2023年4月17日月曜日

おためごかしの嘘

  人並みに嘘を憎んでいて人並み以上にほらを吹くぼくだが、嫌いな嘘がある。

 それは「おためごかしの嘘」だ。

 あんたのためにやっていることなんですよ、という嘘だ。


 具体例を書こう。

 テーマパークやスタジアムにおける「飲食物の持ち込みは、食中毒などのおそれがあることから禁止とさせていただいております」、おまえのことだ。


 嘘つけー!!!!



 いやいや。どう考えてもほんとの理由は「こっちは相場より高い値段で飲食物を提供して儲けたろうとおもってんのに持ち込みされたらかなんわ」だろ。


 ことわっておくが、持ち込み禁止自体に不服があるわけではない。公共施設とかならともかく、民間団体が営利目的で運営している施設であれば、儲けるためのシステムをつくるのは当然だ。

 相場より高いのも、その割に量が少なくて出来あいの料理でおいしくないことも、ある程度はしかたないとおもっている。テーマパークやスタジアムに安くてうまい飯なんてはなから期待していない。

 気に食わないのは、「お客様のためをおもって禁止にさせていただいているのです」という態度だ。

「金儲けのためって言えばあんたらはケチやから文句言うんでっしゃろ。せやからあんたがたの健康を守るためっていう理由にしてるんですわ」という、客をなめきった姿勢が気に入らない。

 おまえらの魂胆なんか見え見えなんじゃい!


 増税もさ、福利厚生充実のためとか「あなたたちのためにやってあげてるんです」みたいな言い訳するんじゃなくて、「今年度苦しいんですわ。もう火の車で」みたいに本音を吐露してくれよ! ……だとしてもイヤだけど!



2023年4月13日木曜日

スポーツのずるさ

 スポーツはずるい。

 なにがずるいって、ずるさを認めないところがずるい。


 たとえば、野球の盗塁。

 世界で最初に盗塁がおこなわれたとき、ぜったいに物議をかもしたとおもうんだよね。

「おいおい、何勝手に2塁に走ってるんだよ。戻れよ」

「なんで?」

「なんでって……ずるいだろ、そんなの」

「ルールに書いてあるの? ピッチャーが投げてる間に2塁まで走ったらいけませんって」

「それは書いてないかもしれないけど……。でもわかるだろ、ふつうに考えて」

「おれはふつうに考えて、走っていいとおもったんだけど。文句があるならそれがダメって書かれたルールブック持ってこいよ」

「う……。わかったよ、じゃあいいよ2塁進塁で。その代わりこっちも同じことやってやるからな!」

「ああいいぜ、言っとくけど、2塁に到達する前にボール持った野手にタッチされたらアウトだからな!」

みたいなやりとりがあったはずだ。ぜったい。

 でなきゃ steal(盗む)なんて名前がつけられるはずがない。


 送りバントも、敬遠四球も、変化球も、牽制球も、最初はずる扱いされたにちがいない。かくし球やトリックプレーに関しては言うまでもない。

 これずるくないか? とおもわれつつ、でもルールで明確に禁止されてるわけじゃないからしょうがないか、みたいな感じでしぶしぶ認められたプレーだ。

 野球だけではない。

 サッカーのヘディングだって、バレーボールの時間差攻撃だって、柔道の寝技だって、ボクシングのクリンチだって、最初はずるだったとおもう。でも今ではテクニックとして認められている。


 断っておくが、これはぜんぜん悪いことではない。

 ルールから逸脱しないぎりぎりの範囲で、いかに相手の裏をかくか、相手を騙すか、相手の嫌がることをするか、自分だけが利することをするか。これこそがゲームの醍醐味だ。

 たとえばテーブルゲームの世界で「ルールの範囲内で相手をだます」はまったく悪いことじゃない。むしろ見事なプレーだとして褒められる。

 将棋で「歩をさしだしたのは、桂馬を手に入れるためだったのか。だましたな! ずるいぞ!」とか「王将が逃げざるをえないのをいいことに、王手飛車取りをかけるとは、なんて汚いやり方だ!」なんて責められることはない(ちっちゃい子どもは言うが)。うまく相手をだます人が一流のプレイヤーだ。

 

 テーブルゲームでもスポーツでも、対人ゲームのおもしろさは「相手をいかにうまくだますか」にある。だからだますことはぜんぜん悪くない。ずるくない。

 じゃあスポーツの何がずるいかというと、だましたりしませんみたいな顔をするところだ。

 正々堂々、正面からぶつかります。

 フェアプレーを学ぶことは青少年の健全な発達につながります。

 こういうことを言うところが、ずるい。

 掃除の時間にふざけるやつは、悪いけどずるくはない。先生が見にきたときだけ、ぼくずっとまじめに掃除やってましたよみたいな顔をするやつはずるい。

 スポーツ界がやっているのはまさにそれだ。相手によって「悪い顔」と「いい顔」を使い分けている。これがずるい。

 そんなに正々堂々やりたいなら「右四つからの寄り切りを狙います!」と宣言してから立ちあいなさいよ。「内角低め、カーブ」と宣言してからその通りに投げなさいよ。


 正々堂々やっていると言っていいのは、陸上競技ぐらいのものだろう。四百メートル走も走り高跳びも砲丸投げも十種競技も、相手をあざむくことはない。己の記録を伸ばすことだけが勝利に近づく。そこに「いかに相手をだますか」という視点はまるでない。

 だからほら、陸上競技って見ていてつまらないでしょ?



2023年4月12日水曜日

【読書感想文】有馬 晋作『暴走するポピュリズム 日本と世界の政治危機』 / で、結局ポピュリズムの何が悪いの?

暴走するポピュリズム

日本と世界の政治危機

有馬 晋作

内容(e-honより)
世界的に長い歴史と波を持つ運動であるポピュリズムは、いかにして日本に現れたのか。世界のポピュリズムの流れとの比較から、一九九〇年代の「改革派首長」(橋本大二郎、北川正恭、田中康夫ら)や小泉改革などに現代日本のポピュリズムの淵源を求め、「橋下劇場」「小池劇場」と呼ばれる「劇場型政治家」が地方政治に現れた政治力学を分析。今後日本でも国政レベルでポピュリズム政党が台頭する可能性があるのか、そうなった場合の危険性や対処法をリベラル・デモクラシー擁護の観点から幅広く論じる。


 ポピュリズム。そのまま訳せば大衆主義などになるのだろうが、日本では批判的なニュアンスを込めて大衆迎合主義や衆愚政治のように使われることが多い。

 この言葉を知ったときからぼくがずっとおもっているのは、「ポピュリズムって悪いことなの?」ということ。

 政治って大衆のためにやるものでしょ? 大衆に迎合するのが悪いことなの? そりゃあ大衆が誤ることは多々あるし、大衆に従った結果マイノリティが著しい不利益を被ることもある。でもそんなのはポピュリズムに限った話ではない。一部のエリートによる寡頭政治にも同じ問題はついてまわる。

 同じように誤るのなら、一部の権力者が誤るよりも大衆が誤った道に進むほうがまだマシなんじゃないかとおもうんだけど。




 ということで「ポピュリズムの何が悪いのかわからない」というぼくの疑問に答えてくれるんじゃないかとおもって『暴走するポピュリズム』を手に取ってみたのだが、結論から言うと答えは見当たらなかった。

 著者がポピュリズムを嫌いなことだけはよくわかったけど。


 たとえば、ポピュリズムが独裁を招くことがある、って書いてあるけど、独裁につながるのはポピュリズムだけじゃないよね。毛沢東とかスターリンとかプーチンはべつにポピュリストじゃないよね。

 だったら、独裁になるかどうかはポピュリズムとは別の問題だとおもうんだよ。

 それに、独裁による政治の暴走が起こるのなら、それはポピュリズムによるものではなく、そもそも憲法や司法によってそれを防止するシステムが機能してないからなんじゃないの?


「維新や希望の党はれいわ新撰組はポピュリズム政党」って決めつけて議論してるんだけど、そもそもポピュリズムの定義がはっきりしない。権力者への攻撃、一部の敵をつくって立ち向かう自分たちを演出なんてどの党もやってることだし。自民党だって下野してたときは庶民の味方のふりをして政権非難してたけどあれもポピュリズム?

 逆に「こういうのはポピュリズムじゃない」という定義をしてほしいんだけど、そのへんの説明は一切ない。

 結局、著者が気に入らない新しい政党はポピュリズム政党、昔からある党はポピュリズムじゃない、って分け方に感じられちゃうんだよね。


 それに、たしかに橋下徹なんて政界進出当初はポピュリストといってもよかったけど(自分でも認めてたし)、それから十年以上たった維新の会をポピュリズム政党と片付けてしまうのはちょっと乱暴な気がする。

 ぼくは大阪市民なので、維新が大阪にどれだけ根付いているかは肌身に感じて知っている(ぼくは支持しないけど)。市長も府知事も市議会も府議会も維新の議員だらけで、いいわるいは別にして、誰がどう見たって大阪では大衆側ではなく権力者側だ。十年以上市政や府政のトップの座にいて、二回も住民投票で反対された都構想をいまだ掲げている党が大衆迎合主義? その認識は現実とずれすぎてない?




 日本においてポピュリズムという言葉がさかんに使われるようになったのは、小泉純一郎の「小泉劇場」の頃からだと著者は指摘する。

 小泉劇場のポピュリズムを分析したものとしては、すでに紹介した大嶽秀夫が有名である。小泉は、金融機関の不良債権処理や公共事業の削減、「構造改革」に伴う倒産や失業などの「痛み」を、国民に甘受してもらわなければと訴えたが、それを「大衆迎合」のポピュリズムでなく、既得権益・抵抗勢力と闘うという「劇的」なものにして実現したといえる。すなわち、小泉のポピュリズム政治の特徴は、「善玉悪玉二元論」を基礎に、政治家や官僚を政治・行政から「甘い汁」を吸う「悪玉」として、自らを一般国民を代表する「善玉」として描き、勧善懲悪的ドラマとして演出するもので、政治を利害の対立調整の過程としてイメージしていないことである。

 この考えは今も生きているよね。

 ぼくが政治に興味を持ちはじめたのはちょうど小泉純一郎氏が自民党総裁選に出馬した頃だったので(そのときの総裁選では小渕恵三氏が勝った。「凡人・軍人・変人」のときね)、それ以前の政治がどんな雰囲気だったかは知らない。

 でも、とにかく今は政治を「敵を負かすもの」ととらえている人が多いように感じる。本来は「利害の調整を図る」ものであって、その根底には「意見の異なる者も認めて尊重する」ことが必要だとおもうが、そんなふうに考えている人は今では少数派なんじゃなかろうか。

 わが党の中にはいろんな考え方があり、他の党にも我々と異なる立場や思想がある。それらすべてを尊重して調整を図るのが私たちの仕事です。……なんて考え方をしている国会議員が今どれだけいるだろうか? 「敵をつくって分断をあおるのがポピュリズムだ」なんて定義をしたら、すべての政党がポピュリズム政党になっちゃうんじゃない?




 日本でもポピュリズム政党が政権奪取に近づいたことがあった。

 2017年に希望の党が結党されたときだ。自公政権の支持率が低下し、都議会で躍進していた都民ファーストの会が国政進出するのために希望の党が結成された。野党第一党であった民進党が希望の党への合流を決め、一躍最大野党となり、直後の衆院選の結果次第では結党わずか数ヶ月で政権奪取もあるのではないか……というムードが漂っていた。

 当時の希望の党には国政の実績はまるでなく、ビジョンだってほとんどなかった(あったのかもしれないが国民のほとんどは理解していなかった)。それでも希望の党はまちがいなく衆院選での大勝利に近づいていた。あれはまちがいなくポピュリズムといっていいだろう。


 が、民進党との合流を発表した直後の記者会見で小池代表が「(安全保障への考えや憲法観が異なる議員は)排除いたします」と述べたことで雰囲気は一転。民進党議員からも国民からも反発を招き、合流を拒否した議員たちによる立憲民主党結成があり、衆院選でも希望の党は政権奪取どころか立憲民主党の議席をも下回ることとなった。

 実は、中道左派の政党は、世界的に見ても混迷の状況である。その理由は、グローバル化が先進国に思ったほどの果実を与えず分配のためのパイが十分増えなかったからともいえる。つまり、グローバル化の進展によって再分配政策を十分展開できず、中間層の所得が伸び悩んでいる。また先進諸国では中道左派と中道右派の政党の政策が近づき、その差がなくなっている。日本でも安倍政権が、同一労働同一賃金など左派のお株を奪うような政策を実施しようとしている。しかし、日本の中道左派と中道右派の支持者の中には、既成政治への不信感をベースに長期政権を望ましく思わず非自民に期待する人々もいる。もともと保守で非自民に立つ小池率いる「希望の党」は、その受け皿になる可能性が十分あった。しかし、ポピュリズム的要素が強いだけに、「排除」という言葉によって一気に失速してしまった。そして、その結果、野党では分裂が一気に進んでしまったといえる。
 以上のことをみると、今回の「希望の党」の動きは、ポピュリズム戦略としては、あり得る動きといえ、もし成功していれば日本政治の歴史に残ったであろう。ただ、「排除」という言葉ひとつで情勢が大きく変わるのは、無党派層の風向き次第で勢いに差がつくポピュリズム故の結果だったといえよう。

 ほんとに「排除」の一言で政局がころっと変わってしまった。あの一言がなければその後の日本政治はまったく別のものになっていたんじゃないだろうか。

 あの発言は「たった一言で歴史を動かした」ランキングの中でも相当上位にくるんじゃないだろうか。


 今は自公政権が過半数の議席をとっているが、その支持基盤は盤石なものではない。国民の多くは不満を抱えている。その不満の受け皿となる党がないだけで。

 だから、今後も大衆のハートをうまくつかむ政党が現れたら、あっという間に政権交代を成し遂げてしまうかもしれない。少なくとも、既存政党が少しずつ議席を増やしていって……という展開よりは、新党が一気にまくるシナリオのほうがずっとありそうではある。




 読めば読むほど、ポピュリズムが悪いというよりは、ポピュリズムによって引き起こされるかもしれない出来事(三権分立の破壊とか少数派の弾圧とか民主主義の形骸化とか)が悪いだけで、ポピュリズム自体はべつに悪くないんじゃないかとおもう。

 そして立憲主義さえ担保できていれば、ポピュリズム政党がどれだけ議席を獲得しようと独裁につながることはない。

 逆にいえば、憲法、司法、報道に手を入れようとする為政者は徹底的に排除しなくてはならないということだ。そこを自分たちの都合のよいように変えようとしてるのって、今のところはポピュリズム政党じゃなくて歴史あるあの党だとおもうけど。


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2023年4月11日火曜日

「夢がない」

「夢がない」について。

 じっさいに耳にしたことはあまりない。多く使われるのはマンガだろうか。ぼくが知ったのは『ドラえもん』だったとおもう。

「宇宙人なんているわけないだろ!」
「夢がないなあ」

みたいな使われ方をする(この後、のび太がドラえもんに頼んで宇宙人をさがす道具を出してもらうことになる)。


 あれはなんで「夢がない」なんだろう。

 正確に言うと、なぜ〝宇宙人やツチノコや雪男や超能力の存在を信じている側〟は「夢がある」で、〝存在を信じていない側〟が「夢がない」になるのか。

 たとえば、誰も成し遂げたことがないこと(宇宙人を発見するとか)を実現させたいと願うのは「夢がある」と言っていいだろう。

 のび太が、宇宙人発見者第一号になりたいと願い、そのために宇宙飛行士を目指すならば「夢がある」と言っていい。

 でも「いるんじゃないかな。何の根拠もないけど、いたほうがおもしろいし。といって見つけるための努力なんかしないけど」というのは「夢がある」とは言わない。それは「夢見がち」だ。

 逆に出木杉くんが「宇宙人はぜったいにいない。一生懸命勉強して宇宙物理学や生物学について研究し、宇宙人がいないことを証明する理論をぼくが見つけるんだ!」と心に誓ったなら、それは立派な夢だ。「夢がある」だ。

 だいたい、宇宙人がいることを証明するより、いないことを証明するほうがずっとむずかしい。フェルマーの最終定理や四色問題など、数学の超難問とされるのはたいてい「ないことを証明せよ」だ。


 だから「夢がない」というのは、何も未発見のものの存在を無条件に信じるとかじゃなくて、仮説に向かって自分がどう取り組むか、で決まるんじゃないでしょうか。藤子・F・不二雄先生。



2023年4月10日月曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太と空の理想郷(ユートピア)』

『映画ドラえもん
のび太と空の理想郷(ユートピア)』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画42作目。「リーガルハイ」「コンフィデンスマンJP」シリーズなど数々のヒット作や、2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」などで知られる人気脚本家の古沢良太が、映画「ドラえもん」の脚本を初めて手がけた。空に浮かぶ理想郷を舞台に、ドラえもんとのび太たちが繰り広げる冒険を描く。
空に浮かぶ謎の三日月型の島を見つけたのび太は、ドラえもんたちと一緒にひみつ道具の飛行船「タイムツェッペリン」で、その島を目指して旅立つ。やがてたどり着いたその場所は、誰もがパーフェクトになれる夢のような楽園「パラダピア」だった。ドラえもんとのび太たちは、そこで何もかも完璧なパーフェクトネコ型ロボットのソーニャと出会い、仲良くなる。しかし、その夢のような楽園には、大きな秘密が隠されていた。

 九歳の娘といっしょに映画館で鑑賞。

 古沢良太氏脚本ということで期待して観にいった。『リーガルハイ』『コンフィデンスマンJP』もすばらしかったからね(しかし今年の大河『どうする家康』もやってて、仕事しすぎじゃないすかね)。

 期待通り、どころか期待を上回るすばらしい出来だった。ドラえもんの映画はだいたい観てるけど(主にテレビやAmazonプライムでだけど)、その中でも個人的ナンバーワンかもしれない。


(一部ネタバレあり)


グレート・マンネリズム

 ちょっと前に「ドラえもんの映画はだいたい同じ展開でワンパターンだ」っていう批判的な記事を読んだんだけどさ。

 わかってないなー! だいたい同じでいいんだよ。ドラえもんの映画のメインターゲットは何十年も映画を観つづけている大人じゃなくて(ぼくもそうだけど)、数年たったら劇場から足が遠のく子どもなんだから。わくわくする新しい世界を見せてくれて、異世界の住人との間に友情が芽生えて、敵が現れて窮地に立たされて、知恵と勇気と友情で強大な敵に立ち向かって、敵を倒して平和を取り戻してのび太たちは日常に戻る……でいいんだよ。むしろある程度はお約束通りに進むからこそいい。グレート・マンネリズムというやつだ。

 大枠が決まっているからこそ、「どんなきっかけで冒険をスタートさせるのか」「どんな新しい世界を見せてくれるのか」「理想的とおもえたその世界にどんな不都合が起こるのか」「どうやって敵の強大さを見せつけるのか」「その敵に各人がどう個性を活かしながら立ち向かい、どんな戦いをするのか」「どうやって収束させるのか」といった細部の設定で出来不出来が大きく変わる。

 そして、今作『のび太と空の理想郷』は細かい設定がどれも効果的だった。


ほら話

 おもしろいドラえもんの映画にはおもしろいほら話がある。

「いつも霧がかかっていて航空写真を撮れない〝ヘビー・スモーカーズ・フォレスト〟という森がある」「バミューダトライアングルは古代帝国が仕掛けた自動防衛システムだった」「アラビアンナイトは創作だが元になった話は事実だった」なんて、もっともらしいほら話を聞かせてくれる。

『空の理想郷』では、理想郷・パラトピアが時代や空間を超えて移動をくりかえしていることから、世界各地に伝わる空中都市伝説や竜宮城の伝説はパラトピアの目撃談だったのだというほら話が語られる。

 こういうの大好き!


道具をいかに封じるか

 ドラえもんの映画において最も重要なタスクが「ドラえもんの道具の力をいかに封じるか」である。

 ドラえもんの道具はうまく使えばほとんど無敵だ。時間も空間も飛び越えられるので、どんな困難な問題でもあっさり解決させてしまえる。それでは緊張感ある冒険にならない。

 だからほぼすべての映画で、「道具が故障して使えない」「ドラえもんが故障する」「四次元ポケットが失われる」「あえて道具を置いてくる」「道具の使えない世界を用意する」「ドラえもんの道具より優れた道具を敵が持っている」といったギミックをかますことで、道具の力を封じてきた。

 だがドラえもんをドラえもんたらしめているのは未来の道具であるので、封じすぎてもつまらない。

 この「どうやって道具を封じるか」「どこまで封じるか」が映画の成否を決めるといってもいい。

 『のび太と空の理想郷』はちょうどいい塩梅だった。序盤に「どこでもドアが壊れて四次元ごみ袋に入れてリサイクルする」という設定が提示されるが、それ以外の道具はほぼ使用可能。

 ほぼすべての道具が使用可能であるにもかかわらず、敵の策略によって知らぬ間に追い詰められていくドラえもんたち。このシナリオが絶妙だった。

 しかも、この「四次元ごみ袋」が終盤でキーアイテムとなるという周到さ。うーむ、隙が無い。


ほどよい伏線

 ドラえもんに限った話ではないのだが、最近のドラマや映画はどうも「伏線回収」が重視されすぎているきらいがある。

 もちろん伏線は物語をおもしろくしてくれるスパイスではあるが、それはあくまで調味料であってメイン食材にはなりえない。だから「あなたはラストであっと驚く!」「もう一度はじめから見直したくなる!」「映像化不可能と言われたトリックを初映像化!」などの伏線回収をメインに据えた物語はほぼ確実に失敗する。ほら、アレとかアレとかつまらなかったでしょ?

 古沢良太氏の脚本は、いつもうまく視聴者をだましてくれる。あっと驚く仕掛けを用意しているが、それは決してストーリーの中核にはならない。ストーリー自体は水戸黄門のように王道で、その中にほどよい伏線をピリリと効かせているからおもしろいのだ。

『のび太と空の理想郷』では、冒頭の「カナブン」「天気雨」などうまい伏線が用いられているが、観客である小さい子どもには理解できないかもしれない。だが、理解できなくてもちっとも問題ない。気づかなくても物語は十分に楽しめる。気づけばよりおもしろくなる(ところで種明かしの仕方は『コンフィデンスマンJP』っぽいよね)。

「小さい頃はわからなかったけど、数年後に観返してみたらこういうことかと気づく」と、二度楽しむこともできるかもしれない。


強すぎる敵、怖すぎる展開

 いっしょに観ていた娘は二度泣いていた。後で聞くと、「一回は怖くて泣いちゃった。二回目は感動して泣いた」とのこと。それぐらいおそろしい敵だった。

 なにがおそろしいって、すごく賢いのだ。『月面探査機』のようにとにかく物理的に強い敵ではなく、『空の理想郷』の敵は賢すぎておそろしい。のび太たちはほとんど戦う間もなく、知らぬ間に敵の罠にはまってしまう。

「住民みんなが勤勉で優しくてにこにこしているユートピア」が出てきた時点で、ある程度フィクションに触れた大人であれば「ああこれは裏で悪いやつが統制してるやつね」とわかるけど、たぶんほとんどの子どもはわからないだろう。で、ユートピアに見えたものが一枚めくると人間性を奪う管理社会だとわかったところで、途方もない恐怖におそわれるはずだ。

 さらに追い打ちをかけるようにジャイアンとスネ夫としずかの感情が奪われ、ドラえもんが自由を奪われた上に退場させられ、残ったのび太までも感情を支配される。絶体絶命のピンチ。これまでのドラえもん映画の中でも一、二を争うほどのピンチだったかもしれない。これまで「ドラえもんが機能不全」や「五人中四人が捕まる」なんてことはあったが、全員戦意喪失させられるとは。

 そしてピンチの度合いが大きいほど、切り抜けたときのカタルシスも大きい。のび太たちが感情を取り戻して立ち上がる瞬間は大人のぼくでもわくわくしたし、敵との戦闘の後にもさらなるピンチが訪れて最後まで息をつかせない。

 手に汗握る、一級品の活劇映画だった。


出木杉問題

 映画ドラえもんでは恒例となっている「序盤は登場する出木杉が冒険には連れていってもらえない」問題。

 出木杉ファンのぼくは、毎度悔しいおもいをしている。

 今回なんかは連れていってもよかったとおもうけどなあ。出木杉までが感情を支配されてしまったほうが怖さが増したとおもうし。元々いい子だから洗脳されていることに気づきにくいのも、うまく使えばプラスに働いたんじゃないかな。

 ま、前作『のび太の宇宙小戦争 2021』に比べればぜんぜんマシだけど。前回なんか、序盤は出木杉もみんなといっしょに映画をつくってたのに途中で「塾の合宿」という名目で退場させられて、いない間に他のみんなが冒険したどころか映画まで完成しちゃってたからね。ひどすぎる。だいたい出木杉って塾(しかも四年生から合宿するってことは相当な進学塾)に行くキャラじゃないとおもうんだけど。

 今回は「ただ誘われなかっただけ」だからまあいいや。前回は「途中からのけ者にされた」だからかわいそうすぎた。


お約束のあれやこれや

 映画ドラえもんではぜったいにやらなきゃいけない「ぼくはタヌキじゃない!」と「しずかちゃんの入浴シーン」。

 前者はどうでもいいとして、後者に関しては時世を考慮して、入浴シーンがあるものの「鎖骨から上あたりがちらっと映るだけ」である。

 ……やる意味ある?

 元々やる意味ないんだけど。まあ当初はファンサービス的なシーンだったんだろうけど(原作漫画だとけっこう大胆に裸が描かれていたりする)、エロくもなんともなくて、もはや何のためにやっているのかさっぱりわからない。そこまでして入れないといけないシーンなのか? とおもう。

 最初に「グレート・マンネリズム」って書いたけど、これは単に何も考えてないただのマンネリだよね。


メッセージ

 ぼくは「ドラえもん映画にしゃらくさいメッセージはいらない」と考えている。一時、ドラえもんの映画の中で環境保全だとか他の生物との共存だとかを訴えていたが、ああいうのはいらない。大事なのは一におもしろさ、二におもしさ、三、四がなくて五におもしろさ。

 おもしくするために必要であればメッセージがあってもいい。メッセージ性なんてしょせんその程度だ。

『空の理想郷』にもメッセージはある。「完璧な人間なんていない。欠点こそがその人らしさを作っている」といったことだろうか。「桃源郷であるパラトピアの住人と欠点だらけののび太」「パーフェクトネコ型ロボットであるソーニャとポンコツロボットのドラえもん」という対比を示し、後者は欠点があるからこそ愛おしいというメッセージを伝えている。

 これがとってつけたような説教ではなく、ストーリーに深く結びついている。このメッセージが背骨となることで、シナリオが頑強なものになっている。おもしろさのために必要不可欠なメッセージだ。


 そしてこのメッセージってさ、今作だけの話じゃなくて『ドラえもん』すべてに通底するメッセージじゃないかな。

 のび太ってまったくもって成長しないじゃない。話の中で気づきを得たり決心したり反省したりすることはあるけど、次の話ではまた元の怠惰な小学生に戻っている。いつまでたっても成長しない。

 そんなダメなのび太を、ドラえもんは決して見捨てない。バカな子なのに、いやバカな子だからこそ愛する。のび太に対するドラえもんの視点は友情ではなくほとんど母性だ(逆にママはあまりのび太を愛しているように見えない)。

 バカでもダメでもなまけものでも成長しなくても、それでも愛してくれる人がいる。『ドラえもん』で描かれているのはそういう物語だ。

『空の理想郷』は、それを二時間足らずで表現した映画だった。藤子・F・不二雄先生の遺志が今の脚本家や監督にもきちんと受け継がれていることを感じて、ぼくはうれしくなった。


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