2023年9月15日金曜日

【読書感想文】小笠原 淳『見えない不祥事 北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない』 / 取材は〇だけど

見えない不祥事

北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない

小笠原 淳

内容(Amazonより)
全国で警察不祥事が相次ぐ中、骨太の報道記者がその隠蔽体質を暴露していく。北海道警察に公文書の開示請求を行い、それを発表してきた著者の書き下ろし。『週刊現代』(17年3月)や『文藝春秋』(17年4月)でも取り上げられ、注目の著者。サブタイトルの、「北海道の警察官は、ひき逃げしてもクビにならない」は、取材の過程で遭遇した事件によるもの。

 ルポルタージュはこれまで数多く読んできたけど、これはその中でもダントツでひどい文章の本だった。

 北海道警の隠蔽体質を追った本なのだが、合間合間にどうでもいい記述が並んでいて読みにくいことこの上ない。取材の間に著者が何を食ったとか、どの店に行ったとか、店の様子はどうだったとか、どれだけ酒を飲んだかとか、資料を集めた日の天気がどうだったとか、くそどうでもいい情報がちりばめられている。しかもまったくおもしろくないし。こっちは道警のことを知りたいだけで、記者にはまったく興味がないんだけど。

 あげく、自分の癖はペン回しだと語りだし、ペン回しのやり方について細かく描写しだしたときは「これはいったい何を読まさせられてるんだ……」と本を置きたくなった。

 ルポの合間に取材過程についての情報を入れる手法、ちょっとぐらいならリアリティや臨場感を高めてくれて効果的なんだけど。でもこの本はやりすぎ。なんなら著者の日記の間にルポがはさまってるぐらい。

 取材の内容はよかっただけに、文章がとにかく残念。ふだん記者として自分のことを書けない分、自分について書きたいという気持ちが爆発しちゃったのかなあ。



 不要な文章が多すぎたのでとばしとばし読んだのだけど、中身はわりと骨のあるルポルタージュだった。地道な取材、惜しまぬ努力、人の懐に入る技術。取材力は高いようだ。

2017年8月現在、北海道では道職員の「懲戒処分」を原則全件公表しているが、警察職員のみは唯一それを逃れ、多くのケースを封印することが許されている。さらに、懲戒処分に至らない「監督上の措置」といわれる内部処理があり、この対象となる不祥事は懲戒の6倍から7倍に上っているが、これらに至ってはそもそも公表を想定されていない。日常的に事件・事故の容疑者や被害者の個人情報を発信している役所が、自分たちの不祥事に限っては頑なに発表を拒み続けているのだ。

 ひき逃げ、横領、窃盗、詐欺、証拠隠滅、未成年者への猥褻行為……。北海道警では数々の不祥事が起こっているが、その多くが懲戒処分ではなく「監督上の措置」となっている。さらに事件は記者クラブに公表されず、情報公開請求をした人に対しても所属や氏名を隠してしぶしぶ公開する……。

 とにかく身内に甘いのが北海道警だ。もはや犯罪者集団だ。


 なぜ情報公開をしないのかと求められた北海道警は、人物が特定されることで当人のみならず家族までが悪意のある嫌がらせに遭う危険性があるからだ、と回答する。

 それ自体は決しておかしくない。犯罪事件の加害者にだって人権はある。

 が、問題は、なにかやらかしたのが警察官でなければ氏名や住所や職業を道警は平気で公開することだ。

 目の前の『メモ』を手に、私は委員全員を見まわしながら訴えた。
「この当事者が捕まってどういう処分になったのかは、知らないです。裁判になったのか、あるいは責任能力がないというので保護されたのか......。わからないですが、いずれ責任をとるわけですね。そういう人が、たとえばこれから先、「就職しよう』とか、『お母さんと一緒にまた別の場所に住もう』となった時に、自分の名前であるとか住所とかがこうやって拡散されたままだったら、当然そういう権利を失うというか、不自由な暮らしになるだろうと。実際この人の名前をインターネットに打ち込むと、今でも検索できてしまう。事件がわかってしまう」
 気のせいかもしれないが、委員の1人が小さく頷いたように見えた。
「ここで言いたいのは『逆じゃないか』と。警察というのは、一般の道民に較べて非常に大きな権限を持ってるわけですね。法律に基づいて人を捜査したりとか、家宅捜索とか差し押さえとか。たいへん大きな権限を持って仕事にあたってる以上は、仕事に対する責任も普通の人以上にあるんじゃないか。だから、そういう人たちの個人情報を出して一般の道民の情報を隠すのであればわかりますが、やっていることは逆なんです」

 他人には厳しく身内には甘い。典型的なダメ組織だ。


 ふつうの感覚は逆だろう。暴力を含め民間人以上に強い権限を持つ警察官の不祥事は、民間人よりも厳しく罰し、法や規則に背く行為があれば広く公開しなければならない。

 ところが道警はその逆をする。


 以前、稲葉 圭昭『恥さらし』という本を読んだ(→ 感想)。北海道警の現職警察官が暴力団と手を組み、麻薬の密輸を手助けしたり、罪を見逃したり、逆に範囲を持っていなかった市民に罪を押し付けたりしたというとんでもない事件だ。

 こんなひどい警察官がいたのか……と読んでいておそろしくなったのだが(その警察官が著者なので書かれていることはまず真実と見てまちがいないだろう)、もっとおそろしかったのはその事件が明るみに出た後の道警の対応だ。

 なんと、当時の上司や幹部たちはそろいもそろって知らぬ顔をして、罪をひとりに押し付けたのだ(ひとりは自殺している)。あたりまえだが、警察官たったひとりでそれだけのことができるはずがない。上司たちも知っていたはず、百歩譲っても「あいつはおかしい」と気づいていたはずだ。

 が、彼らはそろいもそろって「隠し通す」道を選んだ。他の警察官も、裁判所も、それを許した。

 そのとき、きちんと事件の全貌を暴いていたなら、その後の不祥事隠蔽体質はもうちょっとマシになっていたかもしれない。




 北海道警と聞いておもいだすのはヤジポイ事件(Wikipedia 第25回参議院議員通常選挙#首相演説での聴衆排除)だ。一部の政党に対するヤジだけを通例を超えて厳しく取り締まる、という北海道警の姿勢が招いた事件。

 ああいうことをしたのも、権力者にしっぽを振らないといけないようなことをしているからなんだろう。だって法に従ってまっとうに仕事をしていたら、わざわざ政府にこびへつらう必要がないもの。後ろ暗いところがあるから必要以上に権力者におもねるのだろう。


 警察官や裁判官みたいに「正義の番人」をやっている人たちはきっと正義感が強いのだろう、となんとなくおもってしまう。

 でもそれは逆で、正義という後ろ盾があるほうが人は不正に走りやすい。

 正義のデモをしたり、市民のための政治をしたり、動物や地球環境を守ろうとしたりする人が不正に手を染めるのはよくある話だ。それは正義というお題目があるから。

 ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』によれば、人は自分のためよりも他人のためにやるほうが悪事をしやすくなるらしい。「チームのため」「会社のため」「政党のため」とおもうと、言い訳がしやすくなるから。

「外国に行って好きなだけそこの人たちを殺してきてもいいですよ」といってもたいていの人は実行しないだろうが、「祖国、愛する家族を守るためにともに戦おう!」という“正義”があれば会ったこともない人を殺すことができる。

 また、他人の悪事を目撃した後は不正に走りやすくなるという。

 それでいうと、警察官という職業はかなり不正に向かいやすい職業だ。警察官個々人に問題があるというより(そういう人もいるが)、どちらかといえば構造的な問題だ。であれば、過去の不祥事を積極的に公開するなど不正を防ぐための制度設計が必要になる。不正に向き合うことは改善のための第一歩で必要不可欠なものだから

 しかし……。

 残念ながら北海道警にそれをする気は今なおなさそうだ。


【関連記事】

【読書感想文】警察は日本有数の悪の組織 / 稲葉 圭昭『恥さらし』

【読書感想文】正しい人間でいたいけどずるもしたい / ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』



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2023年9月12日火曜日

【読書感想文】サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』 / 熱意がありすぎて引く

これやこの

サンキュータツオ随筆集

サンキュータツオ

内容(KADOKAWAオフィシャルサイトより)
「記憶を語り継ぐことだけが、師匠たちを死なせない唯一の方法だ――」
学者で漫才師(米粒写経)のサンキュータツオによる、初めての随筆集。著者本人の人生をたどり、幼少時から今までの「別れ」をテーマに綴った傑作選。キュレーションを務める「渋谷らくご」でお世話になった喜多八、左談次の闘病と最期、小学生の頃に亡くなった父との思い出、そして京都アニメーションの事件で生きる気力を失ったサンキュータツオ自身の絶望と再生……。自分の心の奥に深く踏み込み、向き合い、そのときどう感じたのか、今何を思うのかを率直に描き出す。これまで「学問×エンタメ」を書いてきた著者の新境地!

 マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ三氏のやっている『東京ポッド許可局』がおもしろくて、毎週聴いている。

 三人ともぼくより少し上の世代なのだが、そのおじさんたちが語るほどよく力の抜けた会話がたいへん耳心地いい。酒場での、おもしろいおっちゃんたちの会話を盗み聞きしている感覚。編集も入っているのだろうが、それを感じさせないほど自然なおしゃべり。

 で、その番組の中でのサンキュータツオ氏の役回りは、進行役、常識人、理屈屋、といったところだ。要は“ツッコミ役”。ともすれば悪ふざけが暴走しがちなマキタスポーツ、プチ鹿島両氏に対するストッパー役を担っているのだが、オタク気質なので自身の関心のあることに関しては熱く持論をふりまわすこともあり、逆にツッコまれることもある。

 ぼく自身も、理屈っぽい偏屈な人間だと自覚しているので、三人の中ではサンキュータツオさんにいちばん親近感を抱いていた。そんなタツオさんがエッセイ集を出しているということで、読んでみた。



 ううむ。

 これは、著者のオタク気質が悪い風に出ているな。

 特に表題作『これやこの』。柳家喜多八、立川左談次というふたりの落語家が癌と闘いながら高座に上がり続けた晩年をつづったものなのだが……。

 とにかく、筆者からのふたりの師匠に対する熱を感じる。それはいい面もあるのだが、どちらかといえば空回りしているようにぼくには感じられた。

 というのもぼくは落語はたまに聴くものの上方落語専門で、柳家喜多八、立川左談次というふたりの落語家に関しては噺を聞いたことどころか名前すら知らなかった。そんな人たちの晩年の姿を「いや、とにかくかっこよかったんですよ!」と熱く語られても、サンキュータツオさんがそのふたりを敬愛していることは伝わってくるが、肝心の“柳家喜多八、立川左談次という人たちがどれほどすごい人だったのか”はいまいち伝わってこない。むしろ、こちらが引いてしまうというか。

 ほら、あるでしょう。オタクの人が愛する作品について熱弁していて。それが熱が入りすぎていて、作品を見てみたいとおもうどころか、逆に「いやあなたの語りを聞いているだけで充分おなかいっぱいになってしまったのでもういいです……」みたいな気持ちになることが。まさにあれ。

 要は、気持ちが入りすぎてるんだよね。

 ノンフィクションとかルポルタージュって、対象に対する情熱が大事なんだろうけど、それと同時にちょっと醒めた視点も必要だ。のめりこみすぎないというか。一歩引いたところから、まだそれほど興味を持っていない読者の傍らに立ってくれるのがいいノンフィクションだ。

『これやこの』には、とにかく強い情熱だけがあって、喜多八、左談次を知らない人に読ませるだけの客観性が欠けているように感じた。

 たぶん、生前の喜多八、左談次をよく知っている人が読めば胸を打つんだろうけど。ファン向けエッセイ。



 表題作『これやこの』以外にも、亡くなった知人についてつづったエッセイが並んでいる。こちらは、対象に対する思い入れがそこまでないせいか、ほどよく肩の力が抜けていて読みやすかった。

 昔バイトをしていた店の主人、バイト先で知り合った人、親戚のおばさんなど、「泣いて悼むほどではないけどいなくなったらやっぱり寂しい」人たちとの別離が書かれている。


 ただこれも、一篇一篇はいいエッセイなんだけど、死を扱ったエッセイがこれだけ続くと、ひとりあたりの死の重みが小さくなるというか、「もういいよ」という気持ちになってしまう。

 ごくたまにあるからこそ一人の死が胸にせまってくるわけで、この人も死んだ、あの人も死んだ、この人もやっぱり死んだ、というエッセイを立て続けに読んでいると、次第に感覚が鈍っていくのを感じる。

 もっと雑多なテーマについて書かれたエッセイ集を読みたかったなあ。




 著者がバイト先で知り合った“石井さん”に関する話。
  だんだん見えてきた。どうやら石井さんは毎週月曜日に寄席の定点観測をしており、それはどういう演者が出るとか、どれくらいお客さんが入るかとか、そういうことをまったく気にせず、ただ出てくるものを聴く。演者の力を細部から推しはかる。それが古典であろうと新作であろうと、描写は人物造形や解釈に至るまで、つぶさに観察していた。好き嫌いを持ち込まずに、ただただ聴き続けるというスタイルだ。
 そしてそれは映画に関してもおなじだった。一定の量を浴び続ける。悪いものも良いものも、とりあえず先入観なくなんでも鑑賞した。すべてを許容するということはないが、こうでなければいけないという哲学をこしらえて頑なになるのではなく、いくつかの哲学の並存を認めていた。
 石井さんが落語を語るとき。それはまるでソムリエではないワイン好きがワインを片っ端から飲んで語るような、専門家だがそれを職としていない、堅苦しさからは解放されたような語り方だった。一言でいえば、自分ではいかなる介入もしないことを心に決めた「観察者」「見届け人」だった。落語の未来は暗かった。おそらくこのまま先細って滅びていくであろうことが想像できた。それでも期待せず、だが見捨てもしないという覚悟でずっと動向を追い続ける介添人のような存在だった。

 この“石井さん”の趣味に対する接し方は、ぼくが読書をする上で心掛けていることに近い。

 ぼくは、なるべく幅広いジャンルの本を読みたいと考えている。できることなら、出版社も著者名もレビューも一切気にすることなく、もっといえばジャンルも気にすることなく、「星の数ほどの本の中からまったくランダムに手に取った本を読む」みたいな読み方にあこがれる。

 なぜなら「まったく期待せずに偶然的な出会いをした本がめちゃくちゃおもしろかった」という体験こそが、読書をする上で至高の瞬間だからだ。自分の世界の枠組みをぐぐっと拡げてくれるような読書体験をしたいと常々考えている。


 とはいえ現実的に時間は有限で、ハズレの本を引きたくないという欲望もあるから、ついつい知っている著者の本を手に取ってしまうし、レビューサイトを見て評判の高い本を優先的に読んでしまう。

 そうすると、たしかにハズレを引く可能性は低くなるんだけど、「こんな世界もあったのか!」という驚きは小さくなってしまう。

 この石井さんのように「とりあえず先入観なくなんでも鑑賞した」とまではいかなくても、たまにはまったく未知のジャンルにも手を伸ばす懐の広さを持っていたいな。


【関連記事】

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』



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2023年9月11日月曜日

名前三題

 呼ばれ方

 名字が平凡+下の名前がちょっとめずらしくて呼びやすい響き、ということで学生時代はずっと下の名前で呼ばれていた。

 自分がそうだったのであまり気づかなかったのだが、「みんなから下の名前で呼ばれている人」や「みんなから同じあだなで呼ばれている人」って、人見知りする人からすると困る存在だったりする。

 あんまり親しくないクラスメイト(仮に鈴木イチローとしよう)を呼ぶとき、「鈴木」や「鈴木くん」はわりとすんなり呼べるが、はじめて「イチロー」と話しかけるのはちょっと勇気がいる。「自分ぐらいの関係性でイチロー呼ばわりしていいのだろうか。なれなれしいやつとおもわれないだろうか」と考えてしまう。かといってみんながイチローって呼んでるのに自分だけ鈴木くんっていうのも妙によそよそしい感じがするよな、とあれこれ考えてしまい、結局「なあ」「ねえ」みたいに熟年夫婦みたいな呼びかけをしてしまう。

「みんなから下の名前で呼ばれている人」「みんなから同じあだなで呼ばれている人」はビギナー向けではない。中級者以上にとっては親しみやすいのだが。



ファーストネーム

 海外企業のウェブサービスなんかを使うと、フォームで「First Name」「Family Name」を記入することを求められる。

 そのたびに「First Name って名字と名前どっちだっけ?」となる。「ええと、Family Name は家族の名前だから名字だな」あるいは「ええと、Firstだから先で、英米だと下の名前が先だから、下の名前か」と考えてやっと答えにたどりつく。

 First も Family も両方 F ではじまるからややこしいのだ。ぱっと見て違う単語にしてほしい。

 また「Family Name」ではなく「Last Name」のときもあり、どっちかに統一してほしい。

 でもきっと漢字圏以外の人間も同じようなことをおもっているだろうな。「開ける」「閉める」が正反対の意味なのになんで似てるんだよ! とか、「買」と「売」は逆の意味なのにどうしてどっちも「バイ」と読ませるんだよ! とか、「名字」と「苗字」と「姓」のどれかに統一しろよ! とか。日本人でもおもう。



名前のうちの名前のほう

 姓と名を区別して言いたいとき、姓のほうは「姓」「名字」と言えばいいが、名(姓じゃないほう)だけを指す適切な呼び方がない。「名前」も「名」も、姓を含む意味のことがあるからだ。しかたなく「下の名前」と、どうも歯切れの悪い呼び方をしている。さっきから何度も「下の名前」と書いているが、そのたびにもっといい言い回しはないものかとおもう。「オノ・ヨーコの夫の下の名前」と言われても、レノンなのかジョンなのかよくわからない。

 一語でずばっと言い表す言葉はないものか。「下の名前」と「下の“を”(あるいはむずかしいほうの“を”」はいいかげんなんとかしてほしい。

 上位の概念(姓+名)と下位の概念(姓を含まない名)がどちらも「名前」なのがよくない。

 ついでにいえば「ごはん」「飯」もそうだ。上位の概念(食事)と下位の概念(米を炊いたもの)がどちらも同じ呼び名である。さらに「ごはんにする」「飯にする」と動詞化したりもする。「白飯」という呼び名もあるが、それだと炊き込みご飯が含まれない。

 ちなみにこれは個人的な感覚だが、炊き込みご飯や赤飯や牛丼の下の部分は「ごはん」だが、チャーハンやパエリアは(下位の概念としての)「ごはん」という感じがしない。ごはんではあるがごはんではない。



2023年9月7日木曜日

【創作】死なない世界

 医療技術の発達により身体や脳が衰えることはなくなった。事故や他殺や自殺以外で死ぬことはなくなった。ほぼ不老不死だ。


 問題は人口が増えることだ。ほとんど死なないのだから。

 人が増える。困る。土地や食料や資源は有限なのだから。誰か死ねよ。じゃあおまえが死んだらどうだ。いや、おれはいやだよ。おれより先に死んだほうがいいやつがいるだろ。おれが死ぬとしても、それより後だろ。

 誰も「私が死にますよ」と言わない。「自分以外の誰かが」とおもうだけだ。ゴールデンウイークに渋滞に巻き込まれて「なんでこんなに人が多いんだ!」と怒る人と同じだ。


 しかたない、これ以上増えないようにしよう。厳しい産児制限。事故や自殺で死んだ分だけ産んでもいいことにする。

 人口構成比はものすごくいびつになる。ほとんどが高齢者。それも元気な高齢者。若者はごくごくわずかだ。

 富も権力も高齢者が独占している。あたりまえだ。なにしろ何百年も生きていて、頭も肉体も元気なのだ。稼ぐ方法、権力を手にする方法を熟知しているし、金は資産のある者のところにどんどん集まる。何百年もビジネスをしている資産家と新社会人がビジネスの場で勝負になるはずがない。

 したがって、嫌な仕事はすべて若い連中にまわってくる。法律も制度も若い人に不利にできている。若いやつらは数が少ないので太刀打ちできない。産児制限されているから増えようもない。

 形だけは民主主義が保たれている。だがあくまで形だけ。人口のほとんどが年寄りなのだから年寄りに支持されている政党が勝ち、年寄りに有利な法が作られる。政権交代は起こりようがない。世代交代も。



2023年9月6日水曜日

こばかにされる教師たち

 中学校でも嫌われている先生はいたが、高校になるとそれがちょっと変わった。

 嫌うんじゃなくてこばかにするようになった。


 言ってみれば、中学時代の嫌われている先生は陰で「ヤマシタのやつ、むかつくよなー」って言われる感じだったのが、高校でこばかにされる先生は「ヒデコちゃんがまたとんちんかんなこと言ってたよ。かわいそうに」みたいな扱いだった。

 中学では、嫌われながらも一応目上の存在だったのが、高校では明らかに格下になっていた。

 こばかにするようになって、「あの先生むかつく」という感覚はあまりなくなった。なぜなら格下だから。

 ナメクジがいるじゃん。ナメクジが好きな人はあんまりいないとおもうんだよね。でもナメクジにむかつくことってまずないでしょ。なぜなら圧倒的に格下だから。ゴキブリみたいに素早く動いたりもしないし、蚊みたいに刺してきたりもしないし。人間様が負ける要素がひとつもない。だから、嫌だなとはおもうけど、おびえたり憎んだりはしない。高校においてこばかにされる教師はそんな存在だった。ナメクジに例えるのはさすがに失礼だけど。


 また、中学校では「怖い先生」が嫌われることが多かったけど、高校に入ると嫌われるタイプが変わった。

 そこそこの進学校だったこともあってか「頭のいい先生」「教えかたがうまい先生」が生徒から敬意を持たれていて、そうでない先生がこばかにされてた。

 体育教師なんかはその典型だった。もちろん敬意を持たれている体育教師もいたが、それは「生徒に対して対等に近い立場で関わろうとする教師」で、軍隊の上官のような態度で接してくる教師は例外なくこばかにされていた。

 高校生ともなれば、肉体的な強さでは大人に負けていない。教師が過度な体罰をできないこともわかっているので、大声を出すタイプの教師はそんなに怖くない。むしろ「理性をコントロールできないあわれなやつ」としてこばかにされる。

 こばかにしていることが伝わるのだろう、体育教師のほうはなんとかして優位に立とうと理不尽に怒る。理不尽に怒ることで「理性的に会話ができないあわれな大人」としてますますこばかにされる。


「こいつは自分より数段頭が悪いくせにいばってるな」ということがわかってしまい、こばかにするようになるのだ。

 そう、ちょうどレベルの低いポケモントレーナーの言うことをポケモンが聞かないのとおんなじで。