2016年1月20日水曜日

【エッセイ】文明人だもの


よく、落ちた食べ物を拾って食べる。
さすがに砂利の上に落ちたソフトクリームは食べないけど、自宅の床に落ちたバーニャ・カウダぐらいだったら迷いなく拾って口に入れる(おっしゃれー!)。

育ちがいいので
「おぼっちゃま、食べ物を粗末にしてはいけませんよ」と言われて育った。
だから落ちた物も食べるし、もちろんヨーグルトのふたもべろんべろんなめる。

その点、妻は教育を受けずに育ったのか知らないが、落ちたものは決して口にしようとはしない。
それだけなら
「あら、落ちたものを捨てるなんてどこの蛮族出身なのかしら? バルバロス? それとも匈奴?」
で済む話だ。

でも、あろうことか彼女は、食べ物を粗末にしない夫を尊敬するどころか、むしろ蔑んでいるようなのだ。
あまつさえ、
「子どもが将来真似するからやめて」
と説教まで垂れる(しかもこの言葉からわかるように彼女は子どもの心配をしているだけで、夫の健康状態には露ほどの関心もない)。
粗野な人間が、徳の高い人間をこばかにする。
こんなことが許されていいものか。
水が低きから高みへと流れてよいはずがない!

妻はどうも勘違いをしているらしい。
夫は汚い食べ物のほうが好きだと思っているようなのだ。
その証拠に彼女は、調理中にうっかり落としてしまったおかずや焦がしてしまった食材は、必ず夫の皿に盛る。

勘違いしないでくれ。

ぼくだってべつに、落ちたものが好きなわけじゃない。
落ちたご飯と落ちていないご飯だったら、だんぜん落ちていないご飯派だ。
ぼくは拾い食いをするのは、ただマナーとしてのことだ。
サラリーマンだからネクタイをするけど、べつにネクタイを愛しているわけじゃない。
世間が許すなら、ネクタイだってズボンだってとっくに脱ぎ捨てている!

だけど。
ぼくはそれをしない。
だって19歳ぐらいからぼくは文明人として生きているんだもの!
だから窮屈でもネクタイをするし、
暑くても外出時はズボンを履くし、
落とした食べ物はちゃんと食べる。
文明人はじめました!



ということを滔々と妻に語ったところ、
「落とさないようにするという選択肢はないの?」
と云われた。

うっ……。
それは……。
ま、本を読みながらご飯食べてたら、そりゃあ落とすことだってあるさ。

文明人だもの。

2016年1月19日火曜日

【エッセイ】歩かざるもの靴買うべからず


男女数人で食事をした後、友人(男)が「靴を買いたい」というので、みんなで靴屋に行った。

その友人は棚をざっと見て、靴を探しだし、試し履きをして、サイズがあわなかったのでワンサイズ大きいのを選び、ちょうど足にあったのでそれを持ってレジへと進んだ。

「えっ、もう買うの!?」
ひとりの友人(女)が驚いた声を出した。

男「いや、買うけど……。なんか問題ある?」

女「でもまだ店に入ってから3分くらいしかたってないよ」

男「試し履きしたよ。3分見たら十分だろ」

女「うそ。あたしが靴を買うときは、まずゆっくり店内を一周する。で、気になった靴は片っぱしから履かせてもらう。少なくとも10足は履くかな。履いて鏡を見たりもするし、やっぱりさっきのやつのほうがよかったかなって思って履きなおしたりもする。だから1時間は店にいるよ」

男「まじか。靴買うだけでそんなに時間かけんの!?」

女「ううん。1時間見ても、結局買わずに店を出ることのほうが多い」

男「えー。たかが靴で……。いくら毎日履くものとはいえ……」

女「毎日なんか履かないよ! だっていろんな靴履きたいじゃない。今履いてるこの靴も、年に数回しか履かない」

男「信じられん……」


2016年1月18日月曜日

【考察】自己啓発書を数学的に否定する

トーマス・エジソンは
「私は一度も失敗したことがない。“灯りがつかない”という発見を2万回しただけだ」
と言ったそうだ。

これはなかなかしゃれた言い訳でおもしろいが、この言葉が“ビジネスマン”の口から出た途端に驚くほどつまらない教訓になるから不思議だ。

ビジネス書や自己啓発本を執筆しちゃうような“ビジネスマン”というのは、控えめに言っても99%の人間は論理学の“ろ”の字も知らないおばかさんだから、
「成功者はみな過去の失敗から学んでいる」ことを以てして
「失敗から学んだ人はみな成功する」と思いこんでいる。
これは言うまでもなく、論理の誤りだ。
成功者は全員おならをするけれど、おならをしたら成功するわけではない。



ぼくはのどが弱いので自己啓発本を極力読まないようにしているが(なぜなら反吐が出てのどに悪いから)、自称“成功者”の書いた本にはこの手の論理の誤りが非常に多い。
今から、成功者が書いた自己啓発本を読むことが自身の成功の役に立たないことを【数学的に】証明しよう。

ビジネス書を読む人の動機は「成功したい」だ。
だから「Xをする人は必ず成功する」という「X」を見つけるために、成功者の書いたビジネス書を読む。
だがよくよく考えていただきたい。

たとえば「早起きをするならば、成功する」
これを命題Aとする。
命題Aの真偽を明らかにするためには、
「早起きをして成功した人」をどれだけ見つけてきてもまったく無意味である。
たとえすべての成功者が早起きをしていたとしても「早起きをするならば成功する」とは言えない(先ほどのおならの例でわかるように)。その裏には、早起きしたけど成功しなかった人が隠れているかもしれないからだ。

命題Aが真であることを示すためには、命題Aの対偶である 「成功しないのは早起きしなかったから」 ということを示さなければならない。そのためにはすべての“成功しなかった人”を観察して、成功しなかった原因を突き止める必要がある(1)。
逆に、反証である「早起きをしたけれど成功しなかった」人をひとりでも見つけることができれば、命題Aは偽であるとわかる(2)。
(1)(2)いずれも、成功しなかった人を観察しなければわからない。
つまり、成功しなかった人を観察することによってしか成功の秘訣は導きだせない。

よって、成功した人の話を読むことが成功につながるというのは誤りである。
(証明終わり)

2016年1月17日日曜日

【読書感想】岸本 佐知子『気になる部分』

内容(「BOOK」データベース)
眠れぬ夜の「ひとり尻取り」、満員電車のキテレツさん達、屈辱の幼稚園時代―ヘンでせつない日常を強烈なユーモアとはじける言語センスで綴った、名翻訳家による抱腹絶倒のエッセイ集。待望のUブックス化。

思うに、おもしろい小説を書く才能とエッセイを書く才能はべつなのだろう。
小説家やエッセイストの書くエッセイは総じておもしろくない。林真理子やよしもとばななのエッセイなんか、銀行に置いてある投資信託のパンフレットぐらいおもしろくない。
型にはまっている、という感じなのだ。エッセイとはこうあるものだ、という様式があって、きっちり起承転結をつくっている。読んでいて、このへんに着地するだろうな、というところに着地する。

おもしろいエッセイを書く人は、たいてい物書き以外の職業に就いている人だ。
東海林さだお(漫画家)、鹿島茂(フランス文学者)、土屋賢二(哲学者)、米原万里(通訳)、穂村弘(歌人)、加藤はいね(看護師)……。
みんな自分の文体を持っているが、どれも小説の文脈からは逸脱している。だからこそ読み手に驚きと興奮を与えてくれる。

そんな「本業じゃないけどおもしろいエッセイを書く人」のひとりが岸本佐知子だ。元OLで、本職は翻訳家。
ぼくが、今いちばんおもしろいと思うエッセイを書く人だ。
彼女のエッセイは、正気と狂気のすれすれを走っている。たとえば次の文章。
 しかし、何といっても一番おそろしいのはゴキブリだ。黒光りするボディがこわい。長い触覚がこわい。毛の生えたたくましい脚がこわい。素早い走りがこわい。飛ぶからなおのことこわい。裏返したときのおなかの横縞がこわい。わしづかみにして手の中にゆるく握ったときの、じたばたと手のひらを蹴る感触がこわい。噛むと口いっぱいに広がる、ちょっと苦い味もいやだ。

(『気になる部分』「オオカミなんかこわくない」より)
よくある題材だと思っていたら、急にこの展開。市内巡回バスに乗っていたと思ったらいきなり時速200キロで走りだして急カーブを切られたような感覚。ぜったい振り落とされるわ。

読者にどう思われるかなんてまるで考えていないかのよう(もちろん実際は考えているのだろうけど)。
本業じゃない人のエッセイの強みはここにある。
「これ書いて二度と執筆の依頼がこなくなってもいいや。本業があるし」
という姿勢が、エッセイに説得力を与えてくれるのかもしれない。

いやほんとすごいよ岸本佐知子。


2016年1月16日土曜日

【エッセイ】プリン・スクロール・ロック

スマホにプリン落としたらぜんぜんスクロールできなくなった。
ティッシュで拭いてもだめ。

なにこれ。
2年近く使ってるけど、こんな機能(プリン・スクロール・ロック機能)があるなんてぜんぜん知らなかったよ。
ドコモショップのおねいさんも教えてくれなかったよ。