2024年7月30日火曜日

【読書感想文】宮崎 伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 ~こうして私は職業的な「死」を迎えた~』 / 契約は大事

出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記

こうして私は職業的な「死」を迎えた

宮崎 伸治

内容(e-honより)
30代のころの私は、次から次へと執筆・翻訳の依頼が舞い込み、1年365日フル稼働が当たり前だった。その結果、30代の10年間で50冊ほどの単行本を出すに至った。が、そんな私もふと気がついてみれば、最後に本を出してから8年以上も経っていた。―なぜか? 私が出版業界から足を洗うまでの全軌跡をご紹介しよう。出版界の暗部に斬りこむ天国と地獄のドキュメント。

 出版翻訳家として数多くの洋書を翻訳してきた著者が、その翻訳家人生においてまきこまれた数多くのトラブル、訴訟、そしてなぜ翻訳家をやめて警備員の仕事に就くことになったのか、が書かれた半生記。



 読めば読むほど、ひどい編集者が多いな、とおもう。もちろんまともな編集者のことを書いてもおもしろくないのでひどい人のことしか書いてないわけだけど。

「で、この本、分厚い本だけど全部訳してもらえる? 訳文を見てから、いいところだけをこちらで抜粋させてもらうから」
 分厚い本を全部訳すというのは翻訳家にとっては重労働である。逆に訳す箇所が少なければ少ないほど翻訳家の負担は軽くなる。そこで私はアメリカ滞在歴4年だという彼女に恐る恐るこう提案してみた。
「英語の段階で抜粋してもらうってこと、できないでしょうか」
「それは無理。だって私、英語読めないもん。アメリカから帰ってから英語の勉強しなきゃって、やっと最近英語の勉強始めたってくらいだもん」
 彼女の半分しか英語圏に住んでいないのに英語が読めるだけでなく翻訳もできる私に多少なりともリスペクトは払ってくれているのかなぁ、なんて思いながらも私はこう提案した。
「じゃあ、どんな内容かがわかるようにラフな翻訳をしますので、ラフな翻訳の段階で抜粋してもらうってことできませんかね」
 私が翻訳するとき、まずは辞書も引かずにさささっとラフに翻訳する。これに費やすエネルギーは商品としての訳文に仕上げるまでの全エネルギーの3分の1である。その後ラフな訳文を4回から5回推敲して商品として仕上げる。内容だけがわかればよいのであれば、さささっと訳したラフな翻訳の段階で判断してもらえれば、私が費やす時間とエネルギーが3分の1で済むのだ。
 しかし彼女は無情にもこう返してきた。
「やっぱ、ラフな翻訳だったら、その作品の良さってわからないじゃない。ちゃんと全部訳してよ。いいでしょ」
 そう言われてしまっては反抗できない。駆け出しの翻訳家の私は反抗する術など持ち合わせてはいない。
「わかりました。全部きちんと訳します」

 こういうエピソードをもとに「翻訳家に対する扱いがひどい」と著者は書いているが、それはちがうぞと読んでいていいたくなる。翻訳家に対する扱いがひどいんじゃない、こういう編集者は他人に対する扱いがひどいのだ。

 たぶんこの編集者は、作家(大物を除く)に対しても、イラストレーターに対しても、印刷会社に対しても、部下に対してもこういう態度をとっている。他人の時間や労力を大事にしないやつというのは編集者にかぎらずどこの世界にもいる。「これやっといて」と言いながらできあがったものをチェックすらしないような人間が。

 それなりの期間社会人をやっていると必ずこういう人間に出会う。そして、ちょっとしゃべったらだいたいわかるようになる。あーこいつに対して誠実な仕事をしても無駄だな、と。だから自分の仕事や精神の安寧を守るために、この手の「他人の時間を屁とも思ってない人間」から依頼された仕事は、やっつけ仕事でまにあわせる、もっともらしい理由をつけて断る(こういうやつは権力に弱いからもっと偉い人の名前を出すとすんなり断れる)、とりあえず放置してみる(どうせ依頼したことすらおぼえてないことが多いんだから)、などの対応をするのが社会人の処世術だ。

 だから編集者も悪いんだけど、「わかりました。全部きちんと訳します」と言っちゃった著者のミスでもあるよな。


 ぼくも仕事でいろんな人と付き合ってきたけど、自分が言ったことを忘れてるやつ(または忘れたふりをしてるやつ)は、確実にその後も自分の言ったことを翻す。だからそういうやつに対して、重要なことを口約束で決めてはいけない。



「本を出版するので翻訳をしてくれ」と依頼してきたのに、いっこうに本を出さず、ついに出版をとりやめることにしたと通知してきた出版社に対して裁判を起こしたときの話。

 その後、慰謝料の額についての攻防が延々と続いたが、1年のやりとりを経てそれなりの金額を支払わせることができた。表紙も作り直させた上で慰謝料もそれなりに支払わせたのであるから、完全勝利といっていいだろう。原著者にお灸をすえた形で決着がついた。これでいいのだ。いや、こうでなくてはならないのだ。
 ただ経済的な側面を見てみれば、受け取った慰謝料よりも弁護士費用のほうが高くなり、トータルとしては持ち出しになってしまった。その額約70万円。でも後悔はなかった。世直しという「仕事」を完遂するには時に身銭を切ることも必要なのだ。これでこの原著者の被害にあう出版翻訳家がいなくなるのだったら高くはない。

 裁判では著者の言い分がほぼ認められ、勝利。それでも慰謝料から裁判費用を引くと70万円の赤字。これは金銭的な赤字だけなので、時間や労力やすり減らした精神を加えると損失はさらに大きくなる。

 これなら、ほとんどの翻訳者は少々の無茶を押しつけられても泣き寝入りするしかないよな……。だからこそ出版社も、翻訳後に「やっぱり印税率を下げてくれない?」なんて無理を押しつけようとしてくるんだろうけど。



 ただ。いろんなひどい出版社、ひどい著者の話を読んでいると
「これ著者のほうも悪いんじゃない?」と言いたくなる。

 著者自身も「あとがき」で書いているんだけど……。

 出版社と翻訳家でトラブルが生じる最大の原因は、仕事を開始する前に出版契約書を交わさないことと言えよう。鈴木主税氏もトラブルに関して「どうしてこんなことが起こるのか。それはどうやって防いだらいいのか。答は簡単だし、それは出版関係者の誰もが知っていることです。出版社という法人企業から依頼されて仕事をするとき、かならず契約書を交わすことが答です」(『職業としての翻訳』)と述べている。出版契約時にお互いがざっくばらんに思っていることを口に出し、それで合意できそうならその時点ですべてのことを盛り込んだ出版契約書を交わす。これを実践すればトラブルは激減するだろう。

 これに尽きるよね。

 書面で契約書を結ばずに仕事を引き受けて、後から不合理な条件を押しつけられて「ひどい目に遭った!」と騒いでいる。新人の頃ならまだしも、ある程度痛い目に遭った後なら契約書を締結しようとおもうのがふつうだろう。

 もちろん、慣例的に契約書をとりかわさないことが多い業界であれば言いづらいんだろうけどさ。でも契約書も交わさずなかったら、「契約書を結ばなかったんだから約束を破られてもしかたないよ」と言われてもしかたないのがビジネスをする上での常識だ。言いづらくても言わなくちゃいけない。

 ちゃんとした契約を結ばずに痛い目に遭ってはそのたびに傷ついている著者もピュアすぎるというか甘すぎるというか……。



 この本に出てくる出版社や編集者は仮名にしているが、読む人が読めばどこの誰かわかるだろう。出版翻訳家をやめることを決意した人にしか書けない内容だ。

 これを読むとずいぶんひどい業界だとおもうが、本は年々売れなくなっていて、自動翻訳のレベルが向上していることもあって、翻訳家の需要は今後さらに減っていくことだろう。

 ということはもっともっとひどい条件で働かされることになるのも十二分に予想されることで……。

 出版翻訳家なんてなるんじゃないかもね、やっぱり。なるんならフリーじゃなくて企業に属すほうがいいね。


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2024年7月29日月曜日

教科の大罪

  

図工:彫刻刀を人に向ける

家庭科:裁ちばさみで紙を切る

理科:沸騰石を入れない

音楽:リコーダーをおもいきり吹く

体育:柔軟体操をせずに全力疾走

国語:「みんなで声を出して読む」ときに周囲を待たずにすらすら読む

算数:0で割る


2024年7月25日木曜日

小ネタ21 (アンパンマンの出自 / 折りたたみ傘じゃない傘)

出自

 アンパンマンを毎週観ている人には常識だろうが、アンパンマンとカレーパンマンは同族ではない。というかあのアニメに出てくるキャラクターの中で、アンパンマンだけが他と違う。

 カレーパンマンも、しょくぱんまんも、天丼マンも、アンニンちゃんも、鉄火のマキちゃんも、自分の顔を人に食べさせたりしない。それぞれ自分の名前のついた料理をつくってふるまうだけだ。

 そしてもうひとつ異なる点は、しょくぱんまんはことあるごとに「しょくぱんのように美しい」と言い、てんどんまんとカツドンマンは天丼とかつ丼のどっちがおいしいかで喧嘩をしたりするのだが、アンパンマンが「アンパンがいちばんおいしいよ!」などと言っているのを聞いたことがない。アンパンマンはべつにアンパンに誇りを持っているわけではない。

 これは出自に由来する。アンパンマンはジャムおじさんがつくったアンパンに「いのちの星」が入ったことで誕生した。つまり、アンパンマンはアンパンそのものである。

 だが他のやつらはそうではない。あの世界において、しょくぱんまんは、食パンみたいな顔をした“人”である。天丼マンもアンニンちゃんも鉄火のマキちゃんも“人”だ。アンパンマンだけが食品なのだ。


 保育園で、娘のいる5~6歳児クラスが自画像を描いていた。20人ぐらいの絵を見たのだが、誰も鼻を描いていなかった。それぐらいの年齢の子は鼻を描かないのだろうか。だとしたら何歳から鼻を描くようになるのだろう。

 娘に「誰も鼻描いてないな」と言ったら「かいてるけどはだいろやからわかりにくいだけ!」と言われた。なるほど。


レトロニム

 新しい種類が誕生したことでもともとあった概念に新たにつけられた名前を「レトロニム」と呼ぶ。携帯電話ができたことでそれまで単に「電話」と呼ばれていたものが「固定電話」になったり、デジカメが誕生したことで「カメラ」が「フィルムカメラ」と呼ばれたりするようなものだ。

 ふと、「折りたたみ傘じゃない傘」を指すレトロニムがないな、と気づいた。

 日傘との区別をつけるためにそれまで「傘」だったものが「雨傘」と呼ばれるようになった。だが「折りたたみ傘じゃない傘」のことはなんと呼べばいいのだろう。「折りたたみ傘じゃない傘」と呼ぶしかない。

 さらにまぎらわしいのは「折りたたみ傘じゃない傘」もたためるということだ。折りこそしないが、たためてしまう。


 ……とここまで書いたところで調べてみると、「折りたたみ傘じゃない傘」を指す言葉はちゃんとあった。「長傘」というそうだ。聞いたことねえ!



2024年7月24日水曜日

【読書感想文】大前 粟生『おもろい以外いらんねん』 / 漫才は漫才でしか表現できない

おもろい以外いらんねん

大前 粟生

内容(e-honより)
お笑いコンビを組んだタッキーとユウキ、芸人にならなかった俺。おれらであることが楽しくて苦しい、3人組の10年間。時代の最先端を走る芸人青春小説の金字塔。


 常にクラスの中心でみんなを笑わせている滝場から、高校の文化祭でいっしょに漫才をしようと誘われた〝俺〟。ところが転校生のユウキも滝場と漫才をするという。〝俺〟と滝場、ユウキと滝場、二組のコンビが文化祭に向けて公園で漫才の練習をする。だが〝俺〟は漫才をやめると言ってしまい、この決断がその後の人生にも大きく影響を与える……。


 他人との関わりよりも笑いを優先させてしまうユウキ、周囲からの期待には応えるが自分自身の中にあるものは発信しようとしないからっぽの滝場、漫才をやめた後も複雑な想いで遠くからふたりの漫才を追いかけつづける俺、それぞれのやりかたで漫才に身を捧げる男たちの青春生活。



 題材はわりと好きだったんだけどな。漫才を好きだからこそ漫才ができないという悩みもわりと普遍的なものだし。

 ただ、いろんな点で読みづらい小説だった。


 まず、人称が定まらない。たぶんこれはあえてやっているのだろうが、一人称で書かれた小説なのに、書き手がシームレスに入れ替わる。ずっと〝俺〟(咲太)の視点で書かれていたのに、途中で急に〝ボク〟(ユウキ)視点になる。実験的にやっているのかもしれないが、小説の決まりを破っているのでとにかく気持ち悪い。筒井康隆みたいに約束事の破壊を狙ってやっているのならいいんだけど、それにしてはストーリーに重きが置かれている。人称の崩れがただただストーリーの進行を邪魔している。


 そして、あたりまえなのだが、漫才を小説で読んでもまったくおもしろくない。この作品に限った話ではなく、ある芸能をべつの芸能でダイレクトに表現しようとすると失敗する。

 あたりまえだ。漫才を漫才よりもおもしろく表現できてしまったら、漫才は小説よりもはるかに下の二流の芸能ということになってしまう。それができないから漫才師は漫才で表現するのだ。

 だから小説で漫才を書くのはいいけど、ネタの中身は書かない方がいい。書いても読んでいる方は笑えないし、笑えなければ「ぜんぜんおもしろくない漫才に命を懸けている人たち」の話になってしまう。

 正直ぼくは、主人公たちが最初にやる漫才を読んだとき、あまりにつまらなかったので「あーこれははじめて書いたネタだからぜんぜんおもしろくないっていう話の流れね」とおもっていたら、登場人物たちが手応えを感じていたので「えっ、物語の中ではこれがおもしろいっていう扱いになるんかい」と肩透かしを食らった。

 又吉 直樹『火花』は漫才をテーマにした小説として成功したが、ネタの中身はほとんど書かれていない。やはり漫才は漫才でしか表現できないことを、プロの芸人は知っているのだ。

 漫才のおもしろさなんて小説で読んでも五パーセントも伝わらない。純情な感情はからまわり。伝わらないから漫才師は漫才をするんだよ。



 漫才そのものではなく、それに向き合う上での心情について書かれた箇所はおもしろかったけどね。

 勢いよくからだを起こし、髪を掻き上げながら滝場がいって、汗が俺の頬に飛び散った。ネタ合わせを続けていると、言葉が台本のものじゃなくて俺自身から出てきているように感じることがあった。そういうときは滝場も調子がよかった。呼吸が合うってこういうことなんかと思った。でもそれはやっぱり、ふだんの俺らと、ネタをしている俺らの関係の区別がついていない状態だった。その人間味がときにきつい。俺は練習をするほどに不安と楽しさを同時に感じていた。


 漫才の用語で人(ニン)という言葉がある。たぶん元は落語とかの言葉なんだろうけど。

 人柄、個性、というような意味だ。ただネタがおもしろいだけでなく、その人がやるからおもしろい、他の人がやってもだめだ、そういう漫才を「ニンが乗っている」と言ったりするらしい。

 じっさい、人柄が表れている漫才はおもしろい。テレビで観る漫才はたいてい有名な芸人がやっていて、ほとんどの人はその芸人の漫才以外の姿も知っている。天然ボケ、怒りっぽい、金に汚い、突拍子もないことをいう、育ちが悪い……。もちろんそれはあくまで人前に見せるキャラクターでしかないけど、とにかくそのキャラクターが投影されている漫才はおもしろい。すんなり漫才の世界に入れるし、意外性も表現しやすい。知らない人がやっている漫才よりもおなじみの人の漫才のほうが笑いやすい。

 ただ、ニンを乗せた漫才をやっていると並の人間なら精神に異常をきたしそうな気もする。自分自身を切り売りしているようなものだもんな。演じている自分と本当の自分がちがうのに、漫才での姿を常に求められ、そのうち自分自身がわからなくなってしまうんじゃないかという気もする。

 いや、べつに漫才にかぎった話ではないな。

 就職活動でも営業の仕事でもそうだが、仮面をかぶって別の自分を見せないといけない局面はある。それを難なくできる人もいれば、ものすごく疲れてしまう人もいる。ぼくは後者で、就活をしていた時期は人生においてつらかった時期のワースト3には入る。

 そんなわけだからもしぼくが中年デビューするとしたら漫才じゃなくてコントだな!


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2024年7月22日月曜日

【読書感想文】坪倉 優介『記憶喪失になったぼくが見た世界』 / 記憶は過去であり未来でもある

記憶喪失になったぼくが見た世界

坪倉 優介

内容(e-honより)
18歳の美大生が交通事故で記憶喪失になる。それは自身のことだけでなく、食べる、眠るなどの感覚さえ分からなくなるという状態だった―。そんな彼が徐々に周囲を理解し「新しい自分」を生き始め、草木染職人として独立するまでを綴った手記。感動のノンフィクション。


 バイク事故で記憶喪失になった美大生の手記。

 記憶喪失は漫画やドラマではわりと使われるものだが、漫画で描かれる「ここはどこ? 私は誰?」という固有名詞や出来事だけを失った記憶喪失とは違い、この人の場合はほとんどすべてを忘れている。

 すべてというのはほんとにすべてで、おなかがすいたらご飯を食べるとか、おなかがいっぱいになったら食べるのをやめるとか、お風呂に入るとか、お風呂が熱すぎたらぬるくするなり早めに出るなりするとか、そういう「生きていく上での最低限の知識」すら失われているのだ。赤ちゃんに戻ったようなものだ。

 周囲の人からすると、たいへんなんてもんじゃない。すべてがリセットされているのだから。韓国ドラマでよくある(韓国ドラマ観たことないけど聞くかぎりでは)、記憶をなくした素敵な異性とめぐりあって恋に落ちて……なんて美しい展開になるわけがない。だって中身は赤ちゃんなんだもん。



 ぼくが高校生のとき、クラスメイトのKが記憶喪失になった。Kはラグビー部で、試合中に頭をぶつけて記憶をなくしてしまったらしい。しばらく学校に来ず、ひさしぶりに登校する日には担任が「Kは記憶がないが無理に思いださせようとすると負担になるので、記憶を刺激するようなことは言わないように」と言った。

 Kが登校してきても、ほとんど誰も話しかけられなかった。そりゃそうだ。だって記憶を刺激せずに会話をすることなんてどうやってできるのだ? (デリカシーのないやつだけは話しかけていたが)

 Kはあまり学校に来なくなってしまった(一応卒業はした)。ぼくはKとほとんど話さなかったのでわからなかったが、彼は記憶を取り戻せたのだろうか? それとも一部を損失したまま生きていたのだろうか?



『記憶喪失になったぼくが見た世界』で書かれる手記は、読んでいて言葉を失いそうになる。

 いままで見たこともない人が、家にきて、事故まえのぼくのことを話して、かえっていく。どうしてあの人たちは、ぼくのことを知っているのだろう。
 いつも家の中にいる人にきくと「それは友だちだから」と言った。それに、友だちでも、とくべつなかがいい人のことを、親友と言うこともおしえてくれた。だとしたら、この人たちも、いつもやさしくしてくれるから親友なのだろうか。そうきくと笑って、「アルバムをもってきてやれ」と言った。
 目のまえにおかれた物の中には、うすっぺらな人がいる。動かないし、なにも話さない。
 ひとりの人がアルバムを見ながら「これが赤ちゃんだったころのゆうすけよ」と言う。でも、赤ちゃんと言われても、わからない。
 かあさんが、ぼくのまえになにかをおいた。けむりが、もやもやと出てくるの見て、すぐに中をのぞく。すると光るつぶつぶがいっぱい入っている。きれい。でもこんなきれいな物を、どうすればいいのだろう。
 じっと見ていると、かあさんが、こうしてたべるのよとおしえてくれる。なにか、すごいことがおこるような気がしてきた。だから、かあさんと同じように、ぴかぴか光るつぶつぶを、口の中へ入れた。それが舌にあたるといたい。なんだ、いったい。こんな物をどうするんだ。
 かあさんを見ると笑いながら、こうしてかみなさいと言って、口を動かす。だからぼくもまた、同じように口を動かした。動かせば動かすほど、口の中の小さなつぶつぶも動き出す。そしたら急に、口の中で「じわり」と感じるものがあった。それはすぐに、ひろがる。これはなに。

 最初は文字も書けなかったそうなので、この手記はだいぶ後になってから書いたものだろう(そのため写真というものを知らないのに「アルバム」という言葉を使いこなすような妙な記述がある)。

 なのでリアルな感覚とはちょっと違うかもしれない。数年の間に記憶が書き換わっている可能性は高い。

 でも、赤ちゃんがぼんやりとおもっているのってこういうことなんだろうな、という気もする。少なくとも大人の思考よりは赤ちゃんの感覚に近そうだ。もしも赤ちゃんの思考を言語化することができたらこういう形になるんだろう。

 白飯を食べる前に「すごいことがおこるような気がし」て、食べた後は「舌にあたるといたい」と表現し、「こんな物をどうするんだ」と感じる。きっと誰しもが経験した感覚なんだろう。

 そういえばうちの子がはじめてイチゴを食べたとき「なんだこれ」って顔をしながら口に入れ「すっぱ!」という驚きを見せ、少し遅れて「あれでもこれ甘くておいしいな」という表情に変わり、「これをもっと渡せ!」と手振りで要求してきたなあ。あのときの子どももこんな気持ちだったんだろう。



 ちょっと気になったのが、この人の文章からは異性に対する関心がまったく読み取れないこと。若い男だったらたいてい持っているであろう性欲がまったく感じられない。記憶をなくす前に友人だった女性と再会するシーンでも、まったく関心がなさそうだ(もちろんほんとは強い関心を持っていたけどとりつくろって書いてないだけ、という可能性もあるけど)。

 幼児の感覚に戻っているので性欲も消えていたのだろうか。それよりもっと世界について知りたいから女どころじゃない、という感じなのかもしれない。

 そういや以前、断食をしていた人の話を聞いたことがあるが「腹が減っていたときはずっと食べ物のことを考えていて目の前をいい女が通ってもなんともおもわなかった。飯を食ったとたんにエロい気持ちが湧いてきた」と語っていた。もっと強い欲求の前では恋だの性だのは後回しにされるんだろうな。



 この人の手記は、現実離れしすぎていていまいち共感できない。

 すごくたいへんなんだろうな、とはおもうけれど、どんなに想像してもこの人の気持ちを理解することなんてできやしないだろうなともおもう。記憶なんてあるのがあたりまえだもん。「もし小学生に戻ったら」と想像することはあっても「もし0歳児に戻ったら」とはおもわない。だってそれってもう別人になるようなものじゃないか。

 本人にはあまり共感できないが、間に差し込まれるお母さんの手記を読むと胸が痛くなる。

 息子が事故で助かったと安心したのもつかぬま、赤ちゃんに戻っているんだもの。

 記憶を失くすということは、単に過去を忘れて今を生きるということではないのです。過去を失った人間は、こんなにもろいものかと、優介を見てつくづく思いました。

とお母さんは書いている。その胸の内、想像すらできないほどつらかっただろうなあ。


 このお母さん(とお父さん)、息子が記憶がなくして、文字も書けないのに、大学に通わせたり、またバイクに乗ることを許可したりしている。

 傍から見ると「それはどう考えても早すぎるだろ」とおもってしまう。文字が書けないのに大学に行ってもつらいだけだろ、と。

 でも「なんとかして元の姿に戻ってほしい」という強い焦りがそうさせたんだろう。言ってみれば、愛する人が一度死んで、「よみがえるかもしれない」とおもえばなんだってやるような気持ちだろう。藁にでもすがりたいだろう。

 それに大学に行ったことで、記憶はそんなに戻らなかったけど新たな生きる道を見つけられたわけだから、復学させたのは結果的には正解だったんだろうな。まあ記憶喪失の人に対して何をさせるのが正解かなんて、専門の医者ですらわからないんだろうけど。

 また心は赤ちゃんに戻っても、社会的には十八歳の青年で、ずっと世話をしてやるわけにはいかないわけだもんな。心配であっても本人の自立をうながすのもまた親心かもしれない。

 自分が親になったので、自分の子が記憶喪失になったら……とあれこれ考えてしまう。


 

 記憶がないことでいろいろな不自由を強いられ、一日も早く記憶を取り戻そうともがく著者。断片的に記憶は戻るものの、事故以前の自分には戻れない。

 だが記憶を失ったものとして大学に通い、日々を過ごすうちに新たな人間関係ができ、新たな生活ができるようになってくる。そして訪れる心境の変化。

 何年か前までは、昔の自分に戻りたくて仕方がなかった。どうしたら記憶が戻るのだろうと考え、高校時代と同じ髪型にしたり、事故の前に読んだ本やマンガを読み返したりした。
 今のぼくには失くしたくないものがいっぱい増えて、過去の十八年の記憶よりも、はるかに大切なものになった。楽しかったことや、辛かったこと、笑ったことや、泣いたこと。それらすべてを含めて、あたらしい過去が愛おしい。
 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、今いる自分が失くなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。ぼくは今、この十二年間に手に入れた、あたらしい過去に励まされながら生きている。

 

 記憶をなくして困るが、記憶がよみがえってもまた困る。

 この人の場合は、性格もぜんぜん別のものになったそうだ(と周囲の人たちから言われている)。性格も記憶によってつくられているんだな。認知症になったら性格が変わるというのも聞くし。

 ということは記憶というのはほとんど自分そのものなんだよな。過去であり、それと同時に未来をつくるものでもある。


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記憶喪失に浮かれていた



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2024年7月17日水曜日

ABCお笑いグランプリ(2024年)の感想

第45回ABCお笑いグランプリ(2024.7.7)の感想。


■Aブロック

ぐろう

 相方から自転車を借りたところ、職務質問をされた。なんと自転車を貸してくれた相方が被害届を出していた……。

 というすばらしい導入の漫才。が、そこがピークで、中盤の示談金をせしめようとしてくるあたりでスケールダウンしてしまう。「何のために!?」という得体の知れなさが、金銭目的といういちばんつまらない形で処理されてしまったのが残念。

 とはいえこれまでにいくつか見たぐろうの漫才は、家村さんが一方的に持論を展開する形だったので、相方が反撃を見せるという点で進歩の兆しを感じた。


天才ピアニスト

 タクシーの車内で上司に対して遅刻の言い訳をしていたら、運転手が嘘につきあってくれる……というコント。

 審査員に指摘されていたように窮地を救ってくれた運転手への感謝が足りないし、そもそもあの状況で噓に付き合ってくれる運転手って感謝だけでなく同時に気持ち悪さも感じるだろうに、そのへんの心理描写はカットしてただ「ありがとうございます」で済ませてしまうのはちょっと平板すぎる気もする。

 しかし声帯模写の達者さに、まだこんな引き出しがあったのかと奥の深さを感じた。次々と新しい設定のコントを考えてくる竹内さんと、それを最高の形で表現するますみさん。つくづくいいコンビだとおもう。


ダウ90000

 とにかくシチュエーションが自然で鮮やか。「家飲みの最中にそのテンションに疲れてしまってベランダに出てしんみりしゃべっているシーン」をコントにできる人はそう多くないだろう。それを缶ひとつと短いやりとりだけで伝えてしまえる芝居のうまさよ。

 さらにあの短い時間で、八人の登場人物を自然に登場させてそれぞれに持ち味を発揮させ、楽しさ、滑稽さ、驚き、失恋の悲しみ、同情、それに対する感謝の気持ちと切なさなどを表現して、それでいて詰め込みすぎに感じさせない自然さ。見事なドラマを見せ、それと同時にギャグやペーソスを散りばめてしっかりコントの形に落とし込む。

 つくづく見事。完成されすぎて逆に新人賞にふさわしくないとさえ感じてしまう。それにしても、まるで祭りに参加するように楽しそうな感じで毎年参加している姿は見ていて心温まる。


金魚番長

 オーケストラをテーマにした漫才。すごく達者なのだしネタもおもしろいし腕もある。だが、どうもスタイルそのものに目新しさを感じないというか。

「ひとりが次々に不可解な行動をとり、それに対して(コント世界の)外側にいる相方がツッコミを入れることで行動の謎が解ける」というスタイルの漫才は霜降り明星以降めずらしいものではなくなり、よほどの新奇性がないと「おもしろいんだけどどこかで見たことがあるような感じ」に映ってしまう。

 とはいえまだまだ若いコンビなのでこれから自分たちの強固なスタイルを築いてくれるのだろう。


 最終決戦に進出したのはダウ90000。


Bブロック

エバース

 車を持ってないのにドライブデートをすると約束をしてしまったので、相方に車になってほしいと頼むという漫才。

 突拍子もない設定でありながら、妙にディティールが詰められていて論理と非論理のはざまを揺れ動くようなエバースらしいネタ。ルンバで進むあたりはわりとベタな発想だったが、「やっと追いついた」「陰性、ヤバっ」「陰性のルンバ車」など次々に他の追随を許さない発想が飛び出し、怒涛の盛り上がりを見せた。

 その分、前半で佐々木さんがガッチガチに緊張していて、その緊張が映ったのかコンビ両方何度か言い間違いをしてしまうミスがあったのが残念。ああいうわかりやすいミスがあると、審査に迷ったときの判断材料になっちゃうだろうねえ。


やました

 一方的にしゃべりすぎる女性が恋人から別れを切り出されるひとりコント。

 おもしろい人、達者な人とはおもいますが、いかんせんこのタイプのコントは既視感がぬぐえないな……。なぜか女性芸人ばかりなんだよな。「人の話を聞かずにずっとしゃべってる男」「しょうもないだじゃれを連発する男」はめずらしくないから、男が演じてもおかしくないのかな。


フランスピアノ

 パントマイムを題材にしたコント。軽いものを重く見せるのではなく、重いものを軽く見せるおかしさ一辺倒で進んでしまったのが残念。そもそも軽いものを重く見せるパントマイム自体がそれほどなじみがないものなんじゃないか。


青色1号

 アナウンサー採用面接を舞台にしたコント。失敗をくりかえしている応募者が自分の置かれた実況をはじめ、それに呼応するようにアナウンス部長も熱の入った実況をはじめてしまう……。

 後半にいくにつれて盛り上がる展開、ミスの許されない脚本と熱の入った演技、たまにさしこまれる解説者のようなアクセントも効いてソツのないコント。

 ただ個人的には三人とも熱量の高いコントが好きじゃないんだよね。三人ともが熱いと喧嘩みたいになっちゃう。おかしさって盛り上がった後の冷静になった瞬間に訪れるとおもっているので。


 勝ち上がりは青色1号。まあいちばん失点が少なかったもんなあ。個人的にはエバースが勝てなかったのが残念。


Cブロック


令和ロマン

 猫ノ島という怪しい島を題材にした漫才。

 M-1優勝により知名度が高くなったおかげでお客さんもすんなり世界に入ってくれる。世界に引き込む形の漫才をするこのコンビにとっては大きなアドバンテージだろう。

 話があっちこっちに行くし漫画的なぶっとんだボケが随所に入るのだが、どんなに乱暴に揺さぶっても堂々たるたたずまいを見せる松井ケムリさんのおかげで軸が揺るがないのがすごい。どんな目に遭ってもケムリはケムリでいられるもんな。


かが屋

 始業前の教室を舞台にしたコント。定期券を落とした生徒と、それを拾ってあげた友人が織りなすドタバタ。

 いやあ、良かった。これまで観たかが屋史上もっともおもしろかった。ちょっとした冗談のつもりだったのに本気で友人を怒らせてしまって傷つく生徒の気持ちも、自分の勘違いで友人にひどい言葉をぶつけてしまって悔やむも引っ込みがつかなくなって素直に謝れない生徒の気持ちも、よくわかる。切ないドラマなんだけど、優しい方言で包みこんでいるのと、「地獄の空気」というちょうど学生らしいワード、「同窓会で大スター」や「五分経ってないんや」など急に俯瞰で見るような視点の切り替えによってアクセントをつけている。

 特に「五分経ってないんや」は屈指の名セリフで、何がすごいって、絶妙のあるあるでありながら、観ている側の気持ちとぴったり一致しているところ。あの濃密なドラマが五分もかかっていないなんて。


フースーヤ

 えー、ぜんぜんおぼえてないです。フースーヤってそんなもんだからね。

 いちばんおもしろかったのは、大会オープニングのVTRでピン芸人やコント師が「ピン芸でかきまわしてやる!」「コントがいちばん強い!」みたいなコメントを言った後にフースーヤが「漫才をなめるなよ」ってコメントを出してたところ。

 誰が言うてんねん。


ぎょねこ

 円周率の暗記をテーマにしたコント。

 審査員が「知的なネタ」とコメントしていたが、そういうコメントが出るってことはそんなにおもしろくなかったってことなんだよね。個人的にはこういうロジカルなネタは好きなんだけど、台本のおもしろさだけでは勝てないよなあ。

 昔のABCグランプリでジグザグジギーが毎回勝てなかったのをおもいだした。


 勝ち上がったのは令和ロマン。うーん、かが屋が良かっただけに残念。



ファイナルステージ


令和ロマン

 実家に帰ったら、HUNTER×HUNTERのゾルディック家みたいになっていた、という漫才コント。

 一本目のネタが漫画的だったのでちがうのを観たいとおもっていたのだが、輪をかけて漫画チックだったのでなんだか萎えてしまった。

 さんざんあれこれやってきて、最後が「妹ちっちゃい」というシンプルすぎるボケだったのが妙におもしろかった。


青色1号

 三人で英語禁止ゲームをしたら、二人が異常に弱すぎてどんどん金を出してゆく……というコント。

「英語禁止ゲームすぐに英語を言っちゃう」という弱めの笑いがずっとくりかえされていたので大きな仕掛けがあるのかとおもったら、誕生日祝いというこれまた弱めの仕掛け……。

 ぐろうの「真相がわかったことで得体の知れなさがなくなってしまう」のと同じように、これも誕生日祝いであることがわかったことで一気に狂気性が薄れてしまった。


ダウ90000

 浮気相手と喫茶店にいたら、偶然彼女がやってきて、会社の同僚のふりをするコント。

 別人のふりをするドタバタコント、ってのはちょっとダウにしてはベタすぎる気もする。とはいえ「芸能人の誕生日めっちゃおぼえてる人」「仕事のできる坂下さん」など絶妙なリアリティを織り交ぜてくるあたりはさすが。

 八人がでてきて、それぞれが別人のふりをする……となるとさすがに話が混みいりすぎて、この短時間で表現するのは難しかったかな。


 ということで優勝は令和ロマン。大会当初からあった「誰が令和ロマンを倒すんだ?」の雰囲気通りの展開になったけど、最後に青色1号もダウ90000も失速しちゃったもんなあ。



 ABCお笑いグランプリの魅力は、ネタもさることながら、それ以外のトーク部分。毎年、ネタ以外の部分で大きな笑いが起きるのが特徴。審査員が笑わせてくれるし、去年の「彼は声優の専門学校に行ってました」はコント以上のコントだった。

 今年は一本目ネタ終わりのダウ「二本目はミュージカルやります」→金魚番長「ワンピース歌舞伎やります」で、エンディングでのまさかのワンピース歌舞伎。あの度胸、実行力、そして急遽用意したにしては高すぎるクオリティ。「こりゃあ金魚番長は売れるな」とおもわせてくれた。

 令和ロマン高比良さんのヒール立ち回りも大会の盛り上がりに大きく貢献していたし、やっぱり番組全体のおもしろさでいうといちばん好きな大会だなあ。


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2024年7月10日水曜日

【読書感想文】村上 春樹『スプートニクの恋人』 / 炎が弱くなった後の人生

スプートニクの恋人

村上 春樹

内容(e-honより)
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。


 村上春樹の小説を読むたびにおもう。よくわかんねえな、と。

 でも文章は魅力的だし、断片的にではあるが印象的なエピソードも挿入されていて強く記憶に残るし、なんだかわかんないけど「良さそうなものを読んだ、ような気がする」という気持ちにはなれる。でもどんな話だったのか、うまく説明できない。当分、村上春樹はいいや。

 でも数年たつと「今なら理解できるかも」という気になって、また読んでしまう。そしてやっぱり「よくわかんねえな」とおもいながらページを閉じる。

 中学生のときからずっとそれをくりかえしている。


 これは好みの問題なんだろうけど、ぼくは「解釈の余地が大きすぎるもの」が好きじゃないんだよね。絵画とかもよくわかんねえし。言いたいことがあるなら言葉ではっきり説明してくれなきゃわかんねえよ。こっちはおかあさんじゃないんだからあんたの深層意識まですくいあげようとしてあげませんよ。



 そんなわけでぼくにとって四年ぶり十作目ぐらいの村上春樹作品である『スプートニクの恋人』を読んだわけだが、これがまあザ・村上春樹。

 とにかく気取ったしゃらくさい文章の導入からはじまり、主人公はモテるための努力もしないのになぜか女に不自由せず、不思議な出来事をきっかけに旅に出て、いくつかの残酷で印象的な挿話が披露され、奇妙な体験をして、明確な解釈や結末もないままぼんやりと終わる。

 いつもの村上春樹だ。そう、ちょうど村上春樹が村上春樹であることから逃げられないように。やれやれ。


 こんなことを書くとぼくが村上春樹を小ばかにしているようだが、そんなことはない。ただ肌に合わないとおもっているだけだ。ノーベル賞の季節になると湧いて出るハルキストのことは心の底から侮蔑してるがね。



 それでもぼくが村上春樹作品を数年に一度手に取りたくなってしまうのは、断片的にではあるが気に入る描写や言い回しが見つかるからだ。


 「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」

 これこそ村上春樹の作品をよく言い表している言葉かもしれない。

 わからないものをわからないままにすtることがどんどん許されなくなっているからこそ、余計に。ほんと「わかりませんでした」が作品に対する批判だとおもっている人が多いからね。それは自分の知性の欠如か懐の狭さの吐露でしかないのにさ(もちろんぼくが村上春樹作品をわからないと書くことも同じだ)。



 今作でもっとも気に入った言い回しはこちら。

 人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。

 そうねえ。ぼくの場合は16歳~17歳頃に「人生で今がいちばん楽しい!」と唐突に気付き、「今後これを超えるような日々はきっともう来ないだろう」という諦観も同時に得てしまった。

 はたして、その後の人生において、瞬間的に楽しさや喜びを感じることはもちろんあるが、あの頃のように「何をしていても、していなくても、24時間ずっと愉しい」日々は訪れていない。

 それはそれで悪いことではなく、その〝ささやかな炎〟があるからこそ今を生きていける面もある。それに、我が子を見ると「この子たちにとって人生のピークはきっとこれから訪れるんだろう」とおもえて、これもまたわくわくさせてくれるんだよな。


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2024年7月5日金曜日

【読書感想文】田中 陽希『それでも僕は歩き続ける』 / おもしろい人のつまらない本

それでも僕は歩き続ける

田中 陽希

内容(e-honより)
本気で挑むことの大切さを伝えたい。人気テレビ番組『グレートトラバース3―日本三百名山全山人力踏破』でおなじみの著者が、旅の途中で語ったこれまでの人生とこれからのこと。驚異的な挑戦を続ける理由や、次世代をになう子どもたちへのメッセージが綴られる。幼少期から学生時代までの貴重な写真。グレートトラバース3の記録写真を収録。対象:小学生高学年以上。


『クレイジージャーニー』というテレビ番組がある。

 他の人がしないようなめずらしいことをやりつづけている人に密着するドキュメンタリーだ。世界中の危険な場所に行く人、アリが大好きでとうとうアリと関わることを職業にしてしまった人、虫を食べることに情熱を燃やす人、高い所に登りたい人、洞窟探検を続けている人……。

 いろんな“クレイジー”な人が出てくるが、中でもクレイジー度高めでぼくが好きなシリーズが「アドベンチャーレース」に挑戦する人たちの会だ。

 アドベンチャーレースとは、何日もかけて、いくつかのチェックポイントを回りながら、走ったり自転車に乗ったり泳いだりカヤックを漕いだりしてゴールを目指すという競技だ。ざっくり言うとトライアスロンのすごい版というか。

『クレイジージャーニー』ではTeam EAST WINDというアドベンチャーレースのチームを追いかけているのだが、このチームのレースのしかたがえげつない。

 まず、ほとんど寝ない。レースは一週間ほどかけておこなうのだが、まずスタートしてから五十時間ぐらいはまったく寝ない。その後は仮眠をとるが、それも一時間とか二時間とかの短時間で、一週間で合計十時間も寝ていないんじゃないだろうか。ただ寝ないだけじゃなく、その間ずっと走ったり自転車を漕いだりしているのだ。寝ていないからみんな思考力が落ちているのに、それでも走りつづける。それどころか流れの速い川を移動したり、崖を降りたり、一歩間違えれば死んでしまうような場所を移動したりもする。

 またアドベンチャーレースは女性を含む四人一組のメンバーでやっているのだが、Team EAST WINDには田中正人さんという鬼軍曹がいて、この人が(一般人の感覚でいえば)パワハラをしまくる。メンバーを寝かさないし、ちょっとでもへたばったメンバーがいたら暴言を吐く。数十時間寝ていなくてふらふらになっている人に「ビンタしたげようか?」なんてことを言う(この「したげようか?」は嫌味でもなんでもなくて、本気で優しさのつもりで言っているのだ)。とはいえアドベンチャーレースに参加する人はもともとどっかおかしい上に何日もまともに睡眠をとらないせいでますますおかしくなっているので、他のメンバーもそれを当然のこととして受け入れている。

 ハードな競技というレベルを超えて、ぼくから見たらほとんど拷問(強制されているか自主的にやっているかの違いしかない)でしかないのだが、そのクレイジーさがおもしろくて『クレイジージャーニー』のアドベンチャーレース回は毎回「ひええ」「頭おかしい」「ぜったいまちがってるって」と言いながら食い入るように見てしまう。 

 そんなTeam EAST WINDの主要メンバーである田中陽希さん(リーダーと同じ田中姓だがこれは偶然)のエッセイ集。

 


 ……ということでどんなクレイジーなことが書いてあるんだろうと期待して読んだのだが、まったくの期待外れ。

 コロナ禍の刊行、編集者がインタビューをまとめただけ、子ども向けに書かれたもの、ということでとにかく薄味でつまらない。

「何かをはじめたら最後までやりとげることが大事だとおもいます」「挑戦をすることで周りの人への感謝の気持ちが自然に湧いてきました」みたいなことが延々と書かれている。つ、つまんねえ……。


 ただのファンブックだった。

 田中陽希さんという人はクレイジージャーニー以外のドキュメンタリー番組にも出ているそうで(ぼくは知らなかったが)、その番組のファン向けに書かれた本のようだ。それも浅いファン向けというか。

 田中陽希さんの生い立ちだとか学生時代の話だとかにやたらとページを使っている。おもしろいエピソードでもあればいいんだけど、これがまた平凡な学生生活なんだ。田中さんの写真も多いし、「田中陽希さんという人間のファン」につくられた本という感じ。競技のファン向けではない。

 レースの間の様々な感情の移り変わりだとか湧いてくる妄念だとかそういうところはまったく掘り下げられていない。小学三年生の道徳の教科書に載せるのにちょうどいいレベルのうわっつらの話しか書かれていない。

 これはインタビューした人が悪いんだろうなあ。せっかくのめちゃくちゃおもしろい素材なのに、それをまったく活かしてない。最高級牛肉をハンバーグにしてカレーにしちゃうようなものだ。クレイジーな素材を大衆料理にすんじゃねえよ。


 ぼくがノンフィクションの感想文を書くときは何か所かは引用してあれこれ書くようにしてるんだけど、この本に関しては内容が薄すぎて引用したいところが一か所もなかった。

 わけのわからない活動をしている人なんだからイカれたところがあるはずなのに、そこをまったく見せず凡庸な人生訓に終始させているんだもの。

 ということで田中陽希さんのファンだけど競技には関心ない、という人以外にはおすすめしません。『クレイジージャーニー』を観ましょう。


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2024年7月4日木曜日

【読書感想文】鎌田 浩毅『富士山噴火と南海トラフ 海が揺さぶる陸のマグマ』 / 火山灰はガラス

富士山噴火と南海トラフ

海が揺さぶる陸のマグマ

鎌田 浩毅

内容(e-honより)
「3・11」以降の日本列島は、「大地変動の時代」に突入してしまった。富士山にも、火山学者たちが密かにおそれる、ある重大な「異変」が起こった可能性が高い。2030年代に高い確率で発生する、南海トラフ巨大地震の衝撃が加われば、300年間蓄積したマグマが一気に噴き出しかねない。火山学の第一人者による、渾身の予測と提言。


 タイトルの「南海トラフ」部分は、羊頭狗肉とまではいかないがちょっと釣りタイトル。南海トラフ地震のことは「近いうちに起きることが確実視されている」程度しか書かれておらず、ほぼ富士山噴火の話。

 まあ著者は火山学者なので、専門外の地震について語らないのは誠実な態度ではあるんだけど。だったらタイトルにつけるのはずるいな。そっちのほうが売れるから出版社の人がやったんだろうけど。



 富士山噴火と聞いても我々はあの雄大な富士山の姿しか見ていないからあまりぴんとこないけど、実は富士山は激しく活動している山で、わかっているだけでも過去2200年間で42回は噴火しているそうだ。平均すると50年に1回ぐらいは噴火する計算。もちろん等間隔で噴火するわけじゃないけど。

 そんなペースで噴火している富士山だから、300年噴火していない現在は「きわめてめずらしい状況」にあるわけだ。そう考えるといつ噴火してもおかしくない気がしてくる。


 富士山は大きな山だけに、そこに溜めこんでいるマグマも多く、もし噴火したら、火山灰、溶岩流、噴石、火山弾などさまざまなものを放出し、さらにそれによって火砕流や泥流といった現象を引き起こして広い範囲に被害を与えると見られている。

 たとえば火山灰にしても、ぼくなんかは「ああ桜島周辺だと風向きによっては洗濯物が干せないっていうね。火山灰が舞ったら不便だろうね」ぐらいにしかおもってなかったのだが、そんなものではないらしい。

 基本的には、火山灰はマグマから軽石を経由して大量に生産される。このようにしてできる火山灰の正体は、ガラスの破片である。 「ガラス」というと普通は、窓ガラスやガラスのコップを思い浮かべるだろう。実はガラスとは、物質がきちんとした結晶構造をもたない状態のことをいう。ガラスは結晶に比べるとずっと脆く、細かく割れると鋭い破片になるのである。
 マグマが急に冷やされて固まると、ガラスの状態になる。もしマグマが非常にゆっくりと冷えると、ガラスではなく結晶ばかりの塊になる。マグマが急冷したときだけ、ガラスになるのだ。
 つまり、噴火の際に火山灰が噴出するということは、①マグマが引きちぎられて空中へ放り出されたあと、②急速に冷えてガラスの破片になること、を意味する。そのため火山灰には、鋭い破面をもったガラスが含まれるのである。これらが肺の中に吸入されると、先に述べた珪肺という症状を起こすのである。
 さて、これで火山灰が「燃えかす」ではないことが理解していただけただろう。
 岩石の細かいかけらである火山灰は、水に溶けることもなく、いつまでも消えることがない。乾燥すれば何週間も舞いあがり、雨が降るとまるでセメントのように固まってしまう。城の壁に使われている漆喰のように硬化するのである。

 火山灰という言葉からさらさらした粉のようなものをイメージしていたのだが、その正体はガラスなのだ。細かいガラスが広範囲に撒きちらされるわけで、それはさぞかし困ったことになるだろう。

 重みもある(雨を吸えばさらに重みは増す)から屋根に積もれば家屋を壊し、排水管を詰まらせ、農作物を枯らす。さらに細かいので首都圏にまで飛んでいき、細かいので機械・コンピュータの中にまで入りこんで故障させる。

 そうなるとどこまで被害が拡大するかわからない。

 さらに「南海トラフ地震が引き金となって富士山が噴火する」という可能性も十分にあり、そうなると震災に加えて大規模な停電や通信障害も起こる可能性があり、地震被害がさらに拡大することになる。


 ふうむ。たいへんだ。そんな大惨事が数十年のうちにほぼ確実に起こるのだ。

 ただ救いなのは、噴火は地震とちがって数十日前には発生がわかること。

 わが国では活火山を所掌する気象庁と、各大学をはじめとして、国立研究開発法人である防災科学技術研究所、国土地理院、産業技術総合研究所などが約50の活火山に観測網を展開し、そこで得られたデータは気象庁によって24時間監視されている。
 そうした観測結果をもとに、われわれ地球科学を研究する者は「火山学的には富士山は100パーセント噴火する」と説明している。しかし、最初の噴火予兆である低周波地震がいつ始まるかを前もって言うことは、現代の科学技術でもまったく不可能である。
 たしかに低周波地震の発生から噴火までには数週間~1ヵ月ほどの時間を要することは予測しているが、「噴火の数週間~1ヵ月前」というスタートは、明日かもしれないし、かなり先の数年後かもしれないわけである。だが少なくとも、スタートしてから数週間~1ヵ月ほどの時間的な猶予はあるので、その間に可能なかぎり準備と対策を講じるべきだと言っているのである。
 噴火予知は地震予知と比べると、実用化に近い段階にまでは進歩してきた。しかし、一般市民が知りたい「何月何日に噴火するか」に答えることは、残念ながら現在の火山学ではできない。仮に「何月何日に噴火する」といった風評がメディアやインターネットなどで流れても、科学的根拠はまったくないので信用しないでいただきたい。

 数週間あれば避難もできるしある程度は手を打てる。

 となると、やっぱり怖いのは、同じように「ここ数十年でほぼ確実に起こる」と言われている南海トラフ地震のほう。地震も予知できるようになってほしいものだ。せめて数時間前でもいいから。


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