2022年5月11日水曜日

【読書感想文】小林 賢太郎『短篇集 こばなしけんたろう』/活字は笑いをとるのに向いていない

短篇集 こばなしけんたろう

小林 賢太郎

内容(e-honより)
「小説幻冬」二〇一六年十一月号~二〇一八年十月号に連載されたものを再構成。「くらしの七福神」「第二成人式」「覚えてはいけない国語」「素晴らしき新世界」「なぞの生物カジャラの飼いかた」「新生物カジャラの歴史と生態」「落花8分19秒」「砂場の少年について」ほか。23篇。

 元ラーメンズ(で、いいんだよね? 芸能活動を引退したから)の小林賢太郎氏の短篇集。

 ぼくはラーメンズのファンで、DVDはすべて持っているし、舞台『TEXT』『TOWER』やKKPの『Sweet7』も生で観た。

 片桐仁氏も好きだが(『シャキーン!』が終わったのがつくづく残念)、多くのラーメンズファンと同じく、より好きなのはラーメンズのブレーン・小林賢太郎氏のほうだ。彼の作る舞台作品はほんとうに見事だ。


 そんな小林賢太郎氏による初短篇集(戯曲集は四冊出している)。

 まず褒めておくと装丁が美しかった。たいへん凝っている。電子書籍で販売していないのも納得の装丁だ。

 で、肝心の中身だが……。


 うーん、まあところどころおもしろいところはあるが、ぼくがラーメンズのファンだからってのを差し引いてもおもしろいかと言われると……。

「これを舞台でやったらおもしろいだろうな」とか「これを小林賢太郎さんの語り口で聞かされたら感心するかもしれないな」とか考えてしまう。


 まず、文章がうまくないんだよね。ちゃんと意味はとれる。でもそこに作者の個性みたいなものがぜんぜん感じられない。体温を感じない文章。

 ああ、わかった。これはト書きなんだ。台本の。だから「誰が」「何を」「どうした」は書かれていても「どうやって」「心情はどうだった」といった描写が少ない。芝居の場合、それは演技で補うものだから。

 ここに収められている作品、形式は小説だけど実態はほとんど戯曲だ。




「笑い」について。

 表現手段はいろいろあるが、笑いをとるのにふさわしいものとそうでないものがある。

 前者の例はマンガや演劇で、後者の例は活字だ。ぼくが活字を読み、声を出して笑ったことはほとんどない。穂村弘氏や岸本佐知子氏のエッセイはめちゃくちゃおもしろいとおもうけど、それでもせいぜいニヤリとする程度。表情も声のトーンも〝間〟も伝えられない活字で笑いをとるのは至難の業だ。


『短篇集 こばなしけんたろう』には、明らかに笑いをとりにいっているものがある。

 これがつまらない。おもしろくないどころではない。読んでいてつらくなる。

 特にひどかったのが『カジャルラ王国』。ウケを狙いにいっているのが見え見えで、にもかかわらずギャグがことごとく笑えない。ぼくも小学生のときにこういうのを書いていた。つまり小学校の学級新聞レベルのギャグ。それがくりかえされる。

 読んでいて「もうやめてくれ」と言いたくなった。

 たぶん舞台で観ていたらもうちょっと楽しめたんだろうけど。




 比較的よかったものは、ほぼ落語の『ひみつぼ』。やっぱりこの人は小説よりも戯曲が向いているんだな。


『短いこばなし』は、ネタ帳のボツ作品を放出したという感じ。

海外旅行先でのコンセントの形に関する、抜き差しならない問題。

 ああ、そういうことね、ニヤリ。これだけで放出してしまうのがもったいない。ラーメンズが活動を続けていたら、こういうのも肉付けされて一本の作品になっていたのかもしれないな。




 いちばん好きだったのは『ぬけぬけと噓かるた』。

 もっともらしい嘘うんちくを五十個並べたものだ。

  キリンは眠らない。

 キリンは、体を倒してしまうと起き上がれないため、横になって寝ることはない。そのかわりに、頭部を高く上げることで血液の循環を遅らせ、起きたまま脳を休ませることができる。ちなみに「不必要なもの」という意味の「キリンの枕」という慣用句を最初に使ったのは、ニ葉亭四迷。嘘。
  ホワィトハウスは窓からの景色を統一するために、庭の木が一種類。

 テレビに映ることがある大統領執務室。テロ対策として建物内のどこにあるのかを、窓の景色から推察させないために、庭の木を統一してある。ちなみに、このアイデアを出したのはロナルド・レーガン大統領である。品種はアメリカブナ。嘘。

 こんなの。ありそうだなあ。「嘘」と言われなかったら信じてしまうとおもう。

 特にホワイトハウスの庭の木なんかめちゃくちゃありそう。やってないんだったら、やったほうがいいんじゃないの?




 小林賢太郎氏のファンならおもしろいところが見つけられる本なんじゃネイノー。

 なんとも煮え切らない感想になってしまったな。


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2022年5月10日火曜日

【読書感想文】上野 千鶴子『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』 / 差別主義者による差別撤廃論

女の子はどう生きるか

教えて、上野先生!

上野 千鶴子

内容(e-honより)
「生徒会長はなぜ男子が多いの?」「女の子が黒いランドセルってダメ?」「理系に進みたいのに親がダメっていう」等々。女の子たちが日常的に抱くモヤモヤや疑問に、上野先生が全力で答えます!社会に潜む差別な刷りこまれた価値観を洗い出し、一人一人が自分らしい選択をする力、知恵や感性を磨くアドバイスが満載の1冊。

 男として生きてきたのでほとんど気にしてこなかったけれど、自分が女の子の父親になってはじめて「女の生きづらさ」を意識するようになった。男はたいへんだけど、トータルで考えると今の日本では女のほうがたいへんなことのほうが多いとおもう。

 以前、NHKのテレビ番組で「男になったり女になったり自由に変えられるとしたらどうする?」という質問をいろんな出演者に訊いていた。おもしろいことにその結果はだいたい同じで、十代後半~二十代前半ぐらいまでは女性のほうがよくて、三十歳ぐらいからは男性のほうがいいと答えた人がほとんどだった(男も女も)。

 そう、二十歳ぐらいは女のほうがちやほやしてもらえる。もちろん危険な目に遭うこともあるが、恩恵のほうが大きそうだ。逆に二十歳ぐらいの男なんて、金もないし、権力もないし、性欲をもてあましてたいへんだ。力もなければかわいがってももらえない。

 ところが中年になるとそれが逆転する。歳をとってからもちやほやしてもらえる女性は少ないし、権力を手にする女性も少ない。仕事も男性以上に選べなくなる。家事の負担も女性のほうが大きいことがほとんどだ。

 そして、人生においては中年以降の期間のほうが圧倒的に長い。



 

 この本は、十代ぐらいの女性からの質問に答えるという形で、女性の生きづらさ、男女差別の歴史、差別にあったときの戦い方、身を守るためのふるまいなどが紹介されている。

 特に3章の『リア充になるのってけっこうたいへん?!』は性のことについて書かれ、そう遠くない将来娘に性教育をしなければならないと考えているぼくにとってはたいへん参考になった。

 彼氏にキスをせがまれ、断ったのにむりやりキスをされたという人への回答。

 あなたの彼氏は古い女性観を持っているかもしれませんね。ほんとはあなただってやりたかったのに、恥ずかしがりだから自分では言えない、だから少々強引でもボクがひっぱらなきゃ、と。そういう男性には、ちゃんと教えてあげてください。
 大きなお世話、わたしにはわたしの意思がある、イエスはイエス、ノーはノー。心配しなくても、自分で決められる。突然のおしつけは、恐怖しか与えないから、逆効果にしかならない。キスをしたいとき、セックスをしたいとき、自分にその準備があるかどうかは、そのときになってみないとわからない。そういう時には必ずわたしに訊いてくれない?「キスして、いい?」って。そうしたらニッコリ笑って「いいわよ」って言うから。……そうしたらふたりとも幸せになれるでしょう?
 でも、忘れないでください。キスしてもいい、って答えたからって、ハダカになっていいと答えたことにならないし、セックスしてもいい、と答えたことにはならない。セックスしてもいい、と答えたからと言って、避妊しなくていいとは言ってない。ひとつひとつ、わたしの意思を確かめてね、と。

 これは女の子よりも男の子に対して教えなきゃいけないことだ。 と、かつて同じように「嫌がっているのは恥ずかしがっているだけ」だと考えていたぼくとしてはおもう。

 これねえ。ほんとに勘違いしてるんだよ、多くの男は。バカだから。

 そして、こう教わったからってはいそうですか我慢します、というわけにはいかないのが若い男なんだよね。いやほんと若い男の性欲なめちゃいけませんよ。ごちそうを目の前に置かれた犬と同じくらいの自制心しか効かなくなるからね。だってこういっちゃあ悪いけど、男子が女子とつきあう理由の95%が「ヤりたい」だからね。

「交際はするけどセックスはなし」ってのは、二十歳前後の男からしたら「寝不足のときに布団の上に横たわって目を閉じてもいいけど寝ちゃだめよ」って言われてるようなもんよ。


 だから上野さんが書いているのはきわめて正しいんだけど、現実に男と交際しているときにそれを貫き通せるかというと、なかなかむずかしいんじゃないだろうか(貫けないから悩んでるわけで)。

「セックスまでする気がないならキスもハグもするな。ふたりきりになるな」のほうが現実的なアドバイスなんじゃないかとおもう。


 覚えておいてください、愛されるって、大事にされるってこと。大事にされるって、あなたの意思を尊重されるってこと。大事にされるってキモチよいものです。もし彼氏との関係がキモチよくなかったら、警戒信号。この彼氏、はっきり言ってウザいです。自分の心とカラダにきいてみて、キモチよくない関係は一刻も早くやめましょう。

 正論なんだけど。わかってることなんだけど。「やめましょう」と言われてもやめられないからこその悩みなんだとおもうけどなあ。



 

 この本、いいことも書いているのだが、著者自身が強烈な差別主義者なせいですべてを台無しにしている。

 たとえばこんな言説。

 東大男子は東大女子が苦手です。なぜって、自分と同じぐらいかそれ以上優秀かもしれないから。なぜ男子は女子が優秀だと困るんでしょう?これも答えはかんたんです。「オレサマ」になれないからです。その点、他大女子は、「東大生、すごいわねえ」と目にハートを浮かべて「オレサマ」を見あげてくれるでしょう。
 こういう男性を、オッサン、と呼びます。そのとおり、東大男子は若いうちからオッサンなんです(ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません。自己チューでオレサマ度が高く、オンナコドモや立場の弱いひとを差別する、想像力がなくて鈍感力の高いひとを言います。年齢も性別も問いません。女のひとのなかにも、たまにいます)。おばあちゃんはまわりにオッサンばかり見てきたから、お姉ちゃんに「オッサン受け」するには東大へ行くと不利だよ、とアドバイスするのでしょう。

 偏見と差別意識だらけのひっどい文章。この文章と「女は物事を単純にしか考えられないから責任ある役職にはつけられない」という発言と、どう違うんだろう?

 東大男子を十把一絡げにして「こういうもの!」と決めつける姿勢もひどいが、もっと俗悪なのが後半の文章。


 とってつけたように「ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません」と書いているが、だったらなぜ一般的に中高年男性を差す言葉である〝オッサン〟をわざわざ使うのか。まったく新しい言葉を生みだせばいいじゃない。

 逆に「身勝手でヒステリックで他人に迷惑をかけまくる人間のことをオバサンと呼びます(ここでいうオバサンとは、中高年のオバサンのことではありませんよ)」と書かれても平気なのか? 「中高年のオバサンのことではありません」って書いてあるから女性差別じゃないよねー、とおもえるのか?


 じっさい、例示されているような男はいっぱいいるよ。だからって「東大男子は東大女子が苦手です」と書くのは、理系教科が苦手な女子が多いから「女子は理系教科が苦手です」と書くのとおんなじだ。

 男がどんなときに自己効力感(オレサマ意識)を持つか、を測定する心理学のテストがあります。それによると「稼得力(稼ぎの大きさ)」という因子がもっとも高い効果があるといいます。つまりオレサマ意識を支えているのが、「オレはこれだけ稼いでいるぞ」ということなんだそうです。なあんだ、ことあるごとに「誰の稼ぎで食わせてもらっていると思ってるんだ」とオッサンが言う理由がよくわかりますね。

 ステレオタイプで物を見て全体を語る人の話は聞く必要がない。男の傾向がAだからといって、ある男もAだと決めつけてはいけない。もちろん女にもあてはまる。


 とまあ、こんな感じで随所に差別意識丸出し言説が垂れ流されている。

 これでよくぬけぬけと〝差別や不公正は許さないから〟なんて書けたものだ。

 いや、べつにいいんだよ。どれだけ身勝手で差別的な発言をしたって。それは自由だ。ぼくも、女性差別意識全開の井上ひさし『日本亭主図鑑』を楽しく読んだし。

 でも、一方であからさまな差別をしといて、同じ口で「差別や不公正は許さないから」とか言ってるんだぜ。「私は差別と黒人が嫌いだ」のブラックジョークを地で行く人だ。




 女性専用車両は逆差別か? という問いに対する回答。

 そもそも、なぜ「女性専用車両」ができたか、考えてみてください。原因をつくったのは、男です。男がラッシュアワーの電車の中で痴漢をするから、女性の自衛のために、女性専用車両が必要になったんです。「逆差別だ~」って騒ぐんなら、「ボクらは決して痴漢なんかしませんから」って、男性全員に保証してほしいですね。「ほかの男は知らないけど、ボクは決してしないよ」って言うんなら、「逆差別」を受けてとばっちりを喰らっているのは、「ボク」と同性の他のけしからん男性たちのせいですから、怒りは女性にではなく、痴漢男性に向けてください。「キミたちみたいな不埒な男がいるから、ボクらが迷惑をこうむるんだ」って。そして満員電車のなかで、痴漢を見つけたら、あるいは女性が声を上げたら、ぜったいに無視しないで、「キミ、やめたまえ」って介入してください。男の敵は男、ですよ。痴漢男性を野放しにするから、男性全体の評判が落ちるんです。

 これがまかりとおるなら、下の文章もオッケーと言うことになる。

 そもそも、なぜ「外国人お断りのマンション」ができたか、考えてみてください。原因をつくったのは、外国人です。外国人が日本のマンションで犯罪をするから、日本人の自衛のために、外国人お断りのマンションが必要になったんです。「差別だ~」って騒ぐんなら、「ボクらは決して犯罪なんかしませんから」って、外国人全員に保証してほしいですね。「ほかの外国人は知らないけど、ボクは決してしないよ」って言うんなら、「逆差別」を受けてとばっちりを喰らっているのは、「ボク」と同じ国の他のけしからん外国人たちのせいですから、怒りは日本人にではなく、犯罪をした外国人に向けてください。「キミたちみたいな不埒な外国人がいるから、ボクらが迷惑をこうむるんだ」って。そして日本のなかで、外国人の犯罪を見つけたら、あるいは日本人が声を上げたら、ぜったいに無視しないで、「キミ、やめたまえ」って介入してください。外国人の敵は外国人、ですよ。外国人犯罪を野放しにするから、外国人全体の評判が落ちるんです。


「ある集団の一部が加害的だからといって集団全体を差別してもよい」ということになれば、部落差別だって人種差別だってすべて許されることになる。差別は被害者意識から生まれる、ということがよくわかる身勝手な論理だ。

「ウイグル人がテロ行為をしたからウイグル人全員を洗脳教育しなくちゃいけない」という中国共産党の論理とまったく同じだ。


 ことわっておくが、ぼくは女性専用車両はアリだとおもっている。でも差別だともおもっている。「女性専用車両は男性差別だが、痴漢被害を防ぐという公益のほうが大きいからしかたなく採用している差別」だ。当然、もっといい方法があるのなら、すぐさま撤廃しなければならない。

 だから女性専用車両には、法的な強制力はない。あくまで「鉄道会社から乗客に対して協力にお願いしてもらっている」だけだ。憲法に違反するから法制度化できないのだろう。

「しかたなく採用している差別」であることに無自覚であるのは、たいへんおそろしいことだ。


 この本を読むかぎり、上野千鶴子さんは加害者になることに対して無自覚すぎる。差別されることには敏感だが、差別する側になることについてはまったく無頓着だ。

 だからオッサンに対してはどれだけひどい言葉をぶつけてもいいとおもっているし、ある集団の一部が犯罪者であれは集団まるごとが迫害されるのも当然だとおもっている。典型的な差別主義者だ。

 結局この人は自分が女だから女の地位向上のために闘っているだけで、もし男として生まれていたなら「女はだまってろ」側の人間になっていただろう。差別をなくしたいわけではなく、自分が差別される側でありたくないだけなのだ。

 まあだいたいの人間がそうなので(ぼくもそうだ)、しかたないことではあるけれど。


 こういう人が先陣を切っているのだから、フェミニズム活動が反発を食らう理由がよくわかる(また反発をされても「自分たちが正しいからこそ反発された」とおもってそうなのがタチが悪い)。

 子どもの喧嘩じゃないんだから、自分が言われてイヤだったことを言い返したって事態は好転しませんよ。


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2022年5月9日月曜日

【読書感想文】藤岡 換太郎『山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門』/標高でランク付けするのはずるい

山はどうしてできるのか

ダイナミックな地球科学入門

藤岡 換太郎

内容(e-honより)
あたりまえのように「そこにある」山は、いつ、どのようにしてできたのか―。あなたはこの問いに正しく答えられますか?実は「山ができる理由」は古来から、地質学者たちの大きな論争のテーマでした。山の成因には、地球科学のエッセンスがぎっしりと詰まっているのです。本書を読めば、なにげなく踏んでいる大地の見え方が変わってくることでしょう。

 同じ著者の『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』がめっぽうおもしろかったので読んでみたのだが、これは難解だったなあ……。『海はどうしてできたのか』はテンポよく読めたのに、『山はどうしてできるのか』はまるで教科書を読んでいるようだった。同じ人が書いているとはおもえないぐらいにちがう。ぼくが地学苦手だったから、ってのもあるけど。

 特に中盤は、「山はどうしてできるのか」ではなく「山はどうしてできるのか、と昔は考えられていたのか」の話が延々と続く。これがつまらない。地学を体系立てて学びたい人にはいいかもしれないが、「ざっとわかればいいや」ぐらいの人間にとっては「今では否定されている昔の誤った学説」なんかどうでもいいんだよー。




 世界で一番高い山は?

 そう、エベレスト(チョモランマ)だ。標高8,849m。標高というのは、海から見た高さだ。

 ただし、他の測り方をすれば世界一はエベレストではない。

 海で一番高い山は、海面から上にまで達している島です。島はひょっこりひょうたん島のように浮いているのではなくて海底から隆起しているからです。なかでも火山島は、多くが水深5000mの深海から聳え立っていますので、海面すれすれに顔を出しているような小さな島でも、山として見ればその高さは5000mになるわけです。ハワイ島のマウナケアは標高4205mですが周辺の海底が約5000mなので約9000mの高さになることは準備運動の章で述べました。これが地球上では一番高い山になります。太平洋には少なくとも4000の海山があることが20世紀までに確認されています。その後の測量によってもっと増えているでしょうから、現在では1万近い海山があると考えられます。
 ニュートンらが観測によって明らかにした地球の形は、実は球体ではなく、回転楕円体という形をしています。赤道半径(東西の半径)と極半径(南北の半径)を比べると、赤道半径のほうが20㎞ほど長いのです。つまり、地球はほんの少しだけ横長の楕円体をしているわけです。
 したがって、地球の中心からの距離で山の高さを決めると、赤道に近い山ほど高くなります。この方法による世界最高峰は赤道直下、南米のエクアドルにあるチンボラソ山になります。標高は6310mですが、北緯28度のエベレストよりも地球の中心からの距離が2㎞以上も上回るため、世界一の高さになるのです。エベレストは31番目に成り下がり、世界で474番目とされている富士山は44番目に浮上します。

 ふもとからの高さを測るなら、周辺の海底から9,000mも突き出ているマウナケアが世界一、地球の中心からの直線距離ではチンボラソ山が世界一位になる。

 ぼくがマウナケアやチンボラソの関係者なら「エベレストはずるい!」と言い張っているところだ。


 前々から山を「標高(海抜)」でランク付けするのはずるいとおもってたんだよなあ。富士山は標高3,776mだけど、富士山に登る人はみんな海から登りはじめるわけじゃない。登山口から登りはじめる。富士山の登山口はいくつかあるけど、そこがすでに標高2,000~3,000mぐらいだ。そこから登って「3,776mの山を制覇したぞ!」ってのはインチキだ。それが許されるのならマラソンのゴール手前からスタートしてゴールテープを切ってもいいことになる。

 ぼくは神戸にある六甲山に登ったことがある。標高931mだ。だが六甲山は海のすぐそばだ。ぼくが登りはじめた阪急芦屋川駅は海と高さがあまり変わらない場所。つまり900mぐらいの高さを登ったことになる。一方、標高1,100mの登山口から標高2,000mの山に登っても、登った高さは同じだ。なのに後者のほうがすごいとおもわれる。登山業界では「〇m級の山を制覇した!」という言い方がまかりとおっている。

 そりゃあ高度が高ければ空気が薄くなったり寒くなったりもするだろうけど、それにしたって、自分の足で登ったわけでもない高さを勘定に入れるのはずるい。




 石の名前とかプレートの名前とかむずかしいことはよくわからなかったけど、山がどのようにできるか(というか地球上でプレートがどのように動くか)についてはなんとなく理解できた。

 我々はつい世界の地形が普遍的なものだと考えてしまうけれど、地球の一生から考えると今の大陸や山の形はほんのひとときのもので、大陸の形も山の形も刻々(長いスパンで見たときの刻々)と変わるのだ。

 ヒマラヤ山脈だってかつては海だったそうだ。

 いま地球上にある大陸は、超大陸が分裂と集合を繰り返し、地球の表面を何周も巡って現在の位置にモザイクの1つのピースとしてはめ込まれた寄木細工です。日本列島も、より規模が小さな寄木細工です。
 それは地球スケールで考えても、実は同じことがいえます。「はやぶさ」が訪ねた「イトカワ」という小さな星がありますが、イトカワのような星が寄せ集まって約46億年前にできたのが地球なのです。日本の国歌である「君が代」には「さざれ石」という言葉が出てきます。さざれ石とは礫岩、つまり岩や石のかけらが寄せ集まった岩のことです。日本列島は大きく見れば一つの礫岩なので、この歌は日本のことをよく表現しているといえます。そしてその考え方は大陸、ひいては地球のスケールにまで広げても同じなのではないかと思われます。大陸も、地球も、より大きな規模で見れば分裂と集合を繰り返す寄せ集めの「さざれ石」にすぎないのです。

 日本列島はひとつのさざれ石、地球全体もひとつのさざれ石。いくつかの小石が集まって大きな石を作っているだけ。

 なんともスケールの大きな話だ。

 想像すらおいつかないぐらいの大きなスケールの話を読むのは、凝り固まった頭をほぐしてくれるようでなかなか気持ちがいい。


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【読書感想文】藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』



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2022年5月6日金曜日

たったひとりの例外もなく

 

「親が本好きなら子どもも本好きになるというのはウソ。ソースは私。うちは両親とも本好きで家に大量の本があったが、私はまったく読まないまま成長した」

という内容のツイートを見た。そしてそれがそこそこ広まっていた。


「親が本好きなら子どもも本好きになる。ひとりの例外もない」なら、たしかにウソだろう。

 だが、「親が本好きなら子どもも本好きになる傾向がある」なら数件の反例をもって否定することはできない。



 世の中には「AすればBになる!」といった記事やテレビ番組があふれている。

 その意味はたいてい「AすればBになることが多い」である。

 特に医療や教育に関しては「Aすれば100%Bになる」なんてほぼありえない。ありえるとしたら「青酸カリを大量に摂取すると100%人は死ぬ」とか「毎日20時間ゲームをしている子は100%東大に合格できない」とかの極端な話だけだ。

 でも「AすればBになる可能性が少し上がる」だと見出しにキャッチーさがないから、あえて言い切る。ほとんどの人は「こういう説もあるのね」と適当に聞き流す。


 ところが、冒頭のツイートをした人は「AすればBになる!」を文字通りの意味で受け取ってしまったようだ。

 だから「親が読書好きなら子どもも読書好きになる」という記事だか番組だかを見て、「私はそうじゃなかった。例外がひとつでもあるからAならばBとは言えない!」と考えてしまった。

 この考えは、論理学的には正しい。「AならばB」は、たったひとつの反例「AなのにBでない」を挙げれば覆せる。

 ただ、この人は修辞技法というものを理解していない。



 人に物事を伝えるためには、ときに正確さを犠牲にする必要がある。

 たとえば隠喩。「その夜のぼくらは迷子の子犬だった」

 たとえば擬人法。「夜の闇が彼の姿を包んだ」

 たとえば誇張法。「死んでも君を離さない」

 どれも正しくない。でも伝わる。「じっさいにはあと数分したら君を離してしまうけれど今はいつまでも君を離したくないという気持ちを持っている」というよりも「死んでも君を離さない」のほうが簡潔に、切実に、伝わる。


 我々が一般に使う表現は、論理学的な正しさとはまた別のところにあるのだ。

 だから「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」という記事を見ても、たいていの人は「たったひとつの例外もないんだな。親が読書好きなのに本好きにならなかった子どもは世界中にひとりもいないんだな」とはおもわない。

「親が本を読んでいる姿を自然に見せることで子どもが本好きになる確率が有意に上がるんだろうな。もちろんいくばくかの例外はあるだろうけど」と受け取る。


 修辞技法の使い方、受け取り方は学校ではあまり教わらない。様々な文学表現に触れるうちに、自然と身につけるものだ。

 だから、冒頭のツイートをした人が「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」を文字通りの意味にしか解釈できなかったのはある意味しかたのないことかもしれない。なにしろ彼は本をまったく本を読まないそうなのだから。

 結局、何が言いたいかというと、やっぱり読書って大事なんだなあってこと。本を読まないと修辞技法を理解できない!(反証は受けつけません)



2022年5月2日月曜日

【読書感想文】渡辺 容子『左手に告げるなかれ』/自己満足比喩につぐ比喩

左手に告げるなかれ

渡辺 容子

内容(e-honより)
「右手を見せてくれ」。スーパーで万引犯を捕捉する女性保安士・八木薔子のもとを訪れた刑事が尋ねる。3年前に別れた不倫相手の妻が殺害されたのだ。夫の不貞相手として多額の慰謝料をむしり取られた彼女にかかった殺人容疑。彼女の腕にある傷痕は何を意味するのか!?第42回江戸川乱歩賞受賞の本格長編推理。

 ああ、江戸川乱歩賞っぽいなあ。というのが読んだ感想。

 知らない人のために解説しておくと、江戸川乱歩賞ってのはミステリ小説の新人賞なんだけど、賞金が破格の1000万(2022年からは賞金500万円)ということもあってめちゃくちゃレベルが高い。文学新人賞の中では最高難易度の賞だ。たぶん芥川賞よりもとるのが難しい。文学界のM-1グランプリだ。

 というわけで、江戸川乱歩賞受賞作というのはただおもしろいだけでなく、「構成がよくできている」「題材が新しい」「丁寧な取材がされている」などあらゆる面ですぐれていないと受賞できない。そのため受賞作は数年かけて書かれていることもザラである。たとえば 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』 によると、岡嶋二人が乱歩賞に応募をはじめてから受賞までには七年かかったそうだ。もちろん七年かけても受賞できない人が大半なのだが。


『左手に告げるなかれ』も、乱歩賞受賞作の例に漏れず細部までよくできたミステリだ。

 主人公はスーパーの保安士。いわゆる万引きGメンだ。社内不倫が原因で大手企業を退職することになった過去を持つ。
 あるとき、主人公のもとにかつての不倫相手の妻が殺されたことを知る。そして自分に容疑がかかっていることも。身の潔白を証明するために調査に乗りだした主人公。
 すると同じく事件を探っていた探偵から、被害者女性以外にも殺人事件が多発していたことを聞かされる。被害者に共通しているのは、急成長中のコンビニチェーンのスーパーバイザーであること。はたしてコンビニチェーンと事件にどうつながりがあるのか。そして現場に残されたメッセージ「みぎ手」と、被害者たちが口にしていた「四時間を潰すために戦う」という謎の言葉の意味とは……。

「万引きGメン」「不倫の過去」「コンビニチェーンの強引な手法」「連続殺人事件」「ダイイングメッセージ」「訳あり風の探偵」「アリバイトリック」と、これでもかと要素をつめこんだ作品。それでいて煩雑にならずスピード感のあるミステリにしあげているのだから、乱歩賞受賞も納得の作品。




 万引きGメンやコンビニ業界に関する知識(1996年刊行なので今となっては古いが)、意外な犯人、主人公をとりかこむ濃いキャラクター、しゃれたタイトルなどどれをとってもよくできている。

 が、この小説は嫌いだなあ……。


 その理由はただひとつ。「気の利いた言い回しをしようとしているのがうっとうしい」ことだ。

 村上春樹くずれというか、ハードボイルド作品の登場人物くずれというか。

 私は黙って宙を睨みつけていた。あの出来事についての感慨なら、段ボールの箱にアン・クラインの衣類といっしょくたにして放りこみ、三年前、ゴミ集積所に出したつもりでいた。思い出はすべて廃棄したはずなのだ。なのに、刑事の口にそれを並べ立てられた途端、目薬を注いだ直後のように、目の前の光景がぼんやり霞んで見えてくる。犬丸の顔が、ゴミ袋の中身を探っては「不燃物を入れてはいけない」と文句をつけてくる、近所の老婦人そっくりに見えてきてしまう。
 思い出は不燃物です、燃やせば危険ですから、自分で処理しなくてはいけません……。

 これでもかといわんばかりの比喩の羅列。

 これだけの文章に、「感慨をゴミに例える」「霞んだ視界を目薬を注いだ直後に例える」「刑事の顔を老婦人に例える」と三種類の比喩が使われている。そしてだめ押しのように、「感慨をゴミに例える」をしつこくもう一度。暗喩、直喩、直喩、暗喩。

 ああ、うんざりだ。鼻につくなんてレベルじゃない。強烈な悪臭を放っている(釣られてこっちまで比喩を使ってしまった)。

 比喩って本来、わかりやすくするためのものなんだよ。文字だけで伝えるために、比喩によってイメージを喚起させる。でもこの人は「どやっ、気の利いた言い回しでっしゃろ?」と己の才気を見せつけるために比喩を多用している。わかりやすくさせることなんてこれっぽっちも考えていない。この文章から比喩を消したほうがどれだけわかりやすくなるか。

 過剰な比喩だけでなく、ウィットとアイロニーたっぷりの台詞も気持ち悪い。しかも、ひとりやふたりではなく、ほとんどの登場人物がハードボイルド作品みたいな台詞を吐く。全員が全員「うまいこと言える自分」に酔っているのだ(もちろんほんとに自分に酔いしれているのは作者なんだけど)。

 比喩とかウィットに富んだ台詞って中毒性があるから、使ってると比喩を使うことが目的になっちゃうんだろうね。


 作者がどや顔をするためだけに濫用された比喩や言い回しをなくせば、三分の二ぐらいの分量になってぐっと読みやすくなったとおもうんだけどね。


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