2023年9月12日火曜日

【読書感想文】サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』 / 熱意がありすぎて引く

これやこの

サンキュータツオ随筆集

サンキュータツオ

内容(KADOKAWAオフィシャルサイトより)
「記憶を語り継ぐことだけが、師匠たちを死なせない唯一の方法だ――」
学者で漫才師(米粒写経)のサンキュータツオによる、初めての随筆集。著者本人の人生をたどり、幼少時から今までの「別れ」をテーマに綴った傑作選。キュレーションを務める「渋谷らくご」でお世話になった喜多八、左談次の闘病と最期、小学生の頃に亡くなった父との思い出、そして京都アニメーションの事件で生きる気力を失ったサンキュータツオ自身の絶望と再生……。自分の心の奥に深く踏み込み、向き合い、そのときどう感じたのか、今何を思うのかを率直に描き出す。これまで「学問×エンタメ」を書いてきた著者の新境地!

 マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ三氏のやっている『東京ポッド許可局』がおもしろくて、毎週聴いている。

 三人ともぼくより少し上の世代なのだが、そのおじさんたちが語るほどよく力の抜けた会話がたいへん耳心地いい。酒場での、おもしろいおっちゃんたちの会話を盗み聞きしている感覚。編集も入っているのだろうが、それを感じさせないほど自然なおしゃべり。

 で、その番組の中でのサンキュータツオ氏の役回りは、進行役、常識人、理屈屋、といったところだ。要は“ツッコミ役”。ともすれば悪ふざけが暴走しがちなマキタスポーツ、プチ鹿島両氏に対するストッパー役を担っているのだが、オタク気質なので自身の関心のあることに関しては熱く持論をふりまわすこともあり、逆にツッコまれることもある。

 ぼく自身も、理屈っぽい偏屈な人間だと自覚しているので、三人の中ではサンキュータツオさんにいちばん親近感を抱いていた。そんなタツオさんがエッセイ集を出しているということで、読んでみた。



 ううむ。

 これは、著者のオタク気質が悪い風に出ているな。

 特に表題作『これやこの』。柳家喜多八、立川左談次というふたりの落語家が癌と闘いながら高座に上がり続けた晩年をつづったものなのだが……。

 とにかく、筆者からのふたりの師匠に対する熱を感じる。それはいい面もあるのだが、どちらかといえば空回りしているようにぼくには感じられた。

 というのもぼくは落語はたまに聴くものの上方落語専門で、柳家喜多八、立川左談次というふたりの落語家に関しては噺を聞いたことどころか名前すら知らなかった。そんな人たちの晩年の姿を「いや、とにかくかっこよかったんですよ!」と熱く語られても、サンキュータツオさんがそのふたりを敬愛していることは伝わってくるが、肝心の“柳家喜多八、立川左談次という人たちがどれほどすごい人だったのか”はいまいち伝わってこない。むしろ、こちらが引いてしまうというか。

 ほら、あるでしょう。オタクの人が愛する作品について熱弁していて。それが熱が入りすぎていて、作品を見てみたいとおもうどころか、逆に「いやあなたの語りを聞いているだけで充分おなかいっぱいになってしまったのでもういいです……」みたいな気持ちになることが。まさにあれ。

 要は、気持ちが入りすぎてるんだよね。

 ノンフィクションとかルポルタージュって、対象に対する情熱が大事なんだろうけど、それと同時にちょっと醒めた視点も必要だ。のめりこみすぎないというか。一歩引いたところから、まだそれほど興味を持っていない読者の傍らに立ってくれるのがいいノンフィクションだ。

『これやこの』には、とにかく強い情熱だけがあって、喜多八、左談次を知らない人に読ませるだけの客観性が欠けているように感じた。

 たぶん、生前の喜多八、左談次をよく知っている人が読めば胸を打つんだろうけど。ファン向けエッセイ。



 表題作『これやこの』以外にも、亡くなった知人についてつづったエッセイが並んでいる。こちらは、対象に対する思い入れがそこまでないせいか、ほどよく肩の力が抜けていて読みやすかった。

 昔バイトをしていた店の主人、バイト先で知り合った人、親戚のおばさんなど、「泣いて悼むほどではないけどいなくなったらやっぱり寂しい」人たちとの別離が書かれている。


 ただこれも、一篇一篇はいいエッセイなんだけど、死を扱ったエッセイがこれだけ続くと、ひとりあたりの死の重みが小さくなるというか、「もういいよ」という気持ちになってしまう。

 ごくたまにあるからこそ一人の死が胸にせまってくるわけで、この人も死んだ、あの人も死んだ、この人もやっぱり死んだ、というエッセイを立て続けに読んでいると、次第に感覚が鈍っていくのを感じる。

 もっと雑多なテーマについて書かれたエッセイ集を読みたかったなあ。




 著者がバイト先で知り合った“石井さん”に関する話。
  だんだん見えてきた。どうやら石井さんは毎週月曜日に寄席の定点観測をしており、それはどういう演者が出るとか、どれくらいお客さんが入るかとか、そういうことをまったく気にせず、ただ出てくるものを聴く。演者の力を細部から推しはかる。それが古典であろうと新作であろうと、描写は人物造形や解釈に至るまで、つぶさに観察していた。好き嫌いを持ち込まずに、ただただ聴き続けるというスタイルだ。
 そしてそれは映画に関してもおなじだった。一定の量を浴び続ける。悪いものも良いものも、とりあえず先入観なくなんでも鑑賞した。すべてを許容するということはないが、こうでなければいけないという哲学をこしらえて頑なになるのではなく、いくつかの哲学の並存を認めていた。
 石井さんが落語を語るとき。それはまるでソムリエではないワイン好きがワインを片っ端から飲んで語るような、専門家だがそれを職としていない、堅苦しさからは解放されたような語り方だった。一言でいえば、自分ではいかなる介入もしないことを心に決めた「観察者」「見届け人」だった。落語の未来は暗かった。おそらくこのまま先細って滅びていくであろうことが想像できた。それでも期待せず、だが見捨てもしないという覚悟でずっと動向を追い続ける介添人のような存在だった。

 この“石井さん”の趣味に対する接し方は、ぼくが読書をする上で心掛けていることに近い。

 ぼくは、なるべく幅広いジャンルの本を読みたいと考えている。できることなら、出版社も著者名もレビューも一切気にすることなく、もっといえばジャンルも気にすることなく、「星の数ほどの本の中からまったくランダムに手に取った本を読む」みたいな読み方にあこがれる。

 なぜなら「まったく期待せずに偶然的な出会いをした本がめちゃくちゃおもしろかった」という体験こそが、読書をする上で至高の瞬間だからだ。自分の世界の枠組みをぐぐっと拡げてくれるような読書体験をしたいと常々考えている。


 とはいえ現実的に時間は有限で、ハズレの本を引きたくないという欲望もあるから、ついつい知っている著者の本を手に取ってしまうし、レビューサイトを見て評判の高い本を優先的に読んでしまう。

 そうすると、たしかにハズレを引く可能性は低くなるんだけど、「こんな世界もあったのか!」という驚きは小さくなってしまう。

 この石井さんのように「とりあえず先入観なくなんでも鑑賞した」とまではいかなくても、たまにはまったく未知のジャンルにも手を伸ばす懐の広さを持っていたいな。


【関連記事】

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』



 その他の読書感想文はこちら



2023年9月11日月曜日

名前三題

 呼ばれ方

 名字が平凡+下の名前がちょっとめずらしくて呼びやすい響き、ということで学生時代はずっと下の名前で呼ばれていた。

 自分がそうだったのであまり気づかなかったのだが、「みんなから下の名前で呼ばれている人」や「みんなから同じあだなで呼ばれている人」って、人見知りする人からすると困る存在だったりする。

 あんまり親しくないクラスメイト(仮に鈴木イチローとしよう)を呼ぶとき、「鈴木」や「鈴木くん」はわりとすんなり呼べるが、はじめて「イチロー」と話しかけるのはちょっと勇気がいる。「自分ぐらいの関係性でイチロー呼ばわりしていいのだろうか。なれなれしいやつとおもわれないだろうか」と考えてしまう。かといってみんながイチローって呼んでるのに自分だけ鈴木くんっていうのも妙によそよそしい感じがするよな、とあれこれ考えてしまい、結局「なあ」「ねえ」みたいに熟年夫婦みたいな呼びかけをしてしまう。

「みんなから下の名前で呼ばれている人」「みんなから同じあだなで呼ばれている人」はビギナー向けではない。中級者以上にとっては親しみやすいのだが。



ファーストネーム

 海外企業のウェブサービスなんかを使うと、フォームで「First Name」「Family Name」を記入することを求められる。

 そのたびに「First Name って名字と名前どっちだっけ?」となる。「ええと、Family Name は家族の名前だから名字だな」あるいは「ええと、Firstだから先で、英米だと下の名前が先だから、下の名前か」と考えてやっと答えにたどりつく。

 First も Family も両方 F ではじまるからややこしいのだ。ぱっと見て違う単語にしてほしい。

 また「Family Name」ではなく「Last Name」のときもあり、どっちかに統一してほしい。

 でもきっと漢字圏以外の人間も同じようなことをおもっているだろうな。「開ける」「閉める」が正反対の意味なのになんで似てるんだよ! とか、「買」と「売」は逆の意味なのにどうしてどっちも「バイ」と読ませるんだよ! とか、「名字」と「苗字」と「姓」のどれかに統一しろよ! とか。日本人でもおもう。



名前のうちの名前のほう

 姓と名を区別して言いたいとき、姓のほうは「姓」「名字」と言えばいいが、名(姓じゃないほう)だけを指す適切な呼び方がない。「名前」も「名」も、姓を含む意味のことがあるからだ。しかたなく「下の名前」と、どうも歯切れの悪い呼び方をしている。さっきから何度も「下の名前」と書いているが、そのたびにもっといい言い回しはないものかとおもう。「オノ・ヨーコの夫の下の名前」と言われても、レノンなのかジョンなのかよくわからない。

 一語でずばっと言い表す言葉はないものか。「下の名前」と「下の“を”(あるいはむずかしいほうの“を”」はいいかげんなんとかしてほしい。

 上位の概念(姓+名)と下位の概念(姓を含まない名)がどちらも「名前」なのがよくない。

 ついでにいえば「ごはん」「飯」もそうだ。上位の概念(食事)と下位の概念(米を炊いたもの)がどちらも同じ呼び名である。さらに「ごはんにする」「飯にする」と動詞化したりもする。「白飯」という呼び名もあるが、それだと炊き込みご飯が含まれない。

 ちなみにこれは個人的な感覚だが、炊き込みご飯や赤飯や牛丼の下の部分は「ごはん」だが、チャーハンやパエリアは(下位の概念としての)「ごはん」という感じがしない。ごはんではあるがごはんではない。



2023年9月7日木曜日

【創作】死なない世界

 医療技術の発達により身体や脳が衰えることはなくなった。事故や他殺や自殺以外で死ぬことはなくなった。ほぼ不老不死だ。


 問題は人口が増えることだ。ほとんど死なないのだから。

 人が増える。困る。土地や食料や資源は有限なのだから。誰か死ねよ。じゃあおまえが死んだらどうだ。いや、おれはいやだよ。おれより先に死んだほうがいいやつがいるだろ。おれが死ぬとしても、それより後だろ。

 誰も「私が死にますよ」と言わない。「自分以外の誰かが」とおもうだけだ。ゴールデンウイークに渋滞に巻き込まれて「なんでこんなに人が多いんだ!」と怒る人と同じだ。


 しかたない、これ以上増えないようにしよう。厳しい産児制限。事故や自殺で死んだ分だけ産んでもいいことにする。

 人口構成比はものすごくいびつになる。ほとんどが高齢者。それも元気な高齢者。若者はごくごくわずかだ。

 富も権力も高齢者が独占している。あたりまえだ。なにしろ何百年も生きていて、頭も肉体も元気なのだ。稼ぐ方法、権力を手にする方法を熟知しているし、金は資産のある者のところにどんどん集まる。何百年もビジネスをしている資産家と新社会人がビジネスの場で勝負になるはずがない。

 したがって、嫌な仕事はすべて若い連中にまわってくる。法律も制度も若い人に不利にできている。若いやつらは数が少ないので太刀打ちできない。産児制限されているから増えようもない。

 形だけは民主主義が保たれている。だがあくまで形だけ。人口のほとんどが年寄りなのだから年寄りに支持されている政党が勝ち、年寄りに有利な法が作られる。政権交代は起こりようがない。世代交代も。



2023年9月6日水曜日

こばかにされる教師たち

 中学校でも嫌われている先生はいたが、高校になるとそれがちょっと変わった。

 嫌うんじゃなくてこばかにするようになった。


 言ってみれば、中学時代の嫌われている先生は陰で「ヤマシタのやつ、むかつくよなー」って言われる感じだったのが、高校でこばかにされる先生は「ヒデコちゃんがまたとんちんかんなこと言ってたよ。かわいそうに」みたいな扱いだった。

 中学では、嫌われながらも一応目上の存在だったのが、高校では明らかに格下になっていた。

 こばかにするようになって、「あの先生むかつく」という感覚はあまりなくなった。なぜなら格下だから。

 ナメクジがいるじゃん。ナメクジが好きな人はあんまりいないとおもうんだよね。でもナメクジにむかつくことってまずないでしょ。なぜなら圧倒的に格下だから。ゴキブリみたいに素早く動いたりもしないし、蚊みたいに刺してきたりもしないし。人間様が負ける要素がひとつもない。だから、嫌だなとはおもうけど、おびえたり憎んだりはしない。高校においてこばかにされる教師はそんな存在だった。ナメクジに例えるのはさすがに失礼だけど。


 また、中学校では「怖い先生」が嫌われることが多かったけど、高校に入ると嫌われるタイプが変わった。

 そこそこの進学校だったこともあってか「頭のいい先生」「教えかたがうまい先生」が生徒から敬意を持たれていて、そうでない先生がこばかにされてた。

 体育教師なんかはその典型だった。もちろん敬意を持たれている体育教師もいたが、それは「生徒に対して対等に近い立場で関わろうとする教師」で、軍隊の上官のような態度で接してくる教師は例外なくこばかにされていた。

 高校生ともなれば、肉体的な強さでは大人に負けていない。教師が過度な体罰をできないこともわかっているので、大声を出すタイプの教師はそんなに怖くない。むしろ「理性をコントロールできないあわれなやつ」としてこばかにされる。

 こばかにしていることが伝わるのだろう、体育教師のほうはなんとかして優位に立とうと理不尽に怒る。理不尽に怒ることで「理性的に会話ができないあわれな大人」としてますますこばかにされる。


「こいつは自分より数段頭が悪いくせにいばってるな」ということがわかってしまい、こばかにするようになるのだ。

 そう、ちょうどレベルの低いポケモントレーナーの言うことをポケモンが聞かないのとおんなじで。



2023年9月4日月曜日

【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民

競争と公平感

市場経済の本当のメリット

大竹 文雄

内容(e-honより)
日本は資本主義の国のなかで、なぜか例外的に市場競争に対する拒否反応が強い。私たちは市場競争のメリットをはたして十分に理解しているだろうか。また、競争にはどうしても結果がつきまとうが、そもそも私たちはどういう時に公平だと感じるのだろうか。本書は、男女の格差、不況、貧困、高齢化、派遣社員の待遇など、身近な事例から、市場経済の本質の理解を促し、より豊かで公平な社会をつくるためのヒントをさぐる。


 導入は「市場競争はいいのか悪いのか」「政府はどこまで市場に介入すべきか」「なぜ日本人は海外と比べて自由競争を嫌う傾向があるのか」なんて話でけっこうおもしろかったのだが、本題に入ると話があっちこっちにいってしまう。

 個々の話はけっこうおもしろいんだけど、『競争と公平感』というタイトルとはほとんど関係のない話も混ぜられていて、どうも散漫な印象。

 ワンテーマでくくる新書ではなく「経済学者のおもしろコラム集」みたいな感じで出せばよかったんじゃないかな。



 日本人は自由競争が嫌いなんだそうだ。

「貧富の差が生まれるとしても、市場による自由競争によって効率性を高めたほうがいいか?」という問いに対して、賛成する人の割合が日本は他国と比べて極端に低いという。

 極端なことをいえば、「金持ちになれる人からなっていこう」よりも「みんな同じくらいに貧しい」ほうがマシ、と考える人が日本には多いのだ。

 ぼくもわりとそっち側なので、気持ちはわからなくもない。「自分は100円得するけど金持ちが大きく得をする」政策と「自分は100円損するけど金持ちは大きく得をする」政策があったら、後者を選びたくなる。冷静に考えれば前者のほうがぜったい得なんだけど、でもどっかの誰かが得をしていることが許せない、というひがみ根性がある。

 これはわりと生来的な感覚なんじゃないかとおもう。子どもを見ていても「自分が損をしたこと」ではなく「他の誰かが得をしたこと」に怒っている。自分がお菓子を買ってもらえなくても怒らないけど、妹だけが買ってもらってたら激怒する、みたいに。

 だからぼくの正直な感覚としては「日本人はなぜそんなに不平等を嫌うのだろう?」というより「諸外国はなぜそんなに不平等を許せるのだろう?」なんだよな。

 とはいえ日本人もすべての不平等を憎むのではなく、努力などで富を手にした人のことはわりと素直に認めるようだ。

 日本人は「選択や努力」以外の生まれつきの才能や学歴、運などの要因で所得格差が発生することを嫌うため、そのような理由で格差が発生したと感じると、実際のデータで格差が発生している以上に「格差感」を感じると考えられる。また、日本の経営者の所得がアメリカのように高額にならないのは「努力」を重視する社会規範があるためかもしれない。一方、学歴格差や才能による格差を容認し、機会均等を信じている人が多いアメリカでは、実際に所得格差が拡大していても「格差感」を抱かない。こうしたことが、日米における格差問題の受け止め方の違いの理由ではないだろうか。つまり、所得格差の決定要因のあるべき姿に関する価値観と実際の格差の決定要因とに乖離が生じた時に、人々は格差感をもつのだろう。

 たとえば大谷翔平選手に関する報道を見ていると「彼はこんなに努力をしている」「彼は学生時代から一生懸命夢を追い続けて、高い志を持って、日々鍛錬を重ねてきた」という記事が多い。たぶん、そういう報道を見ることで、日本人は大谷選手が稼ぐことを“許して”いるんだとおもう。

 大谷選手が努力をしてきたことはまちがいないが、じゃあそれだけで彼があそこまでの選手になれたのかというと決してそんなことはない。持って生まれた身体、健康状態、家庭環境など“生まれ持った幸運”によるものも大きい。すべての野球少年が大谷選手と同じだけの努力をしたら同程度のプレイヤーになれるのかというと、それはまちがいだ。

 でも我々は彼の幸運には目をつぶり、「大谷選手は努力をしてきたから高額報酬を手にする資格がある」と“許す”ことにする。


 なんのかんのといって企業が採用時に学歴を重視するのも同じことかもしれない。「彼は東大を出ている。ということは彼は学生時代に人より努力をしたのだ。だから彼はその努力に見合うだけの報酬を手にする資格がある」と考える。



 日本人が努力を重視すること自体は悪いことではないかもしれない。しかし問題は、えてしてそれが「成功しなかった人は努力が足りなかったからだ」という誤った結論を導き出すことにある。

 日本人は他国の人に比べて「貧しい人の面倒を見るのは国の責任である」と考える人の割合が極端に少ないのだそうだ。「あいつが貧しくなったのは努力が足りなかったから、自業自得でしょ」となるわけだ。

 だから、生活保護をもらうことを避けたり、その反動かもらっている人に対する風当たりが強かったりする。

 日本人は親切なんていうが、あれは「身内と認定した人には親切」であって、見ず知らずの他人を救いたくないという気持ちは強い。なにしろ国が率先して「自助、共助、公助」なんていう国だ。


 国民の経済的豊かさを引っ張り上げるためには「市場による自由競争によって効率性を高める。結果として貧富の差は拡大するが、セーフティネットを強化するなど国による貧困対策で資産を再分配することで差を縮める」がいちばんいい方法なのだろう。

 が、「ほんとに自由な競争が嫌い」「見ず知らずの困っている人を国が救うのが嫌い」という国民性では、なかなかそれが実行できない。

 日本の経済的衰退の要因のひとつかもしれない。



 日本は人の育成に金をかけない国だと言われている。

 国家支出における教育費の割合が他国よりもずっと小さい。

 なぜなら、教育の恩恵を受けられない老人世代の声がでかいから。

 投票者の高齢化は、政治に大きな影響を与える。年金、医療、教育といった年齢別にその利害が異なる政府支出は多い。中位投票者が高齢化するにつれて、政府支出の中身は、年金・医療・福祉といった高齢者がより需要するフトしていく可能性が高い。
 高齢者向けの政府支出が政治的理由で増えていくことのデメリットは、そのために人的資本への投資が少なくなることで、経済成長に悪影響を与えることである。また、高齢者向けの歳出をまかなうために、税や社会保険料が高くなると、勤労世代の労働意欲を低下させる可能性もある。

 今後もどんどん高齢化してゆく。そうなると、ますます政治家は高齢者の言うことを聞いて、教育費を削ってゆくことになるのだろう。そして若い人が貧しくなり、少子化は加速し、さらに年寄りが増え、年寄りが嫌いな教育費はどんどん削られてゆく……。

 この流れが止まることはあるのだろうか。年寄りだけが死んでゆく伝染病が大流行しないかぎり、そんな世の中を見ることはできないかもしれない(そのときにはぼくも死んでいるのでどっちみち見られない)。


【関連記事】

【読書感想文】ウォルター・ブロック(著) 橘 玲(超訳)『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』/ 詭弁のオンパレード

【読書感想文】服部 正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』 ~ ルワンダを見れば日本衰退の理由がわかる



 その他の読書感想文はこちら