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2023年5月9日火曜日

歯医者の金づる

 冷たいものを飲むと奥歯が痛む。虫歯だ。

 こわいものみたさというか、いたいもの味わいたさで、何度もやってしまう。べつに飲みたくもないのに奥歯のずきずきを味わうために冷たいお茶を飲んでしまう。

 奥歯の痛みをじっくり観察してみる。

 ふつうに飲んだら痛くない。奥歯のある位置に冷たいお茶を流すと痛む。ということは、口に含んだ液体は口いっぱいに広がるわけではなく、口の奥のほうには届いていないことがわかる。

 また、冷たいお茶を口の中央部に溜めておいて、少しぬるくしてから奥へと流すと痛くない。

 冷たいのは痛い、ぬるいのは平気、だったら熱いのはどうだろうとわざわざ熱いお茶を沸かして飲んでみた。うーん、ちょっとだけ痛い。でも冷たいお茶にくらべたらぜんぜん。

 以上のことから、虫歯が痛むのは

  冷たいお茶 > 熱いお茶 > ぬるいお茶 = 何も飲まない状態

 だということがわかりました。


 自由研究はそのへんにして、歯医者に行く。

 いつも行っている歯医者で予約がとれなかったので、自宅近くのH歯科に行ってみることにする。Googleマップで口コミを見ると高評価だ。「説明が丁寧」というコメントが多い。

 行ってみると、なるほど、しっかり説明してくれる。

 あなたの歯はこういう状態です、放っておくとこうなります、ですからこれから治療をしていきます、治療には5回ほど通院が必要です、最初は○○をして次の週は○○を……と事細かに説明してくれる。

 これはいい。改めて考えると、歯医者と接骨院や整体院ってぜんぜん説明してくれない上に、やたらと長期にわたって通わせようとしてくるんだよね。たとえばちょっとした風邪で内科に行った場合は1回で済むのに、歯医者や整骨院は何回も通わされる。しかるべき理由があるのかもしれないけど、患者に説明してくれないのでどうも「何度も通って金を落とす金づる」扱いされてるんじゃないかという気になってしまう。

 ちゃんと説明してくれるなんていい歯医者だなとおもったのだが、ふと見ると診察室の壁に「Google口コミを投稿してくれたら500円相当のメンテナンスグッズをプレゼント!」と貼り紙がある。

 なんだかだまされた気分だ。

 じっさいいい印象を持っていたのに、プレゼントで釣って口コミを書かせる歯医者だとわかったとたんにその印象が弱まってしまった。ぼくが「説明が丁寧でいい歯医者だ」とおもった印象までもが、まるで誰かに操作されていたかのような気になってしまう。


 それはそうと、それから毎週H歯科に通った。

 歯を削ったり、薬を詰めたり、仮の蓋をつけたり、翌週にはまたそれを外したり、かぶせものの型をとったり……。

 で、行くたびに請求される料金がちがう。やることがちがうからなんだろうけど、1,500円ぐらいの日もあれば、6,000円請求されたこともある。6,000円っていうのはちょっと油断ならぬ額だぞ。タイミングが悪ければ財布にないことだってある。クレジットカードも使えないし。先に言っといてほしいな。

 で、先週には「次回がいよいよ最後になります。お会計10,000円ぐらいになりますので準備しておいてください」と前もって言われた。前もって言ってくれるのはありがたいが、それだったら全5回の4回目に予告するんじゃなくて、1回目のときに言ったほうが良くないか? だってトータルで20,000円以上かかるんだぜ。人によっては「だったら治療やめます」ってこともありうる額だ。

 それを、歯を削って、仮の蓋をして、かぶせものの型をとって、もう後戻りできない状態になってから「ラストは10,000円!」っていうのはずるくないか? まるでディアゴスティーニじゃないか。


 さらに、次が全5回の治療のいよいよ最後ってときになって、今度は反対側の奥歯が痛みだした。冷たいお茶が染みる。

 さては……。

 患者が治療を終えて離れてゆかないように、歯科医が反対側の奥歯に虫歯菌をしこんだのでは……!?


 やはり「何度も通って金を落とす金づる」扱いされてるんじゃないかというおもいが拭えない。


2023年4月28日金曜日

演技中に手を叩くな

 一年ぐらい前、娘のバレエの発表会があった。

 失敗もなく無事に終えて控室から出てきた娘を出迎えると、娘が泣いている。

 理由を問うと「拍手がなかったから」とのこと。

 ん? お客さんはみんな拍手してたけど?


 話を聞き出すと、どうやらこういうことらしい。

 素人バレエの発表会なので、観にきているのはほぼ全員出演者の身内である。たいていはバレエに関してはずぶの素人。

 素人の客が拍手をするのは、大きく以下のみっつ。

「演者が登場したとき」「演者が踊りおわったとき」「演者がくるくる回ったとき」だ。

 前のふたつは何の問題もない。コンサートでも落語でも漫才でも講演会でも、たいてい登場したときと演技を終えたときは拍手をするものだ。

 問題は「演者がくるくる回ったとき」。

 なぜか、けっこうな数の観客が演者が回ったときだけ拍手をするのだ。


 娘の踊りにはくるくる回る振り付けがなかった。だから、踊っている最中には拍手がなかった。

 でも他の子はくるくる回るシーンがあったので、踊りの最中に拍手が生じていた。

 だから娘は「他の子は踊っているときに拍手があったのに自分のときはなかった。自分の演技が下手だったからだ」とおもって泣いたらしい。


 なんじゃそりゃ……。

 そこでぼくは娘に言った。

「くるくる回ってるときに拍手をしてる客はバカなんだよ。バレエのバの字も知らないの。だからどれがすごい技かとか、どのダンスが美しいかなんてちっともわからないの。でもくるくる回ってるのを見たら反射的に手を叩いちゃうの。犬が食べ物をみたらよだれを垂らすのといっしょ。何にも考えてない。あれはよだれといっしょだからもらっても何にもいいことない」

と。

 それで一応娘は納得してくれた様子だった。不承不承という感じではあったが。


 しかしなんなんだろうね、くるくる回ったら手を叩くやつ。フィギュアスケートの会場にもたくさんいる。ジャンプしたときとくるくる回ったときだけ手を叩くやつ。組み込まれてるのか? ジャンプとくるくるを見たら手を叩く遺伝子が。

 そもそもぼくはスポーツ以外の「演技中の拍手」反対派だ。落語や漫才や芝居や音楽やバレエの演技中に手を叩かれたら、演者の表現が聞こえづらくなる。他の観客のじゃまでしかない。「演技中の拍手」と映画泥棒は入場禁止にしてほしい。

 反射的に手を叩くのは蚊の羽音が聞こえたときだけにしてほしい。


2023年4月25日火曜日

【読書感想文】麻宮ゆり子『世話を焼かない四人の女』 / 自由に生きられる生きづらさ

 世話を焼かない四人の女

麻宮ゆり子

内容(e-honより)
住宅メーカーの総務部長を務め、土曜夜は会社に内緒の別の顔を持つ水元闘子。宅配便のドライバーをしている元ソフトボール選手の榎本千晴。鋭敏過ぎる感覚を持ち、ドイツパン作りに情熱を燃やす石井日和。女と逃げた夫の小さな清掃会社を育て上げた会沢ひと美。仕事の悩みや将来への不安に揺れる四人の女たちが踏み出す一歩。読めばすっと心が軽くなる連作短編集!


 著者のデビュー作『敬語で旅する四人の男』が、デビュー作とはおもえないほどいい小説だったので、似たタイトルの『世話を焼かない四人の女』も読んでみた。

 ふむ、こちらも悪くない。めちゃくちゃおもしろかった! というほどでもないけど、ゆっくり身体に染みわたってゆく味噌汁のような小説。


『敬語で旅する四人の男』の登場人物のひとりであった斎木くんが登場するのもうれしい。四篇ともに登場して、『世話を焼かない四人の女』というタイトルでありながら真の主人公は斎木くんかもしれない。

 自閉症スペクトラム障害で他人の気持ちをまるで理解できない斎木くんが、今回も物語を動かす上でいいアクセントになっている。男性以上に「他人に気を遣うこと」が求められる女性だからこそ、まるで気を遣わない斎木くんに良くも悪くも刺激をもらうのだろう。

 まあこれは小説だからであって、実際に斎木くんがいたら嫌われ避けられるだけだろうけど(斎木くんが超美形という設定はずるいとおもう)。




 離婚歴があり、会社では身だしなみをとりつくろうことをやめた女の『ありのままの女』、愛想がないと言われるセールスドライバーの『愛想笑いをしない女』、感覚が鋭敏すぎるがゆえの悩みを抱える『異能の女』、主婦をやっていたのに夫の失踪を機に社長をやることになった『普通の女』の四篇を収録。

 主人公となる女たちは、それぞれ「女だから部下から反発される」「女だからなめられる」「女だから男以上に愛嬌を求められる」という生きづらさを抱えている(『異能の女』の主人公の生きづらさはあんまり性別と関係ないけど。敏感すぎる人はむしろ男のほうが生きづらいとおもう)。

 きっと多かれ少なかれ、現代日本で働く女性たちが抱える悩みなのだろう。


 近代以降の女性の社会進出の歴史を探った斎藤 美奈子『モダンガール論』を読んだときにおもった。女性が生きづらいのって、選択肢が多すぎるからなんじゃないかって。

 どういうことかというと、この百年で女性の社会進出は飛躍的に進んだ。もちろんまだまだ差別は残っているけど、それでも百年前に比べれば天と地の差だ。

「女に教育なんて必要ない!」の時代から「良妻賢母」の時代となり(今では想像しにくいが良妻賢母は女性に教育・就職の機会を増やすための思想だった)、戦争で男手が不足したことにより女性の社会進出を経て、戦後は少しずつ働く女性が増えていった。今では、結婚・出産後も働く女性も、資格職について高給を稼ぐ女性も、社長となる女性もめずらしくない。様々な生き方が選べるようになった。つまり選択肢が増えた。

 その結果、女性は生きやすくなったのだろうか。「女は高校か短大を出たら数年腰かけOLをして寿退社して専業主婦」の時代よりも生きるのが楽になったのだろうか。

 決してそんなことはないだろう。「生きやすさ」を比べる指標はないけれど、平均をとればひょっとしたら生きづらくなっているかもしれない。

 だとすると、それは「他の選択肢がある」ことに由来するんじゃないだろうか。あるいは「他の選択肢があるとおもわれていること」か。

「専業主婦/兼業主婦」の道もあるとおもわれるから、仕事でもなめられる、給与も上がらない、昇進しにくい。また「他の生き方もあったのでは」とおもうからこそ隣の花が赤く見え、悩み苦しむ。

 なんだかんだいっても男の道は狭い。主夫になる人はごくわずか。「仕事をせずに生きていく」「短時間労働で生きていく」という選択肢はないに等しい。それはそれでしんどい面もあるけれど、仕事に慣れてさえしまえば意外と楽だ。ぼくは無職だった頃よりサラリーマンになってからのほうがずっと楽に生きている。


「いろんな生き方をしていいんですよ」「自分らしく生きましょう」という言葉は美しいけど、決して人を楽にしてくれるわけじゃないよね。ほとんどの人にとっては「あんたにとっての幸せはこれ! こう生きなさい!」と誰かに決めてもらったほうがずっと楽に生きられるんだろうね。

 だからといって今さら時計の針を巻き戻すことはできないんだけど。


【関連記事】

【読書感想文】麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』 / 知人以上友だち未満



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2023年4月17日月曜日

おためごかしの嘘

  人並みに嘘を憎んでいて人並み以上にほらを吹くぼくだが、嫌いな嘘がある。

 それは「おためごかしの嘘」だ。

 あんたのためにやっていることなんですよ、という嘘だ。


 具体例を書こう。

 テーマパークやスタジアムにおける「飲食物の持ち込みは、食中毒などのおそれがあることから禁止とさせていただいております」、おまえのことだ。


 嘘つけー!!!!



 いやいや。どう考えてもほんとの理由は「こっちは相場より高い値段で飲食物を提供して儲けたろうとおもってんのに持ち込みされたらかなんわ」だろ。


 ことわっておくが、持ち込み禁止自体に不服があるわけではない。公共施設とかならともかく、民間団体が営利目的で運営している施設であれば、儲けるためのシステムをつくるのは当然だ。

 相場より高いのも、その割に量が少なくて出来あいの料理でおいしくないことも、ある程度はしかたないとおもっている。テーマパークやスタジアムに安くてうまい飯なんてはなから期待していない。

 気に食わないのは、「お客様のためをおもって禁止にさせていただいているのです」という態度だ。

「金儲けのためって言えばあんたらはケチやから文句言うんでっしゃろ。せやからあんたがたの健康を守るためっていう理由にしてるんですわ」という、客をなめきった姿勢が気に入らない。

 おまえらの魂胆なんか見え見えなんじゃい!


 増税もさ、福利厚生充実のためとか「あなたたちのためにやってあげてるんです」みたいな言い訳するんじゃなくて、「今年度苦しいんですわ。もう火の車で」みたいに本音を吐露してくれよ! ……だとしてもイヤだけど!



2023年4月13日木曜日

スポーツのずるさ

 スポーツはずるい。

 なにがずるいって、ずるさを認めないところがずるい。


 たとえば、野球の盗塁。

 世界で最初に盗塁がおこなわれたとき、ぜったいに物議をかもしたとおもうんだよね。

「おいおい、何勝手に2塁に走ってるんだよ。戻れよ」

「なんで?」

「なんでって……ずるいだろ、そんなの」

「ルールに書いてあるの? ピッチャーが投げてる間に2塁まで走ったらいけませんって」

「それは書いてないかもしれないけど……。でもわかるだろ、ふつうに考えて」

「おれはふつうに考えて、走っていいとおもったんだけど。文句があるならそれがダメって書かれたルールブック持ってこいよ」

「う……。わかったよ、じゃあいいよ2塁進塁で。その代わりこっちも同じことやってやるからな!」

「ああいいぜ、言っとくけど、2塁に到達する前にボール持った野手にタッチされたらアウトだからな!」

みたいなやりとりがあったはずだ。ぜったい。

 でなきゃ steal(盗む)なんて名前がつけられるはずがない。


 送りバントも、敬遠四球も、変化球も、牽制球も、最初はずる扱いされたにちがいない。かくし球やトリックプレーに関しては言うまでもない。

 これずるくないか? とおもわれつつ、でもルールで明確に禁止されてるわけじゃないからしょうがないか、みたいな感じでしぶしぶ認められたプレーだ。

 野球だけではない。

 サッカーのヘディングだって、バレーボールの時間差攻撃だって、柔道の寝技だって、ボクシングのクリンチだって、最初はずるだったとおもう。でも今ではテクニックとして認められている。


 断っておくが、これはぜんぜん悪いことではない。

 ルールから逸脱しないぎりぎりの範囲で、いかに相手の裏をかくか、相手を騙すか、相手の嫌がることをするか、自分だけが利することをするか。これこそがゲームの醍醐味だ。

 たとえばテーブルゲームの世界で「ルールの範囲内で相手をだます」はまったく悪いことじゃない。むしろ見事なプレーだとして褒められる。

 将棋で「歩をさしだしたのは、桂馬を手に入れるためだったのか。だましたな! ずるいぞ!」とか「王将が逃げざるをえないのをいいことに、王手飛車取りをかけるとは、なんて汚いやり方だ!」なんて責められることはない(ちっちゃい子どもは言うが)。うまく相手をだます人が一流のプレイヤーだ。

 

 テーブルゲームでもスポーツでも、対人ゲームのおもしろさは「相手をいかにうまくだますか」にある。だからだますことはぜんぜん悪くない。ずるくない。

 じゃあスポーツの何がずるいかというと、だましたりしませんみたいな顔をするところだ。

 正々堂々、正面からぶつかります。

 フェアプレーを学ぶことは青少年の健全な発達につながります。

 こういうことを言うところが、ずるい。

 掃除の時間にふざけるやつは、悪いけどずるくはない。先生が見にきたときだけ、ぼくずっとまじめに掃除やってましたよみたいな顔をするやつはずるい。

 スポーツ界がやっているのはまさにそれだ。相手によって「悪い顔」と「いい顔」を使い分けている。これがずるい。

 そんなに正々堂々やりたいなら「右四つからの寄り切りを狙います!」と宣言してから立ちあいなさいよ。「内角低め、カーブ」と宣言してからその通りに投げなさいよ。


 正々堂々やっていると言っていいのは、陸上競技ぐらいのものだろう。四百メートル走も走り高跳びも砲丸投げも十種競技も、相手をあざむくことはない。己の記録を伸ばすことだけが勝利に近づく。そこに「いかに相手をだますか」という視点はまるでない。

 だからほら、陸上競技って見ていてつまらないでしょ?



2023年4月11日火曜日

「夢がない」

「夢がない」について。

 じっさいに耳にしたことはあまりない。多く使われるのはマンガだろうか。ぼくが知ったのは『ドラえもん』だったとおもう。

「宇宙人なんているわけないだろ!」
「夢がないなあ」

みたいな使われ方をする(この後、のび太がドラえもんに頼んで宇宙人をさがす道具を出してもらうことになる)。


 あれはなんで「夢がない」なんだろう。

 正確に言うと、なぜ〝宇宙人やツチノコや雪男や超能力の存在を信じている側〟は「夢がある」で、〝存在を信じていない側〟が「夢がない」になるのか。

 たとえば、誰も成し遂げたことがないこと(宇宙人を発見するとか)を実現させたいと願うのは「夢がある」と言っていいだろう。

 のび太が、宇宙人発見者第一号になりたいと願い、そのために宇宙飛行士を目指すならば「夢がある」と言っていい。

 でも「いるんじゃないかな。何の根拠もないけど、いたほうがおもしろいし。といって見つけるための努力なんかしないけど」というのは「夢がある」とは言わない。それは「夢見がち」だ。

 逆に出木杉くんが「宇宙人はぜったいにいない。一生懸命勉強して宇宙物理学や生物学について研究し、宇宙人がいないことを証明する理論をぼくが見つけるんだ!」と心に誓ったなら、それは立派な夢だ。「夢がある」だ。

 だいたい、宇宙人がいることを証明するより、いないことを証明するほうがずっとむずかしい。フェルマーの最終定理や四色問題など、数学の超難問とされるのはたいてい「ないことを証明せよ」だ。


 だから「夢がない」というのは、何も未発見のものの存在を無条件に信じるとかじゃなくて、仮説に向かって自分がどう取り組むか、で決まるんじゃないでしょうか。藤子・F・不二雄先生。



2023年3月31日金曜日

大阪人の大阪観光だらだら日記

 大阪人だが、小学生三人を連れて大阪観光をしてきた。


 うちは共働きなので、夏休みだ春休みだといっても娘は学童に行かせていた。せっかくの休みなのに毎日学童。しかもコロナ禍のため「弁当はひとりで黙って食べる」「おしゃべり禁止」「室内で遊ぶときはひとりで」など、厳しく対策がとられていた。子どもにとって楽しいはずがない。

 そんなわけで娘にとって夏休みや春休みというのは楽しいものではなく、日々「早く授業はじまらないかなー」とぼやいていた。

 せっかくの休みなのに毎日学童ではかわいそう、たまにはおもいっきり遊ばせてやろう、とおもい、毎年夏休みや春休みには有給休暇をとって「朝から晩までめいっぱい遊ぶ日」をつくることにしている。

 といっても「娘の友だちといっしょにプールに連れていく」とか「ファミレスに連れていって好きなものをおもいっきり食べさせる」とか「いっしょに好きなだけボードゲームをする」とかで、そこまで特別なことをするわけではないのだが。


 さて、今年の春休み。

 京都に住む姪が小学校を卒業したので卒業祝いも兼ねて、長女(9)、姪(12)、甥(8)を連れて大阪観光をすることにした(次女(4)は申し訳ないが保育園に預けた)。

 姉夫婦ともに仕事が忙しく、うちのところ以上に遊びに連れていく時間がないという。そこで「子どもたちだけで大阪までおいで。駅まで迎えに行くから」と言い、大阪を連れまわすことにした。

 聞けば、姪は吉本新喜劇が大好きで毎週録画して観ているという。甥は吉本新喜劇にはあまり興味がないが身体を動かすことが大好きだ。

 そこで、なんばで吉本新喜劇鑑賞 → 天王寺で串カツ → てんしばでボルダリング → 新世界で街歩き というプランを立てた。夢の大阪満喫コースだ。


 というわけで三月某日。長女を連れて日本橋に行き、姪と甥を待つ。

 ちゃんと時間通りに現れる姪と甥。彼らのおむつを取り替えていた叔父としては、おお、あの子らが電車を乗り継いで京都から大阪まで来られるようになったか……と感無量。

 時間まで少し時間があったので周辺をぶらぶら歩いてたこ焼きを食う。こういう大阪らしいこともしとかないとね。

 で、笑いの殿堂なんばグランド花月へ。ここの向かいにあったワッハホールや、かつて存在した心斎橋筋二丁目劇場には行ったことがあったけど、なんばグランド花月はぼくも初めて足を踏み入れる。立派な劇場だなあ。

 まずは漫才。出番は、囲碁将棋、ぼる塾、ゆにばーす、2丁拳銃、まるむし商店、大木こだま・ひびき、プラスマイナス。

 さすが、みんなおもしろい(まるむし商店は滑舌が衰えていて聞き取れない箇所が多かったが)。テレビで観るのとはちがい、観客にアンケートをとったり、拍手を要求したりして盛り上げてくれる。舞台上と客席との一体感。これぞライブの楽しさ。

 中でも出色だったのは2丁拳銃。この日いちばん笑いをとっていたし、小学生たちも笑いころげていた。老若男女を笑わせるすばらしい漫才だった。絵描き歌や童謡などわかりやすい題材だったから、というのもあるんだろうけど。

 童謡ネタ部分については二十年以上前からやっているネタだけど、今観ても同じように笑える。やはり2丁拳銃は漫才師なのだ。彼らが東京へ行かずにずっと大阪で漫才を続けていたら今頃大阪を代表する大漫才師になっていたのかもしれないな……と実現しなかった未来について想像してしまう。


 漫才の後は新喜劇。こちらもおもしろかった。子どもたちも大笑い。漫才よりもコントのほうが子どもにはわかりやすいよね。

 ぼくが感心したのは内場勝則さんの動き。ずっとキビキビ動いていて、遠くから見ても動きがわかりやすい。自分がメインのときだけでなく、他の出演者が話したりボケたりしているときもずっとキレのある動きをしていた。さすがはベテラン。舞台人だなあ。

 こういうのはテレビではわからないので、内場さんの動きの良さを発見できただけでも観にきた甲斐があった。


 劇場を出て、天王寺へ。串カツを食う。某・テーブルに油があって串カツを自分で揚げられるチェーン店だ。本格的な串カツ屋より、子どもにはこっちのほうがいいのだ。チョコレートフォンデュやソフトクリームも食べ放題だからね!

 食後はてんしば(天王寺公園)のPANZAへ。ここでボルダリングに挑戦。三人とも、本格的なボルダリングはほぼ初挑戦。ぼくは十年ぐらい前にやったことがあるが、そのときは生身で登るものでせいぜい三メートルぐらい。今回は命綱をつけて登るので、七~八メートルはあるだろうか。いちばん上まで行くと二階建て住宅の屋根ぐらいの高さになる。

 子どもたちははじめてのボルダリングなのでおそるおそる登ってゆく。こわい、こわいと言いながら中ほどでリタイア。

 どれ、おっさんがお手本を見せてやろうと壁にしがみつくと、ふくらはぎに嫌な感覚。やばい、脚がつりそう。若くないんだからちゃんとストレッチするべきだった。

 それでもなんとかしがみつくが、壁がぬるぬるすべる。前の人の汗が残っているのだ。こえー。以前にボルダリングをやったとき、近くにいた女性がおりるのに失敗して膝を強打し救急車で運ばれていたことをおもいだす。とにかく怪我だけは避けたい。

 ということでぼくも八分目でリタイア。体力や握力の衰え以上に、「八分目までいったけど万一怪我をしたらいやだからリタイア」という選択をするようになった自分に年齢を感じる。

 子どもたちは徐々に慣れてきて、すいすい登るように。たまたま最初に登ったのがむずかしいコースだったようで、他のコースはわりとクリアしていく。特に八歳の甥はサルのように身軽で、ぱっと壁にとりつくとひょいひょいひょい、っと登ってゆく。いけるかいけないかギリギリ、みたいなところでも退却という選択をせずに果敢に上を目指すところが若さだ。見ているとはらはらするが。

 ぼくは数回登っただけで、あとはカメラマンに専念。おっさんなので自分がやるよりも子どもの撮影をするほうが楽しいのだ。


 ボルダリングの後は、芝生で休憩をして、新世界へ。そろそろ子どもたちを帰らせないといけないので、ぶらぶら歩いて射的だけさせる。

 新世界は観光客向けの店が多く、飲食店以外にも、ゲームセンター、射的、弓道体験、輪投げなどいろんな遊技場がある。姪は「なんかお祭りみたいやなー」と物めずらしそうにきょろきょろしている。「ここは一年中こんな感じやで」と教えると「一年中お祭りやってるなんてすごい!!」と目を輝かせていた。

 そうかそうか、と連れてきたおっちゃんとしても満足そうに歩いていたのだが、ふと姪が顔をしかめて「そういや大阪ってタバコ吸う人めちゃめちゃ多いな」と漏らした。

 いや、このあたりが特にそういうところなのであって、決して大阪全体がそういう街ではないんだよ……と言い訳がましく説明する叔父さんなのであった。


〝そういうところ〟を歩く子どもたち


2023年3月28日火曜日

本人が言うんだからまちがいない

「本人が言うんだからまちがいない」について。


 たとえば小説家Aの作品について、読者や評論家が議論を交わしている。これは○○を暗喩している、いやこれは××のモチーフだ、と。

 そこへ、当の作者A本人がやってきて言う。
「いやこれは△△だ。本人が言うんだからまちがいない!」


 すると、他の人たちは黙らざるをえない。誰よりもよく知ってる作者本人が言ってるんだからまちがいないよね、と。

 だが、はたしてそうだろうか。

「本人が言うんだからまちがいない」はまちがいないのだろうか。


 ぼくはそうはおもわない。むしろ、本人ほど信用ならないものはない。

 作者本人は、自分にとって都合のよい証言をするに決まってる。

「それはなーんも考えずに書いたんだよね。そしたら評論家たちが勝手に深い意味を見いだしてくれたの」

「ここの箇所は、電車の中でたまたま耳にした話をそのまま書いたの。要はパクリ」

なんてことは言わないだろう。


 言ってみれば作者なんてのはいちばんの利害関係者だ。その証言はまったくあてにならない。

 死体が見つかった。その部屋には死体と、Xという人物だけがいた。もちろんXは最有力容疑者だ。

 そのXが「おれは殺したが正当防衛だった。証拠もなければ目撃者もいないが、殺した本人が言うんだからまちがいない」と言った場合、それをそのまま信じますか?


2023年3月24日金曜日

門戸厄神厄払いツアー

 ふと「そういや厄年っていつだっけ?」とおもって調べてみたら、ちょうど今年が前厄だった。

 厄年なんて「この壺を買わないと不幸が訪れますよ」という霊感商法だといっしょだとおもっているが、迷信だとわかっていても「あなたには今年いやなことが起こります」と脅されていい気はしない。

 さりとて厄払いに行くのも、まんまと霊感商法に騙されるようで気に食わない。

 ……そうだ! いい案をおもいついた。

 「悪いことが起こらないように」という気持ちで行くから不愉快なのだ。いっそのことイベントとして厄払いを楽しめばいい。成人式と同じように、一生に一度のイベントとして厄年を楽しむのだ!


 ということで、さっそく高校時代の友人たちに『厄年が行く! 厄払いツアー』をやろうぜと声をかけた。

 ぼくは早生まれなので同級生たちの多くは本厄。訊くと、誰もまだ厄払いをしていないそうだ。信仰心のない連中どもめ。ひとのことは言えないが。

 というわけで、四十歳のおじさん三人が参加に名乗りを上げた。ぼくを入れて四十が四人。ううむ、縁起が悪い。これでこそ厄払いにふさわしい。

 行き先は兵庫県西宮市の門戸厄神。ここには東光寺という寺があり、なんとあらゆる災厄を打ち払う厄神明王がいるらしい。あらゆる災厄を。すごい。日本屈指の厄除けのメッカだ(寺を別の宗教の聖地で例えるというたいへん不謹慎な比喩)。


 かくして某月某日、高校の同級生四人(+その子どもたち)が門戸厄神に集まった。門戸厄神のホームページには節分までに厄払いを済ませましょうと書いてあったが、それは見なかったことにした。

 阪急門戸厄神駅から住宅街を歩いていくと、やがて上り坂に変わる。そしてこのあたりから参拝客目当ての屋台の姿が目に付く。チョコバナナ、からあげ、ベビーカステラなどの屋台。参拝客も多く、すっかりお祭り気分だ。

 坂をのぼって東光寺へ。「そえごま 五百円」という案内が。そえごまってなんだろうとおもいながら、みんなが買っているので窓口で五百円を払う。すると五十センチくらいの木の札を渡された。ここに名前と数え年、願い事を書くように言われる。厄払いに来たのに厄を払うどころか願い事まで叶えてくれるのか? なんと至れり尽くせり。

そえごま

 そえごまを奉納。すると、あとは先方が燃やすか何かして、いい感じにしてくれるのだそうだ。引き換えにお札を渡される。こいつを玄関に貼っておくといい感じになるのだそうだ。なんだかよくわからないがとにかくいい感じだ。

 あとは煙を頭に浴びたり、御守りを買ったり。せっかくなので賽銭もはずむ(なんと百円!)。ろうそくが一本二十円で売っていたので、これに火をつけて燭台に立てる。やってみてから気づいたが、これをやったら何が起こるのか一切説明がない。よくわからないものに二十円もの金を払ってしまった。これが富裕層だ。

 坂を下りると「厄払い饅頭」なるものを売っていたので買って食う。まったく期待していなかったのだが焼きたての厄払い饅頭はたいへんうまかった。たぶん厄払い饅頭を食うのは人生においてこれが最後だろう。一生に一度の味。

 これにて厄払いは終了。もう一生安泰だ。悠々自適の左団扇生活が約束された。


 隣駅の西宮ガーデンズに移動し、昼食を食い、ついでにパフェも食う。友人Nにいたってはパフェを食った後でビールも飲んでいた。厄払いをしたので暴飲暴食しても大丈夫なのだ。ありがとう厄神さん、いい薬です。


2023年3月16日木曜日

白米食堂

 ぼくはごはん、つまり白米が大好きだ。ベタなギャグだけど、三度の飯よりごはんが好きだ。

 そんなぼくが、出現を待ち望んでいる店がある。

「白米食堂」だ。


 とにかくごはんにこだわった食堂。おいしいお米を、職人が釜で炊いて出してくれる。なんなら高性能の炊飯器でもいい。最近の炊飯器はすごいから。いろんな品種のお米を選べる店。

 つくるのはごはんだけ。おかずは一切つくらない。

 といってもおかずがないわけではない。おかずはすべて市販の「ごはんのおとも」である。

 海苔、納豆、漬物、ふりかけ、生卵、鮭フレーク、海苔の佃煮、食べるラー油、サバ缶、ちりめんじゃこ、いかなごのくぎ煮、明太子、そぼろ肉、かつおぶし、醤油、味噌……。

 そのへんのスーパーに置いているものばかりだ。とりたててめずらしいものはひとつもない。珍味はあるけど。

 でも、だからこそ、ごはんのおいしさが引き立つ。


 ほら、酒場とかバーであるじゃない。厳選したいろんな種類のお酒を置いてるけど、食べ物は缶詰とかナッツぐらいしか出さない店。

 あれの食堂版。おいしい白飯を食わせることだけに特化した店。


 そういう店がほしい。

 自分ではやりたくない。近所にほしい。誰かがやってほしい。

 誰かやってくんねえかな。わざわざ電車に乗って食べにいくほどではないから、うちの近所で。

 高級食パンブームの後は高級ごはん。どうでしょう。



さよなら週刊朝日

『週刊朝日』が五月で休刊するそうだ。

 一抹の寂しさを感じる。ほんの一抹だけ。


 ぼくは一度も週刊朝日を買ったことがない。母が好きで、毎週買っていたのだ。

 週刊朝日は総合週刊誌としてはかなり硬派な部類で、エロい記事もないし、芸能ニュースだとかゴシップ的な記事も載っていない。政治や社会問題についての記事が多く、かなりハイソ向けの週刊誌だ。週刊誌を読まない人からすると「週刊誌ってぜんぶ下品なんでしょ?」という認識だろうが(まあだいたいあってる)。

 昔は今よりもっと週刊誌が身近だった。病院や銀行の待合室には必ず週刊誌が置いてあった。多いのは『週刊新潮』や『週刊文春』などで、それらはエロい記事やゴシップニュースも載っていた。


 汚い話だが、うちの実家では週刊朝日はトイレで読むものだった。母は週刊朝日を買ってくるとまずトイレに置いていたのだ。手持ち無沙汰なトイレ時間を有意義に過ごす工夫だ。

 だから家族みんなトイレで週刊朝日を読んでいた。編集者たちには申し訳ないが、ぼくにとって週刊朝日はトイレの雑誌だった。

 

 そんなわけで小学生の頃から週刊朝日を読んでいた。

 最初はマンガやイラスト。山科けいすけ『サラリーマン専科』『パパはなんだかわからない』や山藤章二『似顔絵塾』『ブラック・アングル』など。

 そのうち、漫画やイラストのある文章も読むようになる。『デキゴトロジー』、西原理恵子・神足裕司『恨ミシュラン』、ナンシー関『小耳にはさもう』、東海林さだお『あれも食いたいこれも食いたい』。はじめのうちは絵目的で読みはじめたのに、文章もおもしろいことに気づく。大人向けの文章を読むようになったきっかけは週刊朝日からだった。

 そしてぼくが中学生の頃は『ダウンタウンのごっつええ感じ』が学校で大流行している時代。そんなときに松本人志『オフオフ・ダウンタウン』の連載がはじまり、ぼくは「クラスのみんなはテレビでしか知らない松本人志の裏側をぼくだけが知っている」とひそかに優越感を感じていた(この連載は後に『遺書』『松本』として大ベストセラーになる)。ほんと九十年代後半は黄金時代だったなあ。


 連載が良かったから人気があったというより、人気があったから才能が集まる場所になったという感じだろう。今、才気あふれる書き手が週刊誌を選ぶとはおもえないもの(週刊誌側もそれに見合った待遇を用意できないだろうし)。

 週刊朝日の休刊は寂しいけど、「あのときああしていたらこの先何年も続けられていた」みたいな転機はなく、誰がどうやってもこのへんで終わることは時代の必然だったのだろう。


 ところで雑誌が終わることを「休刊」っていうのいいかげんやめねえかな。休刊した雑誌が再開することなんて1%もないんだからさ。つまらない見栄張ってないでちゃんと「廃刊」って言おうぜ。



2023年3月15日水曜日

働きものの保育士

 姉は保育士をやっている。 

 大学で管理栄養士の資格をとって栄養士として保育園で働いていたのだが、保育にも関わりたくなって働きながら保育士の資格もとった。

 栄養士として給食を作り、夕方には手が空くので保育をするのだそうだ。

 弟のぼくが言うのもなんだが、姉はとても働きものだ。栄養士をしつつ、保育士もしつつ、家では家事や子育てもしている。


 昔から行動的な人だった。ぼくなんか一日中家でごろごろしてるのに、姉は常に身体を動かしていないと気が済まない。大学時代は、せっかく実家に帰省したのに朝六時ぐらいに起きて掃除をしたり料理を作ったりしていた。横にいて落ち着かないぐらいの働き者だ。

 ま、それはいい。姉がなまけものだと困ることもあるだろうが、姉が働きもので悪いことはない。


 姉は働きものなので、遅くまで仕事をするし、休みの日にもやれ勉強会だやれ保育サークルのイベントだとかでよく出かけているらしい。もちろん家事もやっている。

 まじめに一生懸命働くのはいいことだ。それはいいのだが、「こういう人が上にいると下の人はたいへんだろうな」とおもう。

 若い保育士さんが働きはじめたら、先輩の保育士が朝早くから遅くまで仕事をして、家にも仕事を持ち帰って、休みの日にも手弁当で保育関連のイベントをやっているとする。

 若い保育士さんが「定時になったらさっさと帰りたいし、自宅では仕事をしたくないし、オンとオフの区別はつけたい」という考えの人であれば(そっちがふつうなんだけど)、姉みたいな先輩保育士がいたらやりづらいだろう。「あんたも同じことをしなさいよ」とはっきり言われなかったとしても、繊細な人であれば無言のプレッシャーは感じるだろう。

 そして、働きもののペースについていけない人は辞めてゆき、ついていける人だけが残る。そうするとますます働きものにあわせた働き方になってしまう。


 保育士は離職率が高いという。女性が多いということもあるが、高くない給与、楽でない仕事、大きな責任もその理由だろう。

 姉のような働きものが給与分以上にどんどん働くのは雇用者からしたらありがたいだろうけど、保育士全体の待遇改善という点でいえばいいことじゃないのかもしれない。

 ま、個人が業界全体のことまで心配することはないから好きにしたらいいんだけど。



2023年3月8日水曜日

大和郡山探訪

 奈良の大和郡山市へ行った。

 金魚すくいとひな人形が有名な町だ。といっても、どちらもつい一週間前に知った。それまで、大和郡山に行ったこともなければ、大和郡山について考えたことすらなかった。


 知人と話していて「子どもがひな人形を出してほしいっていうんですけど、めんどくさいんですよねえ。出すのも面倒だし、出してる間は場所をとるし、片付けるのも面倒だし」とぼやくと、「大和郡山に行けばいろんなおひなさまが見れますよ」と教えてくれた。

 街のあちこちにひな人形が飾られているらしい。それはいい。「おひなさまを観にいくから」という口実で、今年は我が家に飾るのは勘弁してもらおう。


 子どもを連れて、JR郡山駅からぶらぶら歩く。なるほど、駅や商店にひな人形が飾ってある。個人商店だけでなくチェーン店や銀行にもおひなさまを飾っている。大きくて高級そうなものもあれば、とりあえず飾ってますよというような簡易的なものもある。その「しぶしぶ付き合わされている感」もまた、街を挙げてやっているという感じがしていい。驚いたことに、お店でもなんでもない個人宅でも玄関を開放してひな壇を見学できるようにしているところまである。なんの得もないだろうに、えらい。めんどくさいめんどくさいと言ってばかりいる我が身を恥じねばならない。

 そうか、これはクリスマスのようなものだ。クリスマスであればいろんなお店が飾りつけをおこない、個人住宅でも派手に飾りやイルミネーションをつけているところがめずらしくない。大和郡山ではクリスマスの代わりにひなまつりなのだ。


 もうひとつ、大和郡山で有名なのが金魚すくいだ。なんでも郡山市で金魚すくいの全国大会が開かれているらしい。

 入ったカフェに『すくってごらん』という漫画が置いてあり、手に取ると大和郡山を舞台にした金魚すくいマンガだった。マンガの世界も、とにかく新しい題材を探さなくちゃいけないのでたいへんだ。

 ひな人形と同じように、街のいたるところに水槽があり、金魚が泳いでいる。またマンホールや橋の欄干などにも金魚が描かれている。

 とある店の前にも水槽があったのだが、一匹死んでぷっかりと浮いていた。そして他の金魚たちが死体をつついていた。生き物なのでそういうこともある。


 ひな人形と金魚。人を呼ぶ力があるんだかないんだかよくわからないものふたつが名物。まあじっさいぼくたちは足を運んだのだから、集客力はあるんだろう。

 ほどよくのどかな街並みをぶらぶらと歩くのは楽しかったのだが、少々不満だったのは道が狭くて人が歩いている横を車がびゅんびゅん通ってゆくところ。そして都市部以外の地域がたいていそうであるように、歩行者がいても車はおかまいなしなところ。横断歩道でもぜんぜん止まろうとしない。

 地元の人の生活もあるので観光客のための街づくりをしろとまでは言わないが、せっかく人を呼ぶための取り組みをしているのに「街が歩きにくい」というのはなかなか致命的かもしれない。

 帰りに路線図を見ていて気付いたのだが、郡山という駅、一駅北に行けば奈良駅で、二駅南に行けば法隆寺駅である。奈良公園、東大寺、法隆寺というたいへんパワーのある観光地にはさまれているのだから、ここに人を呼ぶのはむずかしいかもしれない。ひな人形と金魚、ニッチなところを攻める戦略は正しそうだ。

近鉄郡山駅にあった半額イルカ。
イルカが半額なのではなくこいつは看板らしい。



2023年3月3日金曜日

本を読まない理由

 そこそこ本を読むほうだ。

「読書が趣味なんですね。月にどれぐらい読むんですか」

「十冊ぐらいですね」

「へーすごい。私はぜんぜん読んでませんね。もっと読みたいんですけど、どうやったらそんなに本を読めるんですか?」

みたいな会話をよくするんだけど、最近気づいた。


 「どうやったら本を読めるんですか」という質問をする人は、「本を読む方法」じゃなくて「本を読まない理由」を探している。


 読まない人は「時間がなくて本が読めない」なんてことを言う。

 嘘だ。

 そりゃあ超大物政治家とか売れっ子タレントとかだったら「仕事と食事と風呂と睡眠と車移動が生活のすべて」みたいなスケジュールを送ってるかもしれないが、ほとんどの人はそんなことはない。

「時間がなくて映画館に行けない」「忙しくて旅行に行けない」ならわかる。映画や旅行はある程度まとまった時間を必要とするから。

 でも本なんていつでもどこでも読める。ぼくは三十秒あれば本を読む。電車の待ち時間、電車の中、飲食店で注文してから、食事をしながら、食後にお茶を飲みながら、仕事で客先訪問して担当者が出てくるまでの時間、着替えをしながら、風呂、寝る前。それぞれ数十秒~ニ十分ぐらいだけど、合計すればそこそこの時間になる。一ヶ月で十冊ぐらいは読める。

 読まない人は、その時間にスマホでゲームをしたり、動画を観たりしている。時間がないわけじゃない。本を読める時間を他のことに使っているだけだ。


 本を読む気のある人は 「どうやったら本を読めるんですか」なんて質問をしない。そんなひまがあったら読んでる。

 読書に限った話ではない。「英語勉強したいなー」とか「体鍛えないとなー」とか「マラソンでもしよっかなー」なんて言う人は、ほんとにやろうとおもってない。なんとかして〝できない理由〟を探しているだけだ。

 

「どうやったら本を読めるんですか」と質問する人が望んでいる答えは、
「休みの日に三時間ぐらい時間をつくるんですよ。カフェにでも行ってゆっくり読むと集中できます」だ。

 こう言われたら安心して「あーいいですねー。でも最近忙しくって、なかなかそんな時間とれないですねー」と言える。

 まちがっても「読みたいなら読めばいいじゃないですか。一日五分でも読めば、一ヶ月で一冊ぐらいは読めるでしょ」なんて正しいことを言ってはいけない。読みたくないんだから。



2023年3月2日木曜日

審判のいないサッカー

 国会中継を見ていると、ときどき「これは審判のいないサッカーだな」と感じる。

 いや、一応議長はいて発言に対して制止することはある。が、サッカーにおけるレフェリーのような強制力はない。「ベンチからのヤジ」程度の力しか持っていない。また国会における議長はたいていどこかの党に属しているので、中立ではない。一方のチームのメンバーがレフェリーを務めるようなものだろう。


 レフェリーがいなくてもサッカーはできる。小学生が公園でやるサッカーにふつう審判はいないが、それでもまあ成立する。ただそれはあくまで平常時であって、激しく意見が対立したり、著しく協調性に欠けるプレイヤーがいたりするとゲームは破綻してしまう。


 学問の世界には「協調の原理」という言葉がある。

 量の公理(不要なことを言うな)、質の公理(嘘をつくな)、関係の公理(関係のない話をするな)、様態の公理(わかりやすく話せ)の四原則から成る。どれもあたりまえのことである。こんな言葉を知らなくても、ほとんどの人は守って会話をしている。

 ところが国会にいるじいさんばあさんたちはこれを守らない。守れないのか意図的に守らないのか、質問には答えず、話をそらし、嘘でごまかし、不明瞭な言葉で煙に巻こうとする。

〝著しく協調性に欠けるプレイヤー〟だらけだ。こうなると、プレイヤーのモラルに頼っていても解決しない。サッカーで激しいラフプレーが濫発しているときに「みんな仲良くサッカーしようね!」と言っても意味がないのと同じだ。

 解決するには、審判を導入するしかない。国会に、国会議員でないレフェリーを配置する必要がある。

 審判は、各プレイヤー(国会議員)が「協調の原理」を果たしているかをジャッジする。軽微な反則の場合は発言の時間を縮め、悪質な違反、故意の違反に関してはイエローカード、レッドカードを出して退場させる。度重なる退場があれば、ペナルティとして次回の選挙に出馬できなくすればいい。


 ほら、質問に答えないあの人とか、発言の内容がからっぽのあの人とか、平気で嘘をつくあの人とか、党内のえらい人におべんちゃらを言うだけのあの人とか、どんどん退場させたらいいじゃない。ねえ。


2023年2月16日木曜日

ディベートにおいて必要な能力

 小学生のときにディベートの授業をした。

 そのとき、自分は「ディベートが得意な人間」だとおもっていた。口が立つし、切り返しも早い。相手の論の瑕疵を突いたり、比喩を用いてわかりやすく説明するのもうまい、と。


 数十年たった今、とんでもないおもいちがいだったとつくづくおもう。はっきりいって、そんな能力ぜんぜん役に立たない。むしろマイナスだ。

 小学生のときは、「ディベート能力」=「話す能力」だとおもっていた。だけど大人になってみて気づく。話す能力なんかより、話さない能力のほうがずっと大事だ。


 話を最後まで聞く、意見を否定されても人格の否定として受け取らない、意見の相違を認める、仮に自分が正しいとしても相手をこてんぱんに言い負かさずに言い逃れの余地を与えてやる……。

 「攻め方」よりもそういう「受け方」や「攻めない方法」のほうがずっと大事だ。


 たいていの場合、相手を言い負かしていいことなんかひとつもない。消耗して、恨みを買って、(一部の取り巻きをのぞく)周りの人からも嫌われて、得られるのは「勝ったぜ」という何の役にも立たない自己満足だけ。失うことのほうがずっと大きい。

 Twitterで喧嘩をしている人なんかを見ると「弁論で他人を変えることができるとおもってはるなんて、人間に対する信頼が深くてよろしおすなあ」としかおもえない。

 Twitterで喧嘩をすると、味方は離れていき、敵ばっかり寄ってくる。なんもいいことない。


 言い負かす能力よりも、負けたふりをしてやるスキルとか、うまくはぐらかすスキルとかのほうがずっと大事だ。いちばんいいのは、敵対しようとしてくる相手と距離を置くこと。

 だから学校の授業でディベートをやるときは「ムードが悪いとおもったらその部屋から自由に退出してもよい」というルールを作ってやったらいい。

 で、最後まで残ってたやつが負け。



2023年2月15日水曜日

チョコハラ

 今年はついにバレンタインデーのチョコレートの受け取りを拒否した。


 ぼくの勤める会社には、まだ「女性社員数十人から男性社員数十人にチョコレートを贈る」という昭和の蛮習が残っている(平成にできた会社なのに)。

 数年前から、もらうついでに「こういうの、もういいですよ」「お互い無駄なんでやめましょうよ」「みんなからみんなに贈りあうってあほらしいでしょ。来年からはくれなくていいですよ」と迷惑であることを伝えていた。

 自分ではけっこうはっきりと伝えていたつもりなのに、本気だと伝わっていなかったのか、今年も女性社員からお菓子の包みを渡されたので覚悟を決めて「いらないです」と受け取りを拒否した。それでも冗談だとおもわれたらしく「いやいや~」みたいな感じで再度渡そうとしてきたので「これは女性みなさんでめしあがってください」と突き返した。


 一応言っておくと、ぼくは甘いものが好きだ。会社でもお菓子を食べるし、近くの席の人からお菓子をもらったり、あげたりもする。お菓子をもらったときは素直にうれしいし「ありがとうございます」と言って受け取る。ちょっとしたもののやりとりは、サルの毛づくろいといっしょで「私はあなたに敵意を持っていませんよ」という意思表示になる。人間関係を円滑にする上で必要なものだとおもっている。

 ただ、バレンタインデーのチョコレートの押し付け(あえて言おう、押し付けだと)に関してはもはやコミュニケーションとしての意味はない。どれだけうぬぼれの強い男であっても、会社で「女性社員一同から男性社員一同へ」のチョコレートを渡されて「おれは女性社員から好かれてるんだ!」とはおもわないだろう。


 バレンタインデーの「女性みんなから男性みんなへのチョコレート」のは、ただただ全員に負担を強いるだけのシステムだ。女性も、お返しをする男性も、みんな。

 労力を割いてお菓子を買いに行き、お金を払い、得られるのは「自分が選んだわけでもないお菓子」だ。どう考えたって割に合わない。自分のためにお菓子を買う方がずっといい。

 払った分よりずっと少ない額しか受け取れない年金。それがバレンタインデーとホワイトデーだ。


 もういいかげんこの悪習を断ち切らないといけないとおもい、今年はついに受け取りを拒否したのだ。

 当然ながら、拒否したときはかなり気まずい雰囲気が流れた。相手だってたぶん善意でやっているのだから、拒絶するのは心が痛む。善意とはたちの悪いものだ。しかしプレッシャーに負けて受け取ってしまうと来年からもバレンタインで嫌なおもいをすることになるので、心を鬼にして断った。はあ、疲れた。なんでこっちが気を遣わなきゃいけないんだ。

 どう考えたって「いらないです」と言っている相手に贈りつける相手のほうが悪い。お返しがどうという問題ではない。

 逆で考えてみたらわかるだろう。女性社員が、会社で隣の男性から毎年毎年誕生日にバラの花束をプレゼントされる。「もういいです」と毎年言っても、ずっと贈られつづける。「お返しはいらないから」と言われるが、そういう問題じゃない。ただただ気持ち悪い。それといっしょだ。

 この「いらないと言っているのにバレンタインデーにチョコレートを贈られる」気持ちについて考えてみたのだが、そうか、セクハラをされる人ってこんな気持ちなんだろうなとおもった。


 セクハラにもいろいろあるが、「セクハラをする側はされる側に好意を持っている」ことが多いとおもう。上司が部下を執拗に口説くとか、上司が円満なコミュニケーションのつもりで性的な質問をぶつけるとか。

 そうすると、セクハラを受けた側はそれが好意にもとづいているがゆえに拒絶しにくい。「おい、一発なぐらせろ」は悪意から生じているから「嫌です」と断りやすいが、「今晩ふたりっきりで飲みに行かない?」は好意由来なので無下に断りづらい。たいていの人は断るにしても「嫌です」とは言わずに「今日は友だちと約束がありまして……」とか「明日早いので……」とかなんのかんのと理由をつけるだろう。

 それで引き下がってくれるならいいが、だったらいつならいいかと言われたり、毎週のように誘われたりすると、断るほうも神経をすり減らす。そういう相手にははっきり断らないと伝わらないが、その後も職場で顔を合わせることを考えると角が立つ断り方はしづらい。手ひどい断り方をして逆恨みされたり妙な評判を流されても困る。

 断りたい、けれど後々のことを考えると断りづらい……。セクハラはこうして生まれるわけだ。

 バレンタインデーも同じだ。おそらく「嫌だな」と感じながらも、断って人間関係にひびが入るのをおそれてしかたなく付き合っている男女も多いだろう。ぼくは「もらってもちっともうれしくないしお返しをするのは負担になるのでやめてほしい」と男性の立場から考えているが、「あげたくないけど周囲の圧力で半強制的に参加させられる」女性も多いようだ。

「チョコハラ」という言葉で検索してみたら、いくつもの記事が見つかった。同じように考えてる人がいっぱいいるのだ。

 セクハラで訴えられた人の多くは「よかれとおもってやった」「スキンシップのつもりだった」などと言うらしい。きっと本心だろう。よかれとおもってやっていることほど迷惑なものはない。バレンタインも同じだ。善意でやっているからこそたちが悪い。

 とある調査によれば半数以上の男女が職場のバレンタインデーの風習をやめたいと感じているらしい。


 ありがたいことに、世の中は少しずつ変わっている。無駄で、多くの人が嫌だと感じていることは徐々になくなってきている。

 昭和の会社員にとってはあたりまえだったお歳暮やお中元、年賀状も、今ではずいぶん滅びかけている。きっとバレンタインデーも同じような道をたどることだろう。


 まあやりたい人はやったらいいけど、半数以上が嫌がっているわけだから、せめて「やりたくない人が意思表示しなくちゃいけない」システムじゃなくて「やりたい人が意思表示する」システムになってほしいよね。

「チョコレートを贈りあう風習に参加したい人は二週間前からピンクのリボンをつけること」とかさ!




2023年2月8日水曜日

ブラジャーはトイレットペーパー

 やっぱりエッチな写真や映像を見ると心躍る。

 何をエッチとおもうか、何に心ときめくかは人それぞれだとおもうが、まあたいていの男性は、女性の裸や下着姿に胸躍らせる。ぼくも同じだ。もっともぼくが好きなのは〝下着姿〟であって〝下着〟ではない。下着ドロボーの気持ちはまったくわからない。

 また、ぼくの場合、パンツ姿にはときめくがブラジャー姿にはまったく心ときめかない。


 自分でもなぜかはよくわからない。おっぱいは好きなのに。ブラジャー姿の女性を見ても「そのじゃまな布切れを早くどけてよ」とおもうだけだ。〝その後の展開〟を想像して昂奮はするが、ブラジャー姿自体にはまるで昂らない。

 だったらブラジャーがこの世からなくなったらいいかと願うかといえば、そんなことはない。もしドラゴンボールを七つ集めてシェンロンが出てきても、ブラジャー消滅は願わない。

 なぜならブラジャーは女性のおっぱいを美しい形に保つために必要なものだから。だから存続してほしい。でも、特に見たいとはおもわない。


 つまり、ぼくにとって女性のブラジャーはトイレットペーパーと同じものだ。どちらも、女性が美しくあるためには必要なものだ。だが、それ自体に美しさは感じない。

 美しい尻を保つためにトイレットペーパーは必要だけど、トイレットペーパーを鑑賞したいとはおもわない。そういうことだ。どういうことだ?


2023年1月31日火曜日

自分の心に正直に

 特急電車とかで、二人掛けの座席ってあるよね。


 あれ、困るんだよね。

 すいているときはいい。両方ともあいている席の、窓際に座る。

 混雑していてすべての席が埋まっている場合もいい。立っとくだけ。迷うことはない。


 問題は、ほどほどに混んでいて「両方ともあいている席はないけど、誰かの隣ならあいている」とき。

 どこに座るか。

 言いかえると、誰の隣に座るか。


 親しい友人でもいれば「おう、ひさしぶり。隣いい?」と隣に座るし、そんなに親しくない間柄なら隣に座ってもお互い気をつかうので気づかないふりをしてあえて避ける。

 でもまあそんな偶然はめったになく、ふつうは全員知らない人だ。


 おじさん、おばさん、おじいさん、若い男、若い女。おばあさんはあまりひとりで電車に乗っていない気がする。

 本音を言えば、若い女性の隣に座りたい。もちろんきれいな人に越したことはない。

 ことわっておくが、エロい気持ちだけが理由ではない(90%はエロい気持ちだが)。

 若い女性はたいてい細い。脚を広げて座ったりもしない。太っていて脚を広げて座るおっさんの隣よりも、どう考えても快適に座れる。

 だから肉体的にも精神的にも若い女性の隣がいい。


 が、ぼくにも見栄がある。

 おっさんがいくつもある座席の中からあえて若い女性の隣に座ったら、当の女性には「なにこのおっさん。いやらしいことするんじゃないでしょうね」とおもわれそうだし、周囲の乗客には「あのおっさん、わざわざ若い女性の隣を選ぶなんてエロいな。気持ちわりい」とおもわれそうだ。なぜそうおもうかというと、ぼくだったらそうおもうからだ。

 ということで、よほどのことがないかぎり、若い女性の隣には座らない。

 おじさんの隣や、若い兄ちゃんの隣を選ぶ。

 きっとぼくが横にきたおじさんや兄ちゃんは、「ちっ、おっさんかよ。どうせなら若くてきれいな女の人が来てくれたらよかったのに」とおもっているんだろうな。なぜそうおもうかというと、ぼくだったらそうおもうからだ。


 他の乗客を観察してみると、ぼくと同じように若い女性の隣を避ける男性はけっこう多い。

 どうせ電車で隣の席に座ったところで、ロマンスが起こるはずないのだ。だったら余計な気をつかう女性の隣よりも、無害そうなおじさんの隣のほうがいい。


 そんな中、一目散に女性の隣をめざすおじさんもいる。

 うわあ、あのおじさん、女性の隣に行ったよ。嫌がられるのわからないのかな。

 とおもうのだけど、心のどこかでそのおじさんをうらやましいとおもっている自分もいる。あんなふうに自分の心に正直に生きられたらいいな、と。



2023年1月27日金曜日

きょうだいの上が損か下が損か

 きょうだいの上が損か下が損か問題ってあるじゃない。

「上の子は『おにいちゃん/おねえちゃんだから我慢しなさい』と言われて損だ」とか

「下の子は、上の子のおさがりばっかりで損だ」とか。

 誰しも何度かは耳にしたことのある話題だろう。


 あれ、たいていきょうだいのいちばん上は「上のほうが損だ」と言うし、下の子は「下のほうが損だよ」と言う。

 みんな、自分が損したことのほうが得をしたことよりも強く記憶しているのだ。


 あの問題、もちろん家庭によってちがうんだろうけど、一般的にはきょうだいの下のほうが得だとおもう。弟のぼくが言うんだからまちがいない

 うちは年子で、ぼくと姉は学年でひとつしか変わらない。ひとつしかちがわないのに、姉のほうがよく我慢させられていたようにおもう。うちの親は「おねえちゃんだから」と言う人ではなかったが、それでもやっぱり姉のほうが割を食うことが多かった。

 家族でゲームをしていて、ぼくが負けると泣いて収拾がつかなくなるので勝たせてもらっていたこと。

 姉が誕生日に、当時はやっていたローラースケートを買ってもらった。そのときぼくも「ほしい!」と駄々をこねてぼくの分までいっしょに買ってもらえたこと(そしてちゃっかり自分の誕生日には別のプレゼントをもらった)。

 友だちが遊びにきたときに姉の持ち物を壊したこと。

 そのほか数えあげればキリがないが、ぼくが姉に迷惑をかけたことのほうが、その逆よりもずっとずっと多かった。

 姉からするとずいぶん理不尽な我慢を強いられただろう。一学年しか変わらないから、権利だけは姉と同じものを要求するくせに、義務のほうは年下を理由にちゃっかり回避する弟。憎かったにちがいない。


 第一子が得をするのは、弟妹が生まれるまでの間ぐらいかな。周囲の愛を独占できる時期。

 が、そんなものはほとんどおぼえていない。だいたい、周囲からの期待やプレッシャーを一心に受けることがいいとは一概にはいえないだろうし。

 家庭によるとはいえ、やっぱり一般的には第一子が損をすることのほうが多いとおもうな。