バッタを倒すぜアフリカで
前野ウルド浩太郎
アフリカを救うためにバッタの研究に人生を捧げる昆虫学者の奮闘記・第二弾。
(前作『バッタを倒しにアフリカへ』の感想はこちら)
前作を読んでいない人には「アフリカを救うって何をおおげさな」とおもうかもしれないが、決しておおげさな話ではない。この人はアフリカで何万人もの命を救うかもしれない人なのだ。
サバクトビバッタのメスは一週間おきに百個ほどの卵を産み、それを生涯(数ヶ月)くりかえす。さらに幼虫は数週間で卵を生産できるようになるという。
もちろんほとんどの昆虫の例に漏れず、大半は天敵に食べられてしまい、大人になって卵を産めるようになるのはごく一部だ。が、それはあくまで通常時の話。
大干ばつが起こるとバッタの天敵が死滅してしまう。その後に大雨が降ると、大量のバッタが捕食されないまま成虫となり、とんでもない大繁殖をする。なにしろ数週間で数百倍になるのだ。ねずみ算どころの話じゃない。
こうして何百万、何千万、何億という数のバッタが群れになり、移動する。移動の途中でありとあらゆる植物を喰う。農作物はみんなダメになる。その被害は途方もない。バッタの大群が通った後には、比喩ではなく、草一本残らない。人間はもちろん、家畜も野生動物も被害を受ける。
ぼくは子どもの頃、手塚治虫の『ブッダ』や『シュマリ』を読み、バッタの大群の恐ろしさにふるえあがったものだ(『シュマリ』では人まで喰われていた)。
バッタの大発生を防ぐことができれば、アフリカの国々は大いに助かることになる。「アフリカを救う」は決してオーバーな表現ではないのだ。
バッタの繁殖を抑えるには、バッタの交尾や産卵について知らなくてはならない。交尾・産卵を邪魔することができれば数の増加を抑えることができるし、交尾中は無防備になるので殺虫剤散布も効果を上げやすい。
そのためにはバッタの雄と雌がどこにいるかを調べる必要がある。
離れたところからでもバッタの雌雄を見分けることができる能力。他の人が持っていても何の役にも立たない能力だが、著者はこの能力を駆使して、ある場所にいるバスが雄ばかりであることに気づく。それをきっかけに、それまで研究者の間でも知られていなかったバッタの繁殖行動に関する発見をするのだ。特殊能力が大発見につながるのだ。かっこいい。
この「目視でバッタの雄雌を数える」もそうだが、著者がやっていることはとにかく地道で労力のかかる作業だ。炎天下の砂漠で一日中バッタを観察したり、バッタが発生したと聞けば車を飛ばして駆けつけたり。
バッタ一匹一匹の身体に直接背番号をつけて30分ごとに観察して産卵記録をつけたり。
うーん。ハードだ……。ぼくはすぐに「なんとかして楽をできないか」と考える人間なので、こういうひたすら地道な作業は大の苦手だ(逆にVBAやRPAのような作業を楽にしてくれるツールをいじるのは大好きだ)。
しかしぼくのようにな人間は、すでにあるものを加工することはできても、まったく新しいものを発見したり生みだしたりはできない。誰にも真似のできない発見や発明をできるのは、砂漠でバッタを追いかけたり、30分ごとにバッタの観察をしたりする人なのだろう。
著者は研究者としてももちろんすごいが、それに加えて、文章もおもしろい。なぜおもしろいかというと、人との関わり方が濃密だからだ。
アフリカの友人からビジネスをはじめたいと言われればポンと百万円単位の金を出す(事業は失敗し金は返ってこない)、賞をもらえば賞金は研究所の職員たちで分ける(しかも総額は賞金よりも高い)。
とにかく気風がいい。人のために気前よくお金を使う。労力も使う。だからみんなから好かれる。好かれるから評価が上がり、仕事やお金が入ってくる。それをまた人のために使う。なんとすばらしいスパイラルか。こういう人ばかりなら経済はすごく良くなるのだが。
お金だけでなく、「人のため」「社会のため」「未来のため」という著者の意識が本の節々にあふれている。
バッタという小さいものも追いながら、学問全体のことを考え、国家全体、世界全体の未来を見据えている。
なんかさ、「一般的な坂本龍馬のイメージ」ってあるじゃない。豪快で、視野が広くて、未来のことを見据えていて、誰からも好かれて、頼りになる感じのイメージ。実際の坂本龍馬がどうだったか知らないけど。
前野ウルド浩太郎という人はそのイメージにぴったり。
ほんと、百年後の教科書に載っているかもしれない人だしね。
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