2023年10月19日木曜日

毎日身長を測る娘

 四歳の次女の身長を測った。

 家の壁に背中をつけさせて、壁に鉛筆で線を引いて、身長を測ってやる。

「すごいねー。百十センチになったよ。大きくなったねー」

と言うと、うれしそうにしていた。


 翌日、次女は「せ、はかって!」とお願いしてきた。

「えっ、昨日測ったじゃない」

「はかって!」

 もう一度計ってやる。もちろん昨日と変わらない。誤差の範囲だ。

 しかし次女は目を輝かせて「おおきくなった?」と聞いてくる。


 すごい。毎日大きくなると思ってるのだ。

 いや、あながちまちがいではない。じっさいに毎日大きくなってるのだ。だって一ヶ月に一センチのペースで大きくなってるんだもの。完全に成長が止まってしまったぼくとはちがう。

 昨日できなかったことが今日にはできるようになっている。先週までできなかったことが今週はできるようになっている。一年前と比べると、できることに雲泥の差がある。

「おおきくなった?」は、毎日成長しているからこその自信に裏付けられているのだ。



2023年10月18日水曜日

子どものころ怖かったもの


しゃぼん液

 しゃぼん玉遊びをするときに母が洗剤でしゃぼん液をつくってくれたのだが、“しゃぼん液は飲み物ではない”と伝えるために母は「これ飲んだら死ぬよ!」と言っていた。

 幼いぼくはそれを真に受け、しゃぼん液が逆流して口に入ってしまったときは「さっき飲んでしまったかもしれない。このまま死ぬんだろうか」と恐怖にかられた。

 

海外の迷子

 九歳のとき、家族で香港に旅行した。ぼくにとっては生まれて初めての海外旅行だった。

“ひとりで勝手な行動をしないように”と伝えるために、母はぼくを「ここは日本じゃないからね。ここで迷子になったらもう一生日本に帰れないよ!」と脅した。

 親とはぐれてしまったらもう二度と会えない、日本にも帰れない、この言葉も通じない未知の国で生きていかないといけないのか、と恐ろしくなった。満州引き上げ時の残留孤児のように。

 旅行中ずっと怖かった。


踏切の溝

 幼いころ、踏切を渡るときに母に言われた。

「ここに電車が通るための溝があいてるでしょ。昔、ここに足が挟まった子がいて、抜けなくてもがいてるうちに電車が来て、ひかれて死んじゃったっていう事件があったの。だからここにはぜったいに足を入れちゃだめ」

 脅しのための作り話か、ほんとにあった出来事なのかわからなかったが、とにかく怖かった。ぜったいに足を入れたらだめだとおもい、溝の近くに足を置くことすら怖かった。

 そのせいで、ぜったいに溝にはまらないぐらい足が大きくなった今でも、踏切を渡るときは大股で溝をまたいでいる。

※ ちなみに今調べたら、1982年5月8日に東北本線踏切溝挟まれ事故という事故が起こっている。ぼくが母から脅されたのが1980年代後半なのでほぼまちがいなくこの事故を指していたのだろう)。その事故の後、挟まることがないよう踏切の溝にはゴムが設置されたとか。



 結局、子どものころに怖かったのは「母の脅し」に尽きる。



2023年10月13日金曜日

【読書感想文】田中 啓文『ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺』 / 良くも悪くも深みがない

ハナシがちがう!

笑酔亭梅寿謎解噺

田中 啓文

内容(e-honより)
上方落語の大看板・笑酔亭梅寿のもとに無理やり弟子入りさせられた、金髪トサカ頭の不良少年・竜二。大酒呑みの師匠にどつかれ、けなされて、逃げ出すことばかりを考えていたが、古典落語の魅力にとりつかれてしまったのが運のツキ。ひたすらガマンの噺家修業の日々に、なぜか続発する怪事件!個性豊かな芸人たちの楽屋裏をまじえて描く笑いと涙の本格落語ミステリ。

 元ヤンキーの少年が噺家のもとに無理やり弟子入りさせられ、厳しい修行に耐える日々。そんな中でなぜか次々に事件が発生し、主人公が快刀乱麻の名推理で次々に解き明かしてゆく。そのうち落語のおもしろさに目覚めて噺家として成長してゆく……。

 という、どこをとってもどこかで聞いたことがあるようなストーリー。「かつて新しかったもの」をつなぎあわせてつくった古臭い話、という感じだ。

 要するに、ダサいんだよね。元ヤンが何かに懸命に取り組む、という設定が今の時代ではキツい。2004年刊行の本だからしょうがないんだけど。

 『GTO』のドラマ化が1998年、『池袋ウエストゲートパーク』のドラマ化が2000年、『Rookies』のドラマ化が2008年。2000年前後はそういうのが流行ってたんだよねえ。「ヤンキーがかっこいい」時代が終わり、それでもまだギリギリ「元ヤンが一生懸命何かに取り組む姿がかっこいい」だった時代。そういや『SLAM DUNK』や『幽遊白書』にもその要素があるね。時代だなあ。




 しかしちょっと無理のある設定でも、ミステリとからめてしまえばあら不思議、それなりに読める小説になるのである。

 正直、ミステリはチープだ。かなり無理のある謎解き、手掛かりが少ないのになぜか主人公にだけは真実が見える、周囲の人間は警察もふくめてボンクラぞろいでちっとも真相にたどりつかない。それでもミステリと落語の筋とをうまくからめていて「よくがんばったな」という気になる。そもそもからめる必要があるのかといわれればそれまでなんだけど……。


 悪い意味でも、いい意味でも、深みのない小説だったな。子ども向け漫画っぽいというか。

 主人公には天性の落語の才能があり、どんなピンチもあっという間に解決して、毎回最後は「やっぱり古典落語ってすばらしい」に着地する……というご都合主義ストーリー。

 とにかくわかりやすい(というかひねりがない)ので、「ほとんど小説を読んだことがないけどとにかくストレスなく読みればそれでいい人」におすすめする本としてはアリかもしれない。ヤングアダルト向けレーベルで出していればぜんぜんいいんだけど。


【関連記事】

落語+ミステリ小説 / 河合 莞爾『粗忽長屋の殺人』

【読書感想文】小森 健太朗『大相撲殺人事件』



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2023年10月10日火曜日

管理職の残業は無能の証

 大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』にあった話。

 岡山大学の奥平寛子准教授と私は、子どもの頃夏休みの宿題をいつやっていたかを先延ばし行動の指標にして、それと長時間労働との関係を統計的に調べてみた。そうすると、管理職については、夏休みの宿題を最後のほうにしていた人ほど、週六〇時間以上の長時間労働をしている傾向があることが確認できた。もし、仕事を引き受けすぎて長時間労働をしているのであれば、そういう人たちは所得が高かったり、昇進しているはずであるが、残念ながらそのような傾向は確認できなかった。つまり、管理職の長時間労働の一部は、仕事を先延ばしした結果、勤務時間内に仕事が終わらず、残業をしている可能性が高い。そうだとすれば、残業をしにくい環境にすることで、人々は所定の勤務時間内で仕事をせざるを得ないようになって、生産性も上昇することになる可能性が高い。

 そうかそうか。なんともうれしいデータだ。

 つまり、遅くまで残業している管理職は、人より多く仕事をこなしているわけではなく、単に定時内に仕事を終えられないから遅くまで残っているのだ。つまり管理職の残業は無能の証。

 そりゃそうだ。管理職ともなれば、ある程度自分のペースで業務を進めることができる。仕組みやスケジュールを組むことも管理職の仕事だからだ。にもかかわらずいつまでも仕事を終えられないのは、能力が低いからだろう。

 思い返せば、ぼくが接してきた残業大好き管理職のみなさんもそういうタイプだった。いわゆる「無能な働き者」タイプ。いちばん迷惑な存在だ。


 しかし、世の中には、仕事ができて、かつ仕事が大好きで、長時間労働をものともしない体力があるバケモノみたいな人もごくまれにではあるが存在する。

 ま、そういう人は自分で起業するほうがいいとわかっているので、さっさと会社を辞めたりするんだけどね。


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【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民


2023年10月6日金曜日

【読書感想文】山内 マリコ『ここは退屈迎えに来て』 / 「ここじゃないもっといい場所」は無限にある

ここは退屈迎えに来て

山内 マリコ

内容(e-honより)
そばにいても離れていても、私の心はいつも君を呼んでいる―。都会からUターンした30歳、結婚相談所に駆け込む親友同士、売れ残りの男子としぶしぶ寝る23歳、処女喪失に奔走する女子高生…ありふれた地方都市で、どこまでも続く日常を生きる8人の女の子。居場所を求める繊細な心模様を、クールな筆致で鮮やかに描いた心潤う連作小説。


 地方都市の15~30歳くらいの女性の、不満や焦燥感や都会へのあこがれなどを描いた連作短篇集。連作といってもそれぞれ主人公は異なっており、どの話にも「椎名」という男が出てくる点だけでつながっている。




 ぼくは十八歳まで郊外で育って、大学時代は京都市で暮らし、卒業後はまた実家に戻り、三十歳で結婚を機に大阪市に引っ越した。

 だから都市に住む人の気持ちも、郊外に住む人の気持ちも、どっちもわかる。

 両方住んだ上で語るなら、個人的には郊外のほうがずっと好きだ。あまりに不便なところは住みづらそうだが、常に山が見えてて、ちょっと足を伸ばせば自然に近い川や森がある環境のほうが落ち着く(ちなみに京都市は都市だが近くに川や山や森があるのでその点ではいい街だ。ただ気候や交通はひどい)。

 ただ、食事をしたり、遊びに行ったり、文化に触れたりする上では圧倒的に都会のほうが便利で、特にぼくは車の運転が嫌いなので今は徒歩と電車でどこでも行ける都市の生活を満喫している。ちょっと郊外に行くと、車なしで生活できないとまではいわないが、車がないとできることが極端に少なくなるもんね。


 都市も郊外もどっちもそれぞれ良さはあるよね、という考えなので「東京にあこがれる」人の気持ちはどうも理解できない。

 高校の同級生にもいた。こんな街じゃ何にもできない、何かやろうとおもったら東京に行かなくちゃいけない、と語っていた女の子が。

 彼女ははたして高校を卒業して東京に行き、なんとかという劇団に入り、女優としては芽が出ず、会社員と結婚したらしいとSNSで知った。それが東京に行かないとできなかったことなのかどうかは知らない。

 でもまあ、よほど特殊な職業の人を除き(たとえば有名な芸能人になろうとおもったらやっぱり東京に行かないと相当むずかしいだろう)、東京に向かうのは「東京に何かをしにいく人」よりも「ここじゃないどこかに行きたい人」なんじゃないかとおもう。

「ここじゃないどこかに行きたい人」、言い換えれば「どこかに私が輝く場所があるはず」という気持ちってみんな多かれ少なかれ持っているものかもしれないけど、その意識が強い人って生きるのがたいへんだろうな。

 今の私がぱっとしないのは今の状況が悪いんだ、って思考はある意味ラクかもしれないけど、それって終わりがないというか。たぶん東京に行ったってニューヨークに行ったって満たされることはないとおもうんだよね。「ここじゃないもっといい場所」は無限にあるわけだから。ずっと「ここは本来の私の居場所じゃない」と考えるのってしんどそうだ。究極的には「ここじゃない別の人生」を求めるしかなさそうだし。

 ずっと「ここじゃないどこか」を夢見る人生を送るぐらいなら、ぼくは生まれ育った地元で近い人たちと楽しく生きていくマイルドヤンキーでありたい。




この町に暮らす人々はみな善良で、自分の生まれ育った町を心底愛していた。なぜこんなに住みやすい快適な土地を離れて、東京や大阪などのごみごみした都会に若者が流出するのか解せないでいるし、かつて出て行きたいと思ったことがあったとしても、この平和な町でのんびり暮らしているうちに、いつしかその理由をきれいさっぱり忘れてしまうのだった。

 両方に住んでわかるのは、都市にも郊外にもそれぞれ良さはあるが「都市の良さ」のほうがずっとわかりやすいということだ。

 〇〇がある、〇〇が近い、〇〇が多い……。

 他方、郊外の良さは数えあげづらい。「あることの価値」はわかりやすいが、「ないことの価値」は気づきにくい。

 また、郊外は「住み慣れた人には住みやすい」ことが多いが、都市は「住み慣れていない人にも(郊外よりは)住みやすい」ようにできている。

 わかりやすい「都市の良さ」「田舎のイヤさ」を感じている人にとっては刺さる小説かもしれない。

 ぼくはまったく共感できなかったな。ここは退屈、って感じる人はどこに行っても退屈なんじゃないのかなあ。


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