2021年10月7日木曜日

ただ倦怠感

 二度目のワクチン接種。

「40度近い熱が出た」「数日は何もできなかった」という話を周囲から聞いていたのでおそれていたのだが、最高37.7度と大したことはなかった。

 あくまで観測範囲の話ではあるが、若い人ほど高熱が出て年配の人は大したことがないケースが多い。ということはぼくももう若くないということである。知ってたけど。


 覚悟していたほどではないとはいえ、37.7度はまあまあの高熱だ。しんどさとしては、風邪以上インフルエンザ未満ぐらい。

 ただ風邪やインフルエンザとはちがうのが、熱こそ出るものの、喉も痛くないし、鼻水も咳も痰も出ない。ただ倦怠感があり、身体の節々が痛むだけだ。

 ああそうか、これはあれだ。「老化」の症状だ。
 まだ三十代なので本格的には経験していないけど、聞くところによれば年をとると身体の節々が痛くなり、なかなか疲れがとれず、だるいのが経常化するそうだ。たぶんこの症状は多くの年寄りが日常的に味わっているやつだ。

 つまりワクチンによって老化を先取り体験しているのだ。
 コナンが飲まされた「若返る薬」の逆だ。老ける薬。

 身体は老人、頭脳は中年!
(そういう人、世の中にいっぱいいるな……)


2021年10月6日水曜日

【読書感想文】少年割腹マンガ / 藤子・F・不二雄『モジャ公』

モジャ公

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
奇想天外宇宙SF冒険活劇の大傑作!ある日突然やって来た宇宙人のモジャ公&ロボットのドンモと”宇宙へ家出”した空夫。予測不可能なドタバタ大冒険が始まる!


 半端に終わった『21エモン』の続編的漫画。
 というだけあって、主要登場人物は『21エモン』とほぼ同じ。
 空夫はまだ21エモンとはずいぶん性格がちがうけど(21エモンは主人公にしてはおっとりしすぎてた)、モジャラ(≒モンガー)、ドンモ(≒ゴンスケ)との「一人と一頭と一体で宇宙冒険の旅に出る」というストーリーはほぼ同じ。

 ただしどこか牧歌的だった『21エモン』と比べて、『モジャ公』はずいぶん殺伐としている。
 まずモジャラがかわいくない。マスコットキャラクター風の見た目なのに、一人称は「おれ」で負けず嫌いで女好き。ぜんぜんかわいげがない。

 ストーリーもシリアスなものが多い。
 前半の、金をだましとられる、恐竜に追いかけられる、ロケットレースに参加する、といったところはまだ昔の少年漫画っぽいが、最強の超能力者に執拗に命を狙われたり、死者の星を訪れたりと中盤からはかなりどぎつい表現が目立つ。


 特に『自殺集団』の回はかなりブラックだ。

 とある事情により住民が全員不老不死となったフェニックス星を訪れた三人。すばらしい星だと喜ぶ三人だが、住人たちはみんな覇気がない。死なないことに疲れて気力を失っているのだった。 

 ここで予知能力のあるモジャラが不吉な予知夢を見る。なんと三人が自殺をするという予兆だった。だが空夫とドンモは信じようとしない。モンガーもこの星の住人に恋をして、この星に滞在することに。 

 三人は怪しい異星人オットーににそそのかされて、金を手に入れるために「自殺屋」をやることに。自殺を予告することで注目を集める商売だ。
 予告自殺イベントが大反響。どんどんまつりあげられ、退くに退けない、逃げるに逃げられない状況に追い込まれる。脱走を試みても、自殺を撮影に来た映画監督によって阻止される。オットーに相談するも、大丈夫だから任せておけと言われるだけ。
 いよいよ自殺イベントまであと少しと迫ったとき、オットーは三人を残して金を持ち逃げしてしまう。

 そしてついに自殺イベント当日。観客は何万年ぶりの熱狂。全国民が三人の自殺を熱望している。この状況ではたして自殺を回避できるのか……。


 というスリリングな展開。
 もちろん自殺したらそこで話が終わってしまうので最終的には自殺を回避するわけだが、絶対に予知を外さないモジャラが三人の自殺を予兆しているので「あの予知はどう決着させるのだ?」という疑問が緊張感を強めている。

 しかもモジャラの予知した自殺シーンというのが、割腹したり首を吊ったりで、かなり生々しい。腹から勢いよく血が噴きだしている絵、というのはかなり強烈だ。
 藤子・F・不二雄氏は他にもブラックな作品を描いているが、ここまで直接的な描写はほかで見たことがない。

「誰も死なない世界」というのも、やがて到来する超高齢社会を暗示しているようでおもしろい。
 人口が減らないので新たに子どもは生まれず、住民は全員高齢者。無気力で、目的もなくぼんやりと生きている。
 日本の数十年後の姿かもしれない。 


【関連記事】

【読書感想文】21世紀の子どもも虜に / 藤子・F・不二雄『21エモン』

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』



 その他の読書感想文はこちら


2021年10月5日火曜日

【読書感想文】上西 充子『政治と報道 ~報道不信の根源~』

政治と報道

報道不信の根源

上西 充子

内容(e-honより)
安倍晋三前首相の「訂正してない訂正会見」。加藤勝信内閣官房長官の「狡猾にはぐらかすご飯論法」。菅義偉首相の「全く答えにならない答弁」…なんで政治報道は突っ込まないのか??不誠実な政府答弁とその報じ方への「違和感」を「ご飯論法」を喝破した著者が徹底検証。

「ご飯論法」の名付け親である研究者による著書。
 この本の中でもさんざん誇らしげに「ご飯論法」名づけ自慢をしている。

 が、ぼくは「ご飯論法」という言葉、好きじゃない。というか大嫌いだ。

 だってわかりにくい上につまんないんだもん。

 わかりにくい答弁を例えたのだからわかりにくくて当然なのかもしれないが、それにしたってキャッチーさがない。ぜんぜん伝わらないしユーモアセンスもない。

「ご飯は食べたか」という質問をされて、(パンを食べたにもかかわらず)「ご飯(白米)は食べていない」と答えるようなもの。
というのがご飯論法の説明だが、うん、わかりにくいね。


 だいたいさ、政治家や官僚の逃げの答弁を「ご飯論法」と呼ぶのって、労働基準法違反を「サービス残業」と呼ぶようなものでしょ。問題を卑小化してるだけなんじゃない?

 政治家が国会でまともに答弁しないのって民主主義の根底を揺るがすぐらい重大な問題なのに、ご飯だのパンだのと言われたら「どっちでもええやん」という気になってしまう。あかんやん。

 ちゃんと「詭弁を弄した」とか「支離滅裂な答弁」とか「論点ずらし」とか「話題をそらした」とか指摘して真っ向から非難すべきでしょ。わけのわからん例えをするんじゃなくて。

『政治と報道』の内容は、「メディアがちゃんとおかしいものはおかしいと言え」って話なんだけど、だったら「ご飯論法」なんて言葉遊びをしてないでちゃんと「支離滅裂な答弁で回答を避けた」って書けよ。




 ま、それはいい。

 問題は、この本もまたつまんないってことだ。
 ○年○月○日の国会で□□大臣が「××」と言った、○年○月○日付の△△新聞が「××」と書いた、みたいな細かい話が延々続く。
 一個二個例示するぐらいならいいんだけど、とにかく多い。

 ウェブ用に書いた記事を集めたものらしい。どうりでつまんないわけだ。

 はっきり言って本に収めるような内容じゃない。
 消費期限が数年持つようなトピックじゃないんだよね。古新聞を読んでいるような気分になった。




 後半は消費期限切れの話が延々続くのでほとんど読みとばしたのだが、前半は悪くなかった。

 たとえば野党が与党政府に異議を唱えた場合、「反発した」「批判した」などと報じられることが多い。
 これは「野党は建設的な意見を出さずに反対ばかり」という印象を与えると著者は書く。

 しかし実際の国会で野党議員がおこなっているのは、「批判」「反論」「異議申し立て」「指摘」「主張」「抵抗」などだ。「そのような説明では説明責任を果たしていない」「そのような違法なことは許されない」「そのような対応は不適切だ」「このような状態で採決を急ぐべきではない」――そのように、理由があって異議申し立てをおこない、説明責任を果たさないまま性急にことを進めようとする政府与党の動きに、対抗しているのだ。 なのにそれを「反発」という言葉で表現してしまうと、まるで理もなく感情的に騒いでいるだけのように見える。それは野党に対して失礼だし、「野党は反対ばかり」「パフォーマンス」「野党はだらしない」といった表層的な見方を強化することに加担してしまう。
 国会報道は与野党の動きを報じるのだというのなら、野党がなぜ反対しているのか、どのような指摘をおこなっているのか、何を批判しているのか、その内容を示すべきではないか。「野党は反発」と言わずに、「野党は『……』と批判した」と書くべきではないのか。なぜ、そうしないのか。

 これはぼくもおかしいとおもう(こともある)。

 たとえば憲法53条に
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」
という規定があるにもかかわらず、野党の要求を無視して与党が国会を開かないことについて。

 これは誰が見ても憲法違反だ。
 なのにニュースでは「臨時国会を開くべきだと野党の○○議員は批判した」といった文章になる。
 どう考えたっておかしい。

 殺人が起きたときに『検察は殺人犯に反発した』と書くのか。

 野党議員の口を借りるのではなく、「自民・公明両党は憲法を守っていないし是正する気もない」と事実を書くべきだろう。

 また政府による不正行為・疑惑があったときに
「政府は問題ないとの見解を明らかにした」
などと書くのもどう考えてもおかしい。第三者のことならそれでいいが、当事者の言い分を「明らかにした」はおかしい。

 やはり殺人容疑で逮捕された容疑者が「殺してもいいじゃん」と言ったら「問題ないとの見解を明らかにした」と記事にするのだろうか。

 書くとしたらせいぜい「容疑を否認している」だろう。


「客観的」「中立」は大事だが、それがいきすぎているようにおもう。
 あかんものはあかん!と書かなあかん。


「『不快な思いをさせたのであれば申し訳ない』『誤解を招いた』と陳謝した」なんて記事もよく見る。あれもおかしい。だってあれは謝ってないもん。「おまえらが悪い」と言ってるだけなんだもん。
 ちゃんと「言い逃れに終始した」と書かなきゃ。


 とまあ、序盤に書いていることはまあまあまっとうなんだけど、この著者は党派性が強すぎるんだよね。野党にめちゃくちゃ甘い。

 野党の失態をあげつらってる場合じゃないだろ、的なことを書いている。いや与野党関係なく悪いものは悪いと言わなあかんやろ。そうしてこそ与党批判が正当性を持つんだろ。

 あと「野党は反対ばかり、みたいな印象操作をする書き方はやめろ」と書いておきながら、この本の中でも「大臣はあざ笑うような笑い方をした」とか書いてるし。いやそれこそおまえの主観による印象操作やろがい。




 新聞などの報道は「政治の中身」ではなく「政局」について報じられることが多い。

 しかし本来であれば、政治報道は政局を報じる以外に、今、国会では何が問題となっているのかも、わかりやすく報じるべきなのだ。例えば働き方改革関連法案について、なぜそれが与野党の対決法案になっているのか、野党は何に反対しており、政府与党はどう答えているのか、論点に即したわかりやすい報道がもっと必要だった。
 そういう報道があれば、危ない法案が成立しそうになったときに、世論の力で止めることができる。論点に即した報道がなければ、市民が問題点に気づかないまま法案が成立してしまい、後から問題点を知ることになる。それでは遅いのだ。なのに多くの場合、与野党対決法案は、日程闘争や採決の場面での混乱ばかりがクローズアップされる。政局にならなければ大きく報道しないというのであれば、報道がみずから権力を監視し、警鐘を鳴らすという役割を果たせない。

 政治ニュースを見ていると、まるで将棋の対局記事を読んでいるような気になる。

 逃げ切り、詰め手を欠く、迫った、決定打を欠いた、攻撃、善戦、対決姿勢……。

 いやいや。そもそも全国会議員って個人でしょ。政党や党派に属していても、最終的には個人個人が議員なわけじゃん。
 プロ野球選手は「ジャイアンツの長嶋」だからいついかなるときでもチームのために行動しなきゃいけない。ジャイアンツをやめてフリーのプロ野球選手でやっていくわけにいかないし。
 でも国会議員はそうじゃない。所属する政党の方針に背いてもいいし、党を抜けたって国会議員を続けられる。

 だから党単位で語ること自体がそもそもおかしいんだよね。


 政治の中身ではなく政局の話ばかりになるのは、政治記者がわかってないからなんだろうな。

 だって政策のことをちゃんと書くのはたいへんだもん。

 プラスチックごみ袋を有料化したことで、本当にプラごみが減ったのか、それとも個包装が増えてかえって増えたのか、減ったとしたら環境にどれだけの影響が見込めるのか、代わりに増えたものがないか。
 そういうことを調べるのはすごく面倒だ。

 でも「野党は反発した」なら、寝そべってテレビで国会中継を観ているだけでも書ける。

 小学生にだって「ああこの人はあの人の発言に納得してないんだな」ってわかる。何が問題なのか、どういう歴史背景があるのかはわからなくても、「野党は反発」はわかる。


「将棋のルールを知らないのに将棋担当になってしまった記者」みたいなものだ。

 どういう戦術をとっているのかとか、今の手にどんな意味があるのかとか、序盤の手が終盤にどう効いてくるのかとか、棋士同士にどんな因縁があるのかとかは書けない。ルールも戦術も歴史も知らないから。

 でも棋士が首をかしげたとか、お昼ごはんに何を注文したとか、悔しそうな顔を浮かべたとかは素人でも書ける。目の前の光景さえ見ていればわかるから。


 だから政局の話ばかり書くんだろうね。嘘じゃないし。はい、いっちょあがり!




 報道はしっかりせい、というのもわかる。

 でもぼくは報道機関にそもそも期待をしていない。
 もし自分が報道機関にいたら、と考えればわかる。

 苦労して地味な記事を書くより、国会中継を見て「与野党の対決」系の記事を書くほうがずっと楽でずっと話題になるんならそっちを選ぶ。
 自分が怠惰な人間なのに、記者だけは社会正義のために身を粉にして働けという気はない。

 だから新聞ちゃんとせいとか記者はがんばれとかいう気はない。そんな権利ないし。
 ぼくにあるのは「新聞を読まない」権利だけ。だから購読していない。購読していないからえらそうなことは言わない(NHKに関しては受信料を払っているスポンサー様なので文句を言いたいが)。

 ただまあ報道は社会の木鐸だ、みたいなウソはやめてねとおもうだけだ。営利目的の私企業なんだから、社会正義を司る特権階級みたいな顔すんなよとおもうだけだ。新聞社は軽減税率を呑むなよ、とおもうだけだ。

 週刊文春が喝采を浴びるのは、社会の木鐸とかジャーナリズムとか言わないからなんだよね。軽減税率適用外だからなんだよね。


 ぼくは、政治が悪いのは報道のせいとはおもわない。しょせん私企業が営利目的でやっている報道にそんな力はない。

 問題があるとしたら、司法だとおもっている。上の顔色をうかがって仕事をしない司法機関だけは許せない。社会のゴミクズだとおもっているよ。
 マスコミなんかどうでもいいからみんなもっと腐った司法を非難しよう。


【関連記事】

「道」こそが「非道」を生む



 その他の読書感想文はこちら


2021年10月4日月曜日

キングオブコント2021の感想

 キングオブコント2021の感想。


審査員

 準決勝敗退組芸人による審査制度が終わってから、はじめて納得できる審査員だった。

 2015~2020年はひどかったもんな。審査員がひどいんじゃなくて審査員構成がひどかった。
 そりゃ個々の審査員がどう審査するのは自由なんだけど、だからこそバランスよくいろんな角度からの意見が聞きたい。それなのに、たった3組の芸人なんだもの。
 おまけに照れてるのか言語化できないのかしらないけど変にふざけてコメントするし。まじめなコメント+ボケではなく、単なる悪ふざけみたいなコメントもあった。
 しかも「他の審査員と点数が近いことにあからさまに安堵する審査員」がいたし。いやいや、みんな同じ傾向だったら頭数ならべてる意味がないだろ。他人と違うことを誇れよ。

 今回は審査員によって点数にばらつきがあってよかった。
 やっぱり東京03飯塚さんは構成を重んじるんだねとか、ロバート秋山さんはキャラの濃いコントが好きなんだなとか、やっぱりかまいたち山内さんやバイきんぐ小峠さんはサイコパス感漂うネタを評価するんだなとか、それぞれが書くネタの傾向が審査にも反映されててよかった。5人とも「ウケ量」以外の部分をちゃんと評価できる審査員だった。

 やっぱり審査員は最低限の条件としてネタ書く人にしてほしいよね。


出番順

 詳しくは知らないけど、抽選で出番順を決めたんだよね……。なんか出来すぎだったけど。
 前半に初出場組が続き、中盤はリベンジ組。終盤に前回惜しかったニューヨークや空気階段がきて、ラストがRー1、Mー1との3冠のかかるマヂカルラブリー。ウソみたいによくできた出番順だった。誰かの意思の介入を感じてしまう並びだな。


観客について

 客がひどかったな。ジャブ程度のボケで手を叩いて笑ってた。どう考えても笑いすぎ。全員マリファナきめてんのか。
 感染対策で人数を入れられない分、大げさに笑うように指示でもされてたんだろうか。コントの大会なのに笑い声がじゃまだった。

 笑わない客よりは笑う客のほうがいいに決まってるけど、それにしたってなあ。フリになるところで手を叩いて笑うなよ。見た目のおかしさだけで大爆笑するなよ。



ネタ感想(1本目)


1.蛙亭

 自我を持ってしまったホムンクルス(人造人間)と研究者。

 出番順に泣かされたなあ。後半出番だったら4位くらいにはなっていたんじゃないだろうか。最初のインパクトが強烈だったけど、途中で失速することなくその勢いのまま最後まで走り抜けた。
 ストーリー展開自体は平凡なSFだったけど、キャラクターや関係性を表現するコントだったから変に凝ったストーリーにしなくて正解だったかも。

 露骨にキモがるんじゃなくて、「キモがっていることを見せないようにしているけどついつい出してしまう」表現がいい。

 ホムンクルスの「ピュアであるがゆえの怖さ」は、中野さんの「ただのお人好しっぽい見た目なのにじつは何でも軽くできちゃう人」というキャラクターとよくあっていた。

 

2.ジェラードン

 痛々しいカップルと転校生。

 今大会の個人的最下位。キャラクター押しのコントは好きじゃない。

 もう「キモい見た目のやつがキモいふるまいをして、それをキモいと指摘する」で笑える時代じゃないとおもうんだよね。この〝多様性の時代〟に。
 たとえば蛙亭のコントでは「見た目はキモいけどすごく心はまっすぐで、だからこそかえって周囲に気を遣わせる」という設定だし、この後に出てくるザ・マミィなんかはもっと先に進んでて「誰に対しても分け隔てなく接しましょう、ということの欺瞞」をコントの中で鋭く指摘している。

 そういうコントと並べるには、ジェラードンのこのコントはあまりに古い。
 彼らの「化け物みたいな見た目のやつが実は敏腕FBI捜査官」などのネタを見たことがあるからこそ余計に、「キモいやつをキモく演じる」で終わってしまったこのネタは残念。


3.男性ブランコ

 ボトルに入れた手紙で知り合った男女が初めての対面。

 この導入のコントだと「美しい女性を想像してたらとんでもない女が来た」となることは誰しもが予想できるとおもうが、その予想をほんのわずかに裏切ってくるのが見事。そっち方面で裏切ってくるかーという感じ。すごくセンスを感じた。

 引き合いに出してしまって申し訳ないが、ジェラードンのコントに出てきたような「誰が見てもヤバいと感じる、わっかりやすい変な人」ではなく「たしかにこういう人は実在するけどこのシチュエーションには似つかわしくない人」という程度の裏切りなのが、リアリティと意外性を両立させている。この設定はすごい。

 さらに、他者の見た目を一方的に審判しないところや、変な女性に対して男性が寛容であることで、すごく上品なコントに仕上がっている。

 冒頭に大きな裏切りがあるのでへたしたら出オチになりかねない設定なのに、その後もワードセンスや会話の展開でおもしろさを持続させているのもすばらしい。

 ただ個人的には終盤の「……こんな人だったらいいのにな」という展開は好きじゃなかった。夢オチみたいで。


4.うるとらブギーズ

 迷子センターの従業員と、息子が迷子になってしまった父親。

 ここまで3組強烈なキャラクターが全面に出てくるコントが続いたので、やっとふつうの人がストーリーで魅せてくれるコントが出てきてほっとした。職人による正統派のコント。コントというよりはコメディといったほうがいいかもしれない。

 前半、父親が迷子の奇抜な特徴を伝えるシーンは「おもしろくないな」とおもいながら観ていたのだが、これはフリだったんだね。後半ではボケとツッコミが逆転して、前半を見事に回収してくれた。

 ただ、それだったら前半は「誰にでもわかるわかりやすい異常性」ではなく「実際にいるかいないかぐらいの絶妙なダサさ」ぐらいにしてほしかったな。ニューヨークがそういうの上手なんだけどね。

 感心したのは、笑いをこらえる演技のうまさ。素人が「笑いをこらえてください」と言われたら漫画みたいににやにやして「プッ、ククク……」ってやっちゃいそうだけど、ウルトラブギーズは顔をこわばらせたり顔の体操をしたりで「笑いをこらえる」演技をしていた。うまい。


5.ニッポンの社長

 バッティングセンターにいる高校生に勝手に指導するおじさん。

 個人的にはすごく好きなネタなんだけど、こういう展開で優勝するのはむずかしいよなあ。笑いどころが2種類しかないもんな。深夜のコント番組でやるようなコントだ(『関西コント保安協会』にぴったりのネタだ)。
 でも、だからこそ「ボールが当たるのを気にしない」というひとつのボケで延々引っぱる勇気に感心した。
 過剰に痛がるわけでもなく、凝った言い回しのツッコミをするわけでもない。なのにずっもおもしろい。

 この次のそいつどいつが「怖がらせる」ネタをやっていたが、ほんとに怖いのはニッポンの社長の世界のほうだ。
 ラストで明らかになる「ただの厄介なおじさんではない」という事実によってよりいっそう気味悪さが浮きだつ。

 しかし、審査員にも指摘されてたけど、ほんとに「ボールが当たる演技」がうまいなあ。ボールが見えるようだった。大げさに痛がらず、けれど我慢しているだけで痛くないわけでもないのが感じられるという、絶妙に〝抑えた〟演技だった。


6.そいつどいつ

 同棲中の彼女が顔パックをしている。

 恐怖を感じるコントは嫌いじゃないのだが、これは「怖がらせようとしているのを感じるコント」で、怖さは感じなかった。

 わかりやすすぎる。怖さって、そういうもんじゃない。不気味なマスクつけて不気味な動きしてたら怖いわけじゃない。
 怖いというのは結局「わからない」なのだ。なのにそいつどいつのコントでの女性の動きは全部「怖がらせようとしてる動き」だった。わかりやすい。だから怖くない。ストーリーも予想できるものだったし。

 めいっぱい怖がらせれば緊張を緩和したときに笑いが起こるものだが、怖さが半端なので笑いも半端になってしまった。
「この人は何のためにこんな行動をとっているのだろう?」とおもわせてほしかったな。


7.ニューヨーク

 ウェディングプランナーと新郎。

 ただただバカバカしいだけのコント。わっかりやすいダメなやつがダメダメなふるまいをする。

 ウェディングプランナーの描き方が単純だったんだよな。
 ダメなやつをコントで描くのはいいけど、ダメなやつにはダメなやつなりの論理があるはずなんだよ。「私はこう考えたのでこうしました」「失敗したことを怒られるのがイヤだからごまかすためにこんな行動をとりました」っていう論理が。
 このコントにはそれがなかった。失敗するためだけに失敗をしている。だからキャラクターがすごく平板だ。コントのためだけのキャラクターで、生きた人間じゃない。

 あと、ウェディングプランナーと新郎が初対面であるかのような設定が気になった。
 結婚式なんだからこれまでに何度も打ち合わせしてたわけでしょ。この人が担当だったんなら、その時点で「変えてくれ」ってならなきゃ嘘でしょ。
 この人と初対面という設定にするなら「これまでお客様を担当しておりました〇〇が急遽休職することになりまして。ですが打ち合わせ内容はすべて引き継いでおりますのでご安心ください」みたいなセリフが最初に必要になるんだよね。
 かまいたちが優勝を決めたネタ(ウェットスーツが脱げないネタ)では、冒頭にそういうセリフを置いていた。笑いにはつながらないけど、設定の違和感をつぶすネタはぜったいに必要なんだよね。

 でも「賞味? 消費? どっち?」は笑ったよ。終始「コントのためだけのキャラクター」だったけど、あそこでちょっとだけキャラクターにリアリティが感じられた。

 コントの作りとしては雑だったけど(特に後半のセットが倒れたり外国人の画像を出したりするとこ)、じっさいぼくも笑ったし、ぜんぜん悪いコントではないんだよね。去年は似た系統の「むずかしいことを考えずにただ笑えるばかばかしいコント」で2位になったわけだし。
 これが最下位になったことが、今大会がいかにハイレベルだったかを物語っている。


8.ザ・マミィ

 街中で終始怒っているおじさんに一切の偏見も持たない青年。

 今大会の個人的ベストコント。

 コントって芝居である以上、「ただ笑えるだけ」では物足りない。たとえばサンドウィッチマンのコントはたしかにおもしろいけど、でもおもしろいだけなんだよね。だからあれはおもしろいけれど優れたコントとはおもわない。

 笑いをとるだけならコントより漫才のほうが効率がいい。セットがない分、表現できる幅が無限に広がる。時間も空間も軽々と飛び越えられる。
 だけど、怒らせたり悲しませたり困らせたり喜ばせたり、感情を揺さぶるのにはコントのほうが向いている。だから「笑わせるだけでなく感情を揺さぶってくれるコント」をぼくは期待する。

 ザ・マミィのコントは、ただ笑わせるだけじゃなかった。はぐれ者の悲哀や他者に対する愛おしさを感じさせてくれるものだった。ニューヨークのコントの後だからこそ「生きた人間」を描いているところが光った。だってこのふたりの「これまで」や「今後」も想像させてくれたんだもの。ちゃんと「それまで別々の人生を歩んできたふたりの人間がたまたま出会った一瞬」を切り取ったコントだった。

 ちなみに空気階段にも「ちょっと頭おかしいように見えるおじさんの意外な一面」を描いたコントがあるが(電車内でおじさんが他人に注意するコント)、あちらはツッコミ役が終始傍観者にとどまっていたのに対し、こちらは両者がきちんとからんでいるのでぼくはザ・マミィのほうが好み。

 ところで終盤のミュージカルは力ずくで笑いをとりにいったようで、あまりおしゃれでなかった。
 でもそうは言いながらミュージカル部分では笑わされたけどね。力技で笑わせようとしてくるのがわかっているにもかかわらず。
 特に、あんまり歌がうまくないのがよかった。リアルなおっさんのミュージカルって感じで。


9.空気階段

 SMプレイ中に火事に遭ったふたりのおじさん。

 うーん、ぼくはあんまり笑えなかったな。新しさを感じなかったので。

 笑いとしては最初がピークで、あとは見た目のおもしろさぐらい。「ダメな人かとおもったらだんだんかっこよく見えてくる」という単純な構成で、深みが感じられなかった。

 さらば青春の光の『ヒーロー』というコントがある。噂では、キングオブコント2018で最終決戦に進んでいたら披露する予定だったというコントだ。こちらも同じく火事場を舞台にしている。
 詳しいネタバレは避けるが、空気階段とは逆に「火事現場で逃げ遅れた人を助けるヒーローかとおもわれた男がとんでもないクズだったと判明する」というストーリーだ。
 ぼくは、さらば青春の光版『ヒーロー』のほうが好きだ。保身と打算にあふれた人間くささが根底にあるからだ。空気階段のヒーローは、性癖を除けばフィクションの中にしか存在しない完全無欠のヒーローで、共感できる要素がなかった。

 作りこまれた、感情を揺さぶってくれるネタを数多く作っているコンビなので余計に期待外れだった。


10.マヂカルラブリー

 深夜の心霊スポットでコックリさんをする学生ふたり。

 マヂカルラブリーのラジオを毎回聴いているぐらい好きなんだけど、いや好きだからこそ、「えっ、こんなもん?」という印象だった。

 前回決勝進出のときもおもったけど、マヂカルラブリーって漫才は「既存の概念をぶち壊してやる!」みたいな破戒的なパワーを感じるのに、コントはすごく丁寧に作りこまれてるんだよね。抑えるべきところは抑えて、説明すべき点は説明して。それはいいことなんだけど、でもマヂカルラブリーにはもっとむちゃくちゃな展開を期待してしまう。
 漫才だと、時間も空間も軽く飛びこえて自由自在に演じられるのに、コントだとセットがある分、表現が窮屈になってしまう。

 ふたりとも漫画やアニメが好きだからだろう、表現が漫画やアニメの枠を超えてこない。漫画のネタを実写化したみたいなコントなので、これだったら漫画で読んだほうがおもしろいやという気になる。そう、ギャグ漫画みたいなコントだった。

 でも「指先に操られる人間」というむずかしい演技をやってのける身体表現能力の高さには舌を巻いた。特に指先に立たされるとことか。あの身体の使い方はすごかったなあ。

 点数が伸びなかった原因のひとつに、死体が操られることに対する生理的な嫌悪感もあったのかもしれない。野田くん死んじゃうし。死んだまま終わっちゃうし。やっぱり人の死を笑いに変えるのはむずかしいよ。


 最終決戦進出は、1位空気階段、2位ザ・マミィ、3位男性ブランコ。

 ぼくが選ぶなら空気階段の代わりにニッポンの社長を入れるな。


ネタ感想(最終決戦)


男性ブランコ

 レジ袋をケチった男の末路。

 レジ袋有料化という根拠の明確でないおもいつきのような政策にふりまわされる国民の姿をシニカルに描いた(ウソ)時代に即したコント。
 レジ袋有料化される2020年より前には存在しえなかったネタだし、来年だったら「いいかげんレジ袋ないことに慣れろよ」とおもってしまうので、今がこのネタをできるギリギリのタイミングだったね。

 一本目のネタの感想でも書いたけど、すごく上品なコントを作るコンビだ。最小限のセット、最小限の動きに、最小限の感情の揺れの表現。それでいて大きな効果を上げるのだからすごい。

 レジ袋をケチった男は明らかにダメなやつなんだけど、ニューヨークのコントで描かれたダメ男とちがって、彼にはダメなやつなりの論理がちゃんとあるんだよね。レジ袋を買わなかったのは袋代が惜しかったからだし、だからレジ袋をもらったらお金を払わなきゃいけない、他人の手を煩わせたらお礼を言わなきゃいけない。彼には確固たる信念がある。

「あなたはあのときケチったレジ袋ですか」なんて、その人間に深く入りこまないと出てこないセリフだよ。〝笑わせるためだけに生みだされたキャラ〟には言えない。

 強引に笑いを取りにいくコントではなかったので点数は伸びなかったが、そこがまたかっこいい。今大会もっとも評価を上げたコンビじゃないかな。


ザ・マミィ

 ドラマっぽいセリフを言いあう社長と社員。

 キングオブコントのオールドファンなら誰しもが、しずるが2010年のキングオブコントで披露したコント『シナリオ』を思い浮かべたのではないだろうか。審査員の秋山さんが「観たことがあるような」と暗に示していたのもおそらくこのコントだろう。


 とはいえパクリだという気はさらさらない。もっといえば25年ぐらい前にビリジアン(小藪一豊さんが組んでいたコンビ)が「演技でしたー!」というコントをやっているのを観た記憶があるし、小学生だって「演技でしたー!」をやる。
 ドッキリ番組が数十年定番コンテンツであることからわかるように「人が芝居に騙されて真に受ける」というのは人間が根源的に好きな笑いなのだろう。

「演技でしたー!」はかんたんに裏切りを起こせるのでコントにしやすいのだろうが、裏を返せば裏切りのパターンが予想されやすいということでもある。「演技でしたー!」が二度続けば誰もが次も同じパターンがくることを予想するし、そうなるともう「演技でしたー!」か「演技と見せかけて実はほんとでしたー!」の2種類しか道はない。どっちを選んでも想定内だ。

 韓国ドラマ、音楽再生、ボイスレコーダーなど随所に工夫はあったものの全体的な展開は観客の想像を大きく超えるものではなく、この設定を選んだ時点で負けは決まっていたのかもしれない。


空気階段

 オリジナル漫画を題材にしたコンセプトカフェのマスターと客。

「変な店員と客」という設定はありがちだが、実はコントにするにはむずかしい。
 漫才コントであれば「店員をやりたい相方に練習をつきあってあげる」または「客の練習をしたいので相方に店員役をしてもらう」という導入があるので、どれだけ変な店員が現れてもかまわない。
 だがコントは芝居なので、入った店に変な店員がいた場合、客には「店を出る」という選択肢があるし、場合によっては店を出ないと不自然だ。
 だから「変な店員と客」は、コントの舞台としては設定の強度がもろい。

 空気階段のこのコントは「雨が降ってきたのでカフェで雨宿り」という笑いにはつながらない導入を入れることでそうかんたんに店を出られないシチュエーションを作りだし、「変だけどさほど不愉快ではない」程度の仕掛けを並べることで「怒って席を立つ」状況を回避している。すごく丁寧な作りだ。

「小学校のときにノートに描いていたオリジナル漫画」というのはわりとよく見る題材だけど、接客セリフ、メニュー表、登場人物などディティールまできちんと作りこまれている。 もぐらさんのキャラクターを活かしたばかばかしい設定でありながら、ちゃんとマスターのこれまでの人生を感じさせてくれる。

 だからこそ気になったのが、コーヒー豆にはこだわっているという設定。あれ自体はすごくおもしろいのだが、だったら注文してからあんなに瞬時に出してきちゃだめだろ。時間をかけて煎れてくれなきゃ。
 全体的に丁寧だったからこそ、あそこの雑さが気になった。

 ところでロバート秋山さんが設定の着眼点を褒めていたが、たしかに「異常なコンセプトカフェ」ってものすごくロバートのコントにありそうな設定だよな。
 コンセプトカフェに行ったら変な店員にからまれる……というロバートのコントが容易に頭に浮かんだ。この設定を先に使われた秋山さん、悔しかっただろうなあ。


総括

 いやあ、いい大会でしたよ。
 こうして感想を書いていても楽しい。
 笑えなかったのはジェラードンだけだったし、ジェラードンにしてもぼくの好みじゃないネタだっただけで腕があることは十分伝わったし。

 空気階段は、今回のネタはぼくの好みとはちょっとちがったけど、昨年の定時制高校のコントはまちがいなく大会トップのネタだったとおもうので今年やっと優勝できたことは喜ばしい。
 見た目のコミカルさ、導入のわかりやすさ、細部へのこだわりなどを随所に見せつけてくれるコンビなのでいつかは優勝できていただろう。

 M-1グランプリ以前と以後で飛躍的に漫才の技術が進化した(第1回大会の決勝ネタなんか今だったら全組2回戦か3回戦で敗退だろう)ように、コントのクオリティも全体的に大きく向上したなあと感じさせてくれる大会だった。

 とにかくたくさん笑わせれば何でもいいという時代は終わり、人間模様を感じさせる完成度の高い芝居でないと評価されない時代になった。
「きちんと人間の内面を描けているか」「そのメッセージを作品に昇華させるにあたり題材選びは適切か」といった、まるで純文学賞の選評みたいなハードルを越すことが求められる大会になってきた。

 もちろんコンテストなので優勝を決める必要はあるのだが、ことキングオブコントに関してはあんまり優勝だけにこだわる必要はないとおもうんだよね。上位に関してはほとんど出番順とその日の雰囲気だけで決まるような感じだし。

 だから優勝賞金1000万! よりも、総額1000万円にして、1位○万円、2位○万円、3位○万円、審査員特別賞○万円、みたいな感じのほうがいいのかもしれない。演劇のコンクールみたいに。


【関連記事】

キングオブコント2020の感想



2021年10月1日金曜日

数字あつめの旅

 娘がどこかに行きたいという。時節柄、人の多い場所には行きたくない。

 そこで「散歩でもしようか」と言って外に出る。

 娘は「どこに行くの?」としきりに訊いてくる。子どもには「目的もなくただ歩く散歩」ができないのだ。ぼくもそうだった(だから飼い犬の散歩も嫌いだった)。

 目的を与えるため、「数字さがしゲーム」を提唱した。
 街中にある0~99の数字をさがす(3桁以上の数字から一部をとるのはダメ)。街をぶらりと一周するまでの間になるべく多くの種類を見つけよう。


 数字をさがしながら娘と歩く。

 少ない数字はかんたん。0円、一番、24時間、10時~22時。
 住んでいるのが都心部なのでお店も多い。メニューや営業時間を見ると数字がたくさん並んでいる。
 1桁の数字はすぐにコンプリートした。

 24以下もそうむずかしくなかった。営業時間でよく使われている(ただし16時などは開店時刻にも閉店時刻にもなりにくいので意外と少なかった)。バス停を発見。時刻表は数字の宝庫だ。数字が一気にそろう。ただし当然ながら59までしかない。

 車のナンバープレートは禁止とした。労せずして見つかってしまいつまらないからだ。
 ナンバープレートのように意味のない数字はつまらない。

 番地を探すが意外と少ない。都心部はマンションが多く、住所表記が多くないのだ。住所で使われている数字は小さいものが多い。田舎だと「○○町 1-1419」なんて住所があったりするが、街中は住所が細かく分割されているのでかえって数字が大きくならないのだ。

 メニューには料金も書かれているが2桁の料金などまずない。せいぜいトッピング50円ぐらい。

 30分ぐらい歩いて25ぐらいまでの数字はコンプリートしたが、大きい数はむずかしい。
 なにかの拍子に73なんて半端な数を見つけるとおもわず「やった!」と声が出てしまう。

 不動産屋の店先に貼っている物件を眺める。これも数字が多い。家賃○○万円、駅から○○分、築昭和○○年……。
 これはいいぞとおもって見ていたら、店内から従業員が出てきて「なにかお探しですか」と訊かれた。
「あ、いえ、大丈夫です」とあわてて退散した。ちぇっ、せっかく数字がいっぱいあったのに。

 そんなこんなで一時間ぐらいかけて、1~99までの数字のうち6割ぐらいは見つけることができた。やっぱり大きい数字はむずかしいね。


 こういう散歩は昔からよくやってきた。
 小学生のとき、母と姉と「なるべく多くの公園を見つける」という散歩をやったことがある。
 やはり小学生のとき、友人と「できるだけ多くのクラスメイトの家の前まで行く(前まで行くだけ)」ツアーをやった。
 高校生のときは「できるだけ多くのクラスメイトの家の前まで行く(さらにインターホンを押して出てきた人にお菓子を配る)」ツアーをやった。

 ただ歩くのはつまらなくても、目的があるととたんにゲーム性が増して楽しくなる。たとえそれが「数字を見つける」といった何の役にも立たない目的であっても。