2022年3月15日火曜日

【読書感想文】白石 一郎『海王伝』

海王伝

白石 一郎

内容(e-honより)
海賊船「黄金丸」の船頭・笛太郎は明国の海賊・マゴーチの本拠地であるシャムのバンコクに赴く。そこで笛太郎はマゴーチが実父であることを知るが、異母弟を殺してしまったことから、親子の宿命的な対決が始まる―。笛太郎は海の「狼」から「王」へ変わることができるのか?直木賞受賞作「海狼伝」衝撃の続編。

『海狼伝』がおもしろかったので、続編『海王伝』にも手を出してみた。

 前作では津島~瀬戸内海あたりが舞台だったが、今回の舞台は琉球、シャム(タイ)。話のスケールとしては大きくなったが、正直、物語のおもしろさはトーンダウンしてしまったように感じる。

 というのは、『海狼伝』が笛太郎やその仲間の成長を描いていたのに対し、『海王伝』のほうは成長後を描いているからだ。

 『海狼伝』冒頭の笛太郎は何者でもなかった。海女のために船を出してやるだけの男であり、その仕事すら満足にできず海女からもばかにされる始末。そんな男が海に出て、半ば強制的に海賊の仲間に入れられ、囚われの身となって命からがら救われたり、口と商才だけが達者な男の下について借り物の船ではあるが海賊になり、そして幾多の戦いを経て船づくりの天才を味方につけ、ついに自分たちの船を完成させ、中国に向けて出航する……。なんとも波乱万丈な物語だった。

 一方の続編『海王伝』はすでに成熟してしまっている。そんじょそこらの海賊には負けない立派な船があり、笛太郎はお頭であり、戦いに慣れた仲間もいる。これではなかなか血沸き肉躍る冒険にはならない。中盤以降のONE PIECEといっしょで「はいはいどうせ絶対絶命のピンチになっても最後はルフィがボスをぶっとばして宴なんでしょ」と冷めた目で見てしまう。

 だからだろう、『海王伝』では牛太郎という新しいキャラクターの話から始まる。牛太郎は獣が好きなせいで罠にかかった獣を勝手に逃がしてしまい、村八分を食らっている男だ。この男も、昔の笛太郎のように何者でもない。この男が村から追いだされるようにして逃げ出し、初めて目にする海に出ることになる……。というオープニングは、こちらの期待を十分に高めてくれるものだった。

 しかし牛太郎が笛太郎と出会ってからは、いたって平和そのもの。他の船との戦闘になってもどうも緊張感がない。黄金丸(笛太郎たちの船)が強くなりすぎてしまったのだ。

 どおんと後方で大筒の音がした。
 三郎が振り返ると、大型ジャンクが遥か後ろから黄金丸の船尾をめざして来ている。しかし黄金丸のあざやかな上手回しの旋回に慌てたらしく、大型ジャンクと黄金丸の距離は先刻より遠く離れていた。
 上手回しの回頭は詰め開きともいい、最も難しい操船術だ。
 ずんぐりしたジャンクの船体では、むりに上手回しをやると、前進力を失って操船に苦しむ。
 大型ジャンクの場合がそれだった。とつぜん大旋回した黄金丸の櫓走に戸惑い、自分も櫓走に切替えて風上へ向ったが、回頭に失敗したのだ。

  海戦の描写は相変わらずすばらしいんだけどね。海や船のことがさっぱりわからなくても、なんかふしぎと説得させられるんだよね。




 笛太郎の目的のひとつが「父親・孫七郎に会う」だ。その孫七郎ではないかと疑われるのが明の海賊・マゴーチだ。この巻ではついにマゴーチに出会う。

 はたしてマゴーチは本当に笛太郎の父親なのか、そしてふたりはどうやって向き合うのか……。

 引っ張って引っ張って単純な「感動の父子の再開」にはなるまいなとおもっていたら、なんとこういう展開とは。なるほどなあ。
 余韻を残す終わり方もなかなかしゃれている。

 これはこれでおもしろかったんだけど、『海狼伝』がおもしろすぎたので、期待を上回ることはできなかったかなあ。やっぱり一番魅力的だったキャラクターである小金吾が前作のラストで死んじゃったのが残念。彼を主人公にした話を読みたいぐらいだ。


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2022年3月14日月曜日

ツイートまとめ 2021年11月



筋肉は裏切らなかった。これまでは。

SDGs

時空のゆがみ×2

帝国

コンビニなぞなぞ

習慣

耳たぶ

ズトバク

按分

人の心

現場主義

偏差値

イヤ系

からっぽ

祖母のあだ名

計略

人生の半分

夢を買う

昔の映像

尾崎豊

2022年3月11日金曜日

父親に、あのとき言わなくてよかった言葉

 父親に対して、あのとき言わなくてよかった言葉がある。


 大学を卒業して、親の反対を押し切って小さい会社に就職し、しかしとんでもなくブラックな会社だったために(日をまたぐ残業があたりまえ、給与も求人票の内容とまったく違う)一ヶ月で辞めた。

 事前の相談もなく「もう辞めたから」と告げると温厚な父親もさすがに怒り、電話で「何考えてるんだ!」と怒鳴られた。
 怒られることは想定していたものの「今からでも頭を下げて元の会社に戻れないか」なんてことを言ってくるものだからこちらも「おまえに何がわかるんだ」と頭にきて口論になり、

「会社に長く勤めることに価値があるとおもってんのか? もうそんな時代じゃないんだよ。自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」

という言葉が口をついて出そうになった。が、すんでのところで思いとどまった。




 父は会社大好き人間だった。朝早くに起きて仕事に向かい、夜遅くに帰ってくる。ぼくが子どもの頃は、平日に父と顔をあわせるのは朝だけだった。土日も接待ゴルフに出かけることが多かった。

 家は自社の製品であふれ、阪神大震災があったときは対応業務で何週間も家に帰ってこない日が続いた。

 会社に命じられるまま関西から転勤もした。エジプト、東京、横浜。すべて単身赴任だった。

 父はそこそこの役職を得ていたようだが、五十歳を過ぎて、子会社へ出向することになった。ぼくは大会社に勤めたことがないが「五十歳を過ぎて子会社へ出向」が栄転でないことはわかる。

 当時大学生だったぼくは「あんなに仕事に人生を捧げてたくせに、子会社に飛ばされてやんの」とうっすら小ばかにしていた。親の金で大学に通っておきながら。なんて生意気なガキだ。




 あれから十数年。

 ぼくもそれなりに働いて給料を稼いでいる。何度か転職をしたが、今の業種で十年以上やっているし、結婚して子どもも生まれて、一応父親を安心させることができたとおもう。

 仕事を続けるたいへんさもわかった。

 そしてつくづくおもう。

 あのとき「自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」と言わなくてよかった、と。

 ぎりぎりのところで胸にしまっておいてよかった、と。


 あの言葉を口にしていたら、父子の間に一生消えないヒビができていただろう。

 父が家族との時間も削って仕事に打ちこんでいた理由のひとつは、月並みな言い方になるが「家族のため」だろう。妻子の生活を守るため懸命に働いたし、転勤を命じられたときは子どもたちに負担をかけぬよう単身赴任を選んだのだろう。

 ぼくは「父は仕事大好き人間だ」とおもっていたけれど、仕事を辞めたくなる日もあったはずだ。
 それでも辞めなかった理由のひとつは、子どもがいたからだろう。


 仕事に打ちこむことで家庭を守ろうとした人が、その家族から「会社から捨てられたくせに」なんて言われたらどうなっていただろう。

 あやうくぼくは、彼のぜったいに傷つけてはいけない場所を傷つけてしまうところだった。つくづく、言わなくてよかった。




 ただ、あのときぼくが口にしかけた「会社に長く勤めることに価値がある時代じゃない」については、今でも正しかったとおもう。

 でも、やっぱり言わなくてよかった。正しかったからこそ、余計に。


2022年3月10日木曜日

【読書感想文】ヴィトルト・リプチンスキ『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

ねじとねじ回し

この千年で最高の発明をめぐる物語

ヴィトルト・リプチンスキ(著)  春日井 晶子(訳)

内容(e-honより)
水道の蛇口から携帯電話まで、日常生活のそこここに顔を出すねじ。この小さな道具こそ、千年間で最大の発明だと著者は言う。なぜなら、これを欠いて科学の精密化も新興国の経済発展もありえなかったからだ。中世の甲冑や火縄銃に始まり、旋盤に改良を凝らした近代の職人たちの才気、果ては古代ギリシアのねじの原形にまでさかのぼり、ありふれた日用品に宿る人類の叡智を鮮やかに解き明かす軽快な歴史物語。

「この千年で最高の発明は何か」について考えていた著者は、身近な道具の歴史についての調査を進め、最高の発明は「ねじとねじ回し」ではないかとおもいいたる。

 そして様々な文献を読みあさり、ねじとねじ回しの誕生、そして進化、それらがもたらした影響について考察を進めてゆく……。

 と、なんともマニアックな題材の本。


 以前、アンドリュー・パーカー『眼の誕生 ―カンブリア紀大進化の謎を解く―』という生物に眼が誕生した経緯を追い求めるノンフィクションを読んだことがあるが、なんとなくその本を思いだした。

 我々はあたりまえのように眼から情報のほとんどを獲得しているが、眼のような複雑な器官がどうやって誕生したのかを考えるとじつに不思議だ。さらに角膜や水晶体や脳の視覚をつかさどる部分などどれが欠けてもまともに機能しない。なぜ生物は「できかけの眼」を持つにいたったのか、それともそれらが同時発生的に誕生することなどあるのだろうか?

 ……眼の話になると長くなるので気になる人には『眼の誕生』を読んでもらうとして『ねじとねじ回し』の話に戻る。

 たしかに、生まれたときからあたりまえのように身近にあったので今までねじやねじ回しについてじっくり考えたことがなかったが、言われてみればよくできた道具だ。

 ねじ穴にねじをつっこみ、ねじ回しでくるくる回す。それだけなのにものとものががっちり固定される。多少はゆるむこともあるが、おもいっきり締めればたいてい十年はもつ。それでいて、反対側にまわせばゆるんではずせるのがすごい。

 精密機械にも使われているし、大きな橋を見るとあちこちにボルトがつけられていたりもする。あんな巨大なものでもねじで支えられているのだ。見たことはないけど、きっとロケットや宇宙ステーションにだってねじは使われてるんじゃないだろうか。

 おまけにねじのすごいのは、もうほとんど完成しているところだ。数十年前からねじの形状はまるで変わっていない。そりゃ細かい修正はあるのだろうが、形状は百年前となんら変わらない。

 そういや『ドラえもん』に、ドラえもんのねじが一本はずれて調子が悪くなるというエピソードがあった。22世紀のロボットにもねじが使われているのだ。

 電動ドライバーなるものもあるが、あれも人の手がやる部分を電気の力でやっているだけで、ねじとねじ回し部分はなんら変わっていない。

 よく考えたら、すごいぞねじ。「この千年で最高の発明」という称号も決しておおげさではないかもしれない。




 本筋とはずれるが、すごいのはねじだけではない。

 この本には、他のすごい発明品も挙げられている。そのひとつが、洋服のボタンだ。

 ところが一三世紀に入ると、突如として北ヨーロッパでボタンより正確には――ボタンとボタン穴――が出現した。この、あまりにも単純かつ精巧な組み合わせがどのように発明されたのかは、謎である。科学上の、あるいは技術上の大発展があったから、というわけではない。ボタンは木や動物の角や骨で簡単に作ることができるし、布に穴を開ければボタン穴のできあがりだ。それでも、このきわめて単純な仕掛けを作り出すのに必要とされた発想の一大飛躍たるや、たいへんなものである。ボタンを留めたりはずしたりするときの、指を動かしたりひねったりする動きを言葉で説明してみてほしい。きっと、その複雑さに驚くはずだ。

 単純な仕組みでありながら、そして技術的にはさほど難しくないにもかかわらず、人類が何千年もおもいつかなかったボタン。

 穴に、糸のついたものを通してひっかける。たったこれだけのことで、服が脱げたりずれたりするのを防いでくれるし、それでいて脱ぎたいときにはすんなり脱げる。言われてみればすごい発明品だ。

 誰かがボタンを発明したとき、きっと周囲の人たちは「どうしてこんなかんたんなことを思いつかなかったんだ!」と悔しい思いをしただろうなあ。




 正直言って、「ねじとねじ回しの発明」という本題はあまりおもしろくなかった。

 最大の理由は、図解が少ないこと。ねじがどんなふうに進化してきたかを一生懸命説明してくれているのだが、こんなのはどれだけ筆を尽くしても伝わらない。がんばって説明しようとしているのはわかるが、ぜんぜんわからない。一枚の図解があれば伝わるのに……。

 結局、どんなふうに誕生したのかはよくわからなかった。最後の最後でアルキメデスの名前が出てきたときは「おお、こんなところにまで登場するとはさすがはアルキメデス! 」と興奮したけど。

 まあぼくがねじに興味がないからおもしろくなかっただけで、ねじ大好き! 四六時中ねじのことばかり考えています! というねじファンが読めば楽しいんじゃないでしょうかね。


 今すでにある発明品について、なんとなく「遅かれ早かれ誰かが発見した」とおもってしまう。

 ところが筆者によると、必ずしもそうではないらしい。

 天才技師は、天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることに間違いはない。フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE・M・バタイユはこう述べている。「発明とは、科学者の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、なにかを作り出すことなどできないからだ」たとえば、セザンヌが存在しなくても誰か別の画家が同じようなスタイルの絵を描いただろうと言われても、多くの人は納得しないだろう。その一方で、新しいテクノロジーは登場すべくして登場したのだ、それは必然の結果だったのだと言われれば、たしかにそうだと納得してしまう。だが、この一○○○年で最高の工具を探し求めるうちにわかってきたのは、それは違う、ということだ。

 発明品には、世界各地で別々に発明されているものがある。たとえば文字は、あらゆる場所でそれぞれ無関係に発明された。だからルーツの異なる文字が何種類もある。

 だが、たったひとりの発明家によって発明されて、それが世界中に伝わったものもある。たとえば、さっき書いたボタン。もし十三世紀にボタンが発明されていなかったら……ひょっとすると二十一世紀の今でもボタンが存在していないかもしれない。いまだに紐でぐるぐる縛っていた可能性もある。

 一部の発明品は「遅かれ早かれ誰かが発明していたさ」とは言えないのだ。

 ということは。

 いまだに我々は、ボタンのようで「ごくごく単純な仕組みでありながら超便利な発明」をおもいついていない可能性がある。

 二十六世紀の人々から「二十一世紀の人たちってヌローズでエネルギーを作る方法すらおもいつかずに石油や原子力で一生懸命発電してたらしいよ。ばかだねー」なんて言われているかもしれない。


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2022年3月8日火曜日

【映画感想】『のび太の宇宙小戦争 2021』

『のび太の宇宙小戦争 2021』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画41作目。1985年に公開されたシリーズ6作目「映画ドラえもん のび太の宇宙大戦争(リトルスターウォーズ)」のリメイク。夏休みのある日、のび太が拾った小さなロケットの中から、手のひらサイズの宇宙人パピが現れる。パピは、宇宙の彼方の小さな星、ピリカ星の大統領で、反乱軍から逃れて地球にやってきたという。スモールライトで自分たちも小さくなり、パピと一緒に時間を過ごすのび太やドラえもんたち。しかし、パピを追って地球にやってきた宇宙戦艦が、パピを捕らえるためのび太たちにも攻撃を仕掛けてくる。責任を感じたパピは、ひとり反乱軍に立ち向かおうとするが……。

 劇場にて、八歳の娘といっしょに鑑賞。もともと2021年公開のはずが、コロナ禍で1年延びて今年公開となった。配信にしてくれたらいいのに、とおもうが、劇場の都合など考えるとそんな単純な話でもないのだろう。


 1985年版『のび太の宇宙小戦争』の映画は観ていないが、大長編コミックを持っていたのでストーリーはよくおぼえている。

『のび太の宇宙小戦争』はドラえもん映画の中でも好きな作品のひとつだ。特に、「ドラえもん映画にしては出木杉の出演シーンが多め」「ドラえもん映画では脇役にまわりがちなスネ夫としずかちゃんが活躍する」のがいい。

 だが、好きな映画だからこそリメイクをすると聞いたときは若干の心配もあった。


 ドラえもんの映画は、エンタテインメントに徹しているものもあれば、やたらと説教くさいものもある。環境保護だとか他の生物との共生とか。当然ながらおもしろいのは前者のほうだ。メッセージなんて観た人が好き勝手に受け取るものであって、製作者が押しつけるものではない。

 なので『宇宙小戦争』も、一時のドラ映画のように「センソウ、イケナイ。ヘイワ、ダイジ」的なメッセージ性の強いものに改悪されていたら嫌だなーとおもいながら劇場に足を運んだのだが、心配は杞憂だった。

 原作の魅力はそのまま残し、劇場版ならではの迫力は倍増。さらに登場人物の内面もより深く掘りさげられ、それでいながらスピード感があるので説教くささは感じさせない。とにかくわくわくさせてくれた。

 ウクライナで戦争が起こっている今だからおもうことはいろいろあるが、それについては書かないでおく。あくまでこれはドラえもんの映画。子どもを楽しませるための映画なのだ。現実の政治や戦争を語るために利用すべきではない。




『宇宙小戦争』がいいのは、ドラえもんが道具をちゃんと使えることだ。

 以前にも書いたが、ドラえもんの映画ではドラえもんの道具使用が制限されることが多い。ポケットがなくなったり、ドラえもんが精神異常になったり。
 そりゃあドラえもんの道具はほぼ万能だから封じたくなる気持ちはわかるが、この〝ハンデ戦〟をやられたら観ているほうとしたら興醒めだ。「はいはい、登場人物を窮地に陥れるために道具を使えなくしたのね」と、製作者の意図が透けてしまう。ピンチをつくるために無理やり道具を使えなくする。ご都合主義の反対、不都合主義とでも呼ぶべきか。ドラえもんの道具を封じたら、

 だが『宇宙小戦争』ではスモールライト以外の道具は問題なく使える。スモールライトを使えなくなる理由もストーリー的にまったく不自然でない。

 ちなみに昔『宇宙小戦争』を読んだときは「ビッグライトで戻ればいいじゃん」とおもったものだが、今作ではその解決法を封じるために「スモールライトで小さくなったものはスモールライトでないと戻れない」という設定をつけくわえている。

 ドラえもんがスモールライト以外のすべての道具を使えるのに、それでも敵わない。だからこそ敵の強さが伝わってきて、観ている側はどきどきする。『魔界大冒険』もそうだった。安易に道具の使用を制限しないでほしい。




 出木杉の活躍

 旧作『宇宙小戦争』の序盤は、出木杉が大いに活躍した。スネ夫たちが特撮映画を撮影するにあたって、のび太の代わりに出木杉を仲間に入れる。すると出木杉は次々にすばらしいアイディアを出し、映画のクオリティはどんどん上がる……。

 ところがリメイク版でははじめから出木杉が仲間に入っている。そこにドラえもんが道具を貸すことで、さらにクオリティが上がる……というストーリーだ。これは残念だった。出木杉がドラえもんの引き立て役になってしまっている。

 旧作のスネ夫の技術に出木杉の知恵が加わることですばらしい映画ができあがっていくシーンはほんとにわくわくしたのに。ドラえもんが道具を貸したらいいものができあがるのはあたりまえじゃん。足りない分を知恵で解決するところが特撮映画の魅力なのに。なんでもかんでもドラえもんの道具を使えばいいってもんじゃないぞ。

 また、「出木杉が塾の合宿に行った」という設定がつけくわえられ、途中で完全に出木杉は姿を消す(ラストシーンでだけ再び顔を出す)。これも、出木杉ファンのぼくとしては残念でならない。
 でもこれはよく考えたら出木杉に対する優しさだな。なんせ旧作では「途中まで仲間だった出木杉が何の説明もなくのけものにされる」んだもの。それに比べれば「塾の合宿があるから誘えない」という今作はずっと優しい。


 スネ夫の活躍

 やはり『宇宙小戦争』はスネ夫の活躍抜きには語れない。というより、本作の主役はスネ夫だといっていいだろう。リメイク版ではスネ夫の出番が減るどころか、より多くスネ夫にスポットライトが当たっていた。

「ジャイアンは映画では性格が変わる」とはよく言われるが、いちばん変わるのはのび太だ。特に最近の映画でののび太は、勇敢で意志が強くて行動的なスーパーヒーロー。原作ののび太は「何をやらせてもダメ」だからこそ多くの子どもに愛されるのに、映画版のび太は大谷翔平のような超人だ。まったく共感できない。

 のび太も、ジャイアンも、しずかちゃんも、とにかくまっすぐだ。一度自分のやるべきことを決めたら一切の迷いもなく突っ走る。
 そこへいくと人間・スネ夫は迷い、悩み、反省し、考える。自分の正しさをも疑うことができるのがスネ夫だ。『のび太の月面探査記』でも、唯一臆病さを見せていたのがスネ夫だった。

 ぼくが信用できるのはスネ夫のような人間だ。なぜなら多くの人間と同じだからだ。もちろんぼくもそうだ。

 行動に一切のためらいのない人間は信用できない。全力疾走する人間はたまたまいい方向に走ればすばらしい結果を生むこともあるが、まちがった方に向かえばとんでもない悲劇を生む。正しさなんて誰にもわからない。みんな自分が正しいとおもっているのだから。ヒトラーだってポル・ポトだって毛沢東だってプーチンだって、みんな自分は正しいとおもって一生懸命がんばってたんだぜ。

 戦争を始めるのが映画版のび太のような人間で、戦争を防ぐのがスネ夫のような人間なのかもしれない。

 だって、パピが言っていることが真実だとどうしてわかるの? もしかしたらあっちが多くの人を殺した大悪党なのかもしれないよ? 遠い星で起きた内戦で、どちらが正しいかなんて地球にいるのび太に判断できるわけがないよね。
 それなのに、一方の言い分だけを鵜呑みにして加勢するなんて怖すぎる……。


 いや、これ以上はやめておこう。ぼくはなにものび太たちの行動にケチをつけたいわけではない。子ども向けエンタテインメント映画なのだから、わかりやすい正義VSわかりやすい悪でいい。悪役はとことん悪くていい。生まれながらの悪で、四六時中悪いことを考え、いいことはひとつもせず、悪いことをするためだけに悪事をはたらく。そんなやつでいい。悪党にとっての信念だの道を踏み誤った背景だのはいらない。
 じっさい、『宇宙小戦争』の敵であるギルモア将軍はそんなやつだった。だからおもしろかった。

 ただ、自分がスーパーヒーローになれないとわかったおっさんとしては、どうしてもスネ夫に肩入れしてしまうんだよね。ほんとはよその星の戦争なんかに参加したくないのに周囲に流されてついていってしまうスネ夫、ついていったはいいもののやはり怖くなってしまうスネ夫、戦う決心をしたもののいざ敵を目の前にすると足がすくんでしまうスネ夫、身の危険がないとわかると調子づいて戦うスネ夫……。なんて人間くさいんだ。

 今作は、スネ夫の人間的魅力が存分に発揮された作品だった。


 ドラコルル

 大ボスであるギルモア将軍は卑怯で、心が狭く、猜疑心の塊で、思考が単純で、そのくせ自信家で、どうしようもない敵だった。

 その点、ギルモア将軍の部下であるドラコルル長官はじつに魅力的な悪役だった。大長編ドラえもん史上「最弱にして最強」とも呼ばれているらしい。地球人ならかんたんに踏みつぶせるほどの小さな身体でありながら、その知恵と計略でスモールライト以外の道具を使えるドラえもんたちを追い詰める。決して敵を侮ることはなく、常にあらゆる可能性を想定し、どんなときでも落ち着いて思考し、行動する。

 彼は敵だけでなく、上司であるギルモア将軍を疑うことも忘れない。おそらく自分自身をも完全には信じていない。またドラえもんたちに追い詰められた後は「我々は敗れたのだ」と潔く負けを認め、ギルモア将軍のように保身のために逃走したりもしない。かっこいい男だ。もし彼がパピよりも先に地球にやってきてのび太と出会っていたら……。ピリカ星はまた違った運命を迎えていたかもしれない。


 前作とリメイク版との違い

 前作を最後に読んだのは二十年以上前だから記憶を頼りに書くが……。


・出木杉の活躍シーンの減少

 これは前に書いたとおり。残念。


・ウサギがぬいぐるみが横切るシーンの削除

 パピの初登場、スネ夫と出木杉が推理をくりひろげるシーンがまるっと削除。これにより、出木杉の活躍シーンがさらに減ってしまった。


・パピの姉・ピイナの存在

 原作には存在しなかったキャラクター・ピイナ。これはゲスト声優を出演させるための大人の事情ってやつなんだろうな。原作ではしずかちゃん以外に女の子が登場しないから。

 はっきりってピイナはいてもいなくてもほとんどストーリーには関係ないポジション。パピ大統領の子どもっぽい一面がかいまみれる、ぐらいのはたらきしかない。「ピイナとしずかちゃんの顔が似ている」設定も、だからなんだって感じだし。

 大人の事情はわかるとしても、無理やり新キャラをねじこむぐらいなら出木杉の活躍シーンを残しておいてほしかったぜ。


・その他細かいシーン

 果敢に戦うしずかちゃんを、それまで隠れていたスネ夫が助けるシーン。たしか原作でのスネ夫の台詞は「女の子を危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」だったと記憶しているが、今作では「君ひとりを危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」になっていた。これは当然、時代に即した修正。

 ラスト近く、逃げるクジラ型戦闘機にジャイアンが馬乗りになるシーン。原作ではジャイアンが服を脱いで戦闘機にかぶせて目隠しをしていたのだが、なぜか今作では服を脱がなかった。特に問題があるシーンとはおもえないが……。
 やっぱあれかね。男の子であっても小学生児童の乳首が見えるのはまずい、という配慮なのかね。そのわりにしずかちゃんの入浴シーンはしっかり残っていたが……。



 
 前作の良さを存分に残しているので、前作ファンにも楽しめる。もちろん前作を知らない人はもっとおもしろいにちがいない。娘も大満足だった。

 ただ一箇所だけ、ぼくは気になったところがある。

 すごく細かい揚げ足取りで申し訳ないけど、ドラえもんたちが戦車に乗っているシーン。ずっと画面隅に戦車のバッテリー残量らしきものが写っているのだがそれがどのシーンでもずっと残量90%だった。

 どうでもいいのだが、どうでもいいところだからこそずっと気になってしまった。


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