2024年1月30日火曜日

【読書感想文】ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか 結婚・不倫・離婚の自然史』 / 愛は終わるもの

愛はなぜ終わるのか

結婚・不倫・離婚の自然史

ヘレン・E・フィッシャー(著) 吉田利子(訳)

内容(e-honより)
愛は4年で終わるのが自然であり、不倫も、離婚・再婚をくりかえすことも、生物学的には自然だと説く衝撃の書。男と女のゆくえを占う全米ベストセラー。

 1993年刊行(邦訳版)。

 居間において置いたら妻からいらぬ誤解を生みそうなタイトルだったので、カバンに入れておいて外出時にこそこそ読んだ。

「ヒトはなぜ愛しあった相手と別れるのか」を、生物学、人類史の観点から読み解いた本。すごくおもしろかった。




「愛はなぜ終わるのか」を考えるために、まずは「愛はなぜ終わらないのか」を考えなくてはならない。

 一夫一妻は自然なのか。
 そのとおり。
 もちろん、例外はある。機会さえあれば、男性は遺伝子を残すために複数の配偶者を得ようとしがちだ。一夫多妻もまた自然なのである。女性は不利益を資産がうわまわればハーレムに入る。一妻多夫もまた自然である。だが、複数の妻たちは争うし、複数の夫も角つきあわせるだろう。男も女も、よほどの財政的魅力がなければ、配偶者を共有しようとはしない。ゴリラ、ウマ、その他多くの動物はつねにハーレムをつくるのに、人間の場合だけ、一夫多妻も一妻多夫も例外的な選択でしかなく、一夫一妻がふつうなのだ。ひとは、強いてうながされなくても、ふたりずつペアになる。ごく自然な行動である。わたしたちは異性を誘い、情熱を感じ、恋におち、結婚する。そして大半が、一時にひとりの相手とだけ結婚する。
 一対一の絆は、ヒトという動物のトレードマークである。

 オスとメスが一対一で結びつく動物は多くない。一回限りの関係、乱婚、ハーレム、出会いと別れをくりかえす……。「決まった相手とペアになり一生過ごす」なんて動物は他にいない。

「おしどり夫婦」で知られるオシドリのように夫婦で子育てをする動物はいるが、これも繁殖期間だけの関係で、毎年相手を変えている。


 そう、相手を変えるのが自然で、一生連れそうほうが不自然なのだ。

 実際、人間社会でも何年かしたら相手を変える文化がある。

 ニサはわずかな言葉で、女性が性的多様性を求めることが、いかに適応に有利かを説明している。物質的な余剰だ。大昔、不倫をした女性は余分の品物やサービス、住み処食べ物が手に入った。これらは安全に守られて健康に過ごすための必要条件で、結局は余分の子孫を残すのに役立ったのだ。第二に、不倫は大昔の女性にとって、一種の保険の役割をしただろう。「夫」が死んだり、家庭を捨てたりしたら、親としての仕事をこなすにあたってほかの男性の助けを借りられる。
 第三に、大昔の女性が近視で臆病な、あるいは無責任でできの悪い「狩人」と結婚したら、ほかの優秀な遺伝子をもつ男性との子供をもうけることで、遺伝子の改良をはかれる。
 第四に、子供の父親がそれぞれちがっていたら、子供もまたさまざまだから、環境に予想外の変化が起こっても生きのびる確率がふえる。
 先史時代の女性は相手を選んで情事をするかぎり、余分の資源を手に入れ、保険をかけ、遺伝子を改良し、多様なDNAを生物学的未来に伝えることができた。だから、こっそりと恋人と藪のなかにしのびこむ女性が栄えた。そして、無意識のうちに、何世紀ものちの現代の女性のなかに浮気の性向を伝えたのであろう。

 ここに書いているのは女にとってもメリットだが、男にとっても同様のメリットがある。逆に、繁殖のパートナーを変えないことのメリットは特にない(パートナーが一途であることのメリットはある。いちばんいいのは自分だけ浮気をして、パートナーは浮気をしないことだ)。


 著者が様々な文化での「結婚から離婚にまで要した期間」を調べたところ、離婚を許されているほとんどの文化に共通して、「結婚してから四年ほど」で別れる割合が最も多かったという。

 この四年という期間は、妊娠・出産をして、子どもが乳離れする期間にあてはまる。子どもが乳離れすれば母親は自分で食べ物を捕りにいけるし、ということは父親なしでも子育てができるわけだ。

 だからヒトの異性に対する求愛が成功した場合、四年ほどで愛情は冷める。次の相手を探したほうが遺伝子を残す上でメリットがあるからだ。よく「男が浮気をするのは遺伝子で決まっている」なんてことを言うが、それは間違いだ。なぜなら女も浮気をしたほうが遺伝子を残す上で有利だから(上で引用した文章は女の浮気のメリットを書いている)。

 つまり、わたしの理論はこうだ。繁殖期間だけつがうキツネやロビンその他多くの種と同じように、ひとの一対一の絆も、もともと扶養を必要とする子供ひとりを育てる期間だけ、つまりつぎの子供をはらまないかぎり、最初の四年だけ続くように進化したのである。
 もちろん、さまざまな変形があっただろう。あるカップルは交配のあと数カ月あるいは数年妊娠しなかったかもしれない。子供が幼いうちに死んで、周期が再開されて関係が長期化することもあっただろう。子供が生まれなくても、好きあっているために、あるいはべつの配偶者が見つからないために、長くいっしょにいることもあったにちがいない。さまざまな要素が、太古の一対一の絆の長さに影響したはずだ。だが、季節が変わり、何十年か何世紀かがたってちくなかで、最初のホミニドのうち子供が乳離れするまで配偶関係を続け、逐次的一夫一妻を選んだ者たちが残る率が圧倒的に高かったのだろう。
 ひとの繁殖のサイクルによってできあがった、七年めの浮気ならぬ四年めの浮気は、生物学的現象のひとつなのかもしれない。

 パートナーを選び、セックスをし、子どもを産み、ある程度の大きさまで育て、パートナーとは四年で別れて新たなパートナーを見つける。それが遺伝子を残す上で最良(に近い)戦略であり、それこそが自然な生き方だ。だからこそ結婚後四年で離婚する夫婦が多いのだ。




 では、四年で別れるほうが遺伝子を残す上で有利なのに、多くの文化では夫婦が一生添い遂げるのが基本になっているのか。

 つまり考えるべきは「愛はなぜ終わるのか」ではなく「愛が終わってもなぜ別れないのか」だ

 その転換点になったのは、意外にも「鋤」の発明だと著者はいう。土を耕すのに使う、あの鋤だ。

 まず、これまでわかっていることを整理してみよう。鋤は重い。引くのに大きな動物がいるし、男の力を必要とする。狩人として、夫は日常の必需品の一部のほか、毎日の生活を活気づけるぜいたく品を供給していたが、耕作が始まると、生存のために不可欠の存在となった。いっぽう女性の採集者としての重要な役回りは、食物供給源が野生の植物から栽培作物に移るにつれて小さくなっていった。長いあいだ毎日の主たる食物の提供者だった女性が、今度は草とりや摘みとり、食事の支度といった二次的な仕事にたずさわるようになった。男性の農業労働が生存に不可欠になったとき、生活の第一の担い手が女性から男性に移ったという見かたで、人類学者は一致している。
 この生態学的要因———男女間のかたよった分業と、主要な生産資源の男性による支配だけでも、女性の社会権力からの脱落を説明するには充分だ。財布のひもを握っている者が、世界を支配する。だが、女性の凋落にはもうひとつの要因が働いていた。鋤を使用する農業の発展とともに、夫も妻も簡単に離婚できなくなり、力をあわせて土地を耕して働かなければならなくなった。パートナーのいずれも、土地の半分を掘りおこしてもっていくわけにはいかなかったからだ。夫も妻も共通の不動産にしばりつけられていた。恒久的な一夫一妻制である。
 鋤と恒久的な一夫一妻制が女性の地盤沈下にどんな役割を果たしたか、農業社会に特有なもうひとつの現象を考えるとさらにわかりやすい。階級である。太古の昔から、移動民のあいだにも狩猟や採集、交易の旅などのあいだに「ビッグ・マン」が生まれていたにちがいない。だが狩猟・採集民族には平等と分かちあいの強い伝統がある。人類の大きな遺産である公的な階級はまだ存在しなかった。だが、毎年収穫の計画をたて、穀物や飼料を貯蔵し、余った食物を分配し、長距離の組織的な交易を監督し、宗教的な集まりで共同体を代表して発言するために、長が登場してきた。

 農耕が広がり、女が独身で生きていくことがむずかしくなった。木の実や野草を集めてくるのは女だけでもできるが、鋤を引き、家畜を飼うのはひとりではむずかしい。また、夫婦が別れたときに財産を分割できなくなってしまった。集めた木の実を半分に分けることはできるが、耕作地や牛を分けることはできない。

 農耕の広がりにより、離婚がしづらくなり、男の立場が強くなった。

 つまり、男女の愛は四年ほどで終わるのが自然(ただし愛情は冷めるが愛着は強くなるので必ずしも別れたくなるわけではない)。農耕により離婚がをして生きていくことがむずかしくなり、離婚は悪であるという価値観が強くなった。

 ただし人類の歴史としては狩猟採集で生きていた時代のほうが圧倒的に長いので、パートナーへの愛情が覚める、浮気をしたくなる本能はなかなか抜けない。そのギャップのせいでいろんなトラブルが起きている。




 おもしろい本だった。人間に対する理解が深まった気がする。

 古い本なので最新の知見とはちがう部分もありそうだけど。


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2024年1月23日火曜日

【芸能鑑賞】『ロビンフッド』


ロビンフッド
(1973)

内容(e-honより)
イギリス、シャーウッドの森に住むおたずね者のロビンフッド。でも本当は、重い税金で人々を苦しめるプリンス・ジョンや悪い貴族をこらしめる、心やさしい正義の味方!囚われた仲間を助け出し、平和な森をふたたび取り戻すため、剣を自由に操り、得意の弓矢で敵を射ち、時には賢く変装をして大活躍。美しいマリアン姫や力持ちの相棒、リトル・ジョンなど、個性あふれるキャラクターたちも楽しく生き生きと描かれています。愛と勇気の冒険物語『ロビンフッド』は、世界中で親しまれてきた伝説を鮮やかに甦らせたディズニー・アニメーションの傑作です。

 今から五十年以上前の作品。

 ぼくが子どもの頃、家にディズニー映画のビデオテープが何本もあった。ミッキーマウス、ピーターパン、くまのプーさん……。いろいろあったが、いちばん好きだったのは『ロビンフッド』だった。何度も何度も巻き戻して、五十回は観たんじゃないだろうか。


 そんな『ロビンフッド』がAmazonプライムにあったのでレンタルして子どもに見せたところたいへんなおもしろがりよう。「またみたい!」と言うので、それじゃあということで購入した。

 特に下の子(五歳)がハマって、毎日のように観ている。五十回以上は観ている。ぼくもいっしょに観ることも多いので、通算百回は観ていることになる。




 今のディズニー映画(というより今の映画作品)に慣れた身からすると、『ロビンフッド』は昔の映画だなあという気がする。強くてかっこよくて正義感の強い主人公がいて、わかりやすい悪役がいて、かわいくて優しくて一心に主人公のことを想うヒロインがいて、気のいい仲間たちがいる。主人公は正義のために闘い、ピンチもあるけど知恵と勇気で切り抜け、悪いやつをやっつけて街には平和が訪れてお姫様と結婚してめでたしめでたし……。なんてありがちな話なんだろう。

 でも、それがいい。特に五歳の子にとっては。

 なんかさ、今のアニメって複雑だよね。ディズニー映画とかドラえもんとかの子ども向け作品であっても、二転三転、ピンチ、ピンチ、またピンチ。優しいとおもってた人物が実は悪いやつで、一見とっつきにくそうなやつが実はいい人で、悪いやつにもそれなりの同情すべき事情があって……とかなり複雑な構成になっていることが多い。

 もちろんそれはそれでおもしろいんだけど、子どもからすると、もっとシンプルに「いいやつが悪いやつをやっつけました。めでたしめでたし」って話が観たいんじゃないだろうか。大人だってたまにはそんなのが観たい。むずかしいことは考えずに「いけいけー!」と正義のヒーローを応援するような作品も観たい。

『ロビンフッド』はそんな期待に応えてくれる。いいやつはどこまでもいいやつで、悪いやつはとことん悪くて愚か。

 シンプルなストーリーが多いからこそひねった設定が光るのに、最近は猫物語ひねってくるんだもん。かえってシンプルなストーリーのほうが新鮮に見えてしまう。




 『ロビンフッド』の筋書きはわかりやすいが、だからといって退屈ではない。それはキャラクター造形がとにかく優れているから。

 勇敢で洒脱なロビンフッドはもちろん、包容力があって頼りになるリトル・ジョン、とにかくチャーミングなマリアン姫、最強の女官レディ・クラック、聖職者なのに実は武闘派のタック神父、ロビンフッドにあこがれる少年スキッピー坊や。

 どのキャラクターもいいが、特筆すべきは悪役もみんな魅力的なところ。マザコンで泣き虫のプリンス・ジョン、知恵者なのに冷遇されがちな参謀ヒス、冷酷だが小悪党意識の抜けないノッティンガムのシェリフ、凸凹コンビの早撃ちとトンマ、どの悪役もどこか抜けていて愛らしい(まあ早撃ちとトンマは職務をまっとうしているだけなので敵ではあるが悪くはないのだが)。


 うちの五歳児はロビンフッドだけでなく、プリンス・ジョンやシェリフのことも好きになってよく「ノッティンガムのシェリフが徴税するときにうたう歌」を口ずさんだりしている。たぶん今この歌をうたえるのはうちの子だけだぜ。シェリフ役の声優でももう忘れているだろう。




 重税に苦しむ民の様子など陰鬱な場面もあるのに『ロビンフッド』がずっとユーモラスなのは、それぞれのキャラクターを動物が演じているからだろう。

 最近だと『ズートピア』でもこの手法をとっていたが(おじさんにとって八年前は最近)、もっとやったらいいのにね。『ズートピア』も人種差別問題をそのまま描くと生々しすぎるから動物にして成功だった。

 これは邪推かもしれないけど、本当の『ロビンフッド』ってイングランドで悪政を敷いたジョン王に義賊・ロビンフッドが立ち向かう話で、仮にもイングランド王家の人を茶化すのはよくないってことで動物キャラクターにしたのかも。

 いい手法だよね。言いにくいことはどんどん動物に言わせて寓話にしたらいい。オーウェルの『動物農場』みたいにさ。


 ディズニーの長い歴史ではほとんど無視に近い扱いをされている不遇の作品だけど、今観ても十分おもしろいとおもうのでぜひ多くの人に観てほしい。

 ……とおもっていたらリメイクの話があるそうだ。

米ディズニー、アニメ版「ロビン・フッド」をリメイク Disney+向けに開発中

 リメイクされたらDisney+に加入しようかな……。


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2024年1月18日木曜日

オブラート VS おくすりのめたね

『おくすりのめたね』という商品がある。

 粉薬や錠剤など子どもが飲みにくい薬を、ゼリー状の物質で包むことで飲みやすくするという商品だ。子どもだけでなく大人でも使える。


 最近「『おくすりのめたね』が普及したせいで、オブラートが売れなくなっている」という話を耳にした。

 オブラートは絶滅寸前のようだ。そもそもぼくは薬を飲むのにオブラートを使ったことがない。オブラートを口にするのはボンタンアメを食べるときだけだ。それすら二十年以上食べていない。


 物質としてのオブラートは絶滅寸前だが、比喩の世界ではまだまだ現役だ。

「言いにくいことを遠回しに伝える」ことを指す比喩として「オブラートに包む」という表現が使われる。

 このまま物質としてのオブラートは消滅して「走馬灯」や「拍車」や「超新星」のように“比喩の中だけで生きる言葉”になるのだろうか。

 それとも比喩のほうでも消滅して、『おくすりのめたね』に取って代わられるのだろうか。

 義母に向かって来るなとも言えず、恵は「お忙しいでしょうし、わざわざ来ていただかなくて大丈夫ですよ」とおくすりのめたねに包んで伝えた。




2024年1月16日火曜日

【読書感想文】東野 圭吾『魔力の胎動』 / 超能力は添えるだけ

魔力の胎動

東野 圭吾

内容(e-honより)
成績不振に苦しむスポーツ選手、息子が植物状態になった水難事故から立ち直れない父親、同性愛者への偏見に悩むピアニスト。彼等の悩みを知る鍼灸師・工藤ナユタの前に、物理現象を予測する力を持つ不思議な娘・円華が現れる。挫けかけた人々は彼女の力と助言によって光を取り戻せるか?円華の献身に秘められた本当の目的と、切実な祈りとは。規格外の衝撃ミステリ『ラプラスの魔女』とつながる、あたたかな希望と共感の物語。

 最近、読むのに迷ったら東野圭吾の小説を手に取ることが多い。よりくわしく書くと、あんまりむずかしいものは読みたくない、かといって中身がなさすぎるのもイヤ、読んでから後悔したくない、もっといえば本を選ぶことにエネルギーを消費したくない、つまりあまり気力がないときに選ぶのが東野圭吾作品ということだ。

 東野圭吾なら大ハズレはないよね、だ。


 今作はその期待にちょうど応えてくれる作品だった。ほどほどにおもしろくてほどほどに骨があってほどほどに退屈。

 正直言って、最近の東野圭吾作品には昔ほどの鋭い切れ味はない。うなるようなトリックとか、ミステリ界に風穴を開けてやろうとするような実験的作品はあまり見られない。その代わり、技巧はぐんと増した。ちょっとしたアイデアでも、その洗練された技術で充分読み応えのある作品にしてみせる。丁寧に仕込んだ煮物みたいな味わい。びっくりするほどおいしいわけではないが、毎日食べても飽きが来ないような味。




『魔力の胎動』は、『ラプラスの魔女』の続篇にあたる短篇集だ。

 ある事故をきっかけに「物理的な動きを予見する能力」を身につけた少女がキーマンとなっている。

 個人的には『ラプラスの魔女』は、東野圭吾作品にはめずらしくハズレ作品だった。まず導入が冗長で、さらに設定もいいかげんで「物理的な動きを予見する能力」だったはずが他人将来の行動を予測したり、話術で他人の行動を操ったり、ずるずると最初の設定がくずれてゆく。SFはルールをきちんと守るから成り立つのに、何の説明もなくルール無用の万能能力者になってしまうのだからSFの体をなしていなかった。


 ということで『魔力の胎動』はちょっと警戒しながら読んだのだが、本作はさすがの東野圭吾クオリティ。ちゃんと「物理的な動きを予見する能力」のルールを守っていて、心を読んだり人を操ったりといった反則はしない。

 また「物理的な動きを予見する能力」が重要なカギではあるが、それはあくまで小道具のひとつ。登場人物たちの心情の揺れがメインである。能力頼りの荒唐無稽な小説ではない。

「記録を伸ばすために風の力を借りたいスキージャンプ選手」「ナックルボールを捕れなくなってしまったキャッチャー」「あのときああしていれば、と過去を悔やむ父親」「恋人が死んだのは自殺だったのではないかと自分を責めるピアニスト」などの悩みのために、前述の動きを予見する能力を活かす。

 とはいえ能力で快刀乱麻を断つようにずばっと解決、とはならず、あくまで問題解決のための一助である。最終的に事態を切り開くのは自分自身だ。

 このあたりの塩梅がちょうどいい。超能力で事件を解決してもつまんないもんね。




「そこそこおもしろいものを読みたい」という期待に応えてくれる連作短篇集だったが、最後の『魔力の胎動』 だけは期待外れだった。

『ラプラスの魔女』の前日譚のような話なのだが、はっきり言ってこれだけ読んでもつまらない。『ラプラスの魔女』を読んだのは何年か前なので細かいところはもう忘れちゃったしな。『ラプラスの魔女』とセットで読ませたいのならそっちに収録してくれ。


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2024年1月10日水曜日

【読書感想文】レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』 / 孤立よりもいじめられていることに気づかないふりをするほうがマシ

女の子どうしって、ややこしい!

レイチェル・シモンズ(著)  鈴木 淑美(訳)

内容(e-honより)
突然口をきかなくなる、うわさを流す、悪口を書いたメモをまわす、じろじろ見て笑う…。女の子のいじめは間接的で巧妙なので、外からはわかりにくい。だが、いじめられた経験が心の傷になっている女性は少なくない。なぜ女の子はこんなことをするのか?本書の著者は、女の子独特のいじめを「裏攻撃」と名づけ、その実態を初めて明らかにする。そして、いじめにあったとき、辛い日々をどう乗り越えていけばいいのか、親身にアドバイスしている。いじめられた経験のある女性、いままさにいじめで苦しんでいる女の子やその親、学校関係者必読の全米ベストセラー。

 小学四年生の娘が、人間関係のトラブルに巻き込まれた。

 同じクラスの女の子三人と仲良くなり、何をするにも四人一組だった。だがその中のSという子が「○○を無視しよう」などと言い出し、S以外の三人が順番に無視されるようになった。さらにSがある子の持ち物を隠してその子が泣いたことで、教師の知るところとなった。

 うちの子は積極的に加担していたわけではないようだが、Sに言われるまま無視に協力したりしていたので(娘が無視されることもあったようだ)、親が教師から学校に呼び出される事態となった。

 教師や娘からいろいろ話を聞くかぎり、Sはなかなかの問題児のようだ。他の子の持ち物を盗ったり、しょっちゅう嘘をついたり。さらにいじめが発覚して教師から怒られた後も、教師の前でだけ反省するふりをしているがまったく反省せず、懲りずにいじめていた相手にわざとぶつかったりしているらしい。

 さらにSの母親もなかなかアレな人で、いじめ発覚後に会って話す機会があったのだが、「なんか先生が言ってることおかしいとおもうんですよね。うちの子が嘘をついてると決めつけてて」などと言っていた。子どもなんて嘘をつく生き物だろう、自分の子の言うことを全面的に信じられるほうがおかしいだろ、とおもったのだが「はあ、そうですか」と適当に相づちを打っておいた。子が子なら親も親だ。


 ま、それはよくある話だ。どこにだっておかしなやつはいる。いじめがない学校なんてほとんどないだろう。

 ぼくが理解できないのが、そんなことがあっても娘がSとの付き合いを断ちたがらなかったことだった。聞くと、いじめ発覚後、いじめられた子はもちろん、他の子もSとは距離をとっているようだ。「親からSちゃんと遊ばないように言われたから」とはっきり宣言した子もいるという。

 そこまではしないにしても、ぼくも娘にはSと距離を置いてほしいとおもう。ものを盗んだり、いじめがばれてもすぐにくりかえすような子は、そう簡単に改心しないだろう。今後もトラブルを起こす可能性が高い。

 なのに娘は「みんなが離れていったらSちゃんがひとりになっちゃうから」などと変な優しさを見せていた。いじめや盗みをして孤立するのは自業自得じゃないか、そんなやつに優しくしてもつけあがることはあっても改心することはないぞ、とおもうのだけど。

 ぼくは昔から「嫌なやつがどんなにひどい目にあってもざまあみろとしかおもわない」薄情な人間なので、嫌な目に遭ってもつきあいを断とうとしない娘の気持ちが理解できない。




 ということで2002年にアメリカで刊行されて話題になったという『女の子どうしって、ややこしい!』を読んでみた。数々のインタビューをもとに、女の子同士のいじめのパターンを明らかにした本だ。

 掲載されているのはアメリカのケースばかりだけど、たぶん日本の場合も大きくは変わらないだろう。傾向として、女子のいじめは明らかに男子のそれとは異なる。


 男子のいじめが友だちの外のメンバーに対して向かうのに対し、女子のいじめは仲良しグループ内で起こる。

 男子のいじめは強者が弱者を虐げる構造なのに対し、女子はいじめる子といじめられる子が頻繁に入れ替わる。

 女子のいじめは教師や親の目につきにくく、暴力やはっきりとした暴言を伴わないことも多いので、なかなか明るみに出ない。

 かんたんにいえば、女子のいじめのほうが複雑で巧妙ということだ。ばれにくいし、誰が見ても悪い暴力や暴言ではなく「冷たくする」「仲間に入れない」「気づかなかったふりをする」「ときには優しくする」など、一筋縄ではいかない方法をとる。

 著者はこれらの行動を、男子がよくやるあからさまないじめに対して「裏攻撃」と呼ぶ。

 いまや、もうひとつの沈黙に終止符を打つべきときだ。女の子たちの攻撃という隠れた文化では、いじめは独特で伝染しやすく、人をとことんまで傷つける。男の子の場合とちがい、身体や言葉を使った直接行動はとられない。私たちの社会では、女の子が公然といさかいを起こしてはいけないことになっているので、女の子の攻撃は間接的なかたちをとり、表面に出ない。陰口をきき、のけものにし、噂を流し、中傷する。あらゆる策を弄して、ターゲットに心理的な苦痛を与えるのだ。男の子の場合、いじめの対象は、それほど親しくない知りあいか外部の人間であることが多いが、女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっていると外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる。女の子たちは、攻撃に、拳やナイフでなく、しぐさや人間関係を用いる。ここでは友情が武器だ。相手に一日中沈黙されることにくらべれば、大声で怒鳴られることなどなんでもない。背を向けること以上に、人を打ちのめす反応があるだろうか。

 男子の暴力は、ある程度は許容されることが多い。「弱い者いじめはダメ」「無抵抗の相手を攻撃してはいけない」といったルールはあるが、「強くてまちがっている者に暴力で立ち向かう」「やられたからやりかえす」「誰かを守るために闘う」などはむしろ善しとされることも多い。「男の子はちょっとぐらいやんちゃなほうがいい」という価値観は今も根強く残っている。

 一方で女子の暴力や暴言は許されにくい。「女の子なんだからおしとやかにしなさい」と言う人は今では減ったが、それでも女子の暴力や暴言は男子のそれより厳しくとがめられる。

 その結果、抑圧された女子の攻撃は巧妙で間接的なものとなる。




 女の子のいじめ、親や教師が気づきにくいし、気づいたとしてもやめさせにくい。

 人間関係が武器になるなら、友情そのものも怒りをかきたてる道具となりうる。リッジウッドの六年生がこう説明する。「友だちがいたとしても、どこかに行ってほかの子と友だちになるんです。ただその二人にやきもちをやかせるためにね」。つきあいをやめたり、あるいはもうつきあわないわよと脅したりしなくても、ほのめかすだけでじゅうぶんだ。たとえばグループが一緒にいるとき、ひとりが、ある二人だけに、わざとらしく「ほんと、週末まで待ち遠しいわね!」という。あるいはグループからひとりをちょっと離れたところに連れだして、みなの目の前で内緒話をする。それから輪のなかに戻ってきて、「なんの話?」と訊かれると、決まって「べつに。あなたたちには関係ないことよ」。女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。

 こういういじめには、親や教師が介入しにくい。暴力をふるっていたら教師はすぐにやめさせるが、「あの子と仲良くしなさい!」と交友を強制することはできない(仮に強制したとしても仲間はずれにされていた子は救われないだろう)。友だちに対して秘密を持つな、とも言えない。


 ただ、こういう行動は男子もやる。ぼくもやったことがあるし、やられたこともある。友だちと、わざと別の子の前で「アレな」とか「ほら、例のやつ」などと言ったりするのだ。「教えてくれよ」などと言う子を見て楽しむのだ。底意地の悪い遊びだ。

 おそらく誰にでも経験があるだろう。大人でもやる。符丁をつくったり、自分たちの間だけに通じるあだ名をつけたりして、秘密を共有することで友情を深めることにもつながる。必ずしも悪いことではないのかもしれない。

 でも目の前でやられたほうはほんとに嫌な気になるんだよねえ。著者は「女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。」と書いているが、男の子も傷つく。ただ男子はやられたら「答えてくれるまでしつこく『なんのこと?』と訊きつづける」か「そのグループから離れる」のどちらかを選ぶケースが多いとおもうな。「自分がのけものにされていることを感じながらそのグループにいつづける」はあんまり選ばない気がする。

「ひとりっきりになるぐらいなら、いじめっ子グループに入っていじめられていることに気づいていないフリをするほうがマシ」と考えるのは女子のほうが多そうだ。




 この本を読んでいると、女の子は幼い頃から高度なコミュニケーションをとりかわしているんだなとおもう。いい面もあり、悪い面もあるが。

 暗号のなかには、複数の意味をもつものもある。「私、太ってるの」というよく聞かれる嘆きは、少なくとも三通りに訳せる。ある研究によれば、「私は太っている」という女の子で本当に太っている子はめったにいないそうだ。
 第一に、「私、太ってる」という言葉は、相手を出しぬくための間接的な道具となる。「女子は、たがいに太っているかどうか確認しあいますが、これは一種の競争なんです」と、ある八年生が説明した。「もしやせてる子が自分は太ってるといったら、私はどうなります? それは、相手はやせていない、と遠まわしにいうやり方なんです」。先の研究によれば、やせている子は、そのことをまるで「欠点か何かのように」非難される、ともいう。
 また、「私、太ってる」は、仲間からの肯定的な励ましを求める遠まわしな方法でもある。十三歳のニコルによれば、「ほめてもらいたくて、いうんです」。研究者たちは、「女の子たちが『私は太っている」というのは、他人が自分についてどう思っているかを推しはかるためだ。彼女たちは非常に競争心が強いが、そう見えないようにする」と述べている。
 第三に、「私、太っているから」といえば、「カンペキな子」といわれないですむ。自分のことを「太っていると思っている」という意思表示をしないと、「自分はダイエットをする必要がない、自分に満足している」という意味になってしまう。「いい女の子」は自分を卑下するものだから、相手にいってほしいほめ言葉をからめ手から引きだすのである。

「私、太ってるの」が攻撃にも自慢にも謙遜にも防衛にもなる。それらをいっぺんにおこなう高度なコミュニケーションだ。

 当然ながら、「私、太ってるの」と言われたほうも、「めんどくせえな」とおもっていることはおくびにも出さずにさもびっくりしたような顔で「えっ、ぜんぜんそんなことないじゃん!」と言わなければならないのだ。たいへんだ。

 男が「おれ太ってるんだよね」と言ったら文字通りの意味か冗談かのどっちかしかないし、言われたほうもハッキリと「そやな」か「『そんなことないよ』って言ってほしいんか」と言うだけだ。シンプルというか単純というか。ヒトとサルぐらいの違いがある。ぼくはサルでよかった。




『女の子どうしって、ややこしい!』では、様々な例を挙げて女の子同士の“裏攻撃”が日常茶飯事であることを示した上で、親の対応についても書いている。

 ほかの親たちを怒らせることを恐れるあまり、彼女はホープをじゅうぶんに守ることができず、ホープの苦しみを正当化することになってしまった。私が話を聞いたほとんどの母親たちは、ほかの親の反応を恐れて、行動を起こすのを躊躇していた。子育ての不文律の第一は、育て方について他人にとやかくいわれたくない、ということであり、第二は、他人の子を批判するのは危険、ということだ。子どもの行動を批判されると、親は往々にして自分の育て方が暗に攻撃されたと解釈して、自己防衛に走る。ときには不合理なまでに。

 子どもがいじめられていると知ったとき、特に裏攻撃を受けているとき、親が子どものためにできることはそんなに多くない。

 子どもに「そんな子とは友だちでいるのをやめてください」とか「嫌なことははっきり嫌と言いなさい」なんて言うのは無駄だ。子どもが望んでいることは関係の修復であって決別ではない。いつかは「あの人と離れてよかった」とおもう日が来るがそれは今ではないし、親に言われて気づくものでもない。

 学校やいじめている子の親に言いにいくのも良い結果につながらないことが多い。言って関係が改善することはまずないし、いじめられている子自身がそれを望んでいないことが大半だ。親への信頼をなくすだけ。

 ではどうしたらいいのか。著者は、親が直接できることはほとんどないと主張する。子どもの話をじっくり聞く、自分の体験談を話す(ただし押し付けない)、何かやってほしいことはあれば言ってほしいと伝える、それぐらいだ。しかしそれが大事なのだと著者は説く。

 基本的には子ども自身で立ち向かわなくてはならない。いじめには明確な理由がないことも多いので「いじめている子らがいじめに飽きて他のことに興味を移す」「進級や進学で環境が変わる」ぐらいしか解決方法がなかったりもする。

 それでも、何も知識がなくこんなひどい目に遭っているのは世界中で自分だけとおもうよりも、世の中はこういうもので自分に原因があるわけではないと知っているほうが、ほんのちょっとは生きやすくなるだろう。

 ニュースなどで語られるいじめは暴力やあからさまな嫌がらせのような“わかりやすいいじめ”ばかりだからこそ、見えにくいけどよくある“裏攻撃”について多くの事例を挙げているこの本は力になる。


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