2024年9月17日火曜日

【読書感想文】森絵都『カラフル』 / ザ・ティーン小説

カラフル

森絵都

内容(e-honより)
生前の罪により、輪廻のサイクルから外されたぼくの魂。だが天使業界の抽選にあたり、再挑戦のチャンスを得た。自殺を図った少年、真の体にホームステイし、自分の罪を思い出さなければならないのだ。真として過ごすうち、ぼくは人の欠点や美点が見えてくるようになるのだが…。不朽の名作ついに登場。

 死んだあと、天使の世界の抽選にあたって、ある少年の身体に入って人生をやり直せることになる……というあほみたいな導入。まあこのへんはどう書いても嘘くさくなるので、このぐらいのハイテンポでさっくり片付けちゃったほうがいい。変にもっともらしい理由をつけようとするほうが見苦しい。

 

 導入がそうであったように、展開も結末もあくまでライト。悪いことは起こっても、あたりまえのように最後はすべて丸く収まる。しこりなんて残らない。生まれ変わる前の“ぼく”はどんな人間だったのかという謎もあるが、これも「そうなるだろうね」というところに結着する。

 とにかくきれいにまとまっていて、良くも悪くも“十代向け小説”だった。



『カラフル』では生まれ変わりを通していじめや身体や進路や恋愛など中学生の悩みが描かれるが、そこで描かれる悩みは「一般的に想像されるもの」の域を出ない。

 いじめも、援助交際も、進路の問題も、どこかで聞いたことのあるようなレベルの話。中学生のいじめ、と聞いて大人が想像するレベルのいじめ。

 だから読んでいて、頭を使わなくていい。想像の埒外にあるようなハードな展開は待っていないから。新聞の社会面やワイドショーで消化されるぐらいの深みしかない。読んでいて「これはいったい何が起こっているんだろう?」と頭をひねるようなポイントはない。


 とまあ、個人的には浅い小説だなという感想だったのだが、それはぼくがいろんな小説を読んできたおっさんだからであって、児童文学を卒業したばかりのローティーンには十分刺激的な内容だとおもう。

 実はこの小説、ぼくが読んだのではなく、小五の娘が読んで「おもしろかったよ」とぼくに貸してくれたのだ。

 せっかく娘が貸してくれたので最後まで読み、娘に感想を訊かれたら「いろいろ仕掛けがあってけっこうおもしろかったわ」とお茶を濁した。「浅いねー」なんて大人げないことはいいませんよ、もちろん。

 いや実際、ぼくが小学生のときに読んでたら十分おもしろかったとおもうしね。

 児童文学と大人向けの小説の橋渡し役のような、ティーン向け小説としてはすばらしい小説。つまりおっさんが読んでぶつくさ言うような小説じゃないってことです、ごめんなさい。


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すごろく向きのサイコロをつくる

  ふつうのサイコロを1つ振ったとき、出る目は1~6の6通りで、その確率はそれぞれ1/6ずつだ。


サイコロを2つ振ってその差を求め、それに1を加えたものを出目とする」としてみよう。この場合もやはり出目は1~6の6通りとなる。

 ただし確率はそれぞれ等しくない。1(つまり2つのサイコロが同じ目)になる確率は1/6。これは通常のサイコロと同じ。

 2や3になる確率は1/6より高く、6になる確率はかなり低い。

(分母を18にそろえるとわかりやすい。
  1:3/18
  2:5/18
  3:4/18
  4:3/18
  5:2/18
  6:1/18)

左の表は出目 右の表は出目の確率
ABS関数と参照の絶対/相対をうまく使ってるのがオシャレだね♪

「1~6の6通りの出目」を維持したまま、確率に傾斜があるサイコロができるわけだ。


 すごろくをすると「おもしろいイベントマスがあるのに、誰も止まらない」ということがままある。みんなが5とか6とかの大きい目を出して、すっ飛ばしてしまうのだ。

 この「(2つのサイコロの目の差+1)サイコロ」だと、5や6が出にくいので、指示のあるマスに誰も止まらないという事態が起こりにくくなる。

 それでいて2~4あたりはよく出るので「あらゆるマスに止まってしまう」というイライラ展開も防げる。

 すごろく向きのサイコロといえるだろう。




2024年9月13日金曜日

【読書感想文】唐渡 千紗『ルワンダでタイ料理屋をひらく』 / 念願の不便を味わえてよかったね

ルワンダでタイ料理屋をひらく

唐渡 千紗

内容(e-honより)
電子レンジを水洗いするスタッフ。施工代を返さないまま逮捕されたエリック。初めてのお客さんは泥棒!?今日もまた事件勃発。日本人シングルマザー、アフリカで人生を変える!一見ハチャメチャな彼らが教えてくれたルワンダフル・ライフ!戸惑いながらも働くうちに見えてきたのは、どんな過酷な状況も生き抜く彼らのたくましさだった。人生という「旅」の醍醐味を味わう傑作ノンフィクション!


 飲食店経営未経験で、ルワンダでアジア料理店を開いた女性の体験記。

 そんな風に、導かれるようにルワンダ行きを決めた私だけれど、一応プランはある。それもズバリ、タイ料理屋を開く!
 どういうこと?と驚くのもわかる。私も他人からそんな話を聞いたら、きっとそう思う。実は旅行で訪れた際に、ルワンダでタイ料理屋を開くところまではもう決定していた。はじめにルワンダに移り住みたいという願望があって、子どもを連れて一人で行くんだけど、当然生活の糧がいる。何かしないといけない。旅行中に気がついたのは、まずとにかく飲食店のバリエーションがない。単純だけど、レストランを開くのはどうだろう?
「タイ料理屋とか、絶対いいと思う」と現地に住む友人のマリコさん。よし、それならタイ料理屋にしよう。決定!

 この文章だけでもびしびし伝わってくるのだが、「私って人とはちがうことをやってるでしょ! すごく変でしょ! どや!」感がすごい。

 筆者の略歴を見て納得。リクルート出身。ああ、リクルートっぽいなあ。もちろん悪い意味で。

 ぼくも多くのリクルート出身者を見てきた(人前に出たがる人が多い)ので「この人リクルート出身っぽいなあ」とだいたいわかるようになってきた。

 とにかく「何者かになりたい!」っていう感が強いんだよね。今はちがうみたいだけど、以前のリクルートって数年で会社を辞めなきゃいけない、辞めた人はたいてい独立しているので、たぶん在籍中に「独立してこんなすごいことやってる人がいます!」って事例をさんざん見せられてるんだろうね。そのせいで「何者かにならなきゃいけない」病にかかってしまうのだろう。

 結果、この本の著者みたいにいい歳して自分さがしをしてしまう。

 ま、自分の人生だから好きにしたらいいんだけど。ぼくはこの人の息子じゃないし。


 とある候補者は、名前をアラファトといい、ルワンダに数店舗展開する有名レストランの現職のシェフだ。名前からわかるようにイスラム教徒で、頭にターバンを巻いている。
 野菜の切り方や鶏肉のさばき方などは、朝飯前といった腕前を見せていたが、レシピを渡されても、何のことか全くわからないという様子。材料を切る前になぜか鍋に油を敷いて強火で熱してから、はて、どうしたものか、と止まってしまう。
 まず野菜を切るところから、とヒントを出す。するとものすごい速さで野菜を切って、また最大火力で炒め出した。次はココナッツミルク五十ミリリットルの投入だが、まだ缶が開いていない。缶切りを渡す。上手く使えない。ナイフでこじ開けようとする間に、鍋ごと黒こげになってしまった。
 聞いてみると、レシピ通りに作るなんて、やったことがないようだ。 「普段はどうやってるの? 働いているレストランではもちろんレシピはあるでしょう?」 「ノー。そんなのありません」と、アラファト氏はキッパリと答える。
 え?? どういうこと? シェフがそれぞれ雰囲気で作ってるってこと? メニューはどれも「シェフの気まぐれスープ」みたいな感じなの? 頼むからうちでは気まぐれを起こさないでもらいたい。でもここまで説明しても全く気にしない人たちに、どう教えればいいのだろう。

 こんな感じで「ルワンダの常識は日本とぜんぜんちがう! 日本人だったらあたりまにやってくれることをルワンダ人はやってくれない! インフラもひどいし生活が不便だし困った困った!」と騒いでるんだけど、正直、共感できない。

 だってこの人はそういうのを求めてルワンダに行ったんでしょ? “人とちがう生き方を選択するアタシ”を求めてルワンダで飲食店を開くことにしたんでしょ? のっぴきならない事情でルワンダに住まざるをえなくなったわけじゃないでしょ?

 あれが大変だ、これで苦労した、と言われても、はあそうですか、望んでいた経験ができてよかったですね、としかおもえない。

 ルワンダの人には失礼な例えだけど、キャンプに行って、不便だ不便だと騒いでるように見えちゃうんだよね。そりゃそういうものでしょ、としかおもえない。日本と同じような文化を享受できることを期待してルワンダに行ったわけじゃないでしょ?

 というわけで、前半の「私ルワンダでこんなに苦労しました」話は、わざわざお化け屋敷に行って怖い怖いと叫んでる人を見るような目で読んでしまった。楽しそうでよろしおすなあ。



 中盤以降の、生活者視点でルワンダという国を観察した章はわりとおもしろかった。

 アフリカというと、物価がとにかく安いイメージがあるだろう。だがルワンダの場合、日本人が日本人の感覚で、最低限快適・安全に暮らしたい場合、「東京で暮らすよりもだいぶ不便だけど、ちょっと安い」くらいの感覚でいた方がいい。東京のような快適さを求めれば、東京で暮らすよりも確実に高くつく。
 コストが高くつく理由は様々あるが、やはりまずは物流だろう。日本では気づきにくいが、「島国である」というのは、実はすごい恩恵なのである。私もルワンダで暮らして初めて、内陸国の苦悩が少しずつ見えてきた。
 先述のように、ルワンダはアフリカ大陸のほぼ真ん中、内陸に位置し、港がない。地の利がとにかく悪い。陸路だけでも、近代的な物流が整っていれば、なんとかなるんじゃないかと思われるかもしれない。ただ、鉄道、高速道路などが見事に整備されている日本では想像し難いが、まずルワンダには鉄道がない。道路も、中国企業がルワンダ全土にせっせと道路を作っているが、丘だらけなので簡単ではない。場所によっては崖に近いような山道を、日本では走っていないようなオンボロトラックが行き交う。実際、事故も多い。
 そうなると、製造業が育つのはかなり厳しい。そもそもモノを作ろうにも、資源に恵まれているわけでもなく、材料に乏しい。それでも頑張って材料を輸入して作るとする。そうして作られたものは当然高くなる。そうした商品を国内で買える層などごくごく一部だ。では外に輸出しよう、と考えるかもしれない。するとまた、輸送費や関税が乗って、消費者に届くころにはすごい値段になっている。つまり成り立たない。日本のように材料を輸入し、加工し、輸出してビジネスが成立するのは、島国だからこそできることなのだ。
 ルワンダでは、輸入品がとにかく高い。例えば、日用品。中国からの輸入品が多く出回っているが、日本の百円均一で売られているものの品質を三分の一にして、値段が三倍であれば良い方だ。もっとも、これについては、日本の百均がすごすぎるとも言える。

 なるほど、内陸国ってのは貿易をする上ではすごく不利になるんだな。そういや先進国で、海を持たない内陸国はほぼないんじゃなかろうか。主要都市もたいてい海か大きな河川を持ってるしね。

 あまり意識することはないけど、我々は海洋国のメリットを享受しながら生きてるんだな。



 

 ルワンダといえば1994年のルワンダ虐殺。当時730万人いたルワンダ人のうち、100万人ほどが約3ヶ月の間に殺されたという空前の大虐殺事件だ。それも爆弾や空襲のような大量破壊兵器を用いず、人々が武器を取り隣人同士で殺しあったという凄惨な事件だった。

 30年前のこの事件は、今もルワンダに深い傷跡を残している。当時生きていた人で、事件に巻き込まれなかった人はほぼいない。親しい人を亡くし、生き残った人も暮らしが一変した。大量の孤児が発生し、教育を受けられずに育った人も多い。


 この本ではルワンダ虐殺を経験した人の語りが紹介されるが、その胸の内は想像もできない。「隣人だった人々に殺された」は、「戦争で死んだ」「敵国に殺された」よりずっとずっとキツいだろう。家族の仇が今もすぐ近くで暮らしている、なんて例もあるんじゃないだろうか。想像を絶する世界だ。とてもこれからは手に手を取って平和な世の中を築いていこう、とできるとはおもえない。

 だがルワンダ人はそれをやってのけている。人間ってどこまでも残酷になれるし、人間はどんなことでも許すことができるのだと、ルワンダ人の暮らしぶりを読んでいておもう。

 どんな環境にも適応できるのが人間。いい面でもあり、悪い面でもある。


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2024年9月11日水曜日

小ネタ26 (ハンマー投げ / 砲丸投げ / プールサイドを走ってはいけない理由)


ハンマー投げ

 陸上競技の投擲種目について。

 古代オリンピックは軍事演習みたいなものだったそうだ。当然、投擲に使うものは武器だ。

 槍はもちろん、砲丸も武器として使える。円盤もギリわかる。

 よくわからないのはハンマー投げだ。

 どう考えても武器として優れているとはおもえない。あんなぐるぐる回って放り投げて、狙ったところに当てるなんてほぼ不可能だろう。へたなやつがやったら味方を攻撃してしまいそうだ。おまけに回っている間は隙だらけだ。

 ハンマーブロスみたいな投げ方をするのならわかるのだが。


砲丸投げ

 学生時代、砲丸投げをしたことがある。

 投げ方について「決して野球のように肩で投げてはいけない。肩を壊すから」と何度も念を押された。

 まああんな重いものを肩で投げたら肩が壊れるだろう。

 だが世界は広い。砲丸を肩で投げられる人がどこかにいるんじゃないだろうか。めちゃくちゃ肩と腕を鍛えたらソフトボール投げみたいなフォームで砲丸を投げられないだろうか。そしてふつうの砲丸の投げ方よりも遠くへ飛ばせるんじゃないだろうか。

 肩が壊れるかもしれない。だが今大会で引退を決めている選手だったら「もう肩がぶっ壊れてもいいからこの一投に賭ける!」みたいな気持ちでやったりしないのだろうか。


プールサイドを走ってはいけない理由

 プールに行った。「プール内で子どもを持ち上げて放り投げる」という遊びをしていたが、監視員に注意されることはなかった(もちろん周囲に人がいないのを確認してから投げていた)。

 プールによっては注意される行為だ。ここは監視がゆるいんだな、とおもっていたのだが、プールサイドを走る子どもに対しては異様に厳しくて、監視員がでかい音でホイッスルを鳴らして怖い声で「走らない!!」と注意していた。

 そういや子どものころから「プールサイドを走るな」と口を酸っぱくして注意されたものだが、なんでだろう。

 他人とぶつかると危ないから?

 でも走ってて他人とぶつかる可能性があるのはプールサイドだろうが公園だろうが公道だろうがあんまり変わらない。公園や公道で小走りしたぐらいで笛を鳴らして「そこ走らない!!」と厳しく叱責されることはないのに、プールサイドだけは親の仇のように厳しく注意される。

 すべって転びやすいから?

 たしかに濡れた地面はすべりやすい。でもすべりやすい場所をすべって転ぶのは、はっきり言って自業自得だ。「気を付けなよ」みたいな言い方ならともかく、赤の他人が叱るほどのことか。アイスクリームをたくさん食べている子どもに赤の他人が「こらっ、そんなに食べたらおなかこわすだろ! 食べるな!」と怒鳴りつけていたら頭のおかしい人だ。それがなぜか「プールサイドを走ること」についてだけ許容されている。

 プールサイドを走っていると異常に厳しく注意される理由としてもうひとつおもいついたのは「笛を持っていると吹きたくなってしまうから」というものだ。

「笛を持たされるけど吹いてはいけない状態」というのはしんどいものだ。だから理由をつけて吹いてしまう。案外これが正解かもしれない。



2024年9月8日日曜日

【読書感想文】清水 由美『日本語びいき』/社長も召し上がりたいですか?

日本語びいき

清水 由美(文)  ヨシタケシンスケ(絵)

内容(e-honより)
「させていただく」は丁寧か、馬鹿丁寧か。「先生」の読み方は本当に「センセイ」?よく知っているつもりの言い回しも、日本語教師の視点で見るとこんなにおもしろい!ヨシタケシンスケさんの、クスッと笑える絵とともに、身近な日本語のもうひとつの顔をのぞいてみませんか?

 日本語教師として外国人に日本語を教えている著者の、日本語エッセイ。

「日本語を学ぶ外国人のエピソード」は少なく、日本語まわりの話が中心。教師として誠実だ。

 昔、やはり日本語教師をしている人のコミックエッセイを読んだことがあるけど、「外国人がこんな言い間違いをしたんだよね。おかしいでしょ!」って感じがちょっと嫌だったんだよね。そりゃあ外国語を学んでるんだから間違えるでしょ、外国語を学ぶ日本人だってネイティブからしたら失笑ものの間違いをするだろうし、間違えた生徒を教師が他所で笑いものにしているとおもったら学ぶ気なくすわ……とおもったものだ。

 まあおもしろおかしく話したくなる気持ちはわかる(ぼくが日本語教師だったら絶対に話してる)けど、家族や友人に話すぐらいにとどめておくべきで、本にしちゃいかんよな。

 その点、この人は「日本語のおもしろさ」については語っているけど、生徒のことは極力書かないようにしている。必要に応じて書く場合でも匿名性を持たせて。いいスタンス。



 よく「日本語は敬語がむずかしい」と言われるが、実際は敬語(というより丁寧語)のほうがくだけた表現よりもずっとかんたんなんだそうだ。

 初級の日本語のテキストを見ると、会話文に次のような例が出てきます。
「スミスさん、お昼を食べに行きませんか?」
「いいですね。行きましょう」
「どこに行きますか?」
「きのうはミドリ食堂で食べましたから、きょうは……」
 これを不自然だ、ヘタな三文芝居を見ているようだ、と非難するのは簡単です。職場の同僚だったら、もうちょっとくだけた感じになるだろう、と。
「スミスさん、お昼食べに行かない?」
「いいね。行こう」
「どこ行く?」
「きのうはミドリ食堂で食べたから、きょうは……」
 確かにそうかもしれません。でも、「不自然な会話」には、理由があるのです。
 最初の例では、動詞はすべてマス形(=国文法でいうところの連用形)で使われています。「行き(ます)」という形さえ覚えてしまえば、活用ループの別に関係なく、あとは「ます」の部分を「ませんか/ましょう/ました」に入れ替えるだけです。それだけで、提案や誘いかけ、過去など、かなりのことが表現できます。一方、くだけた感じの二番目の例では、「行く」、「行かない」、「行こう」というように、動詞の本体部分を活用させなければなりません。しかも活用のさせ方は所属グループによって違うのですから、まずは所属の見極めが必要になってきます。
 さらに格助詞の省略も問題になります。「お昼を食べる」の「を」や、「どこに行く」の「に」は省略できるし、省略した方が自然ですが、「ミドリ食堂で食べた」の「で」は、どんなにざっくばらんな会話でも省略できません。助詞ごとに省略の可否を判断するのは、案外たいへんです。

  なるほど、「~ます」でしゃべるようにすれば、動詞の活用はひとつだけ覚えればいいわけか。

『食べる』なら『る』を取って『ない』に変える、
『行く』の否定形は『く』を取って『かない』に変える、
『走る』なら『る』を取って『らない』に変える、
『する』や『くる』は不規則に『しない』『こない』になる……と活用を覚えるのはたいへんだ。

 その点『食べます』『行きます』『走ります』『します』『きます』のような形でおぼえておけば、否定形にするときはすべて『ます』を『ません』に変えるだけなのでかんたんだ。

 またお店や駅の案内、ビジネスシーンで使うのたいてい丁寧語なので、日本で旅行したり仕事をする上では、丁寧語をマスターしておけばそんなに不自由はないかもしれない。

 それに「敬語でしゃべるべき場でくだけた言葉遣いをする」と「くだけた言葉がふさわしい場で敬語をしゃべる」だったら、後者のほうがずっとマシだしね。

 というわけで日本語初級をめざすのであればまずは敬語を学ぶのがよさそうだ。ただ最近は日本のアニメを原語で観たい! という動機で日本語を学ぶ人も多いらしく、そういう人にとってはくだけた言葉遣いのほうが大事のようだ。



 日本語には形容詞(形容動詞)がすごく多いという話。
 この谷の浅さを利用して、ルール違反ギリギリの、生きのいい表現を試みる例は数多く見られます。たとえば「昭和」という語をそのまま名詞として使って「昭和の歌」と言えば、それは昭和の時代に作られた歌ということになりますが、形容詞として「昭和な歌」と言ったらどうでしょう。実際には平成の御世に作られた曲かもしれなくても、昭和っぽい、昭和の空気をまとった歌ということを言いたいのだろうな、とわかります。「昭和」が遠のき、その属性が一般に認知されるようになってきた今だから、使える手です。
 (中略)
  ある名詞をめぐってこのように共通認識が成り立つかどうかというのが、それをそのままナ形容詞にできるかどうかのカギになります。だから「猫な色」は無理があります。全猫共通の色はありませんから。でも「猫な生活」、「猫な奴」、「猫な態度」は、なんとなく理解される気がする。少なくとも猫もちさんならわかるでしょう。

 概念を表す名詞はたいてい形容動詞化できる。自由な、博識な、優秀な……。さらに外国語の形容詞もほとんどそのまま形容動詞になる。ビューティフルな、アンビバレントな、ポップな……。そのまま形容動詞化するのがするのがむずかしい一般名詞であっても、「的」「風」をつければ、パンダ的、スマホ風、などになる。アメリカ的な、坂本龍馬チック、など、固有名詞でさえも。さらにさらに、「ちょっと背伸びしたい的コーディネート」のように文章ですら形容動詞になってしまう。うーん、むちゃくちゃ自由。

 いくらでも形容詞が作れる、ってのは他の言語にはなかなかなさそうな日本語の特徴だ。



 あまり知られていない日本語のルール。

 教室に入っていくと、初めて京都に行ってきたという学生がお約束の生八橋をクラスメートにふるまって、みんなでキャイキャイ騒いでいる。ほほえましく見ていると、 「先生もほしいですか?」
 え? あ? う、うん、嫌いじゃないけども、......あ、ありがとう、いただきます。
 内心で一私、そんなに物ほしそうな目をしてたかな」と激しくうろたえながら、片手に出席簿、片手に三角の生八橋をぶら下げて立ちつくす教師なのでした。
 日本(語)社会のルールその二、です。「目下は目上の感情(とくに欲望)を生々しく言挙げしてはならぬ」
 8章で触れた感情・感覚形容詞のルールに、他者の感情や感覚をストレートに表現することは日本語ではできない、というのがありました。「(寂しい)ようだ」、「(かゆ)そうだ」、「(痛い)らしい」とか、「(うれし)がっている」のように、間接化の手段を講じなければならないというルールです。
 しかし、こと目上の人の感情の場合、とくに「ほしい」とか「~したい」のような願望・欲望に関する表現の場合は、いくら間接化してもだめです。「先生もほしそうですね」とか「あの先生も食べたがっていました」のように言ってはいけない。たとえ文法的には正しくても、ダメ。ダメったらダメ。ひどくぶしつけに響いてしまいます。

 たしかになあ。「社長も召し上がりたいですか?」という表現、日本語文法的には正しいけど、実際に(社長の前で)使うのはNGだよなあ。

 こんなこと、学校では(たぶん)習わない。敬語の本にも書いてない。「社長も召し上がりたいですか?」はテストでは丸だが実社会ではNGだ。ほとんどの日本人は避ける。意識していないけど、まずい表現だと知ってはいるのだ。

 きっと日本語以外の言語でも、こういうのがいろいろあるんだろうな。「間違いとは言えないけどネイティブなら避ける表現」というのが。外国語学習ってむずかしいなー。


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なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか



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2024年9月5日木曜日

小ネタ25(求人サイト / 演技プラン)


求人サイトはいつもひとつ 

「私が犯人だって? はっはっは、君、その想像力を活かして小説家にでもなったらどうだ? 小説家が嫌なら脚本家でもいいし、漫画の原作者という道もあるぞ。絵が描けるのなら漫画家になったらいいし、最近だと映像作品を作って世に出る人も少なくないな。またCMプランナーなんかも想像力を活かせるだろうからマーケティングの勉強をしてみるのはどうだ? 大学に入りなおすという手もあるがやはり近道は広告代理店に就職することかな。大手は狭き門だが中小企業なら今はどこも人材不足だから中途未経験でも決して無理ではないだろう。まずはこちらからかんたん60秒登録で君にぴったりの仕事が見つかるぞ!」


演技プランはいつもひとつ

探偵「そう、犯人はおまえだ!」

「私が犯人!? はっはっは。はーはっはっはっはっ。あははははははは。いーひっひっひっひっ。あは。あははは。あはは。えっ、ちょっ、まじで言ってんの、ひひひひ。待って待って腹痛い。ひいっ、ひいっ、いひひひ。やばいやばい、ふははははは、はあ、苦しい、わ、わたしが、はんにんひひひひひひうはははは。ありえんありえん、ははははんにんはははは。ぎゃははははふはーはっはっはっ」

探偵「これが芝居だとしたらすごい演技力だな。その演技力を活かして俳優にでもなったらどうだい?」



2024年9月4日水曜日

【創作】マングースバスターズのその後

 奄美大島でマングース根絶が完了した、というニュースを見た。

 かつて沖縄でハブやノネズミの駆除のために海外から持ちこまれたマングース。だがマングースは昼行性、ハブは夜行性だったために期待していたような効果は得られず、それどころかマングースが貴重な固有種を捕食するようになり、害獣化していた。そのマングースが海を渡って奄美大島にもやってきて繁殖していたため、奄美大島では“マングースバスターズ”というチームを作り、猟、罠、猟犬などの手段を使いついに奄美大島からマングースを根絶させたという。


 人間の都合で海外から連れてこられ、人間に害をなす外来種として目の敵にされ、そして人間の都合で滅ぼされる。

 マングースにしたらなんとも理不尽な話だ。気の毒に。

 だがそれは遠く離れたところにいるから言える話で、奄美大島に住んで被害を受けている人からしたら「マングースは何も悪くないから許してやろう」という気にはなれないだろう。


 とにかく奄美大島のマングースは滅ぼされ、一件落着した、かのように見えたのだが……。

 行き場を失ったのはマングース根絶のために結成されたマングースバスターズだった。狩るべき相手を失ったマングースバスターズたちは、マングースの代わりにべつの動物たちを狩りはじめた。困った島民たちはマングースバスターズに対抗するため武装して義勇軍を結成。血で血を洗う闘いが続き、ついに義勇軍はバスターズを壊滅させることに成功した。だが武力を持て余した義勇軍は……。





2024年9月2日月曜日

小ネタ24 (成人式 / 世界一どうでもいいニュース / ジェンダーフリー)


成人式

 知人が「来週、四十九日の法要があって、次の日は結婚式に参列して、その次の日はフェスに行く」と話していた。

 あと成人式さえあれば冠婚葬祭全制覇だ。

 ただ結婚式や葬儀に参列する機会はまあまああるが、市長にでもならない限り成人式に出席するのはたいてい一生に一度(かゼロ)なので連続コンプリートはむずかしい。


世界一どうでもいいニュース

 ニュースで「アイドルグループ××を卒業した○○さんを直撃! 卒業後に最初に食べたものとは!?」という世界一どうでもいいニュースをやっていた。

「出た後最初に何を食べた?」と訊かれるのは、アイドルグループを卒業した人と刑務所から出た人ぐらいだろう。


ジェンダーフリー

 テレビで男子高校生がスカートを履いてダンスを披露していて、審査員として来ていたおじいちゃんの某演出家が「ジェンダーフリーで良かったです」とコメントしていた。

 いやいや、ジェンダーフリーって言っちゃったらジェンダーフリーじゃないんだよ。それをジェンダーフリーだと明示するということは「ふつう男はスカートを履かないもの」という意識を明らかにするのと同じなわけで。

 「私は黒人も差別しません」と言うようなもので、その発言自体がフリーじゃない。