
「叱る」には依存性があり、エスカレートしていく―その理由は、脳の「報酬系回路」にあった! 児童虐待、DV、パワハラ、加熱するバッシング報道…。人は「叱りたい」欲求とどう向き合えばいいのか? つい叱っては反省し、でもまた叱ってしまうと悩む、あなたへの処方箋。


 人を指導する立場にある人がつい使ってしまう「叱る」。だが、指導される側を成長させるのにはほとんど役立たないことがわかっている。だがいまだに指導の現場では「叱る」は広く使われている。なぜなら「叱る」ことには(悪影響もあるとはいえ)効果があるとおもわれているから。




 著者は、「叱られることでがんばれる」「叱られることに慣れていないと社会に出てから苦労する」といった通念が誤っていると指摘する。

 では、なぜ「叱る」は多くの人に「効果がある」と誤解されてしまうのでしょうか?
 最大の要因は、ネガティブ感情への反応には即効性があることです。叱られた人(例えば子どもや部下)たちは、多くの場合、即座に「戦うか、逃げるか」状態になります。人間に限って言うなら、なんとか「逃げたい」と思う状態になることが多いでしょう。権力の不均衡がある中で、権力者に対して「戦う」ことを選択し続けるのは至難の業だからです。中には戦い続けるお子さんや部下もいますが、相当な「才能」の持ち主だと私は感じています。
 では「逃げる」とは具体的に何をすることでしょうか。一番手っ取り早いのは、言われた行動をしてみせることです。もしくは申し訳なさそうに「ごめんなさい。もうしません」と言うことです。それは「叱る側」の立場からすると、望んだ結果がすぐに得られたと感じる瞬間かと思います。「言っていることが伝わった。わかってくれた」とも感じるかもしれません。つまり相手が学んだと思うのです。また、その場に居合わせる第三者にも、わかりやすい「効果」を見せることができ、きちんと対応していると納得してもらいやすくなります。ここに「叱る」が効果的な方法だと誤解される原因があります。

 叱った相手が頭を下げて「ごめんなさい」と言った。こちらは「ああ、理解してもらえた」とおもう。だが相手は深く反省などしていない。「なんかこの人は怒っているからこれ以上刺激しないように頭を下げて嵐が通りすぎるのを待とう」とおもっているだけだ。

 これはよくわかる。ぼくはこれまでの人生で何千回と叱られてきたが、叱られている最中に深く反省していたことなんてほとんどない。反省したとしても「今度は叱られないようにしよう」とおもうだけで、行為自体を反省することはほとんどない。


 以前勤めていた会社でのこと。ぼくが最終退出者だったのだが、オフィスの電灯を消すのを忘れて帰ってしまった。

 翌朝、上司から怒られた。「昨日電灯つきっぱなしだったぞ」と。ぼくが悪いので「すみませんでした。気を付けます」と頭を下げた。だが上司の説教は止まらない。ミスがないように注意しなきゃだめじゃないかとか、電気代がもったいないとか、ねちねちと続けてきた。

 聞いている間、ぼくは反省などしていない。「今さらどうしようと消し忘れてしまった事実は取り消せないし、対策としては気を付けますとしか言いようがない。タイマーを導入してシステム的に消し忘れを防ぐことはできるかもしれないが、得られるものとコストを比較したら現実的じゃないしな」とおもうだけだ。

 ぼくが反省していない(いや最初は反省してたんだけど)ことが伝わったのか、上司の説教はさらにヒートアップしてきて、しまいには「火事になったらどうするんだ」なんてわけのわからないことまで言いだした。ぼくは「何言ってんだこいつ」とおもう。それが伝わり、上司はますます感情的になる……。

 いやー、実に不毛な時間だった。

 こういう不毛な時間を回避するには「深く反省しているふりをする」が最善の方法となる。いろんな組織に「怒りっぽい人」がいるが、その周りの人は「反省しているふり」ばかりがうまくなる。お説教を早くやりすごすために反省しているふりをする。叱っているほうは気分が「指導できた」と勘違いして気分が良くなり、味をしめてますます叱るようになる……。




「叱る」ことは意味がないどころか、指導という点では逆にマイナスの効果があると著者は指摘する。

 理不尽に耐え続けるということは、報酬系回路が活性化される「冒険モード」の機会を奪われ続けることも意味しています。危機からの回避や闘争は、「欲しい、やりたい」という心理状態とは両立しないからです。まして理不尽によって「諦め」を引き起こすことは、「欲しい、やりたい」という気持ち自体を奪うことです。そういった状態が続くと、人はそもそも「やりたいことが何かわからない」という状態になってしまう可能性が高くなります。

「冒険モード」とは学習意欲が高まった状態のこと。叱られることで学習意欲は低下し、やる気もなくなる。当然結果は悪くなるので叱る側はますます腹を立てて叱るようになり……という悪循環が生まれる。


 叱ることで得られるものは「相手を思考停止にさせる」ことだけ。

 だから「赤信号で飛び出そうとする子どもを叱る」のは効果がある。何も考えずに足を止めさせることができるので。

 ただしそこから「赤信号で飛び出そうとしたら車に轢かれるかもしれない。これからは交通安全に気を付けて行動しよう」という学びを得させることはできない。

 また、悪いやつが「いいからとにかくハンコを押せ!」というときも叱ることは効果的だ。思考停止にさせたほうがいいので。




 指導・教育をする上では効果がない(それどころか妨げになる)にもかかわらず叱る指導をしてしまうのは、叱られる側ではなく叱る側にあると著者は語る。

 しかしながら、その後の研究では、処罰行為は規範を維持するためだけのものではなく、相手にネガティブな体験を与えることそのものが目的となっているような悪意ある処罰(Spiteful Punishment)もまた、報酬系回路を活性化させると報告されています。つまり単に相手を苦しませるだけの行為でも、人は気持ちよくなったり、充足感を得たりすることがあるのです。また、怒りの感情が背景にあって、その行為がなんらかの復讐の機会となっている場合に、報酬系回路の活動がより高まるという報告もされています。みなさんも、意地悪な相手やずるをした人に、仕返しをすることで気持ちがすっと晴れた経験があるかと思います。  どうやら、他者に苦痛を与えるという行為そのものが、人にとっての「社会的な報酬」の一つになっているようです。私たちはこの事実をどのように受け止め、どう向き合っていくのかを真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

 他人を叱ることが快楽をもたらすのだ。ネットの“炎上”もこういうケースが多い。やらかしてしまった人たちに無関係の人たちが群がり、非難の声を上げる。

 あれも「叱る」行為の一種だろう。自分とは関係のない出来事でも、叱ることが気持ちいいから叱ってしまうのだ。


 よく叱る人は、たいてい自分に問題があるとは考えない。「自分だってほんとは叱りたくない。叱られるようなことをするこいつが悪いんだ」という思考になる。

 だがそれは正しくない。あくまで原因は“叱る側”にあるのだ。酒自体が悪いのではなく酒を飲む側に問題があるのと同じく。

「何度言わせるんだ!」と叱りつづける人がいるが、問題は叱る側にあるのだから、自分が変わらないかぎり、叱る原因がなくなることはない。



 著者の書いてあることはよくわかる。

 ただなあ。現実的に、子どもを育てたり、多くの人を指導したりする上で、まったく叱らないというのは難しいんじゃないかな。

 進学校の高校教師が「叱らずに生徒指導をする」のはそんなに難しくないかもしれない。でも、いわゆる荒れてる学校、学習障害すれすれぐらいの子だらけの学校で「叱らない指導」はできないとおもう。

「叱らずに指導をする」ってのはある一定の知性や常識や意欲を持ちあわせている相手には有効でも、そうじゃない相手もいるわけで。野生のクマ相手に「話せばわかる!」と言ってもしかたないのと同じく、ある程度言葉が通じないと「叱らない指導」はできない。


 「叱る」は抑止力として予防的に用いることが基本です。つまり実際には叱らずに、予告だけするのです。実際に叱ってしまうと相手は「防御モード」になって、言い争ったり隠蔽しようとしたりする可能性が高くなります。ということは、実際に叱らなくてはならない状況を招いてしまった時点で、本来は「叱る人」の失敗だと考えるべきなのです。
 また、抑止のための「叱る」は、ただ特定の行動を避けるようになるという意味の効果しかなく、望ましい行動を身につけることにはつながりにくい点も忘れてはいけません。「何をしたら叱られるのか」を伝えると同時に、「どんな行動が求められているのか」「何を大事に考えるべきなのか」など、学んで欲しい具体的な事柄を伝えることが大切です。ただし、これらを「叱る」からの流れで伝えることはおすすめできません。ネガティブ感情で「防御モード」が活性化している時は、理解力が下がっていますし、攻撃的な気持ちになっているので素直に聞くことも難しいのです。

 これもなあ。ときどきほんとに「叱る」からこそ、抑止として使えるとおもうんだけど。原爆の怖さを知っているから核が抑止力になるわけで。


 著者は、人は叱られると「防御モード」になって思考停止・逃避・反撃に向かい、うまく褒められると「冒険モード」になって学習意欲が高まると書いてある。

 一般的な傾向はそうかもしれないが、例外も多い。

 たとえば叱らずに普通に話をしただけで「防御モード」になる人は大人でも子どもでもけっこういるんだよね。「なんでこれをしたの?」と(怒らずに)聞いても、攻撃されたと感じて言い訳や反撃をしはじめる人が。


 うちの長女がまさにそうで、こないだ風呂に入らずに寝ようとしていたので「お風呂入って」と言ったところ、「入ったし!」と怒りだした。一応確認したが、髪の毛も脱衣所もまったく濡れていない。そのことを指摘しても「乾かしたのっ!」とキレる。娘が洗面所に行ったのは5分ぐらいなのでその時間で髪と身体を洗って髪(肩を超える長さ)を乾かすことなんてぜったい不可能なのだが、それでも「入った!」と嘘をつく。

 さんざん話してもらちがあかないので、こっちも「おまえの嘘や言い訳なんかどうでもいいからさっさと風呂に行け!」と怒鳴って、半ば引きずるようにして風呂に行かせた。

 自分でも大人げない対応だったとはおもうが、この場合、他に方法ある?

 風呂に行かず、嘘をつき、嘘を指摘されたら逆ギレしてくる相手に対して「叱る」以外の対応ある?

 自分から風呂に行きたくなるまで何日でも何ヶ月でも待てばいいの?


 子育てしてたらこの類いの「子どもがすぐばれる嘘をつく」とか日常茶飯事だし、なんなら大人でもけっこういる。

 アドバイスされただけで「防御モード」になって牙を剥いて食ってかかってきたり、嘘に嘘を重ねて逃げようとする人間が。ぼく自身もそういう子どもだったのでよくわかる。

 無限の時間と忍耐力があれば辛抱強くつきあって心を開かせることができるのかもしれないが、現実的にそいつだけに向き合ってもいられない。

 ベストな方法ではないかもしれないけど、叱るしかないときってあるんだよね。

 叱らずに指導しましょうっていうのは「すべての国が武器を捨てればいいのに」っていうのと同じで、理想ではあるけど、現実的にはまずムリ。

 きっと著者の周りには、攻撃的な人や信じられないような嘘つきがいないのだろう。幸せなことだ。


 この本で書かれていることは理想論すぎるけど、「叱ることは快楽をもたらす」と知っておくことは大事だね。

 叱る前に「これは場をうまく収めるために必要な説教か、それとも自分が気持ち良くなるための説教か」と考えるようにしたい。できるかなあ。


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自分のイヤなところを写す鏡



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2024年12月13日金曜日

小ネタ27 (熱中症対策 / おばけと二酸化炭素の違い / 別の木管楽器)

熱中症対策

 制汗スプレーの説明に「汗を抑えてすっきり! クールミントでひんやり! 熱中症対策に効果的」みたいなことが書いてあった。

 いやいや「汗を抑えて放熱を妨げる」「クールミントで冷えた気分になるけど実際の体温は下がっていない」って、熱中症対策としては完全に逆効果じゃないか。

 無知ゆえなんだろうけど、さすがに厚労省が叱ったほうがいいぜ。


おばけと二酸化炭素の違い

 童謡『おばけなんてないさ』の2番の歌詞に
  れいぞうこにいれて カチカチにしちゃおう
とある。

 おばけは冷蔵庫でカチカチになるんだ。

 ということは5℃ぐらいで固体になるわけだ。

 液体のおばけというのは聞いたことがないから、気体からいきなり固体になるのだろう。

 ……おばけってほぼ二酸化炭素(冷やすとドライアイスになる)なんだな。

 ちがうのは、おばけは肝を冷やすのに対し、二酸化炭素は地球を温暖化させる点だけだ。


別の木管楽器

「これでわかった!? 今度のコンクールでクラリネットを吹くのはア・タ・シ! あんたはオーディションで負けたんだから別の木管楽器でも吹いてなさい!!」


 負け犬のオーボエ。



2024年12月11日水曜日

女子の遠慮、男子の欲望

 娘(小学五年生)と、その友だち(女の子二人)といっしょにファミレスで食事をする機会があった。

 女の子たちは「ピザをとってみんなで分けよう」と言い、一枚のピザを頼んだ。

 興味深かったのが、ピザの分け方。


 三人いたので、まずピザカッターでピザを六つに分ける。とはいえもちろん均等に分けることなんてできないから、大きさはばらばら。

「けっこう大きさちがうね」「どうするー」と話していた彼女たちは、驚いたことに、なんと大きなピザの押し付けあいをはじめた。

「わたしこの小さいのでいいから大きいのどうぞ」

「いやいや、〇〇ちゃんが大きいの食べなよ」

「いいって。△△ちゃんが食べて」

 遠慮かなとおもっていたら、いつまでたっても押し付け合いが終わらない。どうやら彼女たちは本気で大きなピザをとることを嫌がっているようだ。

 結局、大きなピザをさらに分割してなるべく公平に近づくようにして、さらにじゃんけんをして、じゃんけんで負けた子がいちばん大きなピザを食べることになった


 その様子を見ていて、女子だなあと感心した。

 これが男子ならどうだろう。よほどの満腹とかでないかぎりは、「おれが大きいのを食べたい!」で揉め、じゃんけんをした場合は「勝った人がいちばん大きいものを取る」になるだろう。もしかすると、話し合うより先に誰かが「早い者勝ち!」といちばん大きいピザをつかんでしまうかもしれない。

 男子はこうだ女子はどうだと言うのもアレだけど、やっぱり傾向として違いはある。


 たとえ軋轢や争いが生じても己の欲を優先する男子と、争いを避けることが最優先でとにかく妬みや恨みを買いたくない女子。

「ピザの分配」にはっきりと違いが表れていると感じた。


2024年12月9日月曜日

【読書感想文】櫛木理宇『死刑にいたる病』 / ミステリというよりホラー

死刑にいたる病

櫛木理宇

内容(e-honより)
鬱屈した日々を送る大学生、筧井雅也に届いた一通の手紙。それは稀代の連続殺人鬼・榛村大和からのものだった。「罪は認めるが、最後の一件だけは冤罪だ。それを証明してくれないか?」パン屋の元店主にして自分のよき理解者だった大和に頼まれ、事件を再調査する雅也。その人生に潜む負の連鎖を知るうち、雅也はなぜか大和に魅せられていく。一つ一つの選択が明らかにする残酷な真実とは。


 かつては優等生で自信に満ちあふれていたが、自信を失い卑屈になっていった大学生の主人公。彼のもとに、連続殺人犯として収監されている死刑囚・榛村大和から手紙が届く。

 刑務所に面会に行くと、榛村大和は語る。たしかに自分は罪のない少年少女八人を己の快楽のために殺した。それは認める。だが裁判で自分がやったとされた九件目の罪だけは冤罪だ。やってもいない罪で裁かれたくはない。真犯人は他にいる。君に見つけてほしい――。

 はたして榛村大和が語っている内容はどこまで本当なのか。九人目を殺した真犯人がいるとしたら誰なのか。そして榛村はなぜ、さほど接点のあったわけでもない自分を指名して手紙を送ってきたのか――。



 よくできたミステリだった。というより、ミステリだとおもって読んでいたらサスペンスというかホラーというか。

 冤罪をテーマにしたミステリでいうと高野 和明『13階段』が有名だ。とある死刑囚の冤罪を晴らすために調査をする話。

 冤罪ということになれば、「犯人とおもわれていた人物が犯人でない」と同時に「真犯人が別にいる」という真相があることになる。両面からドラマを作れるので、気の抜けない展開になる。

『死刑にいたる病』も中盤までは『13階段』と似ている。ああこういうパターンね、ということはきっと主人公は少しずつ真相に迫り、真相に迫ったところで真犯人に……という展開になるんだろうな、とおもいながら読んでいた。


 が、ぼくの予想はまんまと裏切られた。なるほどね。ミステリとしてのおもしろさよりもシリアルキラーの不気味さを掘るほうに持っていったわけか。

 これはこれでありだね。ミステリとしてはこうなるだろう、という予想を裏切るのが逆説的にミステリっぽい。

 きれいに謎が解けてすっきり終わる話じゃないからこそ、いい意味でもやもや感が残る。個人的には鮮やかな謎解きよりも「なんかしっくりこないものが残る」この展開のほうが好きだな。


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2024年12月6日金曜日

【読書感想文】中村 計『笑い神 M-1、その純情と狂気』 / まじめにふまじめ

笑い神

M-1、その純情と狂気

中村 計

内容(e-honより)
M-1とはネタの壮大な墓場でもあった。にもかかわらず漫才師たちは毎年、そこへ向かった――。 一夜にして富と人気を手にすることができるM-1グランプリ。いまや年末の風物詩であるお笑いのビッグイベントは、吉本興業内に作られた一人だけの新部署「漫才プロジェクト」の社員、そして稀代のプロデューサー島田紳助の「賞金をな、1千万にするんや」という途方もないアイディアによって誕生した。このM-1に、「ちゃっちゃっと優勝して、天下を獲ったるわい」と乗り込んだコンビがいた。のちに「ミスターM-1」「M-1の申し子」と呼ばれ、2002年から9年連続で決勝に進出した笑い飯である。大阪の地下芸人だった哲夫と西田は、純情と狂気が生み出す圧倒的熱量で「笑い」を追い求め、その狂熱は他の芸人にも影響を与えていく――。 芸人、スタッフ80人以上の証言から浮かび上がる、M-1と漫才の深淵。笑い飯、千鳥、フットボールアワー、ブラックマヨネーズ、チュートリアル、キングコング、NON STYLE、スリムクラブ……。漫才師たちの、「笑い」の発明と革新の20年を活写する圧巻のノンフィクション、誕生!

 笑い飯の足跡を中心に、M-1グランプリの歴史(笑い飯が主軸なので主に2001~2010年)をふりかえるノンフィクション。

 ひとつひとつのエピソードはテレビやWebメディアのインタビューなどで語られたものも多いのだが、これだけ多くの証言をもとに網羅的に書かれたものはめずらしい。

 ひとつには、「お笑いを語るのはダサい」という風潮のせいだろう。お笑いにかぎらず、サブカルには「言語化されないからこそおもしろい部分」というのが存在している。深く携わっている人の間ではうっすらと共有しているけどあえて語らない。語らずして共有することで共犯関係が築かれる。わざわざ語る人は「野暮」「無粋」「つまんねえやつ」とみなされる。

 だからこの本に載っているインタビューを集めるのに著者はすごく苦労しただろうな、と想像する。「ぼくたちこんな苦労をしてきたんですよ。あの大会のときはこんな算段で漫才を作りました」なんて語っても芸人からしたら損しかないもんな。

 特に漫才は「即興っぽさ」が大事な芸だ。台本があっても、さも今おもいついたかのように語る芸。余計に裏話は求められない。

 

 ただ、どうであれ、M-1はあくまで通過点のはずだった。ところが、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている面も否めない。ケンドーコバヤシも、そこに苛立っていた。
 「漫才愛を語るヤツが増えた。おれ、法律がなかったら、そんなやつ、その場で顎カチ割ったろうと思いますもん。カッコ悪いことすんな、と。あいつらにはあいつらなりの矜持があるんやろうけど、俺には俺の矜持がある。そこは絶対、交わらんやろな」
 ケンドーコバヤシは論をぶつ人間を嫌悪した。
 芸人たるもの、芸論を語るなかれ。ピエロであるならば、その仮面を生涯、かぶり続けるものだ。それが芸人の美学だった時代が確かにあった。
 しかしM-1は、その舞台裏を完全に可視化した。本番直前、舞台では決して見せないような形相でネタ合わせをする芸人たち。さらには、勝って号泣し、破れて打ちひしがれる姿までをも撮影し、番組に組み込んだ。そのことで人気を博したわけだが、昔気質の芸人からすると、それは「あるまじき行為」に映る。
 ケンドーコバヤシの矛先は、私にも向けられた。
「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」
 突然の口撃に対し、反射的に笑って誤魔化そうとしたのだが、マスクの下で顔が引きつった。「私は芸人じゃないので……」と釈明したが、許してくれなかった。
「笑いの解説とか解析とか。そんなん、教える必要あります?

 こういう考えが、四半世紀前の芸人の多数意見だっただろう。だが今では少数派かもしれない。

 変わった要因はいくつかあるだろうが、そのひとつが、M-1グランプリという大会だ。M-1グランプリはただの演芸番組ではなく、ドキュメンタリーでもあった。舞台裏を映し、予選を映し、負けて悔しがる漫才師を映し、大会に向けて努力する漫才師を映した。今ではめずらしくないが、大会が始まった2001年にはこれは画期的なことだった。『熱闘甲子園』をお笑い番組に持ちこんだのがM-1グランプリだった。

 ふざけたことをやらないといけないのに、真剣にやっているところを見せないといけない。相反する難題をつきつけるからこそM-1は難しい。多くの芸人がそのせいで道を踏みあやまった。

 だが、難しいことをやっているからこそおもしろいのもまた事実だ。



 九年連続決勝進出という空前絶後の大記録を打ち立てた笑い飯のネタ作りについて。

 笑い飯は、M-1の時期が近づくと、難波にあった「baseよしもと」の楽屋に籠った。
 baseよしもとは、かつてあった若手主体の劇場で、笑い飯は長くそこの看板コンビとして舞台に立っていた。村田が説明する。
 baseよしもとには二つの楽屋があって、笑い飯はいつもちっちゃい方の楽屋でネタをつくってました。扉を開けたままなので、中の様子が丸見え。椅子二席分あけて、横並びで座ってるんです。いつ見ても無言。出番が終わって、そんな様子を見つつ、先輩とかと飲みに行くじゃないですか。飲んだ後、よく劇場に戻ってくることがあったんです。八時間後とか九時間後ぐらいに。そうすると、二人は出た時のまんま。動いた気配すらない。そんなの、ザラでしたね。だから、不思議でしたよ。あの二人の漫才はなんであんなにおもしろくなるんやろう、って」

 ばかなことを言い合いながら作っているように見える笑い飯の漫才だが、実際は沈黙の中で作られているという。何時間もじっと座ってひたすら考える。会話もなく、おもしろいやりとりを。小説家みたいなネタの作り方をしているんだな。それであの漫才が生まれるのは、ほんとふしぎ。



 M-1グランプリの成功を受けて、いろんなお笑い賞レースが生まれた(M-1以前は関西ローカルの賞はあったけど全国区の賞なんてなかったね)。

 が、どれもM-1グランプリには及ばない。

 大きな理由として、在阪局であるABC放送が番組を手掛けていることがある。

 ABC放送の漫才への愛情の深さは、番組作りのいたるところから感じられる。漫才番組は通常、客が笑っている様子を頻繁に映す。それによって、ついてこられていない視聴者も「おもしろいんだ」という安心感を得られるからだ。

 だが、M-1ではそれを絶対にしない。現チーフプロデューサーの桒山哲治は、その理由をこう語る。
「漫才に失礼だろう、と。その数秒でも、漫才は進んでいるので。審査員を抜く(映す)ことも毎回、議論になる。いいことかどうなのか。なので、このタイミングでは間違いなく『笑いしろ』(演者が客の笑いが収まるのを待つ時間)ができるだろうというところで、カメラをスイッチするようにしています」
 また、笑いは足さない。第一回大会と第二回大会でプロデューサーを務めた栗田は断固たる口調で言った。
「なんで足さないといけないんですか。M-1だけでなく、ABCのお笑い番組は基本的に足さないです」

 そういや関西ではいろんなお笑い賞があるが(NHK上方漫才コンテスト、上方漫才大賞新人賞、ytv漫才新人賞、かつてやっていたMBS漫才アワード)、ぼくはABCお笑い新人グランプリがいちばん好きだ。

 単純に番組としておもしろいし(M-1グランプリよりおもしろいときもある)、何よりネタが聞きやすい。他の賞は漫才に不向きな大きなホールでやるから聞きにくいんだよね。

 客の笑い声を足さない、余計なものを映さない、ヤラセをしない、芸人じゃない人に審査させない。あたりまえだけど、それをちゃんとやっている番組は少なかった(今でもそんなに多くない)。あたりまえのことを継続的にやることでM-1グランプリは他の追随を許さない大会になった。

 あとは「スタジオに呼ばれたM-1大好き芸能人」と「くじを引くために呼ばれた旬のアスリート」さえなくしてくれれば完璧なんだけどな!


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2024年11月29日金曜日

【読書感想文】アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』 / 人間の命のなんという軽さよ

ベルリン陥落1945

アントニー・ビーヴァー (著)  川上洸(訳)

内容(e-honより)
ヒトラーとスターリンによる殱滅の応酬を経て、最終章、戦場は第三帝国の首都ベルリンへ…。綿密な調査と臨場感あふれる筆致、サミュエル・ジョンソン賞作家による、「戦争」の本質を突く問題作。

 イギリスの歴史作家が書いた、1945年(つまり戦争末期)の独ソ戦争の情景。


 読んでいて感じるのは、おそらく意図的だろうが、数字が少ないこと。「○万人が命を落とした」といった事実の羅列はほとんどなく、体験談を中心に、ひとりひとりの生の物語を書いている。おかげで戦争の悲惨な光景が眼の前に立ち上がってくる。これがストーリーの力。教科書に書いてある「百万人が命を落としました」よりも、たったひとりの体験記のほうがはるかに強いメッセージを放つ。



 第二次世界大戦のドイツといえばヒトラー、ナチス、ゲシュタポ、ユダヤ人弾圧、強制収容所……と、とにかく「ドイツはひどいことをした」話ばかりを教わった。

 だがことはそう単純ではない。ドイツの人々も苦境にあえいだ。劣勢に追い込まれた1945年は特に。

 ブルーの照明灯に照らされたこれらの待避所そのものが、いったん入ったら二度と出られぬ地獄を連想させるたたずまいで、寒さにそなえて着ぶくれし、サンドイッチと魔法びんを入れた小さな厚紙製のスーツケースを手にした人びとが、そこに詰め込まれた。たてまえとしては、あらゆる基本的必要をみたす設備が内部に完備していた。ナースの常駐する救護室もあって、ここで出産することもできた。地表からではなく地の奥底から伝わってくるような爆弾炸裂の振動が、分娩を促進するようだった。空襲中の停電はしょっちゅうのことで、まず照明が薄暗くなり、チラチラ点滅して消えてしまう。そのため天井に発光塗料が塗ってあった。水道本管がやられると断水した。そこで「アボルテ」、すなわちトイレはたちまち惨憺たる状況となった。衛生にやかましい国民にとってはまったくの苦行だ。当局はしばしばトイレを閉鎖した。絶望した人びとがドアにカギをかけたまま自殺するケースが頻発したからだ。
 ベルリンの三〇〇万前後の人口を全部収容するスペースがないので、待避所はいつも超満員だった。通路も、座席つきのホールも、宿泊室も、人いきれと天井から滴下する結露で空気がよどんでいた。ゲズントブルンネン地下鉄駅の下のシェルター群は一五〇〇人を収容するように設計されたのに、じっさいにはその三倍を詰め込むこともしばしばだった。酸欠の度合いをはかるのにローソクが使われた。床の上に立てたローソクが消えると、幼児を肩の高さまで抱き上げた。椅子の上のローソクが消えると、その階からの退去がはじまった。あごの高さに設置された三本目のローソクが明滅しだすと、おもての空爆がどんなにはげしくても、全員が出ていかねばならなかった。
 しかしブレスラウ市外に出た女性たちは、とにかく自力で逃げなければならないことに気づいた。市外に出る自動車はほんの数両で、幸運にも乗せてもらえたのはごく少数にすぎなかった。道路上の雪は深く、ついに多数の女性が乳母車を捨て、幼児を抱いて歩くはめになった。凍りつくような寒風に魔法ビンの中身も冷めてしまった。おなかをすかした赤ん坊には母乳をあたえるしかないが、授乳のため身を寄せる場所もなかった。すべての家はドアを閉ざし、すでに放棄されたか、あるいは住人がだれにもドアを開こうとしないか、どちらかだった。やむにやまれず一部の母親は、納屋その他の風よけとなる建物のかげで乳首をふくませたが、それがよくなかった。子どもは飲まないし、母親の体温は危険なまで下がった。乳房に凍傷を負った人さえ出た。ある若い母親は、わが子の凍死を実家の母に知らせる手紙のなかで、ほかの母親たちの様子も書いている。ぐるぐる巻きにした赤ん坊の凍死体をかかえて泣きさけぶ人もいれば、道ばたの樹木に寄りかかり、雪のなかに坐りこんだ人もいる。そばでは年長の子どもたちが、母親が気を失ったのか、死んだのかもわからずに(この寒さのなかでは、どちらでもたいしたちがいはないが)、恐怖のあまりベソをかきながら立ちつくしている。

 こういう「戦時下での悲惨な暮らし」って、日本のものはよく知っているんだよ。いろんな小説や漫画や映像作品でも扱われているから。でも日本だけじゃないんだよな。どの国も同じなんだよな。


 読めば読むほど、戦争でやることはどの国も同じだな、とおもわされる。

 戦争末期のドイツにはびこっているのは根性論。決して退くな、最後の最後まであきらめず戦え。勝てる見込みのない無謀な作戦(まるで訓練されていない少年や老人で組織された国民突撃隊、武器を積んだ自転車で戦車につっこむという実質特攻隊……)、悪いことは知らせない大本営発表、冷静な意見は排除されて無謀なことを言うやつだけが重用される。

 そして、威勢のいいことを言うやつほど真っ先に逃げ出すところもどの国もおんなじ。ドイツでも、無謀な命令で部下を死なせた上官が、いざ危なくなるとすぐに降伏したり逃げだしたりする。

 想像力がないんだよね。想像力が欠如しているからこそ他人に強く言える。想像力が欠如しているから自分の身に危険が迫ったときのことを本当に想像できない。だから危険が現実のものになると泡を喰って逃げだす。少なくとも犬ぐらいの思慮があれば「逃げずに戦えばいい!」とは言いださないものだ。


 戦争末期のドイツ国民は大いに苦しんだが、それは敵国に苦しめられたというよりむしろ、過去のドイツが自分自身にかけた“呪い”のせいだ。

 逃げてはいけない、退却する兵士は殺す、上層部の指示に対する批判をするやつは粛清、ソ連の人間は劣っていて野蛮だ……。戦況が良いときはそれなりに効果を上げた言説が、劣勢に追いこまれたときには自分たちを苦しめる“呪い”となった。

 どんなに戦況が悪くても退却できない、上層部が無謀な作戦を指示しても従うしかない、勝てるわけなくても赤軍に降伏できない……。自国の教えがすべて呪いとなって自国民にはねかえってくる。多くのドイツ国民たちは、赤軍に殺されたというより、自国の司令部に殺されたんだよな。もちろん日本も同じ。

「愛国心」なんて言葉は、他人をコマとして都合良く利用するための口実でしかない。




 大戦前、大戦中のドイツはひどいことをした。でも、1945年のドイツで起こったことを読むかぎりでは、赤軍(ソ連軍)のほうがずっと悪だとおもう。
 この部隊がシュヴェーリン〔スクフェジーナ〕の町を攻略したとき、グロースマンは見たことのすべてを小さなノートにエンピツで走り書きした。「一面の火の海……燃える建物の窓から老女が飛び降り……略奪が進行中……なにもかも炎上しているので夜も明るい……[町の]警備本部で黒衣をまとい、あおざめたくちびるのドイツ女性が、弱々しいかすれ声でなにかしゃべっている。連れの少女は首と顔に傷あとがあり、ふくれあがった目をして、両手にもひどい傷を負っている。部隊本部通信隊の兵士にレイプされたという。その兵士もここにいる。赤い丸顔で、眠そうに見える。警備隊長が双方を尋問中」。
 グロースマンのメモは続く。「女性たちの目には恐怖の色……ドイツ女性はひどい目にあっている。教養あるドイツ人男性が、しきりに身ぶり手まねをまじえながら、片言のロシア語で説明する。この日、彼の妻は一〇人に暴行されたという……収容所から解放されたソ連の娘たちも、やはりひどい目にあっている。昨夜、その一部が従軍特派員に割り当てられた部屋に身を隠した。夜中も悲鳴で目をさます。特派員の一人が黙っていられなくなって大激論となり、秩序は回復された」。さらにグロースマンは、明らかに彼が聞いたと思われるある若い母親の話を記録している。彼女は農場の納屋でつづけさまに暴行を受けた。身内の人たちが納屋にやってきて、赤ん坊が泣き止まないので、せめて授乳の時間をあたえてくれと頼んだ。こういったことがすべて警備本部のすぐ隣で、しかも軍紀維持に責任を負うはずの将校たちの見ているまえで、おこなわれていた。

 掠奪、強姦、無抵抗な民間人や子どもへの虐殺……。「ドイツにひどい目に遭わされたからその復讐」という気持ちもあっただろうが、それだけではない。ドイツ軍に捕らえられた捕虜や、ドイツに支配されていたポーランド人に対しても残虐の限りを尽くしている。

 ドイツが悪くないとは言わないが、負けず劣らずソ連もひどい。

 正しい戦争なんてないってことよね。戦場においてルールやモラルなんてかんたんに破られる。ルールを守っていたら死ぬから。正しいも悪いもない。戦場において兵士は基本的に悪をはたらく。あるのはばれるかばれないかだけ。勝てばもみ消せる。戦争の歴史は勝ったものの歴史だ。



 スターリンやヒトラー、およびその取り巻きたちの話も多いのだが、読んでいておもうのは「なんと命の軽いことか」ということ。

 ここに軍を投下、数万人が死ぬがしかたない、みたいな作戦の立て方をしている。将棋で歩兵を捨てるぐらいの感覚なんだろう。まあそれぐらい割り切ってないと軍略なんてできないのかもしれないが、「ちょっとタイミングがちがえば自分がその数万分の一の歩兵だったかもしれない」という想像力があればそんな作戦立てられないよな。想像力がないから戦争をできるのだ。


 この本では、命を落とし、家族を失い、レイプされ、生活のすべてを奪われる市民たちの姿と交互に、各陣営トップたちの「政治」の様子も描かれている。

 もはや大勢は決した。ドイツが負けるのはまちがいない。ソ連は英米より先にベルリンを落としたほうが戦後の世界情勢で有利に立ち回れる。なんとしてもベルリンを先に落とさねば。「祖国を守るため」の戦いならまだしも、政治のために命を賭けて戦わされる兵士たちが気の毒でならない。

 そしてドイツはドイツで、負けることはわかっているが、ひどいことをしたソ連に占領されるより英米の占領下におかれるほうがまだ有利に事が運びそうということで、政治的な目的で降伏を遅らせる。その間にも市民たちがばたばたと死んでいるのに、政治のほうが優先される。

 なんともやるせない話だ。国民が死ねば死ぬほど命の重さは軽くなってゆく。

 戦時国際法で、捕虜や民間人への攻撃などを禁止しているけど、あまり意味がない。そんなのより「戦争が起こったときは元首、総司令官が最前線に立つこと」というルールをひとつ設けるだけでいいとおもうよ。それだけで、残虐行為や無謀な作戦はきれいになくなるだろう。それどころか戦争そのものも。




『同志少女よ、敵を撃て』でも引用されていたけど、いちばん印象に残った文章。

 ドイツ国内に赤軍が攻めてきて市民たちが逃げまどっている列車での風景。

 翌日、ディーター・ボルコフスキという名の一六歳のベルリン市民が、アンハルター駅発の混雑したSバーン列車内で目撃した情景を描いている。「みんな顔に恐怖の色を浮かべていた。怒りと絶望がうずまいていた。あんな不平不満の声はいままで聞いたことがない。とつぜん、だれかが騒ぎに負けない大声でさけんだ。『静かに!』見ると、小柄なうすぎたない兵士で、鉄十字章二個とドイツ金十字章をつけていた。袖には金属製の戦車四個のついたバッジがあって、肉薄攻撃で戦車四両をしとめたことを物語っていた。『みなさんに言いたいことがある』と彼はさけび、車内は静まった。『おれの話なんぞ聞きたくもないだろうが、泣き言だけはやめてくれ。この戦争に勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ』。車内は針の落ちる音も聞こえるくらいしんと静まりかえった。

 戦争が泥沼化して終わるに終われなくなる理由が「もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」という一文に表れている。


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2024年11月21日木曜日

【読書感想文】大島 新 他『なぜ君は総理大臣になれないのか』 / 政治家になるのはおかしい人だけ

なぜ君は総理大臣になれないのか

大島新  『なぜ君』制作班

内容(e-honより)
人間は失敗する。政治家も失敗する。しかし失敗を認めて苦悩する政治家は少ない。より良い社会をつくろうと苦悩する人間は、権力を握れるのだろうか。コロナ禍の只中で異例のヒットを記録した小川淳也の17年を追ったドキュメンタリーそのシナリオを完全収録!

 2020年に『なぜ君は総理大臣になれないのか』という映画が公開され、ドキュメンタリー映画としては異例の3万人以上を動員し、さらには各種動画配信サービスでも公開されて大きな話題となった。

 わりと政治には関心を持っているぼくとしては「これは観ておいたほうがよさそうだな」とおもったものの、なにぶん長い映像作品を観るのが苦手で、ここ十年ぼくが映画を観るときはたいてい子どもと一緒だ。子どもが興味を持つテーマではないので「いつか退屈で退屈で死にそうになったら観ようかな……」リストに入ったままになっていた。

 そんな『なぜ君は総理大臣になれないのか』の書籍版があるということを知ったので、読んでみた。映画のシナリオ(って書いてるけどドキュメンタリー映画でシナリオって言っちゃうと筋書きがあるみたいにおもえるので「書き起こし」のほうがいいのでは?)を収録し、かつ映画に関する対談やコラムを掲載したものだ。


 映画を書き起こしで読むことにはメリットとデメリットがある。デメリットとしては、あたりまえだけど映像がないこと。語っている言葉以外の表情やしぐさや周囲の雰囲気がほとんどわからないこと。

 メリットは、映像がないこと。これはデメリットでもあるがデメリットでもある。特に今作のような政治を扱ったものであれば余計に。

 我々は、語られている内容だけでなく(ときにはそれ以上に)「誰が語っているか」を重視する。それも、顔の造形だとか着ているスーツだとかのような、本人の信頼性とは無関係の要素に大きく左右される。あの政治家やあの政治家が人気があったのは、他の政治家よりも見た目が良かったからだ。

 だからこそ『なぜ君は総理大臣になれないのか』をテキストだけで読むことには意味がある。

 読んだ感想としては、「この小川淳也さんという人はいいことを言っている。だが発現を読むかぎりでは群を抜いてすばらしいというほどではない。そのわりにはこの映画を観た人からは小川淳也さんはすごく高く評価されている。ということはきっと小川淳也さんは見た目が良くて話し方も誠実そうに見えるんだろう」だった。映像は正しくない情報も伝えてしまう。



 いやもちろん小川さんはすばらしい人なんだよ。少なくとも『なぜ君は総理大臣になれないのか』で描かれる小川さんは。

小川「何事もやっぱりゼロか100かじゃないんですよね。何事も51対49。でも結論は、出てきた結論は、ゼロか1に見えるんですよね。51対49で決まってることが。だから……」
大島「なるほど」
小川「政治っていうのは、やっぱり、勝った51が、よく言うんですよ。勝った51がどれだけ残りの49を背負うかと。勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま」

 これってあたりまえのことだよね。代議制における議員は全国民を代表している。中学校でも習うことだ。

 でもこれをほんとうに理解している国会議員がどれだけいるだろうか。まだ選挙で落ちた議員や野党議員は「負けたほうの意見も尊重しろ!」とおもっているかもしれないが、少なくとも与党議員の中には「負けた議員に投票した人たちの思いも背負って政治をしなければ」と考えている人はいないんじゃないだろうか。野党議員だって、自分たちが与党になったらそんな気持ちは忘れてしまうとおもう。小川淳也さんには、この気持ちをずっと忘れないでいてもらいたい。


 ぼくは小川淳也さんひとりに日本政治の未来を託すつもりはない。

 小川さんは今は立派なことを言っているが、この先どうなるかはわからない。今は腐った政治をしているあいつだってあいつだって、はじめて立候補したときは立派な信念を持っていたんじゃないだろうか。

 人は必ず変わる。どんな人だって道を踏み外すことはある。だから「小川淳也さんが総理大臣になれば日本は良くなる!」と考えている人がいるとすれば、それは大間違いだ。そんな人がたくさんいる限り政治は良くならない。どの党が政権をとるかとか、誰が総理大臣になるかなんてのは、小さな問題だ。我々は絶えず政治をコントロールしつづけれなければならない。




 この本を読んでいておもうのは「まともな人は政治家になれないし、総理大臣になれない」ということ。

 小川淳也さんの妻・明子さんに話を聞いているところ。

大島「娘たちは政治家になるのも嫌だけど、政治家の妻になるのも嫌だって」
明子「ああ、だろうね。はははははははは」
明子・八代田「(同時に)そりゃそうだよねえ」
明子「私もねえ、嫌だなあ。ははは。
 でもほんとねえ、これだけのことがあるって知ってたら、もうちょっと躊躇したね。たぶんね」
八代田「確かに、知らんもんね」
明子「分からないからね、知らないからね。まあ、やれるだけやろうみたいな感じで始まったけど。まあね、仕方ないっすね。ははははは」
大島「もう仕方ないよね」
明子「もう仕方ない」

 小川さんの妻も娘も、選挙に協力してくれている。選挙事務所に詰めて仕事をして、一緒に街頭に立つこともある。そんな人でも「政治家になりたくない」「政治家の妻になりたくない」と語る。それがふつうの感覚だ。ぼくだっていやだ。自分の家族が出馬するのもいやだし、落選するのもいやだし、当選するのもいやだ。市議だろうが市長だろうが代議士だろうが総理大臣だろうがいやだ。だってまちがいなくふつうの生活が奪われるんだもん。娘が皇室に入るのと同じくらいいやだ。

 何かやらかせば叩かれて、やらかさなくても非難されて、うまくやっていても周囲の人からは「政治家だからうまいことやってるんでしょうね」とおもわれる。ろくなことない。お金はそこそこ多く入ってくるけど、出ていくお金も多くて手元にはぜんぜん残らないと聞く。だいたい残ったところで立場上派手には使えないだろう。

 まともな人は政治家になんてなりたくない。どう考えたって報酬が労力に見合わない。政治家としてうまくやっていく才覚のある人なら、ビジネスの世界ではずっと多くのお金を稼げるだろう。非難されることも少ないし、自由に使える。どう考えたってそっちのほうがいい。みんな政治家なんてやりたくないからこそ代議制というシステムがあるのだろう。


 小川さんも語っているけど、政治家になる人なんておかしい人だけだ。または政治家の家に生まれ育った人。もちろんそれもおかしい人だ。

 小川さんだっておかしい。自分や家族の幸せを考えるなら、官僚を続けるか、ビジネスをやったほうがずっといい。

井手 僕はいろいろな政治家の方と接する機会があって、じつは、小川さんみたいに真っ直ぐな人がたくさんいるんだということを知っています。地方議員さんもそう。みなさんのまわりで一生懸命に汗をかいて頑張ってる人、大勢いますよ。それなのに政治に関わるとか、政治家を褒める、応援するってことがみなさんにとっては異様にハードルが高い。
 そう、この「敷居の高さ」がいやなんです。映画を観て強く感じるのは、あそこまで家族を巻き込んで、「選挙ってここまでやんなきゃいけないの?」っていうこと。
 僕、よく「選挙に出ろ」って言われるんですよ。昨日も朝イチで滋賀県に行って、地方議員さんを相手に講演して来たんです。終わった後にバーッと並ばれて、「先生、選挙出られませんか?」って言われちゃうわけですよ。「いやです」「いやです」って断るんですけど(笑)。
 それは第一に思想的なものだけど、それ以前に、うちには子どもが4人いて、生活のこと考えるとまずムリですよね。だって、この社会は僕が慶應大学の教授職)を辞めないと認めてくれないもの。慶應の先生をやりながら選挙に出た時点でもう、「背水の陣じゃないだろ」「あいつ、腰かけだ」って叩かれるでしょう。(会場に向かって)みなさんだって叩くでしょ?
 何もかも投げ捨てて、家族巻き込んで、娘も連れ合いも泣かして、ってやらないと政治家になれないという、恐ろしい現実がある。
 現実の政治に関わるのはもの凄くしんどい。でも、「じゃあ傍観してていいのか」と言うと、みんなそりゃいかんと思ってる。ここの突破口が見えて来ないんですよね。
大島 う~ん、わかりますね、それは。
 私は政治家と言ったら小川さんだけを知っているぐらいの感じで、あとはまあ、テレビ業界にいますので、報道の記者とかから個々の政治家の評判を聞くぐらいでしかないんですけれど、やっぱり、「なぜ私たちは君のような人を総理大臣にすることができないのか」ということも考えているんですね。「君のような人」というのは、必ずしも小川さんでなくてもいいのですが、井手先生もおっしゃられた、「ちゃんと真っ当で誠実で一生懸命やっている人」もいると。それは自民党にもいるかもしれないし、共産党にもいるかもしれない。
 でもやっぱり、既得権益もそうなんですけれども、そういった人たちを阻んでいるものがあるんですよね。選挙の問題も凄く大きくて、恐らく安倍さんとか麻生さんは、地元に1回も帰らなくても勝つわけじゃないですか。そういう政治家が一定数いるという状況の中で、野党の、特にバックボーンも何もない人たちは家族を巻き込んで、あそこまで辛い思いをさせてと言うか.......。

 選挙に出たいけど家族に猛反対されて出馬をあきらめる人も多いという。選挙に出るために離婚する人もいるそうだ。よほどの強い信念(というよりは妄執)を持っているか、議員であることからよほどの私益が得られる人だけだろう。

 おかしい人たちの中からまだマシなおかしい人を選ぶ場、それが選挙だ。




 さらに政治家になってからも、まともな人は党内で出世できない。

 鮫島浩さんの文章より。

 政党や内閣の重要ポストを歴任すると、「この人はいずれ党首となって、さらには総理大臣となるかもしれない」と期待する人が世の中に増え、政治献金も集まってきます。その資金を元手に「子分」の政治活動を支援したり、選挙を応援したりして、さらに「子分」を増やしていくのです。そして、いざ党首選挙となると、「派閥」の「子分」たちは「親分」が勝つように懸命に応援します。もちろん「親分」の政治理念や政策に共鳴して応援する「子分」もいますが、たいがいは「親分」が党首になって自分が重要ポストに抜擢される「見返り」を期待して応援するのです。資金力を増した「親分」から政治資金を援助してもらうことを期待して応援する「子分」もいます。かつて民主党代表を務めた小沢一郎氏は豊かな資金力大勢の「子分」を抱えていることで有名でした。民主党政権で総理大臣を担った鳩山由紀夫氏、菅直人氏、野田佳彦氏の3人も自らが率いる「派閥」を持ち、多くの「子分」がいました。
 もう、わかりますね。党首選に勝つためには、多くの国会議員を「子分」として従え、応援してもらわなければなりません。そのために数々の重要ポストを歴任して知名度や資金力をアップさせ、「子分」の人事や資金の面倒をみて、仲間を増やしていかなければならないのです。だから国会議員たちは連日のように仲間とともに「夜の街に繰り出して結束を固め、さらに仲間を増やすことを目指して昼夜、勧誘に励んでいるのです。そうして多くの国会議員たちに支えられる「強い政治基盤」をつくらなければ、党首選挙に勝つことはできません。党首にならなければ総理大臣にもなれません。まずは党内で「子分」を増やさなければ総理大臣への道のりは険しいのです。
 小川議員は幹事長や政調会長などの重職を担ったことはありません。資金力もさしてありません。その結果、小川議員を党首に担ごうとする「子分」はほとんどいません。それが厳しい現実です。本人が告白しているように「夜の街」も苦手です。仲間を増やすための「飲み会」もほとんどしません。そのうえ「フェアな政治」を掲げているため、仮に小川議員が党首になっても「仲間」を優遇する人事をしてくれるとは限りません。どんなに小川議員の人気が国民の間で急上昇しても、小川議員を党首に担ぐことにメリットを感じる国会議員の仲間が極めて少ないのです。

 たくさん金を集めて、自分の言うことを聞く「子分」には便宜を図ってやって、金を出した組織にも見返りを与えてやって、それによってより多くの金と子分を集めて……ということをやらないと党内でえらくなれない。

 構造的にそうなっている。国会での評決なんてほぼ記名投票だからね。信念に従って投票した議員は造反者なんて呼ばれて犯人探しをされるからね。


 つくづく異常な世界だよ、政界って。

 でも、そうやって距離を置いていたらますます政界が異常な世界になって、まともな人との距離が広がってゆき、二世三世と業界の利益代表者と異常者だけの世界になってしまう。

 だから何度も書いているけど、議員の数を増やしたらいいとおもうんだよね。「議員の数を減らせ!」って人もいるけどその逆。百倍にしたらいい。その代わり、給与も権限も百分の一。仕事の量も百分の一だから、兼業でもできる。会社員だって主婦だってフリーターだって片手間でできる。議会に集まる必要もないし。

 国会議員が何万人もいたら変に注目もされないので負担なくやれる。市議だって何千人、県議だって何千人。立候補だけでたりなければ裁判員みたいに抽選で選べばいい(これはやけくそで言ってるわけではなく「くじ引き民主主義」といういたってまじめな案だ。実現して成果を上げている国もある)。

 議員の重みを軽くしようぜ。PTA役員と同じぐらいに!


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2024年11月20日水曜日

小ネタ30 (ひざこぞう / 定規とものさし / 英語で)

ひざこぞう

 ひざこぞうとは言うがひじこぞうとは言わない。

 なんでだ。ひざよりひじのほうが小さくてかわいいだろ。

 こぞうはひじに譲って、ひざのことはひざ入道と呼ぶことにしよう。


定規とものさし

 定規とものさしの違いは、0と端の間にスペースがあるのが定規、端が0になっているのがものさしだそうだ。定規には「0を起点とする線を引きやすい」というメリットがあり、ものさしには「床や壁からの長さがはかりやすい」というメリットがあるそうだ。

 ふうん。たしかに定規では床や壁からの距離が測りにくい。

 それはしかたないんだけど、ぼくが常々おもっているのは「0と端の間にスペースがあってもいいんだけど、そのスペースをぴったり1cmにしておいてほしい」ということだ。そしたら、定規の端を床にぴったりつけて長さを測り、読み取った目盛りから1cmを足すだけで正確な長さが求められる。定規とものさしのいいとこどりだ。

 でもだいたいの定規は「0と端の間のスペース」が0.4cmとか半端な長さなんだよね。何か理由があるのかな。


英語で

「イヌは英語でドッグだ」と「ドッグは英語でイヌだ」は、どちらも同じ意味になる。

 前者の「だ」は「と呼ばれる」の意味であり、後者は「の意味」だ。



2024年11月15日金曜日

【読書感想文】山舩晃太郎『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』 / トレジャーハントは割に合わない

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う

山舩晃太郎

内容(e-honより)
最新技術を武器に、謎を追え!なぜか竜骨が見つからないクロアチアの輸送船、水深60mのエーゲ海に沈む沈没船群、ドブ川で2000年間眠り続けた古代ローマ船に、正体不明のカリブの“海賊船”。そしてミクロネシアの海に残る戦争遺跡。英語力ゼロで単身渡米、ハンバーガーさえ注文できずに心が折れた青年が、10年かけて憧れの水中考古学者になりました。深くて魅力的な海底世界へようこそ!

 著者は水中考古学者であるらしい。水中考古学とは何か。文字通り水中にもぐって沈没船を調査し、船の構造や積み荷から、昔の船について解き明かす学問らしい。へえ、そんなものがあるなんて。

 今でこそ船といえばレトロなイメージのある乗り物であるが、ロケットや飛行機が登場するほんの百数十年前までは船は最先端の乗り物だった。つまり当時の科学技術の粋が船に詰めこまれていたわけで、船を調べればかつて存在していた文明についてもいろいろわかるらしい。

 また水中は酸素が少ないし人や獣が来ないこともあって、泥をかぶったりした場合、何百年も前の船がつい先日沈んだかのような保存状態で見つかることもあるそうだ。

 陸上では何百年も残り続けるのは石造りの建造物ぐらいだが、水中では木造船でもそのままの形で残ることがあるので、考古学の世界では水中は貴重な資料の宝庫であるそうだ。


 このようにめずらしい世界に情熱を捧げる研究者が書いた本。こんなのおもしろくないわけがない! と読みはじめたのだが……。

 あれっ、どうもおもしろくないな……。いや決してつまらないわけじゃないのだが。でもこんなわくわくする題材を扱っているのに、なーんか地味なんだよな。

 著者が「どう、これおもしろいでしょ!」と書いてるとこと、我々ド素人読者が「こういう話を読みたい!」とおもうことにだいぶズレがあるんだよな。詳しい調査方法や水中考古学的にすごい技術を知りたいわけじゃなくて「こんな危ないことがあったぜ」とか「水中調査にはこんな苦労があるぜ」とか「こんなおもしろこぼれ話があるぜ」ってのを読みたいわけで。

 これは著者というより編集者の腕によるものだろうな。研究者がおもしろがるポイントなんてだいたいふつうの人とはちがうんだから、そのまま書かせたっておもしろくならない(中にはめちゃくちゃおもしろい文章を書く研究者もいるけど)。編集者が「そこは一般の人が知りたがるとこなんで詳しく!」とか「ここはもっと短くてもいいとおもいます」とか一般人の感覚に近づくように導いていればなあ。

 今まで、ダニの研究者とか、アフリカでバッタを追いかけてる人とか、カラスの研究してる人とか、キリンの解剖してる人とか、いろんな研究者の本を読んできたけど、ほぼハズレなくおもしろかった。だから「何の役に立つんだかわからない変わった研究をしている人の本はおもしろい」というイメージがあったんだけど、それは編集者の(もちろん著者のも)いい仕事があったからなんだなあ。



 沈没船なんてふつうに生きていたら目にする機会もないし、聞くことも耳にすることもない。2022年に知床で遊覧船の沈没事故が起こり、大ニュースになった。大きなニュースになるぐらいだからめったに起こらないんだろうとおもってしまう。

 ところが、沈没船は我々が想像するよりずっと多く眠っているらしい。

 ユネスコは少なく見積もっても、世界中には「100年以上前に沈没し」、「水中文化遺産となる沈没船」が300万隻は沈んでいるとの指標を出している。
 300万隻という数は一見多いように感じるかもしれない。だが、天気予報や水中レーダー、海図や造船の技術が格段に進んだ現代の日本でも、転覆や沈没といった海難事故は毎年100件以上起きている。このペースが過去1000年変わらなかったとしたら日本単独でも10万隻もの沈没船があった計算になる。
 つまり、ギリシャの島の周辺から58隻見つかったのは不思議でもなんでもない。むしろ少ないくらいだ。大量の沈没船が、まだまだ手付かずのまま世界中の海に眠っているのだ!

「100年以上前に沈没」「水中文化遺産となる沈没船」だけで300万隻! 第二次世界大戦などで沈んだ船は100年以内なのでそこに含んでいないし、小さいイカダなんかは含んでいないんだろう。

 しかも船が沈没するのは離着岸のタイミングが多い(飛行機といっしょだね)ので、陸地に近いところに沈んでいることが多いそうだ。そう考えると、近海は沈没船だらけだ。なんか夢があるな。

 ちなみに積み荷を狙うトレジャーハンターは水中考古学者の敵なんだそうです。そのへんは陸も海もいっしょだね。

 巻末に収録されている丸山ゴンザレスさんの話がおもしろくて、沈没船ハンターもいるけど、盗掘にかかる費用が大きくて割にあわないので、最近はそういうやつらは「沈没船からお宝を手に入れてくるから出資してくれ」という詐欺のほうにシフトしているそうだ。へえ。「沈没船が儲かる」という話を聞いたら要注意だね。




 考古学者というと地道な作業をする人、という印象なのだが、水中考古学者はもっと地道でしんどそうだ。

 今でこそ私はフォトグラメトリを使って水中遺跡の記録作業を行っているが、この頃はまだ手作業で実測図を制作していた。
 使用する道具は紙と鉛筆。ただ、水中で使用する紙は、半透明のプラスチック製の合成紙である。これをプラスチック板にテープで張り付ける。決して木製の板は使わない。もし手を離したら、どこかに流れていってしまうからだ。金属だと錆びてしまうので、重めのプラスチック板が最適なのである。文字を書くのは、普通の鉛筆だ。鉛筆の芯は黒鉛で、水中でもしっかりと文字を書くことができる。
 とはいえ、水中では細かい文字や、詳細なスケッチはできないと考えてもらいたい。寒さ対策で分厚いグローブを着けているのと、やはり冷たくて手の感覚が無くなっているのに加え、紙は板で押さえているものの、その板を流れに抗い持つのは片手だけなので、水中で物を書くとどうしてもブレブレになってしまう。
(中略)
 水中から上がると、記号や数字をすぐに手帳かノートに書き写す。水中で書いた文字は読みにくいことが多いので、記憶が確かなうちに書き写しておかなければならない。数時間経つと自分が何を書いたかも分からなくなるぐらい、水中で書いた情報は酷いのだ。冷たいステラ川でのようなプロジェクトではなおさらだ。水の冷たさで、神経がマヒしてしまい、指先の感覚は完全になくなる。作業を開始して60分を過ぎた頃になると、いよいよ指も動かなくなるほどだった。こうなっては鉛筆を握ることもできないので、作業終了だ。
 アパートに戻ると、ノートに書き写された数字を基に、広げた方眼紙に正確な寸法で沈没船の船体を描き出していく。これが実測図の下書きとなり、完成した後にさらに清書するのだ。

 冷たい水中にじっと潜って、ひたすらスケッチをする。きつい。

 水中だと写真もうまく撮れず、対象物の長さを測るだけでも一苦労(陸上みたいにものさしやメジャーが使えないからね)。

 これは一例で、水中だと何をやるにも大変そうだ。だからこそ、手つかずのまま残っていることが多いんだろうけど。

 割に合わないとトレジャーハンターが投げ出すのもわかるなあ。


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2024年11月12日火曜日

【読書感想文】浅倉秋成『九度目の十八歳を迎えた君と』 / 若さも恋も人を狂わせる

 九度目の十八歳を迎えた君と

浅倉秋成

内容(e-honより)
いつもより遅めの通勤途中、僕は駅のホームで偶然、高校の同級生・二和美咲の姿を目撃した。他人の空似ではなく、十八歳のままの彼女を―。誰も不思議に感じないようだが、彼女に恋していた僕だけが違和感を拭えない。彼女が十八歳に留まる原因は最初の高校三年生の日日にある?僕は友人や恩師を訪ね、調べ始めた。注目の俊英が贈る、ファンタスティックな追憶のミステリ。

 社会人の主人公は、たまたま駅のホームで高校生のときに好きだった女の子を見かける。なぜか彼女は高校生のまま歳をとっておらず、以前と同じように高校に通っていた。
 だが周囲は誰もそれを疑問におもっておらず、当然のように接している。歳をとらない人なんているはずないと言っていた人も、彼女の姿を見たとたん「いろんな人がいますから歳をとらない人もいるでしょう」なんてことを言いだす。

 なぜ彼女は歳をとらないのか、なぜ周囲はそれを疑問におもわないのか、そしてなぜ主人公だけが疑問におもうのか……。


「誰にでも平等であるはずの年齢が平等でなくなったらどんなことが起こるか?」という非現実的な謎を追い求めるSFミステリ。謎自体が超常現象なので、当然ながらその答えは著者の頭の中にしかなく、万人が納得のできる答えなんてのはないに決まっている。

 無理のある設定だからこそ作家としてのほら吹きの才能が試される。よくできたほら話を広げてくれれば「なるほどね。この設定ならこれが答えになるか」とおもえるし、そうでないならまったくもって納得のいかない種明かしになる。

 で、この作品はどうだったかというと……。

 うーん、まあ、ぎりぎりありかな、という感想。「なぜ歳をとらないのか」というおもいきった設定にしては、解が“弱い”。彼女と同じような思いを抱えた人なんていくらでもいるわけで、その中で彼女だけが高校生活をくりかえすことに対する理由にはなっていなかったな。



 ミステリとしてはパワー不足だったが、青春小説としては悪くなかった。

 なにしろ高校時代の主人公は、好きな異性にふりむいてもらうために「ひとりでプラモデルを作り続けて部室をプラモデルでいっぱいにする」という計画を立てて実行するのだ。あほだ!

 でも、ぼくもこれに近いことはいろいろやっていた。なんとかして接点をつくろうと、意味なく好きな子のまわりをうろうろしたり。変なことをしてたらあの子に話しかけてもらえてそれを機にお近づきになれるんじゃないかと考えたり。冷静に考えれば、まわりをうろうろしているからって好きになるわけないのに。

 ふつうに考えれば、部室をプラモデルで埋めつくすよりも、話しかけるほうが百倍効果的だ。はるかにかんたんだし。でも、そのときは「一瞬勇気を出して話しかける」よりも「半年かけてプラモデルを作りつづける」ほうがかんたんで効果的だとおもっちゃうんだよねえ。若さも恋も人を狂わせるので、若いときの恋ときたら人をとんでもない行動に駆りたててしまう。


 主人公の行動を読んでいると、若い頃のからまわりを思いだしてほろ苦い気持ちになった。今となっては青春時代はただただ美しい思い出になっているけど、それだけじゃない苦い記憶もたくさんあったことを思いださせてくれた。ありがとうこんちくしょう。


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2024年11月8日金曜日

【読書感想文】逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』 / どこをとっても一級品

同志少女よ、敵を撃て

逢坂冬馬

内容(e-honより)
1942年、独ソ戦のさなか、モスクワ近郊の村に住む狩りの名手セラフィマの暮らしは、ドイツ軍の襲撃により突如奪われる。母を殺され、復讐を誓った彼女は、女性狙撃小隊の一員となりスターリングラードの前線へ──。第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作。

 ソ連の小さな村で母と一緒に猟師として暮らしていたセラフィマ。ある日、村にドイツ軍がやってきて母親を含め村民全員が殺されてしまう。

 ソ連の赤軍に救われたセラフィマだが、赤軍に村を焼かれたことで赤軍兵士に対しても怒りを覚える。生きる意味を失ったセラフィマだったが、母を殺したドイツ軍と、村を焼いた赤軍女性兵士のイリーナに復讐をするため、赤軍の狙撃訓練学校に入ることになる。厳しい訓練、仲間の裏切りなどを経て兵士となったセラフィマたちは前線に向かうが、そこは地獄だった……。



 いやいや、とんでもない小説だった。各所で『同志少女よ、敵を撃て』はすばらしいと絶賛する声を聞いたので期待して読んだのだが、期待を裏切らない、いや期待をはるかに上回る小説だった。まちがいなく今年読んだ本の中でナンバーワン。

 難しい題材だとおもうんだよね。独ソ戦で戦った女性兵士の物語って。はっきり言って多くの日本人にとってはまるでなじみのない題材だ。ぼくも少し前にスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』を読むまでは、ソ連では女兵士も最前線で戦っていたということすら知らなかった。

 だが「復讐を誓った少女が厳しい訓練と過酷な戦闘を経て成長し、裏切りや仲間の死によって傷つき、それでも強い敵を倒すために戦う」という王道少年漫画のようなストーリーによってとんでもなく惹きつける。

 ぼくは通勤途中の電車の中でこの本を読んでたんだけど、何度か乗り過ごしそうになったからね。それぐらい夢中にさせる筆力がある。

 そして王道少年漫画とちがうのは、主人公がずっと戦う意味を探していること。愛する人たちの敵討ちだったり、祖国を守るためだったり、仲間との約束だったり、純粋に狙撃が楽しかったり、いろいろ意味を付与するのだけれど、どれもしっくりこない。どれだけ成長しても、どれだけ敵兵を倒しても、かえって求める答えからは遠ざかっていく。

 少年漫画だと全面的に悪い敵がいるわけだけど、もちろん現実の戦争にそんなやつはいない。ヒトラーひとりに罪を押しつけて済む話ではない。敵にもいいやつはいるし、仲間にも悪いやつはいる。ナチスドイツは残虐なことをしたけれど、兵士や市民は家族を愛するふつうの人間だったりする。平和を守るために戦っていたソ連兵も、無抵抗の民間人や女性に暴行をはたらいたりする。


 ただ一度、「なぜ赤軍は戦うか」という議題の最中、次々と生徒たちが自らの思う動機を語り始めたとき、イリーナはそれを遮って、訓示めいた口調でこう言った。「個々の思いを否定はしないが、その気持ちで狙撃に向かえば死ぬ。動機を階層化しろ」
 イリーナによれば、「侵略者を倒せ」だの「ファシストを駆逐しろ」だのの動機は重要であるが、個人の心中にとどめておき、戦場へ行くまでの、動機の起点とすべきものなのだ。「いざ戦地に赴き、敵を撃つとき、お前たちは何も思うな。何も考えるな。……考えるな、と考えてはいけない。ただ純粋に技術に身を置き、何も感じずに敵を撃て。そして起点へと戻ってこい。侵略者を倒し、ファシストを駆逐するために戦っているという意識へ」
 生徒たちはその答えを難解と思い、困惑していた。
 ただ、セラフィマは、提示されたその考えを、まるであらかじめ知っていたかのように、何の違和感も持たずに受け取ることができた。自分とイリーナの間に、ある種の共通点があるようで気味が悪かった。

 なぜ戦うか。おそらく答えはないし、考えるだけ無駄なのだろう。デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によると、多くの兵士は、十分な訓練を受けていたとしても、いざ戦地に行くと大半は相手を殺すことができないのだという。銃を撃てない、撃ったとしても無意識に外してしまう。それぐらい人を殺すことへの忌避感は強い。おそらく、戦う意味を考えれば考えるほど優秀な兵士からは遠ざかる。

 だが考えてしまう。なぜなら兵士とて人間だから。激しい戦闘が終われば飯を食い、睡眠をとり、仲間と話し、人間として生きることになるから。

 そこで葛藤が生まれる。『同志少女よ、敵を撃て』に出てくる兵士たちはみな答えを探している。百戦錬磨の兵士も答えを探し求めている。一切の迷いがないかのように次々に敵を殺す兵士は、その迷いのなさが原因で命を落とす。

 戦わないといけない理由なんてないんだろう。でも戦わないわけにはいかない。この小説には、敵前逃亡を図ったために味方から銃殺される兵士が描かれる。ソ連もドイツも同じ。ほとんどの人は戦いたくないのだから、それでも戦闘に向かわせるには「逃げたら殺される」とおもわせるしかない。殺さなきゃ殺される、だから殺す、だから敵もこちらを殺す。殺されないために。戦闘が戦闘を呼び、暴行が暴行を呼び、復讐が復讐を呼ぶ。

 自分でも理解不可能な感情が胸の内に渦巻いた。
 イワノフスカヤ村にいたとき、自分は人を殺せないと、疑いもなく思っていた。それが今や殺した数を誇っている。そうであれとイリーナが、軍が、国が言う。けれどもそのように行動すればするほど、自分はかつての自分から遠ざかる。
 自分を支えていた原理は今どこにあるのか。
 それは、そっくりそのままソ連赤軍のものと入れ替わったのか。
 自分が怪物に近づいてゆくという実感が確かにあった。
 しかし、怪物でなければこの戦いを生き延びることはできないのだ。


 今、パレスチナで戦争が起こっている。ニュースで観た映像で、イスラエル人のばあさんが「ムスリムの連中は皆殺しにしないといけない。女も子どもも関係ない。一人も残してはいけない」と語っていた。

 テレビで観ていたぼくはドン引き。えええ……。兵士を憎むならまだわかるが、子どもまで殺せって頭おかしいのかよ……、と。

 じっさい、そのばあさんは頭がおかしいのだ。その人だって、他の地域で暮らしていたなら、子どもまで皆殺しにしろなんておもいもしなかっただろう。でもきっと、身内を殺されたり、死ぬほどつらいおもいをさせられたり、あるいはそういう人に教育されたせいで、敵国の人間は子どもであっても殺していいと考えるようになったのだ。

 その映像を観たとき、ああもうこの戦争を理性で止めることはできないだろうなとおもった。戦争によっておかしくなった人たちとおかしくなった人たちが戦っているのだ。「これ以上続けても被害が増えるだけだから損ですよ」とか「ここで止めたらこんなメリットがありますよ」なんて言っても、止まれないだろう。

 どっちかが戦えなくなるまでやるんだろうな。敵味方ともに大量に人が死ぬことがわかっていても。悲しいけれど。



 物語の説得力がすごい。

 銃の説明、訓練とスキルアップの経過、戦闘の描写、内心の揺れ動き、戦況の説明。小説だとはわかっていても史実を見ているような気になる。

 なんでもこれが著者のデビュー作なんだとか。なんと。その才能と丁寧な仕事ぶりに圧倒される。


 話に説得力があるので、セラフィマの心情の変遷を追体験しているような気になる。冒頭で故郷の村人が皆殺しにされるシーンでは「なんでひどいことをするんだ」とおもっていたのに、セラフィマが厳しい訓練を経てドイツ軍と戦闘をするシーンでは「やっちまえ、ドイツ軍を全員殺してやれ」という気持ちになる。これこそが兵士の偽りのない心境なんだろう。どんなに戦いなんて無意味だとおもっていても、実際に戦地に赴き、共に笑いあった仲間が次々に殺されてゆく状況になれば「敵を殺さないと」という気になる。とても「ラブ&ピース!」なんて気持ちにはなれない。

 そんな「いけ! 撃て!」と考えている自分に気づき、己の中にも好戦性があることに直面させられる。そりゃあ戦争はなくならんわな。



 少女の成長冒険小説として読んでも、戦記物としても、女同士の友情物語としても、超一級品のすごい小説。

 だけど、気になるのは優れたミステリ作品を選ぶアガサ・クリスティー賞を受賞していること。もちろんミステリにはいろんなジャンルがあることは知っているけど、これは広義のミステリにも含まれないんじゃないだろうか……。何が謎なんだろう。教官・イリーナの思惑? でもそれはだいたい想像つくしな……。


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2024年11月6日水曜日

【芸能鑑賞】『最強新コンビ決定戦 THEゴールデンコンビ』

最強新コンビ決定戦
THEゴールデンコンビ

(Amazon Prime)

内容(Amazon Primeより)
MC千鳥!即興コントで一番面白い新コンビが決まる最強新コンビ決定戦開幕! M-1王者/KOCチャンピオンなど、人気・実力を兼ね備えた16名の芸人が、この番組でしか見られない8組のオリジナルコンビを結成。 挑むのは、地下から迫り上がってくるダイナミックなステージと難攻不落のお題!さらには、容赦ないムチャぶりで追い込む超豪華タレントの刺客が! 全8ステージで、200人の観客が「最も面白くないコンビ」に投票。各ステージ1組が脱落していく超過酷な最強新コンビ決定戦! 即興コントが最も面白い新コンビ、”ゴールデンコンビ”に輝き、賞金1000万円を手にするのは!?

 

(勝敗に関するネタバレを含みます。ネタの内容についてはなるべく具体的に書かないようにしています)


2024年10月28日月曜日

【読書感想文】鈴木賢志(編訳)『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』 / 学部ゼミなんてこの程度のレベルだよね

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む

日本の大学生は何を感じたのか

ヨーラン・スバネリッド(原著) 鈴木賢志(編訳)
明治大学国際日本学部鈴木ゼミ(編訳)

内容(e-honより)
投票率85.8%の国では、小学生に何を教えているのか。スウェーデンの社会科の教科書に書かれてある内容、あなたの感想は?

 スウェーデンでは国政選挙の投票率が80%を超えているという。なぜスウェーデン国民は政治参加への意識が強いのか。その謎を探るべく、スウェーデンの小学校(厳密には日本の小学校相当)の社会科の教科書を読むという大学のゼミの様子を収めた本。


 うーん、試みはおもしろいんだけど、このゼミのレベルはひどいわ……。

 学生たちがあまりに教授の誘導に乗りすぎている。きっとこの学生たちはみんなそこそこ賢いのだろう。だから「教授が求めている感想」を的確に判断して、きちんとそれを述べている。うん、お利口だね。

 だけど自分で調べようというほどの熱意はない。ま、専門以外のゼミなんてそんなもんだよね。ごくごくふつうのゼミだとはおもうけど、そこで語られていることには本にするほどの価値はない。

 学生たちはみんな「大学生になってから読んだ現在のスウェーデンの教科書」と「自分が小学生のときに読んだ昔の日本の教科書のおぼろげな記憶」を比較してあれこれ語っている。あたりまえだけど、そんな比較になんの意味もない。


 たとえば、スウェーデンの教科書には「なぜ歴史を学ばないといけないのか」が書いてあるんだけど、それを読んだ学生が「すごいよね。日本の教科書では歴史を学ぶ意義みたいなものは教えないよね」なんて語っている。

 んなわけあるかい。歴史の教科書には、必ず歴史を学ぶ意義が書いてある。少なくとも今までぼくが使ってきた教科書はみんなそうだった。

 きっとこの学生の教科書にも書いてあっただろう。ただ忘れているだけ。なぜなら序文なんてほとんどの授業で扱わないし、テストにも出ないから。

 ほんとにやるべきなのは、今の日本の教科書を改めてじっくり読んでみて、その上でスウェーデンの教科書と比較することだろう。今の教科書なんてそのへんの図書館に行けばかんたんに閲覧できる。かんたんなことなのに、誰もやっていない。

 まあこれは学生じゃなくて指導教官の問題なんだけど。


 そもそもなんだけどさ。「小学生がまじめに教科書を読むはずがない」という視点がごっそり抜け落ちている。自分たちがそうだったくせに。

 教科書の序文なんか読まない。本文もほとんど読まない。読んだとしても、そこから何かを読み取ろうとはしない。読み取ったとしてもすぐに忘れてしまう。

 小学生ってそんなもんでしょ。現に、自分たちは小学五年生の社会の教科書に何が書いてあったかなんてまるっきりおぼえてないわけじゃない。それがあたりまえ。

 なのに、なぜ「スウェーデンの小学生は教科書を隅から隅まで熱心に読み、そこに書かれていることを完全に理解し、それを己の血肉とし、大人になった後も教科書に書かれていたことを基に社会とのかかわり方を決定している」とおもえるのか


「小学校の社会の教科書が社会思想を育んでいる」という前提そのものがまちがっている。まったく関係ないとは言わないけど、それよりは教師がどんな話をしているかとか、家庭内で親がどんな話をしたかとか、テレビやネットでどんなことを語っているかとか、身近な大人がどんな行動をしているかとかのほうがずっと大事だろう。

 人は教科書のみで学ぶわけにあらず。

「スウェーデンの政治参加率が高いのは学校教育、教科書が優れているからだ」という結論が先にあって、それに合うストーリーを作っているだけなんだよね。




 ということで、ゼミで話し合った内容の部分は途中から読むのをやめた。学生たち、ひたすら先生が喜びそうなことをしゃべってるだけなんだもん。


 しかしスウェーデンの教科書の内容自体はおもしろかった。

 ぼくが感じたのは「スウェーデンの教科書はずいぶんあけすけだな」ということ。ぼくも現在の日本の教科書をじっくり読んだわけじゃないから比較はできないけど。

 でも「議員は当選するために行動する」なんて書いてあるのはおもしろい。こんなことは誰しもが知っているけれど、日本だとなかなか書けないよね(書いてある教科書があったらごめんね)。


 また、メディアとの接し方でいえば「どうやってメディアの情報を受け取るべきか」は習ったことがあるけど「どうやって情報を発信していくか」は学校で習った記憶がない。

 これもスウェーデンの教科書ではしっかり書かれている。

 メディアが、あなたやあなたの価値観、そしてあなたの意見に影響を与えるのと同じように、あなたも自分のためにメディアを利用することができます。
 たとえば、学校のカフェや自由時間の遊び場が閉鎖されないように、あなたが誰かに影響を与えるためには「サポート」が必要です。そのような決定にうまく影響を与えるためには、なるべく多くの人々から賛同を得なくてはいけません。
 通例、このことを「世論を形成する」と言います。もし、あなたがオピニオンリーダーとなれれば、より多くの人々があなたの考えを支持するようになるでしょう。
 以下に、あなたが世論を形成し、それによって決定に影響を与えるためのコツを示しておきます。
 
 • あなたの友人や親類から、署名による支援を集めましょう。
 • 地方の新聞に投書しましょう。
 • フェイスブックでグループをつくりましょう。
 • 人々を集めてデモを行いましょう。
 • 責任者の政治家に、直接連絡を取りましょう。

 おもしろいなあ。ウェブやSNSで情報発信をしやすくなった現在だからこそ、受け取り方と同じぐらい発信の仕方も重要だもんね。

 しかし「フェイスブックでグループをつくりましょう」「デモを行いましょう」なんて、学校側は嫌がりそうだよなあ。

 だって、学生たちがおかしなことに対して批判の声を上げだしたら、真っ先に矛先が向かうのは学校であり教師だもんな。




 この課題もおもしろい。

 ある日、あなたは学校で「モナーカディエン」という独裁国家についてのテレビ番組を見ます。あなたの役目は、「モナーカディエン」を、より民主的にするために三つの分野を選ぶことです。
 以下の法律や規則のなかから三つを選び、この国がより民主的になるように、それらを変えましょう。あなたがなぜその三つを選んだのか、その理由をはっきりとさせておきましょう。あなたが行う三つの変更は、どのように人々の生活を変えることになるのかについて説明をしましょう。
 
 【モナーカディエンの法律と規則】
 • 選挙は一〇年おきに実施する。
 • 投票できる政党は一つしかない。
 • 国は、独裁政党の党首でもある国王によって統治されている。
 • 国内には監視カメラがたくさんある。
 • 国内では、他人の電話を盗聴したり、他人のメールやSMSを読むことが認められている。
 • 国王や独裁政党を批判した者は、重罰を受ける。
 • 独裁政党の党員のみが外国を旅行する特権が得られる。
 • 選挙において党員は一〇票、その他の者は一票の投票権がある。
 • 独裁政党は、インターネット上で何が書かれているかを監視している。
 • あらゆるデモは禁止されている。

 単に独裁制はよくないと書くだけでなく、独裁制を敷くためには何が必要か、独裁制に対抗するためには何が必要かを考える機会を与えてくれる、いい思考実験だ。

 もっとも、スウェーデンの子どもたちがこれを読んでじっくり考えているかどうかは知らないけど(たぶん考えてない)。


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2024年10月23日水曜日

【映画感想】『ふれる。』

 ふれる。

内容(公式HPより)
同じ島で育った幼馴染、秋と諒と優太。東京・高田馬場で共同生活を始めた三人は20歳になった現在でも親友同士。それは島から連れてきた不思議な生き物「ふれる」が持つテレパシーにも似た力で趣味も性格も違う彼らを結び付けていたからだ。お互いの身体に触れ合えば心の声が聴こえてくる- それは誰にも知られていない三人だけの秘密。しかし、ある事件がきっかけとなり、秋、諒、優太は、「ふれる」の力を通じて伝えたはずの心の声が聴こえないことに気づく。「ふれる」に隠されたもう一つの力が徐々に明らかになるにつれ、三人の友情は大きく揺れ動いていく-


 YOASOBIのファンである娘が、「YOASOBIが主題歌を歌っている映画を観てみたい」と言うので、主題歌以外前情報はまったくない状態で鑑賞。


 以下、ネタバレを含みます。

 謎の生物“ふれる”と出会った三人の少年。“ふれる”が近くにいると、身体を触れ合わせることで言葉を交わさずとも互いの心の中を伝えあえるようになる。この能力のおかげで三人は隠し事のない親友となり、やがて青年となった三人は“ふれる”とともに東京で同居生活を送ることになる。順調な三人暮らしだったが、女性の同居人を迎えたことでお互いの考えていることがうまく伝わらないことが増え……。


 うーん、最近よくあるアニメ映画って感じだなあ。ファンタジー設定はいいとして、後半は世界が崩れて主人公が内面世界へ吸い込まれる。で、変な世界で変な冒険をして、心情を叫んで、収束。

 なんで最近のオリジナルアニメ映画作品ってみんなこんな感じなんだ。何匹目のドジョウを狙ってるんだろう。


 それでも登場人物やストーリーが魅力的ならいいんだけど、『ふれる。』に関しては、登場人物のほとんどに共感できなかった。嫌なやつばっかり。

 他人とうまく話せなくて、もどかしくなるといきなり暴力に訴える主人公。

 女の子とキスをして、それをすぐ誇らしげに友人に語り、さらに交際記念サプライズパーティーとやらを勝手に開く男と、女のほうに付き合う気はないとわかると女を責めたてるその友人。

 ストーカーに追われているからといって、住人の一人が露骨に嫌がっているにも関わらずシェアハウスに強引に住みつき、さらに「この時間帯は洗面所に入らないように!」と身勝手ルールを作る女たち(個人的にはこれがいちばん嫌だった。ぼくだったらこんなことされたらどんな美人でも嫌いになる)。

 営業時間外の店(飲み物だけのバー)に入ってきて、店員のまかない飯を勝手に食う老人(それがなんと有名レストランのオーナーという無茶苦茶な設定)。

 全員嫌なヤツ。まともなのはバーのオーナーと島の先生ぐらい。“ふれる”はべつにかわいくないし、不気味さもないし、中途半端な造形だったな。

 まあ嫌なヤツが嫌なヤツと惚れたはれたをやってるのはお似合いだからいいんだけど、勝手にしろという以上の感想は出てこない。うまくいこうがフラれようがどうでもいい。

 で、ストーカーにつきまとわれているという理由で転がりこんできたくせに、女がひとりで夜道を歩いて案の定ストーカーに遭遇する。まあそうだろうね。あまりに予定調和的で、ストーリーを進めるために襲われただけにしか見えない。


 で、そのへんからいざこざがあって、“ふれる”が単に心を伝えるだけでなく悪意やいさかいの種をフィルタリングしていることが判明。このへんはちょっとおもしろくなりそうだったのに、主人公たちは内面世界へ連れていかれてしまう。あーあ、現実世界でうまく解決する方法を思いつかなくて内面世界へと逃げちゃったんだな。はっきり言って手抜きだよなあ、こういう演出。困ったら異次元をさまよわせとけばいいとおもってるんだろうな。

 そして伝えられるメッセージが「軋轢を恐れずにちゃんと言葉にして伝えるのが大事だよね」なんだけど、安易に登場人物たちを内面世界に飛ばしといてそれを言うのかよ。制作者が観客との対話から逃げてるじゃん。

 終盤は、登場人物たちがべらべら内面を吐露しはじめる。ダサいことこの上ない。打算なく己の心の中を素直にぶちまけるやつを見たことあるか? 行動や表情で感情を表現することができないから、内面の吐露をやらせちゃうんだろうな。人間はみんな正直な感情を言葉に出して伝えることができないからこそ、“ふれる”が価値を持つんじゃないの?


 ……と悪口ばかり書いてしまったけど、本当のところはそこまで悪い映画ではなかった(登場人物がみんな嫌なやつなのは本当だけど)。

 細かいところがいろいろ気になっただけで、大筋としては悪くない。ただ、ほんとに「悪くない」というレベルで、この映画にしかない要素は特になかった。


 ただやっぱり細部が雑なんだよなあ。

 二十歳ぐらいの男三人がいて、エロいことに関する考えがまったくないこと。考えていることがそのまま伝わってしまうなら、エロばっかりになってしまいそうなもんだけど。それも“ふれる。”のフィルター? “ふれる。”は争いの種とエロをフィルタリングするのか? YouTubeかよ。

 離島とはいえそこそこ人口がいたし、同年代の女の子も描かれている。島でも恋愛はあっただろうに、そこで“ふれる。”フィルターは発動しなかったのか? 発動していたらそれでフィルターの存在に気づきそうなもんだけどな。

 これまで十数年心を通わせてきた三人なのに、フィルターの存在にまったく気づかなかったってのはだいぶ無理がある設定だ。

あらすじに“三人は20歳になった現在でも親友同士。それは島から連れてきた不思議な生き物「ふれる」が持つテレパシーにも似た力で趣味も性格も違う彼らを結び付けていたからだ。”とあるけれど、ほんとにこれがすべてなんだろうな。映画内では省略したっていいけれど、制作側は「十数年の背景」を考えておく必要がある。けれどそれをしていない。だからあちこちほころびが生じる。


 表面上はそれなりにうまくまとまっているけれど、骨のない作品だった。


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2024年10月21日月曜日

【読書感想文】和田靜香・小川淳也『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた。』 / こんなインタビュアーにも真摯に向き合わなきゃいけないなんて国会議員も大変だ

時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた。

和田靜香(著)  小川淳也(取材協力)

内容(e-honより)
息が詰まるほど苦しい生活が続くのは「私のせい」? まったくの政治シロウトで50代のフリーランスライターが、映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』の国会議員・小川淳也さんに政治の疑問と怒りについて直接問答した365日。話題の一冊にあらたな対談「私たちは敵対してしまった」を加筆して文庫化。誰もが政治参加できると実感できる必読の書!

 小川淳也という衆議院議員がいる。『なぜ君は総理大臣になれないのか』というドキュメンタリー映画の主人公になった人なので、野党議員の中では党首クラスを除けばそうとう有名なほうの議員である(ちなみにぼくはまだ『なぜ君は総理大臣になれないのか』は観てない。気にはなっている)。


 その小川淳也氏に、政治については素人に近い(政治の素人ってのも変な言い方だけど)フリーのライターである著者が、あれこれと意見をぶつけて議論を闘わせた本。

 なのだが……。

 著者のレベルがあまりにも低い。

 いや、政治の知識が乏しいことはべつにいいんだよ。政治は誰にでも関係のあることだから、政治の知識が乏しい人でも積極的に参加すべきだ。だから「あまり知識のない人代表」として政治家に意見をぶつけにいくというスタンスはすごくいい。

 ただなあ。知的謙虚さがまるでないんだよな。視野の狭さというか。

 たとえば、小川さんとベーシックインカムの話をしていて。

「国民ひとりあたり一人七万円を支給する。誰が必要か不必要か判断するのにはコストもかかるし不正する人もいるので、誰であれ一人につき七万円を支給する」という案を提示した小川さんに対し、著者は、自分は単身世帯でいろいろ割高だから、単身世帯だけは一人十万円にしてほしいと主張する。

 小川さんは反対。そうやって差をつけると、我も我もと増額を主張するので、余計なコストがかかるし不正の温床になる。だからとにかく全員同額。

 著者はさらに主張。自分はフリーランスで家を借りるのが大変だから、ベーシックインカムとは別で住居費を出してほしい。

 小川さんは反対。住宅政策はそれとは切り離すべきで、公営住宅などを充実させて全員が住むところに困らないようにするべきだと。シェアハウスをすれば単身世帯の割高も解消されるし、住宅問題も解消に向かう。

 著者の主張はこう。他人とは住みたくない。公営住宅や団地はイヤ。住むところは自分で選びたい。でも家賃を自分の財布から出すのはイヤなので、国が負担してほしい。


 ……こいつは何を言ってるんだ?

 徹頭徹尾自分の都合しか考えていない。不便なところや古い家には住みたくない。他人と暮らすのもイヤ。単身だから生活費が高くつく。だから国が単身者の面倒を見ろ。

 いや、べつにいいんだけど。個人の願望を述べたって。でもそれって「国民全員が俺に十円くれたら十億円もらえるから遊んで暮らせるじゃん!」レベルの話だ。政治でも何でもない。

 よくそんな恥ずかしい話を、国会議員に向かって臆面もなく主張できるな。


 とにかく想像力が欠如してるんだよね。単身者だけが大変だとおもってる。子どもがいてフルタイムで働きに出られない家庭、介護や看護を必要としている人のいる家庭、いろんな事情で持ち家に住み続けないといけない家庭。どっちが大変と比べることに意味はない。みんなが「うちだけが大変!うちだけ優遇してくれ!」と主張したらどうなるか、子どもにだってわかることなのに。

 著者はいろんなことに関心は持つけれど、自分と異なる立場の人のことはまるで考えようとしない。

 原発の話にしてもそう。小川淳也さんは「いずれは原発ゼロにするべきだから新設や増設には反対。だが今すぐ全停止しても稼働しているときと運用コストやリスクは大きく変わらない。また原発全停止になれば化石燃料を使った発電を増やさねばならず、環境負荷も大きい。だから原発は数十年単位で段階的にゼロに持っていく」という主張をしている。

 それに対して著者は「原発は怖いから今すぐ全停止!」の一点張り。

 いやそれはそれでひとつの立場なんだけどさ。実際そういう市民も多いし。

 でも、じゃあ原発全停止にする代わりに火力発電を増やして地球温暖化が進むことは許容しますとか、電力不足に陥って停電が頻繁に発生する国になることは許容しますとか、どっかで妥協しなきゃいけないわけじゃない。それが政治というものでしょ。

 著者の場合は、そういう譲歩が一切ない。原発は止めろ、地球温暖化には今すぐ全力で対処しろ、電力不足? そんなの知らん、どっかの誰かがすごい案出して何とかしてー!という感じ。

 あんたが求めているのは正しい政治じゃなくて魔法の力だよ。


 著者の知的レベルがアレな分、それに根気強く対話を重ねている小川淳也さんがすごい人だとおもえる。

 いやあすごい。議員もたいへんだよなあ。ぼくらが見る議員って国会でふんぞりかえっている姿ばかりだけど、実際は、こういう身勝手な人の相手をするのも仕事なんだよなあ。頭が下がります。

 ぼくだったら「それはだめですね」「何言ってるんですか、まじめに考えてください」「それだったら訴える先は国会議員じゃなくて神社ですね。神頼みしかないです」とか一蹴しちゃうけど、ちゃんと聞いて誠実に答えてるんだもん。

 しかも「そうですね、あなたのおっしゃる通り」と適当に調子を合わせてその場をやり過ごすのではなく、聞いた上で、きちんと否定している。もちろんぼくのように「は? あほちゃう?」などとは言わずに、(たぶん理解してもらえないことをわかった上で)懇々と主張を述べている。適当に合わせるほうが楽なのに。


 著者は自民党政治に反対の立場(というか敵視している。自民党議員やその支持者にもそれぞれの立場や生活があることなど想像しようともせず絶対悪のように扱っている)なんだけど、著者みたいに自分の都合だけ考えて身勝手な要求をする支持者がいて、身勝手な要望に応えていった結果が今の自民党政治であり、日本の惨状なんだとおもう。

 おらの村に道路を作ってくれ、おらの会社にだけ補助金を出してくれ、おらの業界だけ消費税の軽減税率を適用してくれ、おらのようなフリーランスで単身世帯で他人と一緒に住みたくない人にだけ手厚く税金使ってくれ。

 自民党を敵視している著者が、自民党支持者の悪いところを煮詰めたような思考をしているのはなんとも皮肉なことだ。



 ということで、主張が身勝手百パーセントで、文章もつまんねえので、途中から著者のお気持ちは飛ばして、小川淳也さんの話だけを読むようにした。

 うん、ここだけ読むといい本だ。

 戦後まもなくしてできた、日本の社会保障制度が問題になります。当時は現役世代が大勢いて、高齢者は少ない。年金の掛け金は1カ月100円から始まり、少ない負担で数少ない高齢者を十分に安心させることができた時代でした。それが現在では現役世代よりも高齢者の方が圧倒的に多い。そして子どもたちが少ない。さらに30年後には高齢化率は40%にもなります。一応ここで状況は落ち着くはずですが、人口構成で言えば、ほぼ逆三角形ですね。1カ月100円の掛け金の時代に作られた社会保障制度が、この逆三角形の時代に向かう中、もつわけがないじゃないか?と。そのことをどの政治家が、どの政党が、国民へ真摯に説明し、その責任をおっかぶる覚悟で、新たな提案をできるのか?
 この「人口問題」が社会や政治の行き詰まりを解消する根本だということの、それが基本的な認識です。

 これねえ。みんなわかってるじゃない。日本の抱える問題の大半は、高齢者が多すぎることだと。高齢者に使っている金が多すぎること。それ自体は誰のせいでもない。高齢者のせいでもない。逆に若者が多ければ、ずっと人口が増え続けているということなので、それはそれで別の問題が生まれるわけだし。

 良くないのは、問題をはっきり口にする政治家がいないこと。選挙で落ちるのを恐れて、高齢者への手厚すぎる保護を減らしましょうと言わない政治家だらけなこと。

 ぼくが政治家に求めるのは、耳に痛いことを言ってくれる人なんだけどな。耳に痛い事実を告げられて、ひどいことを言うやつだ、あいつは選挙で落としてやれ、となるほど高齢者も有権者もバカばっかりじゃないですよ、と言いたい(とおもってたけど少なくともこの本の著者はそっちのタイプだよなあ)。



 民主主義について。

  民主主義を殺す人は必ず敵と味方に分けるんです。民主主義は確かに紅組と白組のように分かれて競争し合うものですけど、お互いに正当な競争相手で、ライバルであり、リスペクトしあう前提がルールとしてある。だけどそれを踏み倒すんですよ、奴らは敵だ、敵は殲滅の対象だと。でも、そうする人たちのメンタリティの根本にあるのは自信のなさだと思います。ライバルの存在を貴べない、恐怖心からですよね。

 これね。ぼくが為政者に求める、最も重要な条件が「反対派の意見を聴き入れる」ことなんだけど、なかなかやれる人はいない。与党にも野党にもほとんどいない。はっきり言って「反対派の意見を聴き入れる」ことさえできるのであれば、どの人、どの党が政権をとってもかまわない。結果的に同じことになるわけだから。

 あげくには「我々は民意を得ている」なんて大きな勘違いをしてろくに国会審議もしないまま法案を通しまくった政党もあった。中学教科書からやりなおしてほしい。選挙なんて「俺たち全員が政治をするのは面倒だからとりあえず全員を代表して少数を選んでおくけどいつでも首をすげかえられるからな」というシステムだということをわかっていない。

 また坂井豊貴『多数決を疑う』あたりを読めばよくわかるけど、多数決というシステムはまったくもって民主的じゃない。相手より一票でも多く票を取ったほうが議席総取り、なんて民主主義の真逆みたいなやりかただ。

 多数決が他の選挙方法に勝っているのは、ほとんど「集計が楽」しかない。その「ただ集計が楽なだけで、民意をぜんぜんまともに反映できないシステムでその場しのぎの代表として選ばれた」のだとわかっている議員であれば、「選挙で勝利したのだから全権委任された!」という発想にはならないだろう。中学公民の知識さえあれば。


 経済政策。

 そうなんです、今はずっとデフレ経済が続いています。人口減少が続いて高齢化が進む中で「何かを買おう」という消費需要は減っているから、物価は上がらない。安定したインフレを持続していくことは難しい。むちゃな金融緩和をしたり、株を上げたり、不動産を上げたりしても物価は上がらない。とは言え、このまま物価が下がり続ける状況は放置できないので、人口減が続く100年間、毎年1%ずつ消費税を上げるのが、最も確実なインフレ政策なんです。

 ぼくは経済のことはよくわからないので、これがほんとにインフレ政策になるのか、人々の暮らしが良くなるのかはわからないが、この発言をする人は信頼できるということはわかる。

 あらゆることに反対の意見を語る右派も左派も、「増税=悪」という前提で語ることだけは一致している。いやいや、そうじゃないだろ。税金ってのは富の再分配機能なんだから、税金が高くなれば貧しい人ほど得をする。なのに貧しい人ほど増税に反対する。

 税金の問題は、高所得者を捕捉しきれていないことだったり、現役世代の負担が大きいことだったり、使われ方が適切でないことだったりすることであって、高い税金それ自体は悪ではない、むしろ君たちの味方なんだよとぼくは声を大にして言いたい。

 だから増税のメリットについてちゃんと語れる政治家を、ぼくは信用する。増税と聞いただけで考える前に拒否反応を示す人も多いけど(もちろんこの本の著者もそのひとりだ)、ちゃんと財政や貧困対策や経済政策について考えている政治家なら増税を語って当然だとおもう。少なくとも減税なんてもってのほかだ。

 たやすく減税を約束する政治家は、よっぽど無知か嘘つきのどちらかだとおもっている。


 日本は地球温暖化対策にしても、世界の先進国で最も遅れているでしょう。コロナ対策でも、検査の拡大に失敗したこともワクチンの開発に遅れていることも、いろんな意味で国際社会に乗り遅れた日本になっちゃいましたよね。それ、どっから来ているかと言うと、やっぱり昭和の成功モデルがみんなの頭の中にも構造的にもあるからで、社会の新陳代謝がうまくいかなくなってる。古いことを止めて新しいところにエネルギーを注ごうとすることができない。
 これは極端に言うと、再生エネルギーを進めたら電力会社に勤めてる人どうなるんだ、携帯電話を促進したら固定電話で仕事してきた人はどうなるんだ、電気自動車に変えていこうとしたらガソリン車作ってる人はどうなるんだって、日本は社会の構造変化が「雇用構造の硬直さによって阻止される」んですよ。
 それは一人の人生を、大企業を中心に一生しばりつける方向に働いているからで、そこを解いてやり、その人が会社を移ろうが、移るまいが、少なくとも社会制度上で不利や齟齬はない、その分、今勤めている会社が変わろうとする変化のダイナミズムに貢献することへの忠誠心を増やしてくださいと言いやすくなるんです。
 それぞれの人生の自由度と、正規・非正規の働き方の公平性と、社会の変化に対するダイナミズムと、3つの面からこれまで言ってきた様々な制度は見直さなきゃいけないと思っています。

「社会の構造変化が雇用構造の硬直さによって阻止される」という視点は興味深い。日本だけの問題かどうかはわからないけど。

 たしかに、会社という組織があり、そこに守るべき従業員がたくさんいる場合、会社のやっていること自体は古くなってきてもそうかんたんにつぶせない。たとえばガソリン自動車を作っている日本トップクラスの大会社があって、ガソリン自動車が時代に合わなくなっても、おいそれと方向転換をすることができない。今いる従業員を大幅に減らして、電気自動車に特化した人材を新たに採用します、というわけにはいかない。

 時代の移り変わりはどんどん早くなっている。十数年前の大学生が選ぶ就職先の人気業種は、銀行、電機メーカー、テレビ局、新聞社、出版社などだった。今やどこも斜陽産業だ。

 だけど数十年働くつもりで入った人はそうかんたんに辞めて別の業種に行くことができない。優秀な人が先のない業界で延命のために努力し、国もまた死に体とわかっていてもそれを支える。あまりにももったいない。

 終身雇用制はもうなくなりつつあるとはいえ、まだまだ大企業では一社で何十年の勤続する人は多い。そこを崩さないかぎりは社会全体が時代の流れについていくことはむずかしいだろうな。だからって安易に解雇規制緩和と言うつもりはないが。


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ロングコートダディ (花屋)

 花屋に花束を買いに来た客。「花のことはよくわからないのでおまかせします」と言いながら、できあがった花束にケチばかりつけて……。

 花屋という設定、花束だけの必要最小限のセット、芝居の枠を出ない抑えめかつ辛辣なツッコミと、とにかくおしゃれなコント。おしゃれでありながらトップバッターで大きな笑いをとるパワーも隠し持っている。そして平気で人の神経を逆なでしそうなことを言いそうな兎さん、弱気そうな見た目でずばっときついことを言う堂前さんという当人たちのキャラクターにもあっているすばらしいコント。審査員をうならせるセンスと観客受けするベタさを兼ね備えている。

 とことんうざい客(でも現実にいそうなちょうどいいライン)の言動に対して、花屋の店員という立場を守ったまま花言葉で返す店員。それにもひるむことなく「こっちが譲ってやる」とばかりに偉そうな立場を崩さない客。目に見えない火花が飛び交うようなせめぎあいが見事。この客のような人間はどこにでもいて、誰しも「明確な指示を出せないくせにアウトプットにだけとにかくケチをつけるクライアント(あるいは上司)」に辟易した経験があるからこそ、花屋の店員の反撃に溜飲が下がる。不快でありながら胸がすっとする。

 終盤でドラマチックな展開を用意しながらも安易なハッピーエンドに持っていかず「まだマイナスです」と赤裸々かつ婉曲的な表現のオチ。一から十まですばらしいコントだった。


ダンビラムーチョ (四発太鼓)

 一曲で四発しか打ってはいけないという謎のルールのある伝統芸「富安四発太鼓」を披露する中年男性とそれを見物する若い男。

 四発しか打てないという謎設定もばかばかしければ、早々に三発打ってしまうのもばかばかしい。カッカッカッで使ってしまうのもばかばかしいし、うっかりバチが当たってしまうのもくだらない。とにかくばかばかしいコントでありながら音響スタッフに対して厳しい、そのせいで仲間が減っているなど背景が見えてくる細かい設定もニクい(審査員の山内さんが指摘していたけどイヤな腕時計もいい)。二人の顔や体形が田舎の祭りにいるおじさんと純朴な学生っぽい感じなのも高ポイント。

 終盤の観客が参加するあたりからは予定調和的な流れだったかな。本当は五発以上叩きたかったという心情を吐露するあたりは好きだった。

 ロバートの秋山さんが高得点をつけていたのが印象的。たしかにロバートのコントっぽい設定だよなあ。

 あまり頭を使わずに観られるネタだったので、序盤じゃなくて10本目とかの疲れてきた時間帯に見たかったな。


シティホテル3号室 (テレビショッピング)

 テレビショッピングで、商品メーカーの社長が止めるのも聞かずに司会の芸人が暴走してむりやり値下げをさせてしまう。とおもいきや、それすらも社長の書いた筋書きであることが明らかになり……。

 うーん。最近よく見る「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」だけど、その意外性のレベルが低かったな。正直、予想の範疇だった。「実はシナリオ通りでした」はキングオブコントの舞台だけでも、しずるやザ・マミィも披露しているし。

 本当の設定が明らかになった後の展開も「この設定だったらこれぐらいやるだろう」と観ている側が想像する範囲。審査員には芝居がうまいと言われていたが、種明かしが中心なので言動がすべて説明的でまったくうまいとおもえなかったなあ。

 劇中劇のシナリオについて言及するネタって、よく考えられている風に見せられる反面、台本の余白が少なくなっちゃうんだよな。


や団 (一万円札)

 職場の休憩スペースで、財布から一万円札がなくなっていることが発覚。正義感の強い同僚が犯人探しをはじめるが、正義感の強さゆえに海外の麻薬捜査官のような厳しい取り調べをしだして……。

 おもしろい。かなり無理のある設定なのだが、熱量とディティールの細かさで押し切ってしまう。つくづく力のあるトリオだ。三人のキャラクターも浸透してきて、受け入れられやすくなった。

 しかし、どうしてもや団がキングオブコント初登場時に披露した「キャンプ」のネタを想起してしまう。ネタの構造がほとんど一緒なんだよな。そしてキャンプでは伊藤さんの狂気にくわえて「埋められそうになっているのにネタばらしをしようとしない」中嶋さんの異常さも光っていたが、このネタでは捜査に協力的な中嶋さんはそんなに異常ではない。「自分の潔白を証明したい」という動機が理解できるから。このネタもいいネタなんだけど、「キャンプ」が印象的だったがゆえにどうしても比べてしまう。

 本筋だけでなく、子どもの描いた絵、誕生日といったディティールもうまく使い、ラストで真犯人が明らかになることでもう一度見え方がひっくりかえるという隙のない構成。トリオでしか表現できないコントだった。


コットン (人形遊び)

 公園で人形遊びをしている子ども。その演技があまりにも真に迫っているため、隣で聞いていた老人もだんだん引き込まれていき……。

 まず、今こういうネタをやるのか、と驚いてしまった。悪い意味で。人形劇ネタといえば、二十年以上前にFUJIWARAや次長課長がよくやっていた印象で、つまり「古い」。お医者さんコントと一緒で手垢にまみれているので、よほど新しい切り口がないと厳しい。それもいろんな人形劇コントを見てきた歴戦の芸人審査員の前で。

 で、新しい切り口があったかというと……。何もなかった。観ている人が劇中に入り込んでしまうのも予想通り(逆にそれをしない人形劇コントのほうがめずらしいのでは)。

 たしかに西村さんの芝居はうまい。が、劇中劇のシナリオのほうが目も当てられないほど平凡。幼なじみの男女、悪くてかっこいい先輩、実は女たらしで人の心のない最低なやつ、それに迎合する舎弟、何から何まで「どっかで何度も見たことある」ストーリーだ。みゆき、というヒロインの名前も含めてまるで知恵を絞った形跡がない(どうでもいいけどコントに出てくる女性の名前はみゆきが圧倒的に多いのはなんでだろう。ネルソンズとか毎回みゆきだ)。そして観客が人形劇の世界に入り込んでしまうという設定も、人形劇コントの定番。

 これは教養の問題だろうな。明るくて、見た目もよくて、芸達者で、周囲から愛されるコットンというコンビの最大の弱点といっていいかもしれない。

 よく知らないけど、たぶん彼らは努力家で、たくさん他の芸人のコントも見てきたのだろう。ただコント以外の教養が感じられない。たくさん映画を観たり、いろんな小説を読んだり、成功しなかった人と会って話をしたり、あるいは孤独の中で妄想を膨らませたり、そういうバックボーンが感じられないんだよな。だから「どこかで見聞きしたような話」しか展開できない。題材はテレビの世界の中にあるものだけ。

 一般審査だったらこのコントのウケはかなり上位だったんじゃないかとおもう。ただ「どうやったらこんな発想思いつくんだ」とうならされれるようなものをぼくはひとつも感じなかった。演者としてはすごい二人なんだけど。


ニッポンの社長 (野球部)

 強豪野球部に入ってきた新入生。守備もバッティングもピッチングも言うことなしだが、声が小さいという理由で監督にしごかれる……。

 上に書いた説明がストーリーのすべて。なのだが、めちゃくちゃおもしろい。むちゃくちゃだし、最初の「声小さいねん」以降は基本的に同じことのくりかえしで大きな裏切りもないのだが、なぜか笑いが増幅してゆく。

 声を張らない辻さんのツッコミ、風貌に似合わない野球センスとどれだけひどい目に遭ってもかわいそうに見えないという摩訶不思議な能力を持ったケツさんのパワーが存分に発揮されていた。いちばんゲラゲラ笑えるコントだった。

 そして風刺も感じる。野球部ってこういうとこあるもんな。どれだけいいプレーをしても、見せかけの元気がなかったら評価されない。勝利よりもフェアプレーよりも選手の成長よりも、監督や先輩の満足感のほうが優先される。ぼくがいた高校でも「バントのサインを無視して打ちにいって長打になったのに監督から叱られてスタメンを外された」部員がいた。うーん、野球部。


ファイヤーサンダー (毒舌ツッコミ)

 『毒舌散歩』という番組で待ちゆく人々に口汚いツッコミを浴びせた芸人のもとに刑事が訪ねてきて「警察に来てほしい」と告げる。刑事によると、芸人が番組内で口にしたツッコミがことごとく的中していて……。

 こちらも「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」。ただ、この手のコントを数多く手がけているファイヤーサンダーだけあって演出が見事。「警察に来てほしい」というミスリードでしっかりと緊張感を高めて「毒舌が過ぎて起訴されたのかな」と思わせておいて、「本当にそうでした」の一言で見事に裏切る。スカウトだったことを明かした後も「あの日の阿佐ヶ谷」「巡回」「たとえすぎた」などのフレーズでしっかりと笑いを重ね、刑事の裏の顔に迫る展開でファーストインパクト頼りにしない。とはいえ、それだけやってもこの手の種明かし系コントはどうしても尻すぼみになってしまうんだけど。

 構成がよくできてはいるが、惜しむらくはこてつさんの芝居。わかりやすさ重視のコントの芝居って感じで、どう考えても毒舌芸人として人気が出るタイプじゃない。

 ファイヤーサンダーの脚本をコットンが演じたら最強かもしれんな。


cacao

 部員二人しかないためグラウンドが使えない弱小野球部。しかたなく狭い部室内でキャッチボールをするがどんどん上達してゆき……。


 フレッシュで動きがあって見ていて楽しいんだけど、これはコントというより創作ダンスだよなあ。上手で楽しいダンスでした。


隣人 (チンパンジーと同居)

 チンパンジーと同居しているおじいさん。どんどん知恵をつけていって機械音声を使って人間くさい会話までできるようになったチンパンジーに恐怖を感じるようになったおじいさんが、チンパンジーに出ていくように命じるが……。

 ん-、どうも中途半端。じっさい賢いチンパンジーは人間とコミュニケーションとれるしなあ。機械音声を使ったら、チンパンジーがすごいのか機械音声のほうがすごいのかわかりにくくなるし。異常な世界でもなければ、すごくリアルでもない。

 そして、おじいさんが冷淡すぎる。長年いっしょに住んだチンパンジーをいきなりあんな感じで追いだすだろうか。目も合わせずに今から出ていってください、ってひどすぎない? 別れがつらいからわざと冷淡にふるまってる設定なのかとおもいきや、そういうわけでもなさそうだし。

 十年一緒に生きてきてはずの背景がまるで感じられない。誰もが認めるチンパンジーコントの第一人者にしてはちょっと細部をおろそかにしすぎてないか。


ラブレターズ (どんぐり)

 息子が引きこもって家から一歩も出ようとしないことを嘆く両親。だが息子の服のポケットからどんぐりが出てきたのを見つけ、息子が外に出ているのでは? と希望を持ちはじめる……。

 よくできた脚本だとはおもう。スリリングな展開に似つかわしくないどんぐりという小道具がいい味を出している。どんぐりは腐るかどうかで時間を使う必要はなかったんじゃないかとおもうが、ぶちまけられるどんぐりは見ごたえがあった。

 でもなあ。芝居がよくない。昨年の『結婚の挨拶』のネタもそうだったが、いきなりピークに達しちゃうんだよな、ラブレターズとジャングルポケットは。突然声を張り上げちゃう。0からすぐ100のテンションに達しちゃう。

 息子が聞いているかもしれない状況であんな大声を張り上げるわけないじゃない。疑惑が確信に変わったところでおもわず大きな声が漏れてしまって妻にたしなめられる、ぐらいにしてほしい。

 悪い意味で熱量がすごくて、何を言っているのか聞き取りづらい部分もしばしば。あの夫婦が背負ってきたはずの年月が感じられなかった。




 以下、最終決戦の感想。


ラブレターズ (海辺)

 海辺にいる女性に外国人男性が声をかけたところ、女性がスキンヘッドであること、ジュビロ磐田の熱狂的すぎるサポーターであることが判明し……。

 海岸、流木、スキンヘッドの女性、日本語がうまいことを鼻にかける外国人、ジュビロ磐田のサポーター、願掛けのバリカン、釣りで大物がかかる……と、とにかく要素詰め込みすぎなコント。たぶん意識的にやっているのであろう。

 あえてコントのセオリーからはみだすことで狂気的な世界を表現したかったのだろうけど、伝わってくるのは「狂気的なものを表現しようとしている姿勢」だけ。内面からにじみ出てくるような異常さはまるで感じない。

 昔、付き合いで大学生の小劇団の演劇を観にいったことがあるが、ちょうどこんな感じだった。わけのわからないものが次々に現れ、常識の埒外にある登場人物がわかりやすく己の非常識さを説明してくれる。「ああ、シュールレアリスムをやりたいんだな」とはっきりわかる演劇だった。


ロングコートダディ (ウィザード)

 呪いを解くために、石の魔物に宝玉を捧げる冒険者。だが魔物の腕にかけるのではなく、台座に置くのが正解。そのことを伝えようとする魔物だが、冒険者に言葉が通じず悪戦苦闘……。

 言葉が通じなくてもどかしい、という一点で勝負したネタ。魔物語が日本語と真逆の意味になる、日本語の音に近いなどの変化をつけてはいるが、どうしても単調な印象はいなめない。モニターを使うだけならいいが、観客がモニターを見て笑う形になってしまうのは、ロングコートダディの魅力を失わせてしまっている。

 一本目のネタが「シンプルなセットで表層に表れない複雑なコミュニケーション」を描いていたからこそ余計に、「大がかりなセットで単純なディスコミュニケーション」を笑いにしたこのコントが軽く感じられてしまった。せめて魔物が顔を出して表情を伝えてくれていたらなあ。


ファイヤーサンダー (全裸マラソン)

 九人しかいない野球部が甲子園を目指していることをバカにする不良生徒。「おまえらが甲子園に出られたら全裸でフルマラソン走ってやるよ」と笑う不良生徒だが、翌日から全裸マラソンに向けての練習をはじめる……。

 これまた「開始1分で設定が割れる」系コント。設定判明後も全裸マラソン用のフォーム、校長にかけあうなどの展開を用意してはいるが、ファーストインパクトよりは見劣りした。右肩下がりの印象。終盤の不良生徒がチームに加わる展開も、すでにいいやつであることが判明しているので驚きはない。

 一本目がサスペンス展開だった分、こちらは平坦なまま終わってしまった印象。




 審査に関しては……。まあ言いたいことはいろいろあるけれど、言ってもしかたのないことなので書かない。

 人間が審査してる以上、好みで結果が決まるのはしょうがない。

 初期のキングオブコントに比べれば、明らかに全体のレベルは上がっている。「わかりやすく変なやつが出てきて変な言動をする」みたいなコントはほとんど見られないし、うならせるアイディアを二つも三つも放りこむネタが増えている。

 上位に関してはもうほとんど差はない。ネタ順とかその日の客層とかでぜんぜんちがう結果になっていただろう。百点満点でシビアに点をつけることに意味があるのか、という気もする。各審査員が三組ずつ選ぶ、とかでもいいんじゃなかろうか。


 だから。もう勝敗はどうでもいいからネタ数を増やしてくれ。結局好みの問題でしかないんだから審査員コメントの時間を削ってネタ時間を増やしてくれ。

 特に今年は審査員コメントパートがひどかった。「コメント二周目」のやりとりを何回やるんだ。松本さんがいない分、浜田さんがボケなきゃと気負っていたのかなあ。

 あんなに時間があまってるならその分ネタ数を増やしてほしい。できれば初期キングオブコントのように全組二本ずつ。絶対に二本できる確証があれば冒険的なネタもできるし、強いネタを後半に置いとくこともできる。

 M-1のように競技性を高めるんじゃなくてお祭り感を強めるほうに向かってほしいな。二本目のためにセットを作っている大道具担当がかわいそうだし。二本目に用意していたのに披露できなかったネタ、芸人は他の場で披露すればいいけど、セットは日の目を浴びることなく壊されるわけでしょ。エコじゃない。


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