2021年11月8日月曜日

ツイートまとめ 2021年8月


差別や侮辱の意図

マイミク

赤十字

ハナテン

成長中の家

全集

不必要

ユニバ

ありがた迷惑

ひだまり

珍事

×わいさつ → ○わいせつ

2021年11月5日金曜日

【読書感想文】鷺沢 萠『私はそれを我慢できない』

私はそれを我慢できない

鷺沢 萠

内容(e-honより)
名前くらい覚えてくれぃ!私はワシザワでもモエでもないぞとプンスカぶりぶり。はたまた、トイレが長いと友人に立腹するが、私が短かすぎるだけなのか!?深夜ドライブに行けばガス欠で、営業中のスタンドが見つからない…。あれってひどすぎ!?それってあんまり!?というトホホな事態、ムムムな状況に直面し続けるサギサワに、思わず同感、やがて納得、おまけに爆笑のエッセイ集。

 

 1995年刊行のエッセイ集ということで、古くさい。
 いやまあ三十年近くたてば古びるのはしかたないが、それにしても古くさい。

 冒頭のエッセイの書きだしにもう「古っ」と叫んでしまった。

 基本的に、どちらかといえば「せっかち」な部類の人間なので、などというソフトな言い方をすると、友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそうなので正直に言うと、私は物凄くせっかちな人間なので、のんびりゆったり構えている人を見るとイライラする、ということはある。いや、はっきり言えば私が世界中でいちばん嫌いなのはノロノロしていることである。
 前言撤回。ノロノロしていること以上に嫌いなことを思い出した。それは「待つこと」。だから人を待たせてもゼンゼン平気、何とも思っちゃいないわーん、という感じの人を見ると、イライラを通り越して、傘の柄が折れるまで背中をぶっ叩いてせかしてやりたい、という衝動に駆られる。まあ、つまり「イラチ」なんですな。

 このダサさよ。読んでいるこっちが恥ずかしくなる。

 文体が絶望的に古くさい。
 椎名誠と町田康の文章をたして10で割ったような文体。

 椎名誠氏とか東海林さだお氏の文章が〝昭和軽薄体〟と呼ばれた。たしかにそうした文章は今読むと古い。しかしなつかしさは感じても、ダサいとは感じない。それは、自身の思想を最も効果的に表現するために試行錯誤の末に生みだしたものだからだろう。だから彼らの思想を表現する手段は、あの文体しかない。

 本物は古びない。
 町田康氏の文章は、何十年たっても「町田康の文章」だ。

 しかし鷺沢氏の文体は、そうではない。手っ取り早く「おもしろおかしいエッセイ風に仕上げるためのスパイス」として、〝友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそう〟なんて言い回しを使っている。
 己の内面からにじみ出てくる文体ではなく「そのときの流行りの文体をうわっつらだけ真似た文体」。

 中身と皮があっていないから、すぐ腐ってしまうのだ。




 気恥ずかしくなるほどダサい文章だけど、読んでいるとそのダサさも愛おしくなってくる。ああ、こんなのがおもしろおかしいとおもわれていたんだなあ、と当時のカルチャーが見えてくる気がする。


 文体だけでなく、書いている内容も「時代なあ」と感じる。

 あの頃のエッセイってこんなんだったよなあ。
「私の友だちが言ったケッサクな一言」や「身の周りの腹立つ出来事」といった、微小な出来事を、大した工夫もせずにそのまま提示する。
「こんなことがあってむかついたんですけどー!」みたいな、ひねりもオチもないお話。美容院で場を埋めるためだけに交わされる会話ぐらいの情報。

 自慢と自虐をほどよくブレンドしてひねりのない悪口を加えただけで「人気女流作家の歯に衣着せぬ爆笑エッセイ」になった時代の産物。


 端的に言ってしまえばつまらないんだけど、そのつまらなさがなつかしい。
 今ってさ、情報量が増えた結果、おもしろい話が氾濫してるじゃない。Twitterなんか見ていると、毎日どこかの誰かが発信したおもしろい話が流れてくる。
「100万日に1度しか遭遇しないおもしろい出来事」があったとして、ユーザーが1000万人いれば毎日10個はそういう話が投稿されることになる。おもしろい話はたくさん拡散されるから、ぼくらは毎日毎日「めちゃくちゃめずらしい出来事」「とんでもなくおもしろい発想」を目にすることになる。

 それはもちろんいいことなんだけど、ちょっと疲れることでもある。
 だからたまに〝ぜんぜんおもしろくないエッセイ〟を読むと、ほっとする。ああよかった。自分だけが退屈な日常を送っているわけじゃないんだ。他の人もたいしておもしろくないことをおもしろがって生きているんだ、と安堵する。

 あんまりおもしろくない文章なのがありがたい。ほんと、皮肉じゃなくて。

 こういう文章って後世に残らないから、逆に価値がある。


 あと、ネット上ではちょっと危険な発言をするとすぐに炎上してしまうこともあって、優等生的な意見ばかりが目に付くようになった。
 二十年前は「こんなことは身の周りの人には言えないからウェブ掲示板にでも書こう」だったのに、今は逆に「こんなことを書くと炎上しそうだからオフラインだけで言おう」になった。

 だから、こうした平凡なエッセイで「それはちょっとまずいんじゃないの」ということを読むと無性にうれしくなる。

 時代のちがいもあるんだけど、『私はそれを我慢できない』には、
「阪神大震災発生直後に、被災地に住んでいる人を心配して電話をかけまくる」
とか
「ドライブしてたらガソリンが足りなくなったので消防署にガソリン分けてくださいとお願いしにいく」
とか
「夜中の12時に窓を開けて電話でおしゃべりしてたら近所のおっさんに怒鳴られた。心が狭い」
とか、今読むと「いやこれはダメでしょ」と言いたくなるエピソードがいっぱい出てくる。

 しかも著者はぜんぜん悪いこととおもってない書きぶりなんだよね。変わっていないようで、時代とともに人々の価値観は変わってるんだなあ。




「三日坊主」について。

 三日坊主ということばとは、関わったことがほんとうにない。なぜなら私は、年のはじめにあたって「今年の抱負」を語ったり、別に年のはじめじゃなくても「○月○日までに必ず○枚書きあげるぞ」と心に誓ったり、別にそういう真面目なことじゃなくても「○月までに○キロ痩せるぞ」と決心したり、ということをまるでしない人間だからである。ほんとにまるでしない。全然しない。一切しない。ハハハハハ。
 あ、またもや三日坊主で終わっちゃった、どうしよう、あたしってホントにだらしない、オレってホントに駄目な奴……、などと思うのは、そのことに少しでも罪悪感をおぼえるからこそである。

 これ、ぼくも同じだ。

 中学一年生の一学期。進研ゼミからのアドバイスに「定期テスト対策。まずは一週間の計画を立てよう!」なんて書いてあったからぼくもやってみたんだけど、すぐにああこりゃムリだと気が付いた。

 まったく守れないのだ。一日たりとも計画通りにできたことがない。

 それ以降、計画なんてものを立てたことがない。定期テストも、高校受験も、大学入試も、大学のレポートも、卒論も、社会人になってからも、計画なぞ立てていない。
 さすがに仕事では「計画を提出せよ」と言われたこともあるが、それっぽいものを提出しただけでまったく守っていない。あんなもの上司だって見ちゃいないのだ。

 それでもなんとかなっている。「目の前のタスクをとにかくこなす」だけで、受験も卒論も仕事もなんとかなった。

 計画なんて守れる人だけ立てればいいのであって、守れない人は立てないほうがいい。時間の無駄だし、ストレスの要因になるだけだから。


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2021年11月4日木曜日

「ボールをよく見て」式の教育

 子どもたちとボールを使って遊んでいると、〝運動神経〟の差が歴然としていることに驚く。


 八歳の娘にテニスラケットを買い、何度か練習した。土日は六時半に起きて公園で一時間ぐらい練習をした。通算で四時間ぐらいは練習しただろう。娘も少しずつではあるがうまくなってきた。

 休みの日に、娘と、その友だちYちゃんとテニスをした。Yちゃんはテニス初体験。ラケットを握るのもはじめてだ。はじめはラケットにボールを当てることもできなかったYちゃんだが、やっているうちにどんどんコツをつかんで上達していく。

 二十分もすると、Yちゃんはもう娘よりもうまくなっていた。

 四時間二十分練習をした娘よりも、二十分やっただけのYちゃんのほうがうまい。さらにその差はその後どんどん開いていく。

 努力を才能があっさりと追い抜いてゆく。うーん、残酷だ。




 ぼくも、決して運動神経のいい子どもではなかった。
 かけっこは中の下ぐらい。サッカークラブに入っていたが、13人しかいないチームなのにときどきレギュラー落ちするレベル。
 マラソンだけは得意だったがあれは上手とか下手とかいうものではなくほとんど肺活量によって決まる。

 運動神経が良くはないが、スポーツは苦手ではない。特に今は。
 テニスでも野球でもサッカーでも、同世代のおじさん100人をランダムに集めたら上から38番目ぐらいにはなれる自信がある。得意ですと胸を張れるほどではないが苦手でもない。
 なぜなら、経験があるから。
 高校時代、毎日放課後友人たちと野球やサッカーに明け暮れていたから。
 多くの経験に支えられ、一通りのスポーツは人並み以上にはできるようになった。

 とはいえそれは「運動神経の良くない人たちには(経験の差で)勝てるようになった」というレベルで、運動神経の良い人にはどんなに努力してもかなわない。




 持って生まれた〝運動神経〟の差は、確実にある。

 ボールの軌道を読む力とか、見た動きを自分の身体で再現する能力とか。人によって生まれもったものがぜんぜん違う。
 こちらが努力して向こうが努力すればその差を埋めることはできるかもしれないが、両者とも努力をすれば差は拡大する一方だ。


 ところで、スポーツをしていて
「ボールをよく見て」
というアドバイスをされたことはないだろうか。
 ぼくは千回ぐらいある。

 このアドバイスは〝できる人〟のアドバイスだ。

〝できる人〟は、これだけでできちゃうのだ。ボールをよく見れば、軌道と速度がわかり、瞬時にボールが落ちてくる位置がわかるのだ。そしてその位置に手なり足なりラケットを差しだして、正確にミートさせることができるのだ。

 できない人はそうではない。ボールをよく見たところで、その後の軌道がわからない。わからないからどこに移動すればいいかわからない。仮にわかったところで、自分の身体を適切な位置に運ぶことができない。

 もちろん経験によってある程度できるようにはなるが、10回やればできるようになる人もいれば、10,000回やらないと身につかない人もいる。


 長嶋茂雄氏が「スーッと来た球をガーンと打て」などとわけのわからんアドバイスをしたことは有名だ(真偽は知らん)。
 あそこまで極端なのはめずらしいとしても、運動神経の良くない人間からすると「ボールをよく見て打て」もそれとどっこいどっこいのアドバイスだ。

 物理学者からしたら「初速度と角度さえわかれば、滞空時間も到達高度も到達距離もかんたんにわかるじゃないか(空気抵抗はないものとする)」とおもうかもしれないが、素人にはわからない。それといっしょ。




「ボールをよく見て」的なアドバイスはあらゆる分野にあふれている。

 美術教師には「対象をよく見て、見たままを描きましょう」と言われた。

 音楽教師には「お手本をよく聞いて、お手本通りに歌いましょう」と言われた。

 彼らにはそれができるのだ。見たまま描けば上手な絵になり、聞いたままに歌えば上手に歌える。

 体育教師も美術教師も音楽教師も、それぞれの教科が生まれつき得意だった人だ。みんな労せずして〝できる人〟だ。見たまま聞いたままに再現することのできる人だ。

 だからほとんどの教師には、「よく見てもできない人」の指導方法がわからない。




 以前、中国人に日本語を少しだけ教えたことがある。
 彼らの多くは「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」の音を出すのが苦手である。中国語にない音だからだ。
「『ぎゃ、ぎゅ、ぎょ』と言って」と言うと、「や、ゆ、よ」と言う。そして「あってるでしょ? どこがちがうの?」と首をかしげる。

 日本人からすると「ぎゃ」と「や」なんてまったく別の音である。混同することなんて考えられない。

 同様に、日本人はLとRの聞き分けが苦手だが、英語圏の人間からすると「LとRが聞き分けられない」なんて信じられないことだろう。

 英語圏の人が「LとRのちがいを説明してください」と言われても困るだろう。
「ちがいも何もまったく別物じゃないか。聞いたとおりに表せばいいだけだよ」という気になるだろう。

「ボールをよく見て」も同じだ。




 ぼくは運動神経は良くないし、音痴だし、絵もうまくない。
 でも幸いにして学校の勉強は得意だった。

 もちろん努力もしたが、持って生まれた〝センス〟もあったのだろう。生まれつき運動神経がいい人のように、ちょっとの努力で教わることの大半を理解できた。

 中学生ぐらいで気が付いた。自分は勉強が得意だな、と。
 同じ時間勉強しても、身につく量が他人よりもずっと多いようだ、と。


「勉強のセンスがない人」は存在する。
 彼らは人より努力しても、人並み以下にしか勉強ができない。
 運動神経の良くない人がどれだけ努力してもオリンピック選手になれないのと同じように。

 それはしかたがない。そういうものなのだから。
 身長の高い低いが本人の努力とあまり関係ないのと同じで、そういうふうにできているのだからしかたがない。

 残酷なのは、学校という場がまるで「生まれもった差はなく、できる/できないは努力によってのみ決まる」であるかのような〝ウソ〟を前提に設計されていることだ。

 だから「しっかり話を聴きなさい」「よく考えなさい」「ボールをよく見なさい」「お手本の通りにやりなさい」式の、「できる人にしか通用しない」指導方法がいつまでたってもなくならない。


 能力差に応じてグループ分けをすることと、能力差があってもみんなを同じスタートラインに立たせて同じルールで同じゴールに向かって走らせること。

 どっちが残酷なんだろうね。


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2021年11月2日火曜日

【読書感想文】川上 弘美『センセイの鞄』

センセイの鞄

川上 弘美

内容(e-honより)
駅前の居酒屋で高校の恩師と十数年ぶりに再会したツキコさんは、以来、憎まれ口をたたき合いながらセンセイと肴をつつき、酒をたしなみ、キノコ狩や花見、あるいは島へと出かけた。歳の差を超え、せつない心をたがいにかかえつつ流れてゆく、センセイと私の、ゆったりとした日々。谷崎潤一郎賞を受賞した名作。

 三十代独身女性と、ひさしぶりに再開した高校時代の教師である〝センセイ〟の交友をつづった小説。

 とても雰囲気のいい小説だった。
 特に何が起こるわけでもなく、ただ〝私〟と〝センセイ〟が一定の距離を保ちながら居酒屋で会ったり散歩したりするだけ。大きな事件は起こらない。旬のものを食べるとか、おろし金を買うとか、ほんとに些細な日々がつづられている。

 でも、その距離感が心地いい。おしゃれなラジオ番組を聴いているようで、特に何が得られるわけでもないけどじゃまにもならない。ほんの少しだけ気持ちが明るくなる。五十が五十二になるぐらいの、少しだけ。


 センセイは、笑っていた。笑うか、このやろ、とわたしは心の中でののしった。センセイは、大いに笑っていた。物静かなセンセイらしくない、呵々とした笑い。
「もうその話はやめましょう」わたしは言いながら、センセイをにらんだ。しかしセンセイは笑いやめない。センセイの笑いの奥に、妙なものが漂っていた。小さな蟻をつぶしてよろこぶ少年の目の奥にあるようなもの。
「やめませんよ。やめませんとも」
 なんということだろう。センセイは、わたしの巨人嫌いを知って、厭味を楽しんでいるのである。たしかに、センセイは楽しんでいた。
「巨人っていう球団はね、くそったれです」わたしは言い、センセイがついでくれた酒を、あまさず空いた皿にこぼした。
「くそったれとは。妙齢の女性の言葉にしては、ナンですねえ」センセイは落ちつきはらった声で答えた。背筋をいつもにも増してぴんと伸ばし、杯を干す。
「妙齢の女性ではありません、わたしは」
「それは失敬」
 不穏な空気が、センセイとわたしの間にたちこめていた。

 これは、〝私〟とセンセイが贔屓のプロ野球チームの話をきっかけに喧嘩をするシーンだが、喧嘩のシーンなのに品があるし、そこはかとなく楽しそう。

 贔屓の球団の話で喧嘩をするなんて、仲が良くないとできないもんね。相手に対する信頼がないと、相手の贔屓球団を「くそったれです」なんて言えない。

 この喧嘩だけで、ふたりの関係が良好であることがよくわかる。
 ま、作中ではこの喧嘩がきっかけでしばらく口を聞かなくなるんだけど。


 贔屓の球団をめぐって喧嘩をすることからもわかるように、〝私〟と〝センセイ〟は「大人の付き合いをしている子ども」だ。

 つまらないことで意地を張るし、相手の気を惹くためにちょっかいをかけたりもする。〝ガキ〟なのだ。そう、ぼくやあなたと同じく。


 自分が子どものときは、大人は大人だとおもっていた。いついかなるときも大人のふるまいをするのだと。
 特に、うちの両親は、息子が言うのもなんだけどものすごく〝まっとうな大人〟だった。
 悪ふざけもしないし、泥酔もしないし、下ネタも口にしないし、他人の悪口もあまり言わないし、わけのわからないことでやつあたりもしない。
 今にしておもうと、べつに両親が聖人君子だったわけではなく、「なるべく子どもの前では〝立派な大人〟としてふるまおうとしていた」のだと理解できるのだけど、子ども時代は「大人はいつでも自制心を保っているのだ」と信じこんでいた。
 中学生ぐらいになると両親のダメな部分も見えてくるようになって、だから反抗期になったわけだけど。

 しかし自分がいい大人になってみてわかるのは、大人になったからってぜんぜん良識的な人間になるわけではない。狭量だし、怠惰だし、身勝手だ。悪ふざけだってしたい。大人が悪ふざけをあまりしないのは「失うものが大きい」のと「ふざける元気もない」からだ。ほんとは大人だって子どもっぽいふるまいをしたい。少なくともぼくは。


『センセイの鞄』に出てくる〝私〟と〝センセイ〟は、どちらも「子どもっぽいふるまいをしたい大人」だ。

 たぶんほとんどの大人がそうなのだろう。だから大人であるほどこの小説は染みる。




 しかしこの人、小説がうまいよね。

 映画を見たあとわたしたちは公園を歩き、映画の感想を言いあった。小島孝は映画の中のトリックにしきりに感心していたし、いっぽうのわたしは主人公の女性のかぶっていたさまざまな帽子にしきりに感心していた。クレープの屋台があったので、小島孝が「食べる?」と聞いた。食べない、とわたしが答えると、小島孝はにやっと笑い、「よかった、俺甘いもん苦手なんだ」と言った。わたしたちはホットドッグと焼きそばを食べ、コーラを飲んだ。
 小島孝がじつは甘いもの好きだということを知ったのは、高校を卒業してからである。

 これは〝私〟が高校生のときに同級生とデートをしたときの回想なのだが、これだけのエピソードでこのふたりがうまくいかないことがわかる。

 高校生のデートってこんな感じだよね。ぼくも高校生のときに女の子とふたりっきりで出かけたことがある。たった一回だけだったけど。そのときもこんな感じだった。最初から最後までかみあわなかった。
 気になる女の子と出かけられたのでうれしかったけど、ぜんぜん楽しくはなかった。たぶん向こうも楽しくなかっただろう。

 中高生ぐらいの男女って精神年齢がちがいすぎるんだよね……。



(ここから物語の展開に関するネタバレあり)


 中盤まではすごく好きな小説だったんだけど、終盤は期待はずれだった。

 〝私〟と〝センセイ〟が男女の関係になってしまうところや、〝センセイ〟が死んじゃう展開とか。

 いや、べつにそのこと自体はいいんだけど、とにかく性急だった。
 なーんか「物語をうまくまとめるために先生が死なされた」って感じなんだよなー。感動させるために殺されました、って印象。

 中盤まではものすごく丁寧に世界を構築してたのに、終盤はとにかく雑。


 そしていちばん嫌だったのが、終盤に夢のシーンが出てきたこと。

 前にも書いたけど、ぼくは「夢で心情表現をするフィクション」が大嫌いなんだよね。夢に登場人物の胸中を投影するのは、逃げだとおもっている。だって夢を使えば、それまでつづってきた世界とは無関係にどんな表現だってできるんだもん。

『センセイの鞄』は、せっかく登場人物の行動や会話や風景の描写によって精緻な世界をつくりあげていたのに、終盤になって突然の「夢」である。あーあ、安易。がっかりだ。

 正確なデッサンと技巧を凝らした筆さばきで精巧な絵を描いていたのに、最後にWindows標準ソフト・ペイントの「塗りつぶし」を使って着色しちゃったみたいなもんだ。そりゃないぜ。

 夢で心情表現をする小説はね、くそったれです。


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2021年11月1日月曜日

ツイートまとめ 2021年7月



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感染を気にしないタイプ

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