2021年9月15日水曜日

【読書感想文】H・F・セイント『透明人間の告白』

透明人間の告白

H・F・セイント(著)  高見 浩(訳)

内容(e-honより)
三十四歳の平凡な証券アナリスト、ニックは、科学研究所の事故に巻き込まれ、透明人間になってしまう。透明な体で食物を食べるとどうなる?会社勤めはどうする?生活費は?次々に直面する難問に加え、秘密情報機関に追跡される事態に…“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”第1位に輝いた不朽の名作。

 誰もが一度と言わず十度や百度は考えたことがあるであろう「もしも透明人間になったら」を小説にした作品。

 つまりアイデア自体はいたって平凡。誰でもおもいつくアイデア。
 透明になった理由も「研究所の事故」で、なぜ透明になったのかはまったく説明されない。「透明になった経緯」にもまったく新しい試みはない。
 正直、主人公が透明になるまではなんとも退屈な小説だった(またそこまでが長いのだ)。


 だが透明人間になってからは精緻な描写と、透明人間を追う政府組織(おそらくFBI)VS逃げる透明人間というサスペンス展開になってようやくおもしろくなる。

精神を集中しようとして、両目をつぶった。ところが、なんの変化もない。目をあいているときと同じく、すべてが鮮明に見えるのだ――どんなにきつく目をつぶっても。どうなってるんだ、いったい。僕の中の恐怖心は、すでにそのとき飽和状態にあったから、胸の中にはかえって、グロテスクな好奇心が湧いてきた。派手な惨事で手足を吹っとばされる人間は跡を絶たないけれども、目蓋だけを吹っとばされた人間の例なんて、聞いたことがない。体のバランスを保つために左手を床についたまま、おずおずと右手を顔にのばした。指先で、そっと目の周辺をさぐってみる。ちゃんと眉毛がある。焼け焦げてはいない。こんどは人差し指で右目をさぐってみた。ある。たしかに目蓋がある。動いているのも感じられる。睫毛もまちがいなくある。

 そうかあ。透明人間になるとまぶたも透明だから、目を閉じても見えちゃうわけか。たしかになあ。
 言われてみれば当然の話なのだが、「透明人間が目をつぶったら」なんて考えたこともなかった。

 その他にも、「歯間の食べかすや爪の下の汚れがあると人目に付くので身だしなみをきれいにする」などほんとに細かい設定が随所に光る。
 ぼくが考えるおもしろい小説の必要条件として「いかにうまく嘘をつくか」というのがあるのだけど、『透明人間の告白』の語り口はほんとに見事。
「透明人間になったら爪の垢をきれいにしなきゃ」って考えたことある人いる?




 少し前に、別の透明人間の小説を読んだ。
 柞刈 湯葉『人間たちの話』に収録された『No reaction』だ。
 あれもおもしろい小説だったが、残念なことがある。「透明人間は食事をどうするか」について一切触れられていなかったのだ。

『透明人間の告白』ではきちんと答えを提示されている。

 なんたることだろう、まったく! 僕の肉体は透明でも、いや、透明であるが故に、そこに外部から摂取されるものは、当然のことながら、はっきりと見えるのだ。見方を変えれば、僕という人間は、吐瀉物と排泄物のつまった、一つの細長い袋になりつつある、ということじゃないか。考えてみれば、実は生まれたときから、僕はそうだったのだ。ただ、すべての人間に共通のその側面は――いまだから落ち着いて言えることだが――肉という不透明な衣によって隠されていたにすぎないのである。その衣が透明になってしまった僕は、この先ずっと吐瀉物と排泄物の細長い袋として生きていかなければならない。そういう思いがひらめいたとき、目の前が、文字どおり真っ暗になってしまった。

〝食べたものは外から見える。ただし消化吸収されれば己の肉体の一部になるので見えなくなる〟がこの本の解だ。

 とはいえ、その日、化学作用に関する知識がまだお粗末きわまりなかったにもかかわらず、僕は、将来の自分の食生活を支配すべきいくつかの基本的な指針をうちたてたのだった。まず第一に、なによりも重要なのは、繊維質を避ける、ということ。おそらく、繊維質の栄養的役割については、人によってなにかと異論があるだろうけれども、僕にとっては、繊維質を避けることが生存にとってなによりも肝心なのだ。それがどんな果物であれ、種子や核の類も、皮同様避けなければならない。未消化の種子は何日間も小腸や大腸に留まって、それはいやらしい光景を呈するものなのだ。野菜類の葉っぱを食べるときも、同様に細心の注意を必要とする。それとは対照的に、砂糖やデンプン類は、いまでは僕の栄養の基礎になっている。砂糖やデンプンの消化速度たるや、あきれ返るほど早いのだ。いまではお菓子の類もどんどん食べているけれども、ナッツやレーズンが中に隠れてないかどうか、注意を怠らない。主な蛋白源は肉よりも魚にたよっている。色がついているもの、着色剤を使ったものも避けている――もっとも、着色剤を使ったものより、自然な色のついている食品のほうが手に負えないのだけれども。

 朝は飲み物だけ、食べるのは夜寝る前。食べるものはなるべく透明なもの・消化の良いもの。そういったことに気を付けなくてはならないのだ。透明人間もたいへんだあ。




 こういった細かい設定の描写は一級品だったが、物語としては二流以下。

「追手から逃れる透明人間」というのが大筋なのだが、追手側はそんなに悪い人間じゃないんだよね。透明人間を味方につけようとしているだけなんだからそんなに敵視する必要あるか?

  むしろ透明人間である主人公のほうが、危害を加える気のない相手を銃撃したり放火したりするヤバいやつ。

「危険な追手から逃れる善良な主人公」ならサスペンスになるが、「常識的な追手から逃れる危険な主人公」では、どっちに感情移入していいのかわからない。ピカレスク小説といえるほど主人公は悪人でもないし。中途半端。

 また中盤は、透明人間になった主人公ががんばってリモートワークしたりしてて、「何やってんの?」という気になる。
 透明人間になったのになんで会社員続けてるんだよ! 透明人間になったらまじめに働いて金稼がなくていいだろ。


 また逃避行中にはいろいろ不便を強いられる。買い物もできない。夜寝るところもなかなか見つけられない。

 でもそれは単独逃避行をおこなうからだ。協力者を見つければあっさり解決できる問題だ。協力者だって透明人間を味方につければいろいろ便利なことはあるんだからお互いにメリットのある関係を築ける。

 なのに主人公はそれをしない。ずっとひとりで逃げつづける(そのわりにはニューヨークから出ようとしない)。
 かつての知人はすべて〝組織〟の捜査網に含まれているからしかたないにしても、新たな協力者をつくることもできるだろうに。

 そのせいで、逃げても逃げても〝組織〟に追われる主人公。中盤はこのくりかえしなので退屈だ。読んでいてもどかしい。さっさと協力者を見つけろよ。

 で、終盤やっと協力者をつくることに成功するのだがそれがまた唐突。初対面(透明人間なので向こうは対面すらしていない)と女性と一瞬で恋人関係になってしまう。えええ。透明人間と一瞬で恋人になれる女性ってなんなのよ。そっちのほうが摩訶不思議だわ。

 細かいところは細かいのに、このへんはものすごく雑。

 上下巻のボリュームある小説だけど、無目的な右往左往やくりかえしが多いので、この半分の分量でよかったのにな。

 昔の作品を今の基準で評価できないとはいえ、それにしても“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”第1位は不当に評価が高すぎるとおもうな。
 おもしろくないわけじゃないけど、これが30年間のトップってことはないだろ……。


【関連記事】

【読書感想文】SF入門に最適な短篇集 / 柞刈 湯葉『人間たちの話』

【読書感想文】類まれなる想像力/テッド・チャン『あなたの人生の物語』



 その他の読書感想文はこちら


2021年9月14日火曜日

【ボードゲームレビュー】ラビリンス

 

ラビリンス

 小学二年生の娘のために買い、娘といっしょに毎週やっているボードゲーム。
(二歳の娘も『カードを渡す係』をして楽しんでいる)

 迷路を通って宝物を全部手に入れスタート地点に早く帰ってきた人が勝ち、というゲーム。

 おもしろいのは、ターンごとに迷路の形が変わること。
 複数のピースによって迷路は構成されていて、ピースは一枚余る。その余ったピースを迷路に差し込むと迷路は形が変わる。そして入れたところの反対側からピースが一枚押し出される。
 次の人はそのピースを別の場所に入れる(元あった位置に入れることは禁止)。
 これをくりかえすことで、迷路はどんどん形を変える。四人でプレイすると自分のターンが再びまわってくる頃にはまったく別の形となっている。


「どうやったら自分が狙っている宝までの道を作れるか」
「他のプレイヤーは何を狙っているか」
「他のプレイヤーの邪魔をするにはどうすればいいか」
など、頭を使う要素もありつつ、運の要素もある。思わぬ経路で宝までの道がつながったり、たまたま他のプレイヤーが道をつなげてくれたりする。狙う宝がすぐ近くにあって、はじめから道がつながっていることもある。

 頭脳戦と運のバランスがいい。子ども相手に本気でやっても負けることもある。
 ぼくは子ども相手だからといって手を抜くことは嫌いなので(ハンデはいいが手加減はしたくない)、運の要素があるゲームはやっていて楽しい。

 

 このゲームに勝利するためには
「自分のコマが盤面の外に押し出された場合、反対側に移動する」
というルールをどう使うかがカギを握る。

 ついでのように書かれているルールだが、これをうまく活用できるかどうかで宝をとるスピードは大きく変わる。スーパーマリオブラザーズ3の2人プレイ時にできるミニバトルゲームとおんなじだね。うん、わかりやすい。


 このゲーム、数学者同士とか棋士同士で対戦したりしたらすごくおもしろいだろうな(相手が狙っている宝を開示すればなおおもしろい)。最適解を求める高度な頭脳戦が展開されて。

 シンプルなルールでありながら楽しめるゲーム。1986年発売だそうだから30年以上愛されていることになる。


 独自ルールをつくってもおもしろそう。

 たとえば「宝箱を手に入れたらもう追加でもう一回できる」とか「お化けを手に入れたら他のプレイヤーの宝を一枚リセットさせることができる」とかすれば運の要素が強くなる。
(続編ではこんな感じのルールが取り入れられているそうだ)

 逆に、本来は「一枚ずつカードをめくって次に手に入れる宝を確認する」というルールだが「いっぺんにカードをめくることができ、どのような順番で宝をとってもいい」というルールにすれば戦略性が増す。

 シンプルであるがゆえにいろんな遊び方ができるボードゲームだ。


【関連記事】

【ボードゲームレビュー】街コロ通

ボードゲームスペース初体験

2021年9月13日月曜日

冗談みたいな漫画喫茶

 冗談みたいな漫画喫茶があった。


 大学四回生のときだ。ひとり暮らしをしていたマンションの近くに漫画喫茶ができた。チェーン店ではなく、個人経営の漫画喫茶。おばちゃんふたりぐらいでやっていた。漫画は何百冊かはあったが品揃えはあまりよくなかった。

 冗談みたいというのは、利用料金の安さだ。
 なんと何時間いても780円。24時間営業ではなかったが、朝から晩までいても780円。
 そしてドリンク飲み放題。
 さらに驚くことに。なんと食べ物も食べ放題だったのだ。

 置いてあったのは手作りのカレーとかチャーハンとか。たぶんおばちゃんが作ったのだろう。大鍋にどんと作って置いてあった。


 はじめて友だちと行ったときのことをおぼえている。
 え? 何時間いても780円? ドリンク飲み放題? えっ、ご飯も食べられるの? しかも冷凍のやつじゃなくて手作りの料理じゃん。ほんとに780円? だってこんなの一食食べるだけで元取れるじゃん。お代わりしたらもう黒字じゃん。だまされてない?

 だがだまされてはいなかった。何時間か滞在して、漫画を読んで、飯を食ったけど、請求されたのは780円だけだった。さらにおばちゃんは笑顔で「また来てね」と言いながら次回半額券をくれた。
 こんなに安いのにまだ値引くの!? いったい何が目的なんだ!?


 数日後、また行った。
 なにしろこちらは金のない貧乏大学生だ。たらふく食えば自炊するより安いぐらいだ。そのときもやはり780円。カレーを三杯ぐらい食ったのに。

 だがぼくがその漫画喫茶に行ったのはその二回だけ。
 卒論を書いていて忙しかったのもあるし、なにより安すぎてなんだか申し訳なかったから。
 ぼくが行けば行くほどあの気のいいおばちゃんたちは苦しむんじゃないだろうか。こちらが得をするということは向こうは損をするということだろう。べつにこっちが心配する必要はないのだが、あまりに常軌を逸した価格設定に心配になったのだ。

 もしかしたら漫画喫茶というのは表の顔で、ヤバい商売でもやってるんじゃないだろうか。
 おばちゃんに「ゴルゴの79巻さがしてるんだけど」と秘密の合言葉をいえばこっそり奥の部屋に通されてそこは札束が飛びかう裏カジノルームになっているとか……。
 いやいや。もしそうだとしたら、余計に漫画喫茶の価格設定はふつうにしたほうがいい。手作りカレーなんか出して目立たせないほうがいい。

 はっ、まさか。あのカレーに依存性のある香辛料でも入っているのか。
 そして中毒者がさらなる強烈なスパイスを求めたとたんに「これ以上はグラム5万だ」と言われるとか……。


 だがぼくの心配は杞憂に終わった。
 漫画喫茶はほどなくしてつぶれたのだ。二ヶ月ぐらいの命だった。

 あの漫画喫茶はほんとうにあったのだろうか。もしかして狐にでもだまされていたのだろうか。
 だがいっしょに行った友人も〝冗談みたいに安い漫画喫茶〟のことをはっきりおぼえていた。現実にあったことなのだ。

 なんのことはない、「あまりに商才のないおばちゃんたちによる道楽経営」だったのだろう。
 ああよかった。それにしてもほんと冗談みたいな漫画喫茶だったなあ。


2021年9月10日金曜日

やめるほどでもない組織

 最近気付いたんだけど、「組織に属す」ことに関しては始めるよりやめるほうがエネルギーを必要とする。




 小学二年生のとき、サッカーチームに入っていた。
 サッカーおもしろそうとおもって入ったのだが、すぐに気づいた。ぼくはうまくない。練習してもうまくならない。元々うまいやつはどんどんうまくなるので差は開く一方。
 うまくなければおもしろくない。
 努力が大事とかいう人もいるが、そこそこ得意だから努力できるのだ。偏差値70の人が75を目指してがんばることはできても、偏差値30の人が35を目指して努力するのはむずかしい。がんばって偏差値35になったとて。

 友人に誘われて野球をやってみたらおもしろかった。毎日のように友人と野球をしていた。自主的にサッカーの練習なんてしたことがないのに野球は練習していた。

 それでもぼくはサッカーチームに所属していた。十二人しかいないチームで、後ろから二番ぐらいの実力だったけど。周囲との差は離れるばかりだったけど。サッカーより野球のほうが好きだったけど。

 脱退するのが怖かったんだとおもう。「チームに入らない」はかんたんだが、「入ったチームを抜ける」のは容易ではない。
 結局六年生になってやめたけど、元チームメイトからの「裏切者」という視線におびえていた(たぶん他のメンバーは何も気にしていなかったとおもうが)。




 中学校では陸上部に入っていた。嫌なこともあったけど、ほぼ毎回練習には参加していた。早起きして朝練もやっていた。

 走るのが好きだったわけじゃない。速かったわけでもない。長距離の選手だったが大会ではいつも後ろから数えたほうが早かった。予選を通過したことなど一度もなかった。
「全員何かしらの部活に所属しなければならない」という中学校なので入部したのだが、辞める生徒や幽霊部員の生徒もいた。陸上部の顧問も先輩も厳しくなかったので、辞めようとおもえばいつでも辞められた。
 それでも三年の夏まで辞めなかったのは「辞めるほどの理由がなかった」だけだ。

 もしぼくが「部活辞める」といえば、教師や親から「なんでや、どうしたんや」と質問攻めにされていただろう。それが面倒だった。「続けた」というより「辞めなかっただけ」というほうが正確だ。




 高校ではバドミントン部に入ったが、これは一週間ぐらいで辞めた。「なんとなく楽そう」という理由でバドミントン部に入ったのだが、顧問でもないコーチ(非常勤講師)がやたらいばって怒鳴り散らしていたので「こりゃあかんわ」とおもってすぐに辞めた。本気でバドミントンをやっている人には申し訳ないが、たかが羽根つき遊びなのに青スジ立てて怒鳴る人と同じ空間にいるのは耐えられなかった。

 辞めたら辞めたでぜんぜんなんともなかった。夏休みなんかはひまをもてあましたが、そのおかげで本をいっぱい読めた。
 高校にもなると「帰宅部のやつ」や「幽霊部員のやつ」や「ふだんあまり活動しない部活(軽音部など)のやつ」なども増えて、〝部活やってない友だち〟ができた。友だちと川で遊んだり公園で野球やサッカーをしていた。
 〝部活やってない友だち〟とは高校卒業から二十年たった今でも付き合いが続いているので、部活をやめてよかったと心からおもっている。




 大学生のとき、お好み焼き屋のバイトを数ヶ月でやめた。店主の嫁が嫌いだったから、というのが最大の理由だ。
「家の事情で急に引っ越すことになり……」と嘘をついてやめた(たぶん店主もぼくの嘘に気づいていた)。

 大学卒業して就職した会社は数ヶ月でやめた。
 体調を理由にして(体調が悪かったのは事実だが続けられないほどではなかった)。

 その次の会社をやめるときは退職者が相次いでいたのでちょっと揉めた。

 次の会社は揉めないように半年以上前から根回ししたので比較的円満にやめることができたが、それはそれで大変だった。やめる社員には容赦なく賞与を減らしてくる会社だったので、会社にばれないようにしながらそれとなく周囲に引き継ぐのはしんどかった。


 組織をやめる経験をいくつもしてわかったのは、「やめるほうが加入するより大変」ということだ。

 手続きや新たに覚えることは加入するときのほうが多い。でも新規加入時はこちらの気力も充実しているし、周囲の人たちも歓迎ムードだ。前向きな気持ちで乗り切れる。

 でもやめるときは「一日でも早くやめたい」とおもっているものだし、周囲もなんとなくよそよそしい(少なくともそう感じてしまう)。居心地は決して良くない。あたりまえだ、居心地が良ければやめたりしない。




 だから、ぼくが特に好きでもない陸上部を「やめるほどでもないから」という消極的な理由で続けたように、ただ慣性の法則で組織に所属しつづけている人はいっぱいいるとおもう。

 心の底から部活動を愛している人もいるだろうが、ほとんどの人は辞めると居場所がなくなるとおもってなんとなく続けているだけだとおもう。
 PTAとか町内会もそうだ。やめると角が立つから続けているだけ。99%の人は積極的に所属していない。
 仕事もそう。「あなたが転職しない理由はなんですか」と訊かれて即答できる会社員はそう多くないだろう。
 プロ野球球団だってヒーロー戦隊だってプリキュアだって世界征服をたくらむ悪の秘密結社だって、ぜがひでも続けていきたい意欲にあふれているのはほんの一握りで、ほとんどのメンバーは「やめるのも角が立つから」ぐらいの気持ちで続けているのかもしれない。


 案外世の中って「まあやめるほどでもないし」という気持ちのおかげでまわっているのかもしれないね。


【関連記事】

サッカーがへただったサッカー少年


2021年9月9日木曜日

【読書感想文】藤岡 拓太郎『夏が止まらない』

夏が止まらない

藤岡拓太郎作品集

藤岡 拓太郎

内容(ナナロク社HPより)
2014年から2017年の間にネット上で発表した1ページ漫画、およそ500本の中から厳選した217本と、「あとがき」を含めた書き下ろしの文章5編を収録。


 おもしろかった。

 二コマ~十コマぐらいのショート不条理ギャグマンガ集。

 一作ずつタイトルがついてるんだけど、まずタイトルがおもしろい。そんで漫画本編でちゃんとタイトルのおもしろさを超えてくる。
 すごいものになるとタイトルがおもしろくて、一コマ目がもっとおもしろくて、二コマ目でさらにおもしろいという、二コマ漫画なのに三段跳びみたいな作品もある。跳躍力がすごい。

 ぼくはかつて仕事もせずに朝から晩まで大喜利やっていたことがあったぐらい大喜利が好きなんだけど、大喜利でお題それ自体がおもしろいときって、だいたい回答はおもしろくならないんだよね。
「ヤクザの親分がギャル神輿大好きだとバレた理由とは?」みたいな狙いにいったお題はおもしろくない。お題が回答のじゃまをするんだよね。お題はつまらないほうがいい。

 だけど『夏が止まらない』はお題もおもしろいのに、本編はそれを軽く超えてくる。
「適当に捕まえたおばさんに、自販機の飲み物をおごるのが趣味のおっさん」なんてタイトルだとそれ以上おもしろくするのむずかしいはず。でもそれをやってのけている。すごい。


 ちなみにぼくがいちばん好きだった漫画は
「仲直りをしたらしい小学生をたまたま見かけて、適当なことを言うおっさん」

 このお題に対して提示された漫画が、これの他はない、ってぐらい鮮やかな回答。
 ぜひ漫画を読んでみてください。




 大喜利っぽい漫画だなとおもって読んでいたのだが、案の定だった。

(途中にある著者のエッセイより)

 インターネット大喜利にどっぷりと浸かっていた。
 二十歳のころ。ネット上にはいろんな大喜利サイトがあり、そのいくつかに投稿をしていたのだが、自分が一番入れ込んでいたのはあるチャットルームで夜な夜な開催されていた大喜利。
 その部屋には毎晩七時ぐらいから人が集まりだし、くだらない話から始まり、誰かがお題を出すと、皆、思い思いにボケる。お題を出した人が、よきところで締め切る。そして全員、自分以外のボケの中から一番面白かったと思うものを一つ選ぶ。最も多くの票を集めた人が優勝となり、次のお題を出す。それを延々繰り返す。多い時には五十人以上が集まっていた。
 大学やアルバイト先では居場所がなく、ギャグ漫画もうまく描けなかった当時、いちばん笑い、笑わせ、息ができていたのはその部屋にいる時だった。
 猿だった。
 ネット大喜利という温泉に引きずり込まれた猿だった。その温泉はぬるま湯だから、いつまでも浸かっていられた。
 夜が深まるにつれ、部屋から人は減ってゆき、明け方近くになると再び雑談に切り替わり、やがて自然とお開きになる。そんな時間までディスプレイに照 らされていたときは、ウケた日であろうとスベッた日であろうと、いつも自己嫌悪を身にまとって布団にもぐり込んだ。
「今日もペンを握らなかった……」
 それでもまた夜が来ると目を血走らせてボケ狂う。

 なつかしい。ぼくがいたのはチャット大喜利ではなかったけど、だいたい雰囲気は同じようなものだった。

 ぼくがネット大喜利にどっぷり浸かっていたのは、新卒で入った会社をあっちゅうまに辞めて、無職~フリーターだった頃。
 当時は「ぼく無職なんです」とは言えなくて、仕事の合間に大喜利をやっているふりをしていたけど、ほんとは大喜利の間に呼吸しているような生活だった。
 こうやって大喜利をやっている人はいっぱいいるけど、自分だけが明日が見えない生活をしているんだろうとおもっていた。

 でも、それから十数年経って「いろんな事情で不安定な生活をしていたけど大喜利に救われていた」という人の話をちらほら読むようになった。
 こだまさんとかツチヤタカユキさんとか藤岡拓太郎さんとか。他にもいろいろ。

 ネット大喜利って、バックボーンとか一切関係なく、おもしろい回答をすれば評価してもらえるんだよね。無職で怠惰でモテなくて金がなくても、大喜利でおもしろい回答をすれば他者から認められて一位になれる。だから救いになっていたんだとおもう。

 もしかしたらあの頃ネット大喜利をやっていた人たちは、みんな病んでいたのかもなあ。いやじっさい病みすぎてあっち側に行ってしまった人もいたし。




 著者あとがきより。

片手間にイラスト付き大喜利や一コマ漫画をこさえていたのですが、ある時、たわむれにニコマ漫画を描いてみると、「!」と思いました。

 一コマからニコマにするだけで、ただの絵が、ぐっと「映画」になるんやな、ということに改めて気がついたのです。いや「映像」と言ってもいいんやけど、なんかかっこいいので「映画」と言わせてください。その、つまり、たとえば一コマ目で豚にかまれているおっさんを、ニコマ目で、顔をどアップにすることもできるし、ヘリコプターからの視点でとらえることもできる。あるいはニコマ目で時間を飛ばして、少年時代のおっさんを描いてもいい。石器時代のおばさんが寝ているところを描いてもいいし、まったく脈絡なくオムレツだけを描いてもいいのです。ニコマあれば、時間が表現できたり、カメラの動きが付けられるようになったりするということです。

 この人の作風は二コマ漫画にあっているとおもう。
(この本には十コマぐらいの漫画も収録されているが、二コマ漫画のほうが圧倒的におもしろい)

 二コマ漫画を自由自在に使いこなしている。二コマなのに奥行きがある。正確にいうと、タイトルのつけかたも秀逸なので、タイトル+二コマ。

 ぜひともこの道を究めて、二コマ漫画界の巨匠になってもらいたい。


【関連記事】

【読書感想文】失って光り輝く人 / こだま『いまだ、おしまいの地』

【読書感想文】ゲームは避難場所 / 芦崎 治『ネトゲ廃人』



 その他の読書感想文はこちら