2020年7月30日木曜日

【読書感想文】そんなことまでわかるのにそんなこともわからないの? / マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』

数字の国のミステリー

マーカス・デュ・ソートイ(著)  冨永星(訳)

内容(e-honより)
素数ゼミが17年に一度しか孵化しない理由、世界一まるいサッカーボールを作る方法、雷とブロッコリーと株式市場に共通するもの、ベッカムのフリーキックが曲がる理由、パーティで仲の悪い二人が二人きりにならないようにする方法…。今なおトップクラスの現役数学者である著者が、数学の現場の豊富なエピソードを交えながら、この不思議で美しいワンダーランドをご案内します!
高校数学は得意だった(センター試験で数学ⅠAと数学ⅡBの両方100点だったのが自慢!)。
でも大学では文系の道に進んだ。

この話をすると数学が得意でなかった人には「そんなに数学が得意なのに文系に行くなんてもったいない!」と言われるが、数学の奥深さを知っている人間ならわかるだろう。
高校数学ができることとその後の数学をやっていくことはまったく別ものだ。

ぼくは大学に進んでから理学部の数学専攻の人間を幾人か見てきたが、ヤバいやつだらけだった。
休み時間や食事中も楽しそうに数学の話をしているやつや、九次元世界をイメージしているやつや、頭の中だけで麻雀をするようなやつがいた(そいつの話では、訓練すると完全ランダムで牌が引けるようになるらしい)。

つくづく「ああ、“高校数学が得意”ぐらいの自信で数学の道を志さなくてよかった」とおもったものだ。
「世界をすべて数学でとらえる」ぐらいの人間じゃないと足を踏み入れてはいけない世界なのだ。



自分は「数学の世界のスタートラインに立ったぐらいでやめてしまった」人間だが、数学者の話を聞くのはおもしろい。

学生時代は矢野健太郎さんの数学エッセイや数理パズルの本をよく読んでいた。

数学史を読むと、人間って数学的才能はぜんぜん進歩してないんだなと感じる。

たとえばスポーツなんかだと、五十年前と今とではまったくレベルが違う。
数十年前は世界トップの体操選手が「C難度!すごい!」ってやってたのに、今はC難度の技なんて準備体操みたいなもんで、F難度G難度とやりあっている。

ところが数学はそんなことない。千年前の人が発見した理論が今見てもめちゃくちゃすごかったり、百年前の人が出した問題が今でも解けなかったりする。

もちろん数学は蓄積だから後年の人間のほうが圧倒的に有利なんだけど(あとコンピュータが使えるってのも大きい)、そういうのを抜きにして個人レベルの能力だけで見るならピタゴラスやフェルマーよりすごい現代の数学者なんてほとんどいないんじゃなかろうか。



数学の話を読んでいると、とんでもない次元にまで連れていかれるのが楽しい。
 数学者の多くは、たとえ宇宙のむこう側の生物学や化学や物理学が地球のそれとはまるで違っていたとしても、数学だけは地球と同じはずだと考えている。地球から二五光年のかなたにあること座α星、ベガのまわりを回る系外惑星で腰を下ろして素数に対する数学の本を読んでいる誰かにとっても、59や61は素数であるはずなのだ。なぜならケンブリッジの高名な数学者G・H・ハーディーがいうように、これらの数は「我々がそう考えるからでもなければ、我々の頭脳が今あるような形にできあがっているからでもなく、数学の現実ゆえに素数でしかあり得ない」のだから。
そういやSF小説『三体』にもそんなエピソードがあったような気がする(記憶違いかもしれないが)。
遠い星の生き物と交信をするときに、まずは数学を使うと。

数学的に意味のある信号を送れば、ある程度発達した文明なら必ず理解できるはずだというのだ。
ふうむ。たしかに環境・姿形・文明など何もかも異なる文明と唯一共有できる話題というのは数学かもしれない。

そんな日が来るのかどうかしらないけど、未知なる文明と数学を使ってコミュニケーションをとりあうのって、なんちゅうかロマンあふれる話だなあ。



バタフライ効果とかカオス理論とかフレーズとしては聞いたことはあっても、いまいちよくわかっていなかった。
 気象学者は今や、海に浮かぶ定点観測船の観測データや衛星から送られてくる画像や情報などの膨大なデータを手に入れることができる。しかもきわめて正確な方程式を使って、大気のなかで空気の塊がぶつかり合って雲ができたり風が起きたり雨が降ったりする様子を説明することができる。気象がなんらかの数式によって決まっているのであれば、その方程式に今日の気象データを入力して、コンピュータで来週の天気がどうなるかを調べるくらいのことは朝飯前だろうに……。
 ところが残念なことに、最新のスーパーコンピュータをもってしても、二週間後の天気を正確に予報することはできない。この先どころか、今日の天気すら正確にはわからないのである。もっとも優秀な測候所でも、その精度には限りがある。それに、空気に含まれる粒子一つ一つの正確な速度やありとあらゆる場所における正確な温度、地表のすべての地点における気圧を知ることなどとうてい不可能だ。ところがこれらの値がほんの少し変わるだけで、天気予報はがらりと変わる。このような状況を「バタフライ効果」という。一匹の蝶々が打っただけで大気にわずかな変化が起きて、その結果地球の裏側で竜巻やハリケーンが生まれて大混乱が起き、人命が奪われて何百万ポンドもの損害が生じる可能性があるというのだ。
科学はどんどん進歩してるのに、天気予報はちっともあたらない。
五十年後の日蝕がいつ起こるかは正確に予測できるんだから三日後の天気ぐらいかんたんでしょ、と素人はおもってしまうのだが、どうもそうではないらしい。

天気を決定するデータは無限にあるのに観測できるデータは有限。おまけにちょっとずれただけでぜんぜんちがう結果が生まれるので、正確な予測はこの先もたぶん不可能なんだそうだ。
ふうん。地震予知とかも永遠に不可能なのかねえ。

「えっ、宇宙が始まった瞬間の0.1秒後の状態のことはわかっているのに三日後の天気もわからないの!?」
っておもっちゃうんだけどなあ。



いちばん信じられないエピソードがこれ。
 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは、第二次大戦中にドイツ軍に捕まって、下士官兵用捕虜収容所Ⅷ-Aに収容された。そして同じ収容所にクラリネット奏者とチェロ奏者とバイオリン奏者が収容されていることを知ると、三人の演奏家と自分のためにピアノ四重奏曲を作りはじめた。こうしてできたのが、二〇世紀における音楽のすばらしい結実というべき「世の終わりのための四重奏曲」である。この曲はまず捕虜収容所Ⅷ-Aの関係者と収容者に披露されたが、このとき作曲家自身は収容所にあったおんぼろなアップライト・ピアノを弾いたという。
で、その音楽に“素数”が重要な役割を果たしていた……。

嘘つけー!!と言いたくなるぐらいできすぎたエピソード。
こんなすごい話ある?

2020年7月29日水曜日

【読書感想文】R-15は中学生にこそが見るもの / 筒井 哲也『有害都市』

有害都市

筒井 哲也

内容(e-honより)
2020年、東京の街ではオリンピックを目前に控え、“浄化作戦”と称した異常な排斥運動が行われ、猥褻なもの、いかがわしいものを排除するべきだという風潮に傾き始めていた。そんな状況下で、漫画家・日比野幹雄はホラー作品「DARK・WALKER」を発表しようとしていた。表現規制の壁に阻まれながらも連載を獲得するが、作品の行方は──!? “表現の自由”を巡る業界震撼の衝撃作!!

若いころには考えられなかったことだけど、漫画を読むのがしんどくなった。文字を読むほうがずっと楽だ。
昔は漫画なんて息をするのと同じくらい楽に読めたんだけどなあ。

読むこと自体がしんどいというより、「これから何年、十何年も読まなきゃいけないのかもしれない」とおもうから新たな漫画との出会いを遠ざけてしまうのかもしれない。

いっこうに完結しない『ガラスの仮面』と『HUNTER×HUNTER』と『ヒストリエ』のせいだぞ!!(『ONE PIECE』は途中離脱した)

そんなわけで何十巻もある漫画を読もうとおもわなくなった。
ってことで筒井哲也『有害都市』。
全二巻。
ああ、いいねえ。これぐらいの分量がいいよ、漫画は。

以前読んだ同氏の『予告犯』が単行本三冊でこれ以上ないってぐらい過不足なくまとまっていて、その構成力の高さに舌を巻いたこともあって。



舞台は、(発表同時の)近未来である2020年。
(今は亡き)東京オリンピックを前にして漫画の表現規制が強まっている。

一部の有識者によって青少年に悪影響を与えるとされた漫画は、対象年齢を15歳以上に推奨する「不健全図書」や、書店での陳列と18歳未満への販売が禁止される「有害図書」に指定されることになっている。

主人公が描いたホラー漫画がグロテスクな表現を多く含むという理由で有識者会議から目をつけられる。
主人公は葛藤した挙げ句にあえて表現規制を無視した漫画を発表することを決意するが……。


というストーリー。

著者は、過去に自分の作品が長崎県の青少年保護育成条例で有害図書指定を受けたことがあるそうだ。
その経験を活かして『有害都市』を描いたそうで、なんともたくましい。

そんなしっかりしたバックボーンがあるからか、引き込まれる導入にじっくり考えさせられる問題提起。上巻は完璧に近い話運びだった(エピソード0もおもしろかった)。
テーマもいい。漫画でやるからこそ説得力があるテーマだ。

だったのだが……。

なんか急にやる気なくなった? とおもうぐらい後半から失速してしまった。
上巻はまっこうから表現規制に立ち向かいそうな雰囲気だったのに、下巻は個別の話に終始しちゃってた印象。アメリカの話とかもなんだったの?
ほんとに途中で表現規制が入って放りだしてしまったのか? とおもうぐらいのしりすぼみ感だった。
(ちなみに規制が入ったかどうかは知らないが、雑誌発表時に炎上して単行本収録時に一部差し替えたらしいが)

ううむ。有識者委員会に懲罰を与えるほどの権限があるのも謎だしな……。なんで堂々と私刑してるんだ?

規制賛成派の人間描写は最後までうすっぺらかったし、ラストも投げっぱなしの印象。せっかくのいいテーマだったのにな。



表現規制についてだけど、個人的には規制はある程度必要だとおもう。

差別表現とかはね。被害者がいるものはある程度はしかたないのかな、と。

ただ、「差別するのが目的の差別表現」と「差別を糾弾するのが目的であえて差別表現を使う場合」とがある。
「黒人は“ニガー”と呼ばれてさまざまな局面で差別されてきた。この悲劇をくりかえしてはいけない」みたいな使い方はアリだとおもう。
なので一概に「この言葉は使用禁止」とするのはダメだ。
今のテレビとかはそうなっちゃってるよね。
何も考えずにただ放送禁止用語だから使うのやめとこう、みたいな思考放棄。


グロテスク表現に関してはまったく規制すべきじゃないとおもう。
というか、小中学生ぐらいの頃に残虐なものに惹かれるのってきわめて健全なことじゃない。
「残虐な行為は心の底から嫌悪します! 視界に入らないようにしてほしいです!」みたいな中学生がいたらそっちのほうがよっぽど異常で将来が心配になる。

15歳未満禁止だとか18歳未満禁止とかやってるけど、無意味だとおもうけどな。
30歳過ぎて「うおー、グロテスクな描写たまんねー」みたいに言ってたら心配になるけど。



作中で、漫画家のひとりがこんなセリフを発する。
僕が思うにこれからの漫画は
作家の個人的な主張や
創造性を発揮させるようなメディアではなくなっていくと予測している
例えるなら工業製品のように
それぞれの工程に専門のプロが力を寄せ合って
ひとつの製品を磨き上げていくという形が主流になると思う

これ、ぼくも感じていた。というかもうなってるんじゃないかな。
最近の漫画はあんまり読んでないけど。

『約束のネバーランド』を読んだときに、「これは個人の才能の表出じゃなくて会社が生産した工業製品だな」と感じた。
一コマも一セリフも無駄がない。どうやったら読者が驚くか、どうやったら感動するかをマーケティングによってすべて計算してつくっているという感じ。
もちろんそうやってできた作品はおもしろいんだけど。ハリウッド映画に大外れがないのといっしょで。
でもちょっと寂しいよね。

商業雑誌に載るのはチームで作った工業製品漫画、個人芸術作品としての漫画はWebやSNSで発表するもの、という棲み分けができていくのかなあ。


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『約束のネバーランド』に感じた個人芸術としての漫画の終焉



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2020年7月28日火曜日

【読書感想文】おおらかさを他人に求めること / よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』

ごはんのことばかり100話とちょっと

よしもとばなな

内容(e-honより)
日々の家庭料理がやっぱり美味しい。子どもが小さいころの食事、献立をめぐってのお姉さんとの話、亡き父の吉本隆明さんが作った独創的なお弁当、一家で通った伊豆の夫婦の心づくしの焼きそば…ぎょうざ、バナナケーキ、コロッケのレシピと文庫判書き下ろしエッセイ付き。
食事や料理に関するエッセイ集。

ものすごくゆるーいエッセイで、意外な事実もないしオチもないし笑いどころもない。
もともと発表するために書いていたものではないそうだ。

だからつまらないかというとそんなこともなく、書かれている内容にはあっている。
毎日のやさしい家庭のごはんのような味わいの文章。
おもしろさはないけど、毎日読んでも飽きない文章。

吉本ばなな(2005年からペンネームが「吉本ばなな」になったそうです)の食に対する姿勢は、力が抜けている。
外食も好き、作るのも好き、おいしいのは好きだけどテキトーなのもいい、かたくるしくなくていい、健康には気をつけるけどたまには手を抜いてもいい。そんな感じ。

小さい子どもを育てている人ならではの境地、という気がする。

若いころは「おいしいものをつくらなきゃ!」「おいしいものを食べたい!」という気持ちになりがちだけど、子どもにごはんを食べさせないといけない人はそんなこと言ってられないもんね。
どんなにがんばってつくっても子どもは平気で残すし皿ごとひっくりかえすこともある。
だけどとにかく毎食毎食作って食べさせなきゃいけない。
「子どもが食べてくれる」が最優先。その次が栄養。味とか盛り付けとかは二の次三の次。
そういう心境がエッセイのふしぶしから感じられる。

ぼくの家にも六歳と一歳の娘がいるので、この心境はすごく共感できる。
(といってもうちで料理をするのはもっぱら妻なんだけど)



何年か前に、吉本ばななさんのエッセイが何度かネットで炎上していた。

ほじくりかえすようで恐縮だけど、
「タトゥーを入れていることを理由に公衆浴場への入場を断られたので叱ってやった」
「居酒屋にワインを持ち込んで飲んでいたら持ち込みはやめてくれと言われた。ちょっとぐらいいいじゃないかと言ったのに融通を利かせてくれなかった。店側は商売というものをわかっていない」
みたいなことを書いて、「それはおまえが悪い」と非難されていた。

タトゥーについてはさておき(そもそもタトゥーを入れる人の気持ちがぼくには理解できないので)、ワインの持ち込みについてはどっちの気持ちもわかる。

自分が客の立場だったら「ちょっとぐらいは目をつぶってくれてもいいじゃない。その分他でお金使うし」とおもうだろうし、店員の立場だったら「常連だからって許してたら他の客が真似をしたときに注意できなくなる」とおもう。

(まあ吉本ばななさんが炎上していたのは、持ち込み云々よりも「私のような有名人には融通利かせてくれたっていいじゃない」的なことを書いたことが大きいんだけど)

この『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読んでいても、吉本ばななさんが「おおらか」を求めているのが伝わってくる。
細かいこというなよ、マニュアルに一から十まで縛られたくない、臨機応変に対応してほしい、常連客はちょっとだけ特別扱いしてほしい、という考えだ。

そういう考え方も理解はできる。
こっちが主流の国もあるとおもう。
五十年前の日本でもそういう考えが多数派だったんじゃないかな。
「奥さん、いいキャベツ入ってるよ。奥さんいつもきれいだからオマケしとくよ!」
みたいな世界だ。
吉本ばななさんにとってはこのほうが居心地がいいんだろう。

でもぼくなんかは「常連になってもそっけない態度をとってくる店」のほうが居心地がいい。
「あれ、最近来てなかったね。どうしたの?」なんて言われたら、もうその店には二度と行きたくない。
ビジネスライクな付き合いをしてほしい。
八百屋さんと仲良くなったら安く買える社会より、どれだけ不愛想でも同じお金を出せば同じサービスを享受できる社会のほうが居心地がいい。
たぶんこっちのほうが今は主流派だ。

常連客だけを相手にしているスナックとかを除けば、「常連さんを優遇して一見さんには厳しく」で商売をやっていくのはむずかしい。
二十一世紀の日本では、あまり受け入れられない価値観だろう。

たぶん吉本ばななさんの炎上エッセイも、もっとおおらかな国だったら共感を持って受け入れられたんだろうね。


とはいえ。
「おおらかでありたい」とおもうのはいいんだけど、吉本ばななさんの考えはどっちかっていったら「みんなもおおらかであってほしい」なんだよな。

「わたしは一見も常連も同じ対応のチェーンの居酒屋よりも、常連だけ特別扱いしてくれるスナックのほうが好き」
っていうのは自由だけど、
「あのスナックは常連を特別扱いしてくれるんだからこの居酒屋も常連を優遇してよ!」
ってのはさすがに通用しないだろう。

おおらかでない人に対して「おおらかになれ!」というのはおおらかじゃない。



料理における「引き算」について。
 他にもともちゃんは「カルディで売っている『昆布屋の塩』とタマゴだけで作るチャーハン」というのも伝授してくれたが、これもおいしかった。
 塩のつぶつぶが舌に触るときにふっと後をひく味になるのがポイントで、ともちゃんの言うには、欲張ってネギなど入れるといきなりだめになる。あくまで入れるのはそのふたつだけでないとだめだそうだ。
 さすが料理のプロだけあって、ちゃんと実験しているし、なによりも引き算ができるのがすばらしい。料理のプロに会うといつも思うが、みな、とにかく減らし方が上手なのだ。ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考えなんだなあ。
ああ、わかるなあ……。
ぼくは、典型的な「足し算で失敗するタイプ」だ。

これだけだとちょっと寂しいかも。
冷蔵庫になんかないかな。
これたしてみよう。おいしいものにおいしいものを入れたらもっとおいしくなるはず。
で、あれもこれもと入れて毎回似たようなごった煮料理になってしまう。

デザインなんかでも「足す」より「抑える」「削る」ほうがむずかしいっていうもんなあ。
「ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考え」、これは肝に銘じておこう。



 昔読んだのだが、食生態学者であり探検家でもあった西丸震哉さんはきゅうりが大嫌いで、ほんとうに飢えてせっぱつまればきっと食べるだろうと思っていたら、戦時中死にかけていてもやっぱりきゅうりは食べられなかったそうだ。この話と、その話たちは、対極にある話だなあと思う。でも得られる教訓は似ている。
 そうだ、どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ。そしてどんなにたいへんなときでも、ほんとうに嫌いなものをむりに好きになることはないんだ、心は自由なんだ。
このエピソードから「どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ」という教訓を引きだすのはちょっと無理がある気がするが、なんだかおもしろエピソードだな。

どんなに飢えても嫌いなものは食べたくない、ってのは合理的でないような気もするけど、種の保存という点で見ればもしかしたら理にかなっているのかもしれない。
飢饉のときにみんなが新種のキノコを食べて飢えをしのいだら、もしそのキノコが毒を持っていたときに全滅しちゃうもんね。
そこで「いやおれは腹が減ってもキノコは食べない」って人がいれば、毒にあたらなくて済む上に、ライバルが減って(毒キノコで死んでいるので)食糧にありつける可能性も増える。

って考えると、どれだけ困窮してもきゅうりを食べない人の話は、「人間らしいエピソード」ではなく「遺伝子の乗り物らしいエピソード」ってことになるよね。


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2020年7月27日月曜日

【読書感想文】最上級の敬称 / 俵 万智『言葉の虫めがね』

言葉の虫めがね

俵 万智

内容(e-honより)
たとえば万葉集をひもとけば、千年以上前の言葉が、そこにはある。私が口ずさめ、千年の時空を越えて、鮮度を落とすことなく言葉は蘇る。言葉は、永遠なのだ。けれどたとえば、今日私が恋人に言った「好き」という言葉は、今日の二人のあいだで成立している、たった一度きりのもの。言葉は一瞬のものでもあるのだ―。読むこと、詠むこと、口ずさむこと。言葉を観察し、発見するエッセイ集。

読んでいる途中で気が付いたけど、この本は過去にも読んだことがある。
高校生のときに俵万智氏の著作を読みあさっていたので、たぶんそのときに読んだのだろう。

しかし約二十年ぶりに読みかえしてみると、そのときとは違ったおもしろさがある。

後半は短歌評、前半は「最近の言葉の移り変わり」について書いているが、なにしろ二十年前の「最近」なので今読むと逆に新鮮だ。

列挙ではなく断定を避けるための「とか」や、副詞として使う「超」などが「最近の風潮」として取り上げられているが、そのあたりはすっかり定着した。
2020年の今、「超」を若者言葉とおもっている人はいないだろう(逆におじさんおばさんくさい言葉かもしれない)。

ずっと同じ言葉を使っているようで、二十年前に読んだり書いたりしていた言葉とはずいぶん変わっているんだろうな。



パソコン通信(これも時代を感じるが)について書かれた文章。
 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、やわらかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく(なかには文筆業の人もいるが)ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかもなかば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かってあっただろうか? パソコンという道具を手に入れることによって、「ものを書く」という時間が、人々のあいだで急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたとも言えるだろう。
たしかにパソコン通信、インターネットの誕生って、活版印刷の誕生と同じくらい言文界にとってはエポックメイキングな出来事だよね。

「名もない人」の「特に価値があるわけでもない文章」が「校正校閲を受けずに」広く読まれる時代ってこれまでなかったわけだからね。

ぼくは、インターネットが広まったここ二十年を、「ばかが明るみに出た時代」だとおもっている。
いやこれぜんぜん悪い意味じゃなくて。
むしろすばらしいことだとおもう。

いつの時代でもどんな場所でもばかっていたわけじゃない。っていうか大半はばか。もちろんぼくやあなたもね。
歴史の教科書を見るとローマ帝国には賢人とか思想家だらけだったような気がするけど、じっさいにはその何百倍、何千倍ものばかがいたはず。

でもばかの思考はまず記録されなかった。
「おもしろいばか」とか「強烈すぎるばか」とかは何かしらの形で取りあげられることもあったかもしれないけど「笑えないタイプのばか」とか「平均をやや下回るばか」とか「一見まともなこと言っている風のばか」とか「他人の意見をそれっぽく使いまわすだけのばか」とかは履いて捨てるほどいるうえにおもしろくもないから、そいつらの発言は残らなかった。

会って話せば「ばかがばかなこと言ってら」とわかるけど、誰もそれを記録しないからそれっきり。

だけどインターネットの普及によって誰でも情報発信できるようになった。
まだパソコンを使うにはある程度の情報リテラシーが必要だったけど、スマホの登場によってそれすらも必要なくなった。
誰でも、世界に向けて情報発信できるようになった。
世界に向けて情報発信するような価値のない言葉を。


ぼくが子どものころ、大人はみんなちゃんとしているとおもっていた。
みんな思慮深くて感情をコントロールできて自制心があって少なくとも義務教育レベルのことは確実に理解しているものだと。

でも、今の子どもって昔ほどそんな幻想を抱いていないんじゃないだろうか。
インターネットに接続すれば、あほな大人、身勝手きわまりない大人、子どもより子どもっぽい大人の姿をかんたんに見ることができるのだから。

いいことなんだろうか。悪いことなんだろうか。



自作短歌の舞台裏。
 そういえば教師になりたてのころ、こんな短歌を作ったことがあった。

  万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 自分のような未熟者を、「先生」として見てくれる生徒たちへの、責任感や緊張感を詠んだ歌だ。が、現実はというと、

  先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 である。下校のときなど、自転車の二人乗りをした生徒らが(二人乗りは禁止されている)校門のところで私を追い越しながら、「万智ちゃーん、バイバーイ」なんて言って手をふって遠ざかっていく。別に私をバカにしているわけではなく、それが彼らの親愛の情の表現なのだ。
『サラダ記念日』だったか『チョコレート革命』だったかに収められていた歌だと記憶しているが、なるほど個人的には「先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて」のほうがしっくりくる。

ぼくが通っていた高校では、気に入らない教師は呼び捨て(または不名誉なあだ名)だったが、人望のある教師は「〇〇さん」と呼ばれていた。
「〇〇さん」は生徒たちからの最上級の敬称だった。
形式的には「〇〇先生」のほうがより敬意のある言い方ってことになるんだろうが、じっさいはそうではない。

「〇〇先生」はよそよそしさのある呼び方だ。ほとんど話したことのない教師に対する呼び方。
一方「〇〇さん」は人間として信頼できる教師に対する呼び方だった。あの人は機嫌ひとつで態度を変えたりしない、生徒によって接し方を変えたりしない、言動が一貫している、もしも誤ったときは素直に間違いを認められる人だ。そんな評価が下された教師が「〇〇さん」と呼ばれていた。

教え方がうまいとか、怒るとこわいとか、そんなことは関係がない。
授業が退屈でも、怒るとヤクザのような言葉遣いをしても、生徒に対して誠実な対応をする教師は「〇〇さん」だった。

だから俵万智先生に「万智ちゃーん、バイバーイ」と声をかけた生徒の気持ちがよくわかる。
きっと最上級の敬称だったんだろうな。


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2020年7月22日水曜日

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』

国家はなぜ衰退するのか

権力・繁栄・貧困の起源

ダロン・アセモグル (著)  ジェイムズ・A・ロビンソン (著)
鬼澤 忍 (訳)

内容(e-honより)
繁栄を極めたローマ帝国はなぜ滅びたのか?産業革命がイングランドからはじまった理由とは?共産主義が行き詰まりソ連が崩壊したのはなぜか?韓国と北朝鮮の命運はいつから分かれたのか?近年各国で頻発する民衆デモの背景にあるものとは?なぜ世界には豊かな国と貧しい国が生まれるのか―ノーベル経済学賞にもっとも近いと目される経済学者がこの人類史上最大の謎に挑み、大論争を巻き起こした新しい国家論。

世界には豊かな国と貧しい国がある。

人生は努力によって決まる部分もあるが、それ以上に「どの国に生まれるか」によって決まる。
世界的大企業として名高いGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の創業者である‎ラリー・ペイジやスティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾスは類まれなる能力の持ち主で、たいへんな努力をしてきたのだろう。だが彼らがアメリカ人でなかったとしても、世界に通用する大ヒット商品を生みだせていただろうか。まあ無理だろう。
もしも北朝鮮に生まれていたら。ぜったいに無理だっただろう。
成功するかどうかの99%は「どこに生まれるか」で決まってしまう。北朝鮮で上位10%に入るぐらい知力と行動力のある人でも、政府上層部にコネクションがなければアメリカの下位10%よりも貧しい暮らしをすることになる。


なぜ裕福な国と貧しい国があるのか。
ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』はその原因を、主に地理的な要因にあると論じた本だった。
ユーラシア大陸がいち早く経済成長したのは、動植物の分布や地理が集団生活に有利だったからだ、と。

ところが『国家はなぜ衰退するのか』は『銃・病原菌・鉄』の説に異を唱える。
地理的な要因によって決まるのだとしたら、ほぼ同じ地理的条件を持ちながら経済規模がまったく違う国があるのはなぜなのか、と問う。

たとえば、我々日本人になじみの深いところでいうと、韓国と北朝鮮の違い。
 韓国と北朝鮮の経済的運命がくっきりと分かれたことは、驚くに値しない。金日成の計画経済とチュチェ体制はまもなく大失敗に終わった。控えめに言っても秘密主義の国である北朝鮮から、詳細な統計を入手することはできない。にもかかわらず、入手可能な証拠によって、繰り返される飢饉からうかがい知れる状況が立証されている。つまり、工業生産が軌道に乗りそこねただけでなく、実のところ北朝鮮は農業生産性の急落を経験したのである。私有財産を持てないせいで、生産性増進のため、あるいは維持のためにすら、投資や努力をするインセンティヴを持つ人はほとんどいなかった。息の詰まるような抑圧的な政治制度は、イノヴェーションを起こしたり新しいテクノロジーを取り入れたりするには不向きだった。だが、金日成、金正日、さらに彼らの取り巻きは、体制を改革したり、私有財産、市場、私的契約を導入したり、政治・経済制度を変えたりするつもりはなかった。北朝鮮の経済は停滞しつづけた。
 一方韓国では、経済制度によって投資と通商が促進された。韓国の政治家は教育に投資し、高い識字率と通学率を達成した。韓国企業はすぐに、以下のようなものを利用するようになった。まずは比較的教育水準の高い人材。次に、投資を奨励したり、工業化、輸出、技術移転を促進したりする政策。韓国はあっというまに東アジアの「奇跡の経済」に仲間入りし、世界で最も速く成長する国の一つになった。わずか半世紀ほどを経た一九九〇年代末までに、韓国の成長と北朝鮮の停滞は、かつては一つだった国を二分した両国のあいだに一〇倍の格差を生み出した。
 ――二世紀後にはどれほどの違いになるかを想像してほしい。韓国の経済的成功と対置すると、数百万人を飢餓に陥れた北朝鮮の経済的崩壊は際立っている。文化も、地理も、無知も、北朝鮮と韓国の分岐した進路を説明できない。答えを出すには制度に目を向けねばならないのである。
韓国と北朝鮮の民族は同じ。元々ひとつの国だったので使う言葉も同じ。文化もほぼ同じだった。
朝鮮半島の南北なので気候も近い。どっちかといったら、中国やロシアに近い北朝鮮のほうが通商の面では有利かもしれない。実際、南北に分かれた当初は北のほうが裕福だったという話もある。

だがそれから数十年で国の豊かさは天と地ほども開いた。
韓国は先進国の仲間入りをし、北朝鮮は世界の最貧国に転落した。

これは地理的要因では説明できない。
説明できるのは政治制度だけだというのが『国家はなぜ衰退するのか』の主張だ。


うん、おもしろい。
おもしろいし納得もいく。
……だけど、ものすごく冗長。

冒頭の2割ぐらいで言いたいことをほぼ言いつくしちゃって、後は手を変え品を変え、
「ほら、ここもそうでしょ」
「ほら、こんな例もあるよ」
「ほら、このケースも我々の説を裏付けてるよね」
とくりかえしているだけ。

イギリス、フランス、アメリカ、オーストラリア、北朝鮮、中国、日本、メキシコ、シエラレオネ、ジンバブエ、南アフリカ共和国、ソマリア、ソ連、アルゼンチン、コロンビア、ブラジル……。とにかくいろんな国のケースを挙げて「ほら、ぼくたち正しいでしょ」と言っている。
もうわかったから!

中盤はほんと退屈だったな……。



産業革命がイングランドで起こったのは、それが起こるだけの制度を持った国だったから。
たまたまイングランドで起こったわけではない。当時のイングランドの人が他の国よりとりわけ賢かったわけでもない。
 こうした状況が変化したのは、名誉革命後のことだった。政府が採用した一連の経済政策によって、投資、通商、イノヴェーションへのインセンティヴがもたらされたのだ。政府は意を決して財産権を強化した。その一つである特許権によってアイデアへの財産権が認められ、イノヴェーションが大きく刺激されることになった。政府は法と秩序を保護した。歴史上初めて、イングランドの法律がすべての国民に適用された。恋意的な課税は終わりを告げ、独占企業はほぼ完全に廃止された。イングランド国家は商業活動を積極的に後押しし、国内産業を振興するために手を打った。産業活動の拡大に対する障害を排除しただけでなく、イングランド海軍の総力を挙げて商業的利益を守ったのだ。財産権を合理化することによって、政府はインフラ、とりわけ道路、運河、のちには鉄道の建設を促進した。それらは産業の成長にとってきわめて重要なものとなった。
 これらの基盤によって人々のインセンティヴは決定的に変化し、繁栄のエンジンが駆動した。こうして、産業革命への道が開かれたのである。産業革命は何よりもまず大きな技術的進歩に依存しており、この進歩は過去数世紀にわたってヨーロッパに蓄積された知識基盤を活用していた。産業革命は過去との完全な決別であり、それが可能となったのは、科学研究および多くのすぐれた個人の才能のおかげだった。こうした変革のあらゆる力の源は市場だった。市場は、開発され、応用されるテクノロジーから利益を引き出す機会をもたらしたからだ。人々が自分の才能を適切な職業に向けられるようになったのは、市場の包括的な本性のおかげだった。産業革命は教育と技能にも依存していた。ビジョンを携えた起業家が現れ、新たなテクノロジーを活用して事業を興し、そのテクノロジーを使いこなす技能を持つ労働者を見つけられたのは、少なくとも当時の水準からすれば比較的高度な教育のおかげだったからだ。
イノベーションによって当人に利益がもたらされなければ、イノベーションは起こりにくい。
エジソンがいくつもの発明を生みだしたのは、当時のアメリカが、発明と特許によって大儲けできる国だったから。
発明をしても権力者によって搾取される国であれば、発明をしようという意欲は削がれてしまう。

また、治安が悪く、暴力によってかんたんに財産を略奪されるような国でもイノベーションは起こりにくい。
目立つことで身体に危害が及ぶなら、つつましく生きることが最適な生き方となる。

もっとも、収奪的制度の国だからといってまったく経済成長をしないわけではない。
旧ソ連だってはじめはそこそこうまくいっていた。
だが自由な競争が妨げられる社会では、イノベーションが起こらない。やがて経済成長は止まる。
 収奪的な制度がなんらかの成長を生み出せるとしても、持続的な経済成長を生み出すことは通常ないし、創造的破壊を伴うような成長を生み出すことは決してない。政治制度と経済制度がともに収奪的であるなら、そこには創造的破壊や技術的変化へのインセンティヴは存在しない。資源と人材を配分するよう国家が命令することによって、少しのあいだなら急速な経済成長を生み出せるかもしれないが、こうしたプロセスには本質的に限界がある。その限界に達すれば成長が止まってしまうのは、一九七〇年代にソ連で見られたとおりだ。ソ連が急速な経済成長を成し遂げたときでさえ、経済の大半の領域で技術的変化はほとんどなかった。軍事に大量の資源をつぎ込むことによって軍事技術を発達させ、宇宙と原子力の開発競争において一時は合衆国をリードさえできたというのに、である。しかし、創造的破壊も幅広い技術革新も伴わないこうした成長は、持続的なものではなく、突如として終わりを告げたのだった。
今、中国の経済はどんどん成長している。
自由競争が認められるようになり、今や世界一、二を争う大国だ。

だが中国は収奪的な政治制度を有している国だ。
どれだけ経済的に成功を収めても、共産党の胸三寸ひとつでつぶされてしまう可能性がある。
だからリスクをとってイノベーションに挑戦するメリットは薄い。

『国家はなぜ衰退するのか』の説を信じるなら、中国の成長はやがて止まる可能性が高い(ロシアも)。



この本を読むと、収奪的な政治的・経済的制度を持った国がいかに多いかに驚かされる。
我々にとってなじみの深いのは北朝鮮ぐらいだけど、特にアフリカや南米ではそっちのほうが多いぐらい。
限られた権力者グループだけが富を独占し、社会全体は貧困のまま据えおかれる。

こういう国ではイノベーションはめったに生まれない。

多くの船舶を所有して海運業を牛耳っている人物は、飛行機の開発を望まない。それは自身の権力や財産を脅かすことになるからだ。

新聞社のオーナーはインターネットの普及を苦々しく見ていたにちがいない。
もしも新聞社の社主に絶大な政治的権力があったなら、インターネットの使用は厳しく規制されていたはずだ(それどころかラジオやテレビだって普及しなかっただろう)。

北朝鮮でもメキシコでもシエラレオネでもジンバブエでもアルゼンチンでもコロンビアでも権力者たちは
「国全体を豊かにすることよりも、国が成長しなくても自分の権力を強化できる道」
を選んでいる。
北朝鮮のような独裁国家は決して例外的な存在ではなく、むしろそっちが標準なのだ。

北米や西欧のように権力が分散して自由な競争が保たれている国のほうがむしろ例外。


『国家はなぜ衰退するのか』には、
「自由な競争がおこなわれる社会をめざしたけど、結局一部の権力者だけが富を独占する国家になった」例がいくつも挙げられている。
逆に、「権力者が独占していた富を広く国民に分配するようになった」例は数えるほどしか挙げられていない。

産業革命当時のイギリスが当時としては比較的自由な競争を認められる社会だったのは、ペストや黒死病のおかげで労働人口が減ったからでもある。

かつては植民地だったアメリカやオーストラリアは自由競争社会になったが、これもたまたま略奪するような資源が乏しかったから。
もしも当時のアメリカや土地が資源にあふれる魅力的な土地だったなら、軍事力を持った連中が押し寄せてあっという間に富を独占していたことだろう。
だが幸か不幸か大した資源がなかったから、移住してきた人々は少ない資源を効率的に使うために各々の自由を認める必要があった。

今ある自由な競争は、決して理念によって達成されたわけではない。
人間は本性的に奪いたいのだ。

他者から収奪できないような状況のときにだけ、手を取り合ってお互いに発展することをめざすのだ。



二十一世紀の日本に暮らしていると、まるで自由競争社会があたりまえのようにおもってしまう。
だがこれは歴史的にも世界的にも例外的な状況なのだ。

油断していると、すぐに一握りの権力者が富を独占する国家になってしまう。
いや、もう収奪的制度になりつつあるかもしれない。

権力者に近しい企業や個人は優遇され、税金を優先的に流してもらえる状況だもんな。

日本の経済力がはっきりと衰退しつつあるのがなによりの証拠かもしれない。


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