2022年10月24日月曜日

一億ジャーナリスト

 マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク 人づきあいの経済学』にこんな一節があった。

だが、新聞社の収入のほうはデジタル版も含め減少しつづけている。広告収入は、紙媒体、デジタル媒体ともに急激に減少していて、デジタル版の購読料による収入も発行側の想定よりもかなり伸びが悪かった。全体では、三分の一以上の人々がオンラインでニュースを読んでいるにもかかわらず、デジタル配信ニュースの収入は業界全体の八パーセント未満にとどまっている。
 デジタル化やモバイル化が世界的に加速していくなか、自社取材のニュースを支える資金はどこから捻出すればいいのだろうか。(中略)テクノロジーによってもたらされる情報の種類、量、伝達の速さはすさまじいが、生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている。業界全体が、短く、人目を惹きやすく、簡単につくれるニュースへと傾き、民主主義の根幹をなす、手間とコストのかかる骨太の報道を敬遠する機運が強まっている。
 FCCの報告にもあるように、報道の衰退ははっきりと表れている。大手ケーブルテレビ局のHBOで人気テレビドラマ「ザ・ワイヤー」を制作したデイビッド・サイモンは、以前、ボルティモア・サン紙で十数年間、記者として働いていた。二〇〇九年の上院公聴会で彼がこう証言した理由はたやすく想像できる。「腐敗した政治家になるにはうってつけの時代になるだろう」


 改めていうまでもなく、報道機関は衰退している。

 報道とはまったくべつの世界にいるぼくですら心配になるぐらいだから、相当やばいんだろう。


 ある業界が衰退していくのは世の常といってしまえばそれまでだ。新しいテクノロジーが台頭すれば古いものは廃れる。昔は石炭産業は一大産業で多くの人が従事していたが、主要エネルギーが石油にとってかわられたことで衰退した。多くの炭鉱労働者が職を失った。当事者にとっては死活問題だったろうが、今になって「石炭産業を保護すべきだった」という人はいないだろう。

 そろばんは電卓にとって代わられ、ワープロはパソコンにとって代わられ、パソコンはスマホにとって代わられようとしている。そのスマホだっていつかは廃れる。盛者必衰。

 だから報道という産業が廃れるのもよくある話のひとつなのだが、他の産業とはちょっとちがうところもある。それは「報道それ自体の価値は下がっていない」ことだ。

 数十年前に比べて現代はずっと多くのニュースが見られるようになった時代だ。昔よりも多く、早く、細かいニュースが手に入るようになった。世の中にはニュースがあふれている。情報量でいえば数倍、いやひょっとしたら数十倍になっているかもしれない。

 にもかかわらず、新聞社、通信社、雑誌社などの報道機関の経営は厳しくなっているという。


 これは「本が読まれなくなっているから書店がつぶれている」のとはわけがちがう。需要は増えている。供給も増えている。にもかかわらず業界全体は(金の点でいえば)縮小している。ふしぎな現象だ。

 ふしぎといっても原因はわかっている。


 なぜ報道機関は儲からなくなったのか。

 ↓

 人々が報道に金を払わなくなったから。ではなぜ報道に金を払わなくなった。

 ↓

 これまでは金を出さないと買えなかったようなニュースが無料で手に入るようになったから。ではなぜ無料で手に入るのか。

 ↓

 無料でニュースを配ることで広告料が入るから。ではどこから広告料が入るのか。

 ↓

 GoogleやYahoo!から。ではなぜGoogleやYahoo!はニュースサイトに金を出すのか。

 ↓

 もっと多くの広告料を、各企業から得ているから。



 ということで、金を払う仕組みが変わったわけだ。

 ただ、仕組みが変わっただけで、ニュースに対して支払われる金額の総量は減っていない。それどころか昔よりずっと増えている。

 あなたが以前に新聞に対して払っていた額が月に3,000円だとする。あなたは今は新聞の購読をやめて無料のネットニュースで情報収集をしている。あなたがネットニュースを読む間に1ヶ月に目にする広告に対して支払われている額は、3,000円どころではない。(金額換算して)ずっとずっと多くの広告を払っている。


 だから無料ニュースを見るときは直接的にお金を払ってはいないが、間接的には対価を払っている。ネット広告を見た商品やサービスに対してお金を使うことで。

「ネットで広告を見ても実際には買わないよ」という人は何もわかっちゃいない。ネット広告を目にして行動を変えたことのない人はほぼいない。何の効果もないものに対して企業が莫大な金を払うとおもう?

 有料の新聞や雑誌と無料ネットニュースの違いは、NHKを見るか民放を見るかの違いといっしょだ。

 



 人々は昔よりもニュースを見るようになった。そして、ニュースに対して支払われる金額の総量もずっと大きくなった。

 それなのになぜ報道メディアは儲からなくなったのか。かんたんな話だ。市場の総量が増えているのに各プレイヤーの取り分が減っているとしたら、答えはひとつしかない。

 プレイヤーが増えたからだ。

 はじめに引用した文章にも書いてあった。
「生みだすのがむずかしく再加工するのは簡単な「情報」というものから収入を得る道はどんどん狭くなっている」と。


 そう、ニュースはコピーするのがかんたんなのだ。

 ニュースは誰のものでもない。独占インタビューとかならまだしも、事故が起こったとか、政府が発表したとか、国会でこんな議論が交わされたとかの情報は、誰のものでもない。一文一句丸写しにするのはまずいだろうが、「円、24年ぶり安値を更新」のニュースを見て「円が24年ぶりに最安値を更新した」というニュースを作るのはオッケーだ。

 報道業界のことはよく知らないけど、昔から他社の真似はおこなわれていたようだ。どこかの新聞社が特ダネをとり、その記事を見た他紙があわてて後追い記事を書く。だがそれは記者にとっては恥ずべきことだったようだ。なにしろ、他紙の真似をして記事を書いても新聞が配られるのは一日遅れ(夕刊で書いても半日遅れ)。情報の鮮度としてはかなり古くなっている。

 ところがネットニュースの世界では、他メディアのニュースを見て急いで記事を書けば数分の違いでしかない。各ニュースサイトを並べて読んでいる人はいないから、その差はほぼないに等しい。

「現場に足を運んで取材して書いた記事」と「他のニュースサイトを見てちょっと切り貼りして書いた記事」のどっちが労力がかかるかは言うまでもない。それでほとんど差がない(場合によっては後者のほうがページビューが多くなったりもする)のだから、まともに取材するのがばからしくなるだろう。

 いくらジャーナリズムだ記者魂だといったところで、ニュースが金にならなければどうしようもない。貴族でもなければ金にならないもののために時間と労力を割くことはできない。そして貴族は体制にとって都合の悪いニュースを暴きたくないだろう。




 この先ジャーナリズムは金にならないんだよ。残念だったね。

 ……で終われば話はかんたんなのだが、困ったことに報道が衰退して困るのはぼくたち一般市民なのだ。国がぼくらのお金を良くないことに使ったり、悪いやつが悪いことを続けたり、市民を苦しめる法律ができたりして、困るのはぼくたちだ。

 だから報道機関にはがんばってほしい。報道をしてほしい。

 でも、タダでニュースが読める時代に新聞に金を払いたくない。理想はぼく以外のみんなが新聞社や通信社にお金を払ってくれることなんだけど、みんなが同じように考えているからそうはいかない。


 どうしたらいいんだろうね。


 ひとつ考えたのは、ぼくらがみんな記者になるということ。

 たぶん職業記者はほとんどが食っていけなくなる。記者を専業でやっていくのはむずかしい。

 その代わり、会社員や、フリーターや、学生や、無職の人や、公務員や官僚や政治家らが本業の合間に記者をする。たまたま事件や事故を目にしたり、不正の事実を知ったり、興味のあることについて調べたりしたことを、通信社に報告する。通信社はそのニュースを買いとって記事にする。幸い、ほとんどの人がカメラ付きの通信機器を絶えず携帯している時代だ。ちょっとした小遣い稼ぎになるのなら、ニュースを送ってくれる人は全国津々浦々に山ほどいるだろう。

 限られた数の記者が取材をするよりも、よっぽど広くて深い範囲のニュースが集まるとおもう。現に今だって一部はそうなっている。Twitterでバズったツイートをした人のところには、ウェブやテレビのメディアの記者から「これを記事にしていいですか」と連絡が入る。ちがうのは、無料提供ではなく有料買い取りになるということだ。


 もちろん問題はある。金目当ての偽ニュースが売られたり、あるいは誰かをおとしめるためのフェイクニュースが出回ったりすることだ。

 でもそれは大した問題じゃないとぼくはおもう。だって現在でもすでに偽ニュースが大量に出回っているんだもの。そもそも完全に正しくて中立なニュースなんかどこにもないわけだし。政府広報だって嘘や誰かの意図を含んでいたりするわけだし。

 だから真実も嘘も混ざっているけど、それでもこれがニュースですって言って一般市民から買い取ったニュースを流したらいいんじゃないかな。今までやってたこととそんなに変わらないとおもうけど。


2022年10月21日金曜日

ATMウンコペーパー事件

 ATMをだますための紙切れ、というのを考えたわけですよ。

 ATMがどうやって紙幣を判別しているのか詳しくは知らないが、サイズ、磁気、紋章、すかしなどをチェックしているのだろう。それらはすべてクリアしている紙切れがあるとする。ただし見た目はまったくちがう。たとえば、でかでかとウンコの絵が描かれている。

 要するに「人間にはとうてい紙幣に見えないけど、ATMは一万円札と誤認してしまう紙切れ」だ。

 このウンコペーパーを製造して、ATMのチェックをかいくぐって入金することができたとして、直後に出金して本物の紙幣をせしめた場合、これは罪になるのだろうか?


 刑法第148条には「通貨偽造及び行使等」としてこう書かれている。

(1)行使の目的で、通用する貨幣、紙幣又は銀行券を偽造し、又は変造した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
(2)偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を行使し、又は行使の目的で人に交付し、若しくは輸入した者も、前項と同様とする。

 はたして、でかでかとウンコが描かれた一万円札と同じサイズの紙切れは、「偽造した紙幣」となるのだろうか?


 ま、なるだろう。まちがいなく。ウンコペーパーをATMにつっこんで、まんまと機械を騙してお金を手にしたのに、官憲が「あーこれはウンコペーパーですね。だったらセーフですね。銀行さんには災難だったとおもって諦めてもらうしかないですね」と許すとはおもえない。

 というわけでまちがいなく捕まるだろうが、そうなると国家が「このウンコペーパーは一万円札を模したものである」と認めたことになる。通貨偽造の罪で問うためにはある程度似ていることが必要になるからね。ぜんぜん似ていないお金では罪に問えない(そうじゃないとお金のおもちゃを作っているメーカーがみんな処罰されてしまう)。

 それはもう「このウンコは福沢諭吉先生のお顔によく似ていらっしゃる」と国が認めたことになるんじゃないの!?

 そうなると慶応義塾大学の関係者もだまってはいない。「福沢諭吉先生がこんなウンコに似ているとは失礼千万。福沢先生はもっと凛々しいウンコ、いやお方にあられるぞ!」と怒鳴りこんでくるにちがいない。


 国としても弱ってしまう。なにしろ慶応義塾大学OBは政財界のあちこちで大きな顔をしている。それがみんなウンコの子弟だったということになれば日本社会は大混乱だ。いくら天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずとはいえ、ウンコまで人と同等に扱うわけにはいかない。


 こうなると刑法第148条の通貨偽造罪の適用はあきらめざるをえない。だがウンコペーパーをATMにつっこんで金をだましとったやつを見逃すわけにはいかない。ウンコは入れるものじゃなくて出すものだ。

 なんかないか、なんかないか、と警察総出で見つけてきたのが昭和22年施行の「すき入紙製造取締法」である。この法律にはこうある。

黒くすき入れた紙又は政府紙幣、日本銀行券、公債証書、収入印紙その他政府の発行する証券にすき入れてある文字若しくは画紋と同一若しくは類似の形態の文字若しくは画紋を白くすき入れた紙は、政府、独立行政法人国立印刷局又は政府の許可を受けた者以外の者は、これを製造してはならない。


 要するに、紙幣とよく似たすかしを入れた紙を製造しただけで罪に問えるのだ。これなら、紙切れの表面が紙幣と似ているかどうかは問題にしなくていい。

 ああよかった。これで慶応一門を敵にまわすことなくウンコペーパー犯をしょっぴけるぞ。

 と胸をなでおろしたのもつかのま、「すき入紙製造取締法」の第3項にはこうあるではないか。

第一項の規定に違反した者は、これを六箇月以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する。

 刑法第148条刑法の「無期又は三年以上の懲役」と比べて、ずいぶん量刑が軽い。うーんしかし、この際量刑のことについては目をつぶるしかあるまい。慶応派閥をウンコ派にするわけにはいかないんだし。なるべく大事にしたくないから五千円の罰金で許してやろう。


 というわけで、ウンコペーパーをATMにつっこんで一万円をだましとった男は、五千円の罰金を払って解放されたのでした。とっぴんぱらりのぷう。



2022年10月20日木曜日

いちぶんがく その16

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



今や早死にの危険は減ったけれど、長生きの危険が高まっているといえます。

(久坂部 羊『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』より)




これは、真相を知らない者同士の抗争なのだ。

(奥田 英朗『真夜中のマーチ』より)




おそらく、「噂話」説と「川の近くにライオンがいる」説の両方とも妥当なのだろう。

(ユヴァル・ノア・ハラリ(著) 柴田 裕之(訳)『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』より)




宇宙人が立候補を表明した。

(矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』より)




「……あの、メールばかり送って付きまとうしか脳のない、自分本位な執念深い女のことですね」

(麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』より)




ジェームズはまず、被験者の「ジョン・ヘンリー度」を調べた。

(クロード・スティール (著) 藤原 朝子(訳)『ステレオタイプの科学』より)




高校時代初めてお付き合いした彼女に、「アンタがあと五センチ身長高かったらほんまに好きになったかも」と言われた。

(せきしろ・又吉 直樹『まさかジープで来るとは』より)




出産祝いに地球儀を持ってきた。

(東野 圭吾『嘘をもうひとつだけ』より)




やっぱ、なるなら社長か泥棒だわ。

(パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』より)




「そうだろ、おれたち、みんなどろぼうなんだよ。」

(那須正幹『ぼくらは海へ』より)




 その他のいちぶんがく


2022年10月19日水曜日

【読書感想文】『たのしい授業』編集委員会『仮説実験授業をはじめよう』 / 予習はドロボウの始まり

仮説実験授業をはじめよう

『たのしい授業』編集委員会(編)

内容(仮説社 ONLINE SHOPより)
 「仮説実験授業なんて知らない、やったことない。だけど、たのしいことならやってみたい!」という人のために,授業の基本的な進め方や役に立つ参考文献、授業の進め方が分かる授業記録など、役に立つ記事を一つにまとめました。巻末には、すぐに始められる授業書《水の表面》《地球》と、その解説も収録しました。


『仮説実験授業』を知っているだろうか。

 ぼくは小学五年生のときに体験した。当時の担任が理科を好きな人で(保田先生お元気でしょうか)、理科の時間を使って仮説実験授業をやってくれた。

 仮説実験授業では、教科書ではなく授業書なるものを使う。ぼくらが使ったのは『ものとその重さ』『月と太陽と地球』『もしも原子が見えたなら』といった授業書だった。原子なんて中学理科で習うものだから、五年生にしてはむずかしめの内容だった。

 仮説実験授業は、問題、予想、集計、理由の発表、討論、予想変更、実験、実験結果といった流れで進む。

 まず問題が出される。たとえば「はかりの上に水と食塩が乗っている。その後、食塩を水に入れて完全に溶かすと重さはどうなるでしょう? ア)増える イ)減る ウ)変わらない」といったように。

 この時点で生徒たちはまず答えを予想する。相談はしない。で、答えを集計して公開する。

 次になぜそうおもったのかを発表する。このとき、少数派から発表する。多数派が先に理由を言ってしまうと、少数派が自分の意見を言いづらくなるからだ。発表する人は挙手で名乗り出ることもあれば、教師が指名することもある。理由はなんでもいい。「こっちのほうがおもしろいから」でも「なんとなく」でもいい。

 次に討論。「○○君はこう言ったけど、✕✕だからちがうとおもいます」など、意見、反論、補足などをおこなう。

 仮説実験授業では予想変更も認められている。他人の意見を聞いて予想を変えてもいい。再度予想をして、集計する。

 そして実験。かんたんな実験であれば生徒がそれぞれ手元でおこなうこともあるし、教師がみんなの前でおこなうこともある。実験・観測ができないもの(原子がどうつながっているかなど)は答えを発表する。

 そして結果。予想が当たっていたか、感じたこと、疑問におもったことなどを書く。ただしこれは実験の結果であって、この時点では結論や普遍的な法則などは導きださない。なぜその結果になったのかの解説がないことも多い。

 終われば次の問題。これを何回、何十回とくりかえす。『ものとその重さ』であれば、条件を変えた問題が次々に出題される。

 当時はわからなかったが、今にしておもうとこの仕組みは実によくできている。

 仮説実験授業は、考えるための授業である。誰もが考えることを要求される。予想、討論、予想変更。どの時点でも考える。実験結果が明らかになっても、結論や法則が伝えられないのもいい。わからないものはわからないままにしておく。だから考える。

 全員参加なのもいい。予想は全員が手を挙げるし、理由の説明も求められる。うまく言葉にできない子は「なんとなく」でもいいが、とにかく参加することが要求される。

 仮説実験授業では、活躍する子が他の授業とはちがった。正解をたくさん知っている子ではなく、間違っていても自分の意見を言える子や、場を盛り上げられる子が活躍する。むしろ間違いは討論を盛り上げるために必要不可欠だ。満場一致ではおもしろくない。仮説実験授業でいちばん盛り上がるのは「少数派の予想が当たっていたとき」だ。

 ぼくが五年生のときのクラスには知的障害児がいた。五年生にもなると勉強がむずかしくなるので、算数のときなどは彼は特別学級に行っていた。けれど仮説実験授業には彼も参加していた。そして学年最後の文集で彼は「かせつじっけんがおもしろかった」と書いていた。選択肢の中から選ぶクイズのようなものなので、誰でも参加できるのだ。

 ぼくは仮説実験授業で、討論のおもしろさや科学のおもしろさを知った。自分のイメージを他人に伝えるためにはどうしたらいいか、どういう話をすれば場が盛り上がるか、そして多数派が必ずしも正解ではないことも知った。




 そんな仮説実験授業のやりかた、目的、事例、失敗例などを解説した本。

 ぼくは教師でも塾講師でもないので仮説実験授業をやることはこの先たぶんないだろうけど、おもしろかった。


 子どもは(大人も)たいていクイズが好きだが、仮説実験授業がクイズと異なるのは問題と正解発表の間に、集計、討論、予想変更があることだ。これがあるから頭を使う。

 また、仮説実験授業ではブレインストーミングのようにどんな意見も否定されることはない(さすがに個人攻撃とかはだめだが)。

 仮説実験授業では、「なんとなく」という理由も認めています。
「なんとなく」と言える心安さが、子どもにとっては考えるための自由な雰囲気につながります。だからといって、先生が「なんとなく」と言わせている訳ではありません。
 イメージが描けなくても予想が立つということもあります。それは、当てもの式かもしれません。でも、そういう段階で参加している子がいたって、それは受け入れていかないといけないわけです。やはり、どんな段階であろうとも、子どもが授業にのってくるような場を作るってことが大事なんです。「ちゃんと理由が言えないような予想ではだめだ」なんてことを言ってたら、子どもは授業にのってこないですから。

 教科書では常に原因が求められるけど、世の中には「なんとなく」「そういうもんだから」としか言いようのないことはたくさんある。むしろそっちのほうが多い。

 なぜ水は高いところから低いところに流れるのでしょう、と訊かれたって、ほとんどの子はそういうもんだから、としか答えようがないだろう。

 なまじっか知識があれば重力があるから、万有引力があるからと答えるかもしれないが、じゃあなぜ重力があるのか、すべてのものが引き合うのかと訊かれると、最終的には「そういうもんだから」にいきつく。

 だから「なんとなく」でもいい。逆に、なんでもかんでも原因や法則を求めてしまうほうが危険かもしれない。すべてに原因を求める人が陰謀論に飛びつくのだ!(これはこれで極端な意見)




 とある教師が仮説実験授業をするとき、他の教師からこんなことを言われたそうだ。

 予想を立てるとき、「班で討論をさせてはどうか」とか「班で意見をまとめてはどうか」などという考えも出されましたが、その形態は絶対おかしいと、僕自身は思います。
 仮説実験授業では実験して答えをたしかめます。予想が当たっていたかはずれていたかを決めるのは実験です。実験がすべてです。実験で誰の考えが正しいか決めるんです。だから、班で一つの考えに集約するような議論は絶対におかしいです。
「人数が少ない班なら意見が言いやすい」とも言われましたが、そのような方法は必要ないと思います。班で討論させるということは、「言わせたい、言わせたい」と、子どもたちに強烈に圧力をかけることになりますから、反発されてしまいます。適当に、自分の考えに自信が持てて言えるようになればいいんです。もちろん、仮説実験授業を一年間やっていても、発表できるようになるかは分かりませんよ。
 待てばいいんです。中学・高校と勉強が進む中で、手立てをとりながら、待てばいいんです。
「子どもが気持ちよく考えられる問題を用意して、何を考えても良い自由な雰囲気の場を作ることが大切です。先生が「何か言わせなきゃならない」という強い意志で子どもたちに接したら.「先生に何か言わなきゃならないけど、分からない。どうしよう……」ということで頭がいっぱいになって、肝心の問題を考えられなくなってしまうことだってあります。

 班で意見をまとめる! これはいかにも学校教育に毒された人の意見って感じだよなあ。学校にいると多数決バカになってしまうんだなあ。多数決が正しいとおもってしまう、多数決が民主主義だと勘違いしてしまう。

 多数決ってのは「他のあらゆる手段で解決できないけどどうしても決めなきゃいけないときの、最悪よりはちょっとマシな手段」でしかないのに、バカはそれを最善手だとおもってしまう。

 だいたい科学を理解していたら「班で意見をまとめる」なんて発想が出てくるわけないよね。クラス委員を決めるんじゃないんだから、班で「塩は水に溶けない」と決めたら溶けなくなるとおもってるのかね。

 科学は観測結果がすべて。それを導くために実験があり、実験をするために予想がある。「意見のすりあわせ」なんて何の意味もない。


 仮説実験授業の討論はディベートではない。自分の意見が他人によって変えられることはあっても、ねじふせられるようなことがあってはならない。意見をねじふせていいのは、他者の意見ではなく、実験によってだけだ。




 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣氏の話。

そこで、仮説実験授業では「予習はドロボウの始まりとも言って、生徒が予習しないように、授業書の内容を秘密にするのに大きな配慮をしてきました。私たちが、著作権裁判も辞さない姿勢で授業書の秘密を保持してきたのはそのためです。それは、これまでのところ成功してきました。
 授業書の内容を秘密にして、「クラスの誰も予習していない」という授業を実施した結果、予想はしていたことですが、大きな成果が得られました。これまでの教育界では「たいていのクラスには、優等生、劣等生、問題児が混じっている。そこで、優等生に合わせて授業をすると、劣等生がついてこれなくなくなり、劣等生に合わせると優等生が退屈する結果になる。クラスのすべての生徒を対象にして授業をすることは困難だ」と考えられてきたのです。ところが、予習を禁止した仮説実験授業では「誰が優等生で誰が劣等生かが分からなくなって、優等生から劣等生の序列がほとんどなくなる」という結果になりました。
 仮説実験授業では予習の効果が期待できません。そこで、「たまたま何かのことで知った知識」や「たまたま思いつきが当たった」という子どもが特に目立って活躍するようになります。多様な生活や遊びの中で得た知識や思いつきが、他の子どもたちを「アッ」と言わせるような成果をあげることになるのです。そこで、仮説実験授業では、特に活躍する子どもが毎時間変わります。
 そこで、人間関係が多様化して、子どもたち同士が認め合う機会が圧倒的に増える結果になります。また、ふだん「問題児」と呼ばれているような変わった子どもたちが英雄的な活躍をするようにもなります。真に「生きた学力」が問題になってくるわけです。討論では、説得の仕方のうまい子ども、発想の豊かな子どもが目立つことにもなります。そこで、いままでの学校にありがちだった序列社会がなくなって、「たのしい学級」が実現するようになるのです。

「予習はドロボウの始まり」。いい言葉だなあ。


 今の小学校はどうだか知らないけど、ぼくが小学生の頃は(田舎だったこともあって)進学塾に通っている子はクラスの一割ぐらいだった。で、そういう子らは授業では活躍する。みんなが頭を悩ませるむずかしい問題にもやすやすと答えられたりする。

 今にしておもうと「ただ先にやったから知っているだけ」でえらくもなんともないのだが、小学生は単純だから「あいつは頭がいい」という評価になる。

 だが、仮説実験授業で活躍するのは進学塾に通っている子ではない。独自の意見を言える子、他人の話を聞いた上で補足や反証をできる子、とんでもなくばかなことを言いだす子などだ。どっちかっていうと協調性のないタイプのほうが活躍できる(ぼくもそのひとりだった)。朝礼でじっとしていられなくて怒られるタイプこそが仮説実験授業向きの子だ。

 もちろんおとなしく先生の話を聞けるタイプの子もえらいが、そうでない子が褒められる時間があってもいい。ぼくの場合はそれが仮説実験授業だった。


 この本を読んでいると、仮説実験授業をやった五年生のときのことがいろいろ思いだされる。仮説実験授業、またやりたいなあ。近所の子ども集めてやったろかな。


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2022年10月18日火曜日

【読書感想文】又吉直樹・ヨシタケシンスケ『その本は』 / ザ・安易コラボ

その本は

又吉直樹  ヨシタケシンスケ

内容(e-honより)
本の好きな王様がいました。王様はもう年寄りで、目がほとんど見えません。王様は二人の男を城に呼び、言いました。「わしは本が好きだ。今までたくさんの本を読んだ。たいていの本は読んだつもりだ。しかし、目が悪くなり、もう本を読むことができない。でもわしは、本が好きだ。だから、本の話を、聞きたいのだ。お前たち、世界中をまわって『めずらしい本』について知っている者を探し出し、その者から、その本についての話を聞いてきてくれ。そしてその本の話を、わしに教えてほしいのだ」旅に出た二人の男は、たくさんの本の話を持ち帰り、王様のために夜ごと語り出した―。お笑い芸人で芥川賞作家の又吉直樹と、大人気の絵本作家ヨシタケシンスケによる、笑えて泣けて胸を打たれる、本にまつわる物語。

 母親から「あんたこれ好きでしょ」とプレゼントされた本。

 ごめんなさい、ぜんぜん好きじゃないです。おかあさん、わかってないですね。何十年ぼくの親やってるんですか。

 たしかにヨシタケシンスケさんの絵本はおもしろいし、又吉さんの本も何冊か読んだけど、この手の「売れてる人と売れてる人を組ませたら売れるっしょ」という安易なコラボは大嫌いだし、なによりぼくはポプラ社の文芸本は買わないことにしているんだ! 商売のやり方が嫌いなので。

 まあ自分ではぜったい買わない本だけど、だからこそもらっておく。で、気が進まないながらも読んでみた。

 あー。

 やっぱり、ぼくの嫌いなタイプの本だー。

 忙しい人が力を抜いて書いた、って感じが伝わってくる。




「その本は」で始まる物語をふたりが交互につづってゆく。又吉直樹氏が小説、ヨシタケシンスケ氏がイラストと短文で表現しているのだが、特に又吉パートはひどかった。申し訳ないけど、ことごとくつまらない。

 まずこの手の企画に又吉さんの文章があっていない。文体も発想もショートショート向きじゃない。この手の企画をやらせるのはもっと軽妙な文章で切れ味鋭い短篇を書ける人だろう。全盛期の阿刀田高氏のような。

 驚くような展開もなければ、気の利いたオチもない文章がだらだらと続く。読んでいられない。ことわっておくと又吉氏のせいではない。この企画をやらせた編集者が悪い。マラソン選手を100メートルリレーに抜擢するようなものだ。

 少しも頭を使わずに金だけ使った企画、という感じ。いかにもポプラ社らしい。

 最近の又吉さんは「芥川賞受賞芸人」という肩書のせいで身の丈以上のものを背負わされていて、見ていて気の毒になる。テレビでも、作家でも芸人でもない立場で呼ばれたりしてるしな。そんなに器用なタイプじゃないだろうに。

 粗製乱造、という言葉がぴったりの作品だった。


 一方のヨシタケシンスケさんパートは、まずまず楽しめた。特に『自分の個人情報がすべて書かれた本』は好きだった。

 ショートショートとしても一定のクオリティを保っている上、絵自体に魅力があるのでそれぞれが作品として読みごたえがあった。




 ところで『その本は』はすべてが同じ書き出しで始まる短篇集だが、五十年以上も前にこの形式に挑戦した作家をご存じだろうか。

 そう、ショートショートの神様・星新一氏である。「ノックの音が」で始まる十五編の短篇を書き、しかも『その本は』と違っておもしろい。まあ神様と比べたらかわいそうだけど。

 ということで、『その本は』を買う前にぜひ『ノックの音が』を読んでみてくださいね!


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