2024年7月10日水曜日

【読書感想文】村上 春樹『スプートニクの恋人』 / 炎が弱くなった後の人生

スプートニクの恋人

村上 春樹

内容(e-honより)
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。


 村上春樹の小説を読むたびにおもう。よくわかんねえな、と。

 でも文章は魅力的だし、断片的にではあるが印象的なエピソードも挿入されていて強く記憶に残るし、なんだかわかんないけど「良さそうなものを読んだ、ような気がする」という気持ちにはなれる。でもどんな話だったのか、うまく説明できない。当分、村上春樹はいいや。

 でも数年たつと「今なら理解できるかも」という気になって、また読んでしまう。そしてやっぱり「よくわかんねえな」とおもいながらページを閉じる。

 中学生のときからずっとそれをくりかえしている。


 これは好みの問題なんだろうけど、ぼくは「解釈の余地が大きすぎるもの」が好きじゃないんだよね。絵画とかもよくわかんねえし。言いたいことがあるなら言葉ではっきり説明してくれなきゃわかんねえよ。こっちはおかあさんじゃないんだからあんたの深層意識まですくいあげようとしてあげませんよ。



 そんなわけでぼくにとって四年ぶり十作目ぐらいの村上春樹作品である『スプートニクの恋人』を読んだわけだが、これがまあザ・村上春樹。

 とにかく気取ったしゃらくさい文章の導入からはじまり、主人公はモテるための努力もしないのになぜか女に不自由せず、不思議な出来事をきっかけに旅に出て、いくつかの残酷で印象的な挿話が披露され、奇妙な体験をして、明確な解釈や結末もないままぼんやりと終わる。

 いつもの村上春樹だ。そう、ちょうど村上春樹が村上春樹であることから逃げられないように。やれやれ。


 こんなことを書くとぼくが村上春樹を小ばかにしているようだが、そんなことはない。ただ肌に合わないとおもっているだけだ。ノーベル賞の季節になると湧いて出るハルキストのことは心の底から侮蔑してるがね。



 それでもぼくが村上春樹作品を数年に一度手に取りたくなってしまうのは、断片的にではあるが気に入る描写や言い回しが見つかるからだ。


 「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」

 これこそ村上春樹の作品をよく言い表している言葉かもしれない。

 わからないものをわからないままにすtることがどんどん許されなくなっているからこそ、余計に。ほんと「わかりませんでした」が作品に対する批判だとおもっている人が多いからね。それは自分の知性の欠如か懐の狭さの吐露でしかないのにさ(もちろんぼくが村上春樹作品をわからないと書くことも同じだ)。



 今作でもっとも気に入った言い回しはこちら。

 人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。

 そうねえ。ぼくの場合は16歳~17歳頃に「人生で今がいちばん楽しい!」と唐突に気付き、「今後これを超えるような日々はきっともう来ないだろう」という諦観も同時に得てしまった。

 はたして、その後の人生において、瞬間的に楽しさや喜びを感じることはもちろんあるが、あの頃のように「何をしていても、していなくても、24時間ずっと愉しい」日々は訪れていない。

 それはそれで悪いことではなく、その〝ささやかな炎〟があるからこそ今を生きていける面もある。それに、我が子を見ると「この子たちにとって人生のピークはきっとこれから訪れるんだろう」とおもえて、これもまたわくわくさせてくれるんだよな。


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