2020年5月12日火曜日
将軍様はおれたちの気持ちなんかわかりゃしない
嫌いな言い回しがある。
政治家を批判するときに使う
「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」的な言い回しだ。
べつに政治家をかばいたいわけではない。
国民主権を理解していないやつが政治を語るなよ、とおもうからだ。
「私たち」は英語で「we」だが、中国語では二種類ある。
「我們」と「咱們」だ。
「我們」は聞き手を含めた「私たち」。
「おれたち親友だよな」のときは「我們」を使う。
「咱們」は聞き手を含めない「私たち」。
「おれたちは銀行強盗だ! 金を出せ!」のときは「咱們」だ。
中国語では、このふたつを明確に区別する。
これは理にかなっているとおもう。だってぜんぜん別のものを指すもん。
で、さっきの話に戻るけど
「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」
の「我々」を中国語で表すなら「咱們」だ。
政治家と庶民の間に線を引いて、彼我を別のものとしている。
江戸時代の町人が「将軍様はおれたち町人の気持ちなんかわかりゃしない」と言うのならそれでいい。
将軍と町人は生まれながらにして別世界の住人で、それぞれ行き来することはないのだから。
でも中学校で公民を学んだ人なら知っているとおり、現代日本の政治家は「向こう側にいる人」ではない。
「我々の代表者」だ。
「選挙で落ちればただの人」という言葉が表すとおり、政治家はただの人だし、ただの人が政治家になることもできる。
って考えを持っていれば
「我々庶民の感覚はわからないんでしょうね」
なんて言葉が出てくるはずがない。政治家もまた一市民なのだから。
だから「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」っていう人間こそ、自分が主権者だということをわかっていないのだ。
おまえのそういうマインドこそが政治家の勘違いを助長させるんだよ!
2020年5月11日月曜日
【読書感想文】「自分」のことで悩めるのは若者の特権 / 朝井リョウ『何様』
何様
朝井 リョウ
直木賞受賞作である『何者』のスピンオフというかアナザーストーリーというか。
『水曜日の南階段はきれい』は光太郎の高校生時代の話、『それでは二人組を作ってください』は理香と隆良のなれそめ、『逆算』はサワ先輩の就職後、『きみだけの絶対』は烏丸ギンジの甥っ子の話、『むしゃくしてやった、と言ってみたかった』は瑞月の父親が出てくる話……とどんどん『何者』から遠ざかってゆく。そして最後の『何様』は『何者』の端役の一年後。ほとんど関係がない。
『何者』がおもしろかったので続編的なものかとおもって読みはじめたので、その点はちょっと期待はずれだった。
だからといっておもしろくないわけじゃないけど。
『何者』は昔の傷口を容赦なくえぐってくるような小説だった。
いちばん触れられたくないところをぐりぐりとさわってくるような小説だった。特に就活の時期のことをおもいだしたくもないとおもっているぼくのような人間には深く刺さった。ひりひりしたなあ。
『何様』のほうはそこまででもない。
十代後半から二十代中旬までの、青春時代が終わろうとして大人として生きていかなければならない人たちのちょっとした苦悩。
ありきたりなんだけど、でも当人にとってはやはり深刻な悩みにぶつかって、スパッと解決するでもなく打ちひしがれるでもなく、なんとなく折り合いをつけてどうにかやっていく人たちの物語。
こういう小説を読んでわがことのように深く共感するには、ぼくは少し歳をとりすぎたのかもしれない。
結婚して九年、父親になって七年、転職しながらも仕事もそこそこ順調。自分のことよりも娘のことを心配することのほうが増えた中年。
そんな境遇のぼくにとっては、もうさほど「自分」というものは重要じゃなくなったんだよね。「自分」よりも「家族」だとか「社会」だとかの重要性が増したかもしれない。
この小説に書かれている悩みは「自分」の悩みだからね。それってもちろん若い読者にはリアルに感じられるものだろうし、若い著者だからこそ書けた小説なんだとおもう。ただぼくが読むには歳をとりすぎたというだけで。
いちばん好きだった短篇は『それでは二人組を作ってください』。
どうもぼくは後味の悪い小説が好きみたいだ。
周囲を見下し、相手に自分をあわせることもできず、知らないわからないと言えず、自分は特別だとおもっている。つまりプライドの高い女性が主人公。
『何者』でもやはりお高く留まっていて感じの悪い女性として主人公からは嘲笑気味に見られていた。いわゆる「意識高い系」だ。
こういう人が近くにいたら、やはりぼくもひそかに嗤うとおもう。
……が、ぼくが嗤っている対象とぼくはそっくりなのではないだろうか。
ぼくもプライドの高い人間だ。今でこそそれなりに角がとれてきた(と自分ではおもっている)が、二十歳ぐらいなんてそりゃあもうひどいもんだった。周囲の人間を全方位的に見下していた。根拠のない選民意識を持っていた。能力に恵まれた自分は当然成功するものとおもっていた。
自分でもうすうす気づいている。周囲にとけこめない。ほんとはとけこみたい。でもとけこみたくないともおもっている。だってとけこんだら、いつも見下している「あんなやつら」と一緒になってしまうんだもん。自分はもっと高いステージにいるべき人間なのに。
そんな考えをきっと周囲から見透かされているんだろう。だから距離を置かれる。よけい意固地になって「あんなやつら」と見下す。かくしてプライドだけどんどん高くなってゆく。
二十歳ぐらいのときはほんとに苦しかった。自分が悪いんだけどさ。
でも今ではちょっと楽になった。
プライドが削りとられていったというより、自分そのものに対する興味が薄れてきたのだ。
おもうに、昔のぼくは自分が好きすぎたんだろうな。
2020年5月8日金曜日
【読書感想文】警察は日本有数の悪の組織 / 稲葉 圭昭『恥さらし』
恥さらし
北海道警 悪徳刑事の告白
稲葉 圭昭
いやあ、すごい。
元北海道警刑事の告白。
ヤクザと交際し、ヤクザから拳銃を入手し、拳銃や覚醒剤の密輸までおこなう。
なにより驚くのは、私利私益のためにやっていたのではなく、北海道警という組織のためにやっていたということだ。
「警察と暴力団は持ちつ持たれつ」という話はこれまでにも聞いたことがあったが、これは癒着なんてもんじゃない。もはや共犯者だ。
まだ、「真犯人を捕まえるために暴力団と一時的に手を組む」とか「十人を逮捕するために一人を見逃す」とかなら理解できる。
厳密にいえばだめだけど、きれいごとだけじゃ世の中うまくいかないからまあしょうがないよね、とおもえる。
だがこの本の中で書かれている警察と暴力団のつながりは、そんなものじゃない。
(「エス」とは暴力団の中にいて警察に通じているスパイの隠語)
ヤクザの側から拳銃と覚醒剤の密輸に協力してくれと警察に持ちかけ、警察は拳銃押収のノルマを達成するために話に乗る。
めちゃくちゃだ。
もはや、消防士が実績をつくるために放火するようなものだ。
この本を読むかぎり、こういう行為はわりと頻繁におこなわれていたらしい。著者は北海道警の刑事だったので北海道警のことしか書かれていないが、ノルマは全国の警察に課されているはずなのでどこも似たり寄ったりなのだろう。
警察組織というのはとんでもない犯罪組織なのだ。
もちろんこの本はひとりの刑事が書いたものなので、すべてが真実かどうかはわからない。
だが著者は自分にとって都合の悪いことも洗いざらい書いているし、また実刑を受けて刑期を終えているのでいまさら自分をよく見せるメリットも薄い。おそらくほとんどが事実なんだろう。
なにがおそろしいって、著者はすべてを暴露しているにもかかわらず北海道警は組織的な犯行だったことをまったく認めていないこと。
当然ながら誰も責任をとっていない。著者といっしょに犯罪に手を染めながらその後も北海道警で順調に出世した人もいるそうだ。
まったく認めていない、誰も責任をとっていないということは、組織の体質はたぶん変わっていないんだろう。
暴力団対策法ができたから昔ほどではなくなったんだろうけど、「犯罪を摘発するために犯罪をさせる」というやり方は今もまかりとおっているんだろう。
警察って日本有数の悪の組織なんだなあ……。
こんな極悪集団が今も闊歩しているとおもうとおそろしくなった。
その他の読書感想文はこちら
2020年5月7日木曜日
【読書感想文】超弩級のSF小説 / 劉 慈欣『三体』
三体
劉 慈欣(著) 立原 透耶(監修)
大森 望 , 光吉 さくら , ワン チャイ(訳)
いやあ、すごいすごいという評判は聞いていたが、噂に違わぬスケールの大きさだった。
正直、中盤は退屈だったんだけどね。
突然、主人公が『三体』というゲームをはじめてそのゲーム世界が描写される。なんなんだこれは、いったい何を読まされているんだ、という感じ。
しかし『三体』の背景、そしてゲーム開発の目的がわかってくるとめちゃくちゃおもしろくなってきた。
ネタバレなしに感想を書くのはむずかしいのでここからネタバレ書きます。
『三体』とは、物理学の「三体問題」に由来している。
作中の注釈ではこうある。
要するに「宇宙空間で、同じぐらいの質量の物体が近くに三つあったら、どういう動きをするかは基本的に誰にも予想できない」ってことね(例外的に予想できる場合もあるけど)。
で、この小説に出てくるゲーム『三体』の舞台は、まさに三つの太陽を持った星。
太陽が不規則に動くので地球のように規則正しく朝晩や四季が訪れることはなく、長期間にわたって極寒の冬や夜が続いたり、灼熱によって焼かれたりする。
太陽の動きが比較的安定しているときは(恒期)文明が発展するが、自然環境が厳しくなれば(乱期)あっという間に文明は滅ぶ(ただしこの星の住民は活動停止状態になることで乱気を生き延びることができる)。
……ってことが読み進めるうちに徐々にわかってくる。
ここがミステリのようでわくわくする。
ネタバレしておいてなんだけど、これは知らずに読むほうがぜったいにおもしろいとおもう。
さらにこれは単なるゲームの世界ではなく、現実にこういう星があり、ゲームはそれをシミュレーションしたものだということがわかる。
誰がこのゲームを作ったのか、なんのために作ったのか……ということも終盤になって明らかになる。
中盤までに散りばめられていた謎めいた設定が、終盤で一気に収束するところはほんとうに圧巻。
読んでいて「おお! そういうことか」と声が出た。
『三体』世界のスケールが途方もなく大きいので圧倒されるが、設定だけでなく物語としてもおもしろい。
文化大革命に翻弄される女性研究者・葉文潔の人生も魅力的だし、不良警察官の史強もかっこいい。
巨大な船から乗員を一瞬で殺してデータを奪う作戦のところなんか、これだけで二時間映画になりそうなダイナミックさ。
ほんと、ひとつひとつのエピソードが重厚なんだよな。
たとえば、『三体』世界で機械ではなく人間を使ってコンピュータをつくるシーン。
(ここに出てくるフォン・ノイマンとは実在のフォン・ノイマンではなく三体というゲームのキャラクター)
これを組み合わせて兵士たちで複雑な演算が可能なコンピュータを作ってしまうのだ。
たしかに理論上は可能だけど……。
いやあ、なんて壮大なほら話だ。これぞSF小説。
こんな途方もないエピソードが次々に出てくるのだ。
十冊の本を読み終わったぐらいの充実感があった。
もちろん作品自体もすごいのだが、作品の背景にも驚かされる。
まず中国人、それも中国に住んでいる人が書いた作品だということ。
文化大革命を批判的に書いたりしていて、こういうことが許されるのか! とびっくりした。
中国から外国に渡った人が書くのならわかるんだけど。
中国という国は、ぼくがおもっているよりもずっと民主的な国になっているのかもしれない。これは認識をアップデートしなければ。
また、中国国内で発表されたのが2006年、単行本の出版は2008年なのに、SF小説界の最高峰ともいわれるヒューゴー賞を受賞したのが2015年だということ。
中国の作品だから世界的な評価が遅れたのだろうが、それにしたって21世紀になってもこんなに評価が遅れてやってくる作品はめずらしい。
ハードカバーで448ページという重量級の小説だけど、中盤からは一気に読めた。
SF小説と歴史小説と天文学ノンフィクションとハードボイルド小説とミステリ小説をいっぺんに読んだような気分。
ずっと頭を使いながら読まなきゃいけないので疲れたけどおもしろかったなあ。
だが、これは三部作の第一部。第二部『黒暗森林』はこの1.5倍、第三部『死神永生』は2倍ぐらいの分量があるという驚愕の事実を訳者あとがきで知ってびびっている。
うーん、続編もまちがいなくおもしろいんだろうけど、気力がもつだろうか……。
第二部の日本語訳は2020年6月発売だそうです。
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2020年5月1日金曜日
ゆきずりの野球友だち
娘(六歳)とその友だちと公園で遊んだときのこと。
娘の友だちのお兄ちゃん・Kくん(九歳)も公園で遊んでいた。友だちと野球をやっている。
しばらくして、Kくんとその友だちがやってきた。
「いっしょにドッチボールしよう」
「いいよ。ええっと、そっちの子はなんて名前?」
「名前? 知らない」
「え!?」
友だちの名前を知らない? ずっといっしょに野球やってたのに???
「えっ、なんで知らないの」
「だってさっき会ったばっかだもん」
「同じ小学校じゃないの?」
「ううん。はじめて会った。あいつがどこの小学校かも知らないよ」
「それでいっしょに野球やってたの?」
「そう」
「それにしても、名前とか小学校とか聞こうとおもわない?」
「べつに」
えええ。
すげえ。
見ず知らずの人と出会ってすぐに野球をやれるのが。
それで名前も所属も気にしないのが。
そのくせ「あいつ」呼ばわりできるのが。
男子小学生ってこんなだったっけ。
ゆきずりの女と一夜を共にできるプレイボーイぐらいすげえ。
娘の友だちのお兄ちゃん・Kくん(九歳)も公園で遊んでいた。友だちと野球をやっている。
しばらくして、Kくんとその友だちがやってきた。
「いっしょにドッチボールしよう」
「いいよ。ええっと、そっちの子はなんて名前?」
「名前? 知らない」
「え!?」
友だちの名前を知らない? ずっといっしょに野球やってたのに???
「えっ、なんで知らないの」
「だってさっき会ったばっかだもん」
「同じ小学校じゃないの?」
「ううん。はじめて会った。あいつがどこの小学校かも知らないよ」
「それでいっしょに野球やってたの?」
「そう」
「それにしても、名前とか小学校とか聞こうとおもわない?」
「べつに」
えええ。
すげえ。
見ず知らずの人と出会ってすぐに野球をやれるのが。
それで名前も所属も気にしないのが。
そのくせ「あいつ」呼ばわりできるのが。
男子小学生ってこんなだったっけ。
ゆきずりの女と一夜を共にできるプレイボーイぐらいすげえ。
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