2023年11月9日木曜日

俳優が不祥事を起こしたら、その人の過去の出演作品が公開停止になる件

“俳優が不祥事を起こしたら、その人の過去の出演作品が公開停止になる”件について。

「これから公開しようとしていた映画」や「公開したばかりの映画」をお蔵入りにするのには反対だ。罪のない、制作会社や監督や他の出演者が被害を受けるので。


 その一方で、「過去の出演作品」を配信停止にするのはどうなんだろう。

 観られなくなるのは困る、という気持ちはわからんでもないが、「そもそも十年前の作品を今観る人がどれだけいるんだ?」ともおもう。

 俳優Aが逮捕されたらしい → 俳優Aって何に出てた人だっけ? → そうだ、十年ぐらい前のZという作品に出てたんだ → ひさしぶりにZを観たくなったなあ → えっ、Zが配信停止? 観たかったのに!

……みたいなケースも多かったんじゃないだろうか。

 つまり、Aが逮捕されたから観られなくなったZは、Aが逮捕されてなかったらそもそも観ようともおもわなかったんじゃないだろうか。


 仮に、過去作品の配信停止の基準をもっと厳しくしたらどうだろう。出演者が逮捕されたら配信停止、逮捕されなくても不倫とか炎上でも配信停止、出演者だけでなく裏方がやらかしても配信停止、とする。

 すると「この作品は今観とかないといつ観られなくなるかわからない!」となり、積極的に新作を観ようとする人が増えるんじゃないだろうか。

 そして、俳優や制作会社からすると古い作品を何度も観る人よりも最新作を観る人が増えるほうがありがたいんじゃなかろうか。


「これは貴重な作品ですよ」

 「というと」

「五十年前の作品なんですけどね。キャスト、スタッフ誰ひとりその後何の問題も起こしていないんです。五十年前の作品で今でも観られるのはこれぐらいですよ」



2023年11月8日水曜日

オセロの先手

 前にもちらっと書いたことがあるけど、オセロ(リバーシ)の先手は実質後手だ。


 初手で先手(黒)が置ける場所は以下の4つだ。


 この4つ、回転・反転させればどれも同じ形になる。たとえばAとBは線対称、AとCは点対称、AとDも線対称だ。オセロは上下左右が意味を持たないので、どれも同じ形とみなしていい。

 指す手によって盤面が変わるのは二手目(後手側)からだ。だから、上図の形から白先手ではじめてもいっこうにかまわない。


 つまりオセロの初手は野球の始球式と同じで、単なるセレモニーにすぎないのだ。

 オセロの大きな大会を開催するときは「アイドルや金メダリストがやってきて初手だけ指す」というファンサービスイベントをやってもいいかもしれない。




2023年11月5日日曜日

日本シリーズはなぜ最後までやらないのか

 日本シリーズってなんで最後までやらない(こともある)んだろう。


 先に4勝したほうが勝ち。だから7戦目を迎える前に決着がついてしまう可能性がある。

 それはわかる。

 でも、その後もやったらいいじゃない。公式戦では優勝が決まった後も消化試合としてやってるじゃない。同じことをクライマックスシリーズや日本シリーズでもやればいいじゃない。


 途中で打ち切るのってマイナスだらけじゃない?

 まず興行的にマイナス。途中で終わったら販売したチケットを払い戻さなくちゃならない。それにかかるコストだけでもけっこうなものだろう。

 また、球場は7戦目まで押さえとかなくちゃいけない(可能性は低いけど起こりうるのでたぶん8戦目や9戦目にも備えてある)。途中で打ち切られたらその分が機会損失になる。

 チケットを買ってたファンも試合がなくなってがっかりする。試合ごとなくなるぐらいなら消化試合でもいいから観たい、って人のほうが多いんじゃない?

 それから、あるかどうかわからない試合のためにテレビの放映枠を調整するのもたいへんだろう。

 あとプロ野球の魅力のひとつに、様々な記録を見ることもあるんだけど、日本シリーズ記録はいまいちすごさがわかりづらい。それは試合数が異なるから。7試合で4本塁打の人と5試合で4本塁打の人をどっちも「最多本塁打記録」として扱うのは無理がある。毎年7試合やることにすれば記録も比べやすい(8戦目以降にもつれたときだけ参考記録になる)。


 いろんなスポーツがあるけど、天候やケガみたいな「試合をできない状況」以外の理由で、試合ごとなくなるのってプロ野球ぐらいじゃない?

 どのスポーツでも、優勝が決したからといって試合がなくなったりはしない。

 大相撲なんて、片方の力士が休場しても「取組無し」とはならない。対戦相手の力士は不戦勝となり、ちゃんと土俵に上がって勝ち名乗りを受ける。記録にもちゃんと白星がついて、相撲をとっての勝ち星と同等の扱いを受ける。戦ったことになるのだ(大相撲の取組がなくなるのは八百長がばれたときだけだ)。


 そういや野球って「九回表終了時点で後攻が勝ってる場合は九回裏をやらない」ってルールもあるし、変なところで無駄を嫌うよね。「間に合わないとわかってても最後の打者は一塁にヘッドスライディングをする」みたいな無駄は大好きなくせに。

 野球、いやスポーツなんてそもそもが無駄なものなんだからいいじゃんねえ、無駄があっても。









2023年11月2日木曜日

他人のジョーク

 こないだ、某氏の市長が公式のスピーチで「スピーチとスカートは短いほうがいい」と発言し、内容が不適切だとしてニュースになっていた。

 けしからん。じつに不適切だ。

 ぼくが不適切だとおもうのは、「どこかの誰かが考えて、さんざん使われて、誰もが知っているジョークを我が物顔で使うこと」だ。


 なんなんでしょうね。ああいうこという輩。

 レストランで食事が運ばれてくるのが遅かったら「遅いな。今、魚釣りに行ってんちゃうか」みたいなのはまだいい。身内でやっているだけだから。

 問題は、不特定多数が集まる場。式典の来賓あいさつとか、結婚式のスピーチとか。

 そういう場で「誰かが考えた話」を我が物顔で披露する人の気が知れない。寄席じゃないんだから、気の利いたことを考えられないなら言わなくていいのに。まじめに、あたりさわりのないスピーチをしてればいいのに。誰もそういう場で「心の底から笑える話」とか「深く感銘を受ける話」なんて期待してないんだから。

 

 以前、友人の結婚式に出席したとき。仕事関係で来ていたえらい(らしい)おっさんがそういうスピーチをやらかしていた。

「えー、みなさん、楽しいときはどう笑いますか。『はっはっ』と笑いますね。はっぱ六十四です。悲しいときには『しくしく』と泣きますよね。しく三十六です。六十四と三十六、たしてちょうど百になります。人生の三分の二ぐらいは楽しいことがあり、三分の一ぐらいは悲しいことがあります。〇〇くんと××さんのおふたりには、楽しいことは共有して、悲しいときは分けあって……」

とやっていた。それも「どや、うまいこと言うたったやろ!」という顔を満面に浮かべて。


 どういうつもりなんだろう。どういう神経をしていたら、誰もがどこかで何遍も聞いたことのある話をさもオリジナルであるかのように話せるんだろう。

 自分が考えた話ならいい。「なんで六十四が人生の約三分のニなの。合計を百とするって誰が決めたの」とか「なんでだじゃれで人生のおもしろさと悲しさの配分が決まるの」とか言いたいことはいろいろあるけど、本人が一生懸命考えて人前で話したのなら、他人がとやかく言うことじゃない。

 でもそのおっさんは、他人のつくった話を、我が物顔で披露していた。殊勝に「すみません、私は気の利いたスピーチを考える才能がまったくなくて、スピーチ集の本に載っていた話をそのまま話させていただくんですが……」と前置きすればまだかわいげもあるが、まるで自分がうまいことを言ってやったみたいなしたり顔で。


 ほんと、センスがない人は他人が考えた話をパクってまで無理に気の利いたことを言おうとしなくていいから! 誰も得しないから!


2023年11月1日水曜日

【読書感想文】デヴィッド・スタックラー サンジェイ・バス『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』 / 緊縮財政は人を殺す

経済政策で人は死ぬか?

公衆衛生学から見た不況対策

デヴィッド・スタックラー(著) サンジェイ・バス(著)
 橘 明美(訳) 臼井美子(訳)

内容(e-honより)
不況下において財政刺激策をとるか緊縮財政をとるかは、国民の健康、生死に大きな影響を与える。世界恐慌からソ連崩壊後の不況、アジア通貨危機、サブプライム危機後の大不況まで、各国の統計から、公衆衛生学の専門家が検証。同じように深刻な不況へ陥った各国が、異なる政策をとった結果、国民の健康にどのような違いを生んだか?緊縮財政が著しく国民の健康を害して死者数を増加させるうえ、景気回復も遅らせ、結局は高くつくことを論証する。長年の論争に、イデオロギーではなく、「国民の生死」という厳然たる事実から答えを導く一冊。

 公衆衛生の研究者と医師による、経済政策と国民の健康や生存率に関する調査。

 過去の様々な事例をもとに、どのような政策で「人は死ぬ」のかを明らかにしている。




 不況や財政危機になると、国民の健康が犠牲になることがある。医療、公衆衛生、住宅政策などにまわす予算が削られる。「健全な財政のためには一時的な犠牲はしかたがない」という論理だ。「経済が悪化すればもっと多くの犠牲が出る。多くの犠牲を防ぐためには当面のある程度の犠牲はいたしかたない」というわけだ。

 ところが。

 金融危機や経済危機をきっかけに債務危機に直面した国には、医療や食料費補助、住宅補助といった社会保護政策に支出する余裕などないと思う人は少なくないだろう。ところが現実のデータを調べてみると、ある種の財政刺激策、すなわち特定の社会保護政策への予算投入は短期的に経済を刺激し、結果的に債務軽減にもつながることがわかる。そうした政策への一ドルの投資は三ドルの経済成長となって戻ってきて、債務返済にも充当できるようになる。逆に急激かつ大規模な財政緊縮策の結果を調べてみると、当初の意図に反して、景気低迷を長引かせる結果に終わっている。急激な予算削減で需要がさらに冷え込み、失業者が増え、負のスパイラルが起きる。同時にセーフティネットが働かなくなって感染症の拡大など健康問題が深刻化し、景気回復どころかかえって財政赤字が膨らんでしまう。

 経済のために国民の健康を犠牲にすれば、経済は上向くどころか、かえって回復が遅くなってしまうのだ。もちろん死者数は増える。国民の健康に回す金を削れば、国民は不健康になる、国の医療費負担は増える、国全体の生産性は落ちる、と悪いことづくめなのだ。

 中学校の歴史の教科書にも書いてあった。1929年の世界恐慌の際、アメリカはニューディール政策という経済政策をとり、公共事業を増やし、市民の雇用を守ることに予算を投じた。その結果、経済は上向き、危機を乗り切ったと。

 ウェルチの主張は正しかった。ニューディール政策の費用は大恐慌期でも捻出できる規模のもので、今日の感覚からしても、費用対効果が優れていたと言える。ニューディールにおける社会保護政策の費用対効果は、費用に対して何人の命が救われたかという観点で計算すると、一般的な医薬品とほぼ同じレベルに達していた。
 ニューディール政策全体で言えば、その額がGDPの二〇パーセントを超えることはなかった。しかしそれは死亡率の低下だけではなく、景気回復の加速にも役立ったのである。アメリカ人の平均所得はニューディール政策の開始後すぐに九パーセント上昇し、それが消費を押し上げ、雇用創出の下支えにもなった。この政策に反対だった人々は財政赤字と債務増加の悪循環を警戒したが、結果的にはこの政策が景気回復を助け、債務も減る方向へと動いた。

 その他、様々な国でも同様の傾向が見られる。この本では、アイルランド、スウェーデン、アメリカ、ギリシャ、ロシア、イタリアなどの事例をもとに「緊縮財政が国民を殺し、国の経済を失速させる」ことを確認している。

 財政再建を後回しにして国民の命を守ることに金を使ったアイスランドはスピーディーに再建を果たし、逆にソ連崩壊後のロシアや財政危機に瀕したギリシャでは国民の健康を守るための出費を抑えたことで、経済のよりいっそうの低迷を招いた。

 本書のタイトルである『経済政策で人は死ぬか?』は決して大げさな表現ではなく、政策によって数千人、数万人の命が救われるか失われるかが変わることがあるのだ。連続殺人犯でもそんなに殺せないよ。


 財政危機に陥った国にはIMF(国際通貨基金)が介入することが多いが、IMFの言うこと(緊縮財政)を聞き入れない国ほど再建が早まっているのは皮肉なことだ。




 医療、公衆衛生など「国民の健康を守る」ことへの投資はあらゆる支出の中でも効果が高いという。雇用の創出にもつながるし、国民が健康になれば経済活動も活発になる。国家財政にとって、支出した分以上の利益を生むことがわかっている(もちろん一部の企業がごっそり中抜きしたりして不正に使われた場合は別だが)。

 だから財政難になろうとも、医療、公衆衛生、雇用対策などの金は削ってはいけない。削れば余計に財政が厳しくなる。むしろ積極的に公共投資を増やしたほうがいい。短期的には支出が減らなくても、中長期的に見ればそちらのほうが経済の立て直しにつながる。

 逆に、銀行の救済や軍事への支出は、使った分以下の経済効果しか生まないことが多いのだそうだ。


 このように、不況が自殺増加の主要因の一つであることは間違いないが、不況でなくても自殺が増えることはあるし、逆に不況だというだけで自殺が増えるわけでもない。イタリアとアメリカの例のように、政府が失業による痛手から国民を守ろうとしなかった場合には、だいたいにおいて失業の増加と自殺の増加にはっきりした相関が表れる。しかしながら、政府が失業者の再就職を支援するなど、何らかの対策をとると、失業と自殺の相関が低く抑えられることもある。たとえば、スウェーデンとフィンランドは一九八〇年代から一九九〇年代にかけて何度か深刻な不況に見舞われたが、失業率が急上昇した時期にも自殺率はそれほど上がらなかった。それは、不況が国民の精神衛生を直撃することがないように、特別の対策がとられたからである。この点はあとで詳しく述べる。
 不況になると失業が増えるのはどこの国でも同じで、避けようのないことかもしれない。しかし、自殺率の上昇はそうではない。

 だが、福祉や雇用維持に使う金は財政危機時には削られやすい。効果が見えにくい、即効性がない、私企業にとっての直接的な旨味がない、そのため集票や資金集めにつながりにくいことなどが原因なのだろう。

 身もふたもない言い方をすれば、「金持ちに使う金を削り、貧乏人や弱者に金を使うのがいちばん効果的」ってことだからね。そりゃあ政財界は現実から目を背けるわ。


 経済を立て直す必要に迫られたとき、わたしたちは何が本当の回復なのかを忘れがちである。本当の回復とは、持続的で人間的な回復であって、経済成長率ではない。経済成長は目的達成のための一手段にすぎず、それ自体は目的ではない。経済成長率が上がっても、それがわたしたちの健康や幸福を損なうものだとしたら、それに何の意味があるだろう? 一九六八年にロバート・ケネディが指摘したとおりである。
 今回の大不況について次の世代が評価するときがきたら、彼らは何を基準に判断するだろうか? それは成長率や赤字削減幅ではないだろう。社会的弱者をどう守ったか、コミュニティにとって最も基本的なニーズ、すなわち医療、住宅、仕事といったニーズにどこまで応えられたかといった点ではないだろうか?
 どの社会でも、最も大事な資源はその構成員、つまり人間である。したがって健康への投資は、好況時においては賢い選択であり、不況時には緊急かつ不可欠な選択となる。

 今の日本もまた、賃金が上がらず、物価だけが上がり、国家財政は借金が増え、経済的にはかなり苦しい状況にある。

 そんな中で「弱者に金を使う」方向に舵を切っているかというと……とてもそうは見えない。過去から学ばんでいないか、それとも知っていた上で私腹を肥やすために真実を見て見ぬふりしているか、どっちだろうね。


 ちなみに「減税しろ!」「消費税を廃止しろ!」という意見も多いが、それにはぼくは賛成しない。勘違いしている人が多いが、正しく使われれば、税金が増えれば増えるほど貧しい人は得するんだよ。1兆円減税すれば国民に1兆円が渡るだけだけど、1兆円の公共事業をおこなえば、賃金として1兆円を国民に渡せる上に、1兆円分の財を生むことができる。

 悪いのは使われ方(万博みたいな巨大ごみをつくったり、ごっそり中抜きする会社に渡したり)であって、税金が高いことは決して悪いことじゃない。


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