2024年2月27日火曜日

【読書感想文】マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』 / 多様性だけあっても意味がない

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多様性の科学

画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織

マシュー・サイド(著)  トランネット(翻訳協力)

内容(ディスカヴァー・トゥエンティワンHPより)
経営者からメディア、著名人までもが大絶賛!なぜグッチは成功しプラダは失敗したのか。なぜルート128はシリコンバレーになれなかったのか。オックスフォード大を主席で卒業した異才のジャーナリストが、C I A、グローバル企業、登山隊、ダイエットなど、あらゆる業界を横断し、多様性の必要性を解き明かす。自分とは異なる人々と接し、馴染みのない考え方や行動に触れる価値とは?

(↑出版社HPの文章。「主席で卒業」じゃなくて「首席で卒業」だよね。学長じゃないんだから)


 様々な研究結果をもとに、多様性がある組織がいかに強いかを解説した本。

 たとえばCIA(アメリカ中央情報局)。当然ながらそこで働く職員は、みんな優秀な人たちだ。だが彼らは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を事前に見抜くことができなかった。実際にはテロリストの不穏な動きを示す様々なサインがあったので、多くの情報が集積するCIAなら事前に気づいてもおかしくなかった。

 にもかかわらず彼らがサインを見落としていたのは、CIAの職員が白人、男性、アングロサクソン系、プロテスタントという似たバックボーンの人たちばかりだからだと著者は指摘する。


 世の中には賢い人がいる。だが世界一賢い人でも、集団の力には適わない。

 たとえば同じテストを100人が受ける。1位の人は95点だった。この人とまったく同じ考えをするクローンを4人集める。平均点は95点だ。

 一方、テスト上位4人を集める。95点、94点、93点、92点の人たち。平均点は93.5点。

 平均点は前者のほうが高い。だが実際の成績は後者のほうが良くなる。違った人たちを集めれば、足りないものを補い合えるからだ。

 ここまでは納得しやすい話だろう。多様性は大事だ。最近SDGsだとかダイバーシティだとかよく聞くようになったけど、べつに道徳的正しさだけでなく、単純な損得のことを考えても、多様性は重要なのだ。


 だが。多様性が大事だと理解していても、実現するのはむずかしい。

 ほかにもこんな実験がある。米コロンビア・ビジネス・スクールのキャサリン・フィリップス教授は、被験者を特定のグループに分け、複数の殺人事件を解決するという課題を与えた。各グループには、証拠やアリバイ、目撃者の証言や容疑者のリストなどさまざまな資料が提示された。グループの半数は4人の友人で構成され、残りの半数は友人3人とまったくの他人――社会的背景も視点も異なる人物――が1人だ。本書をここまで読んだ方はもうおわかりだと思うが、結果は他人を含めたグループのほうが高い成績を上げた。彼らの正解率は75%。友人ばかりのグループは54%にとどまった。ちなみに個人で取り組んだ場合の正解率は44%だった。
 しかし特に興味深いのは次の点だ。多様性のあるグループと画一的なグループでは、メンバーがまったく異なる体験をしていた。前者はグループ内の話し合いについて「(認知的な面で)大変だった」と感じていた。多角的な視点でさまざまな議論がなされ、反対意見も多く出たからだ。しかも高い確率で正解を出したものの、それを知るまで自分たちの答えには強い自信を持っていなかった。
 一方、画一的なグループの体験は180度違っていた。彼らは気持ち良く話し合いができたと感じていた。みな似たような視点で、互いに同意し合うことがほとんどだったからだ。結局正解率は低かったが、自分たちの答えにかなりの自信を持っていた。つまり盲点を指摘されることはなく、それがあることに気づく機会もなかった。彼らは異なる視点を取り入れられないまま、自分たちが正しいと信じた。画一的な集団が犯しやすい危険はこれだ。重大な過ちを過剰な自信で見過ごし、そのまま判断を下してしまう。

 多様な人たちと同意するために話しあうのは大変なのだ。

 なかなか答えの出ない問題(たとえば安楽死に対する議論のような)に対して、「日本生まれ日本育ちの世襲政治家四人」で話しあうより、「障碍者の高齢男性、外国人専業主婦、フリーターの青年、女子中学生」で話しあうほうが、様々な立場から異なる意見が出る分、良い答えは出やすい。でも、後者のほうがずっと大変でストレスのかかる作業になるだろう。

 多様性が大事とわかっていても、それを実際の行動に落とし込むのは容易ではない。だから政治家でも企業でも「意思決定の場はおじさんばっかり」になっちゃうんだろうね。そしてちっとも賢明でない結論を導きだしてしまう。




 多様性の実現を妨げる要因のひとつが、ヒエラルキーだ。

 多様性が力を持つのは、それぞれの立場の人が臆することなく意見を言えるからこそ。だが人が集まるとヒエラルキー(上下関係)が生まれ、それが自由闊達な意見の交換を妨げる。

 ヒエラルキーは意図的に形成する場合もあるが、人間はそもそもこういう生き物なのだ。
 人の心の奥底にこれだけ浸透した順位制は、進化の過程で重要な役割を果たす。群れなり集団なりが選択に迫られたとき、それが単純な問題なら、リーダーが決定を下してほかの者が従うのが理にかなっている。そのほうが迅速に一体となって行動できる。進化の過程では、支配的なリーダーがいる集団のほうが勝ち残る確率が高い。
 しかし問題が複雑になると、支配的な環境が悪影響を及ぼす場合がある。ここまで見てきたように、集合知には多様な視点や意見――反逆者のアイデア――が欠かせない。ところが集団の支配者が、「異議」を自分の地位に対する脅威ととらえる環境(あるいは実際にそれを威圧するような環境)では、多様な意見が出にくくなる。ヒエラルキーが効果的なコミュニケーションの邪魔をするのだ。ヒエラルキーの中で生きることをプログラミングされた人間だからこそそうなる。これは一種のパラドックスと言っていいだろう。

 ヒエラルキーがあると、上司の意見に逆らえなくなる。結果的に「上司の言うことを復唱するだけのコピー」が量産されることになる。こうなるとメンバーに多様性があっても意味がない。

 ヒエラルキーが部下を萎縮させる力はすごい。

 173便の墜落事故後間もなく、フライトシミュレーターを使った研究調査で被験者の乗組員を観察した際も、同じ問題が起こった。「機長はあらかじめ間違った判断を下す(つまり能力が低い)フリをするように指示されていた。クルーが進言するまでの時間を計るためだ」とフィリンは解説する。「結果、クルーの反応を観察していたある心理学者はこう言った。『副操縦士らは機長に意見するより、死ぬことを選んだ』」
 この話をちょっと聞いただけでは、上司に意見するより死ぬほうを選ぶなどおかしなことに思えるだろう。自分ならそんなことはしないと考える。しかしこうした行動は無意識のうちに起こる。人は反射的にそうなる。どんな職場でも同じだ。部下はいつでも上司の機嫌をとろうと、意見やアイデアを持ち上げる。身振りや手振りを真似しさえする。多様性はそうやって排除される。決して最初から多様な意見がないのではなく、表明する場がないのだ。
 エラスムス・ロッテルダム大学経営大学院による研究では面白い結果が出ている。1972年以降に実施された300件超のビジネスプロジェクトを分析してみると、地位の高いリーダー(シニア・マネージャー)が率いるチームより、それほど高くないリーダー(ジュニア・マネージャー)が率いるチームのほうがプロジェクトの成功率が高かったのだ。これは一見すると驚くべき結果かもしれない。もっとも知識や経験のある人物が「いない」チームのほうが、いい結果を出せるとはどういうことか?

 なんと「上司に正しい意見を告げないと自らが命を落とす」ような場面ですら、人は意見を言うのをためらってしまう。実際、それが原因で多くの人が命を落とす登山事故や飛行機事故が起こっている。

 それは、いわゆる“えらい”リーダーがいるから。えらいリーダーがいると、
「こんなことを指摘したらリーダーが機嫌を損ねるから」
「悪いことが起こっているのに気付いたが、とっくに上司は気づいているにちがいないとおもった」
などの理由で、メンバーたちの自由な意見を封じることになってしまう。


 そこで、良い意見を集めて組織をブラッシュアップさせていきたいと考えるのなら、下からでもものを言いやすい“仕組み”が必要になる。「さあ忌憚のない意見を聞かせてくれ」でおもったことを自由に言えるなら苦労はしないわけで。

 心理的安全性が高い文化の構築に加えて、現代の最先端組織は、効果的なコミュニケーションを促す仕組みを取り入れ始めている。その1つは、Amazonが実践していることで有名な「黄金の沈黙」だ。10年以上前から、同社の会議は、PowerPointのプレゼンテーションやちょっとしたジョークではなく完全な沈黙で始めるようになった。出席者は最初の30分間、その日の議題をまとめた6ページのメモ(箇条書きではなく、いわばナレーションのように筋立てて文章化したもの)を黙読する。
 これにはいくつか効果がある。まず、議題を提案した人自身が、その議題について深く考えるようになる。CEOのジェフ・ベゾスはこう言う。「20ページのPowerPointプレゼンテーションを作るより、いい(中略)メモを書くほうが難しい。何がより重要かしっかりと考えて理解しておかないと、文章で説明することはできない」
 しかしこの黄金の沈黙にはもっと深い効果がある。ほかの人から意見を聞く前に、新たな視点に立って議題を見直すことができるのだ。文章に書き起こすことで、会議の前に、自身の提案の強みや弱みをそれまでとは別の角度から考えられるようになる。そして実際に会議が始まると、もっとも地位の高い者が最後に意見を述べる。このルールも、多様な意見を抑圧しない仕組みの1つだ。
 チームの効果的なコミュニケーションを促す仕組みの2つ目は、「ブレインライティング」だ。口頭で意見を出し合うブレインストーミングと要領は同じだが、こちらは各自のアイデアをカードなどの紙に書き出し、全員に見えるように壁に貼って投票を行う。「この方法なら、意見を出すチャンスが全員にあります」と米ケロッグ経営大学院のリー・トンプソン教授は言う。「1人や2人だけでなく、チーム全員の脳から生み出されるアイデアにアクセスできるので
 トンプソン教授は、ブレインライティングで守るべきルールはたった1つだという。「誰のアイデアか」を明らかにしないことだ。「これは極めて重要なルールです。意見やアイデアを匿名化すれば、発案者の地位は影響しません。つまり能力主義で投票が行われます。序列を気にせず、部下が上司に媚びることなく、アイデアの質そのものが判断されるのです。これでチームの力学が変わります」

 話す前に読む、地位の低い者から意見を言う、アイデアを匿名化する。なるほど、これならいろんな立場・性格の人から意見を集められそうだ。良いチームは良い仕組みを取り入れている。

 逆に上司が「おれは~とおもうんだけど君たちはどうおもう?」なんてやってる会議は無駄だからすぐにやめたほうがいい。劣悪上司の劣化コピーをつくっているだけなので。




 人間が集まると自然とヒエラルキーが生まれる。ただそのヒエラルキーには「支配型ヒエラルキー」と「尊敬型ヒエラルキー」の二種類があると筆者は書く。

 前者は「おれが上の立場だからおれに従え」と居丈高にふるまうリーダーのいるヒエラルキー。後者は、知恵や人徳で周囲からの尊敬を集め、自然にできるタイプのヒエラルキー。言うまでもなく、後者のほうが自由闊達な議論がなされ、正しい決定を導きだす可能性が高い。

 が、支配型ヒエラルキーにも(少ないながらも)いい面もあるという。それは、上意下達に向いていること。「法改正でこうなったから従うように!」のような、絶対に従わなきゃいけないルールを守らせるのは支配型ヒエラルキーのほうがスムーズだ。

 だから軍隊でも官僚組織でも、末端に関していえば支配型ヒエラルキーのほうがうまくいくかもしれない。問題は、その意識のまま意思決定権のあるトップにまで昇りつめてしまうこと。こうなるとよくない。

「おれが言ったことに黙って従え!」タイプは旅団程度の小さな組織のトップ(つまり中間管理職)には向いているかもしれないが、師団や軍団のような決断を強いられるポジションには向いていない。なぜなら「おれが言ったことに黙って従え!」タイプのもとには価値のある情報が集まってこないから。耳に痛いことを進言してくれるタイプがいなくなるので(いても冷遇されてしまうので)、「リーダーが聞きたい情報」しか入ってこなくなる。政治家なんかでもよく見るタイプだね。

 トップは黙って耳を傾けるだけ、みたいなのがあるべき姿なんだろうな。




「多様性」の恩恵を受けるには、必ずしも多様な人々を集めなくてもいい。なんとある実験によれば「外国に住んでいるところを想像する」だけで連想力が向上したという。

 研究分野を切り替える科学者がいい論文を書くとか、楽器や芸術活動にいそしむ科学者のほうがノーベル賞受賞者が多いとかのデータもあり、「自分が多様な人間になる」ことで思考の幅が広がるのだそうだ。




 イノベーションを生みだすのは、ひとりの天才ではなく、知恵が結集されたときだという話。

 こうした点について、ヘンリック教授は次のように考えてみるといいと言う。たとえば、2つの部族が弓矢を発明すると仮定する。一方は大きな脳を持つ頭のいい「天才族」。もう一方は社交的な「ネットワーク族」。さて、頭のいい天才族は、1人で個人的に努力をして、1人で想像力を働かせ、人生を10回送るごとに1回大きなイノベーションを起こすとしよう。一方ネットワーク族は、1000回に1回のみだ。とすると、単純計算では、天才族はネットワーク族より100倍賢いことになる。
 しかし、天才族は社交的ではない。自身のネットワークにはたった1人友人がいるだけだ。しかしネットワーク族は10人友人がいる。天才族より10倍社交的だ。ではここで、たとえば天才族もネットワーク族も全員が1人で弓矢を発明し、友人から意見を聞くとしよう。ただし友人1人につき、50%の確率で学びが得られるとする。その場合、どちらの部族がイノベーションを多く起こすだろう?
 実はこのシミュレーションの結果は我々の直観と相容れない。天才族の中でイノベーションを起こすのは、人口の1%のみにとどまるのだ。1人で発明にたどり着くのはその半数。一方ネットワーク族は、99%がイノベーションを起こす。1人で発明にたどり着くのは残りの0.1%のみ。しかしそのほかはみな友人から学び、改善のチャンスも得られ、さらにその知識をネットワークに還元できる。それがもたらす結果は明らかだ。これまでの実験データや歴史上の数々の実例を見てもわかる。次のヘンリック教授の言葉がその真実を突いている。「クールなテクノロジーを発明したいなら、頭が切れるより社交的になったほうがいい」

 よく言われるのは、ビートルズがあの時代のリバプールという小さな町で誕生した奇跡について。あれはべつに「世界的な音楽の才能にあふれる四人がたまたま同時期・近い場所にいた」のではなく、「そこそこ音楽の才能があった四人がいて相互に影響を与えたから世界的なバンドになった」のだろう。すごい人とすごい人がお互いに影響を与えあうことで、それぞれがもっとすごい人になる。

 若い頃は「すごい人間になりたい」とおもって孤高の存在にあこがれたけど、社交的になってすごい人間の近くにいくことのほうが大事だったんだなあ。中年になってから気づいたよ。もっと早く気づきたかった。


 互いに影響を与えあってイノベーションを生み出すのは個人だけでない。企業もまたそうだ。

 1960~1980年代には、ルート128と呼ばれるボストン周辺の企業が繁栄を極めていた。だが、やがてイノベーションの舞台はシリコンバレーへと移ってゆく。その原因は、ルート128は互いに孤立していたからだと著者は指摘する。

 こうした企業はほかから孤立するにつれ、極めて独占的になっていった。自社のアイデアや知的所有権を保護するため探偵を雇う企業もあった。人々の交流は社内の人間同士だけになっていった。各社のエンジニアが集うフォーラムやカンファレンスもほとんど開かれることはなかった。「秘密主義が顧客、仕入れ業者、競合企業などとの関係をすべて支配した」とサクセニアンは指摘する。またある識者も「壁はどんどん厚く、高くなるばかりだった」と言う。
 もちろん秘密主義そのものは理にかなっている。自社のアイデアを他企業に盗まれたくはない。しかしそれには代償を伴った。自社のエンジニアを幅広いネットワークから隔離した結果、多様な視点の交流や融合、それがもたらすアイデアの飛躍など、イノベーションを起こす土壌を図らずも塞いでしまったのである。そのためルート128周辺の企業は「縦割り」の力ばかりが働いたとネットワーク理論の専門家は言う。アイデアは階層的な組織の内部のみを流れ、外へ出ていくことはなかった。サクセニアンによれば、テクノロジーに関わる情報は各組織内に閉じ込められ、周辺の他企業など「横」への拡散はほぼ見られなかったという。

「成功の秘訣」だとおもっているものなんて、大した価値はない。ほんとに貴重なアイデアは特許をとるだろうし、人を囲い込もうとすればかえって有能な人ほど離れてゆく。


 そういえば。独創的なアイデアでもなんでもないけれど。

 高校生のとき、ぼくは数学がよくできた。ほとんどのテストで満点だった。だから数学の授業の前になると、友人や、そんなに親しくもない同級生がぼくのもとに集まってきた。「宿題教えてくれ」「これどうやって解いた?」と。ぼくはどんどん教えた。親切心というより、教えるのは優越感を味わえて楽しいから。結果、ますますぼくは数学ができるようになった。他人に教えることで自分の思考も整理されるし、他人の解法を見ることで新たな発見もある。陥りやすいミスにも気づける。

 自分の発見やアイデアなんてどうせたいしたことはない。どんどん他人に公開したほうが、結果的によいものが生まれる。




 一方。多様性は重要だが、単に多くの人が集まると、かえって多様性は損なわれるという話。

 しかし多様性豊かな環境は、矛盾した現象ももたらす。インターネット上でも実社会でも同じことが起きる。世界が広がるほど、人々の視野が狭まっていくのだ。多様な学生が集まる大規模なカンザス大学では、画一的なネットワークが生まれ、多様なビジネスマンが集まる交流イベントでは、顔見知りとばかり話す傾向が見られた。
 これは現代社会における特徴的な問題の1つ、「エコーチェンバー現象」「同じ意見の者同士でコミュニケーションを繰り返し、特定の信念が強化される現象」につながる。インターネットは、その多様性とは裏腹に、同じ思想を持つ画一的な集団が点々と存在する場となった。まるで狩猟採集時代に舞い戻ったかのようだ。情報は集団間より、むしろ集団「内」で共有される。

 大人数が集まる大学だと、自然と人種や階層ごとにコミュニティが生まれ、その中だけで過ごすことになる。反面、人数の少ない大学では、いやおうなくいろんな人種・階層の人が話す機会が増え、結果的に交流の多様性が高まるという。

 SNSも同じで、全世界のあらゆる人とつながれる……というのはあくまで理論上の話で、実際は自分と似た属性・思考の人たちばかりフォローするようになってしまう。そのため多様な考えに触れるどころか、自分がもともと持っていた考えを補強するような意見ばかり集めてしまう、余計に思想が先鋭化してしまうのだ。

 ぼくもいっとき旧Twitterで政治系のアカウントをあれこれフォローしていたからよくわかる。なるべく多方面の意見を見ようとおもっていても、やっぱり自分と真逆の考えに触れるのはストレスが溜まるから、どうしても近い思想の人ばっかりフォローしちゃうんだよね。それに気づいてもうSNSはほぼ見ていない。




 それまでの流れとはちょっとちがうけど、『平均値の落とし穴』の章もおもしろかった。

 被験者は食べたものをすべて、実験用に用意されたモバイルアプリに記録した。基本的に食べたいものを食べてよかったが、朝食だけは標準化されていた。具体的にはパンのみ、バターを塗ったパン、粉末状の果糖を水で溶いたもの、ブドウ糖を水で溶いたものを日替わりで摂取する。朝食の総数は5107食、その他の食事は4万6898食、総カロリーは1000万カロリーにのぼり、血糖値など健康状態を示すデータとともにすべて記録された。そして今回、エランは平均値を一切計算せず、共同研究者とともに一人ひとりの被験者の反応を詳細に分析した。
 結果は目を見張るものだった。被験者の中には、アイスクリームを食べて健康的な血糖値を示す人もいれば、すしを食べて乱高下する人もいた。これとはまったく逆の反応を示す人もいた。「医学的にも栄養学的にも、いわゆる平均とは異なる結果を示した人が大勢いました」とエランは言う。「まるで正反対の反応を示すケースも多々ありました」

「~は身体に良い」とか「~の食べすぎには要注意」なんていうが、あんまりあてにならないようだ。人間の身体というのは、我々がおもっているよりずっと多様で、それぞれ異なる性質を持っている。だからアイスクリームを食べると不健康になる人もいれば、アイスクリームで健康になる人もいる。

「~は身体に良い」というのはまったくの嘘ではないが、あくまで平均の話。そして身長・体重・その他あらゆる数値がすべて平均通りの人がいないように(すべて平均通りだとしたらその人はかなり異常だ)、みんな平均からそれぞれ離れている。

「~は身体に良い」の類は眉に唾をつけて聞いといたほうがいいね。

 最近では個人の血糖値データなどを測定して「この人にとっては~が血糖値を下げるらしい」といった診断もできるようになってきているらしい。それが一般化したら「同じ食事が誰に対しても同じ効果を上げるとおもっていたなんて21世紀初頭はなんて乱暴な時代だったんだ!」となるかもしれないね。




 ということで、ついつい引用が長くなってしまうぐらいおもしろい箇所だらけの本でした。ただ「多様性が大事!」だけじゃなくて、なぜ大事なのか、どうすれば多様性は損なわれるのか、それを防ぐためにはどうしたらいいか、などまで書いてくれているのがいいね。


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