2024年9月8日日曜日

【読書感想文】清水 由美『日本語びいき』/社長も召し上がりたいですか?

このエントリーをはてなブックマークに追加

日本語びいき

清水 由美(文)  ヨシタケシンスケ(絵)

内容(e-honより)
「させていただく」は丁寧か、馬鹿丁寧か。「先生」の読み方は本当に「センセイ」?よく知っているつもりの言い回しも、日本語教師の視点で見るとこんなにおもしろい!ヨシタケシンスケさんの、クスッと笑える絵とともに、身近な日本語のもうひとつの顔をのぞいてみませんか?

 日本語教師として外国人に日本語を教えている著者の、日本語エッセイ。

「日本語を学ぶ外国人のエピソード」は少なく、日本語まわりの話が中心。教師として誠実だ。

 昔、やはり日本語教師をしている人のコミックエッセイを読んだことがあるけど、「外国人がこんな言い間違いをしたんだよね。おかしいでしょ!」って感じがちょっと嫌だったんだよね。そりゃあ外国語を学んでるんだから間違えるでしょ、外国語を学ぶ日本人だってネイティブからしたら失笑ものの間違いをするだろうし、間違えた生徒を教師が他所で笑いものにしているとおもったら学ぶ気なくすわ……とおもったものだ。

 まあおもしろおかしく話したくなる気持ちはわかる(ぼくが日本語教師だったら絶対に話してる)けど、家族や友人に話すぐらいにとどめておくべきで、本にしちゃいかんよな。

 その点、この人は「日本語のおもしろさ」については語っているけど、生徒のことは極力書かないようにしている。必要に応じて書く場合でも匿名性を持たせて。いいスタンス。



 よく「日本語は敬語がむずかしい」と言われるが、実際は敬語(というより丁寧語)のほうがくだけた表現よりもずっとかんたんなんだそうだ。

 初級の日本語のテキストを見ると、会話文に次のような例が出てきます。
「スミスさん、お昼を食べに行きませんか?」
「いいですね。行きましょう」
「どこに行きますか?」
「きのうはミドリ食堂で食べましたから、きょうは……」
 これを不自然だ、ヘタな三文芝居を見ているようだ、と非難するのは簡単です。職場の同僚だったら、もうちょっとくだけた感じになるだろう、と。
「スミスさん、お昼食べに行かない?」
「いいね。行こう」
「どこ行く?」
「きのうはミドリ食堂で食べたから、きょうは……」
 確かにそうかもしれません。でも、「不自然な会話」には、理由があるのです。
 最初の例では、動詞はすべてマス形(=国文法でいうところの連用形)で使われています。「行き(ます)」という形さえ覚えてしまえば、活用ループの別に関係なく、あとは「ます」の部分を「ませんか/ましょう/ました」に入れ替えるだけです。それだけで、提案や誘いかけ、過去など、かなりのことが表現できます。一方、くだけた感じの二番目の例では、「行く」、「行かない」、「行こう」というように、動詞の本体部分を活用させなければなりません。しかも活用のさせ方は所属グループによって違うのですから、まずは所属の見極めが必要になってきます。
 さらに格助詞の省略も問題になります。「お昼を食べる」の「を」や、「どこに行く」の「に」は省略できるし、省略した方が自然ですが、「ミドリ食堂で食べた」の「で」は、どんなにざっくばらんな会話でも省略できません。助詞ごとに省略の可否を判断するのは、案外たいへんです。

  なるほど、「~ます」でしゃべるようにすれば、動詞の活用はひとつだけ覚えればいいわけか。

『食べる』なら『る』を取って『ない』に変える、
『行く』の否定形は『く』を取って『かない』に変える、
『走る』なら『る』を取って『らない』に変える、
『する』や『くる』は不規則に『しない』『こない』になる……と活用を覚えるのはたいへんだ。

 その点『食べます』『行きます』『走ります』『します』『きます』のような形でおぼえておけば、否定形にするときはすべて『ます』を『ません』に変えるだけなのでかんたんだ。

 またお店や駅の案内、ビジネスシーンで使うのたいてい丁寧語なので、日本で旅行したり仕事をする上では、丁寧語をマスターしておけばそんなに不自由はないかもしれない。

 それに「敬語でしゃべるべき場でくだけた言葉遣いをする」と「くだけた言葉がふさわしい場で敬語をしゃべる」だったら、後者のほうがずっとマシだしね。

 というわけで日本語初級をめざすのであればまずは敬語を学ぶのがよさそうだ。ただ最近は日本のアニメを原語で観たい! という動機で日本語を学ぶ人も多いらしく、そういう人にとってはくだけた言葉遣いのほうが大事のようだ。



 日本語には形容詞(形容動詞)がすごく多いという話。
 この谷の浅さを利用して、ルール違反ギリギリの、生きのいい表現を試みる例は数多く見られます。たとえば「昭和」という語をそのまま名詞として使って「昭和の歌」と言えば、それは昭和の時代に作られた歌ということになりますが、形容詞として「昭和な歌」と言ったらどうでしょう。実際には平成の御世に作られた曲かもしれなくても、昭和っぽい、昭和の空気をまとった歌ということを言いたいのだろうな、とわかります。「昭和」が遠のき、その属性が一般に認知されるようになってきた今だから、使える手です。
 (中略)
  ある名詞をめぐってこのように共通認識が成り立つかどうかというのが、それをそのままナ形容詞にできるかどうかのカギになります。だから「猫な色」は無理があります。全猫共通の色はありませんから。でも「猫な生活」、「猫な奴」、「猫な態度」は、なんとなく理解される気がする。少なくとも猫もちさんならわかるでしょう。

 概念を表す名詞はたいてい形容動詞化できる。自由な、博識な、優秀な……。さらに外国語の形容詞もほとんどそのまま形容動詞になる。ビューティフルな、アンビバレントな、ポップな……。そのまま形容動詞化するのがするのがむずかしい一般名詞であっても、「的」「風」をつければ、パンダ的、スマホ風、などになる。アメリカ的な、坂本龍馬チック、など、固有名詞でさえも。さらにさらに、「ちょっと背伸びしたい的コーディネート」のように文章ですら形容動詞になってしまう。うーん、むちゃくちゃ自由。

 いくらでも形容詞が作れる、ってのは他の言語にはなかなかなさそうな日本語の特徴だ。



 あまり知られていない日本語のルール。

 教室に入っていくと、初めて京都に行ってきたという学生がお約束の生八橋をクラスメートにふるまって、みんなでキャイキャイ騒いでいる。ほほえましく見ていると、 「先生もほしいですか?」
 え? あ? う、うん、嫌いじゃないけども、......あ、ありがとう、いただきます。
 内心で一私、そんなに物ほしそうな目をしてたかな」と激しくうろたえながら、片手に出席簿、片手に三角の生八橋をぶら下げて立ちつくす教師なのでした。
 日本(語)社会のルールその二、です。「目下は目上の感情(とくに欲望)を生々しく言挙げしてはならぬ」
 8章で触れた感情・感覚形容詞のルールに、他者の感情や感覚をストレートに表現することは日本語ではできない、というのがありました。「(寂しい)ようだ」、「(かゆ)そうだ」、「(痛い)らしい」とか、「(うれし)がっている」のように、間接化の手段を講じなければならないというルールです。
 しかし、こと目上の人の感情の場合、とくに「ほしい」とか「~したい」のような願望・欲望に関する表現の場合は、いくら間接化してもだめです。「先生もほしそうですね」とか「あの先生も食べたがっていました」のように言ってはいけない。たとえ文法的には正しくても、ダメ。ダメったらダメ。ひどくぶしつけに響いてしまいます。

 たしかになあ。「社長も召し上がりたいですか?」という表現、日本語文法的には正しいけど、実際に(社長の前で)使うのはNGだよなあ。

 こんなこと、学校では(たぶん)習わない。敬語の本にも書いてない。「社長も召し上がりたいですか?」はテストでは丸だが実社会ではNGだ。ほとんどの日本人は避ける。意識していないけど、まずい表現だと知ってはいるのだ。

 きっと日本語以外の言語でも、こういうのがいろいろあるんだろうな。「間違いとは言えないけどネイティブなら避ける表現」というのが。外国語学習ってむずかしいなー。


【関連記事】

【読書感想文】広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険 子どもに学ぶことばの秘密』 / エベレータ

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿