2021年4月30日金曜日

【読書感想文】ただただすごい小説 / 伊藤 計劃『虐殺器官』

虐殺器官

伊藤 計劃

内容(e-honより)
9・11以降の、“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう…彼の目的とはいったいなにか?大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは?ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化。

 いやすごい本だった。
 紹介文にある〝ゼロ年代最高のフィクション〟ってのはぜんぜん大げさじゃない。すごい本だった。今まで読んだSFの中でもトップクラス。はじめから最後までずっとおもしろかった。

 まず著者の経歴に圧倒される。
『虐殺器官』で作家デビュー。『SFが読みたい! 2008年版』1位になるなど高い評価を受けるも、2009年3月に34歳の若さで肺癌で死去。その年、遺作の『ハーモニー』で日本SF大賞を受賞。

 嘘みたいな経歴だ。著者の本はすべて死後に出されたもの。尾崎豊みたいな経歴。もっと太く短い。

 そして本を読んでもう一度圧倒される。すごい。天才か。
 伴名練氏の『美亜羽へ贈る拳銃』という短篇は伊藤計劃作品へのトリビュートとして書かれたものだそうだ。あの才能豊かなSF作家が敬意を捧げるなんてどんな人かとおもったら、なるほどこりゃすごい。

 つくづく著者の夭逝が惜しい。もっと長く生きていたら、小松左京氏を超えるSF界の重鎮になっていたんじゃなかろうか。



 舞台は近未来というかパラレルワールドというか。9・11テロをきっかけに紛争が絶えなくなった世界。
 主人公は米軍の暗殺部隊のメンバー。各国の要人を暗殺するプロの暗殺者だ。

 それはつまり、殺す相手の姿と人生とを生々しく想像することに他ならない。相手に愛情を抱けるほどリアルに想像してから、殺す。最悪のサド趣味だ。定番の変態ナチスポルノならばうってつけの題材だろう。そんな悪趣味がなんらトラウマにならないのは、ひとえに戦闘適応感情調整のおかげだ。戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。

 任務(つまり暗殺)を果たすためのテクノロジーにまずしびれる。
 衝撃を和らげる人工筋肉、子どもをも殺せるようにするための戦闘適応感情調整、痛みを認識できるが痛さを感じない脳への操作。

 デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によると、大半の兵士はたとえ戦闘状況でも、たとえ自分や仲間を守るためであっても、敵に向かって発砲することはできないのだそうだ。

 だから、近代における軍隊の訓練というのはほとんど「人を殺したくない気持ちを抑える訓練」なんだそうだ。
 映画『フルメタル・ジャケット』で描かれていたのも、新兵訓練所がどれだけ人間性を奪っているかということだった。

『虐殺器官』は、「人間は他人を殺したくないという良心を持っている」ことがきっちり書かれていて、同時に「状況次第ではかんたんに他人を殺すこともできる」ことも書かれている。その境界はひどく揺るぎやすいもので、誰しもが殺人者になれるということも。



 序盤は単なるSFサスペンス小説かとおもったのだが(だとしても相当ハイレベルだが)、ある暗殺ターゲットに逃げられたあたりから様相が一変する。

 ジョン・ポール。
 いまや、この男は内戦地帯をうろつく奇特な観光客ではないことが判明した。暗殺指令が出た当初から、それを立案し承認した人間たちにはわかっていたことだが、実行するぼくらにそれが教えられることはなかった。
ぼくらが幾度も殺そうと試みては失敗しているこの男が、世界各地で虐殺を引き起こしているということを。この男が入った国は、どういうわけか混沌状態に転がり落ちる。
 この男が入った国では、どういうわけか無辜の命がものすごい数で奪われる。

 この男がなんとも魅力的(ただ気に入らないのはジョン・ポールという名前が無個性すぎること)。ヒロインよりも、さらには主人公「ぼく」よりもずっと鮮烈な印象を与える。『羊たちの沈黙』のレクター博士のように。

 ジョン・ポールは〝ある方法〟で様々な国で内戦を引き起こさせる。その手段や目的が徐々に明らかになっていく展開はスリリング。しかも説得力がある。おもわずフィクションだということを忘れそうになるぐらい。
 ほんとにこうやったら大量虐殺が起こるんじゃない?
 ほんとにこういう目的で他国に大量虐殺を起こさせようと考える人もいるだろうな。
 そう思わされる説得力がある。

 ぼくは、小説のおもしろさを決めるのは「いかにうまくほらを吹くか」がほとんどだとおもっている。読者をうまく騙してくれる小説がおもしろい小説。
 虚実を織りまぜてもっともらしいことを並べたて、偶然に頼りすぎず、それでいて大胆に嘘をつく小説。ちなみにリアリティは必ずしもなくていいとぼくはおもっている。リアリティがなくてもおもしろい小説はいっぱいある。
『虐殺器官』はほらの吹きかたがすごくうまかった。ぜんぜん現実的じゃないのに、でも「ここじゃないどこかにはこういう世界もありそう」とおもわせてくれる。

 改めて言う。すごい小説だった。
 発想がほどよく壊れていてユニークだし、それでいて説得力があるし、そしてなによりおもしろい。最初から最後までずっとおもしろい。
 SF好きな人すべてにおすすめしたい小説だ。SFファンならとっくに知ってるだろうけど。


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2021年4月28日水曜日

【読書感想文】奇怪な機械 / 石持 浅海『三階に止まる』

三階に止まる

石持 浅海

内容(e-honより)
あなたの所は大丈夫?ボタンを押していないのに必ず3階で止まるエレベーター。住民が見たものとは?背筋の凍るミステリー短編集。


 一篇目の『宙の鳥籠』の出来がよろしくなかったので「これはハズレだったな……」とおもいながら読んだのだが、どんどん尻上がりになっていって、二篇目以降はほとんどおもしろく読めた。

宙の鳥籠』だけは書き下ろし作品らしいが、これだけ明らかに見劣りしている。

 しかも舞台は密室。登場人物はふたりだけ(その二人の会話の中には他の人物も出てくる)。すでに事件は起こっていて、書かれているのは謎解き部分だけ。
 結果、説明台詞のオンパレードだ。

 「君も知っている通り○○は××をした」「そう、君は△△をしたわけだ」「わかっているとおもうけど□□だよね」
 こんな台詞しゃべるやつおるかい。
 お互いにとってわかりきっていることを、時系列にとって丁寧に説明する。頭おかしいとしかおもえない。
 まあ世の中にはわかりきったことをぐだぐだぐだぐだとしゃべる人もいるが、切れ者という設定の人がこんなしゃべりかたをしたらだめだ。
 設定からして無理があるんだよね……。


転校』は超進学校を舞台にした作品。ミステリというよりSFショートショートのような味わい。これは謎解きよりも設定の異常性に重きが置かれているので悪くなかった。


壁の穴』は「女子更衣室を覗いている最中に殺された」という友人の汚名を返上するため、推理をする学生の話。
 都合のよい「高校生名探偵が殺人事件を解決!」になっていないのがいい。


院長室』は『EDS緊急推理解決院』というアンソロジーに収録されている一篇だそうだ。
 この一篇だけ読むと少々設定がわかりづらい。これだけでも一応わかるけど。
 緊急推理解決院の院長がまぬけすぎるのと、謎解きがすべて推測なのが残念。七瀬氏はもう結論がわかってたのに、なんでわざわざあんなことをしに行ったのか。


ご自由にお使い下さい』は6ページほどの作品。
 これも証拠のない推測がたまたま当たっただけで、推理の切れ味はあまりよろしくない。この長さだったら、ラスト数行で真実が明らかになるぐらいの鋭さがほしいな。


心中少女』は、心中するために廃墟を訪れた少女が死体を発見する……という設定は好きだった。これはどうなるんだろうと期待したんだけど、残念ながら期待を下回ってしまったな。
 でもこのへんでわかってきた。この人は奇をてらったどんでん返しよりも、地に足のついた「ありそう」な展開のほうが好きなんだろうな。そうおもって読むと悪くない。


黒い方程式』は設定がすごくよかった。
 トイレに出たゴキブリに殺虫剤をかけて殺した妻が、夫にドアを閉められてトイレに閉じこめられる。そして夫から告げられる意外な事実……。
 これもオチの意外性は少ないが、フランスの短篇映画みたいでよかった。フランスの短編映画観たことないから勝手なイメージだけど。


 ラスト『三階に止まる』。
 短篇集のタイトルにするだけあってよかった。この作品だけ毛色が違うのだが。

 新しく越してきたマンション。家賃は相場より安いし、住人もいい人ばかり。ただ一点気になるのは、なぜかエレベーターが必ず三階に止まること。一階から七階に行くときも、七階から一階に行くときも、途中で必ず三階に止まる。誰も乗り降りしないのに。どれだけ点検してもエレベーターに異状はない。はてしてエレベーターを三階に止めている原因は何なのか……。

「日常の謎」系ミステリかとおもったがそうではなく、オカルトだった。オカルトはあまり好きではないのだが(怖いとおもえないので)、「エレベーターがなぜか三階に止まる」というのが気に入った。なぜなら、いかにもありそうな現象だから。

 エレベーターって謎の動きをすることが多いよね。止まったのに誰も乗り降りしないこともあるし(押し間違いなんだろうが)、「七階で押したのに八階に止まってるやつより十階に止まってるやつのほうが先に来る」なんてこともある。
 以前読んだ数学の本に、エレベーターは複雑なアルゴリズムで動いていると書いてあったが、複雑すぎてまったく動きが読めない。もはやエレベーターって人知を超えてるんじゃないか

 だからエレベーターって電化製品でありながら怪奇現象と相性がいいよね。機械なのに奇怪。


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2021年4月27日火曜日

【芸能鑑賞】『ドロステのはてで僕ら』


内容紹介(映画.comより)
「サマータイムマシン・ブルース」などで知られる人気劇団「ヨーロッパ企画」の短編映画「ハウリング」をリブートした劇団初となるオリジナル長編映画。とある雑居ビルの2階。カトウがテレビの中から声がするので画面を見ると、そこには自分の顔が映っていた。画面の中のカトウから「オレは2分後のオレ」と語りかけられるカトウ。どうやらカトウのいる2階の部屋と1階のカフェが、2分の時差でつながっているらしい。「タイムテレビ」 の存在を知った仲間たちは、テレビとテレビを向かい合わせて、もっと先の未来を知ろうと躍起になるが……。

『サマータイムマシン・ブルース』などで知られるヨーロッパ企画の映画。

 70分ほどの映画だが、もしかしてこれ全部1シーン? 細かくチェックしてないけど場面転換が一度もないよね?(調べてみたらさすがに全編1シーンではないらしい。そう見えるけど)。
 映画というより芝居を鑑賞しているような気分になる。
 時間ものという難しいテーマを、場面転換を使用せずに処理しているのがすごい。


 2分後の未来(また2分前の過去)の自分と会話ができる〝タイムテレビ〟を手に入れたカフェのオーナー。カフェの常連客たちはあれこれとテストをして、ついに2分より先の未来を知る方法を発見するが、それがおもわぬピンチを引き起こす……。
 ヨーロッパ企画らしい(っていってもぼくは『サマータイムマシン・ブルース』しか観たことないんだけど)SFコメディ。
 未来を知ることができるのだが「2分だけ」というのが、絶妙に「あまり役に立たない」ライン。じっさいに登場人物は「コンビニのスクラッチくじを当てる」「ガチャガチャで狙っている商品をあてる」といったくだらないことに使う。このあたり、『サマータイムマシン・ブルース』でタイムマシンを「壊れる前のエアコンのリモコンを取りに行く」というくだらない目的のために使っていたのをおもいだす。

 中盤はひたすら〝タイムテレビ〟の使い方実験が続くのでやや退屈だが、「未来の自分の言っていたことが現実にならない」などのアクセントが効果的。
 そしてケチャップ、シンバル、ゼブラダンゴムシといった小道具の登場が実にニクい。まあシンバルは「これは後で何かあるな……」って感じだったけど。

 ストーリーはとにかくよくできていた。終盤で〇〇(ネタバレのため伏字)が出てきてからはちょっと説明くさい感じがしたけど。でもあそこのばかばかしい展開も嫌いじゃない。

 あととにかく撮影がたいへんだっただろうなと感心した。一発勝負だもんな。ちょっとだけカメラワークを失敗しているところがあるが、それはそれで新鮮でおもしろい。

 脚本はすごく緻密でよくできてるんだけど、登場人物のキャラクターはおもしろみにかける。みんな呑み込みが早いしいい大人だから落ち着いてるし。もっとバカなキャラクターがいてもよかったかな。

 とはいえ時間ものSFが好きな人ならまちがいなく楽しめる作品。


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2021年4月26日月曜日

休まない人

 世の中には仕事を休まない人がいる。
 とても迷惑な人だ。
 特にそういう人が上の役職に就くと、周囲はとても困る。


 書店で働いていたときのM店長がそういう人だった。
 早番のぼくが「お先に失礼します」と言うと、遅番のM店長は「犬犬くん、もう帰るんか。もうちょっとゆっくりしていけよ」と言ってくる。
 半ば冗談なのはわかるのだが、ぼくが定時ぴったりで帰ろうとしているならともかく、朝6時半に出勤してたっぷり4時間残業した上で「もう帰るんか」と言われると控えめにいっても殺意をおぼえる。

 じっさいM店長自身も残業大好きな人だった。毎日5時間ぐらいは残業していた。
 店舗運営というのは、社員の無給残業がそのまま店の利益に直結する。社員が1時間無給残業すればバイトを1時間早めに上がらせることができるのだから。そんなわけで長時間残業が常態化していた。

 あるとき、M店長が「おれ今日は歯医者に行くから定時ぴったりで帰るから」と言いだした。
 はあそうですかと言ったのだが、その後何度も「今日は歯医者の予約があるから」「どうしてもその時間しか予約がとれなかったから」と言い訳がましく口にする。ぼくだけでなく、他の社員やバイトにまで言っている。
 ははあ。さてはこの人、定時ぴったりで帰ることに罪悪感をおぼえてるな。

 言っておくが、誰も
「店長、ふだんは残れっていうくせに自分は早く帰るんですか」
なんて言ってない。
 みんな「どうぞ」と言っている。
 だがM店長は過去に自分が発した「もう帰るんか」という言葉に囚われ、帰れなくなっているのだ。

 己の言葉に呪われている。
 あほとちゃうか。ぼくはおもった。



 次に入った会社のH部長もそういう人だった。

 あるとき、ぼくがウイルス性の腸炎になって会社を二日休んだ。
 出社すると、H部長からねちねちと文句を言われた。

「会社に来られないほどしんどかったのか?」

「二日目はだいぶ良くなったのですが、まだ咳が出てまして。ウイルス性の病気なので他の人にうつしてはいけないとおもい休みました」

「出てこれるんなら出てこいよ」

 もともと「他の曜日ならともかく月曜日に風邪をひくのはたるんでる証拠だ」とわけのわからないことを言う人だった。
 「感染を防ぐために休んだ方がいい」ということがわからないのだ。


 数週間後、H部長はごほんごほんと咳をしていた。痰が絡んだ嫌な咳だ。ときどき額に手を当てている。明らかに具合が悪そうだ。
「具合悪いんですか」と訊くと、「ああ」と気まずそうに言いながら焦点の定まらない目でパソコンに向かっている。
 相当しんどそうだが、ぼくに「出てこれるんなら出てこいよ」と言った手前、休むことができないのだ。

 その数日後、H部長の近くの席の数人がインフルエンザで休んだ。そりゃああれだけ派手に咳をしてる人が近くにいたんじゃあな。

 無理して出社したH部長、どう考えても迷惑しかかけていない。



「休まない人」は迷惑でしかない。周囲も会社も自分自身も苦しめる。

 困るのは、こういう人は経験から学ばないことだ(経験から学べる人は体調不良のときは休んだほうがいいことを知っている)。
 だからこうして失敗しても、反省するどころか「インフルエンザの苦しさと闘いながらがんばった俺」という都合のいい記憶だけをおぼえていて、別の人が休んだときには「おれは39度の熱でも無理して出社したのにこいつは38度で休みやがる」と考える。

 困ったものだ。
 新型コロナウイルスの流行で感染症に対する知識が広まったおかげで、こういう人たちも減っているだろう。早く絶滅してほしいものだ(考えを改めるか、もしくはご逝去あそばすかのどちらでもいいので)。


2021年4月23日金曜日

「わかりやすい!」はわかるようになってない

 高校時代、勉強ができたのでよく他の生徒から「教えて」と言われた。仲の良い友人だけでなく、あまり話したことのない生徒まで「これどうやって解くん」と訊きにきた。それをきっかけに親しくなった友人もいる。

 教えるのは嫌いではないので、丁寧に教えてあげた。
「この公式を使うねんで」
「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」
「背理法を使うねん。この命題が真でないと仮定すると……」
と。

 すると、教えられた人たちはこう言う。
「なるほど! よくわかった!」
「すげえな。先生の説明よりわかりやすい!」
「そっか。そう考えればそんなに難しいことじゃないな!」

 ぼくは気を良くする。教えてあげた甲斐があった。


 さて。
 ぼくに解き方を教えられた人たちは、その問題を解けるようになったか。
 答えはYes。ただし、その問題だけは

 後日似た問題に出会うと、また解き方がわからない。そしてまたぼくに訊きにくる。ぼくはうんざりする。前に教えたのとほとんど同じ問題なのに……。


 今ならわかる。ぼくの教え方が悪かったのだ。
 ぼくは解法を教えていただけで、考え方を身につけさせようとはしていなかった。
 料理の作り方がわからない人にレシピを渡して「この通りにつくるといいよ」と言っていただけだ。レシピを見て作ればそれなりの料理ができるが、一か月後にレシピを見ずに同じ料理を作ってくださいといってもまず無理だろう。

 教える人が気を付けなくてはならないのは、
「わかりやすい!」という言葉だ。

 逆説的だが、「わかりやすい!」と感じたときはわかるようになってない
 すでにわかっていることを再確認しただけだ。

 ぼくが「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」と説明したときに「わかりやすい」と感じた人は、「等比数列とは何か」「階差数列から元の数列を導くにはどうしたらいいか」はすでに知っていた。だからぼくの説明を「わかりやすい」と感じた。知っているものを組み合わせただけだから。
 だが「どういうときに階差数列を見ればいいか」はわかっていなかった。ぼくが「この問題では階差数列を調べればいい」と解法を教えたから、それ以上考える必要もなかった。


 元々自分が持っている知識だけで解ける問題はわかりやすい。じっくり考える必要がないから。
 だから「わかりやすい」と感じたということは、頭を使っていないということだ。

 ぼくの説明は「AはBだ。BはCだ。CはD以外に考えられない。だからAはD」というものだった。
 いい指導とは、相手が「BはCだ」をわかっていないことを見抜き、
「AはBだ。Dを導くためにはCであることを証明する必要がある」と教えることだ。
 すると相手は考える。AがBになることはわかる。CがDになることもわかる。ではなぜAがDになるのか。
 あれこれ考えた結果「BはCだ」という結論に達する。これではじめて知識が身につく。



 数学にかぎった話ではない。

 人は「わかりやすい!」を求めている。
 小難しいデータやあらゆる可能性を並べたてる専門家よりも、単純明快で結論もはっきりしている素人の話に飛びついてしまう。
 だってわかりやすいから。頭を使わなくても理解できるから。なんら学ぶものがないから。
 新たに学ぶものが何もない、こんなに「わかりやすい」ものはない。


 教えた相手から「わかりやすい!」と言われたときは悦に入るのではなく、自分の説明が未熟だったと反省しなければならない。