2021年4月19日月曜日

【読書感想文】少年Hにならないために / 堤 未果 中島 岳志 大澤 真幸 高橋 源一郎『NHK100分de名著 メディアと私たち』

NHK100分de名著
メディアと私たち

堤 未果  中島 岳志  大澤 真幸  高橋 源一郎

内容(e-honより)
現代社会に蔓延する「空気」の実相に迫る!
リップマン『世論』、サイード『イスラム報道』、山本七平『「空気」の研究』、オーウェル『一九八四年』の4作品をとりあげ、「偏見」や「思い込み」「ステレオタイプ」の存在に光を当てるとともに、いま私たちがとるべきメディアへの態度について考える。

「これは読まねば!」と即購入した執筆陣&テーマだった。

 堤未果氏と中島岳志氏についてはファンで、著作はかなりの部分に目を通している。大澤真幸氏はぼくの通ってた学部の先生だった(といっても彼の授業を受けたことは一度しかないが)。『「空気」の研究』『一九八四年』は心にもやもやを与えてくれるいい本だった。



 サイード『イスラム報道』については、読んだことはおろか存在すら知らなかったけど、中島岳志氏の紹介で興味を持った。

「アメリカ人はイスラムと自分たちの間に線引きをして、まったく別の人たちとみなしている」というのがサイード氏の指摘らしいが、これはアメリカだけの話ではない。日本人の多くも同じだ。かくいうぼくも無意識のうちにイスラム教徒を「理解不能なもの」とみなしている。

 理解できないことがあっても「なぜそのような行動に至ったのか」と考えることを放棄して「イスラムだからね」で片付けてしまう風潮がある。
 日本人が人を殺したら「いったい何が彼を追い詰めたのか」と考えるのに、イスラム過激派のテロ行為は「やっぱりイスラムは理解できない」で済ませてしまう。イスラム教徒の中でも思考は千差万別なのに、全部ひとまとめにして「イスラム」というシールをべたっと貼って遠くへ押しやってしまう。


 ぼくの高校時代の女ともだちがエジプト人と結婚した。彼女はイスラム教に改宗した。
 彼女が日本に帰ってきたときに会ったのだが、ヒジャーブ(イスラム教の女性が顔を隠すために巻くスカーフ)を巻いた彼女を前に、ぼくは妙に気をつかってしまった。
「豚肉とかだめなんだよな」
「こんな話題はやめたほうがいいかな」
とあれこれ気を回してしまった。

 よく考えたらべつにぼくが気にする必要はないのだ。NGなら本人がノーというだろうから。
 これが「キリスト教に改宗した」なら、ここまで意識しなかったとおもう。
 やはり「イスラム教徒だ」というだけで無意識に線引きをしてしまうのだ。 


 この本にははっきりとした言及はありませんが、サイードは「アメリカは敵を欲している」という印象を持っていたと、私は考えています。アメリカは長く、ソ連に対抗するために政治・軍事の体制を構築してきました。しかしベトナム戦争が終わり、七〇年代の後半になると、共産勢力は圧倒的に弱体化していきます。さらに、中国との国交が正常化し、「デタント」(緊張緩和)と呼ばれる時代が来た。ソ連や共産勢力という敵を失ったアメリカの情報機関は、存在意義が揺らぎかねない状況に追い込まれるわけです。そこでイラン革命が起きた。ソ連や東欧諸国に替わる「別の新しい敵」は、情報機関にとって、自分たちの地位を守るためにはうってつけの存在でした。

 これまたアメリカだけじゃないよね。
 日本もまた、常に敵を欲している。戦争中はアメリカ、終戦後はソ連をはじめとする東側国家、冷戦終結後は北朝鮮であり韓国であり中国。常に「仮想敵国」を持っている。たぶん日本だけじゃなくてどの国も。

 興味深いのは、〝仮想敵国〟は同時にたくさん持てないこと。
 ぼくの記憶では、北朝鮮の拉致問題が話題だったときや911テロの後は韓国や中国とは友好ムードだった。北朝鮮やイラクやアフガニスタンを敵視している間は、他の隣国をライバル視しなくなるんだよね。
 同時にあちこちを憎めるほど人間、器用じゃないんだね。



 山本七平『「空気」の研究』、原著を読んだときには理解できない部分も多かった。たとえに出てくる話が古いのもあって。

 しかし大澤真幸氏の解説、とりわけ山本七平氏が洗礼を受けたクリスチャンだという指摘を受けて読むと、わからなかったところがすっと理解できた。

 もう一つの事例は「ヨブ記」です。これは『旧約聖書』の中で最も重要なテキストだと思いますが、宗教的にはあまりありがたくない話なのです。これは、東西の智慧の精髄を集めた「箴言」に書かれた徳目をすべて守った「完全に正しい」裕福な人間が、次々にひどい目に遭うという話です。普通、信仰に篤く徳目を守れば、報われて幸せになれるのが当然だと考えるでしょう。しかし、この人は「財産を失い、家族を失い、癩病のような皮膚病にかかり、そのため町を追われ、ごみ捨て場に座って、陶片で体中のかさぶたを搔くような状態」になってしまうのです。
 山本さんの解釈では、これもある種の正義の絶対化に対する警告です。つまり、よいことをした人は必ず恵まれ、信仰を捨てれば必ず不幸になる、というようなことではない、と。「正義は必ず勝つ」と信じていて、またそれが当然よいことだと思っている日本人からするとびっくりするような内容ですが、考えてみると、山本さんの言っていることに説得力がある。よいことをする人が必ず恵まれるのならば、恵まれていない人はみんな悪い人なのか、となる。山本さんも、正義が必ず勝つのなら「敗れた者はみな不義なのか」と書いています。つまり、「ヨブ記」は地上における成功などというものはすぐに相対化できるものなのだ、ということを示すためにあえて聖書の中にあるというのです。

「あ、そういうことか!」
 これを読んで、遠藤周作『沈黙』をおもいだした。

 十数年前『沈黙』を読んだ。
『沈黙』のあらすじはこうだ。日本にやってきたポルトガル人の司祭がは苦境に立たされる。彼はとらえられ、踏み絵を迫られる。踏まなければ自分が拷問されるだけでなく、他の信者までが殺されることになる。司祭はずっと信じている、いつか神が奇跡を起こして救ってくれると。だがとうとう最後まで奇跡は起きず彼はキリスト像を踏んでしまう……。

 ぼくには理解できなかった。やはりクリスチャンだった遠藤周作が何を伝えたかったのか。ポルトガル人司祭は常に他人のため、神のために行動しているのにとことん救われない。ずっとずっと苦しんで、最後に救われるのかとおもいきやとうとう最後まで救われない。
 ぼくには、この物語から「奇跡など起きない」「信じても救われない」という結論しか引きだせなかったからだ。

 だけど、この解釈を読んでやっと理解できた。
「神を信じて正しい行動をすれば救われる」は、まだまだ人間の尺度でものを考えている証拠だ。「正しい行動」も「救われる」も相対的なものだ。人間には「これこそが正しい行いだ」という絶対的な尺度を持つことができない。
 そうか『沈黙』が伝えるのは、人間はどこまでいっても不完全であること、神は絶対的な存在なのだから人間の考える正しさなど超越しているということか……。

 十数年間ずっともやもやしていたものがやっと腑に落ちた。
 遠藤周作は「神を信じても無駄だ」と言いたかったわけではなく「神を信じていれば救われるという短絡的な考えは誤りだ」と言いたかったわけね。たぶん。




 少し前、武田総務相が国会答弁に立った総務省の鈴木信也氏に向かって「『記憶にない』と言え」と命じ、鈴木信也氏は「記憶にありません」と答弁した(おそろしいことにこの公然の不正行為に関して誰も何の処分も受けていない)。

 あの光景を見て、ぼくは「『一九八四年』の二重思考だ!」とおもった。
 二重思考(ダブルシンク)とは、「自分の記憶と党の主張に矛盾があった場合は、記憶を改変して党の主張を信じなくてはならない」という思考方法だ。ジョージ・オーウェル『一九八四年』の世界では、国民はこの考えを叩きこまれている。つまり「党がまちがえた」とおもってはいけないわけだ。党の過去の主張と今の主張が食い違うなら、修正すべきは党ではなく自分の記憶なのだ。
 鈴木信也氏は自民党の利益を優先するために、自分の記憶を消したのだ。すごい能力の持ち主だ。

 だが二重思考をするのは『一九八四年』のオセアニア国民や、鈴木信也氏だけではない。

 第二次世界大戦で、日本は負けて降伏しました。その後、教育の中身が変わったことがあります。それまで学校では、鬼畜米英とか天皇陛下万歳と教えていたのに、夏休みが終わって、新学期が始まったら、アメリカはいい国だ。日本は民主主義の国だ。そう、先生が言い始めた。(中略)「鬼畜米英」って言ってた先生が、まったく同じような調子で「民主主義が大事です」と言うようになった。いったい、先生の中ではどんなロジックがあって、そんなことができたのか。そうです。「二重思考」なんですね。誰が言い出したわけでも、命令されたわけでもなく、生き延びてゆくために、「二重思考」を採用するしかなかったんです。ずっと「鬼畜米英」とか「天皇陛下万歳」と言っていた。でも、それがダメだということなったので、自分が、そんなことを言っていたのは忘れて、まるで昔から「民主主義が大切です」と言っていたように思い込む。そんなことが可能なのか。可能なんですね。
 実は、昔から、心の中では、戦争に反対していた。戦争が嫌いだった。けれど、周りが賛成しているから、口に出せなかった。別に、いきなり、「民主主義がいい」と思ったわけではなく、「心の底」ではうすうすそう思っていた。誰だって、心の中では、さまざまな思いが交錯しています。もともと、自分は戦争に反対していた。なんとなくそんな気がしてくる。先生だけではなく、実に多くの日本人が、戦争が終わると、それまでの戦争協力の気持ちを失ってしまいました。終戦の日を境にして、日本人の中身がすっかり変わってしまったように見えるほどに、です。ずっと戦争に賛成していた人が戦争が終わった途端、俺は本当は、戦争に反対していたんだと言い出した。やっぱり戦争のない世の中がいいと、みんなが言い出した。そこには、「二重思考」と同じメカニズムが働いていると思います。ここに欠けているのは、苦悩です。変化しなければならないことへの苦しみなのです。恐ろしいことですが、わたしたちは、誰でも、そういうことができてしまうのですね。

 なるほど、言われてみれば〝二重思考〟はそこかしこで見られる。

 小泉改革はだめだとおもってた、民主党に政権なんか任せたらだめだってわかってたことなのに、おれは前から原発が危険だとおもってた、あの不祥事をやらかしたタレントは前々から嫌いだった。
 ぼくらはかんたんにこう口にするし、心の底からそう信じてしまう。前からあいつはダメだとおもってたよ、と。

 どの本に書いてあったか忘れたけど、「前の選挙で誰に投票しましたか?」と無記名のアンケートをとったところ「当選した人に投票した」と答えた人の割合は、当選した候補者の得票率よりもずっと多かったそうだ。つまり「自分の選択は多数派と同じだった」と記憶を改竄してしまうのだ。

 ぼくが中学生のとき、妹尾河童『少年H』という本がベストセラーになった。戦中の少年時代をふりかえる自伝的小説だ。ぼくも『少年H』を読んだ。そして気持ち悪さを感じた。『少年H』には、
「日本中みんな戦争賛美ムードだったけど、ぼくとぼくの家族だけは戦争に反対してた」
という言い訳(にしかおもえなかった)が延々と並んでいたからだ。

 いや、知らんよ。ほんとに妹尾河童一家だけは戦争反対だったのかもしれないよ。
 でも戦後になって「我々は反対してましたから! 他のみんなとはちがって!」というのはずるくない? とおもったわけ。
 内心どうだったかは誰にも(当人にも)わからないわけで、はっきりしているのは「声を上げて反対しなかった」という事実だけ。
「命を投げだしてでも反対の声を上げるべきだった!」という気はないよ。でも声を上げて反対しなかった人が後から「おれは最初から反対だったんだけどね」とぐじぐじ言うのはいちばん卑怯なおこないだとぼくはおもう。なぜなら反省がないから。
「おれは内心反対だった」といえば責任を感じなくて済むからね。そういうやつは何回でも同じ失敗をくりかえす。

〝二重思考〟は誰もがやってしまう。もちろんぼくも。それを自覚しなくちゃいかん。
「おれは前からうまくいかないとおもってたんだよ」と感じたときは、己の記憶を改竄している可能性をまず疑ったほうがいい。少年Hのような反省のない人間にならないために。


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2021年4月15日木曜日

ツイートまとめ 2020年8月



避難所

イソジン

今できること

王手

BGM

正しく

売場

ネコバス

下ネタ

ロシア

リアクション

古本屋

カラス

健康

ボーっと生きていないからこそわからない

ツッコミ

セクハラ

変遷

信仰の自由

効果



2021年4月14日水曜日

【読書感想文】小説の醍醐味を感じられる短篇集 / 向田 邦子『思い出トランプ』

思い出トランプ

向田 邦子

内容(e-honより)
浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男。おきゃんで、かわうそのような残忍さを持つ人妻。毒牙を心に抱くエリートサラリーマン。やむを得ない事故で、子どもの指を切ってしまった母親など―日常生活の中で、誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。

 その世代の多くの女性がそうであるように、母は向田邦子作品が好きだった。
 テレビで向田邦子脚本のドラマをやるときは熱心に観ていたし、本棚には向田邦子さんのエッセイが並んでいた。
 『霊長類ヒト科動物図鑑』という興味深いタイトルに惹かれてぼくも手に取ってみたことがある(ぼくは母の本棚によって大人向けの本を読むようになった)。おもしろさがさっぱりわからなかった。まあそりゃそうだ。男子小学生向けじゃないもの。


 それからに二十数年ぶりに向田邦子さんの本を手に取ってみた。いい。実にいい。
 向田邦子さんってこんなに小説がうまかったんだ。
 個人的に「うまい小説」ってあんまり好きだじゃないんだよね。鼻につく感じがして。正確に言えば「うまいことを見せつけてくる小説」が嫌いなんだな。技巧的な文章とかこれ見よがしな比喩とかをふんだんに使って。

 でもこれは好き。にじみ出るようなうまさ。さらっと書いているようにおもえる。
 じっさいはそんなことないんだろうけどさ。でも「推敲なんてしてません」って感じが漂ってくる。それぐらい自然な文章。



 小説の題材も「そこを切り取るか!」と言いたくなるようなものばかり。

「よその家で火事が起きたときや葬式のときに妙にはりきる妻」
「妻が医者に対して甘えたような声を出す」
「魚屋の若い男がうちに来て犬の世話をするのが助かるがうっとうしい」
「小さい頃から守ってあげたくなるタイプだった妹が、夫と視線をからませていた」
「仕事に困っている写真屋に仕事を依頼したら、必要以上にへりくだってくるのが嫌になった」
「世渡りだけはうまい従兄弟に後ろ暗い秘密を知られてしまったのかもしれない。知られたところでどうということもないのだが、はっきりわからないので気がかりだ」

といった、大きなトピックではないけれど、当人にしたらのどに引っかかった小骨のようになんとなく気になる出来事を鮮やかにすくいとっている。
 ふつうの人ならもやもやしても五秒で忘れてしまうことを一篇の短篇にしてしまうのだから、うまいと言わずしてなんという。

 この人、俳句とか短歌とかもつくらせてもうまかったんじゃないかな。一瞬の感情の揺れを切り取るのがすごくうまい。



 個人的に好きだったのは、

 あまり器量のよくない女を愛人として囲っている男が、女が少しずつ垢ぬけてゆくたびに愛情が冷めてゆく『だらだら坂』と

 不慮の事故で息子の指を切り落としてしまったことがきっかけで離婚した母親があれこれと考え事をする『大根の月』。

 自分の人生とはまったく無縁の話なのに、なぜか「こういうことあるなあ」と共感してしまった。赤の他人の人生を追体験できる、小説の醍醐味を感じられる短篇だった。


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2021年4月13日火曜日

【読書感想文】情熱と合理性のハイブリッド / 正垣 泰彦『サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ』

サイゼリヤ
おいしいから売れるのではない
売れているのがおいしい料理だ

正垣 泰彦

内容
「自分の店はうまい」と思ってしまったら、もう進歩はない。物事はありのままに見て、データに置き換えよ。失敗は成功のためにある。商売は、やっている人間が楽しくなければ続かない――。国内外で1300店を超すレストランチェーンを築きあげたサイゼリヤ創業者による、外食経営の指南書。

 サイゼリヤにはよく行く。ただの客としてだが。うちの家から歩いて行ける距離に二軒もサイゼリヤがある。なんて恵まれた立地だ。サイゼリヤがあるからここに住んでいると言っていい。それは嘘だ。

 サイゼリヤは信じられないぐらい安い。がんばってあれこれ注文してもひとり千円分ぐらいしか食べられない。五百円でも満足いく。
 一度、友人たちと昼間からサイゼリヤで飯を食ってワインをデカンタで何杯か頼んでつまみにエスカルゴやらハムやら頼んで三時間ぐらい居座ったことがあるが、それでもひとり二千円ぐらいだったか。安すぎて心配になるぐらい安い。
 それでいてうまい。某ファミリーレストランだと「麺とか安いハンバーグは(値段の割に)うまいけど、ちょっと奮発してステーキを頼んだたら大失敗だった」なんてことになるのだが、サイゼリヤは全部うまい。安いメニューも、高いメニューも(といっても千円しないのだが)全部うまい。
 特に2020年秋限定の「ラムときのこのきこり風」はうまかったなあ。あれを目当てに再訪してしまったぐらい。あれが七百円で食えるなんて。

 ぼくは味音痴なのでたいていのものはおいしく食べられるのだが、ホテルのフレンチレストランでシェフをしている幼なじみも「サイゼリヤはうまい」と言っていた(じっさいよく行くらしい)ので、サイゼリヤのおいしさは本物なのだ。



 そんな「サイゼリヤ」創業者が外食店経営について語った本。

 外食産業とはまったく関係のないぼくにとっても、なるほどと感心することが多かった。

 だからサイゼリヤは、店長に売り上げ目標を課していない。店長の仕事は人件費、水道光熱費など経費をコントロールすることだ。店の売り上げは「立地」「商品」「店舗面積」で決まる。売り上げが悪くなるとすれば、商品開発をする本社の責任で、店長のせいではないからだ。
 それに「売り上げを何とかしろ」と店長に言えば、販促にお金を使うしかなくなってしまう。私は広告宣伝や販促をしたことはないが、仮にそれらを実行してお客様が増えても、急な客数増による慣れない仕事で現場が疲れるだけだ。やみくもに販促をしたり、安易なひらめきでアイデア商品を投入したりする店もあるが、短期的には売り上げが増えても、生産性を下げ、長期的には店の力を弱くしてしまうだろう。
 ほとんどの人は売り上げが増えれば、利益も増えると思っているが、それは違う。利益は「売り上げ」-「経費」。売り上げが増えなくても、無駄を無くして、経費を削れば利益は増える。経営者は日頃から、売り上げが減っても利益が増える店を目指すべきで、売り上げが減って利益が出ないから困るというのは、今まで無駄なことをたてくさんしていたというのに等しい。

 なるほどねえ。
 外食産業に関わったことがないが、DVDやCDも取り扱っている書店で働いていたのでぼくも「売上重視主義」には疑問を持っていた。
 ぼくが働いていた店の売上は、店員の努力と関係ないところで決まっていた。
 村上春樹の新刊が出れば文芸書の売上は上がるし、『ONE PIECE』と『NARUTO』と『HUNTER×HUNTER』の新刊がそろって出たときはコミックの売上がすごいことになった。
 DVDやCDも同じだった。EXILEやAKB48や嵐の新譜が出るかどうかで月の売上は大きく違った。
 あとは競合店の有無とか、客の懐事情とか、天気とか、近くでイベントがあるとか、要するに「店ではコントロールできない事情」によって売上はほとんど決まっていた。
 そりゃあ接客態度とか陳列方法とかも多少は影響あるだろうけど、「この店は接客がいいから欲しい本ないけど無理して買おう」「店員の挨拶の声が小さいから買おうと思ってた『ONE PIECE』の新刊買うのやめよう」となる人はまずいない。

 飲食店の場合は、味とか値段とか書店に比べればコントロールできる部分が多いけど、そうはいっても「同じ食材を使ってるのにずばぬけておいしい料理」なんか作れないし、できるならみんな真似するし、「同じ食材を使ってるのにうちは相場の半額で出します」というわけにもいかないだろうし、立地が良ければ家賃は上がるし、結局のところ似たり寄ったりのサービス・価格に収束していくだろう。

 チェーン店の店長が交代したとして、売上を10%伸ばすことはまず不可能だろう。立地やメニューや客層が変わらないのに、売上が急に伸びることは(よほどの幸運に恵まれないかぎり)不可能だ。
 だが経費を10%削ることはできるかもしれない。すいている時間帯はバイトを減らすとか、ひまなときに将来分の仕事をしておくとか、廃棄物を減らすとか。

「売上を上げるのではなく経費を減らすのが店長の仕事」というのはすごく理解できる。
 ただ、経費削減を実現しようとすると「店長自ら残業しまくる」がいちばん手っ取り早い解になってしまうんだよねえ。というかほとんどの店長にとっては唯一解。

 ぼくが働いていた書店もそうだった。社員はみんな月100時間ぐらい残業していたし、店長はもっと。忙しい時期は休みもろくにとっていなかった。

 この本を読むかぎりではサイゼリヤの社員の労働時間はわからないけど
「創業者である正垣泰彦氏が『若いころはほとんど休みなしで働いていた』自慢をする」
「外食産業にしては高給与であることを誇っているが勤務時間についてはまったく触れられていない」
ことから想像するに、決して十分な余暇時間が得られる職場ではないんだろうなあ。
 というか正垣氏が「余暇? なにそれ?」みたいな人だもんな。自分が365日24時間仕事のことを考えていても平気な人って、他人にも同じものを求めるからなあ。



 正垣泰彦氏の考え方は、情熱と合理性が同居していておもしろい。
 どちらかしか持っていない人は多いけど、この人は「いい世の中にする!」「お客様に満足してもらう!」みたいな抽象的なビジョンを持ちつつ「それを実現するにはどうしたらいいか。どうやったら客観的に計測可能な数値に落としこめるか」という視点も忘れていない。

 飲食店の従業員はよくお客様に「いかがでしたか?」と料理の味をたずねる。お客様が笑顔で「おいしかったよ」と答えてくださるなら、これ以上の励みはない。そして、本当に「おいしい」と思っていただけたなら、必ず、また来てくださるはずだ。
 だから、「おいしい」=「客数」と考えるようにしている。客数が増えているなら、その店の料理はおいしい。逆に客数が減っているなら、その店の料理はおいしくないのだから、何らかの対策を講じるべきだ。

「お客様を笑顔にする!」を掲げるお店は多いけど、ふつうはそこで終わってしまう。
 だがこうして「おいしい」を測るための指標を仮に「客数」と置くことで、時間・場所・観測者の主観を超えて比較が可能になる。数値比較が可能になれば、何をすれば「お客様の笑顔が増えたのか」「お客様の笑顔に影響を及ぼさなかったのか」「お客様の笑顔が減ったのか」がわかるし、後々まで知見として活かせる。

 私は競合店が増えることは良いことだと思っている。それはお客様の選択肢を増やすことであり、社会を豊かにする。ただし、競合店の出現で、曜日・時間帯別にどの程度、客数が減ったかを把握し、客数が減った曜日・時間帯の担当スタッフを減らすことで人件費を減らさなければならない。また、競合店の商品が魅力的なら、それに負けないような新商品の開発を本部に提案するのもエリアマネジャーの仕事だ。
 当社では、こうした経費のコントロールの精度が高くて、的確な報告・提案ができるエリアマネジャーが、本部スタッフなど次のステップに上がっていく。

 売上や経費を構成するものを「知恵や努力である程度コントロール可能なもの」「コントロールできないもの」に切り分ける。そして後者についてはすっぱり諦める。
 ぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、こういう思考は常に求められる。広告を出すときに「いつ出すか」「どこに出すか」「どんな人に出すか」「どんなタイミングで出すか」はある程度コントロールできる。でも「広告を見た人がどうするか」や「競合がいつ広告を出すか」はコントロールできない。だったら後者は平均をとって定数として扱い(中期的に変えていく必要はあるけど)、基本的には変数である[コントロールできる部分]を調整する。
 マーケティングに失敗する人は、コントロールできない部分ばっかり見るんだよね。
「競合の××社に負けるな!」とか「冷やかし客に広告をクリックさせないようにしろ!」とか。

 正垣氏は、この「コントロールできる部分」「コントロールできない部分」の切り分けがうまい。
 ただ情熱があるだけでなく、その情熱の注ぎ方に無駄がない。
 大学では物理学科にいたらしく、なるほど物理学者の思考だ。




 改めてサイゼリヤとその創業者のすごさがわかる。
 わかるが「ぼくもここで働きたい!」とはならないな。とてもついていけない。
 厳しい環境で苦労したい人にはいいだろうけど。

 サイゼリヤの安さの秘密は、創業者の合理的思考と、(たぶん)社員たちの過酷な労働によって支えられていることがよくわかる本だった。


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2021年4月12日月曜日

お塾

 子どもが塾に行く年齢は、年々早くなっていっているようだ。

 うちの子の周囲でも「中学受験対策の有名塾に入った」とか「××の春期講習に行かせている」といった声が聞かれる。まだ小学二年生だが。

 まだまだ必要ないとおもっているけど、そうはいっても周囲が塾に行きだすと焦る。「うちの子だけ取り残されてしまうのでは……」という気になる。

 焦りを払拭するため、小学校時代の同級生のことをおもいだす。



 悪友N。
 彼はもっとも勉強とは遠いところにいた。とにかく勉強ができない。というよりやろうとしない。宿題はやってこない。授業態度も悪い。小学生にして「おれはパチンコで食っていく」と言っていた。中学卒業後は、近隣でもっとも偏差値の低い高校を中退してホストになったと風のうわさで聞いた。その後の消息は知らない。

 小学校時代、Nからこんな話を聞いた。
「おれは小学校受験をさせられてん。いやでいやでしょうがなかったけど、親がむりやり。おれが勉強嫌いになったのはそのせいや。おれが小学校受験に失敗したから、親はおれに対して勉強の期待をしなくなった」

 嘘やろとおもった。とても小学校受験をするタイプには見えなかったからだ。
 だが言われてみればNの姉は地元では名門とされる国立の附属中学校に通っていた。たぶんNの親は、姉と同様にNにも国立小学校に行ってくれる期待をかけ、そして期待を捨てたのだろう。

 このエピソードは、ぼくに「幼いころから勉強漬けにしようとすると反動でとんでもないアホになってしまう」という意識を植えつけた。



 べつの友人D。
 家が近かったこともあり小学校低学年の頃から毎日のように遊んでいた。公園で走りまわったり、サッカーをしたり。活発な子だった。
 彼は小学校一年生のときからそろばん教室に通い、二年生には塾に通いだし、三年生になると塾が週六ぐらいになってまったく遊べなくなった。通っていたプール教室やサッカークラブもやめ、学校以外のすべての時間を塾にささげるようになった。

 Dの二歳上の兄もやはり小さいころから塾に通い、日本有数の進学校に入った。後に京大に入ったと聞く。

 一方のDは兄ほど勉強が得意でなかったようで、「日本有数の進学校」よりは少しランクの落ちる中学校に入り、そこの学校とはあまりあわなかったようで不登校気味になり、大学は「関西ではわりといいとされる私大である××大学」に入った。

 これは母から聞いた話だが、公立中学校、家からいちばん近い公立高校に通っていたぼくが京大に合格したとき、そのうわさをどこからか聞きつけたDのおかあさんが我が家にやってきて(それまで十年以上連絡をとってなかったのに)、「おたくのお子さんは公立高校から京大入ったんですって? うちの子なんか昔から塾に行って私学に行かせてたのに××大学にしか行けなかったんですよ……。ほんとお金が無駄になったわ……」と愚痴を吐いていったそうだ。
(ちなみにぼくの姉は××大学に行ってたので「おたくの娘の頭が悪いと言われてるようで不愉快だったわ!」と母は憤慨していた。)


 Dが優秀でなかったわけではない。小学校時代同じクラスだったぼくにはわかる。塾に通っているからというだけでなく、当意即妙な受け答えができたり、おもわぬ発想をしたり、柔軟な思考力を持った子だった。

 ただ、ぼくと同じで悪ガキだった。教師のことはなめてかかってる。教師から言われたことでも、自分が納得しなければ従わない。
 そういうタイプは、進学塾や「そこそこの進学校」には合わなかったんだろうなと今ならわかる(ちなみにトップクラスの進学校はたいていものすごく自由らしいので合っていたかもしれない)。

 もしDが公立中学校・公立高校に進んでいたらどうなっていただろう。



 このふたつの例をもって「塾や小学校受験・中学校受験なんて意味がない」と言い切る気はない。

 NもDも「塾通い・受験が(親の期待ほど)うまくいかなかったケース」だが、もしも塾に行っていなかったらどうだったかなんて誰にもわからない。

 ただ、年齢が低いほど「塾で先取りしていることでつけられる周囲との差」は大きくて、中学高校と進んでいくにつれその差はほとんどなくなる。

「塾に通っているからクラスの中でダントツによくできる子」が「塾に通っていてもそこそこのレベルの子」になるケースは多く見てきた。周囲も塾に通ったり家庭学習の時間を増やすからだ。

 勉強なんて周りと比べるようなものではないけれど、そうはいっても周囲は気になる。
「かつては周りを引き離していたのに追いつかれる」よりも
「かつてはぜんぜんできる子ではなかったけど歳を重ねるごとに相対的順位が上がっていく」ほうが、当人の意欲は湧きやすいだろう。まちがいなく。


 我慢だ、我慢。マラソンでいうとまだスタートしてトラックを出ていないぐらい。ここで大きなリードを得ても意味がない。

 今は「勉強を嫌いにならないこと」が最優先だ。

 だから小二の娘はまだ塾に行かせなくていいよねと自分に言い聞かせてるんだけど、そうはいっても周囲が塾に行かせているのを見ていると不安になる。
 ちくしょう受験産業め。親の不安にうまいことつけこみやがる……。