2023年4月24日月曜日

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『ニッポン野球は永久に不滅です』 / プロ野球界でいちばん大変なのは通訳

ニッポン野球は永久に不滅です

ロバート・ホワイティング(著) 松井 みどり(訳)

内容(e-honより)
近くて遠い“野球”と“ベースボール”―かつてニッポン野球を賑わしたすごいガイジンがいた。変なガイジンもいた。彼らの活躍を語りながら、滞日20年のジャーナリストの眼を通して見る“日米野球摩擦”の現場。そして、愛と皮肉をこめておくる刺激的なニッポン人論。

 1985年刊行。

 アメリカ人ライターが書いた、日本プロ野球論(なぜかメキシコ野球についてもページが割かれているが)。


 この著者がアメリカ人に向けて日本野球を説明した『和をもって日本となす』がめっぽうおもしろかった(昨年のナンバーワン読書だった)ので期待して読んだが、『ニッポン野球は永久に不滅です』のほうはコラムの寄せ集めで、かつ時代性が強いものだったので、今読むとわかりづらい。

 今から四十年前に活躍した外国人選手の名前があたりまえのように出てくる。さすがに40年近くたった今読むには無理があったか。




 選手について書かれたところよりも、通訳の仕事についての記述のほうがおもしろかった。

 とにかくたいへんそう。

「ガイジンの1年目、特に最初の2ヵ月間がきつくてね」と中島国章。ジョー・ペピトーンの頃からヤクルトの通訳を勤めている。「ガイジンが日本の生活にスムースに入っていけてるかどうか見守るのが僕の仕事なんだ。球場の中はもちろん、プライベートなことまでね。マンション捜しに始まって、家具の買い物を手伝ったり、奥さんにいろんな店を教えてやったり、子供達にいい学校を見つけて、通学が可能かどうか確かめたり……。まあ一日24時間待機ですな。真夜中に子供が病気にでもなれば、飛び起きて病院まで連れていかなくちゃならない」
 中島は言う。
「練習が長すぎるとか、コーチが口出ししすぎるとか、監督にけなされたとか、そういうアメリカ人の不平不満を聞いてやらなくちゃならないんだ。彼らと話しができて、情況を説明してやれる人間は、たいてい僕しかいないわけよ。とにかく何から何まで事情が違い過ぎるんだな。時には彼の心理学者、アドバイザー、時には友達……。アメリカ人の世界に入って行って、興味をもって話を聞いてやる。そうすれば孤立感を深めなくて済むからね。彼の考え方とか、困っていることを僕が理解できれば、監督だって手の打ちようがあるというものだろう? 精神的な悩みがあったら、とてもプレーどころじゃないからね。彼をハッピーにしてやること、うまくいくように手助けすること、それが僕の役目なんだと思っている」
「彼をチームに解け込ませるようにしなくちゃいけない。日本の選手が食事に誘ってくれたらしめたもんさ。ガイジンと付き合ってもいいな、という気になり始めた証拠だからね。もし僕が疲れていて断るとするだろ。そのとたんに行きたくないんだと誤解されて、もう二度と誘ってくれないんだ。その日本人選手とアメリカ人選手が知り合いになれるチャンスはそれっきりなくなっちゃう。 通訳ははにかみ屋じゃ勤まらない。チームのハーモニーを保つためにも、人なつっこくて気さくでなくちゃだめさ。(後略)」

 通訳という立場でありながら、通訳の何倍もの他の仕事がある。外国人選手の通訳となり、秘書となり、コーチとなり、友人とならなくてはならない。

 グラウンドの上だけでなく、ミーティング、休憩中、移動中、宿舎、オフの日にいたるまでずっと外国人選手の身の周りの世話を焼かなくてはならない。人によってはトスバッティングのボールを上げてやったりまでするという。

 球団関係者で、いちばんきつい仕事をしているのは選手でも監督でもなく、ひょっとすると通訳かもしれない。

 これで給料はふつうのサラリーマンぐらいというのだから、ふつうの神経ではやっていられない。能力、拘束時間、責任、ストレスなどを考えたら年俸数千万ぐらい出してもいい仕事だとおもうなあ。




 すべての通訳が口をそろえて「そのまま通訳してはいけない」と語っているのがおもしろい。

 監督が放った失礼な言葉、コーチが口にする的外れなアドバイス、外国人選手が叫んだ罵詈雑言。それらを逐一翻訳していたら、たちまち喧嘩になって選手たちは帰国してしまうだろう。だから「まったくべつの言葉に変換する」技術が求められるそうだ。

 延長12回の末、中日ドラゴンズをシャットアウトしたクライド・ライト。直後のテレビ・インタビューで「どんなお気持ですか?」という質問に、間延びした口調で答えた内容は、まったくもって日本的じゃなかった。
「そうだなぁ、実を言うとよぉ、勝ったか負けたかなんて俺にはどーでもいいんだわさ。早いとこ試合を終わらせて、さっさと家に帰って寝たかったなぁ」
 これを受けた田沼通訳の如才ない翻訳――
「僕は一生懸命やりました!勝てて本当によかったと思っています」。これで波風がたたなくてすんだ。

 と、こんなふうに。

 ここまで極端じゃなくても、〝日本的〟な発言を求められる場面は随所にある。

 たとえばヒーロー・インタビューで記者から「打席に立ったとき、スタンドはすごい声援でしたね。いかがでしたか?」と訊かれた場合、〝日本的〟な答えは「ファンのみなさんが打たせてくれたヒットです!」であって、他の答えはすべて不正解だ。まちがっても「集中していたので声援は耳に入りませんでした」とか「適度なトレーニングと休息のおかげで良いコンディションを保っていたからだよ」なんて答えてはならない。

 もちろん「ファンのみなさんが打たせてくれたヒットです!」が嘘であることは、選手も記者もファンもみんな知っている。それでもそう言わなくちゃいけない。それが〝日本的〟なふるまいであるから。

 ここで外国人選手の発言をそのまま訳せばファンや他の選手はおもしろくないし、「あんたのその発言はまちがってるよ」と言ったところで外国人選手は納得しないだろう(じっさい間違ってないのだから)。

 そこで、通訳がまず「英語→日本語」の翻訳をおこない、その後に「訳した日本語→〝日本的〟な日本語」に翻訳をするわけだ。めちゃくちゃすごいことやってるなあ。




 コーチ口出しすぎ問題。

 通訳が否が応でも直面しなくてはいけない「異文化の交差点」は、ウェイティング・サークルの問題だ。日本のほとんどの監督が、そこで打順を待つバッターに何らかのアドバイスをしなくてはいけないものだと思っている。(「低めのシュートに気をつけろ」とか「高めのカーブをよくねらえ」とか、その他もろもろのありがたい入れ知恵をする……)
 ところが、たいていのアメリカ人は干渉されるのが大嫌いときてる。アメリカで監督に放任されるのに慣れているからだ。
 ロッテのレロン・リーのコメントはそれをよく物語っている。
「バッターとして言わせてもらうけど、打順を待つ間に他の誰とも口なんかききたくないね。せっかく精神を集中してたのに、ひっかき回されちゃうからさ。俺が頭の中で『スライダー』を浮かべてるっていうのに、飛んで来た通訳に、『シュート』だなんて言われてみな。気になって打てやしないさ」
 サンドイッチマンの根本的なジレンマがここにある。監督の言葉を伝えるのは義務だし、アメリカ人には「こっちの身にもなれよ」とぴしゃりと言われてしまう。

 これは野球界、外国人に限った話ではないよね。

 たとえばプログラムのプの字も知らないのに、プログラマーに対して「こうすればもっと効率化できる」なんて言う上司、きっとあなたの会社にもいるでしょう?


「部下のやりかたに口を出すのが仕事」とおもってる上司が多いからね。今もなお。

 この本には「メジャーリーグで名内野手としてならした外国人選手に対して、ゴロのさばきかたをアドバイスしようとする外野手出身のコーチ」が紹介されているが、これに近い例はいくらでもある。

 プロ野球の世界なんて、何十年も前に引退したおじいちゃんがいまだにテレビでえらそうに「ああしろ、こうしろ」って言ってるからね。あいつらなんか仮に肉体が若返ってもぜったいに今のプロ野球では通用しないのに。

 だいたいプロ野球のコーチなんてほとんどが選手出身で、コーチとしての専門教育を受けてきたわけではない。そして野球のレベルは年々高くなっているのだから、ほとんどの場合は選手のほうがコーチよりもよくわかっている。そうでなくても自分の身体のことはコーチよりも選手のほうがわかるだろうし。

 それでも何か言いたくなる、言わずにはおれないコーチが多い。

 あれは、わからないからこそ言いたくなるんだろうね。自分がわからないから、疎外感を解消するため、あるいは権威を見せつけるために(じっさいは逆にばかにされるだけなんだけど)あれこれと口出しをする。


 そういやぼくが前いた会社でも、営業職出身の上司が、営業社員よりもプログラマや事務職の人間に対して、やれ効率化がどうだとか、仕事のやりかたがどうだとか、愚にもつかないことを言っていた。

 具体的なアドバイスはなにひとつできないから、やれ気合が感じられないだの、士気を上げろだのといったとんちんかんな根性論しか語れない。

 わからないからとんちんかんなことを言う → ばかにされる → ばかにされていることだけは感じ取って挽回しようとする → ますます権威をふりかざして口を出す → ますますばかにされる という流れだ。

 上司がやるべき仕事は「部下のやりかたに口を出す」ではなく「部下のやりかたに口を出さない」のほうが大事なんだろうね。そっちのほうがずっとむずかしい。

 ぼくも気を付けよう。




 プロ野球の話というより、日米比較文化論として読んだ方がおもしろいかもしれない。

 日本プロ野球界の話なのに、日本全体にあてはまることが多いからね。


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2023年4月17日月曜日

おためごかしの嘘

  人並みに嘘を憎んでいて人並み以上にほらを吹くぼくだが、嫌いな嘘がある。

 それは「おためごかしの嘘」だ。

 あんたのためにやっていることなんですよ、という嘘だ。


 具体例を書こう。

 テーマパークやスタジアムにおける「飲食物の持ち込みは、食中毒などのおそれがあることから禁止とさせていただいております」、おまえのことだ。


 嘘つけー!!!!



 いやいや。どう考えてもほんとの理由は「こっちは相場より高い値段で飲食物を提供して儲けたろうとおもってんのに持ち込みされたらかなんわ」だろ。


 ことわっておくが、持ち込み禁止自体に不服があるわけではない。公共施設とかならともかく、民間団体が営利目的で運営している施設であれば、儲けるためのシステムをつくるのは当然だ。

 相場より高いのも、その割に量が少なくて出来あいの料理でおいしくないことも、ある程度はしかたないとおもっている。テーマパークやスタジアムに安くてうまい飯なんてはなから期待していない。

 気に食わないのは、「お客様のためをおもって禁止にさせていただいているのです」という態度だ。

「金儲けのためって言えばあんたらはケチやから文句言うんでっしゃろ。せやからあんたがたの健康を守るためっていう理由にしてるんですわ」という、客をなめきった姿勢が気に入らない。

 おまえらの魂胆なんか見え見えなんじゃい!


 増税もさ、福利厚生充実のためとか「あなたたちのためにやってあげてるんです」みたいな言い訳するんじゃなくて、「今年度苦しいんですわ。もう火の車で」みたいに本音を吐露してくれよ! ……だとしてもイヤだけど!



2023年4月13日木曜日

スポーツのずるさ

 スポーツはずるい。

 なにがずるいって、ずるさを認めないところがずるい。


 たとえば、野球の盗塁。

 世界で最初に盗塁がおこなわれたとき、ぜったいに物議をかもしたとおもうんだよね。

「おいおい、何勝手に2塁に走ってるんだよ。戻れよ」

「なんで?」

「なんでって……ずるいだろ、そんなの」

「ルールに書いてあるの? ピッチャーが投げてる間に2塁まで走ったらいけませんって」

「それは書いてないかもしれないけど……。でもわかるだろ、ふつうに考えて」

「おれはふつうに考えて、走っていいとおもったんだけど。文句があるならそれがダメって書かれたルールブック持ってこいよ」

「う……。わかったよ、じゃあいいよ2塁進塁で。その代わりこっちも同じことやってやるからな!」

「ああいいぜ、言っとくけど、2塁に到達する前にボール持った野手にタッチされたらアウトだからな!」

みたいなやりとりがあったはずだ。ぜったい。

 でなきゃ steal(盗む)なんて名前がつけられるはずがない。


 送りバントも、敬遠四球も、変化球も、牽制球も、最初はずる扱いされたにちがいない。かくし球やトリックプレーに関しては言うまでもない。

 これずるくないか? とおもわれつつ、でもルールで明確に禁止されてるわけじゃないからしょうがないか、みたいな感じでしぶしぶ認められたプレーだ。

 野球だけではない。

 サッカーのヘディングだって、バレーボールの時間差攻撃だって、柔道の寝技だって、ボクシングのクリンチだって、最初はずるだったとおもう。でも今ではテクニックとして認められている。


 断っておくが、これはぜんぜん悪いことではない。

 ルールから逸脱しないぎりぎりの範囲で、いかに相手の裏をかくか、相手を騙すか、相手の嫌がることをするか、自分だけが利することをするか。これこそがゲームの醍醐味だ。

 たとえばテーブルゲームの世界で「ルールの範囲内で相手をだます」はまったく悪いことじゃない。むしろ見事なプレーだとして褒められる。

 将棋で「歩をさしだしたのは、桂馬を手に入れるためだったのか。だましたな! ずるいぞ!」とか「王将が逃げざるをえないのをいいことに、王手飛車取りをかけるとは、なんて汚いやり方だ!」なんて責められることはない(ちっちゃい子どもは言うが)。うまく相手をだます人が一流のプレイヤーだ。

 

 テーブルゲームでもスポーツでも、対人ゲームのおもしろさは「相手をいかにうまくだますか」にある。だからだますことはぜんぜん悪くない。ずるくない。

 じゃあスポーツの何がずるいかというと、だましたりしませんみたいな顔をするところだ。

 正々堂々、正面からぶつかります。

 フェアプレーを学ぶことは青少年の健全な発達につながります。

 こういうことを言うところが、ずるい。

 掃除の時間にふざけるやつは、悪いけどずるくはない。先生が見にきたときだけ、ぼくずっとまじめに掃除やってましたよみたいな顔をするやつはずるい。

 スポーツ界がやっているのはまさにそれだ。相手によって「悪い顔」と「いい顔」を使い分けている。これがずるい。

 そんなに正々堂々やりたいなら「右四つからの寄り切りを狙います!」と宣言してから立ちあいなさいよ。「内角低め、カーブ」と宣言してからその通りに投げなさいよ。


 正々堂々やっていると言っていいのは、陸上競技ぐらいのものだろう。四百メートル走も走り高跳びも砲丸投げも十種競技も、相手をあざむくことはない。己の記録を伸ばすことだけが勝利に近づく。そこに「いかに相手をだますか」という視点はまるでない。

 だからほら、陸上競技って見ていてつまらないでしょ?



2023年4月12日水曜日

【読書感想文】有馬 晋作『暴走するポピュリズム 日本と世界の政治危機』 / で、結局ポピュリズムの何が悪いの?

暴走するポピュリズム

日本と世界の政治危機

有馬 晋作

内容(e-honより)
世界的に長い歴史と波を持つ運動であるポピュリズムは、いかにして日本に現れたのか。世界のポピュリズムの流れとの比較から、一九九〇年代の「改革派首長」(橋本大二郎、北川正恭、田中康夫ら)や小泉改革などに現代日本のポピュリズムの淵源を求め、「橋下劇場」「小池劇場」と呼ばれる「劇場型政治家」が地方政治に現れた政治力学を分析。今後日本でも国政レベルでポピュリズム政党が台頭する可能性があるのか、そうなった場合の危険性や対処法をリベラル・デモクラシー擁護の観点から幅広く論じる。


 ポピュリズム。そのまま訳せば大衆主義などになるのだろうが、日本では批判的なニュアンスを込めて大衆迎合主義や衆愚政治のように使われることが多い。

 この言葉を知ったときからぼくがずっとおもっているのは、「ポピュリズムって悪いことなの?」ということ。

 政治って大衆のためにやるものでしょ? 大衆に迎合するのが悪いことなの? そりゃあ大衆が誤ることは多々あるし、大衆に従った結果マイノリティが著しい不利益を被ることもある。でもそんなのはポピュリズムに限った話ではない。一部のエリートによる寡頭政治にも同じ問題はついてまわる。

 同じように誤るのなら、一部の権力者が誤るよりも大衆が誤った道に進むほうがまだマシなんじゃないかとおもうんだけど。




 ということで「ポピュリズムの何が悪いのかわからない」というぼくの疑問に答えてくれるんじゃないかとおもって『暴走するポピュリズム』を手に取ってみたのだが、結論から言うと答えは見当たらなかった。

 著者がポピュリズムを嫌いなことだけはよくわかったけど。


 たとえば、ポピュリズムが独裁を招くことがある、って書いてあるけど、独裁につながるのはポピュリズムだけじゃないよね。毛沢東とかスターリンとかプーチンはべつにポピュリストじゃないよね。

 だったら、独裁になるかどうかはポピュリズムとは別の問題だとおもうんだよ。

 それに、独裁による政治の暴走が起こるのなら、それはポピュリズムによるものではなく、そもそも憲法や司法によってそれを防止するシステムが機能してないからなんじゃないの?


「維新や希望の党はれいわ新撰組はポピュリズム政党」って決めつけて議論してるんだけど、そもそもポピュリズムの定義がはっきりしない。権力者への攻撃、一部の敵をつくって立ち向かう自分たちを演出なんてどの党もやってることだし。自民党だって下野してたときは庶民の味方のふりをして政権非難してたけどあれもポピュリズム?

 逆に「こういうのはポピュリズムじゃない」という定義をしてほしいんだけど、そのへんの説明は一切ない。

 結局、著者が気に入らない新しい政党はポピュリズム政党、昔からある党はポピュリズムじゃない、って分け方に感じられちゃうんだよね。


 それに、たしかに橋下徹なんて政界進出当初はポピュリストといってもよかったけど(自分でも認めてたし)、それから十年以上たった維新の会をポピュリズム政党と片付けてしまうのはちょっと乱暴な気がする。

 ぼくは大阪市民なので、維新が大阪にどれだけ根付いているかは肌身に感じて知っている(ぼくは支持しないけど)。市長も府知事も市議会も府議会も維新の議員だらけで、いいわるいは別にして、誰がどう見たって大阪では大衆側ではなく権力者側だ。十年以上市政や府政のトップの座にいて、二回も住民投票で反対された都構想をいまだ掲げている党が大衆迎合主義? その認識は現実とずれすぎてない?




 日本においてポピュリズムという言葉がさかんに使われるようになったのは、小泉純一郎の「小泉劇場」の頃からだと著者は指摘する。

 小泉劇場のポピュリズムを分析したものとしては、すでに紹介した大嶽秀夫が有名である。小泉は、金融機関の不良債権処理や公共事業の削減、「構造改革」に伴う倒産や失業などの「痛み」を、国民に甘受してもらわなければと訴えたが、それを「大衆迎合」のポピュリズムでなく、既得権益・抵抗勢力と闘うという「劇的」なものにして実現したといえる。すなわち、小泉のポピュリズム政治の特徴は、「善玉悪玉二元論」を基礎に、政治家や官僚を政治・行政から「甘い汁」を吸う「悪玉」として、自らを一般国民を代表する「善玉」として描き、勧善懲悪的ドラマとして演出するもので、政治を利害の対立調整の過程としてイメージしていないことである。

 この考えは今も生きているよね。

 ぼくが政治に興味を持ちはじめたのはちょうど小泉純一郎氏が自民党総裁選に出馬した頃だったので(そのときの総裁選では小渕恵三氏が勝った。「凡人・軍人・変人」のときね)、それ以前の政治がどんな雰囲気だったかは知らない。

 でも、とにかく今は政治を「敵を負かすもの」ととらえている人が多いように感じる。本来は「利害の調整を図る」ものであって、その根底には「意見の異なる者も認めて尊重する」ことが必要だとおもうが、そんなふうに考えている人は今では少数派なんじゃなかろうか。

 わが党の中にはいろんな考え方があり、他の党にも我々と異なる立場や思想がある。それらすべてを尊重して調整を図るのが私たちの仕事です。……なんて考え方をしている国会議員が今どれだけいるだろうか? 「敵をつくって分断をあおるのがポピュリズムだ」なんて定義をしたら、すべての政党がポピュリズム政党になっちゃうんじゃない?




 日本でもポピュリズム政党が政権奪取に近づいたことがあった。

 2017年に希望の党が結党されたときだ。自公政権の支持率が低下し、都議会で躍進していた都民ファーストの会が国政進出するのために希望の党が結成された。野党第一党であった民進党が希望の党への合流を決め、一躍最大野党となり、直後の衆院選の結果次第では結党わずか数ヶ月で政権奪取もあるのではないか……というムードが漂っていた。

 当時の希望の党には国政の実績はまるでなく、ビジョンだってほとんどなかった(あったのかもしれないが国民のほとんどは理解していなかった)。それでも希望の党はまちがいなく衆院選での大勝利に近づいていた。あれはまちがいなくポピュリズムといっていいだろう。


 が、民進党との合流を発表した直後の記者会見で小池代表が「(安全保障への考えや憲法観が異なる議員は)排除いたします」と述べたことで雰囲気は一転。民進党議員からも国民からも反発を招き、合流を拒否した議員たちによる立憲民主党結成があり、衆院選でも希望の党は政権奪取どころか立憲民主党の議席をも下回ることとなった。

 実は、中道左派の政党は、世界的に見ても混迷の状況である。その理由は、グローバル化が先進国に思ったほどの果実を与えず分配のためのパイが十分増えなかったからともいえる。つまり、グローバル化の進展によって再分配政策を十分展開できず、中間層の所得が伸び悩んでいる。また先進諸国では中道左派と中道右派の政党の政策が近づき、その差がなくなっている。日本でも安倍政権が、同一労働同一賃金など左派のお株を奪うような政策を実施しようとしている。しかし、日本の中道左派と中道右派の支持者の中には、既成政治への不信感をベースに長期政権を望ましく思わず非自民に期待する人々もいる。もともと保守で非自民に立つ小池率いる「希望の党」は、その受け皿になる可能性が十分あった。しかし、ポピュリズム的要素が強いだけに、「排除」という言葉によって一気に失速してしまった。そして、その結果、野党では分裂が一気に進んでしまったといえる。
 以上のことをみると、今回の「希望の党」の動きは、ポピュリズム戦略としては、あり得る動きといえ、もし成功していれば日本政治の歴史に残ったであろう。ただ、「排除」という言葉ひとつで情勢が大きく変わるのは、無党派層の風向き次第で勢いに差がつくポピュリズム故の結果だったといえよう。

 ほんとに「排除」の一言で政局がころっと変わってしまった。あの一言がなければその後の日本政治はまったく別のものになっていたんじゃないだろうか。

 あの発言は「たった一言で歴史を動かした」ランキングの中でも相当上位にくるんじゃないだろうか。


 今は自公政権が過半数の議席をとっているが、その支持基盤は盤石なものではない。国民の多くは不満を抱えている。その不満の受け皿となる党がないだけで。

 だから、今後も大衆のハートをうまくつかむ政党が現れたら、あっという間に政権交代を成し遂げてしまうかもしれない。少なくとも、既存政党が少しずつ議席を増やしていって……という展開よりは、新党が一気にまくるシナリオのほうがずっとありそうではある。




 読めば読むほど、ポピュリズムが悪いというよりは、ポピュリズムによって引き起こされるかもしれない出来事(三権分立の破壊とか少数派の弾圧とか民主主義の形骸化とか)が悪いだけで、ポピュリズム自体はべつに悪くないんじゃないかとおもう。

 そして立憲主義さえ担保できていれば、ポピュリズム政党がどれだけ議席を獲得しようと独裁につながることはない。

 逆にいえば、憲法、司法、報道に手を入れようとする為政者は徹底的に排除しなくてはならないということだ。そこを自分たちの都合のよいように変えようとしてるのって、今のところはポピュリズム政党じゃなくて歴史あるあの党だとおもうけど。


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2023年4月11日火曜日

「夢がない」

「夢がない」について。

 じっさいに耳にしたことはあまりない。多く使われるのはマンガだろうか。ぼくが知ったのは『ドラえもん』だったとおもう。

「宇宙人なんているわけないだろ!」
「夢がないなあ」

みたいな使われ方をする(この後、のび太がドラえもんに頼んで宇宙人をさがす道具を出してもらうことになる)。


 あれはなんで「夢がない」なんだろう。

 正確に言うと、なぜ〝宇宙人やツチノコや雪男や超能力の存在を信じている側〟は「夢がある」で、〝存在を信じていない側〟が「夢がない」になるのか。

 たとえば、誰も成し遂げたことがないこと(宇宙人を発見するとか)を実現させたいと願うのは「夢がある」と言っていいだろう。

 のび太が、宇宙人発見者第一号になりたいと願い、そのために宇宙飛行士を目指すならば「夢がある」と言っていい。

 でも「いるんじゃないかな。何の根拠もないけど、いたほうがおもしろいし。といって見つけるための努力なんかしないけど」というのは「夢がある」とは言わない。それは「夢見がち」だ。

 逆に出木杉くんが「宇宙人はぜったいにいない。一生懸命勉強して宇宙物理学や生物学について研究し、宇宙人がいないことを証明する理論をぼくが見つけるんだ!」と心に誓ったなら、それは立派な夢だ。「夢がある」だ。

 だいたい、宇宙人がいることを証明するより、いないことを証明するほうがずっとむずかしい。フェルマーの最終定理や四色問題など、数学の超難問とされるのはたいてい「ないことを証明せよ」だ。


 だから「夢がない」というのは、何も未発見のものの存在を無条件に信じるとかじゃなくて、仮説に向かって自分がどう取り組むか、で決まるんじゃないでしょうか。藤子・F・不二雄先生。