2020年9月13日日曜日

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2020年9月11日金曜日

【読書感想文】我々は「死者」になる / 『100分de名著 ナショナリズム』

ナショナリズム

100分de名著

大澤 真幸 島田 雅彦 中島 岳志 ヤマザキ マリ

内容(NHK出版ホームページより)
かつて「21世紀には滅んでいる」といわれたナショナリズム。ところが世界はいまも、自国ファーストや排外主義にまみれている--。今年の元旦に放送され、話題となった特別番組「100分deナショナリズム」。4人の論客がナショナリズムを読み解くための入り口となる名著を持ち寄って議論した。大澤真幸氏が『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)を、中島岳志氏が『昭和維新試論』(橋川文三)を、島田雅彦氏が『君主論』(マキャベリ)を、ヤマザキマリ氏が『方舟さくら丸』(安部公房)を。

啓蒙書や文学作品から「ナショナリズム」について考える、という企画。

中島岳志氏やヤマザキマリ氏の作品は好きなので期待していたのだが、あまりナショナリズムに真正面から向き合ってる論調ではなかったな……とじゃっかん裏切られた気持ち。

おかげで安部公房には詳しくなったが。
『100分de名著 安部公房』ならこれでよかったんだけど。



大澤真幸氏が読み解く『想像の共同体』はおもしろかった。

じつは大澤真幸さん、ぼくの大学時代の学部の先生だったんだよね。
でもぼくは大澤先生の授業をとってなかった。とっときゃよかったなあ。

逆に、ヨーロッパのいずれかの国に植民地化され、まとまった行政単位として扱われたという事実が、結果的に、植民地の人々に「我々○○人」という意識を植え付ける結果となった、と考えるほかありません。
 その極端な典型は、アンダーソンが専門的に研究していたインドネシアです。インドネシアは、三千もの島々から成り、そこにはムスリムもいれば、仏教徒やヒンドゥー教徒等々もいて宗教的にも多様で、さらに百以上もの言語が話されていた地域です。こんなに多様で分散していた人々の間には、もともと「我々インドネシア人」などというアイデンティティはありませんでした。彼らが「インドネシア人」になったのは、オランダに植民地化され、まとまった扱いを受けたから、という以外に原因は考えられません。特に目立った事実は、ニューギニアの西半分だけが、インドネシアに属しているということです。しかも国境線は、南北に直線になっている。どうしてこんな不自然なことになったかというと、それは、かつてオランダ王がニューギニアのこの地域までの「主権」を主張した、ということに由来しています。すると、現地の人々までも、そこまでが「我々」に運命的に所属していた、と思うようになるのです。

国ができるのは外国の存在があったから、外部の存在がなければ国としてまとまることはない。

たしかにインドネシアって、「ぜったい自然にこんな形になるはずがない」って形の国土だもんね。

複数の島にまたがってるくせに、ニューギニア島だけはまっぷたつ。
こんな形で、住民に国家意識が芽生えるはずがない。


インドネシアはわかりやすい例だけど、他の国もいっしょ。

日本だって、欧米の列強の脅威があったからむりやり国としてまとまっただけ。
「数百年前の日本では……」なんて言い方をするけど、人々が「我々は日本人である」という意識を持ちだしたのなんてせいぜい明治以降のはず。

日本の伝統だの日本古来だのいってるけど、日本は百五十年ぐらいの歴史しかないのだ。




大澤氏は、日本のナショナリズムは大きな弱点を抱えていると主張する。

それは戦後の日本人は「我々の死者」を持たないからだという。

 これは、無名の殉死者、つまり匿名のままに葬られた死者に敬意が払われることは近代以前にはまったく考えられなかったことで、ナショナリズムが近代的な現象であることをよく示している、ということを論じた箇所です。アンダーソンがいおうとしていた中心的な論点からは少しずれますが、ここからひとつのことがわかります。ナショナリズムは、国民という共同体が「我々の死者」をもつことを意味している、ということです。
「我々の死者」とは、次のような意味です。ひとつの国民が、「その人たちのおかげで現在の自分たちはあるのだ」と思えるような死者、自分たちは「その人たちの願望を引き継いで実現しようとしているのだ」と思える死者、そして自分たちが「その人たちから委託を受けて今、国の繁栄のために努力しているのだ」と思えるような死者。こういうものが、「我々の死者」です。

(中略)

 ほんとうに「我々の死者」などもたなくても別に困らないのでしょうか。そうではない、と僕は思います。自分たちが生まれる前の他者たちのことを思うことができない人間は、つまり自分たちの生まれる前の人たちからの連続性を思い、そのような死者たちの願望に縛られない人間は、逆のこともできなくなるからです。逆のこととは、自分たちが死んだ後にやってくる将来世代のこと、未だ生まれてはいない他者たちのことを配慮したり、考えたりする、ということです。過去の死者たちのことを思わない人は、将来世代のことを考えなくなります。今生きている、自分たちのことしか考えないわけです。
 現代の日本は、実際、そのような状況にあるのではないでしょうか。しかし、現在、僕らが直面している重要な問題のほとんどが、現在生きている人たち以上に、これから生まれてくる人たちに関わっています。人口問題にせよ、環境問題にせよ、安全保障や憲法の問題にせよ、すべてそうです。これらの問題についての現在の日本人の意志決定の影響を受けるのは、主として、現在の日本人の大半が死んだ後に現れる将来世代です。
 自分たちの後にくる未生の世代への異様な無関心。これが現代の日本人の特徴であるように思えてなりません。その原因はどこにあるのでしょうか。少なくともそのひとつの原因は、戦後の日本人が「我々の他者」を失ったことにあるのではないか。これが僕の仮説です。

日本は戦前戦中の考え方はまちがっていたのだという反省を出発点にして戦後の復興をスタートさせたので、戦前の日本人、特に戦死した人たちの理想や大義を引き継ぐわけにはいかなくなった。

だから日本は独特な方法で「我々の死者」を取り戻す必要がある、死者に対して裏切りながら謝罪をしていくことが必要だ……。


ふうむ。

どの国にも多かれ少なかれナショナリズムはあるが、日本の場合は特にナショナリズムが「戦前の軍国主義への回帰」と結びつきやすいので余計にややこしいんだよね。

愛国心自体は決して悪いものではないのだが、「軍国主義まで含めて過去を肯定」or「過去の全否定」みたいな極端な対立になってしまいがちので、「過去の日本人の営みのおかげで今の我々がある」とは言いづらく「戦後復興期にがんばった日本人のおかげで」というずいぶん半端な「我々の死者」への感謝の形になってしまう。

「軍国主義は誤っていた。あの戦争で死んだ多くの人たちは無駄死にだった。それはそれとして彼らは我々の仲間だし、我々は彼らに敬意を持つべきだ。だが同時に批判も忘れてはいけない」
という微妙なスタンスをとることを、両極端な人たちは許してくれないんだよねえ。


そういえば中島岳志さんがオルテガの『大衆の反逆』について書いた文章の中で、「死者の声」に耳を傾けるべきだと書いていた(100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』より)。

 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
 ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。

政治について語るとき、「今生きている人」のことしか念頭にない人が多い。右も左も関係なく。

我々が身のまわりについて考えるときはそれでいいが、国の方針を定める場合は「今生きている人」だけのことではいけない。
なぜならふつう国の寿命はひとりの人間の寿命よりも長いから。

ぼくも若いときは「もう死んだ人間のことなんて知ったことか」とおもっていたが、最近ちょっと考えが変わってきた。

大澤氏の言うように、死者について考えることは、まだ生まれていない我々の子孫について考えることである。
なぜなら、我々の子孫にとっての「死者」こそ私たちなのだから。
我々の考えたことやおこなったことを未来へと引き継いでもらいたいのであれば、我々もまた「死者」の考えや行動を汲みとらなければならない。

こんなふうに考えるようになったのは、ぼくが歳をとって昔よりも「死者」に近づいたからなのだろうか。
だとしたら年寄りがナショナリズムにはまってしまうのも加齢のせいなのかもしれないな。


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【読書感想文】維新なんていらない / 中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆



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2020年9月10日木曜日

【読書感想文】人間っぽいキキ / 角野 栄子『魔女の宅急便』

魔女の宅急便

角野 栄子

内容(e-honより)
お母さんは魔女、お父さんは普通の人、そのあいだに生まれた一人娘のキキ。魔女の世界には、13歳になるとひとり立ちをする決まりがありました。満月の夜、黒猫のジジを相棒にほうきで空に飛びたったキキは、不安と期待に胸ふくらませ、コリコという海辺の町で「魔女の宅急便」屋さんを開きます。落ち込んだり励まされたりしながら、町にとけこみ、健やかに成長していく少女の様子を描いた不朽の名作、待望の文庫化!

みんなご存じ『魔女の宅急便』、の原作本。

もう映画のほうが何度も観た(いつも金曜ロードショーだが)ので、どうしても映画版と比較してしまう。

「あっ、ここは映画といっしょ」「ここは映画にはないエピソードだな」と。
ほんとは逆なんだけど。


毎晩寝る前に子どもに図書館で借りた本を読みきかせているので、年間三百冊ほどの児童書を読む。
それを数年続けているので、ここ数年に読んだ児童書は千冊を超える。

中には、大人が読んでもけっこうおもしろい作品もある。まったくおもしろくない作品もある(そういう本はたいてい子どももつまらなそうに聴いている)。

多作で、しかもぼくが読んでもおもしろい作品を書くのは、斉藤洋氏、そして角野栄子氏だ。

両氏の作品は、ファンタジー要素と現実感がバランスよく配合され、キャラクターが活き活きと描かれ、メリハリのあるストーリーが展開され、そこはかとないユーモアが漂っている。

角野栄子作品にははずれがない。
ぼくが子どものころから読んでいたおばけのアッチコッチソッチシリーズ、シップ船長シリーズ、アイウエ動物園シリーズなど、みんなおもしろい。

『魔女の宅急便』も……もちろんおもしろかった。



映画との違いを書く(『魔女の宅急便』原作小説は全六巻あるが、ぼくが読んだのは一巻だけなので一巻との違い)。

映画よりもファンタジー強め

映画は、魔女が空を飛べること、ジジがしゃべること以外はだいたい現実に即していた。
小説版は、もっと奇想天外な話が多い。
序盤こそ「おしゃぶりを届ける」「鳥かごとぬいぐるみを届ける」という映画でおなじみのエピソードだが、中盤からは「船がつける腹巻きを届ける」「新年を知らせる鐘の音を届ける」「春を知らせる音楽を届ける」など、運ぶものが意外なものに変わってくる(音そのものを運ぶわけじゃないけど)。

このあたりのエピソードはほんとにおもしろい。こっちこそが「魔女の宅急便ならでは」という感じがする。おしゃぶりとかぬいぐるみはべつに魔女じゃなくていいもんね。

キキが人間っぽい

映画のキキはものすごくいい子だ。
というより、いい子であろうとしている。

多少感情の浮き沈みはあるものの、誰にも嫌われないように、誰にも迷惑をかけまいと必死に耐えている。
オソノさんにもトンボにも絵描きのおねえさんにも全力では甘えられない。
キキが素直に感情を吐露できる相手はジジだけ。そのジジですら、後半はコミュニケーションできなくなってしまう。

観ていてたいへん息苦しい。

小説版のキキはもっと人間っぽい(魔女だけど)。嫌みも言うし、嫌なやつにはいじわるをしたりもする。
かえって安心する。

映画は教科書的だった

映画後半で描かれていた、ニシンのパイを届ける、ジジの言葉が理解できなくなる、宙づりになったトンボをキキが助ける、などのエピソードは原作小説(の一巻)にまったく出てこない。

とんぼ(小説版ではひらがな表記)はキキの友人ではあるものの、出番は二回ほど。あまりかかわりはない(続刊ではキキと結婚するらしいが)。

小説版を読んだ上で映画版について思いかえしてみると、あれはずいぶん教科書的なストーリーだったな、とおもう。

善意や努力が報われないことを学ぶ、それによって自信を失って魔法が使えなくなる、「必要とされる」ことを通して再び魔法が使えるようになる……。

はっきりと因果関係があり、わかりやすく成長が描かれる。

教科書の題材にするにはいいけど、はっきりいってつまらない。物語はもっと理不尽でいい。


高校の現代文の教科書に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が載っていた。
授業で、国語教師があれこれ解説してくれた。

カムパネルラはこのとき死んでいるのです、カムパネルラだけ切符を持っていないのは死んでいるからです、このシーンも死への暗示です……。

それを聞いてぼくはおもった。

つまんね。

いや、解釈するのはいい。解釈は自由だ。

だが「これが唯一の正解です。これ以外の解釈は間違いです」といった感じで解説されたことで、あの幻想的な物語が台無しになったような気がした。

べつにいいじゃん。銀河鉄道の旅とカンパネルラの死はなんの関係もなくたってさ。


小説版『魔女の宅急便』は、映画版よりももっともっと自由に解釈ができる。

わかりやすい意図も因果関係もない。
出来事のひとつひとつにいちいち意味があるわけじゃない。

ただ出来事があるだけ。
ただキキが飛ぶだけ。
ただ運ぶだけ。

それが楽しい。
童心にかえって楽しめた。

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2020年9月9日水曜日

【読書感想文】変だからいい / 酒井 敏 ほか『京大変人講座』

京大変人講座

常識を飛び越えると、何かが見えてくる

酒井 敏 ほか

内容(e-honより)
常識を飛び越えると、何かが見えてくる。京大の「常識」は世間の「非常識」。まじめに考えると、人間も生物も地球も、どこかおかしい。だから、楽しい。

こんなタイトルだが、「変人」が出てくるわけではない。

「変でもいい」「普通とちがうからこそいいこともある」といったテーマで、様々な分野の研究者が知見を披露している本だ。


以前、大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本を読んだ。
これも、大阪大学のいろんな分野の研究者がワンテーマについて語るという本だが、正直いっておもしろくなかった。

なぜなら、ほとんどの研究者が「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」というお題から早々に逃げ、むりやりドーナツにからめて得意分野に逃げこんでいただから。


だが『京大変人講座』のほうはどの項もおもしろかった。
たぶんお題が「変でもいい」というゆる~いテーマだったからだろう。

だから
「人間が今生きているのは我々の祖先が“酸素があっても生きられる”という(当時としては)変な生き物だったからだ」
「不便なことには不便であるがゆえの価値がある」
といった、それぞれの得意分野を思う存分語れる。

どの人の話もおもしろい。



山内裕氏によるサービス経営学の話より。

 実は、サービスにおいて、提供者側が客を満足させようとすると、かえって客は満足しなくなるというパラドクス(逆説)が起こります。「満足させよう」とするサービス側の気持ちが透けてみえてしまうと、客は満足しないのです。同じように、相手を笑わせよう、信頼させようとすればするほど、客の気持ちは逆の方向へ向かってしまいます。
 これを「弁証法」と呼びます。
 もし鮨屋のおやじが、お客さんに笑顔で接し、喜ばせようとし、心を配って、満足させようとがんばったら、むしろ、提供者である鮨屋のおやじは客から「この人は私を喜ばせようとする意図を持っている」と受け止められます。
 そこに生まれるのは、上下関係です
 提供者は従属する側――要するに立場が弱くなってしまいます。さらにいえば、自分に従属する人からのサービスは、価値が低く感じられてしまうものです。
 提供者側が満足させようとサービスすると、その満足はお客にとって意味がなくなってしまう。これは、サービスにおいて必ず発生する問題です。
 その点、鮨屋のおやじは、職人として「自分のために仕事をしているんだ。客のことなんか関係ねえよ」という姿勢を貫くからこそ、客がその価値をありがたく認める図式ができあがっているのです。
 さて、カジュアルなレストランやファストフード店であっても、お客を拒否するサービスを展開していることはすでに述べたとおりですが、一方で、サービスが高級になればなるほど、闘いの局面が増していくという現実もあります。
 なぜなら、高級になればなるほど、いわゆる「サービス」と呼ばれるものが提供されなくなっていくからです。減っていくのは「笑顔」であったり、「情報」であったり、「迅速さ」であったりします。
 意外な感じがしますね?
 もちろん、高級なサービスにまったく笑顔がないわけではありません。しかし、プロフェッショナルであるほど表情はキリリと引き締まり、むやみやたらと笑顔を向けたりはしない傾向があります。頼りがいや信頼感は高まる一方、親しみやすさという要素は確実に減っていきます。 また、情報量も確実に減ります。カジュアルなレストランのメニューには、「季節のおすすめ」の紹介があったり、「定番!」というアピールがあったり、料理の解説や写真が添えられていて、にぎやかです。
 一方、高級なフレンチレストランで出てくるメニューには、料理名が並んでいるだけで、解説も何もありません。選択肢もそれほどない。とにかく情報量が少ないのです。

たしかになあ。
言われてみれば、高級店のほうがサービスが簡素であることが多い(高級なサービスを利用したことはあんまりないけど)。
ファミレスとかスーパーとかコンビニのほうが過剰に笑顔やあいさつを振りまく。

そしてたぶん、「ここの店員は礼儀がなっとらん!」みたいな説教をする客が多いのも、安い店のほう。

「高い店のほうがより多くのサービスを求められる」とおもってしまいがちだけど、じつは逆なのだ。


そういや仕事をしていても、こっちが下手に出たらとことんつけあがって無理難題をふっかけられるとか、もう断られてもいいやとおもって強気に出たら案外それが通ったりすることとかある。

色恋沙汰でも同じかもしれない。
こっちからぐいぐい「重いもの持ってあげるよ」「車で送ってあげるよ」「なんかほしいものない?」みたいな男より、「べつにどっちでもいいけど」みたいな男のほうがモテたりする(顔面の美醜はおいといて)。

『ハッピーマニア』シゲタカヨコも「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」って言ってたけど、仕事も恋愛も尽くしすぎたらダメなんだな。



川上浩司氏のシステム工学の話もおもしろかった。

便利すぎるものはかえって不便、という禅問答のような話。
川上さんは、あえて不便なものをつくり、不便さの便利を見いだそうとしているそうだ。

*カスれるナビ
 正確で詳細な情報をリアルタイムで表示してくれるカーナビ。これは便利すぎるのではないかということで、不便さをとり入れてみたのが「カスれるナビ」。
 このナビは、通った道がしだいにかすれていきます。道を間違って戻ろうとしても、ちょっと消えているのです。何度か同じところを通るとかすれがどんどんひどくなり、三度も通るとその周辺はほぼ真っ白で見えなくなります。

 この「カスれるナビ」で実験をしてみました。あるグループにはカスれるナビを渡し、別のグループにはカスれない普通のナビを渡して、一人ずつ町歩きをしてもらったのです。戻ってきたら、実際に通った場所の写真と、通っていない場所の写真を見せて、本当にあった景色なら○、そうでないなら×と答えてもらいました。
 すると、カスれるナビを手にして町歩きをしたグループのほうが、有意に正しく解答したという結果になりました。私の仮説ですが、「いつも手元に正しい情報がある」という状況があるとき、人は深層心理で「この情報を頭に入れる必要はない」と判断するのではないでしょうか。

更科 功『絶滅の人類史』によれば、人類の脳は昔よりも小さくなっているのだそうだ。

一説によれば、文字が発明されたことで外部に記録できるようになり、大きな脳を必要としなくなったからだとか。

それが事実だとすると、今後はもっともっと脳が縮んでいくだろう。

スマホがあれば計算もしなくていい、スケジュールもスマホで管理するからおぼえる必要なし、地図もおぼえなくたってスマホで地図検索、わからないことはすぐにスマホで調べられる、漢字も書けなくていい、外国語も自動翻訳。
便利だが、脳はどんどん必要なくなる。

これからは、ちょっと不便なサービスが流行るかもしれないな。



ぼくもはるか昔に京大に通っていたが、その頃に比べると京大の校風であった「自由」は失われているように感じる。

といっても中にいるわけではないので、タテ看規制とか寮の建て替えの件とかのニュースを見るかぎり。

ぼくが学生の頃は校舎内にバーがあったり、地下教室に学生が集って酒盛りをしたり、一夜にして謎の建造物ができていたり、無法地帯なところがあって、大学側も半ばそれを黙認していた。

「単位はやるから授業は出なくていい」と公言する教授がいたり、入学式で「授業に出ていい成績をとるのは二流。一流は授業なんか出ない」と煽ってくる教授がいたりと、「ふつうから外れてるほうがえらい」みたいな気風があった(ごく一部だけどね)。


でも国全体の方針として大学にも「カネになる研究をする」「学生を使いやすい会社員にする」ことが求められるようになり、漏れ聞こえてくる話では京大もその例外ではないらしい。

京大も含め、日本の大学の競争力はどんどん低下している。
「選択と集中」は明らかに失敗だった。
「当たり馬券だけを買えばいいじゃん」というやりかたは通用しないのだ。


だから「変でもいい」「役に立たなくてもいい」「ふつうはやらないことをやる」という、この姿勢は大事だ。

『京大変人講座』は今後もシリーズとして刊行されていくらしい(すでに二冊目が出版されている)。
ぜひとも長く続けて、京大の「変」を取り戻してほしい。

「そんなもん研究しても社会に出たら役に立たん」と言うやつには、
「社会に出たら役に立たんから大学で研究するんじゃないか!」と言い返してやってほしい。

ま、大学時代は労働法というおもいっきり実学を専攻していたぼくが言うのもなんですけど……。

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2020年9月8日火曜日

【読書感想文】失って光り輝く人 / こだま『いまだ、おしまいの地』


いまだ、おしまいの地

こだま

内容(e-honより)
集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……“おしまいの地"で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまの日々の生活と共に切り取ったエッセイ集。

こだまさんの第二エッセイ集。

前作『ここは、おしまいの地』は達観や悟りのようなものが随所に感じられた。
どんな逆境におかれても、立ち向かうでもなく、くじけるでもなく、ただ黙って受け入れてゆく。苦境に置かれた自分を、他人事のように笑い飛ばしてしまう。

そんな柳のような強さを感じたものだ。


ところが、今作『いまだ、おしまいの地』を読んで心配になった。
〝おしまいの地〟での不遇な生活をどこか他人事のように楽しんでいたような乾いたユーモアが今作ではあまり感じられない。

まるで必死に「自分は大丈夫」と自らに言い聞かせているようだ。
その姿は、達観とはほど遠い。


仏教には「執着(しゅうじゃく)」という言葉がある。
物事にとらわれ、心がそこから離れられない状態。執着はすべての苦しみの原因とされる。
『ここは、おしまいの地』では執着から解き放たれているかのように見えるこだまさんが、『いまだ、おしまいの地』では執着にふりまわされている。

小説やエッセイが評価されて他者から期待されるようになったことで、一度は手放した執着をまた取り戻したのかもしれない。


なんだかずいぶん思い詰めているようあ……。
大丈夫か、このままだとどこかで破綻するんじゃないか、この人近いうちに失踪するんじゃないか……。

と心配しながら読んでいたのだが、2020年に入って世間がコロナ禍で騒ぎだしたあたりのエッセイから急におもしろくなった。
活き活きとしているのが伝わってくる。

そうか、この人はいろんなものを手にして期待をかけられているときより、失ったときにこそ光り輝く人なのだ。
自粛期間でいろんなものを失ったことで、かえって強くなったのかもしれない。

どうか今後も失ったものを笑いとばしてほしい、と無責任におもう。

こだまさんの失踪記も読んでみたいけどな……。
(あと諸々の事情でむずかしいのかもしれないけど、けんちゃんの話をまとめて読みたい)



やはり印象的なのは、詐欺に遭った顛末。

SNSで知り合ったメルヘン氏(仮名)にだましとられた数十万円を取り戻すべく、メルヘン氏の実家に乗りこむシーン。

 メルヘンは、しばらく前に母親と喧嘩して家を出て行ったきりだという。母親は私とそれほど歳が変わらないように見えたが、父親は高齢だった。ふたりとも状況を理解するのに精一杯で、心が追いついていなかった。「両親は他界した」という息子の一文をどんな思いで読んだのだろう。 
 正直に言うと、両親に会う直前まではどこかわくわくしていた。詐欺師の実家に押し掛けるなんて一生に一度の経験だから。 
 だけど、これはドラマでも探偵ごっこなんかでもない。チェーンの隙間から戸惑う母親の顔が見えた瞬間、冷水を浴びせられたように目が覚めた。私の薄っぺらい「善意」が人を刺している現場を目の当たりにした。私がメルヘンを突き放していれば、ここまで被害額は膨らまず、両親を悲しませずに済んだのだ。自分が損して終わるだけならよかった。シェパードの散歩みたいに「阿呆だなあ」と笑えるラインは、とっくに越えてしまっていたのだ。

大金をだましとられた被害者なのに、加害者やその家族の心境をおもいやり、自らの行動を責める。

まちがいなく善人の行動なんだけど、たいへん残念なことにこの世は善人が生きやすいようにはできていない。


少し前に、こんな光景を見た。

雨に打たれているホームレスのおっちゃんに傘をさしかけてあげる子。

おじさんもさしかけられた傘に気づいて
「えっ、あっ、ありがとう。でもええよ。大丈夫やから。やさしいな」
と驚いていた。

なんて心優しい子なんだろう。
道徳的には大正解だ。

でも。
世渡り的には不正解だ。たぶん。

もし自分の娘が同じことをやっていたら
「君がやったことはすばらしい。その優しい心はずっと持ちつづけてほしい。でもそれはそれとして、知らないおじさんに近づいて万が一あぶない目にあったらいけないから、今後はやめてほしい。あのおじさんを救うのは政治や行政の仕事だから」
と言ってしまうとおもう。

我ながら小ずるいオトナだなあとおもうけど。


小ずるい人間のほうがうまくやっていけて、ホームレスや詐欺の加害者に心から同情してしまう優しい人のほうが生きづらい。

まったく嫌な世の中だ。
そんな世の中にしている原因の一端はぼくのようなオトナにあるんだけど。


しかし詐欺をやる人って、ちゃんとだまされやすい人を選んでるんだなあ。
かんたんにだまされてくれる人、だまされたと気づいても「自分にも落ち度はあった」と感じてくれる人を狙ってるんだな。

「詐欺をするようなやつは家族親戚もろとも地獄の底まで追いかけてケツの毛までむしってやる」と考えてるぼくのような人間のところには来てくれないんだもん。

さすがはプロの仕事だ、と変なところで感心してしまった。



なつかしい、ネット大喜利のこと。

 対戦者を募集している人がいたので適当にハンドルネームをつけて入室してみた。すると、さっそく一問目のお題が表示される。「ボケ」の投稿まで数日あった。空っぽだった頭の中に突如降りてきた大喜利のお題。その瞬間から、夕飯の買い出しに行くときも、味噌汁の出汁を漉しているときも、バスタブを洗っているときも、眠りに就く前の布団の中でも大喜利のことばかり考えるようになった。生活自体は何も変わらないのに脳内がめまぐるしく動き、満たされていた。
 制限時間ぎりぎりまで考え、指先を震わせながら投稿。あとは、どちらが面白いか他の参加者が投票する仕組みだ。結果が出るまで落ち着かなかった。何かを楽しみにそわそわ待つなんて、いつ以来だろう。もう結果が出たか。まだか。数分おきにサイトを覗いた。
 私は初めての対戦に勝っていた。「面白い」とコメントまで付いていた。実生活でそんな褒め言葉をもらったことはなかった。そうか、ネットならば、文章ならば、私も人を笑わせることができるのかもしれない。それは大きな発見だった。

 一口に大喜利といっても様々なサイトがあった。数百人が一斉に投稿して面白さの順位を競うもの、イベント形式の勝ち抜き戦、数人でボケを相談し合うチーム戦。私はすぐその世界にのめり込み、いくつもの大喜利サイトに登録して渡り歩くようになった。何年も続けるうちに自然とネット上の大喜利仲間が増えていった。

ぼくも同時期にネット大喜利にはまっていた。
こだまさんがブログで開催した大喜利に参加したこともある。
こだまさんが、ぼくが主催した大喜利イベントに参加してくれたこともある。

当時ぼくは大喜利を「趣味」だとおもっていたが、今にしておもうと「逃避場所」だった。

就活がうまくいかず、やっと就職したものの一ヶ月でやめ、実家で一年引きこもり、フリーターになって先の見えない暮らしをしていた。
ぼくがネット大喜利にはまっていたのはそういう時期だった。

夜遅くまでチャットをしたり、肌身離さずメモ帳を持ち歩いて大喜利の回答を考えたり、夢の中で回答をおもいついたときは飛び起きてメモをとったり(翌朝見るとぜんぜんおもしろくないんだこれが)、ときには大喜利のことで他の人と喧嘩をしたりもした。

人生の関心事の八割ぐらいを一円にもならないネット大喜利に捧げていたのだから、今おもうと狂っている。

でも当時は自分が異常だとはおもわなかった。なぜなら、同じように大喜利ばかりやっている人が他にもたくさんいたから。
もしかしたらあの人たちも狂っていたのかもしれない(まっとうな生活を送りながらたしなんでいた人もいっぱいいたとおもうが)。

こだまさんの追想を読んで、ああネット大喜利に居場所を求めていたのはぼくだけじゃなかったんだとちょっと安心した。


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【読書感想】こだま『ここは、おしまいの地』

【読書感想文】ゲームは避難場所 / 芦崎 治『ネトゲ廃人』



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