管賀江留郎
かつて静岡県警に紅林刑事という人物がいた。数々の難事件を解決したことで三百回以上も表彰を受けた“名刑事”。だが彼が捜査を担当した事件で、後に冤罪であったことが発覚。紅林刑事(およびその部下)が拷問で偽の自白を引き出していたことがわかり、現在では「拷問王」と不名誉な名前で呼ばれることもある。
そんな紅林刑事が捜査に関わった「二俣事件」などを糸口に、冤罪につながった背景に迫る。
無罪の人を拷問して自白に導き、真犯人を見逃すことにもなったため紅林刑事は極悪非道な人物だとおもわれがちだ。ぼくもこの本を読むまではそうおもっていた。浜田 寿美男『自白の心理学』という本で紅林刑事の存在を知ったのだが、なんてひどい男なんだろうと憤慨したものだ。きっと、逆上しやすく、知性に欠け、血も涙もない人物なんだろうと。
ところが著者は、紅林刑事の捜査ミスを暴きつつも、通りいっぺんの残虐イメージもまた誤っていることを指摘する。
ここで描かれる紅林刑事は謙虚で人当たりのいい人物だ。さらに知性派刑事であり、正義感の強い人物だったとも書かれる。いくつもの冤罪が知れ渡ったことで彼の刑事としての功績がすべて否定されるようになったが、それもまた逆方向に歪んだ見方であり、実際にまっとうな捜査で解決に導いた事件も多かったそうだ。
紅林刑事は極悪非道な人物などではなく、むしろ正義感と責任感が強かったがゆえに違法捜査に手を染めてしまったのではないだろうか。
このブログでも常々書いているが、正義は暴走する。これはまちがいない。とんでもなく非道なことをするのは、悪ではなく、正義だ。自分は悪だとおもっている人は、ほどほどのところで止める。なぜなら「これ以上やったら捕まるな」「結果的に損しそう」といった計算が働くから。だが正義はとどまることを知らない。どこまでも突き進んでしまう。
以前、歩道橋の上で通路いっぱいに広がって「盲導犬のために募金をお願いしまーす」とやってる団体がいた。ものすごく邪魔だった。
きっと彼らひとりひとりはふだんは常識人で「他の人の通行の邪魔をしてはいけない」という意識を持って行動しているとおもう。でも「正義」という大義名分を手にしてしまったとたん、「他の人の邪魔にならないように」なんて意識は己の正義の前にふっとんでしまい、平気で迷惑行為をできる人間になってしまう。
ほとんどの人は平和を愛しているのに戦争が起こるのも、正義のせいだ。「隣の国を侵略してやれ」という悪意では、戦争のような大きな行動は起こせない。「愛する家族や友人を守るため」「殺された同胞の無念を晴らすため」という正義を掲げたとたん、ふつうの人がどこまでも残虐な行動をとってしまう。正義は法や常識や、もっといえば自分の命よりも強くなりうるので、特攻のような愚かな行動もとってしまう。
断片的には興味深いことも書かれていたのだが……。
とにかく読みづらい。話にまとまりがない。時代も空間もテーマもあっちへ行き、こっちへ行く。事実を事細かく並べているかとおもったら、著者の主張が滔々と展開される。
なんでこんなに読みづらいんだろう。編集者のいない自費出版か?
とおもっていたら……。
どうやら編集者は「もっと接続詞を入れてわかりやすく書け」と言っていたのに、著者の意向であえてわかりにくくしていたらしい。わざとまとまりをなくして、物語になるのを避けようとしていたそうだ。
うーん……。裁判で「裁判員に予断を持たせたくないのでわざとストーリー性を排除した」とかならまだわからんでもないのだが……。でもなあ。やっぱり本として出版する以上は物語性って大事だとおもうぜ。時系列順に並べたり、時間や空間が大きく変わるときは章を区切ったり、接続詞を入れたり。
物語性を排除した結果、読み終わった後の印象があまり残っていない。これでは元も子もないとおもうぜ。やっぱり何かを伝えるうえで物語性ってのは大事だよ。
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