2023年1月23日月曜日

第二子のアドバンテージ

 テレビを観ていたら、タレントふたりの子どもたちにかけっこをさせていた。

「アスリートとして知られるAの長女(三歳)」VS「運動神経が悪いことで知られるBの次女(三歳)」で、他の出演者たちがどちらが勝つかを予想するというコーナーだった。

 出演者たちはこぞって運動神経のよいAの長女が勝つことを予想していた。が、ぼくはテレビを観ながら「そりゃあBの次女が勝つだろう」とおもっていた。結果は、はたしてBの次女の勝利。


「親の運動神経がいいから子どもも運動が得意だろう」なんておもうのは、子どもというものを知らない人の発想だ。

 たしかに小学生ぐらいになれば、持ってうまれた運動センスがものをいうようになる。だが三歳児にはそんなものは関係ない。重要なのは「メンタル」と「場数」だ。そしてそれらが上回るのは、長女よりも次女である可能性のほうが高い。


 うちにも子どもがふたりいるが、同じ年齢のときで比べてみると、次女のほうが圧倒的に優秀だ。走るのも、ジャンプするのも、ボールを投げるのも、ボールを捕るのも、踊るのも、言葉で伝えるのも、笑いをとるのも、感情をコントロールするのも、(長女が同じ年齢だったときに比べると)圧倒的に次女のほうが上だ。ほとんど同じ遺伝子を持っているにもかかわらず。

 それはひとえに、第二子のほうが幼いころから競争にさらされているからだ。

 姉にくっついて走ったり踊ったりボールを投げたり。うちの次女なんて姉と五歳も離れているのに、幼いころから「姉にできることなら自分でもできる」と信じていて、飛んだり跳ねたりしていた。おかげで身体の動かし方が飛躍的にうまくなった。

 また表現もうまくなる。ゆっくりゆっくりしゃべっても親が耳を傾けてくれる第一子とちがい、第二子の場合はもたもたしゃべっていたら姉にその場の話題をかっさらわれてしまう。必然的に会話スキルが上達する。的確に、スピーディーに、かつおもしろい表現をしないと耳目を集められない。

 さらに、第一子に比べて第二子のほうが交友関係が広がりがちだ。ぼくも妻も社交的な人間でないので、長女が幼いころは近所で言葉を交わす人が少なかった。ところが長女が保育園や学校に通うようになると親の世界も広がる。娘の友だちの保護者、娘の友だちの兄弟姉妹、その友だち。いろんな人と話したり遊んだりするようになる。すると次女からしても「近所のおじさんおばさん」や「近所のおにいちゃんおねえちゃん」と接する機会が増える。当然、身体や言語の発達に好影響を受ける。


 年齢が低いうちは特に「長子か二番目以降の子か」というのは子どもの能力に大きく影響する。

……ということが、いろんな子どもと接したり、ふたり以上の子を育てたりするとわかるようになる。

 が、ひとりめのときはなかなかわからない。ただでさえ最初の子育ては不安なものだ。そんなときに、自分の子(第一子)と他の子(第二子以降の子)を比べると「あの子はうちの子と同じぐらいの月齢なのに、身体の動かし方もおしゃべりもずっとうまい。うちの子は発達が遅れてるんじゃないか」と不安になってしまう。

 次女を他の子(第一子)と遊ばせていると、よくその親から「おたくの○○ちゃんはよくできますね。それにひきかえうちの子はどんくさくて……」といった言葉をかけられる。

 いやいやそれは第一子の宿命ですよ。うちの上の子もそんなもんでした。五歳ぐらいになったらあんまり関係なくなってきますよ。ってなことを伝えるようにしている。


 二番目以降の子は成長が早いだけなんです。でも早いだけで長期的に優れてるとはかぎらないんです。

 ということを広く知らしめたい。第一子の子育てをする親のいらぬ心配が軽くなるように。


2023年1月20日金曜日

【読書感想文】スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』 / 人間はけっこう戦争が好き

戦争は女の顔をしていない

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(著) 三浦 みどり(訳)

内容(e-honより)
ソ連では第二次世界大戦で百万人をこえる女性が従軍し、看護婦や軍医としてのみならず兵士として武器を手にして戦った。しかし戦後は世間から白い目で見られ、みずからの戦争体験をひた隠しにしなければならなかった―。五百人以上の従軍女性から聞き取りをおこない戦争の真実を明らかにした、ノーベル文学賞受賞作家のデビュー作で主著!


 歴史上、ひとつの戦争で最も多くの死者を出した国をご存じだろうか?

 第二次世界大戦でのソ連である。


 1941年、ナチス政権化のドイツ軍はソ連に侵攻した。ソ連は連邦国だったため一枚岩ではなく、ソ連に反感を持っていた地域や、共産主義に反対していた者たちも、ソ連を裏切ってドイツ軍側についた(最も彼らもナチズムでは列島民族として考えられていたため決してドイツからいい扱いは受けなかったようだが)。

 当初敗北続きだったソ連はモスクワまで攻め込まれるも、パルチザンと呼ばれる市民軍の抵抗や英米の支援を受けて盛り返し、最終的にはベルリンを陥落させドイツ軍を破った。辛くも勝利したもののその被害は大きく、ソ連の死者数は2000万とも3000万とも言われる。戦勝国であるソ連がこれだけ多くの死者を出したのだから、世界大戦の規模の大きさがうかがいしれる。

 この独ソ戦には、男だけでなく、女も多く戦闘に参加していた。看護婦や医師としてだけではない。運転手、工兵、そして戦闘員、将校として多数の女も参戦していたのだ。

 他の国の軍事情はあんまり知らないけど、こういう例はかなりめずらしいのではないだろうか。

 そんな、戦争に参加していた(それも最前線で)元兵士の女たちへのインタビューを集めた本。戦争体験談はよく目にするが、インタビュイーが女ばかり、というのはかなりめずらしい。

 ほんとにバラバラの話をただ集めただけなので、一冊の本として読むとかなり散漫な印象だ。それが逆にリアルでもあるのだが。




 まず驚かされるのが、多くの女性たちが決して嫌々ではなく、喜んで戦いに志願していたこと。

 はしゃぎながら乗り込んだわ。元気いっぱい、冗談を交わしながら。どこに所属するのか、どこに向かっているのかも知らなかった。どういう役割を担うのかはどうでもよかった。とにかく戦地に行きさえすれば。みんな戦ってるんだから、私たちだって。シチェルコヴォ駅に着いて、その近くに女性用の狙撃兵訓練所があった。送られたのはそこだったの。みんな喜んだわ。本物よ、本当に撃つのよ、って。
 勉強が始まった。守備隊勤務の規則や規律を学び、現地でのカムフラージュや毒ガス対策。みんなとても頑張った。眼をつぶったまま銃を組み立て、解体できるようになり、風速、標的の動き、標的までの距離を判断し、隠れ場所を掘り、斥候の匍匐前進など何もかもできるようになった。一刻も早く戦線に出たい、とそればかり。
「勉強しなければ行けない」と、説得されました。「いいわ、勉強する、でも看護婦の勉強じゃないわ。私は銃を撃ちたい」私はもうその気になっていました。私たちの学校には、内戦の英雄やスペイン市民戦争で戦った人たちがよく講演に来たものです。女子は男子にひけをとらないと思っていました。男女の別はありませんでした。それどころか、小さい頃から「少女たち、トラクターの運転を!」「少女たち、飛行機の操縦を!」という呼びかけを聞き慣れていました。そこにもってきて、恋人と一緒!緒に死ぬことまで想像しました。同じ戦闘で……

 ついつい現代の価値観を当てはめて「女も戦闘に参加させられるなんて悲惨な状況だったんだな」と考えてしまうが、実に多くの女性が自主的に入隊している。「家族や、軍の男たちには反対されたのに、反対をふりきって参加した」という声も多い。むしろ男たちのほうが保守的で「女は銃後を守ってくれればいい」という考えだったようだ。

 そういえば斎藤美奈子『モダンガール論』でも、戦争はそれまで家庭に閉じこめられていた女性が社会進出するチャンスだったので多くの女性が戦争に賛成した、と書いてあった。

「女の仕事は結婚して子どもを産んで育てること」だった時代では、戦争は女性にとってチャンスだったのだ。このあたりのことは覚えておきたい。朝ドラに歴史改竄されないために。


 ニュースでテロリストや少年兵を見ると、あいつらは異常者だとおもってしまう。自分たちとはべつの人間だと。けど、教育次第で誰でもかんたんにああなってしまうのだ。「祖国のために戦うのが人間の生きる道だ」と教えられれば、あっさりとその考えに染まってしまう。愛国心は、平和を望む心よりずっと強い。

 少し前に、とある学者がこんなツイートをしているのを見た。

「左翼連中は、軍備増強に賛成する連中のことをまるで戦争好きみたいに言う。でも誰だって戦争になんか行きたくないんだ。戦争に行きたくないから、防衛を強化するんだ」

 「戦争に行きたくないから防衛を強化する」の是非についてはここでは触れないが、少なくとも「誰だって戦争になんか行きたくないんだ」の部分に関しては「それはちがうぞ」とおもった。

 人間は、けっこう戦争が好きなのだ。戦争に行きたい人間はいっぱいいるのだ。人間は生まれながらにして「死にたくない」という本能を持っているが、それはいついかなるときも揺るがないほど強いものじゃない。「お国のため」という理由があれば、かんたんに抑えられてしまうものだ。

「誰だって戦争になんか行きたくないんだ」とおもっている人にかぎって、いざ戦争になったら「なぜ戦争に行かないのか!」って言いだすんだろうな。だって己の価値観が普遍的に正しいものだと信じて疑ってないんだもん。


 人間の理性はかんたんに壊れる。多くの歴史がそれを証明している。

 だからこそ制度で戦争を抑えなきゃいけない(やりたくてもできない状況にする)のに、理性で抑えられると信じている人のなんと多いことか。人間はみんなバカなんだよ! バカだから戦争好きなんだよ!




 当然ながら、かなりむごたらしい話も多い。戦争だからね。

 特に独ソ戦においては、単なる ドイツ軍 VS ソ連軍の対立だけではなく、ソ連の人たちがドイツ側についたこともあって、裏切り、密告、疑心暗鬼などが生まれ、戦闘以外で深く傷ついた人も多かったようだ。

 私はある任務を遂行しました。そのため、もう村に残っているわけにはいかず、パルチザン部隊に入りました。母は数日後にゲシュタポに連れて行かれました。弟は逃げおおせたんですが、母は捕まってしまった。娘の居場所を言え、と拷問されました。二年間囚われの身でした。二年間というもの、ファシストは作戦に行く時に他の女の人たちと一緒に母を前に歩かせました。パルチザンが地雷を仕掛けたかもしれない、と。必ず地元の住民を前に立てて歩かせたんです。人間の盾です。二年間というもの、母たちはそうして連れ歩かれたのです。待ち伏せをしていると、向こうから女の人たちがやってきて、その後ろにドイツ軍がついてくる。もっと近づいてくるとその中に母がいるのが見えます。一番怖いのはその時にパルチザンの指揮官が撃てと言うかもしれないこと。みな、その瞬間を恐れていました。みな互いに囁きあっています、「あ、おふくろだ」「あ、妹だ」自分の子供を見つけた人もいました。母はいつも白いスカーフをかぶっていました。背が高くて、すぐに母だと分かりました。私が気づかないでも他の人が教えてくれました。「おまえのおかあさんがいる」撃てと指令が出れば、撃つんです。どこに撃っているか自分でも分からなくなりながら、その白いスカーフだけは眼を離さないようにして。おかあさんは無事かしら、倒れなかったかしら、それしか頭にはありません。白いネッカチーフ。みなちりぢりになって、当たったのかどうか、お母さんが殺されたかどうかも分かりません。
(中略)
井戸に放り込まれる子供の叫び声が今でも耳に残っています。そんな叫び声を聴いたことがありますか? 子供は落ちていきながら叫び続けて、それはどこか地中から聞こえてくるようでした。あの世からの声、子供の声とは言えません。人間の声ではなくなっています。ノコギリでいくつかに切り分けられた若者を見たことがあります。丸太のように切ってあるのです。パルチザンの仲間です。そういうことのあとで任務を遂行しに行くと、心はひとつのことしか望んでいません。やつらを殺し、殺し尽くせ。少しでもたくさ人殺せ、もっとも残虐な方法で。ファシストが捕虜になっているのを見た時、誰かれ構わず飛びかかってやりたかった。手で首をしめ、かみついて歯でくいちぎってやりたかった。私だったら、奴らをすぐには殺しません。楽すぎる死に方です、銃やライフルで殺したのでは……

 絶句……。

 これまで読んだ数多くの戦争体験談もたしかにひどかった。が、それらはみんな「味方と敵」に分かれていた。

 敵に捕まった母親や妹に向かって銃を向けなくてはならない。撃たなければ自分が裏切り者として処刑される。こんな残酷なシーン、フィクションでもなかなかお目にかかれない。

 人間ってどこまでも残酷になれるんだな……。




 残酷な話も強い印象を与えるのだが、ぼくの胸にせまるのは、逆に、戦時中の楽しそうな話だ。

 たとえばこんな話。

 私たち、誰がどういう階級なのか教えてもらわずに行ったでしょ? 「これからはみんな兵隊なのだから自分より上の位の者には必ず敬礼しなければいけないし、背筋を伸ばして外套のボタンもきちっとかけていなければいけない」って曹長に教えられた。
 でも兵隊たちは私たち若い女の子をからかって楽しんでいたわ。ある時、衛生隊からお茶を取りに行かされて、料理番にお茶を頼むと私を見てこう言うの。
「なんの用だ?」
「お茶をもらいに」
「お茶はまだできていない」
「今、料理番たちが釜で湯につかっているからそれが終わったらお茶を沸かそう」と言われ、それをまにうけてしまった。お茶を入れるためのバケツを持って戻っていくと、医者に出会った。「どうしてバケツが空なんだ?お茶はどうした?」「大釜で料理番の人たちがお湯につかっているので、まだお茶ができてないんです」お医者さんは頭をかかえて「どこに釜で湯につかる料理番がいるんだ?」と言うんです。からかった料理番はこってりお説教された。私はパケッ二杯のお茶をもらったの。お茶を運んでいると政治指導員と指揮官が一緒にこちらにやってくる。教えられたことをすぐさま思い出したわ。私たちは一兵卒なんだから上官一人一人に敬礼しなけりゃいけないって。でも一度に二人が歩いている。どうやって二人に敬礼すればいいの?考えながら歩いて行って、二人と並んだ時バケツを置いて、両手で一度に敬礼したの。私に気づかずにやって来た二人は、そのとたん棒立ちになったわ。
「そんな敬礼を誰が教えた?」
「曹長です。一人一人に敬礼しろと言われました。一度にお二人なので」と答えたの。
 私たちは土の中で暮らしていました、モグラみたいに。それでも何かしらどうでもいい小物をかざっていました。たとえば春には小枝をビンに差したりして。明日自分はもうこの世にいないのかもしれないと、ふと思って……。ウールのワンピースを家から送ってもらった女の子がいて、私服を着るのは禁じられていましたが、やはり羨ましかった。曹長は男で「シーツでも送ってくれたほうが良かったのに」とぶつぶつ言いました。シーツも枕もなかったんです。枝や葉の上で眠りました。私はイヤリングを隠し持っていました。初めて挫傷を受けた時は何も聞こえず、話すこともできませんでした。「もし声が戻らなかったら、汽車に飛び込もう」と誓っていました。歌がとても上手だったのに突然、声が出なくなった。でも、その後、声は出るようになりました。
 嬉しさ一杯でイヤリングをつけて当直に行きました。「同志、中尉殿、報告いたします!」
 嬉しくて大声を張り上げました。
「それは何だ!」
「何って?」

 冗談を言って女兵士をからかったり、からかったことがばれて叱られたり、滑稽なまちがいをしてしまったり、小枝をビンに刺したり、ワンピースやイヤリングを見て心躍らせたり……。なんとも楽しそうだ。もしもこの時代にSNSがあったら、おもしろい話、美しい写真として投稿してみんなを楽しませていたのだろう。つまり、ぼくらと何ら変わらない人たちなのだ。

 しかし、そんな人たちが、明日には手足バラバラの死体になっているかもしれない。もしくは、敵兵の喉に銃剣を刺して殺しているのかもしれない。戦場だから。


 以前、テレビでシリア内戦の兵士たちの映像を見た。銃弾が飛び交い、次々に人が殺される内戦の最前線で、兵士たちは冗談を言ってげらげら笑いながら食事をしていた。「おい見とけよ」とへらへらしながら手榴弾を投げ、投げそこなって味方の陣地を攻撃してしまって、あわてて逃げる兵士たち。その後で「おまえ何やってんだよ!」「今のあぶなかったなー!」と笑いあう兵士たち。まるで、そのへんの大学生みたいなのんきさだった。ぼくが大学生のときも、友人の車に乗せてもらって「おまえ何やってんだよ!」「今のあぶなかったなー!」と笑いあっていた。あれといっしょだ。

 人間はどんな環境にも慣れる。朝いっしょに飯を食った仲間が、夕方には死体になっている。そんな環境にも慣れるし、そんな状況でも冗談を言ったり笑ったりできる。

 捕虜を弾よけに使うドイツ兵も、そんなドイツ兵の命を狙うソ連兵も、ぼくらとぜんぜん変わらない人たちだ。だから、ほんの少し周囲の状況がちがえば、ぼくらだって殺し合いに参加するのだろう。




 ぜんぜんたいした話じゃないんだけど、なぜか印象に残ったエピソード。

 勝利の日はウィーンで迎えました。そこで動物園に行きました。とても動物園に行きたかったんです。ナチの強制収容所を見に行くこともできたんです。みな連れていかれて見学させられました。でも行きませんでした……どうしてあのとき見ておかなかったのかと、今はあきれるけれど、あのときは嫌だったんです。何か嬉しいこと、こっけいなものを見たかった。別世界のものが見たかったの……

 なんとなくわかる……。

 もちろん戦争に参加したことなんかないので想像することすらできないのだけれど、終戦の日に動物園に行きたくなる気持ちはなんとなく理解できる。

 喜ぶでもなく、悲しむでもなく、ぜんぜんちがうことを考えたい。映画でも小説でも音楽でもなく。一切戦争を連想させない場所。動物園や水族館は、それにうってつけの場所だとおもう。


 もしぼくが戦争に巻き込まれて無事に生き延びることができたら、終戦の日は動物園に行こう。


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2023年1月19日木曜日

風呂を満たす物体X

 お風呂に入るときにさ、たいていこんな恰好で湯船に浸かるでしょ。


 横から見ると、ひらがなの「ん」みたいな恰好。

 よほどでかい風呂が家にあるとか、うちの風呂は昔ながらの五右衛門風呂ですって人以外はたいていこんなポジションをとるとおもう。

 でさ、この図の斜線を引いた部分がお湯を表してるんだから、ここの部分って無駄じゃない?


 お風呂に入る気持ちよさを与えてくれるのは、肌に直接触れている部分だけ。それ以外の部分はあってもなくても関係ない。お風呂のお湯を張るのには水道代も光熱費もかかる。光熱費が高騰している今、無駄な部分のためにお金を払うのはアホらしい。

 だったらなくしてしまえばいい……とおもうのだが、ことはそんなに単純ではない。

 残念ながらお湯は液体だ。そこがお湯のいいところでもあるのだが、欠点でもある。液体は変形しやすい。物質は高いところから低いところに移動するから、「無駄」な部分のお湯を取り除いてしまえば、「無駄じゃない」部分のお湯が「無駄」な部分に移動してしまう。具体的にいえば、肩のまわりのお湯がなくなってしまう。

 これでは、幼いころにおとうさんから言われた「肩までしっかり浸かりなさい」という言いつけが守れない。


 人によっては、水道代や光熱費を節約するために少なめにお湯を張って、まるで湯船の中に寝ころがるようにしながらわずかなお湯を必死に身体にまとわりつかせようとする人もいる。が、これはあまりに惨めだ。人間の尊厳を失いせしめる格好だ。




 そこで、こんなものがあればいいとおもう。


「無駄」な部分を埋める物体Xだ。これがあれば、お湯の量を必要最小限にしつつ、しっかり肩まで浸かることができる。

 ただし、物体Xはなんでもいいわけではない。快適なニュウヨーカー(入浴を楽しむ人)であるためには、Xは以下の条件を満たしている必要がある。

  1. Xは水より比重が重くなくてはならない。軽ければ水上に浮かんでしまい、お湯のかさ上げに使えない。
  2. かといってXが重すぎではいけない。重たいものを脚の上に乗せるのは不快であるし、血行を悪くする。江戸時代の拷問具みたいになってしまう。
  3. Xは自由に変形できなくてはならない。どんな姿勢をとっても、隙間をちょうど満たしてくれなければならない。
  4. Xは肌ざわりが良くなくてはならない。Xが入浴の心地よさを損なっては本末転倒である。
  5. Xは熱伝導性が高くなくてはならない。Xは短時間で風呂の水温に近づかなくてはならない。


 ってことで、ビート版をもっとやわらかくして、もう少し比重を大きくした素材を複数連結したようなやつがいいのではないだろうか。軽くて、ふわふわしていて、水をはじいて、変形が容易なやつ。

 そいつといっしょにお風呂に入れば、少ない湯量で肩まで浸かることできる。地球環境にも優しい。


 ちなみにうちには既にXがある。ぼくはいっしょに風呂に入っている四歳児だ。水よりやや重くて、変形してくれて、肌ざわりがよくて、すぐに温まる。難点は暴れたり水をかけてきたりときたまおしっこをしてしまうことだが、それぐらいのことは地球環境のためならいたしかたない。



2023年1月17日火曜日

【読書感想文】米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』 / オウム真理教・エホバの証人・統一教会・ヤマギシ会

カルトの子

心を盗まれた家族

米本 和広

内容(e-honより)
平凡な家庭にカルト宗教が入り込んだ時、子どもはどんな影響を受けるのだろうか。親からの愛情や関心を奪われ、集団の中で精神的、身体的虐待を受けて心に深い傷を負った子どもたち。本書は、カルトの子が初めて自分の言葉で語った壮絶な記録であり、宗教に関わりなく現代の子育ての闇に迫るルポルタージュである。

 いやあ、壮絶だった。

 長年カルト宗教を取材している著者による、カルト二世にスポットを当てた本。昨年カルト二世が元首相暗殺事件を起こしたことでにわかに注目されるようになったけど、問題としてはずっとあったんだよな。みんなが見ようとしなかっただけで(ぼくもそのひとりだ)。


『超人類の子 オウム真理教』『エホバの証人の子 ものみの塔聖書冊子協会』『神の子 統一教会』『未来の革命戦士 幸福会ヤマギシ会』から成るんだけど、どれも強烈。

 最初の章を読んで「これはひどいけど、でもまあオウムだからな。あれは戦後日本史においても特別な団体だったから」とおもったんだけど、後の三章を読むと、いやこれひょっとしたらオウムよりひどいんじゃねえの、こんな団体が今でも大手を振って信者勧誘してんのかよ……と背筋が冷たくなった。




 特にエホバの証人の章はいろいろ考えさせられた。

 というのは、身近にエホバの証人の2世がいたからだ。


 ぼくがTとはじめて同じクラスになったのは中学一年生のときだった。Tの第一印象は「大人びてて怖いやつ」だった。

 休み時間にぼくが他の同級生とふざけていると、それまで話したこともなかったTから突然声をかけられた。「おい、そんな幼稚なことしておもろいか?」と。

 Tはクラスで一、二をあらそうほど身体も大きかったし、妙に落ち着いた雰囲気もあったのでぼくはすっかりびびってしまった。「こえーやつ」とおもうようになった。

 が、数ヶ月するとぼくとTはそこそこ仲良くなった。休み時間にコインを使ったゲームをしたり、文化祭の準備のときにいっしょにサボって遊んだり。「こえーやつ」という印象は相変わらずだったが、話してみるとふつうの中学一年生だった。


 Tがエホバの証人の家庭の子と知ったのは、体育の授業だった。Tと、もうひとりのNという生徒だけが柔道の授業を見学していた。Tと同じ小学校だった子がこっそり「あいつらはエホバだから格闘技禁止やねんて」と教えてくれた。

 とはいえ、それは「あいつの家は遠いから遊びに行けない」ぐらいの感じで、特に蔑むとかあわれむとかの響きはなかったようにおもう。ぼく自身も「ふーん、そんな家もあるのか」と単純に受け止めただけだった。小学生のときに、友人の家が宗教上の理由でアルコールやコーヒーを禁止という話を聞いていたので、そういう家もあるのだということは知っていた。ちょうどオウム真理教が世間を騒がせていた頃だったが、特にそれと結びつけるようなこともなかった。

 また、中学校に入ってすぐに音楽の授業で「校歌を覚えて、それをひとりずつ音楽の教師の前で歌う」というテストがあったのだが、Tは「声変わりなので歌えません」と拒否していた。当時は「ふつうにしゃべってるくせに、歌うのが恥ずかしいんだろうな」ぐらいにしか考えていなかったが、ずっと後になってエホバの証人は国歌や校歌を歌うことを禁じていることを知った。

 また「特別な理由がないかぎり生徒は全員いずれかの部活に所属すること」というルールのある学校だったのだが、Tは部活に入っていなかった。「特別な理由」がある生徒だったのだ。

 ぼくはTとそこそこ仲良くやっていたが、一度も宗教の話をしたことはない。たぶんぼくだけでなく他の生徒も。バカ中学生なりに「他人の宗教のことは触れてはいけないこと」という認識を持っていたのだ。


 Tが変わったのは中二になってからだ。はっきり言うと、グレた。

 といっても今にしておもうとぜんぜんたいしたことはない。ぼくの通っていた中学校は郊外の新興住宅地にあったので、不良といっても「先生に隠れてタバコを吸う」「夜にコンビニに集まる」ぐらいのものだ。他校の生徒と喧嘩とかバイクで走るとか警察の厄介になるとかはほとんど耳にしたことがない。

 Tも、授業開始のチャイムが鳴ったのにいつまでも廊下で遊んでいる(厳しくない先生のときだけ)とか、合唱コンクールの練習をサボるとか、教師の目を盗んで学校の備品を壊すとか、その程度だった。ちゃんと学校には来ていたし、ほとんどの授業ではおとなしくしていた。今おもうとかわいいものだ。

 もっとも、中二になって学校や教師に対して反抗的になったのはTだけでなく、他にも数人いた。中二とはそういう時期だ。

 それでも田舎の学校ではそこそこ大きな問題になり、Tたちの親が学校に呼ばれてくるのを目にした。


 そんな時期が何か月かあり、あるときを境にTははっきりと変わった。それまでの非行はなりをひそめ、急にふつうの生徒に戻った。グレた生徒は数人いたが「足を洗ってふつうに学校生活を送る生徒たち」と「学校を休みがちになる生徒たち」にはっきり分かれた。Tは前者だった。

 そしてTはぼくのいた陸上部に入った。「あれ? エホバって部活禁止じゃないの?」とおもったが、もちろん本人には訊けなかった。

 Tは陸上部員としてまじめに練習に取り組んでいた。ぼくよりもよっぽどまじめに。そしてなんとなく明るくなった。グレていたことなどなかったかのように、まじめな生徒として学校生活を送っていた。

 その頃何度か放課後に友人宅でTと遊んだことがある。それまではTは授業が終わるとそそくさと帰宅していた。おそらくエホバの証人の活動か決まりがあったのだろう。だがそれが解けたのか、放課後に遊べるようになったようだった。

 さらにTに彼女ができた。隣のクラスの女の子といっしょに帰宅する姿を何度か目にした。彼女のほうはふつうに部活をやっていたのでたぶん信者ではない。


 ここからはぼくの想像でしかないのだが……。

 Tがグレて、親が学校に呼ばれて教師と三者面談などをするうちに、エホバの証人からのTへの呪縛がゆるくなったのだとおもう。その後も柔道の授業は見学していないから、脱会などはしていなかったとはおもう。親の判断か、教団の判断かはしらないが、とにかく規制がゆるくなったのだろう。Tは部活に入り、ときどきだが放課後や休みの日に遊んだりもするようになった。男女交際もするようになった(親がそこまで知っていたかはわからない)。

 その後、同じ高校には進んだもののクラスが別になったこともあり、Tとは疎遠になった。高校卒業後にTがどこで何をしているかは知らない。噂も聞かない。Facebookで検索してみたが見つからない。

 今にしておもえば「Tとテレビや流行歌の話をしたことがなかったな」とか「Tは運動神経はよかったけど体育の授業でやった野球はすごく苦手だった。あれは遊びを禁じられていたからなんだろうな(走ったりボールを蹴ったりするのは持ってうまれた運動神経があればうまくできるが、野球の動きは日常にないものが多いので慣れていないと運動神経がよくても練習をしないとうまくなれない)」とか、いろいろエホバ二世としておもいあたるフシはあるけど、だいたいにおいてはふつうの学生だった。




 そんなエホバの証人だが、外から見える姿と内情は大きな差があるようだ。特に子育てにおいては。

 エホバの証人では、子どものしつけのための体罰が禁止されていないどころか、むしろ積極的に推奨されていたそうだ(今は多少変わったらしいが)。

 恵美の受難は誕生後十ヵ月目から始まった。聡子が振り返る。
 「生後十ヵ月から叩くようにしました。集会で泣いたり、騒いだりすると、おしめを取って恵美のお尻を竹のモノサシで叩きました。王国会館の物置部屋が『懲らしめの部屋』になっていて、静かにしないとみんな子どもをそこに連れていってムチを打ちました」
 聡子が属した会衆の長老は「どんなに子どもが小さくても、集会中は静かにしなければならないことを教えましょう」と語り、長老を指導する立場にある巡回監督も「小さい子をしっかり訓練しましょう」と聡子たちに教えた。

 生後十ヶ月なんてまだ言葉も話せない。今は静かにしなさい、なんて言って聞かせられるはずがない(ぼくなんか小学生になってもできなかったぜ)。

 そんな幼い子にムチを打つ。この〝ムチ〟は比喩ではない。ベルトやゴムホースなどを使って、文字通りムチ打つのだ。

 恵美の記憶を綴ることにしよう。
 彼女の記憶は三、四歳ぐらいから始まる。家族と遊園地に行ったというような子どもらしい、いい思い出は一つもなく、記憶にあるのは叩かれたことばかりだった。
 週三回王国会館で開かれる集会は、日曜日を除けば火曜日と木曜日の夜七時から始まった。曜日のほうが長く、集会とその後の打ち合わせを終えて王国会館を出るのは十時を回る。三、四歳の子にとっては退屈だし、眠い。そのため、集会中にキョロキョロしたり後ろを振り向く。子ども同士で私語を交わす。うとうとする。そうすると、母親の聡子は手や足をつねる。それでも直らないと、皮がむけるほどつねった。
 「三、四歳の子はふつう夜七時に寝るでしょ。伝道訪問で長時間歩いたあとだから、集会中眠くなりますよね。つねられて、目を開けてなきゃあと思うんだけど、つい瞼が閉じてしまう。すると、お仕置き部屋に連れていかれる。母が冷静なときにはお尻を叩きますが、カッとなるとスリッパで頭を殴ったりする。叩かれると痛い。痛いから泣くのに、反抗的だとまた叩かれた。鼻血が出たこともたびたびありました」
 聡子は竹の定規で叩いていたというが、恵美の記憶によれば、そればかりではなかった。父親のズボンのベルト。スリッパ。布団叩き。太い電器コード。洋服ブラシ。聡子の話とはずいぶん違う。
 「母にとって叩けるものだったら、なんでも良かったのでは。ブラシは柄の尖ったところで思いっきり殴られた。小学校高学年になると、お尻を出せと言われても素直に従えませんよね。そうすると、腕や足を叩いた。赤ちゃんの蒙古斑のような痣は中学に行くまで消えたことがありませんでした。首根っこをつかまれて引きずり回されたなんてこともしょっちゅうあった」
 こうまでやられれば立派な二世〟になるか、不満を鬱屈させたまま大人になっていくか、あるいは智彦のように親に暴力で立ち向かうようになるかのいずれかだろう。そういえば、二十二万人のエホバの証人の半数近くは二世だと言われている。

 これは決してめずらしい例ではなく、多くの二世が体罰を受けて育ったという。なにしろ教団が推奨しているのだから。

 エホバの証人は伝道訪問といって他の家庭をまわっては勧誘するのだが、訪問を受けた側はいっしょにやってきた「しつけのよく行き届いたお行儀のいい子」を目にする。

 だが「しつけのよく行き届いたお行儀のいい子」の実情はこれである。ムチによって行動を抑制させているだけなのだ。

 この本には、二歳の子に体罰を加えた結果死なせたエホバ信者のケースが載っている。


 こうやって育てられた二世が、将来親になったとき、どんな子育てをするか。容易に想像できる。仮に脱会していたとしても、自分が受けた子育てをくりかえす可能性はきわめて高いだろう。

 こんなことをやっている集団が愛だの平和だの言っているのだから、ぞっとする。




 さっきのTだが、はっきりいって、クラスメイトたちから距離を置かれていた。

 身体はでかいし力も強いからいじめるようなことはなかったが、

「放課後や休みの日に遊ぶことがない」
「テレビやゲームやマンガの話ができないので話が合わない」
「エホバの証人にまつわる話になっちゃいけないとおもうと気を遣う」

などの理由があったとおもう。人間、自分とはちがうものは排除してしまうのだ。


 また、Tと同じ小学校だった友人が語っていたことがある。

「小学校のとき、クラスでクリスマス会をしようということになったのに、エホバのTがみんなの前で反対した。『クリスマスを祝うのはおかしい』って言って。そのせいでクリスマス会が中止になった。みんな楽しみにしてたのに」

 それを聞いたときぼくは「Tも水を差すようなこと言わなきゃいいのに。嫌なら自分だけ祝わずに黙っていればいいだけじゃないか。どうせ学校のクラスマス会で本気でキリストの生誕を祝うやつなんていないんだから」とおもっていた。

 だが『カルトの子』を読んで、その内情を知った。

 本人の意思で信仰生活に入った一世が戒律を守るのは自由だが、それを強要される二世はたまったものではない。とりわけ、先の節分、七夕などは学校でも行われる行事であるため、参加しないエホバの証人の二世たちは白眼視される。
 そればかりではない。恵美が語る。「たんに参加しないだけならいいけど、みんなの前で『私はエホバの証人です。だから、七夕集会には参加しません」と証をしなければならなかった。とても嫌でした」。新しい宗教が胡散臭く見られる時代にあって、わざわざ自分が属する宗教団体名を明かすのは奇異なことのように思えるだろう。だが、「エホバの証人」は名前の如く、エホバ神の御言葉(証言)を伝えることを使命としている。子どもであろうと「証」から逃れることはできないのだ。
 証は二世にとって最も嫌なことの一つである。恵美も当然、抵抗した。
 「前の夜は言いたくないと、母親に泣きながら訴えました。学校の七夕集会に宗教的な意味なんかあるわけがない。飾りつけした笹の葉の横でゲームをやるだけ。先生に相談すると、出なさい。母は出るな、証をしろ。もう、分裂しそうでした。当日は参加したかったのに、みんなの前で証をしたあと、教室の片隅でじっとしていた。あんなに辛いことはなかった」
 クラス委員の選挙があるときでも、たんに白紙を出すだけではすまされず、「選挙に参加しない」とやはり証をしなければならなかった。
 クリスマス会、誕生会で、みんながわいわいがやがやしているとき、恵美はいつもひとりぼっちだった。

 Tはみんなの楽しみに水を差したかったわけではない。反対することが戒律だから、反対しないといけなかったのだ。そうしないと裁きを受けるから。

 Tも言わされていたのだ。つらかっただろう。

 今となっては同情的な気持ちになるが、小学生にはわからないよなあ。「こっちで楽しんでるんだからじゃまするなよ」という気になる。




 ぼくが「エホバの証人の子はオウム真理教の子よりもかわいそうかもしれない」とおもったのは、彼らが社会と関わらないといけないからだ。

 オウムの子ももちろんひどい。世間から隔離され、親からも引き離され、劣悪な環境に置かれ、いびつな教義を吹きこまれる。たしかに不幸なんだけど、それはあくまで〝外〟から見た不幸である。その環境で育った子からすると、そこしか知らないわけだから、それなりに順応するのではないだろうか。もちろん、いずれ世間の常識と衝突するわけだけど。

 だがエホバの証人の子が不幸なのは、彼らが世間と関わっていることだ。彼らは公立の小中学校や高校に通う(大学に通う子はすごく少なかったそうだ)。そこでは友人ができる。彼らは遊び、ゲームをし、漫画を読み、男女交際をし、親から殴られることもほとんどなく、自由を謳歌している。どの子にだって悩みはあるだろうが、エホバの証人の子から見たら悩みなんてないように見えるだろう。

 そんな子を横目で見ながら、親から殴られ、遊ぶことを禁止され、娯楽は与えられず、自由もなく、行動を制限される。「ふつうの子」はサタンだと言われるが、そっち側のほうがよほど幸せそうに見える。

 また、エホバの証人は伝道訪問という布教活動をする。子どもも親に伴って、近隣の家をまわってエホバの証人への信仰を訴えるのだ。ぼくの家にも来たことがある。エホバの証人の信者と、その子どもであるクラスメイトが。

 白い目で見られることがわかっていて、友人や好きな子の家に伝道訪問をしないといけないのだ。あんなつらいこと、他にそうはないだろう。


『カルトの子』によれば、中学生ぐらいで非行に走ったり自殺未遂をするエホバ二世が多いそうだ。ぼくのクラスメイトのTくんもそのひとりだったわけだ。

 あれ、当時は「エホバの証人の家庭だからおかしくなっちゃうんだ」とおもってたけど、今考えるとちっともおかしくなってない。むしろ正常な行動なんだ。正常だから、異常な世界から飛び出そうとして非行や自殺未遂を起こしていたのだ。

 ただ、仮に世間を知って脱会したとしても、幼いころから聞かされてきた教義はそうかんたんに抜けない。いろんなことを禁じられているため、脱会後にふつうの生活を送りながらも「こんなことをしたらいけないんじゃないか」と自責の念に駆られる元信者も少なくないという。やめたからはいおしまい、というわけにはいかないのがカルトのおそろしいところだ(そもそもやめるのがかんたんではないのだが)。




 エホバの証人についてだけで長々と書いてしまった。オウム真理教も、統一教会も、ヤマギシ会も、どれもひどくて書きたいことはいっぱいあるんだけど、あまりに長くなってしまうのでこのへんでやめとく。


 カルトに騙された大人の信者もかわいそうだが、彼らはまだマシだ。自分が信じて宗教活動をやっているのであれば、つらいことも耐えられるだろう(将来後悔することはあるだろうが)。だがカルト二世の日々は地獄だ。

 何かがおかしい、こんなのは嫌だと感じても、その世界しか知らないのだからうまく言語化できない。仮に言葉にしたって親がカルトにハマっているのだから抜けだすことはまず不可能だろう。

 カルト二世がまじめに宗教活動をしているように見えるのは、信仰よりも先に、親の愛を受けるため、親から認められるためだろう。特に幼い子にとって親の存在は絶対である。親が言うことを否定することや疑うことはまず不可能だ。

 大人はしょうがないにしても、せめて子どもはカルトから救いだす制度が必要だとおもう。

 それなのに。

 夫婦が属していた会衆は広島市安佐南区にあった祇園会衆(現在は発展して三つの会衆に分かれている)だった。ここでの懲らしめのムチは長さ五〇センチのゴムホースだった。当時この会衆にいた元女性信者は「子どもが集会中に居眠りをすれば、親はトイレに連れていき、ゴムホースで叩きました。体罰”は日常的でした」と語る。
 Aがこの信者に語ったところによれば、最初にエホバの証人の教えを実行したのは長男が一歳になったときだった。Aが大切にしていたオーディオを長男がいじくったので、ムチをしたのだという。
「『びしっと良くなった』とおっしゃっていました。それから体罰の味を知ってしまわれたのではないでしょうか」
 やがて二男が生まれた。二男には赤ちゃんのときから体罰を与えた。二歳になった頃から異常な摂食行動を見せるようになった。二歳にして食事の量が大人なみというだけでなく、炊飯ジャーの蓋を開けては手づかみで御飯を口に頬張る。冷蔵庫を開けて生の人参やキャベツをバリバリ噛んで口に入れる。落ちているものを拾って食べる。
 ムチで治そうとしたが、悪くなる一方だった。病院に行ったが、脳波に異状はなかったし、器質的にも異常は認められなかった。精神科では心の問題と言われるだけだった。
 先輩の兄弟姉妹にも相談したが、いつも決まって言われたのは「愛情不足ではないか」。そう言われれば、「むちを惜しむ人はその子を憎むのであるが、子を愛する人は努めて子を懲らしめる」という聖書の教えを実践するしかない。
 Aはムチを打ち続けた。
 事件前日の夜、Aはゴムホースで血が滲むほどに二男を叩いたあと、家から閉め出した。翌朝様子を見に行くと、息子の息は止まっていた。そのあとあわてて脱衣場に運んだという。
 判決はAに保護責任者遺棄致死罪を適用して懲役三年(執行猶予四年)の刑を申し渡し、事件は終わった。

 懲役三年執行猶予四年……!

 あまりに軽い。どれぐらい軽いか確かめるために、他の罪の刑について調べてみた。

 住居侵入罪の懲役が三年以下、有印公文書偽造罪が一年以上十年以下、常習賭博罪が三年以下、収賄罪が五年以下、監禁罪が三ヶ月以上七年以下、強盗罪や強盗未遂罪が五年以上……。

 他人の家に入ったり、無許可で賭け事をしたり、賄賂を受け取ったり。どれも悪いが、それと「幼い子に暴力をふるって殺すこと」がたいして変わらない罪なのだ。強盗なんて五年以上だから、強盗よりも軽いのだ。この感覚が理解できない(ちなみに保護責任者遺棄致死罪の最高刑は懲役五年)。


 カルトがここまで二世信者を不幸にしているのは、司法が親に甘いのも原因のひとつだとおもうんだよね。

「子どもは親の持ち物」って感覚があるんだろうな。だから幼児にムチを打って殺す殺人鬼に対して執行猶予四年なんて極甘判決を出せる。

 この判決を出した裁判官は憲法を知らないのか?

日本国憲法第十一条
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」

 すべての国民は基本的人権を持っている。ということは、赤ちゃんでも人権を持っているし、親でも子どもの人権を侵害することはできない。あたりまえだ。憲法を読めば誰でもわかる。それがわからない裁判官は辞職したほうがいい。


 何度か書いているけど、子どもを育てちゃいけない親ってのは確実に存在する。どんな時代でも、どんな社会でも、一定数いる。ぜったいに。

 だったら必要なのは「親の愛で子どもをいたわってあげましょう」とか「子どもは親といっしょにいるときがいちばん幸せなのです」なんておためごかしを唱えることではなく、親が無理だとおもったら子育てを放棄できる制度や、行政がこの親に子育ては無理だと判断したら親や子がどれだけ抵抗しても強制的に引き離せる制度だとおもうんだよね。「自分の子どもを育てたいエゴ」なんて、基本的人権の前ではとるにたらないものなんだから。




 深いところまで斬りこんでいて、すばらしいルポルタージュだった。危険な目にもいっぱい遭っただろうに(本書でもヤマギシ会から脅されたり裁判を起こされたりしたことを書いている)。


 ただひとつ気になったのは、サブタイトルの「心を盗まれた家族」。これだと親も一方的な被害者みたいだけど、親は加害者の面のほうが強いとおもうけどなあ。

 カルトにはまって子どもにもその教義を強制しておいて「私も被害者だったの。ごめんね」では済まされないだろう。


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2023年1月16日月曜日

【読書感想文】本渡 章『大阪古地図パラダイス』 / 地図の説明は読むもんじゃない

大阪古地図パラダイス

本渡 章

内容(e-honより)
古地図はなんだか面白い。現代の地図は便利で正確で、役に立つが、面白くはない。古地図は無くても困らない。でも、無いと淋しい。役に立たない、だけど心をゆたかにする。だから古地図はとても面白い。眺めて、迷って、想像して楽しい。古地図パラダイスへご案内。大阪はもちろん、京都・江戸の古地図もたっぷり収録!


 大阪の古地図(江戸時代~大正ぐらい)についての本。

 大学での講義を本にしたものらしく、うーん、とにかく読みづらい。地図を見ながらあれこれ解説を聞いたりするとわかるのかもしれないが、本を読みながら地図を見るのは不可能なんだよなあ……。

 そういや以前『ブラタモリ』の本を読んでみたことがあるのだが、あれもわかりづらかった。テレビで観るとあんなにわかりやすくておもしろいのに。

 本には小さい地図も載っているのだが、文章を読んで、地図で該当の場所を探して、また文章を読んで、また探して……とやっていると疲れてしまう。そうまでしても結局よくわからない。

「地図」と「本で解説」はとにかく相性が悪いことがわかった。




 地図そのものはよくわからなかったが、その制作背景の話はおもしろかった。

 交通機関や測量技術が未発達の時代に、日本全体を地図にするのは、難事業でした。地図はたいへん貴重なものでした。単に大事なものだったというのとは、ちょっと違う。宗教的な感情にも通じていると、さきほど述べましたが、かつての人々がどんなふうに、この日本図を見ていたかを想像させるエピソードがあります。
 この図は、鎌倉時代の原図を江戸時代に筆写したものですが、日本を囲むようにしてギザギザの模様が見えますね。シミだろうか、誰かお茶でもこぼしたんでしょうか。実はこれ、原図の紙がボロボロになった部分です。それを忠実に書き写している。いったい、そんなことをして何になるのか、まったくの無駄じゃないか。現代人はそう思うでしょう。
 しかし、この時代の人たちにとっては、元の地図のちぎれたり、破れたりしたところまで、そっくりそのまま書き写すのが大事。まったく同じであることに、深い意味がある。地図を新たにもう1枚、世に生み出すのは、秘儀に近い行為だったと考えると、ギザギザ模様の意味も腑に落ちます。
 今、日本地図は書店に手頃な値段のものが何種類も出ています。誰でも気軽に、手に入る。インターネットなら無料です。しかし、かつて地図を見るというのは限られた人々の限られた体験だった。地図を広げて日本という国の姿を見るのは、現代におきかえると、人工衛星から撮った地球の映像を初めて見たのと同じくらい、強烈なインパクトのある体験だったのではないか。そうでないと、わざわざ手間ひまかけてギザギザ模様まで筆写する気にはならない。私はそんなふうに想像します。

 ほとんどの現代人にとって地図は単なる〝ツール〟でしかない。目的地にたどりつくことが目的なので、その手段は紙の地図でもカーナビでもGoogleマップでもいい。より便利なものがあればそちらを使う。

 しかしこの「ボロボロになった部分まで忠実に描き写した地図」は単なるツールではない。持ち主にとっては、アルバムや日記のような、いろんな感情を想起させてくれるものだったのだろう。




 古地図にもいろいろあるが、ほとんどの場合は、縮尺や方角はかなりいいかげんだ。なので、古地図を見ても正確な地形情報は得られない。

 しかし正確でないからこそ伝わる情報もある。

 たとえばお寺が地図に描かれている。現代でも残っているお寺。大きさは今と同じだ。だが、古地図では今の地図よりもずっと大きくそのお寺が描かれている。そうすると、当時の人々にとってはそのお寺の存在が今よりずっと重要だったのだろうとわかる。


 日本史で地図と言えば伊能忠敬だ。

 伊能忠敬の地図を見ると、今から三百年前の測量機もGPSもなかった時代にこんなに正確な地図を作れたのかと驚かされる。

 だが、伊能忠敬の地図が実際に使われることはほとんどなかったそうだ。

 実地測量で日本地図を作ったのは、伊能忠敬が初めてです。
 というと、不思議に思われる読者がいるかもしれません。実地測量がはじめて、ということは、それまでの日本地図は実際に測量していなかったのか。
 実地測量が各地で行われるようになったのは、江戸時代の後半です。伊能忠敬の時代には、ほかにも優秀な測量家がいた。ただ、伊能忠敬は誰よりも綿密な測量を積み重ねた結果、日本全体の地図を作る偉業を達成した。それまでに流布していた日本地図は、測量が行われていても部分的な範囲に限られていた。それで、どうして日本列島の形がわかったのか。幕府が作った日本地図は、各藩に提出させた領国の地図を付け合わせ、編集したものです。民間で作られた日本地図は、作成者が集めた各地の地図をやはり編集してかたちを整えたものです。
 江戸時代に最も普及したとされる日本地図は水戸藩の儒学者、長久保赤水が作った「改正日本輿地路程全図」で、通称を赤水図といいます。安永8年(1779)発行。経度・緯度の線が引かれ、色分けされた諸国、町村や河川などの主な地名、さらに街道筋が描きこまれていた。実測なしで作られたため経緯線に誤差があったが、実用性には富んでおり、情報量も充分で、江戸時代を通して広く利用されました。
 対して、伊能忠敬の日本地図は、海岸線の測量を精密に行い、非常に正確な日本列島の形を描いた。反面、内陸部については簡略化し、一部を絵師に描かせた。赤水図と比べると、どちらがより優れているかは一概に言えない。一長一短があったわけです。
 しかし、江戸時代に用いられたのは圧倒的に赤水図の方でした。伊能忠敬が日本中を歩いて精魂込めて作った日本地図は、無事に幕府に納められたものの、実際に使用される機会はなかった。仕事ぶりは認められたはずなのに、こんなことになろうとは。

 伊能忠敬の地図は形状は正確だったが、人々の住んでいる町や村の情報は乏しかった。

 だから人々は正確な伊能忠敬の地図よりも、不正確だが身の周りの情報が豊富な長久保赤水の地図が選ばれた。

 おもしろい話。ビジネス書なんかに載ってそうな話だよね。「重要なのは品質ではなく、クライアントが求めている価値を提供できることです」なんつって。


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