2023年3月15日水曜日

働きものの保育士

 姉は保育士をやっている。 

 大学で管理栄養士の資格をとって栄養士として保育園で働いていたのだが、保育にも関わりたくなって働きながら保育士の資格もとった。

 栄養士として給食を作り、夕方には手が空くので保育をするのだそうだ。

 弟のぼくが言うのもなんだが、姉はとても働きものだ。栄養士をしつつ、保育士もしつつ、家では家事や子育てもしている。


 昔から行動的な人だった。ぼくなんか一日中家でごろごろしてるのに、姉は常に身体を動かしていないと気が済まない。大学時代は、せっかく実家に帰省したのに朝六時ぐらいに起きて掃除をしたり料理を作ったりしていた。横にいて落ち着かないぐらいの働き者だ。

 ま、それはいい。姉がなまけものだと困ることもあるだろうが、姉が働きもので悪いことはない。


 姉は働きものなので、遅くまで仕事をするし、休みの日にもやれ勉強会だやれ保育サークルのイベントだとかでよく出かけているらしい。もちろん家事もやっている。

 まじめに一生懸命働くのはいいことだ。それはいいのだが、「こういう人が上にいると下の人はたいへんだろうな」とおもう。

 若い保育士さんが働きはじめたら、先輩の保育士が朝早くから遅くまで仕事をして、家にも仕事を持ち帰って、休みの日にも手弁当で保育関連のイベントをやっているとする。

 若い保育士さんが「定時になったらさっさと帰りたいし、自宅では仕事をしたくないし、オンとオフの区別はつけたい」という考えの人であれば(そっちがふつうなんだけど)、姉みたいな先輩保育士がいたらやりづらいだろう。「あんたも同じことをしなさいよ」とはっきり言われなかったとしても、繊細な人であれば無言のプレッシャーは感じるだろう。

 そして、働きもののペースについていけない人は辞めてゆき、ついていける人だけが残る。そうするとますます働きものにあわせた働き方になってしまう。


 保育士は離職率が高いという。女性が多いということもあるが、高くない給与、楽でない仕事、大きな責任もその理由だろう。

 姉のような働きものが給与分以上にどんどん働くのは雇用者からしたらありがたいだろうけど、保育士全体の待遇改善という点でいえばいいことじゃないのかもしれない。

 ま、個人が業界全体のことまで心配することはないから好きにしたらいいんだけど。



2023年3月14日火曜日

【読書感想文】東海林 さだお『がん入院オロオロ日記』 / ドッジボールはいちばん野蛮

 がん入院オロオロ日記

東海林 さだお

内容(e-honより)
ある日、肝細胞がんと告知されたショージ君。40日に及ぶ人生初の入院生活を送ることに。ヨレヨレパジャマで点滴のガラガラを連れ歩き、何を食べるか悩む間もなく病院食を出される。それは不本意の連続だった…。認知症時代の“明るい老人哲学”にミリメシ、ガングロ。そしてついにオリンピック撲滅派宣言!?


 小学五年生の誕生日、リクエストしていた誕生日プレゼントとは別に、母から二冊の文庫本をプレゼントされた。一冊は北杜夫『船乗りクプクプの冒険』、もう一冊は東海林さだお『ショージ君の男の分別学』だった。

 どちらもめっぽうおもしろかった。それまでのぼくが読んでいたのは児童文学、祖父の本棚にあった星新一、母の本棚にあった椎名誠『岳物語』や群ようこ『鞄に本だけつめこんで』などで、「おとなが読んでいる本はまじめでむずかしいもの」とおもっていた。

 ところが北杜夫氏のユーモア小説とショージさんの軽妙なエッセイは、その認識をひっくりかえしてくれた。ぜんぜんむずかしくない。ちっともまじめじゃない。そしてめっぽうおもしろい。

 ショージさんのエッセイの何がすごいって「これぐらいなら自分でも書けそう」とおもってしまうところなんだよね。小学生のぼくはやってみたよ。東海林さだお風エッセイ書いてみたよ。もちろんぜんぜん足下にも及ばなかったよ。かんたんそうに書いてるけどすごいんだよなあ。


 すっかりショージさんのとりこになったぼくは、彼のエッセイ集を買いあさった。うちで購読していた週刊朝日の『あれも食いたい これも食いたい』も欠かさず読むようになった。

 今では積極的に買い集めることはなくなったが、実家に帰れば『あれも食いたい これも食いたい』を読むし(週刊朝日も休刊なんだってね。さびしいなあ)、ときおりエッセイ集も買って読む。




 そんな三十年来の東海林さだおファンなので『がん入院オロオロ日記』という書名を見て「ショージさんもついに危ないのか!? 今のうちに読んでおかなきゃ!」とあわてて読んだのだが、この本が出されたのは2017年のことで、それから六年たった今でももちろんショージさんは元気に活躍されている。ああ、よかった。


『がん入院オロオロ日記』というタイトルなので心配したのだが、このエッセイを読むかぎりあんまりあわてふためいてしてない。タイトル通り、ちょっとオロオロしているだけだ。トイレが見つからなくてオロオロ、とか、どの改札から出たらいいかわからなくてオロオロ、とかその程度のオロオロだ。

 これでこそショージさんのエッセイだ。

 ショージさんの文章に、激しい感情は似合わない。恥ずかしいとか、うらやましいとか、もったいないとか、なんとなく得した気分とか、「小市民的な感情」はよく書かれるんだけど、心の底から憤るとか、大爆笑するとか、世を憂うとか、そういう強い感情はまず描かれない。これこそが長年愛されている秘訣なのだろう。

 そんなわけで、がんを宣告されて、命がけの手術をすることになっても、オロオロしているだけだ。もちろん内心では慟哭とか悲嘆とかあったのかもしれないけど、そんなものはおくびにも出さない。

 病院の中や入院患者のことを、いつものごとくユーモラスな目で観察している。

 今回の入院のときも、パンツにカタカナで自分の名前を書きながら、ほんの少し、晴れがましいような気分になったっけ。
 そもそもあのあたりから、気分が幼児還りをし始めていたのではないか。病気をするということは、ある程度自分を人に託すことである。
 入院ということになれば、自分を人に託す部分が更に大きくなる。
 また、託さないと成り立たない生活であるともいえる。
 一度、大人を捨てる。
 大人を捨てて幼児に戻る。
 今回入院をして初めてわかったことだが、一度大人のタガをはずして幼児に戻ると、とたんに急にラクになる。
 本当にもう、あたり一帯、急にラクになるんですねえ。
 何しろこっちは幼児であるから、何を曝け出してもいい。
 どんな恥をかいてもいい。
 苦しくて唸りたければいくら唸ってもいいし、おならをしたければあたりかまわずしてもいい。
 異界というんですか、よく考えてみると、まさに異界なんですね、病院というところは。

 病院は大人を捨てるとこ。なるほどね。

 たしかに入院中の生活って、保育園での生活に似ているかもしれない。自分がいつ何をするかを決める権限はまったくない。決まった時間にご飯を出され、決まった時間に片づけられ、決まった時間にお着替えをし、決まった時間に移動させられ、決まった時間にお風呂に入る。人によってはトイレの時間まで決まっていたりする。

 今日は何をしようかな、と考える必要もないし、「今日のスケジュールは……」と確認する必要すらない。時間が来たら看護師さんが教えてくれる。

 何を着るかも考えない。用意された服を着る。

 何を食べるかも考えない。用意された食事をとる。

 およそ判断力というものが必要とされない。ぼーっとしていても「何をしたらいいか自分で考えて動かなきゃだめだぞ! 指示を待ってちゃだめだぞ!」と怒られたりしない。むしろ指示通りに動くことが求められる。

 ぼくはまだ入ったことがないけど、たぶん刑務所の生活もそんな感じなんだろう。

 保育園と病院と刑務所はけっこう似ているのかもしれない。




 がんで入院した話ばかりかとおもったら、入院エッセイは少しだけで、ほとんどはいつもの東海林さんのエッセイだった。

 のほほんとしているようで、ときおり切れ味鋭くえぐったりするのもショージさんのエッセイの魅力。

 初詣の話より。

 この、お札やお守りや絵馬に、はっきりした有効期限があることを知っている人は少ないのでないか。
 「そりゃ有効期限はあるだろうよ。そんなことわかってるよ」
 という人も、「はっきりした有効期限」ということまでは知らないのではないか。有効期限は「はっきり一年」である。
 一月三日に買って帰ったお札やお守りは、きちっと翌年の一月三日に効き目がなくなるのだ。
 電池なんかだと、使わないで取っておけば、一年たってもまだ使える。
 だが、お札やお守りはそういうわけにはいかない。
 お札を柱に張ったり、お守りを財布に入れておけば、それだけで〝使っている〟ことになるのだ。
 電池は使っているうちに少しずつ寿命が減っていくが、お札やお守りも効き目が少しずつ減っていって、一年後、ピタッと〝電池切れ〟になる。
 ただの紙切れになる。
 「なーんか怪しいなー。そのピタッというところが怪しーなー」
 と思うでしょ。
 怪しいんです。
 業者につけこまれて、してやられているんです。

 ほんと、そうよね。

 お守りやお札には有効期限がある。で、一年後に奉納しに来い、ついでにまた新しいやつを買え、と言ってくる。

 よく考えたらおかしな話だ。なぜ一生ものじゃないんだ。なぜ一年更新なんだ。「長年使ってるうちにだんだんと効き目が減ってくる」ならわかる。電化製品みたいに「最近この御守り調子悪いな。もうずいぶん使ったもんな。そろそろ新しいの買おうかな」ってなるのなら。

 でも、ぴったし一年で期限が切れるってことはどう考えても人為的なものだ。「有効期限はきっかり365日です。一日でも過ぎたら無効です」なんて神様、みみっちすぎてまったく信用できない。

 最近サブスクなる言葉が流行ってるけど、神社の商売はサブスクの元祖かもしれない。

 



 冒頭のがんの話もそうだけど、勃起不全とか認知症とか、テーマがずいぶん後期高齢者寄りになっている。ショージさんも老いたなあ、とちょっと寂しくなった。

『ミリメシはおいしい』『流行語大研究』なんて、雑誌かなんかを見て書いたようなおもしろみのないエッセイだったし。

 さすがにもう若い頃のように好奇心を刺激してくれるエッセイは書けないか……とおもっていたら、ガングロカフェなるものを訪問する『ガングロを揚げる』があった!

 これこれ、こういうのを求めていた。

 ショージさんといえば食べ物がエッセイが有名だけど、こういう訪問記もおもしろいんだよね。すごくめずらしい場所に行くんじゃなく、ちょっと変わった趣向のレストランとか、野球場とか、芸者遊びとか、パックの旅行とか、日常の延長のようなルポ。


「メイド喫茶やガングロカフェは芸者遊びといっしょ」という考察もおもしろい。

 たしかになあ。大の大人が高い金を払って幼児遊びのようなくだらないことをする、という点では同じだよなあ。




 巻末の、岸本佐知子さんとの対談『オリンピック撲滅派宣言「スポーツって醜いよね?」』もおもしろかった。

 岸本佐知子さんといえば東海林さんと並ぶほどのエッセイの名手。このふたりが対談しておもしろくならないはずがない。

 リュージュやボブスレーは地球の重力の話であってお前の力ではない、水泳の高飛び込みがあれこれ動きをつけるのは電車の車掌がアナウンスに変なアレンジが入れるのと一緒、冗談で競技を作ってもまじめな人たちが本気の競技にしてしまう、など鋭い視点が光る。

 中でも、岸本さんの「ドッジボールは暴力行為を正当化している」という言い分はおもしろかったなあ。

 たしかにそうだよね。ボールを直接敵にぶつける競技って他にないよね。結果的にぶつかることはあっても、人めがけておもいっきりボールを放つ競技はぼくの知るかぎり他にない。バスケットボールとかアイスホッケーなんて格闘技に例えられることもあるぐらい激しいスポーツだけど、それでも敵にボールやパックをわざとぶつけたりはしない。

 ドッジボールだけが、相手めがけておもいっきりボールを投げることが認められている。いや、認められているどころか推奨されている。

 そんな野蛮なスポーツが、よりによって全国の小学校で低学年の子たちにやらせているわけだから、ずいぶんな話だ。

 いや、野蛮だからこそ子どもたちが好きなのかな。原始的な攻撃性をむき出しにできるから。こえー。


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2023年3月13日月曜日

【読書感想文】ゲアリー・スミス『データは騙る 改竄・捏造・不正を見抜く統計学』 / ランダムなものにもパターンを見つけてしまう私たち

データは騙る

改竄・捏造・不正を見抜く統計学

ゲアリー・スミス(著) 川添節子(訳)

内容(e-honより)
「ビッグ・データ」の活用が叫ばれる一方、政府から科学界に至るまで、データの改竄や捏造は絶えない。世の中にあふれる一見もっともらしい数字や調査に、私たちはどう向き合えばいいのか?そんな声に応え、統計経済学のエキスパートがさまざまな数値から巧妙に導き出されるトリックを明かし、ダマされないための極意を伝授。ビジネス、研究、日常生活の各場面で役立つ楽しい統計学入門。


 データは正しい。とはよく言うが、現実的にはデータが嘘をつくことは多々ある。データが嘘をつくというより、嘘をつくためにもデータを使えるといったほうがいいかもしれない。

 データは食材だ。生のまま食べることはほとんどない。たいていは加工、調理されてから我々の前に運ばれてくる。その過程でうっかり、あるいは故意に、誤った情報が入ることがよくある。

 そんな「データが人を騙す例」を、実例を挙げて紹介した本。

「偶然の結果にもパターンは見いだせる」「生存者バイアス」「平均への回帰」「大数の法則」「あやしいグラフ」「交絡因子」「テキサスの狙撃兵」「理論なきデータ」「データなき理論」など、陥りやすいワナについて紹介している。




 たとえば生存者バイアス。

 まぎらわしい例もある。ニューヨーク・シティの動物病院に運びこまれた、高所から落ちたネコ一一五匹のうち、九階以上から落ちたネコの五パーセントが助からなかったのに対して、それより低い階から落ちたネコでは一〇パーセントが助からなかったという。獣医師らは、高いところから落ちたほうが滞空時間が長く、体を広げることができるため、パラシュート効果が見込めるからではないかと予想した。ほかに考えられる理由はあるだろうか。
 ここにも生存者バイアスがある。落下して死んでしまったネコは病院には運ばれないからだ。さらに、たとえ息があったとしても、高い階から落ちてひどいけがをしていれば、飼い主はあきらめて病院に連れていかないかもしれない。一方、低い階から落ちていれば、飼い主も希望を持って病院に連れていくだろうし、治療費の支払いも躊躇しないだろう。

「八十歳以上の喫煙者の健康状態を調べたら、非喫煙者と大きな差はなかった。喫煙は健康に害を及ぼさない」みたいなものだ。じつは多くの喫煙者が八十歳になる前に死んでいるかもしれないのに、生き残った人だけを調べているから正しい結論が得られない。

 よく見るのが「成功者が語る成功の秘訣」である。サンプルが少ないのはもちろん、そこには成功者バイアスが多く含まれている。

「成功している経営者の多くは不眠不休でがんばっていた。寝る間も惜しんで仕事にはげめば成功する」。その裏に、不眠不休でがんばって死んでしまった者や、不眠不休でがんばったのに倒産してしまった経営者は調査の対象に含まれない。

 スポーツでも一流選手はインタビューをされたり成功の秘訣を聞かれたりするが、同じように努力をして同じ練習をしたのに一流選手になれなかった者はインタビューされない。

「成功者が語る成功の秘訣」はほぼすべてが嘘っぱちだ。




「平均への回帰」も陥りやすい失敗だ。

 偶然や運に左右されることは、短期的にはすごく調子のいいときや絶不調のときもあるが、長期間続けていけば平均へと収束してゆく。

 であれば「短期的にすごく調子のいい選手」は、その後は平均へと近づく(つまり絶頂期よりも調子を落とす)可能性が高い。

 プロ野球の「2年目のジンクス(新人で活躍した選手は翌年調子を落としやすい)」、芸能界の「流行語大賞をとった芸人は一発屋になりやすい」などもただの「平均への回帰」で、ふしぎでもなんでもない。


 ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンは、かつてイスラエルの飛行訓練の教官に、訓練生は怒るよりもほめたほうが早く上達するとアドバイスした。ところが、教官は強く反発した。

訓練生がアクロバット飛行を見事にやってのけたときにはよくほめた。ところが、それでもう一度やらせると、たいていうまくいかない。一方、下手くそな飛行をしたときには、わたしは怒鳴りつける。すると、次回はたいていうまくいく。だから、ほめるとうまくいく、怒ればうまくいかないなどと言わないでほしい。実際にはまったく逆なのだから。

 カーネマンには、この教官が平均への回帰にだまされているとわかった。いい飛行を行なった訓練生は、その飛行が示すような平均をはるかに上回る能力を持っているとは限らない。多くの場合、次の飛行の技術は前回を下回る。教官がほめようが、怒鳴ろうが、口をつぐもうが関係ない。カーネマンに反発した教官は、自分がほめたから訓練生の飛行がうまくいかなくなったと思っていた。実際には、訓練生の本当の出来はそれほどよくなかったのだ。同じように、下手くそな飛行をした訓練生は、概してその見た目ほど下手くそではないし、教官がどなり散らさなければ、次の飛行はもっとうまくやるだろう。
 カーネマンはのちにこう書いている。

 あれはうれしい瞬間で、あのとき私は世の中の重要な真実を一つ理解した。私たちには人がうまくやったときにはほめ、失敗したときには罰する傾向があり、さらに平均への回帰があるため、統計的に人をほめて報われず、罰して報われるという状況を人間は避けることができない。

 平均への回帰により「褒めると調子を落とし、叱ると調子が上がる」ことが起こりやすい。その結果、「人は褒めるより叱って伸ばすほうがいい」と誤った認識を持ってしまう指導者が多い。不幸なことだ。




 人には、パターンを見いだす習性がある。「右の道を通ったら悪いことが起こることが三回続いた。あっちには行かないようにしよう」「三百六十日ぐらいの周期で暑い寒いをくりかえしている。今は暑いから、そのうちまた寒い日が来るにちがいない」とか。これはきわめて有用な能力だ。パターンを見つけられるからこそ生きのびてこられたといってもいい。

 問題は、意味のないパターンにも意味を見いだしてしまうことだ。


 著者が株価チャートを投資家に見せたところ、投資家はこの株で儲ける方法を見つけた。だが、そのチャートは無作為に作られたグラフだった。

 チャートは本物の株価ではなかった。いたずら好きの教授(実は私である)が、学生にコインを投げさせてつくったものだった。どのケースでも「株価」は五〇ドルからスタートし、毎日の変動はコインを二五回投げて、それぞれ表が出れば五〇セントアップ、裏が出れば五〇セントダウンとした。たとえば一四回表、一一回裏が出たとしたら、その日は一ドル五〇セントの上昇となる。こうしてたくさんのチャートをつくり、そのうちの一〇枚を、パターンを見つけてくれれば、という期待とともにエドに送った。エドは期待を裏切らなかった。
 種明かしをすると、エドは心底がっかりしていた。売り買いすれば本当に利益を出せると思っていたからだ。しかし、彼がこの件から引き出した教訓は、期待していたものとはまるでちがった。エドが到達した結論は、「テクニカル分析でコイン投げを予想できる」というものだった。
 この一件が明らかにしているのは、データをあされば偶然以外の何物でもない統計パターンが必ず見つかるということを理解している人は少なく、プロの投資家も例外ではないということだ。理論なきデータは魅力的だが、過ちを犯しやすくなる。

 コイン投げの結果は完全にランダムだ。次に何が出るか、50%より高い確率で予想することはできない。

 にもかかわらず、人はランダムな結果からも「これまでのパターン」「これから起こるであろう傾向」を見いだしてしまう。

 サイコロを振って、奇数、奇数、偶数、奇数、奇数、偶数、ときたから次は奇数だ、とかね。

 私たち人間は生まれながらにして、自分を取りかこむ世の中を理解するようにできている。理解するというのは、パターンを見いだし、そのパターンを説明する理論を作り出すということだ。そして、そのパターンが、運不運といったランダムな事象によっていかに簡単に生まれるか、私たちはわかっていない。
 人間はパターンの誘惑に負けてしまうものだと肝に銘じたほうがいい。引き込まれる前に疑うべきだ。相関関係や傾向などのパターンは、それ自体は何の説明にもならない。パターンは理にかなった説明がなければ、ただのパターンでしかなく、理にかなった理論は新しいデータで検証しなければならない。




「人が陥りやすい罠」が数多く紹介されているので、知っておくと判断ミスを防ぐのに役立つかもしれない。

「○○必勝法」「勝ちパターン」みたいな言葉に引っかからないために。


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2023年3月10日金曜日

【読書感想文】辛酸 なめ子『女子校育ち』 / 2011年は下品な時代だった

女子校育ち

辛酸 なめ子

内容(e-honより)
女子一〇〇%の濃密ワールドで洗礼を受けた彼女たちは、卒業後も独特のオーラを発し続ける。インタビュー、座談会、同窓会や文化祭潜入などもまじえ、知られざる生態をつまびらかにする。

 自身も女子高出身者である著者が、自身の体験、卒業生、在校生、教員などの証言をもとに「女子校」について書いた本。


 ぼくは男だし、ずっと共学に通っていたし、近隣に女子校もなかったので、女子校なるものにはまったく縁がない。

 漫画『女の園の星』程度の知識しかない(もちろんあれがリアルとはおもってない)。

 男子校に関しては行ったことないけど、だいたい想像つくんだけどね。男しかいなかったらたぶんこうなるんだろうな、ってのが。でも女子に関してはイメージすら湧かない。


 そんなわけでこれまで女子校について思いをめぐらせたことすらなかったのだが、娘がひょっとしたら中学受験をするかも、さらに近所にはほどよいレベルの女子校がある、ということになって突如身近な話として立ち上がってきた。

 娘に「女子ばっかりの学校と男子もいる学校とどっちがいい?」と訊くと「どっちでもいい」とのこと。まあ、共学の環境しか知らないから女子校って言われてもイメージできないよねえ。

 ということで『女子校育ち』を手に取ってみた。

(以上、決しておっさんが女子校生ってどんなんじゃいゲヘヘという下心で読んだんじゃないですよという長い言い訳)




 生活指導について。

 掃除御三家の最後の一つは、田園調布学園です。なんとこの学園では、創立者が銅像の姿で永遠に掃除をし続けているのです。銅像の先生は、モップを持ち足元にはバケツが置かれ、おそれ多くも校舎脇の広場で掃除されています。その像を「ほら、先生も掃除なさっているでしょ」と指し示せば、生徒もおとなしく掃除せざるを得ないとか。生徒たちは「あいつのせいだ……」と、時には恨みがましく銅像をにらみながら、便器に手をつっこんで拭いたり、学校前の歩道までホウキではき清めたりと、環境美化に努めます。中学に入学してすぐに家庭科の授業でかっぽう着を作り、掃除中はそれを着用するという用意周到ぶり。全ての道は掃除に至るのです。「掃除はきちんとできる自信があります」と言う卒業生のTさんがまぶしいです……。
 先ほど高い学費を払って掃除させられるのは理不尽だと申しましたが、親にとってみれば、娘が家の掃除をしてくれるようになるので、投資としてちゃんと見合っているような気もします。もし自分が将来親になることがあったら、掃除精神をたたき込んでくれる学校を選びたいと切に思いました。

 ここまで掃除に力を入れるのは女子校特有の話ではなく、単に厳しい学校かどうかによるんだろうけど。

 とはいえ男子校だと「あらゆる面に厳しい学校」はあっても「掃除や家事にのみ特に厳しい学校」ってのはないだろうから、女子校らしい話なのかもしれない。

 ここで紹介されている学校は卒業してからもついつい掃除をせずにはいられないほど掃除の習慣が身につくらしく、ものがあふれすぎて引き出しがひとつも閉まらない娘の机を見ているぼくとしては「こういう学校に行って掃除のできる子になってくれたらいいな……」との思いを隠せない。まあぼく自身がぜんぜん片付けのできない人間なのでまずおまえが改めろって話なんだけど。




 制服について。

 制服が生徒の気風に及ぼす作用は大きく、桜蔭や東京純心女子のようにダサいと言われている制服に身を包んでいると皆あきらめモードで謙虚で貞淑な性格になるようです。田園調布学園OG、Tさんも、「渋谷は女学館や東洋英和の場所で、ダサい制服の自分たちはムリ。冬の制服はカラスみたいで、中学の夏服は毒キノコ。ビジュアルでがんばっても制服で殺されます」と話していました。制服がダサいという劣等感が高じて「自分はここにいる人間ではない」と思うようになり、受験で発奮、進学実績も良いとか。親にとっては、ダサい制服で青春をあきらめて真面目に勉学に励んでくれた方が安心かもしれません。

 このへんは女子ならではだよなあ。

 高校のとき、同じクラスの女子が「ほんとは○○高校に行きたかった」と言っていた。そこはぼくらの学校より偏差値の低いとこだったし遠かったので「なんで○○に行きたかったん?」と尋ねると「制服がかわいいから」との答えが返ってきて仰天した。そんなことが学校を選ぶ基準になるなんて……と、おしゃれとは無縁だったぼくからすると信じられないことだった。冗談で言っているのかとおもったぐらいだ。

 でも、制服で学校を選ぶ子って女子の中ではめずらしくないらしい。そういえば、人材紹介会社の営業から聞いたけど、女性は転職時に「オフィスのきれいさ・新しさ」を重視する人が多いらしい。個人的には、よほど汚いとかくさいとかじゃなければなんでもいいけど、女性はそうでもないみたいだ。つくづくちがう人種だなと感じる。




 女子校に進学するメリットについて。

ところで、女子校においては「容姿において差別されない」というのも大きいです。男子は驚くほど女性のルックスに厳しく、不美人には冷たいものです。共学ではブスのレッテルを貼られ、萎縮してしまいそうな人も、女子校ではのびのび過ごせます。後輩から人気のある先輩が必ずしも美人とは限りません。しかし、頌栄女子学院出身のSさんが「女子大に入って、早稲田や東大のサークルに入ったら完全に容姿でしか見られず、女子校とのギャップに悩みました」と語っているように、快適な温室から出たら厳しい現実が待っています。「努力すれば幸せが手に入ると思っていたのに、世の中は容姿重視なんですね……」ここでも、中高で女を磨いてきた共学出身の人に差を付けられてしまいます。

 「容姿において差別されない」ことの利点については、ほんとその通りだとおもう。

 申し訳ないけど、ぼくも学生時代、女子のことはほとんど容姿でしか見てなかったもん。

 「見た目がかわいくないけど話していておもしろい子」はいたし、そういう子とも仲良くしていたけど、「かわいい子」とはまったく別枠の存在だった。見た目が良くない子は、どんなに優しくて、どんなに気が合っても、異性としては「つまんないけどかわいい子」を上回ることはなかった。

 特に中学生なんか「美女と野獣」カップルはいても、その逆はまずいないよね。

 もうちょっと大人になったら容姿以外の部分も見えるようになってくるんだけどね。「あんまりかわいくないけど付き合ったら楽しいだろうな」とおもえるようになる。でも男子中高生時代は「女はかわいさがすべて」だったな。周囲もやっぱりそんな感じだったから、かわいくない子と付き合ってたらダサイ、みたいな風潮もあった。ほんとひっどい話だけどさ。


 否応なく美醜競争に巻き込まれるのはかわいそうだ。ブスはもちろん、美人もまた。

 そんなわけで「容姿において差別されない」という一点だけでも、娘を女子校に行かせるメリットは十分にあるとおもう。




 それにしても。

 とにかく著者の視点が下品。女子校に通う中高生を取り上げて、やれ処女率がどうだ、やれ男ウケがどうだ、やれフェロモンが出ているだ、やれモテなさそうだ、やれ遊んでそうだ、と下世話きわまりない。

「男が書いたらセクハラだけど女性だからセーフ」とかおもって書いてたんだろうな。じっさい、この本が刊行された2011年はまだそういう認識が一般的だったし。

 でも令和の感覚で読むとずいぶん気持ち悪い。自分が中高生の頃、大人から(男女問わず)そういう目を向けられたら気持ち悪く感じただろうに。

 よくちくまプリマー新書がこんなひっどい本を出してたなとおもう。三流週刊誌みたいな切り口だもん。

 もっとも十年以上前の本を取り上げて「感覚が古い」と糾弾するつもりはなくて(それはあまりにずるい)、ただただ「2011年当時はこういう感覚が許されてたんだなあ」と隔世の念に駆られる。人々の価値観って変わってないようで変わってるんだなあ。


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2023年3月9日木曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄

 歴史人口学の世界

速水 融

内容(e-honより)
近代的な「国勢調査」以前の社会において、その基層をなす人びと、家族といった身近な存在から人口を推計し、社会全体の動態を分析する「歴史人口学」。現代世界が抱える最大課題である人口問題(少子化・高齢化から人口爆発まで)にも重要な示唆を与える。その先駆的第一人者が平易に語り下ろした入門的概説書の決定版。


 あまりなじみのない「歴史人口学」なる学問の日本における第一人者による、歴史人口学入門書。

 人口、世帯、出産、死亡、転入転出などの時代ごとの変遷を追う学問だそうだ。

 今の日本は、人口に関する問題に直面している。人口減、少子化、高齢化、働き手の不足、都市への人口集中、社会福祉費の増大。そんな問題解決への糸口に、ひょっとしたら歴史人口学がなってくれるかもしれない。




 江戸時代の中期以降はほとんど人口が増えなかった、という話を聞いたことがある。江戸時代は人口の面では停滞期にあった、というのが一般的な認識だが、細かく見るとそんなことはないそうだ。

 たしかに十八世紀の日本の人口は大きな増減はない。だがそれはあくまで日本全体の話であって、地域ごとに見るとダイナミックな変化が見えてくる。

 なんとなく「江戸時代、町人はいい暮らしをしていて、農村は貧しさにあえいでいたのだろう」とおもっていたが、実態はむしろ逆で、都市部のほうが死亡率が高かったのだそうだ。農村は乳幼児と老人は死ぬが、若い人はそんなに死んでいない。都市のほうがばたばた死ぬ。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』にも書いてあったが、人口密度が高まると伝染病の流行率がぐっとはねあがるのだ。江戸時代の都市は住環境も悪かっただろうし。


 それでも、地方の若者(次男坊、三男坊)は都市(江戸、京都、大坂)に出てくる。だって田畑がないもの。都市は若者が増える。だが都市の死亡率は高く、結婚・出産の数も地方より少ない。都市は死亡が多くて誕生が少ないので自然人口減になるが、地方からの流入によって人口が保たれる。地方は出産数が多いが若者が都市に流出するのでこちらも大きな人口の増減はない。

 現代日本と同じことが江戸時代から起こっていたのだ。今も昔も、都市は出産・育児をするのに適した場所ではなかったわけだ。

 細かいミクロの史料の検討のところで、実際の数字を出して説明しますが、歴史人口学では、すでに都市墓場説とか、都市蟻地獄説と呼ばれる考え方が唱えられています。都市墓場説というのは、ヨーロッパの都市の人口史研究をしている人たちが言い出したことであり、蟻地獄説というのはじつは私の造語です。期せずして同じことを発見したのです。つまり都市というのはたくさん農村から人を引きつける。そして高い死亡率で多くの人を殺してしまうのです。
 そうすると、江戸時代の都市では、人間いつ死んでもおかしくなかったことになります。農村のように、齢をとったから死ぬ、というわけではなくて、いつでも死ぬのです。江戸時代の文化はよく都市の文化、町人の文化だといわれます。その都市に住んでいる人たちは、いつ死ぬかもわからないという状況で生活していたのです。その人たちが持っている人生観とか死生観は、農村住民の場合と違っていたのではないだろうかという疑問が湧いてきます。これは、今後解明していかなければならない問題ですが、こういうように死亡のパターンに非常にちがいがあるということは、今までよくわからなかったことなのです。これもやはり宗門改帳を使った研究の成果の一つといえるでしょう。

 なんとなく、江戸時代の農村で生まれたら、家と田畑を継いで、死ぬまでずっとその村の中で生きていくのかとおもっていた。

 でもそんなのは長男だけ(そして江戸時代はきょうだいが多いので長男が今よりずっと少なかった)。若者の三分の一ぐらいが村の外に出ていた、というケースもあったようだ。奉公、出稼ぎ、身売りなどで男女問わずけっこう他の村や都市へ移動していたようだ。

 また、都会に働きに出た経験のある女ほど結婚・出産の年齢が遅く、生涯に産む子どもの数が少なかったそうだ。このへんも今とおんなじ。

「地方には若者が就く仕事がないから都会に出る」「都会に出てきた若者は結婚が遅く、子どもも作らない傾向にある」ってのはここ数十年の話ではなく、数百年間にわたってずっとくりかえされてきたことなのだ。

 今も昔も、都市の生活は多くの人々の犠牲の上に成り立っている。




 現代の日本においては、世代や個人による人生観の差はあれど、地域による差はさほどないんじゃないかとおもっている。北海道から沖縄まで同じ教科書で学び、同じものを読み、同じテレビ番組や同じウェブサイトを見ているから、大きな差は生まれにくそうだ。

 でも江戸時代は、地域によって考え方がぜんぜんちがったのではないかと著者は書く。


 この小さい島国に、社会の基本となる家族の規範について、なぜこのような違いがあるのでしょうか。筆者は、これは日本に住むようになった人びとが持ってきた慣習と関係があるのではないか、と思っています。日本列島には、北から下りてきた人たち、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人たち、南から島伝いに来た人たち、と大別して三つの移住の波があったように言われています。日本人は、よく一民族一言語、といって、その同一性が強調されるのですが、決して一色ではないのです。比較的早い時代に、政治的には統一され、構成民族間の闘争こそありませんでしたが、構成民族のもとをただせば、多種多様で、むしろよく統一が保たれたものだ、とさえ思われます。
 その中で、北からやって来た人びとは、基本的には狩猟民で、縄文文化の担い手だったと思われます。狩猟民は、生計を採取によりますから、非常に密度依存的です。ある規模以上に人口を増やさないようにする力が働くのです。このことが慣習となって、持っている生活規範の中にビルトインされていたのではないでしょうか。そして、弥生文化の担い手である第二の渡来民が、農耕をもたらし、次第に第一の集団を本州の東北部に追いつめます。そこに定住するようになった元狩猟民たちは、農耕を始めますが、過酷な自然環境も手伝い、ビルトインされた価値観を変えませんでした。それが、東北日本の早婚と出生制限の存在という、矛盾した規範を両立させる理由となった、というのが筆者の解釈です。
 これに対して、中央日本には、農耕民が渡来し、弥生文化そして古代律令制国家を造り上げました。相対的に高い生産性に裏打ちされて、この古代国家は、比較的短期間のうちに日本の国家統一を果たします。この農耕社会では、耕地を広げたり、工夫をして土地の生産性を上げることができれば、扶養可能な人口は増やせますから、東北日本のように、人口制限を価値観のなかにビルトインさせる必要はなかったのです。もちろん、だからといって、中央日本で、無制限的に人口が増えたわけではありませんが、この地に住む人びとにとって、人口規模は、東北日本に住む人びとのように、ある範囲に抑えなければならない性質のものではなかった、というのが筆者の見解です。

 東北では早く結婚・出産をおこない、けれどひとり当たりの出産数は少ない傾向にあった。逆に西日本では晩婚の傾向があり、東北ほど産児制限をしている様子はなかった。そして南から来た人は家族規範から自由で、人口制限もさらに少なかった。そんな傾向が江戸時代の資料から読みとれるそうだ。

 まだ「日本人」という意識もなかった時代。今の日本人がおもうよりずっと、当時の日本人は地方によって異なる生活をしていたんだろうね。


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