2020年11月16日月曜日

古本屋の店主になりたい

古本屋の店主になりたい。

客は来ないほうがいい。一日に三人とか。
ひまなときは(基本的にずっとひまなんだが)本を読む。
だから客は少なくていいが、かといってまったく来ないのは寂しい。

基本的に買取はしない。
面倒だから。
好きじゃない本を店に並べたくないし。

店に並べるのはぼくが読みおわった本だ。
「おっ、それ買うの? お目が高い」
「あーそれね。イマイチだったんだよねー」
「その本は読む人を選ぶとおもうよ。大丈夫かな?」
とか心の中でつぶやきながら売りたい。

買ったけどずっと読んでいない本を店に並べておいてもおもしろいな。
客が手に取ったら「あっ、あっ、それまだ読んでないやつ」とドキドキしたい。
買われちゃったら「あー。あれおもしろかったんだろうなー。もっと早く読んどきゃよかったー」と後悔したい。
だったら店頭に置くなって話なんだが、でもたまにはドキドキしたいじゃない。古本屋の店主って刺激少なそうだもん。

もちろん利益なんかない。
それどころか光熱費にすらならないぐらいの売上しかない。家賃なんかもってのほか。
利益どころか大赤字だ。なぜならぼくが別の古本屋やAmazonで本を買ってしまうから。
もうずっと赤字。
「おっ、今月は赤字が2万円で済んだ。よかったー」みたいな感じでやっていきたい。

あまりにも客が少なすぎて、近所の人たちから
「あそこの古本屋、表向きは古本屋だけど裏でヤバい商売扱ってるらしいよ」
「『小松左京の初版本は入荷したかい?』って言えばカジノにつながる秘密の通路をあけてもらえるらしいよ」
みたいな噂が立つぐらい。

あー、いいなあ!



2020年11月13日金曜日

【読書感想文】男から見ても女は生きづらい / 雨宮 処凛『「女子」という呪い』

「女子」という呪い

雨宮 処凛

内容(e-honより)
男から「女のくせに」と罵られ、常に女子力を求められる。上から目線で評価され、「女なんだから」と我慢させられる。私たちは呪われている?!「男以上に成功するな」「女はいいよな」「女はバカだ」「男の浮気は笑って許せ」「早く結婚しろ」「早く産め」「家事も育児も女の仕事」「男より稼ぐな」「若くてかわいいが女の価値」…こういうオッサンを、確実に黙らせる方法あります!


 男として生まれ、男として生きてきたので、「女性の生きづらさ」について深く考える機会はほとんどなかった。

 だが娘が生まれ、彼女の将来を案ずるうちに遅ればせながら「女性の生き方」について真剣に考えるようになった。
「娘が大きくなったときに生きていきやすい世の中だろうか」という目で今の日本社会を見渡してみると、お世辞にも女性が生きやすい世の中とは言えない(男も生きづらい世の中だけどね)。

 昨年、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』という小説を読んだ。ふつうの女性がふつうの人生を送るだけなのだが、それだけなのに「女の生きづらさ」が浮かびあがってくる。小説の舞台は韓国だが、日本の状況と大きく変わらない。




 ぼくらの世代は、ちょっと上の世代とは違い、「男女は平等である」と言われつづけて育った。
 ぼくの通っていた中学校では男女ともに技術と家庭科をやり、名簿も男女混合で、体育祭では男子もダンスをして女子も組体操をした。
 ぼくにはひとつ上の姉がいるが、親から「男の子なんだから」「女の子らしくしなさい」と言われたこともない。「これからは男でも家事をできなきゃいけないよ」とは言われたが。

 本音はともかく、タテマエとしては「男女平等」に異を唱えることなど許されない時代に育った。

 だから「女は家で家事と子育てをしとけ」なんてことを言う人は、今の三十代以下にはほとんどいない。
 ぼくがいた会社でも「女性がお茶を出すように」なんて言うのは1960年代生まれまでだった。

 じゃあ女性が生きやすくなったかというと、そんなことはないんじゃないかとおもう。
 むしろ「男女平等」というタテマエがある分、「女性だけが損をしている」という声を上げづらくなったんじゃないだろうか。
 現実問題として「女のほうが平均給与が低い」という明確な格差があるのに、「今は雇用機会均等法もあって男女平等の世の中だよ」というタテマエがあるせいで、「あなたの給与が低いのはあなたが女だからではなくあなたの能力が低いからでしょ」と言われてしまうというか。




 この国では、男は経済的自立さえしていればそうそう責められることはない。しかし、女はその上で家事や育児まで完璧にこなすことを求められ、「男を立てる」ことまで要求される。仕事を続けたら続けたで「旦那さんの理解があっていいわね」なんて言われ、育児に手がかかったり介護を必要とする家族がいたりすれば仕事を続けていることを責められ、やむを得ず仕事を辞めて育児や介護に専念すれば、誰もねぎらってくれないどころか「気楽な専業主婦」扱いされる。
 一方で、結婚しない女、子どもがいない女は、時に無神経な言葉に晒される。

 ぼくは子どもと過ごすのが好きなので、休みの日はほぼずっと子どもといっしょにいる。
 妻が外で遊ぶのがあまり好きでないことや、ぼくががさつなこともあって、我が家では自然と「ぼくが子どもを連れて外で遊んでいる間に、妻が掃除や料理をしてくれる」という役割分担になった。

 子どもと遊んだり、子どもを連れて買物に行ったりしていると、けっこう「おとうさんえらいねえ」と声をかけられる。声をかけてくるのはほぼまちがいなくおばちゃん・おばあちゃんだ。「うちの旦那なんかなんもしてくれへんかったわ」と愚痴をこぼされることもよくある。

「ご主人子どもと遊んであげてえらいねえ」と言われることはあっても、「奥さん家事をしててえらいわねえ」「おかあさん、子ども連れて買物に行っててえらいねえ」と言われることはない(そして「ご主人仕事しててえらいわねえ」とも言ってもらえない)。

 2020年になっても「夫は仕事がメインで家事はオプション、妻は家事がメインで仕事はオプション」は根強く残っている。




「女は楽でいいよな」と言う男もいる。ぼくもかつてそうおもっていたが、最近気づいた。「女は楽でいい」なんてごく限られた時期の限られた人だけのことだ。

 二十歳ぐらいの女の人はだいたいちやほやされる。それはそれで悪いこともあるが、トータルで考えれば得のほうが多いとおもう。
「二十歳ぐらいで金もないし顔もよくない男」なんて誰にも相手にされなかったもん、ホント。世の中から「単純労働力」としてしか期待されてなかった。

 でも、黙っていてもちやほやされる時期はごくごく限られている。
 美人であっても歳をとったら、同年代の男より生きるのは大変だ。そして大変な時期のほうがずっと長く続いてゆくのだ。

 例えば一人親の貧困率が50%を超えるのは、この国の社会保障制度の設計に問題があるからだ。すでに時代遅れの「正社員の夫と専業主婦の妻、プラス子ども」みたいなものが標準世帯とされているので、標準世帯からもれる一人親世帯は貧困となるリスクが一気に高まる。当然、結婚していない単身女性の貧困リスクも高まる。単身女性の三人に一人が貧困(月の収入が約10万円以下)というのは有名な話だが、これが高齢者になるともっと大変なことになっている。65歳以上の単身女性の貧困率は52.3%(07年)で二人に一人だ。
 女性は、子どもの時には「父」という男が、そして大人になってからは「配偶者」という男がいなければ貧しくなるリスクが高まるのだ。そしてそれをカバーする制度は今のところ、ない。

 男女平等だのといっても、歳をとった独身女性が生きていくのは(歳をとった独身男性よりも)大変だ。社会のシステムが、女性が独身で生きていけるようにできていないのだ。

 娘の幸せを願う父親としては「娘にいい人と結婚してほしい」と願わざるをえない。もしぼくに息子がいても、そこまで強く「いい人と結婚してほしい」とは願わないだろう。
 令和の時代になってもまだ、女性の幸せは夫によって決まる部分が大きいのだ。

 この国では、なんて「普通に大人になる」ことが難しいのだろうと。例えば、カビさんの〈子供でいた方が両親は可愛がってくれると思ったから 大人になってはいけないと思っていた〉という一文。この言葉に、共感できる人は多いのではないだろうか。
 一方で、社会も「女の子」の「成熟」に変に敏感だ。年相応に、恋愛や異性や性的なことに興味を持つと「親」や「教師」的な存在からは全否定される。しかし、突然「大人の男」は「お前の性を売れ」という圧力を直接的・間接的にかけてくる。同時に「未熟であれ、成熟などするな」というメッセージも投げかけてくる。自分が成熟したほうがいいのか悪いのか、自分が何かトンデモなく隙だらけだから変なオッサンに声をかけられるのか、心も体もいつも傷ついてちぐはぐで、常に欲望の主体ではなく客体として扱われるので、自分は本当は何がしたいのか、当たり前にある自らの欲望と折り合いがつけられなくなる。そんな無限ループ。そして「女」であることから降りたくなる。

 恥ずかしい話だが、ぼくもやはり女を一方的に品定めしていた。男友だちと「あの女はアリ/ナシ」と語ったこともある。ひとりの人間としてではなく、顔と身体だけを見て。

 そして自分の娘が同じ眼にさらされるのだと想像してやっと、女性の置かれる状況の厳しさを思い知る。自分の娘が……という立場に置かれて想像をしないと気づけない。

 やっぱり大変ですよ、女のほうが。
 美人でも不美人でも男好きでも男嫌いでも仕事ができても仕事ができなくても生きづらい。
「ふつうぐらいの器量で、ふつうの性格で、ふつうに仕事ができるぐらいであってほしい」と我が子に対して臨んでしまうのだが、これがもう〝呪い〟だよな……。




 ところでこの本、4章構成なのだが、2章と3章は「メンタルを病んだ女性の生きづらさ」について書かれており、これは蛇足だったようにおもう。

 心を病んだ原因は「女であること」に由来するのかもしれないが、リストカットをくりかえしている人やAVで処女喪失したライターが飛び降り自殺をしたことを引き合いに出して「女は大変」って言われても、「大変なのはわかるけど〝女の生きづらさ〟を語るための例としては極端すぎるだろ……」としか思えない。
 ガソリンかぶって焼身自殺をした男がいるからって「ほら男って大変でしょ?」とは言えないでしょ。

 

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【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

男らしさ、女らしさ



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2020年11月12日木曜日

【読書感想文】作者はどこまで狂っているのか / 星野 智幸『呪文』

呪文

星野 智幸

内容(e-honより)
さびれゆく松保商店街に現れた若きカリスマ図領。クレーマーの撃退を手始めに、彼は商店街の生き残りを賭けた改革に着手した。廃業店舗には若い働き手を斡旋し、独自の融資制度を立ち上げ、自警団「未来系」が組織される。人々は、希望あふれる彼の言葉に熱狂したのだが、ある時「未来系」が暴走を始めて…。揺らぐ「正義」と、過激化する暴力。この街を支配しているのは誰なのか?いま、壮絶な闘いが幕を開ける!

 なんというか……。
 表現しづらい小説だな。

 序盤は商店街立て直し小説みたいな感じの導入だったので、徐々にサイコホラーになってきて戸惑ってしまった。え? なにこれ? この武士みたいなしゃべり方する女の人は何なの? って感じで(ちなみにその武士みたいなしゃべり方の女性はフェードアウトして途中からストーリーにほとんどからまなくなってくる。ほんとなんだったんだ)。

 決してうまくない小説なんだよね。武士みたいな女の人もそうだし、悪の黒幕的ポジションの図領も最後はほったらかし。登場人物が多いわりに細かく描ききれてないので「この人誰?」となってしまう。
 視点がころころ変わるんだけど、そういう構成の小説を書くにはちょっと技量が追いついていないような……。ストーリー展開も急すぎて「極限状態でもないのに人間がここまでかんたんに洗脳されるか?」という気になる。


 と、決して巧みとは言えない小説ではあったけど、しかしなんというかすごいパワーがあった。粗削りだけど、熱量とかオリジナリティとかはびんびん感じる。引きこまれた。

「それでノアとその一族を方舟に乗せて、残りの全人類を滅ぼした。動物はとばっちりだけどね。で、ノアは選ばれた人間ということになっているが、本当にそうなのか、というのがここで考えたいことだ。何しろ、世が新しくなるために本当に必要だったのは、ノアが生き残ること以上に、他の人間たちが死ぬことだったんだから。選ばれたのはノアじゃなくて、ノア以外の、死んだ者たちじゃないだろうか? ノアはむしろ、選ばれなかった、選に漏れた役立たずとも言えるんじゃなかろうか」
 栗木田はゆっくりと全員の顔を見た。
「今の世も腐ってるよな。だからディスラーも世直しに励んだつもりでいたんだもんな。洪水みたいなものも、世界中で起きている。まさに、古い時代は終わり、新しい時代が作られようとしてる。人類は少しずつ滅亡しようとしていると、私は実感してる。それで、方舟がどこにあるのかは知らないが、少なくとも私はその乗客ではないことは自覚している。本能的に知ってるというかね。おまえらもそうだろ?」
 今度は全員がうなずいた。
「大切なのは、滅びるほうだろ?滅びるべき者たちがその使命を悟って死んでいくから、世の中を新しく変えることができるわけだ。つまり、世を変えているのは、死んでいく側なんだよ。我々が、世を捨てるような自棄な気分じゃなく、強い意志を持って率先して消えることで、次のもっとマシであろう世を生むことができるんだ。変な言い方だが、無意味さを認めて死ぬことのできる我々には、生まれてきた意味がある。私はそちらの側にいたい。というか、いる。我々こそが改革者なんだ、選ばれた民なんだ!」

 登場人物の言動とかはめちゃくちゃなんだけどね。ぜんぜん筋道が立ってないし。
「洗脳されている側」がめちゃくちゃなのは当然として、「洗脳されている連中と闘う人々」のほうもだいぶヤバい。どっちもおかしい。いかれてる人しか出てこない。

 作者もどっか狂ってるんじゃないか。そう思わせる力がある。もしくは本当に狂っているか。

 矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』を読んだときにも同じことを感じた。これだけ粗いものをちゃんと活字にする出版社もすごい。


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【読書感想文】きもくて不愉快でおもしろい小説 / 矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』

【読書感想文】最悪かつ見事な小説 / 櫛木 理宇『少女葬』



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2020年11月11日水曜日

【読書感想文】本を双眼鏡で探す家 / 磯田 和一『書斎曼荼羅 1 本と闘う人々』

書斎曼荼羅 1

本と闘う人々

磯田 和一

内容(e-honより)
有名作家や翻訳家、脚本家、大学教授といった、日頃本と闘っている職業人を取材し、その状況をイラストで紹介。

 京極夏彦、佐野洋、大沢在昌、山田風太郎など、本に関わる人々の〝書斎〟をイラストと文章で紹介した本。

 妹尾河童氏が『河童が覗いた〇〇』というシリーズの連載をやっていたが、あんな感じ。


 ぼくも学生時代は数千冊の本を所有していて、本棚に入りきらないので段ボールに入れて押し入れに積みあげていたら押し入れの中板がひしゃげてしまったことがあった。

 自分もなかなかの蔵書家だとおもっていたが、『書斎曼荼羅』を読むとぼくの蔵書なんて富士山のふもとにある公園の砂山ぐらいのレベルだったと思い知らされる。

 しょっぱな(関口苑生氏・書評家)から、「本が多すぎてストーブが置けないのでガスコンロをつけっぱなし」「本が多すぎることが原因で妻が出ていったので広いマンションに引っ越す(が、引っ越し先でもやはりすぐ本だらけになる)」という強烈なエピソードに仰天される。

 すげえ……。
 しかしガスコンロつけっぱなしとかあぶなすぎるだろ……。これだけ本があったら一度火が付いたらあっという間に燃え広がるだろうし。


 阿刀田高(作家)のエピソードもすごい。

「すごく高い本棚をつくったが、上のほうのタイトルが見えないので本を探すときは双眼鏡で探す」というもの。

 絵があるけど、高い本棚がずらりと並んでいて、図書館みたいな書斎。いや図書館よりもはるかに本の密度は高い。




 いちばん度肝を抜かれたのは、翻訳家・評論家の藤野邦夫氏。


 なんと床に本が敷きつめられているのだそうだ。
 これはどうなんだろう……。たいていの本好きなら、どんなに本が家にあふれかえっててもぜったいに「本に乗る」ということはしないとおもうが。
 こういうことできる人もいるんだなあ。ぼくはこの家に入りたくない。




 井上ひさし氏の『本の運命』というエッセイに、こんな文章が出てきた。

 一番買い込んだのは、朝日新聞で文芸時評をやってた頃でした。たまたまその頃、僕の『吉里吉里人』がびっくりするほど売れて、印税がどんどん入ってきたせいもあった。
 気が大きくなって、「よしっ、世の中に出てる本で、文芸時評の対象になりうるものは全部買ってみよう」と決意して、一年間続けました。出入りの本屋さんに、小説と評論と漫画をとにかく全部取ってくれと頼んで。これは月に四、五百万円かかりました。
 お陰で、印税は本代で消え、税金を払うために借金をして、払い終わるのに五年ぐらいかかったでしょうか。これがきっかけで、本がたくさん売れるのが怖くなった(笑)。
 さすがにこんな買い方は続きませんでしたが、いまでも本代が月に五十万円ぐらいになるでしょうか。ですからうちの、エンゲル係数じゃなくて、本にかかる係数はかなり高い(笑)。

 上には上がいるものだ。

 本の重みで床が抜けた、なんて話を聞くとあこがれると同時にちょっとあこがれる。
『書斎曼荼羅』に出てくる人たちは、地震で本に埋もれて死んだらむしろ本望なんだろうな。

 しかし最近は電子書籍が普及したからねえ。本をたくさん読む人ほど電子書籍のほうがメリットあるからね。もうこんな書斎もなくなっていくんだろうね。


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【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

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2020年11月10日火曜日

【読書感想文】多数決のメリットは集計が楽なことだけ / 坂井 豊貴『多数決を疑う』

多数決を疑う

社会的選択理論とは何か

坂井 豊貴

内容(e-honより)
選挙の仕組みに難点が見えてくるとき、統治の根幹が揺らぎはじめる。選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?本書では社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考える。多数決に代わるルールは、果たしてあるのだろうか。

集団内で何かを決めるときにいちばんよく使われるやり方、それが多数決。
ぼくらはあたりまえのように多数決を使っている。
クラスの委員を決めるのも多数決だし、数人で昼飯に何を食うか決めるときにも使うし、選挙だって多数決だ(比例代表は違うけど)。

そして多数決は強い。
多数決の結果に異を唱えるのはむずかしい。
「多数決で決まったんだから文句言うなよ」という空気が醸成されてしまう。
「自民党が与党なのはおかしい!」と言おうもんなら「公正な選挙で民主的に決まったことにいちゃもんつけるな!」と言われるだろう。


だが、ちょっと待ってほしい。
多数決ってほんとに公正なのか。ほんとに民主的な手段なのか。
そんな疑問がずっとあった。

『多数決を疑う』を読んではっきりわかった。
多数決は公正でも民主的でもない。何かを決めるにあたって、ぜんぜんいいやりかたじゃない。




たとえば X、Y、Zという候補者がいたとする。

10人中4人は X > Y > Z ……①
10人中3人は Y > Z > X ……②
10人中3人は Z > Y > X ……③

という順で候補者を支持している。
「XとYのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がYを選ぶ(②と③のグループ)。
「XとZのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がZを選ぶ(②と③のグループ)。

XはYよりもZよりも支持されていないわけだ。
「三人の中で誰がいちばんイヤですか?」と尋ねたら、10人中6票を獲得してXが1位になる。
ところが、3人の候補者の中から1人選ぶ多数決だと、選ばれるのは4票を獲得したXになる。

いちばん嫌われているXが当選する。それが今の日本の選挙でも用いられる「多数決」なのだ。


こういう逆転現象を防ぐ基準を「ペア敗者基準」と呼ぶ。複数候補者からペアをとりだして比較したときに他のあらゆる選択肢に負けてしまう選択肢のことを「ペア敗者」と呼び、ペア敗者が勝利しないルールが「ペア敗者基準」だ。
多数決はペア敗者基準を満たさない。

ペア敗者基準を満たす投票ルールはいくつかあるが、その中のひとつは「ボルダルール」だ。
3人が立候補した場合、1位に2点、2位に1点、3位に0点をつける方式だ。
これだとペア敗者が勝利することはありえない。

この本では他にも「コンドルセ・ヤングの最尤法」「決選投票付き多数決」「繰り返し最下位消去ルール」などが紹介されているが、個人的には「ボルダルール」がもっともすぐれているようにおもう(理由はいちいち書かないのでこの本を読んでほしい)。
わかりやすいし、多数決に比べればずいぶん公平だし。姑息な企てにも強いし。




『多数決を疑う』ではいろんな方式が紹介されているが、いろいろ読んだ上でおもうのは「ベストな方法なんてない」ということだ。

万人が納得する方法など「満場一致になるまで全員で徹底的に話しあう」しかないが、もちろんこんなことは現実的に不可能だ。
またシンプルかつ公正なやりかたを追求していけば、独裁制につきあたる。独裁制は1/1の満場一致で決めるのだからきわめて公正だ。だがもちろんこれがいいやりかただとおもう人は少ないだろう。

ベストな方法などない。
でも、「まだマシな方法」はある。
多数決は欠点だらけで、「まだマシな方法」ですらない。

多数決のメリットは「とにかくシンプル」であることぐらいだ。
集計が楽、バカでも仕組みがわかる。ほとんどそれだけだ(「危険防止性」とか「中立性」もあるけど)。

だから幼稚園児がお遊戯会の主役を決めるときには向いているし、集計手段や通信や交通の制約の多かった時代に多数決制を採用することにも、いたしかたのない面はあった。

しかし、これだけ計算機も情報伝達手段も発達した今、公正に代表を選ぶべき選挙で多数決を使いつづける理由はまったくないと言ってもいい。

以前「汚い手で選挙に勝つ方法」という記事を書いたが、こういう手が通用するのも多数決だからだ。ボルダルールならこの手は使えない(むしろ逆効果になる)。

結局、今でも多数決が使われているのは「集計が楽」「小学校のときから使っているから」という集計側の都合でしかない。
民意のことを少しでも考えれば多数決にはならない。




そもそもさ。

ごく一部の層だけから熱狂的に支持されている候補者と、大半の有権者が「こいつなら悪くないとおもわれている候補者、どっちがいい政治をできるだろうか。
正解はないが、ぼくは後者だとおもう。

三割から熱狂的に支持されていて七割から蛇蝎のごとく嫌われている候補者/政党が、全国民のためにいい政治をするとおもう? ぜったいしないでしょ。どう考えたって支持母体に利益誘導するだけでしょ。
でも多数決制度だとそういう候補者が当選しちゃうんだよね。

 どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。選挙で勝った政治家のなかには、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。

今の日本の選挙はほとんどが多数決であり、多数決は民意を正確に反映しない。
すなわち、今の首長や議員は民意によって選ばれたものではない。「自分が有利になるいびつなルールで勝ち上がった者」だ。

もちろんそれは政治家のせいではない。制度が悪いだけだ。
だから恥じる必要はない。
だが「民意によって選ばれた」などと思いあがってはいけない。
「集計が楽なだけの、民意を正確に反映しない多数決という制度」によって暫定的に立法権を受託されているだけなのだから。

わかってます?


しかしさあ。
そろそろ国民投票でもして、多数決に代わる選挙方法を決めようぜ。
もちろん、多数決以外のやりかたで!

 

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