2021年2月26日金曜日

【読書感想文】なぜかぞわぞわする小説 / 今村 夏子『あひる』

あひる

今村 夏子

内容(e-honより)
あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない―。わたしの生活に入り込んできたあひると子供たち。だがあひるが病気になり病院へ運ばれると、子供は姿を見せなくなる。2週間後、帰ってきたあひるは以前よりも小さくなっていて…。日常に潜む不安と恐怖をユーモアで切り取った、河合隼雄物語賞受賞作。


『あひる』『おばあちゃんの家』『森の兄妹』の三篇を収録。

『あひる』は以前『文学ムック たべるのがおそい vol.1』に収録されているものを読んだことがあるが、二度目なのにやはり怖かった。いや、二度目のほうがじわじわくる。

(以下ネタバレ)

 あひるが家にやってきた。たちまち近所の小学生たちがあひるを見に集まってくるようになった。子どもが好きな両親もうれしそう。
 ある日具合の悪くなったあひるは病院に連れていかれるのだが、数日後に戻ってきたあひるは前とどこか違う。ひとまわり小さくなっているし、くちばしの模様も違う。おそらく両親が別のあひるを連れてきたのだが、そのことについて何も言わない。子どもたちは気づかない。わたしはあひるが入れ替わったことに気づいているが、両親の雰囲気から何も言えない。やがてまたあひるの具合が悪くなり……。


 なんだろう。そこはかとなく怖い。
 たぶん、あひるが死んでしまったので別のあひるを買ってきただけなのだが。それなのに、「言わない」だけでこんなにおそろしくなるなんて。

 お気に入りの椅子が壊れたからよく似たデザインの椅子を買ってきた、ならちっとも怖くない。わざわざ「別のを買ったよ」と言わないのもわかる。
 だが、あひるだ。それもかわいがっているペットだ。〝壊れた〟からといって新しいものを買ってきて、何事もなかったかのように置き換えていいのだろうか。
 悪いことをしているわけじゃない。あひるを殺したわけではない。いないと近所の子どもたちがさびしがるから別のあひるを連れてくるという発想も理解できる。でも、生き物はそうかんたんに置き換えてはいけない。明文化されていないけど、ぼくらの心にはそういうルールがある。


 母から聞いた話。
 母の実家では犬を飼っていた。ある日、犬が病気で死んでしまった。父親が仕事の取引先と「犬が死んじゃって子どもが悲しんでいるんだよね」的なことを言ったらしい。するとその数日後、取引先から新しい子犬が贈られてきたそうだ。
 これも同じように怖い。取引先からしたらいいことをしたつもりなんだろう。だがその人は人間の心が理解できていない。かわいがっていた犬が死んだ一週間後に新しい犬が送りつけられてきて「やったー! 新しい犬だー!」となるとおもっている人はちょっと怖い。
(ちなみに母の父、つまりぼくの祖母はそこそこいいポジションにいる国家公務員だったので今だったら完全アウトの話だ)

 生き物は「代わり」があってはいけないのだ。

 ここで「代わり」を用意されるのがあひる、というのが憎い。
 犬や猫が別の個体になっていたらさすがに誰でもわかるだろう。文鳥やハムスターだったらずっと気づかないままかもしれない。しかしあひるは絶妙に「気づかないかもしれないし気づくかもしれない」ラインだ。あひるはペットとしてはめずらしいから「よく似ているけど別のあひるかもしれない」とおもわないような気がする。ちょうどいいポジションの動物だ。


 この小説、すり替わったあひるだけでなく、
「誕生日会の準備をしていたのに誰も来ない」
「深夜にやってきた男の子があひるに似た性格をしている」
「誰もあひるのすり替えに気づいていないのに、ひとりの女の子だけは当然のように気づいている」
「まるであひるの代わりのようなタイミングで赤ちゃんがやってくる」
など、じんわりと怖いことが随所にちりばめられている。いや、これって怖いのだろうか。よくわからない。
「幽霊が出る」「殺人鬼が近くにいる」みたいなはっきりした恐怖とは違う。だって何の実害もないんだもん。実害もないし悪意もない。なのになぜかぞわぞわする。

 座敷わらしに出会ったような感覚。
 いや、自分が座敷わらしになったような感覚といえばいいだろうか。座敷わらしになったことないからわかんないけど。




『おばあちゃんの家』『森の兄妹』も奇妙なファンタジーでよかった。児童文学のような平易な文章なのが余計に不気味だ。

 今村夏子作品はどれを読んでも心が動かされる。だけど、それがどういう感情なのかうまく説明することができない。今村夏子作品を読んでいるときにしか刺激されない脳のツボがあるんだよな。


【関連記事】

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】

怖い怖い児童文学 / 三田村 信行『おとうさんがいっぱい』



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2021年2月25日木曜日

【読書感想文】中学校監獄実験 / アレックス・バーザ『狂気の科学者たち』

狂気の科学者たち

アレックス・バーザ (著)  プレシ 南日子 (訳)

内容(e-honより)
科学発展の裏には奇想天外としか言いようのない実験の数々があった。死亡前後の人間の体重を量って「魂」の重さを計測する。妊娠率を高めるためピエロに扮して胚移植前の女性を笑わせる。黄熱病が伝染病でないと証明するために患者の吐瀉物を飲む。赤ん坊をチンパンジーと一緒に保育する…。信念に基づいて真実を追究する科学者たちを描いた戦慄(と笑い)のノンフィクション!


「ユニークな実験」を集めた本。以前読んだトレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』に比べると、似ているようでこちらはずいぶん散漫な印象。

 なぜなら、『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、「結果的に誤ってはいたが科学の発展のために(あるいは自分の知的好奇心のために)人体実験をおこなった科学者たち」のエピソードばかりを集めていたのに対し、
『狂気の科学者たち』は
「(現代の常識からすると)狂ってるとしかおもえない実験」
「実験結果が捏造された実験」
「何の役に立つのかわからないが科学的には正しい実験」
「手法がユニークなだけでまっとうで有用な実験」
などが十把ひとからげに取り扱われているからだ。

 たとえば、よく知られる「吊り橋効果」の実験とか(吊り橋のようなスリルを感じる場所で声をかけられると異性に好意を抱きやすい)。
 ぜんぜん「狂気の科学者」じゃない。

 こういうまっとうな実験と、「死者をよみがえらせることに成功したと発表したがその後まったく結果を再現できなかった実験」を同列に扱っちゃだめだよ。
 独創的なアイデアを持った研究者、科学のためなら人の命も犠牲にするマッド・サイエンティスト、功名心で実験結果を捏造するインチキ科学者。それらをぜんぶひっくるめて「狂気の科学者たち」と呼ぶのはさすがに乱暴すぎる。


 まあこれは著者のせいじゃなくて邦題がひどいんだよね。原題は『Elephants on Acid』(この本の中に出てくるLSDを投与されたゾウのこと)で、ぜんぜん『狂気の科学者たち』というくくりじゃないからね。
 誰だこのひどい邦題をつけたやつは。




 題はともかく、中身はおもしろかった。

 オスの七面鳥が、メスのどんなところに性的欲望を駆り立てられているのかという実験。

 興味を引かれたシャインとヘイルは、オスの七面鳥の性的反応を引き出す最低の刺激要素は何か知りたくなった。メスの模型から体の部位をひとつひとつ取り除いていったら、オスはどの時点で興味を失うのだろうか? この実験の結果、かなりたくさん取り除けることがわかった。
 まず、尾、脚、翼のいずれも不要であることが証明された。最後に研究者たちは七面鳥に、頭のないメスの体と棒に刺さった頭だけの二者に対する反応を観察したところ、驚いたことにオスの七面鳥はすべて棒に刺さった頭を選んだ。頭さえあれば、オスの七面鳥はその気になるのだ。研究者たちはこう記している。

 なんと。頭だけで昂奮するのだ。

 しかし我々人間も七面鳥のことを笑えない。
 人間だって顔だけで異性のことを判断することはよくある。「顔は好みだけど身体は魅力的じゃない異性」と「顔はまったく好みじゃないけど身体は魅力的な異性」だったらたいていの人は前者を選ぶんじゃないだろうか。健康な子孫を残すということを考えれば後者のほうが良さそうだけど。




 子猿が母親の愛情をどのような形で欲するかを調べた実験。

 子猿は、「ミルクを出すが固く冷たい母猿の模型」よりも「ミルクを出さないがやわらかくあたたかい母猿の模型」を好み、ミルクを飲むとき以外は後者のそばにいたそうだ。

 その後、ハーロウの研究は陰うつなものになっていった。母と子の愛を強める要素を特定したハーロウは、このきずなが簡単に失われるほど弱いものでないか調べることにした。怠慢な親に育てられた子どもが経験する問題を解決するうえで役に立つよう、こうした子どもたちと同じような境遇のサルを求め、ハーロウはさまざまな形の乳幼児虐待を行う母親を作った。シェーキング・ママはときどき激しく体を揺らし、子ザルは部屋の反対側まで放りだされた。エアブラスト・ママは圧縮空気を激しく噴出して子ザルを吹き飛ばした。そしてブラススパイク・ママからは先の丸まった真鍮のとげが定期的に出てきた。
 しかし母親がどんなにむごいことをしようと、子ザルたちは気を取り直し、戻ってきてはまた同じ目にあった。子ザルはすべてを許していた。彼らの愛情は、揺らぐこともへこむこともなければ、吹き飛ばされることもなかった。これらの実験に使われた子ザルの数はわずかだったが、結果は明らかだった。

 これは読んでいてつらくなる。

 以前読んだ、黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』という本に、こんなエピソードがあった。

 ずっと実母から虐待を受けて育った子どもが、ファミリーホーム(里親のようなもの)に引き取られ、少しずつ周囲と溶け込めるようになった。だが実母が軽い気持ちで言った「うちにおいで」という言葉を聞いてから、その子は周囲を攻撃するようになり、自ら居場所をなくして実母のもとに帰っていった。
 母親のもとに戻れば不幸になることは火を見るより明らか。だが今の法制度では実親が引き取ることを希望したら誰も止めることはできない。
 実母のもとに戻った子どもは再び虐待され、学校にも行けず、やがてまた別の里親のもとに引き取られて病院に通うことになったという。

 どんなに暴力的で子どもに危害を加える母親であっても、子どもは母親を選んでしまうのだ。ヒトでもサルでも。

 だからこそ、害をなす親からは強制的に子どもを引き離すようにできる法律が必要だよなあ。愛が強いからこそ。




 あと第9章『ハイド氏の作り方』はすごくおもしろかった。
 この章だけで一冊の本にしてもいいぐらい読みごたえがあった。

 有名なミルグラム実験(白衣を着た人に命令されたら、ごくふつうの人でも他人に危害を加えるようになるという実験)や、スタンフォード監獄実験(被験者をランダムに看守役と囚人役に分けたら看守役が囚人役に対して威圧的・攻撃的な行動をとるようになったという実験)など、どうやったら人間が残虐な行動に手を染めるようになるかという実験が多数紹介されている。

 読んでいて感じるのは、環境さえ整えば人間はいともかんたんに悪人になれるということ。ナチス党員や紅衛兵や山岳ベース事件メンバーがことさらに凶悪だったわけではなく、環境によってはほとんど誰でも他人に暴力を振るうようになるのだということ。

 中学校の教師や部活の顧問に暴力を振るう人間が多いのも、教員採用試験が暴力志向性のある人間を積極的に採用しているわけではなく、立場が彼らを暴力に走らせるからだ。

 スタンフォード監獄実験のような実験は危険だとして今はやれないらしいが、今も全世界の学校で同じようなことをやってるよね。


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【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』



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2021年2月24日水曜日

人類がお茶漬けに求めるもの


 こないだNHK Eテレの『すいエンサー』という番組を観た。

 はっきり言って、この番組をぼくは嫌いだ。
「かんたんに○○できるスゴ技があるんです! 答えは××です!」
といえば10秒で済むようなテーマを、30分近く使って説明する番組だ。

 たとえば『ブラタモリ』も同じようなつくりだが、こちらはちゃんと段階を踏んで丁寧に説明している。
 最初に「なぜAはFになったのか?」というテーマが提示されて、
「AはBでありCです。BだからDになります。またBはEももたらします。DとEにCが加わることで、AはFになったのです」
と、一見関係なさそうな事柄が最後に答えに収束する。あちこち迂回するけど、最後は目的地にたどり着く。一見寄り道にしかおもえないルートが意外な近道だった、といいう感じだ。

 ところが『すいエンサー』は、
「Aをするにはどうしたらいいか?」を説明するために
「関係ないけどBをしてみましょう。Cもしてみましょう。Dもしましょう。Eもしましょう。ではここで答えを発表します。AをするにはFをするといいのです!」
みたいな説明をする。途中がまったくの無駄なのだ。最初の1分と最後の1分だけ観ればすべてが理解できる。
 無理やり車に乗せられて長時間あちこち連れまわされたあげく、最終的にスタート地点のすぐ隣に連れていかれるようなものだ。『青い鳥』か!
 ちなみに『ためしてガッテン』も同じようなつくりだ。NHKの情報バラエティはこの手の時間稼ぎが多い。受信料が余ってるのかな。

 そんなに嫌いなら『すいエンサー』を観なきゃいいじゃんとおもうかもしれないが、我が家ではEテレをつけっぱなしにしていることが多く、『すいエンサー』は一度見はじめると最初に問いが提示されるので「あーもう無駄だー。さっさと答えを教えろよー。こっちは答えだけ聞ければいいんだよー」と言いながらついつい最後まで観てしまうのだ。




 話がそれたが、『すいエンサー』の2021/2/16放送で
「秘伝の味を大公開!一度は食べたい“特別な”お茶漬け」
という企画をやっていた。

 おいしいお茶漬けのレシピ、ちょっとした工夫でお茶漬けをおいしくする方法が紹介されていた。

 ごはんをおこげにしたり、お茶に出汁を加えたり、タレに漬けた刺身を乗せたり、ニンニクを入れたり、バターを溶かしたりしていた。

すいエンサーブログ
https://www.nhk.or.jp/suiensaa-blog/koremade/443705.html
より

 お茶漬けを愛するぼくは、それを観ていて叫んだ。


 あーもう!

 ぜんぜんわかってない!

 お茶漬けってそういうんじゃないんだよ!!


 お茶漬けを食べたいときって、「まだ食べたことのないようなうまいものを食べたい!」って気分じゃないんだよ!
「手間ひまかけてうまいものつくるぞ!」って気分じゃないんだよ!


 お茶漬けを食べたいときの気持ちは決まってる。
「今日はもうお茶漬けでいっか」 
 これだけ!


 うまいものなんか食べたくないの。ニンニクとかバターとかレモンとか論外。だいたいなんだよタレに漬けこんだ刺身って。そんなもんうまいに決まってるじゃねえか。どこがスゴ技だ。

 そういうのはさ、レストランとかパーティーとかの〝ハレの日〟の料理でやれよ。

 お茶漬けってのはそういう料理じゃないんだよ。


 お茶漬けに求めるのは

「とにかく手間がかからない」

「いつもの味」

 これだけ!!



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オイスターソース炒めには気を付けろ/土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』【読書感想エッセイ】

2021年2月22日月曜日

【読書感想文】進化は知恵の結果じゃない / 稲垣 栄洋『弱者の戦略』

弱者の戦略

稲垣 栄洋

内容(e-honより)
海洋全蒸発や全球凍結など、環境が激変しても、地球上の数多くの生命はしぶとく生き残り続けてきた。そして今でも、強者ではない動植物などはあらゆる方法で進化し続けている。群れる、メスを装う、他者に化ける、動かない、ゆっくり動く、くっつく、目立つ、時間をずらす、早死にするなど、ニッチを求めた弱者の驚くべき生存戦略の数々。


 決して強者ではない生物たちが生存のためにどのような戦略をとっているかを紹介した本。
 個々のエピソードはおもしろいのだが、ただひたすら「この動物はこうやって敵から身を守っています」「この植物はこうやって繁殖しています」というエピソードが続くので、びっくり生き物生態事典感が否めない。
 最近児童書コーナーに行くと「変な生きもの」みたいな本がたくさん並んでいるが、それをちょっとだけ大人向けにした本、という印象。  

 

 あと気になったのは、書き方が不正確なこと。
「この生物は生き残るために〇〇という戦略を立てた。知恵を使って生き残るための努力をしているのだ」なんてことが平気で書いてある。

 あたりまえだが、生物が進化したのは生き残るためではない。たまたま生き残ったものがいて、それが増えた結果進化と呼ばれるようになっただけだ。

 当然、著者も知っているはずだ。進化は無目的に起こる(自然選択説)と。
 だが、くりかえし「生物が先のことを考えて生き残る方法が高い方法を考えだした」といった表現が語られる。話をわかりやすくするためかもしれないが、これはいただけない。わかりやすくすることは大切だが、嘘をついてはいけない。




 著者の専門は雑草生態学だそうだ。なので雑草の話はおもしろい。

 よく「雑草のようにたくましく」という言い方をする。抜いても抜いても生えてくる雑草には、強い植物というイメージがある。ところが、植物の世界では雑草は強い植物であるとはされていない。むしろ、雑草は「弱い植物である」と言われている。
 これは、どういうことなのだろうか。
 植物は、光や水を奪い合い、生育場所を争って、激しく競争を繰り広げている。雑草はそのような植物間の競争に弱い。そのため、たくさんの植物が生い茂るような深い森の中には、雑草と呼ばれる植物群は生えることができないのである。
 そこで雑草は、他の植物が生えることのできないような場所を選んで生息している。それが、よく踏まれる道ばたや、草取りが頻繁に行われる畑の中だったのである。
 庭の草むしりに悩まされている方も多いだろう。残念ながら抜いても抜いても生えてくる雑草を完全に防ぐ方法はない。ただ雑草をなくす唯一の方法があるとすれば、それは「草取りをやめること」であると言われている。
 草取りをしなくなれば、競争に強い植物が次々と芽を出して、やがて雑草を駆逐してしまう。そのため、草取りをやめれば、雑草と呼ばれる植物はなくなってしまうのである。もっとも、雑草がなくなった代わりに、そこには大きな植物が生い茂って群雄割拠の深い藪になってしまうから、もっとやっかいである。

 なるほど。雑草ってぜんぜん強くないのか。

 たしかに森や山の中とかだと、丈の短い草はあまり多くない。大きな樹や草に負けて光や水を手に入れられないからなんだね。

 雑草は我々が目にすることが多いからどこにでも生えるような気がするけど、逆に人間の生活の場(植物が生えにくい場所)でしか生きられない。カラスやハトといっしょだね。




 外来種が日本ではびこるのも、似たようなことらしい。
 日本の在来種だった日本タンポポはいまや絶滅寸前で、我々が目にするのは西洋タンポポばかり。「外来種のほうが生命力が強いからだ」なんていうけど、本来なら日本では日本タンポポのほうが強いはず。なぜなら日本タンポポは日本の里山という環境に特化して進化した植物だから。

 それでは、どうして私たちのまわりで西洋タンポポが増えているのだろうか。
 西洋タンポポが生えるのは、道ばたや街中の公園など、新たに造成された場所である。このような場所は、土木工事によって日本タンポポが生えていたような自然は破壊されている。こうして大きな変化が起こり、空白となったニッチに西洋タンポポが侵入するのである。
 よく、西洋タンポポが日本タンポポを駆逐しているように言われるが、日本タンポポの生息場所を奪っているのは、人間なのである。
 西洋タンポポ以外にも、外国からやってくる外来雑草の多くは、人間がもともとあった自然を破壊してできた新たな場所にニッチを求める。そのため、埋立地や造成地、公園、新興住宅地、道路の法面、河川敷などを棲みかとしているのだ。
 外来雑草も、祖国の環境と異なる日本という新天地では、アウェイの不利な戦いを強いられた弱い存在である。そんな弱い外来雑草が増えているということは、私たちがそれだけ自然界に大きな変化を起こし、外来雑草にチャンスを与えているということなのである。

 手つかずの自然が残っている状態では、先住者のほうが強い。にもかかわらず外来種が駆逐されないのは、人間が新しい環境を生みだしているから。

 外来種は敵視されるけど、在来種にとって本当の敵は人間なんだね。よしっ、絶滅させよう(過激派)。




 ヒメマス、ヤマメ、アマゴ、イワナはみんなサケなんだそうだ。知らなかった。

 川で育ったオスは小さい。あまりに小さすぎて別の魚に見えるくらいである。たとえば、ベニザケの川にとどまったものはヒメマスと呼ばれる。まったく別の魚のように呼ばれているのである。また、川魚のヤマメはサクラマスの川にとどまったものである。アマゴは、サツキマスの川にとどまったものであるし、イワナはアメマスの川にとどまったものである。このように川にとどまったタイプは、海に下ったタイプと似ても似つかない姿になるのである。
 海から川に遡上した大きなメスに、小さなオスが近づいても、まるで別の種類の魚であるかのようなので、大きなオスはあまり気にしない。
 魚は体外受精なので、交尾をするのではなく、メスが産んだ卵にオスが精子を掛けるという受精方法である。そのため、ペアにならなくてもメスの卵に精子だけ掛けることができればいい。そこで、小さなオスは、大きなオスと大きなメスがペアになっているところにそっと近づき、大きなメスが卵を産んだ瞬間に素早く精子を掛けて受精させてしまうのである。

 出世魚は成長の段階によって呼び名がきまるが、こっちは選んだ進路によって呼び名が変わるのだ。

 自衛官や警察官が、入隊する前の経歴によってぜんぜん違う道を進むようなもんだね。防衛大学校や国家公務員試験を経て隊員がベニザケで、ノンキャリア組がヒメマスみたいなもの。

 しかしキャリア組が必ずノンキャリア組より成功した人生を送れるわけではないのとおなじように、サケも海に行った方が必ず成功するとはかぎらない。当然ながら海に行けば命を落とす危険性も高いし、川に残ったオスのほうが繁殖に成功するかもしれない。

 ここに書いてあるように「大きいオスの隙を見て精子をかける」の他に、「メスそっくりな見た目になったオスが警戒させることなく近づいてこっそり精子をかける」なんて戦略もあるそうだ。すごい。

 考えてみれば、みんなが海に行ってしまったら河口や海の汚染といった環境の変化があると全滅してしまうわけで、種の保存という観点でいえば海に行くやつと川に残るやつにわかれたほうがリスク分散になる。

 つくづくよく考えられたものだ、じゃなかった、たまたまうまく進化したものだ。


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2021年2月19日金曜日

ボードゲームスペース初体験

 はじめてボードゲームカフェに行った。

 ボードゲームカフェっていうか、正確にはボードゲームスペース。飲み物とか出ないので。その代わり持ち込み自由。場所代さえ払えば好きなだけボードゲームができる。

 娘の友人家族と行ったので、ぼくを含め大人ふたり、7歳ふたり、5歳ひとり。

 スタッフに「5歳でも楽しめるようなゲーム教えてください」とお願いして、以下六つのゲームをやった。



1.『ザ・マインド』


 1~99の数字が書かれたカードがあり、プレイヤーごとに何枚かずつ配られる。
 他人のカードはわからない。プレイヤー同士で相談することなく、小さい順にカードを出すことができればクリア。

 たとえば5人いて、自分のカードが15であれば「1番か2番目だろうな」と予想する。でも他の人が出したそうなそぶりをしていたら、「あの人はきっと1桁だろう」と予想して出すのをやめる……といった感じ。

 ほんとは一切の相談をしてはいけないとのことだが、それだとむずかしいので「少なめ」「今出てるカードにけっこう近い」みたいなことは言ってもいいこととした。

 これは盛り上がった。全員で協力してクリアをめざすので、クリアできたときは一体感が得られる。しかし反面、失敗したときは責任のなすりつけあいみたいになるというデメリットもある。



2.『サメポリー』


 東京国際サメ映画祭で生まれたというボードゲーム。
 基本はモノポリーだが、プレイヤーが持つのはお金ではなく市民。そして盤面をサメがぐるぐる回っていて、サメに追いつかれたり、サメが自分の保有する都市に止まったりするたびに市民が食べられる。

 本来4人まででプレイするゲームらしいが、ぼくらは5人でやった。そのせいもあって、サメの進行がとにかく速い(プレイヤー数が多くなるほどサメは速くなる)。だからどんどん市民が食べられる。市民が増える速度を食べられる速度が大きく上回っている。

 というわけで、プレイしていてストレスフルだった。ふつうのモノポリーだと「いいこと」と「悪いこと」が半々ぐらいで起こるが、サメポリーは2:8ぐらいで悪いことのほうが多い。イヤな気持ちになるゲームだった。子どもからも不評。


3.『キャプテン・リノ』

 ジェンガのようなバランスゲーム。家をどんどん高くしていって、くずれたら負けというシンプルなルール。

 だがUNOのように「スキップ」「リバース」「カードを2枚出せる」「次のプレイヤーの難易度を上げる」といったカードがあるので、戦略も重要になる。

 わかりやすくて盛り上がるゲーム。


4.『おばけキャッチ』

 5つの駒(白いお化け、グレーのネズミ、青い本、緑のビン、赤い椅子)をスピーディーにとりあうゲーム。

 駒をとってもよい条件はふたつ。

① 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれている場合、その駒をとる。

② 出されたカードに「色とモノが同じもの」が書かれていない場合、色もモノも異なる駒をとる。たとえば青いお化けと赤いネズミが書かれていれば、青でも赤でもお化けでもネズミでもないもの(=緑のビン)をとる。

 スピード勝負なので盛りあがるが、頭をフル回転させなくてはいけないのですごく疲れる。「2種類のルールのどちらが適用されるかを瞬時に判断する」+「②の場合はないものを探す」というのはかなり大変だ。


5.『クラッシュアイスゲーム』

 これまたジェンガのようなバランスゲーム。ルーレットによって指定された色の氷を壊していき、ペンギンが落ちたら負け。

 これはとにかくわかりやすい。小さい子でもすんなり飲みこめた。

 あと1ゲーム3分ぐらいで終わるのもいい。長時間かかるゲームは小さい子の集中力がもたないんだよね。


6.『デジャブ』


 神経衰弱+カルタのようなゲーム。
 めくったカードに描かれているものを取るのだが、ポイントは「2回目に出てきたら取る」というルール。

「これもう出たっけ?」と考えながら取らないといけない。出ていないものを取ると失格、という厳しいルールなのでどうしても慎重になる。

 さらにこのゲームを2回、3回とくりかえすと、「これ出たのって今回だっけ? 前回だっけ?」という迷いも生じる。案外初心者のほうが有利かもしれない。

 はじめてやったときにみんな強気でがんがん攻めてたら次々に失格になり、ほとんど取らなかった人が優勝という漁夫の利展開になった。


 ボードゲームスペースのおにいさんがお勧めしてくれたものだけあって、どれもわいわいと楽しめるゲームばかりだった(サメポリーだけは不評だったが)。


 しかし、他にお客さんはいなくて我々の貸切状態。
 子どもは無料とのことで、3時間弱遊んで、全部で2,400円(大人ひとりあたり1,200円)。
 安いのはいいんだけど、これでやっていけるのか不安になる。
 1時間で800円の売上。ここから家賃や光熱費を引いたらいくらも残らないだろう。スタッフは2人いたが、どう考えても彼らの給料は捻出できない。
 仮に満員になったとしても赤字になるぐらい。他人事ながら心配になる。趣味でやっているのか? それともボードゲームスペースというのは表の姿で、深夜になると違法カジノになるのか……?