2021年8月31日火曜日

名探偵コナン 変わりゆくものと変わらないもの

 八歳の娘が『名探偵コナン』にハマっている。
 きっかけは、ぼくの姪(つまり娘のいとこ。十一歳)が『コナン』のファンであることだ。アニメとはいえ謎解きなので八歳にはむずかしいだろうとおもっていたのだが、「おもしろい!」といって熱心に観ている。謎解きはぜんぜんできていないが。

 毎週土曜日のテレビ放送を録画して観ていて、それと同時にAmazonプライムで昔の作品を観ている。2021年のアニメと1996年のアニメをかわるがわる観ているわけだ。

 同じ作品といえども25年の時を経ているのでいろいろなところが変わっている。絵柄が変わったり声優が交代しているのは当然だが、時代のちがうアニメを交互に観ていると「この25年で世の中はずいぶん変わったんだな」と感じさせられる。

 男も女も肩幅の広いスーツを着ていたり、女子高生がルーズソックスを履いていたり、携帯電話がばかでかかったり、公衆電話でやりとりをしていたり、パソコンがまだめずらしかったり。第29話『コンピューター殺人事件』は、プログラマの男が社長のマンションのコンピューターシステムに侵入してエアコンを遠隔操作するというかなり乱暴なトリックが使われる。ユビキタス対応でもないエアコンなのに。コンピュータが身近でない分過大評価されていたのだろう。


 変わったのはファッションやテクノロジーだけではない。

 たとえば初期のコナンでは、いろんな人がそこかしこでタバコを吸っている。駅のホームでも吸うし、学校内で教師が吸う。子どもが近くにいてもおかまいなし。「マナーの悪い人間」の描写ではなく、ごく自然に吸っている。

 飲酒運転に対する寛容さも今とはちがう。酒を飲んだ後でも運転しようとするし、周囲も「もう! お酒飲んでるのに!」ぐらいで、たいして咎めない。そう、25年前って「ちょっとぐらいなら飲んでても(検問に引っかからないように)気をつければ平気」ぐらいの感覚がふつうだったんだよなあ。


 あと、毛利小五郎のコナンに対する扱いもずいぶん変わっている。ぞんざいに扱っているのは今も変わらないが、1996年に比べて手を上げることはずっと少なくなっている。
 1996年は頻繁にコナンをぶん殴っていた。ちょっとコナンが捜査に口をはさんだだけで容赦なくげんこつを食らわせていた。まだ「子どもは厳しくしつける必要がある。体罰も愛があれば許される」みたいな考えが生きていた時代だ。
 最近はいくらアニメとはいえ児童(しかもよその子)をぶん殴るのはまずいということになったのだろう。暴力描写は激減した。

 というか最近はコナンが堂々と捜査現場に入っている。昔はすぐ締めだされていたのに(まあそれをいうなら私立探偵である毛利小五郎が現場に入ってることもおかしいのだが……)。


 また、人権意識も変わっている。
 1996年版を見ていると「女が口をはさむんじゃねえ」「男らしくない」みたいな台詞があってドキッとする。
 まだ「男/女はこうあるべき」みたいなことを公言していた時代だったのだ。現代でも人々の意識には残っているが少なくとも「それを大っぴらに口にしてはいけない」という共通認識はある(認識していないおじいちゃんも多いけど)。


 同じ作品、同じ世界観のはずなのに時代にあわせて確かに変化は起こっている。それがわかるのも長寿アニメならではだ。

 ただ、25年前と今とで変わらないこともある。
 コナンの世界の住人が、ほんの些細なことで人を殺すことだ。
「殺された恋人の復讐」みたいな深刻な動機もあるが、我々が「舌打ちする」レベルのことでもあっさり殺す。すごくカジュアルだ。
 殺人の多さのわりに暴行や窃盗が多いわけではない。治安が悪いわけではなく、ただ殺人へのハードルだけが異常に低いのだ。
 勘違いで殺してしまって、後で真相を聞かされて犯人が嘆き悲しむこともしょっちゅう。


 ファッションは変わり持ち物は変わり人権意識も変わる。けれど時代が変われども人を殺したいという気持ち、それを実行に移すまでのハードルの低さだけは変わらない。

 腹が立ったときの解決法はいつもひとつ! 名探偵コナン!


2021年8月30日月曜日

読書感想文を教えてみて

 小学校二年生の娘。夏休みの宿題として、読書感想文の課題が出た。

「読書感想文はひとりでやるのはむずかしいから、おとうさんといっしょにやろう」
とぼくは言った。

 読書感想文にはちょっとうるさい。
 なにしろぼくは読書感想文の大家である。「読書感想文五段」を勝手に名乗っている。
 年間百本の読書感想文を書く。あることないこと好き勝手書き散らしているだけだから書評ではなく「読書感想文」だ。
 書評をたくさん書いている人はいるが、読書感想文を年に百本も書く人間はそうはいまい。


 娘が選んだのは、岩佐 めぐみ『ぼくはアフリカにすむキリンといいます』という本だ。


 ぼくも読んでみる。
 ふんふん。読書感想文の題材としては悪くない。

 まず二年生でもわかりやすい。理解できない本の感想文は書きようがない。

 それから、ファンタジーなので変な展開がいくつもある。これは感想文を書く上でとっかかりになる。万事読者の予想通りに進む本よりも、妙な箇所が多いほうが感想文は書きやすい。
「○○をしたのがふしぎだとおもいました。わたしなら××するのに」と書けばいい。

 友だちがいなくて退屈していたキリンが、文通を通して最終的には遠く離れたペンギンと友だちになるというシンプルなストーリーもいい。わかりやすい教訓を引きだしやすい。




 さて。
 ぼくは娘に言う。
「まずはお話のかんたんな説明を書こうか。どんなお話か、読んだことのない人にもわかるように」

 ここはわりとうまくいった。
 二年生の書く文章なのでたどたどしいが、○○がいました、○○しました、と書いていくなので本の内容さえ理解できていればかんたんだ。

 ただ、説明が止まらない。
 八百字以内と決まっているが、四百字を使ってもまだ説明が終わらない。このままだと感想文ではなく要約になってしまう。それはそれで文章を書くトレーニングにはなるが、今回求められているのは感想文なのだ。

「感想文だから、本の内容だけじゃなくて、(娘)が考えたことを書かないといけないんだよ」
というが、これがなかなか伝わらない。
 二年生にとって「説明」と「感想」は不可分なもので、切り分けるのはむずかしいのだ。




「うん、これ以上書くと感想を書くスペースがなくなるから、『これがこの本のないようです』って書いて、ここからは感想を書こっか」
と、半ば強引に要約を終わらせる。

 さあいよいよ感想だ。
 もちろん「感想を書きなさい」「おもったことをそのまま書きなさい」と言っても書けない。読書感想文五段のぼくは知っている。
 感想を言語化するのは大人でもむずかしい。


 そこでぼくはいくつかの指針を示した。

  • 「このお話に出てくる人の中で、誰がいちばん好き? その理由は?」
  • 「もし自分がこのお話の続きを書くとしたら?」
  • 「登場人物のとった行動で、ふしぎにおもったところは? 自分だったらどうする?」
  • 「自分もまねしたくなることはあった? 逆に、まねしたくないとおもったことは?」

など、いくつかのテンプレートを用意した。
 完璧だ。このテンプレートを使えばかんたんに感想文を書ける、はずだったのだが……。




 やはり娘は書けない。
 ぼくが提示したテンプレートを見ても
「なにもおもわない」「わからない」
としか言わない。
 こっちもイライラしてくる。「なんもないことないやろ」「ちゃんと考えてるか?」と、きつくあたってしまう。


 ううむ……。
 大人だったら嘘でもいいから無理やり「それらしい答え」をひねり出すだろうが、二年生ではそれすらもできないのだ。

「こんなん嘘でもええねんで。まったくおもってもいないけど『この本を読んでわたしも知らない人と手紙でやりとりしたくなりました』って書いとけばええねんで」
といえばいいのだが、日頃「嘘をつくな」と教えてる手前「嘘でもええねん」とは言いづらい……。




 娘に「どこが変だとおもった?」と質問し、娘が「ここ」と言えば
「それは○○が××だから? それとも△△が□□だから?」とぼくが訊く。
「自分がこの立場だったらどうする? Aをする? それともBをする?」と重ねて訊く。

 結局、「ぼくが用意した感想の選択肢の中から娘が選ぶ」ような形でどうにかこうにか感想文は完成した。

 はあ疲れた。一日がかりの大作業になった。
 苦労してできたのは「一応最低限の形式だけ整えた読書感想文」。当初ぼくが思いえがいていた「見事な構成で、かつ子どもらしい瑞々しい感性をとりいれたすばらしい読書感想文」にはほど遠い。




 一夜明けて、反省した。
 教え方がまずかった。

 特にまずかったのは、「いくつかのテンプレートを出して、どれがいい?と決めさせること」だ。

 そんなのは生まれてから読書感想文を一度も書いたことの小学二年生にさせることじゃない。
 どれがいい? と言われたってわかるわけがない。書いたことがないんだもの。そもそも読書感想文が何かすらよくわかってないんだもの。

 選択肢なんかいらない。意思を尊重なんてしなくていい。そんなのはある程度書けるようになってからで十分だ。

 野球をはじめてやる子に「どんな投げ方がいい? オーバースロー? サイドスロー? アンダースローもあるよ。トルネードってのもあるけど」なんて尋ねてもわかるわけがない。
 最初はきっちり〝型〟を教えるべきだ。何も考えずにこうしなさい。やってるうちにわかるようになるから、と。




 教えてみてわかったけど、やっぱり読書感想文なんて宿題にすることじゃねえや。
 大人だって書けないもの。教師だって書けないんじゃない? 読書感想文の宿題を出す教師はいっぺん「これぞ正解!」っていう読書感想文を書いてみろよ。

 ぼくは毎週読書感想文を書いてるけど、これは趣味だから続けられていることだ。
 誰かに添削されるならとっくにやめている。
 だいたい感想だから「クソつまんねえ」とか「ケツ拭いた後のトイレットペーパーのほうがまだ見ごたえがある」でも正解のはずなのに、そういうのは許されない。おかしな話だ。上手に悪口を言うのはたいへん技術がいるのに。


 要約でいいとおもうよ、夏休みの宿題は。そっちのほうがはるかに文章力研鑽になる。


【関連記事】

今からだとまにあわない! 読書感想文の書き方 ~感想文嫌いの小中学生のために~

夏休みの自由研究に求めるもの


2021年8月27日金曜日

音痴の子

  ぼくは音痴だ。

 まあそれはいい。よくはないが、あきらめた。
 学生時代は音楽の授業だとか合唱コンクールだとか二次会のカラオケだとか人前で歌わなきゃいけない場面もあったが(カラオケは断っていたが)、もうおっさんになった今ではそんな機会もなくなった。はあ、やっと人前で歌うことから解放された。


 だが娘たちにはぼくのようにつらい思いをさせたくない。
 音楽の授業や合唱コンクールで恥をかいてほしくない。ぼくは「カラオケに行っても断固としてマイクを持たない」「いっそふざけて歌っていじられる」みたいなやりかたでしのいできたが、女の子だとそれもむずかしかろう。
 同調圧力も男子より強そうだし、下手でも変に気を使われてその場は何も言われず本人のいない場で「すごい下手だったよねー!」みたいに言われるかもしれない。

 だが遺伝のせいか環境のせいかわからないが、長女はぼくに似て音痴になってしまったようだ。音痴のぼくが聞いても「音程むちゃくちゃだな」とおもうので(まちがっていることはわかるがどうすれば直るかはわからない)。
 ちなみに妻は絶対音感の持ち主でもちろん音痴ではないのでぼくに似たのだ。
 次女はまだ二歳なので音痴なのかどうかよくわからない。


 遺伝ならしょうがない。これはどうすることもできない。
 だが環境だとしたら申し訳ない。
 変な音程が身に付いてはいけないとおもい、長女が赤ちゃんのときなどはなるべく子守唄などを歌わないようにしていた。だが保育園でいろんな歌をおぼえてきて「いっしょに歌おう!」と言われると、「いやお父さんは人前で歌わないことにしてるから」とは言いづらい。何度も娘の前で歌った。音程のずれた歌を聞かせてしまった。

 ごめんなあ。
 おとうちゃん、うまく歌う方法は教えられへんけど、カラオケを断る方法やったらいくつか知ってるから教えたるで。


【関連記事】

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』


2021年8月26日木曜日

ツイートまとめ 2021年4月



無限

予定調和

イカすスニーカー

かけあわせ

卑猥

コロナ禍怪談

Loacker

気力

その通りになった

2021年8月25日水曜日

夏休み最後の日

 娘(小二)の夏休み最後の日に有給休暇をとった。めいっぱい遊ぶために。

 今年の夏はどこにも連れていってない。元々出不精な上にコロナ禍である。
 近所の公園やショッピングモールぐらい。ふだんの土日と変わらない。
 少しぐらいは夏の思い出をつくってやりたい。

 ということで、娘と、その友だちのSちゃんと一日遊ぶことにした。
 とはいえ遠出はできない。あまり人の多くないところということで、徒歩二十分の公園と、ファミレスと、プールに行くことにした。ファミレスは11時ぐらい、プールはお昼ぐらいと、なるべく人のいない時間帯を狙って。

 まず公園に行く。
 途中でアイスを買ってやる。今日だけは甘やかすことに決めている。

 公園でおにごっこ、フリスビー、ブランコで靴飛ばし、宝さがし。平日朝の公園なのでほとんど人がいない。ひさしぶりにマスクをはずして走りまわる。

 ファミレスへ。子どもたちはハンバーグとピザを注文。
 ふだんはさせないガチャガチャも一回だけさせてあげる。

 その後はプールへ。区民プールなのでただまっすぐに泳ぐしかできないが、それでも子どもたちはキャッキャッと楽しそうにはしゃいでいる。

 プールの後はまたアイスを買う。一日に二個も。今日だけだぞと言いながら。

 そして我が家でボードゲーム。
 子どもたちは元気だが、さすがにおっさんには公園での運動→プール→頭を使うゲームはこたえる。「ちょっと寝るわ」と言って横になる。

 涼しい部屋でゲームをする子どもたちの声を聞きながら、畳の上に転がって昼寝。最高じゃないか。

 周囲には「子どものために休みをとった」と言っていい父親アピールをしていたけど、ほんとはぼくがいちばん楽しみにしていたのかもしれない。最高の、夏休み最後の日だ。