2021年1月20日水曜日

【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

原発労働記

堀江 邦夫

内容(e-honより)
「これでは事故が起きないほうが不思議だ」。放射能を浴びながらテイケン(定期点検)に従事する下請け労働者たちの間では、このような会話がよく交わされていた―。美浜、福島第一、敦賀の三つの原子力発電所で、自ら下請けとなって働いた貴重な記録、『原発ジプシー』に加筆修正し27年ぶりに緊急復刊。


 いい本だった。ものすごく読みごたえがある。これぞプロレタリア文学、という読後感。

 著者は1978年から1979年にかけて美浜原発(福井県)→福島第一原発(福島県)→敦賀原発で働き、その体験記を『原発ジプシー』として発表。絶版になっていたが、2011年の福島第一原発事故を受けて内容の一部を削除して再刊したのがこの本だ。


 2011年3月の東日本大震災の影響で福島第一原発で事故が起こったことはみんな知っているだろう。
 ぼくは「想定を超える大きな地震と津波が起きたせいで事故が起こった」とおもっていた。だが『原発労働記』を読んでその認識は変わった。たしかに地震と津波は事故の引き金になったが、もし地震が起きていなくてもいつか必ず事故は起きていただろう。




 実際に現場で働く労働者から見た『原発労働記』を読むと、その安全管理の杜撰さに驚かされる。

 作業は、線量の関係でもう従事できないと言われていた「雑固体焼却助勢」。計画線量が当初の一○ミリレムから、三倍の三○ミリレムに引き上げられたという。実際に浴びた線量が計画線量をオーバーしかけると、その労働者を作業から外すのではなく、逆に、計画線量のほうを上げてしまう……。所詮、「計画線量」とは、この程度のものでしかないのだろう。
 木村さんが「IHI」(石川島播磨重工)の下請労働者として福島原発で働いていたときのことだ。そこの労働者たちは、現場に着くとポケット線量計やアラーム・メーターなどをゴム手袋に詰め、それをバリア(木製の箱)の下に隠してから作業にとりかかっていた。五〇ミリレムのアラーム・メーターが一〇分で〝パンク〟するような高線量エリアで、一時間から二時間の作業。が、ポケット線量計の値は、二〇~五〇ミリレム程度。彼らはその値を一日の被ばく量としてそのまま報告していたという。
「最初はオレだって、そんなことやらなかったよ。でも、みんなやってるんだし……。会社の者もなにも言わんしねえ」

(注:100ミリレムは1ミリシーベルト)

 こんな話ばかり出てくる。
 電力会社は「厳しい基準で運用されているのでぜったいに事故が起こることはありません」と主張している。たしかに厳しい基準はある。だが、問題は現実にその基準が守られていないということだ。

「一定以上の被曝をした労働者は働けない」というルールを作ったって、
「あと五分だから」「せっかく来てもらったのに追い返すわけにはいかないから」「人手が足りないから」となんのかんのと理由をつけて破られる。
『原発労働記』には、

「検査の結果、基準値を上回ったから何度も検査を受けなおさせる。基準値を下回るまで再検査をする」

「放射能測定器が壊れていたから基準をオーバーする放射能を被曝してしまったが、そのまま報告すると始末書を提出しないといけないので嘘の数値を書くように指示された」

「息苦しくて作業にならないので全員規定のマスクを取って作業している」

「急に汚染水があふれたから防護服を着ないままあわてて水をかきだした」

といったエピソードがくりかえし語られる。
 めちゃくちゃ杜撰だ。これでよく「原発は安全です」なんて言えたものだ。


 原発に限らず、どんなルールもどんどんゆるくなるのは世の習わしだ。当初に作ったルールが何十年も厳密に守られることなんてない。まして現場を知らない人間が作ったルールなんて。

 今の新型コロナウイルス対策だってどんどん基準がゆるくなっている。当初は「〇人以上の新規感染者が出たらレッドゾーン」みたいなことが言われていたのに、感染者数が増える一方だからその基準はどんどんゆるくなり、とうとう最近では国や都道府県は明確な数字を言わなくなった。やっていることは四十年前とまったく変わっていない。




 そもそも、ルールをばか正直に守るメリットがまったくないんだよね。
 厳密に基準を守っていたら、人手が足りなくて原発が運用できなくなる。労働者も、働けないと給料がもらえない。
 働かせる側も働く側も、嘘をつくほうがメリットがある。これでルールを守るはずがない。

 そして、どんどん環境が悪くなっていく。

  過酷かつ危険な仕事をしているので、原発労働者の体調が悪くなる
→ 働き手が減る
→ 人手が足りないから無理して働かせる
→ 事故や健康被害が増える
→ さらに働き手が減る
→ 労働者が集まらないからいろんなところに声をかける
→ 仲介会社が入ることで労働者の給料が減る
→ ますます働き手が減る

という悪循環。

 病院にむかう車のなかで、安全責任者は「治療費の件だけど……」と、つぎのようなことを話しはじめた。
「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故のあったことがバレてしまうんですよ。ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。……だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」
 そして彼は、二、三年ほど前に福島原発内で酸欠事故が発生し、「そのときには新聞にジャンジャン書き立てられて、そりゃあ大変でしたよ」とつけ加えた。
 なぜ彼がこの例を引き合いに出したのか、その理由は明らかだ。もしあんたが労災でなければいやだと言い張ったなら、事故が公になり、東電に迷惑をかけることになる。そうなれば会社に仕事がまわってこなくなり、最終的には、あんた自身が仕事にアブレることになるんだぜ」ということを暗にほのめかしているのだ。事を荒立てるな、そっとしておけ、そうすれば八方丸く収まるではないか……。ここに原発の「閉鎖性」が生まれてくる土壌があるようだ。

 ここに書かれている原発の実態は、ごまかしと隠蔽ばかりだ。
 原発内で事故があっても救急車を呼ばない。付近の住民やマスコミに知られて「やっぱり原発は危険だ」とおもわれたくないから。原発構内でゴミを燃やすと煙が上がって近隣住民に嫌がられるので、外に持っていってこっそり燃やす。

 安全や生命よりイメージ操作に腐心している。「原発は安全だ」という嘘のイメージを守るために、安全性を犠牲にしている。本末転倒だ。


 原発労働者は常に危険にさらされている。

 昼休み。いよいよ原発内で働くことになりそうだ、と、私をこの職場に紹介してくれた石川さんに話す。彼は開口一番、「そりゃ、良かったなあ」と言い、その直後に、「でも、良かったって言えないかもしれんなあ……」と、つぎのようなことを話してくれた。
「管理区域内には、キャビティと呼ばれる大きなプールがある。燃料棒を入れとく所だ。定検が始まると、そこの水を抜き、壁面を掃除する仕事があるんだが、これが実にシンドイ。潜水夫みたいに、空気を送るホースのついたマスク――エア・ラインというんだけど――をつけ、上から水が滝のように落ちてくるなかで、壁面をウエスで掃除するんだ。まあ、人間ワイパーみたいなもんさ。
 けど、堀江さんもこの仕事やるかもしれんから言っとくけど、気いつけんならんのは、エア・ホースから空気が来なくなることがあるんよ。ホースが折れたり踏まれたりでね。これがこわい。じゃあどうするか。まずは、エア・ホースを思い切って引っぱって、プールの上にいる者に合図することだ。それでもダメな場合は、マスクを脱いじゃうことだな。放射能を吸い込んじゃうって? その通りさ。……でも、だよ。空気がストップしてその場で死んじゃうのと、放射能を吸ってでも、少しでも長く生きてんのと、どっちがいい。なっ、そうだろ」
 石川さんは、そのあと私に、いかにして素早くマスクを脱ぐか、そのためにはマスクはどのようにつけたら良いか、といったことを具体的に教えてくれた。〝少しでも長く生きる〟ためのギリギリの生存方法を――。

 こんなふうに「どっちも危険だけどどっちがまだマシか」という選択を常に迫られている。
「酸欠でぶったおれるほうがマシか、マスクをはずして放射能を浴びるほうがマシか」とか。


 そして当然ながら筆者たちも身体を壊している。白血球数が減少した、歯ぐきから血が出た、目まいがする……。
 身体を壊した労働者に対する電力会社からの補償は、ない。




 この本を読んでよくわかった。そもそも原発は無理があったのだ。最初から。
 地震が起きなくても、いつかは必ず大事故を起こしていた。

 メルトダウンまでいかなくても、小さな事故はしょっちゅう起こっている。
 そのとき、実際に対応する現場の人間はほとんど正しい知識を持っていない。

「そのサイクルなんとかいうのは、どんなテストなんだい」と、別の男の声。
「いや、ただね、そう新聞に書いてあったんよ。まあ……、運転前のいろんなテストじゃないのかなあ……」
 なんとも頼りない答えに、今度はバスの前の方から、「そうだよな、わしらが詳しいことを知ってたら、こんな仕事してないもんな」という声が飛んだ。
 このやりとりに、それまで静かだった車内が大爆笑となった。しかし、車内がふたたび元の静けさにもどったとき、「わしらが詳しいことを知ってたら……」のひとことが、なぜか妙に私の心に引っかかってきた。
 三日前、初めて「高圧給水加熱器」のピン・ホール検査をやったとき、この装置がどのような働きをするものなのかという疑問に、先輩の西野さんや、四年間も発の作業をしてきた石川さんでさえ、「わからん」と口を濁してしまっていた。
 近代科学の粋を集めたといわれている原発だから、それなりの高度で複雑な構造をもっていることはわかる。だが、自分たちがなにをやっているのかもわからぬままで仕事をしていることほど、「おもしろみ」のない労働もない。こんな疎外された労働、だからこそ、石田さんがグチをもらすのではないかと、ふと思った。


 この本を読んでまだ「日本に原発は必要なんだ」と言える人がいるだろうか。


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2021年1月19日火曜日

ツイートまとめ 2020年6月


コロナ禍

インターネットの闇

アリの生態

図書館

エンディング

映画の未来

バナナ

無責任

転職会議

受刑者向け

価値観

理科2

需要と供給

少年ナイフ

切り替え

リコメンド

アイドル

99.9%

0.01%

二重チェック

メガネ

定型文

理想

2021年1月18日月曜日

【読書感想文】女子校はインドだ/ 和山 やま『女の園の星』

女の園の星

和山 やま

内容(Amazonより)
ある女子校、2年4組担任・星先生。生徒たちが学級日誌で繰り広げる絵しりとりに翻弄され、教室で犬のお世話をし、漫画家志望の生徒にアドバイス。時には同僚と飲みに行く…。な~んてことない日常が、なぜこんなにも笑えて愛おしいんでしょう!?どんな時もあなたを笑わせる未体験マンガ、お確かめあれ!

『このマンガがすごい!2021』オンナ編第1位になった作品(しかしオトコ編オンナ編って区分、そろそろ時代遅れじゃないかね)。

「受賞時点での巻数が少ない」「メジャーな雑誌に連載されていない」「ギャグ」で、『このマンガがすごい!』に選ばれる作品って外れがないよね。『聖☆おにいさん』とか『テルマエ・ロマエ』とか(ぼくが漫画をよく読んでいたのは十年前までなので情報が古い)。

 ってことで『女の園の星』を読んでみた。うん、おもしろい。
 なんていうか、一言でいうなら「センスがいい」。
 ギャグなんだけど、舞台はごくふつうの女子校だし、ありえない状況も起こらないし、むちゃくちゃ変な人も出てこない。登場人物のテンションも低め。シチュエーション、キャラクター、ストーリー、どれもが常識の範囲内。なのに笑える。これはもうセンスがいいとしか言いようがない。

 やってることは「教師が学級日誌に描かれている内容に首をかしげる」「あまり付き合いのよくない教師がめずらしく同僚と飲みに行く」など、ごくごくふつうのことなんだけどね。
 女子校が舞台でありながら色気も一切なし。というか生徒はほとんど個性がない。変なのは鳥井さんぐらい。
「あるある」と「ねーよ」の間の絶妙なところをついてくる。「ない……けどひょっとしたらあるかも」ぐらい。

 ぼくは女子校生に通ったことがないので(あたりまえだ)、余計にそうおもうのかも。ほとんどの男にとって女子校って未知の世界だから、「ないとおもうけど女子校なら起こりうるのかも」とおもってしまう。
 どんな不思議な出来事でも「インドでの出来事」とつけくわえれば「いやインドならありうるかも……」という気になるのと同じだ。女子校はインドなのだ。


 おもしろかったので次の巻も買おうとおもったらまだ1巻しか出てないんだな。それで『このマンガがすごい』1位になるなんてすごい。

 仕方ないので同じ作者の『夢中さ、きみに。』を買って読んでみた。こっちは男子校が舞台。こっちもおもしろい。でもこっちは「ねーよ」が強すぎるな。ぼくが男子だったからかもしれないけど。


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2021年1月15日金曜日

【読書感想文】国の金でばかなことをやれる場 / 酒井 敏 ほか『もっと! 京大変人講座』

もっと! 京大変人講座

酒井 敏 ほか

目次
はじめに ようこそ!京大変人講座へ!
1 熱帯生態学の教室 アリ社会の仁義なき掟―女王アリと働きアリの微妙な関係(昆虫の世界は、知らないことだらけ!
2 科学哲学の教室 曖昧という真実―割り切れないから見えてくる、グレーゾーンに潜む可能性(デカルトは「すべてを疑う」ことを徹底できなかった!?
3 アート&テクノロジー学の教室 アートはサイエンスだ!―アーティストと研究者、二足のわらじで見つけた日本の美(音の振動から生まれたアート
4 宇宙物理学の教室 そうだ!宇宙に行こう!―手話と学問の意外な関係性(ブラックホール、この摩訶不思議な世界
一番小さい学科を選んだら、天文学科だった!? ほか)
5 SUKIる学の教室 「できない」から「できる」んだ―「他人事」になる社会の中で、自分の唯一性を持って生きる(「できない」って、ダメなの?
おわりに 「本能の声」に気づく、従う 


 前作『京大変人講座』のほうがおもしろかったな。

 アリの話はおもしろかったけど書いてあることはごくごくふつうのアリの生態の話だった。ぼくもけっこうアリは好きなので『クレイジージャーニー』の島田拓氏の回とか『香川照之の昆虫すごいぜ!』のアリの回とかを観ていたので、既に知っていることばかりだった。
 アリのことを知らない人からしたらめずらしい話かもしれないけど、「変人講座」というテーマにはあんまりそぐわない気がするな。
「変なアリもいるから変人でもいい」ってのは持っていき方としてちょっと苦しいな。


『SUKIる学の教室』に関しては書いてあることがさっぱり理解できなくて、なんだこりゃ? ぼくの理解力が足りないのか? とおもっていたのだが、おしまいに越前屋俵太さんが「まったく意味がわからなかった」と書いてて安心した。ああ、ぼくだけじゃなかったのか。
 わからなくて当然、わからないことを楽しめ、という講義みたいだ。ふうむ。そういう意図か。最初に言ってよ。



 京大には「変人のほうがえらい、ふつうのやつはつまらない」という風土がある。少なくともぼくが通っていたときはまだそういう風潮があった。

 そして、私は真面目な人こそが常識を脱した変人になれると考えています。
 真面目な人=変人というと、意外に思われるでしょうか。でも私は、真面目な人ほど変人になると確信しています。
 真面目な人は「ちゃんと自分の頭で考えている人」であり、自分の頭で考えている人は、確実に変人になるのです。
 なぜなら、世の中の大多数の人は「世間体」や「常識」に流されて生きています。周りに流されるがまま、「みんながやってるから」という理由で周りに合わせた言動をとっていくうちに、「常人」になっていきます。
酒井 「研究」って言うとなんかかっこいいイメージがあると思いますけど、たぶん本人は、勝手におもしろがってやっているだけなんです。

越前屋 変人たちは「ねばならぬ」で動いているわけじゃなくて、ニコニコしながら研究してるわけだ。

伊勢田 周りの人とか指導教員が「それは研究じゃないよ」と止めたりすれば、「もっとスタンダードな研究をしよう」と考えるかもしれません。でも、京大では他の人と違うことをやっているのを見たら「おう、おもしろいからやれよ」「いいじゃん! いいじゃん!」と、むしろあおるような場合もあります。

越前屋 そうか! みんな止めないんだ。そういう意味では、京大は治外法権なのかもしれないですね。

酒井 もちろん「そんな研究に何の意味があるんだ?」と言い出す人も、いることはいます。だけど、そういう人たちに大きな力があるわけでもない。だから、あれこれ言われても「そんなもん放っておけばいいんだ」と、突っぱねることができるんです。

伊勢田 たしかに、そういうところがありますね。


 多くの学問ってそういうところから生まれるんだよね。ダーウィンだって進化生物学の謎を解き明かそうとおもって学問をはじめたわけじゃないだろうし。たいていの偉大な研究者がそうだろう。

 しかしそんな京大でも、ニュースなんかを見ているとどんどん「人に迷惑をかけないように意味のある行動をとりましょう」という方向に向かっていっているように見える。ちょっとずつだけど。
 国の金でばかなことをできる場所って日本にまだ残ってるんだろうか。どんどん「税金でくだらないことに使うなんてとんでもない!」というせちがらい世の中になっていってる。

 京大にはずっとバカ養成所であってほしいけど。


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【読書感想文】変だからいい / 酒井 敏 ほか『京大変人講座』



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2021年1月13日水曜日

【読書感想文】働きやすい職場だから困る / 仁藤 夢乃『女子高生の裏社会』

女子高生の裏社会

「関係性の貧困」に生きる少女たち

仁藤 夢乃

内容(e-honより)
「うちの孫がそんなことをするはずがない」「うちの子には関係ない」「うちの生徒は大丈夫」「うちの地域は安全だ」―そう思っている大人にこそ、読んでほしい。


「居場所のない高校生」や「性的搾取の対象になりやすい女子高生」の自立支援をおこなっている著者による、〝女子高生産業〟のルポルタージュ。
〝女子高生産業〟とはJKお散歩とかJKリフレとか、要は「お金を払って女子高生と過ごす」商売だ。当たり前だがいっしょに散歩したりお話したりするだけで済むとはかぎらない。利用客の多くは「あわよくばそれ以上のこと」を狙っているのだから。

 だが表向きは風俗店ではないので違法行為をしたという証拠がないかぎりは警察も厳しく取り締まることができず、性産業への入口となっていることが多い。


 事務所についたらインターホンを押し、「普通のマンションだから、友達の家に遊びに行くときみたいな感じ」で挨拶をする。店長がドアを開けたら部屋に荷物を置いて、チラシを持って準備完了。マンションの前の通りで客引きをする。ただ、それだけだ。

(中略)

 客が入ったら事務所の下まで連れて行き、料金を受け取る。それを持って彼女だけ部屋に上がり、店長にお金を渡す。「何分行ってきまーす」と伝えて客の元へ戻り、そこからお散歩が始まる。客は彼女を連れてどこにでも行くことができる。
 時間は店が管理し、支払った分の時間になると少女の携帯に「終わりの時間だよ。延長するかお客さんに聞いてみて」と店から電話がかかってくる。延長しない場合はその場で解散し、少女だけ事務所に戻るという流れだ。客と店のスタッフが顔を合わせることはない。
 好きなときに事務所に現れ、チラシを配って客引きをし、お金を持って戻ってくる。客と散歩に行き、また客引きに行く彼女たちに、店がしてやることはほとんどない。少女たちは客からお金を運んでくるいい餌だ。レナは「店の人は女の子が心配だから、ビラ配り中もたまに見回りに来る」というが、それは少女を監視し管理するためである。

 これを読んで、鵜飼いの鵜みたいだな、とおもった。
 高校生が客引きをして、高校生が会計をして、高校生が客とお散歩をする。店側はほとんど何もしてない。チラシを作り、終わりの時間を連絡するだけ。トラブルになったら出ていくんだろうけど、やってることは「ショバ代をとるヤクザ」そのものだ。なんと楽な商売だろう。何もしなくても鵜が勝手に魚をとってきてくれるのだ。

 女子高生からしても楽な仕事だろう。ふつうのアルバイトよりはるかに稼げるのだから。
 だが世の中そんな甘い商売はない。当然ながら危険はある。見ず知らずの男とふたりっきりになるのだから、性的暴行を受ける危険性は高い。客の多くはそういう目的で近寄ってきているのだし「金を払ってるのだから」という意識は人を強引にさせる。


 誰が見たってよくない商売だろう。堂々と「JKお散歩で働いてます」「JKお散歩利用してます」と言える人はまあいない。

 でもなくならない。手を変え品を変え、未成年を対象にした準性産業はなくならない。なぜなら需要があるから。
 男側の需要はもちろん、女子高生側の需要も。

 レナによると、彼女がこの仕事をしている理由は、部活や受験勉強のためシフト制のアルバイトをする時間がなかなか取れないこと、家計が苦しいこと、「そんな中、仕事を一生懸命頑張っている父親に小遣いをもらうのを遠慮してしまうことの3つ。そして、彼女には「うちは他の家と違う事情がある」という意識が強くある。
「同級生も一緒にお散歩を始めたんですけど、その子にはちゃんと親がいるから、帰りが遅いと怒られるし、受験に備えて勉強しなさいと言われてやめました。うちはパパが夜の仕事だから、遅く帰ってきてもわからない。だから、パパより早く帰ってくるのが目標。3時までにはお家に帰るから、ばれてない」
 レナは「うちは父子家庭だから」「あの子のうちには親がいるから」と何度も口にした。彼女を見ていると、心のどこかで父親に気づいて欲しいと思っているのではないかとすら思えた。そして同時に、「家庭を支えたい、迷惑をかけたくない。自分のことは自分でしなければ」という意思を持っていることが伝わってきた。

 高校生が働ける場所はそう多くない。酒を出す店では働けないし夜遅くも働けない。大学生以上しか雇わない店も多い。授業やテストや部活で時間の融通も利かない。

 働けてもたいていは最低時給。小遣い稼ぎならそれでもいいかもしれないが、生活費を稼がなくてはならない高校生にとっては厳しいだろう(そして生活に困っている子どもは年々増えている)。

 そんな高校生にとって、JKビジネスは働きやすい職場だ。短時間でも働ける。働きたいときだけ出勤すればいい。うまくやれば月に何十万円も稼ぐことができる。
「働けない」か「JKビジネスで働く」の二択しかないケースも多いだろう。
(男子だったら「働けない」か「学校をやめる」か「非合法な手段で稼ぐ」の三択になる)

 稼がなくてはならない高校生は年々増えているのに、高校生が稼げる社会になっていない。
「売る女子高生」や「買う男」だけの問題ではないのだ。




 少し前に、杉坂 圭介『飛田で生きる』という本を読んだ。飛田というのは大阪市内に今も残る遊郭。半ば公然と売春がおこなわれている場所だ。

 遊郭というと怖いイメージがあるが、『飛田で生きる』を読むかぎり飛田新地という街は他の風俗街に比べてずっと安全であるようだ。
 そもそも売春という非合法なことをやっているので、必要以上に警察に目をつけられないために「開業時は警察に届ける」「暴力団と関わらない」「営業時間を守る」「無理なスカウトや引き抜きをしない」「料金は事前にきちんと伝える」「従業員に健康診断を受けさせる」といったことを徹底しているらしい。
 もちろんそれでもリスクはあるだろうが、極力トラブルにならないような工夫がされている。

 それに比べると、JKビジネスはすべてが緩い。そもそも「未成年者を働かせる」「ヤクザが関わっているところも多い」「料金は交渉次第」「営業時間も場所も不規則」「届け出はしない」「従業員の身元確認もしないことがある」など、何から何まであぶなっかしい。




「そうはいってもJKビジネスで働くのなんて一部のグレた女子高生だけでしょ」とおもうかもしれないが、そうでもないようだ。
 この本によると、まじめに勉強や部活に取り組んでいたり、生活費に困っていないような高校生も働いているらしい。

 はじめは「不良の子」「お金に困っている子」だけかもしれないが、そういう子がJKビジネスをすることで、そうでない子も足を踏み入れるようになるのだ。
 友人から「私もやってるけどあぶない目に遭ったことなんてないよ」と誘われたら、敷居は下がるだろう(そして店側は女子高生に紹介料を払って友だちを紹介させる)。

 JKリフレやお散歩、売春に流れていく少女たちの多くは「衣食住」を求めている。「寂しいから」「居場所を求めて」ではない。寂しさを埋めるためだけなら、少女はわざわざおじさんを相手にしない。女子高生を相手にする若い男はいくらでもいる。たとえ男性の前でそういう振る舞いをしたとしても、女同士の本音トークではそんな風には語られない。彼女たちは生活するため、お金や仕事が欲しくて男性を相手にしているのだ。
 家庭や学校に頼れず「関係性の貧困」の中にいる彼女たちに、裏社会は「居場所」や「関係性」も提供する。彼らは少女たちを引き止めるため、店を彼女たちの居場所にしていく。もちろん、少女たちは将来にわたって長く続けられる仕事ではないことを知っているが、働くうちに店に居心地の良さを感じ、そこでの関係や役割に精神的に依存する少女も多い。
 一見、「JK産業」が社会的擁護からもれた子どもたちのセーフティーネットになっているように見えるかもしれないが、少女たちは18歳を超えると次々と水商売や風俗などに斡旋され、いつの間にか抜けられなくなっている。


 以前読んだ本に、ドイツでは売春が合法だと読んだ。
 合法だから店はきちんと届けていてルールをきちんと守っているから、利用客にとっても働く女性にとっても安全だ。
 日本も風俗やJKビジネス(男子も)を公営化したらいいんじゃないかな。

 衛生管理や健康管理をきちんとして、年齢制限をして、料金をきちんと定めて、税金もとって(もちろん未成年者はお散歩はさせても売春はさせない)。

「国がJKビジネスをやるなんて!」とおもうかもしれないが、結果的にはそっちのほうが高校生の安全を守れるとおもうんだよね。
 外貨も獲得できるし。


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