2021年11月22日月曜日

【暴言】前後不覚になっている人でも使える包丁

 高齢者の自動車運転免許について。

「高齢者が運転しやすい自動車の開発が待たれる」っていうニュース記事を読んだんだけどさ。

 そもそも発想の出発点がまちがってない?

 高齢者に運転しやすい自動車を開発する必要ある?


「高齢者が運転しやすい自動車」ってさ。

「自暴自棄になっている人でも使える包丁」

とか

「泥酔して前後不覚になっている人でもかんたんに使えるチェーンソー」

みたいなもんでさ。

 いやいや、正常な判断ができない人にそんな物騒なもん渡しちゃだめでしょ、って話なんだよ。

 使いやすいとか使いにくいとか関係なく。むしろ、使いにくいほうがいい。


 技術が未熟な人をサポートする自動車はどんどん開発してほしい。

 でも、判断力が衰えている人はサポートしちゃいけない。

 判断力が落ちても運転しやすい自動車って、要は「人を殺しやすい自動車」ってことでしょ。


 こういうこというと「車がないと生活できない高齢者は死ねっていうのか!」みたいなことを言う人がいるんだけど。

 ぼくは「うん。そうだよ。そういう人はぜひ現世から退場していただきたい(婉曲表現)」とおもっている。

 他人を危険にさらした生活の上にしか生きられないなら、さっさとお引き取り願いたい。

「川に垂れ流す汚水の処理なんかやってたらうちの工場はつぶれてしまう!」みたいな話だ。さっさとつぶれろ。


 ついでに言うと、
「徒歩+バスで三十分で駅に行ける場所住んでいて」「引っ越すだけの貯金は十分にある」我が両親も、「車がないと生活できない」と言っていたので、「車がないと生活できない」の99%は「不便な生活を強いられるぐらいなら他人を殺す方がマシ」のわがままだとおもっている。


2021年11月19日金曜日

【読書感想文】安部 公房『砂の女』

砂の女

安部 公房

内容(e-honより)
砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める部落の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のなかに、人間存在の象徴的な姿を追求した書き下ろし長編。20数ヶ国語に翻訳された名作。

 芥川賞作家・安部公房の代表的作品。

 昆虫採集に出かけた男が、砂丘の村を訪れた。村の家は、一軒一軒が砂丘内に彫られた穴の底に位置している。宿を探していた男は、夫と子どもを亡くした女の家に泊まることになるのだが、翌朝になると縄梯子が外されて砂の穴から出られなくなっていた……。


 設定としては「砂の底に閉じ込められた」といたってシンプルなものなのに、なんとも奥が深い。ぐいぐい引き込まれて、ずっと息苦しい。自分までもが穴の底に閉じ込められた気分になる。

 ふだんまるで意識することないけど、改めて考えると砂っておそろしい。

 子どもの頃、こわかった生き物がみっつある。ひとつはハエトリグサ。アニメ『みなしごハッチ』で、ハッチがハエトリグサにつかまって少しずつ溶かされてゆくシーンが忘れられない。
 それからタガメ。図鑑に「メダカやオタマジャクシにつかまり、生きたまま体液を吸います」と書いていてふるえあがった。
 そしてもうひとつがアリジゴク(あとまんが日本昔話で見た「影ワニ」もこわかったが、これは架空の生き物なので除外)。

 アリジゴク。
 全虫好き小学生のあこがれの昆虫だろう。成虫とは似ても似つかないが、ウスバカゲロウの幼虫である。
 名前は有名だが、意外と目にする機会は少ないのではないだろうか。虫好き少年だったぼくも一度しか見つけたことがない。

 アリジゴクは砂にすり鉢上の巣をつくる。そしてアリなどの獲物が落ちてくるのを待つ。ただひたすら待つ。アリはめったに落ちないらしく、一ヶ月以上待ち続けることがあるそうだ。非常に効率の悪い狩りだ。
 だがアリが巣に足を踏み入れたら最後。もがけばもがくほど砂はすべり、どんどん下に落ちてゆく。そして穴の底で待ち受けるアリジゴクに消化液を注入され、溶かされてしまう。ああおそろしい。
(今気づいたのだが、ぼくは「生きたまま獲物を溶かすやつ」が怖いようだ。カマキリみたいに一気に殺すやつはちっとも怖くない)


『砂の女』は、アリジゴクに落ちたアリの気分が味わえる小説だ。

 そう、この小説を読みとくキーワードのひとつはもちろん〝砂〟だが、〝虫〟も重要なワードだ。

 主人公の男は昆虫採集が趣味。砂の底に閉じ込められるきっかけも、新種のハンミョウを探しにきたことだ。
 また昆虫採集が好きなので、ことあるごとに様々な昆虫が比喩で用いられる。そして気づかされる。
 穴の底での暮らしは昆虫の暮らしと大差ない。もっと言えば、人間一般の暮らしが昆虫の暮らしとほぼ同じなのだと。

『砂の女』では固有名詞はほぼ出てこない。ラストに男の本名が明かされるが、それも大した意味はない。出てくるのは〝男〟〝女〟〝老人〟〝村人〟だけだ。昆虫一匹一匹に名前がないのと同じように。




 読んでいて、文章のすごさにうならされた。

「冗談を言うな! やつらの何処に、こんな無茶な取引きをする権利があるってんだ……さあ、言ってみろ! ……言えはしまい?……そんな権利なんてどこにもありゃしないんだ! 」
 女は目をふせ、口をつぐむ。なんてことだろう。戸口の上に、ちょっぴりのぞいている空は、もうとっくに青をとおりこし、貝殻の腹みたいにぎらついていた。仮に、義務ってやつが、人間のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証をうけなきゃならないんだ! ……人生は「そんな、ばらばらな紙片れなんかではないはずだ……ちゃんと閉じられた一冊の日記帳なのだ……最初のページなどというものは、一冊につき一ページだけで沢山である……前のページにつづかないページにまで、いちいち義理立てする必要などありはしない……例え相手が飢え死にしかかっていたところで、一々かかわり合っている暇はないのだ……畜生、水がほしい! しかし、いくら水がほしいからって、死人ぜんぶの葬式まわりをしなければならないとしたら、体がいくつあったって足りっこないじゃないか!

 はっきり言って、意味が分からない。でも、意味は分からないけど、こうつぶやいている男の気持ちは分かる。
 意味はわからないのに、心情はわかる。すごい文章だ。

 穴底に閉じ込められた男はどんどん追いつめられてゆく。
 外には出られない。穴の中の暮らしは不便きわまりない。口にも目にも砂が入り、何をしていても砂がまとわりつく。水はいつ断たれるかわからない。
 村人からの監視の目が光っている。いっしょに暮らす女は好意的ではあるが、その奥底で何を企んでいるのか判然としない。
 読んでいるだけでも気が滅入る。

 男はどんどん正気を失ってゆく。ほとんど発狂に近いぐらいに。けれども、狂人には狂人の理屈がある。その「狂人の理屈」が巧みに表現されている。すごいよ、これは。


【関連記事】

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2021年11月18日木曜日

日常の謎系ミステリ

 勤務先のビル。

 数日前から、エレベーターの横で異臭を感じるようになった。何かが腐ったようなにおいだ。

 はじめは、誰かが何かをこぼしたのかな? ぐらいにおもっていた。

 だが翌日も、その翌日も、エレベーターの横に行くと臭い。

 フロアは毎日掃除のおばちゃんがモップがけをしている。何かをこぼしたとしても、翌日までにおいが残っているのはおかしい。


 ところでこのビル、ずいぶん古くて大正時代に建てられたものらしい。当初はホテルだったそうで、空襲にも耐えぬき、今はオフィスビルになっている。

 ホテルだった名残りだろう、エレベーター横に「金庫室」という部屋がある。

 一度、気になってこっそりのぞいてみたことがある。

 もちろん今は金庫はない。かつては金庫が並んでいたであろう棚がずらっと並んでいるだけだ。何にも使われていない。狭い部屋なので使い道がないのだろう。


 異臭は、金庫室のほうから漂ってくる。

 金庫室に扉はあるが施錠されてはいない。何もない部屋だから鍵をかける必要もないのだ。

 もしや。

 ミステリ小説などを読むと、人の死体というのは時間が経つと強烈なにおいを放つものらしい。

 嗅いだことはないが、ひょっとしてこの異臭は腐乱死体によるもの?

 大正時代に建てられたホテルの金庫室……。ミステリの舞台としてはうってつけだ。なんだかわからないけど事件のにおいがする……。


 どうしよう。こっそり金庫室に入って調べてみようか。

 もし、本当に死体があったらどうしよう。気にはなるけど、死体なんか見たくないな。

 通報したり、事情を説明したりするのめんどくさいな。なんで金庫室に入ったのか訊かれても困っちゃうしな。

 第一発見者がいちばん怪しいっていうしな。ぼくが殺されたんじゃないかと疑われたらどうしよう。身の潔白を証明できるだろうか。

 冤罪事件の本を読んだことあるけど、警察の取り調べってむちゃくちゃらしいからな。犯人でない人でも自白させるっていうし。


……と逡巡していたら、ふと金庫室の前に置かれた観葉植物の鉢が目に入った。

 鼻を近づけてみる。

 くさい。

 まちがいない、異臭の発生源はここだ。

 何かが腐ったようなにおいの原因は、観葉植物の肥料だ。



 真相なんてこんなもんね。


2021年11月17日水曜日

いちぶんがく その9

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「なんで、途中で殺すの」

(「新潮45」編集部編『凶悪 〜ある死刑囚の告発〜 』より)




何年かぶりにあげた悲鳴をひじきに捧げる。

(川嶋 佳子(シソンヌじろう)『甘いお酒でうがい』より)




ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。

(小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』より)




気持ち悪いことである。

(小谷野 敦『本当に偉いのか』より)




「わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」

(伊藤計劃『ハーモニー』より)




誓って言うが、女性のお尻をつねったのは、後にも先にもそのときだけである。

(H・F・セイント『透明人間の告白』より)




要するに「何かを撮る」という行為は、「何かを消してしまう」行為と同じことなのだ。

(森 達也『たったひとつの「真実」なんてない』より)




自分でいうのもなんだが、僕はアジアのためになるようなことはなにひとつしていない。

(下川 裕治『歩くアジア』より)




それとも全然知らない人の鼻をつまんでしまったとか?

(今村 夏子『むらさきのスカートの女』より)




「女の子に嫌われると、先生みたいに寂しい男になっちゃうぞ」

(井上 真偽『ベーシックインカム』より)




 その他のいちぶんがく


2021年11月16日火曜日

八歳と二歳との平日夜

  平日夜の過ごし方。

 オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。



 

 家に帰ると、たまーに子どもが玄関まで迎えにきてくれる。でもほとんど迎えに来ない。

 長女は漫画を読んだりパズルをしたりしている。次女はテレビで『いないいないばあっ!』か『ミッフィーとおともだち』の録画を観ている。
 ちょっと寂しい。

 資源ごみや古紙回収の日は、マンションの集積所までごみを持っていく。
 玄関で「ごみ出しにいくけど行く人ー!」と言うと、二回に一回ぐらいは娘たちのどちらかまたは両方がついてくる。ごみを出しにいくだけなんだけど。ついてきてくれるとうれしい。

 ちょっとごみを出しに行くだけでも、長女はマスクをする。何も言われなくても「外出時はマスク」が「外出するときは靴を履く」と同じくらいあたりまえになっているのだ。ちょっとあわれな気もする。ナウシカが腐海に行くときはあたりまえのようにマスクをつけるようなもので、「マスクをつけずに外出できたことなんて今の子どもたちは知らないんだな……」という気になる。八歳なんで知らないわけじゃないのだが(しかし二歳のほうは「外出時にはマスクをつけるもの」とおもっている可能性が高い)。

 夕食はテレビを観ながら。妻が「ごはんのときはテレビを消してほしい」と言っていたのだが(そして子どもが赤ちゃんのときは守られていたのだが)いつのまにかなしくずし的に視聴があたりまえになっている。

 ぼくは「食事しながらテレビを観たい派」だ。なぜなら「観たい番組がある」「でもテレビ視聴に専念するのは苦痛」からだ。
 要するに「ながら見」をしたいのだが、テレビを観ながらできることはかぎられている。
 うちはキッチンに向かうとテレビに背を向けることになるので、料理や洗い物をしながらテレビを観ることができない。
 読書のような頭を使うことをしながらテレビを観ることはできない。
 結局、アイロンをかけているときか食事時ぐらいしかないのだ。だから食事時はテレビを観る。

 とはいえチャンネル権は長女が握ることが多い。
 録画しておいた『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』や『名探偵コナン』を観ながら食べることが多い。あとAmazon Primeの『名探偵コナン』『ODD TAXI』『かげきしょうじょ!』などのアニメも観ていた。

 ぼくが好きな『座王』は土曜日の朝に観る。『水曜日のダウンタウン』は妻から食事時に観ることを禁じられている。すごく下品な内容のときがあるからだ。だから土曜か日曜の朝にアイロンをかけながら観る。

 ぼくが好きな『ダーウィンが来た』は夕食時に観る。『ブラタモリ』は長女が「つまんない」と言うので、『昆虫すごいぜ』はやはり長女が「虫嫌い!」と言うのでなかなか観る機会がない。

 あと長女はたまに特番でやる『逃走中』と『はじめてのおつかい』が大好きだ。
『はじめてのおつかい』なんて親にならないと良さがわからないんじゃないかとおもうのだが、長女は食い入るように観ている。あとバラエティー番組に関心を示さない二歳の次女も『はじめてのおつかい』だけはじっと観ている。自分と歳の変わらない子が奮闘しているのを見るとなにかしら感じ入るところがあるのだろう。

 食後は子どもたちの歯を磨く。今ではふたりともなかなかやらない。ぼくもめんどくさい。自分の歯を磨くのでも面倒なのにさらに二人分の歯を磨くなんて。さっさと片付けようとガシガシ磨くと「痛い!」と言われるので、一本一本丁寧に磨く。ああめんどくさい。歯科医にならなくてよかった。

 風呂を沸かし、娘二人といっしょに入る。次女の頭と身体を洗ってやる。頭にお湯をかけられると嫌がる。長女が小さいときはなるべく顔にお湯がかからないようにそうっとやっていたけど、次女のときはそんなことは気にせずバッシャーとかける。どんどん育児が適当になっていることをこういうときにも実感する。おかげで次女のほうがたくましく育っている。

 湯船に漬かり、長女の宿題を手伝う。「足し算や引き算をおうちの人に聞いてもらう」という宿題が毎日出るのだ。ぼくが問題を出し、長女が答える。はじめは「8+5は?」「9+6は?」とかやってたのだが、問題を考えるのもたいへんだし、自分が出した問題をおぼえておかなくてはならない(しかも次女の相手をしながら)。だから最近は「0から6ずつ足していって」とか「70から7ずつ引いていって」とかやってる。これなら問題を考えなくていいし、途中を聞いてなくて指定した数の倍数かどうかを確かめればわかるので楽ちんだ。おまけにまだ習っていない九九の練習にもなる。ナイスアイディアだ。

 風呂から出て、次女の身体を拭いてやる。次女の中でタスクの役割があって、身体を拭くのはおとうさんで、保湿クリームを塗ったりパジャマを着せたりするのはおかあさんだ。だから裸でおかあさんのもとへ走っていく。

 二歳児が裸でうろうろしているのはいいとして、八歳児も裸で歩きまわることがある。一応女の子なので裸を人前にさらしてはいけないんだよと教えなきゃいけないのだが(男の子でもだけど)これがなかなかむずかしい。「小さい女の子の裸を見たがる変な人がいるんだよ」とか教えたほうがいいんだろうか。せちがらいけど、いつかは知らなきゃいけないことだもんな。まだ教えてない。

 風呂から上がると、娘たちといっしょにようかい体操第一をする。うちの家では今になってようかい体操が流行っているのだ。八年ぐらい遅い。
 ようかい体操は、意外とちゃんとした体操になっている。ラジオ体操と同じくらいの身体のあちこちが動く。やるじゃないか。さすが振り付け・ラッキィ池田。

 早く布団に入れたときは、娘たちに本を読んでやる。五歳半離れていると、なかなか同じ本では楽しめない。

 長女は、『ドラえもん』を一通り読み、『21エモン』と『パーマン』も全巻読み、今は『モジャ公』を読んでいる。藤子・F・不二雄制覇も近い。

 次女のお気に入りは『ノンタン』『こぐまちゃん』『ワニワニ』などのシリーズだ。定番。おなじみのキャラクターが出てくる絵本が好きなようだ。

 絵本を読みおわると灯りを消す。ぼくの左が長女、右が次女。

 長女はぼくと手をつなぎたがる。手をつないでやると三分ぐらいで寝る。とんでもなく寝つきがいい(寝起きは悪い)。
 ぼくがトイレに行って、帰ってきたらもう寝ていることもある。手をつなぐ間もない。

 次女は保育園でお昼寝をしているのでなかなか寝ない。ときどき「お話して」と言ってくるので、今日の出来事(朝起きてバナナとヨーグルトを食べて……という日記のような内容)を話してやる。でもぜんぜん寝ない。
 しかし次女は自立心が強いのでほうっておいても平気だ。真っ暗な部屋で家族みんなが寝ていてもひとりで何かしゃべっている。ぼくは電子書籍を読む。気づくと次女も寝ている。ぼくも寝る。


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