2024年9月23日月曜日

【読書感想文】管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』 / わざと読みにくくしているらしい

冤罪と人類

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか

管賀江留郎

内容(e-honより)
18歳の少年が死刑判決を受けたのち逆転無罪となった“二俣事件”をはじめ、戦後の静岡で続発した冤罪事件。その元凶が、“拷問王”紅林麻雄である。検事総長賞に輝いた名刑事はなぜ、証拠の捏造や自白の強要を繰り返したのか?アダム・スミスからベイズ統計学、進化心理学まで走査し辿りついたのは、“道徳感情”の恐るべき逆説だった!事実を凝視することで昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る怪著。

 かつて静岡県警に紅林刑事という人物がいた。数々の難事件を解決したことで三百回以上も表彰を受けた“名刑事”。だが彼が捜査を担当した事件で、後に冤罪であったことが発覚。紅林刑事(およびその部下)が拷問で偽の自白を引き出していたことがわかり、現在では「拷問王」と不名誉な名前で呼ばれることもある。

 そんな紅林刑事が捜査に関わった「二俣事件」などを糸口に、冤罪につながった背景に迫る。



 無罪の人を拷問して自白に導き、真犯人を見逃すことにもなったため紅林刑事は極悪非道な人物だとおもわれがちだ。ぼくもこの本を読むまではそうおもっていた。浜田 寿美男『自白の心理学』という本で紅林刑事の存在を知ったのだが、なんてひどい男なんだろうと憤慨したものだ。きっと、逆上しやすく、知性に欠け、血も涙もない人物なんだろうと。

 ところが著者は、紅林刑事の捜査ミスを暴きつつも、通りいっぺんの残虐イメージもまた誤っていることを指摘する。

 一方の出張ってきた紅林警部補も、二俣署員を配下に加えて捜査を指揮したものの、あくまで自分たちは応援部隊だという建前を守って二俣署員には非常に気を遣っていた。 「誰れもやり手は無いだろうが、一応捜査はしなくてはならんでな。地元である二俣署の人にやって貰いたい。山崎君すまんがやってくれんか」
 仕事を頼むにもこんな調子だった。さらには、捜査方針に疑問を持った山崎刑事の進言を退けるときなどでも威張ったり莫迦にしたりすることはなく 「山崎君、捜査というものはなあ、そう深く考えては駄目だよ」 といった具合に柔らかく丁重に接していることが、紅林警部補を憎んでいるはずの山崎氏の著作『現場刑事の告発』からも読み取れる。
 現代の県警本部の捜査主任でも、捜査方針に口出しをしてきた所轄署の一番下っ端の刑事にこのような接し方ができる者はそうはいないだろう。ましてや、これまで難事件を次々解決して全国に名を馳せている犯罪捜査界の生ける伝説なのである。
 冷血そうに見える顔つきや、数々の拷問冤罪事件によって誤解されているが、紅林警部補は部下の面倒見が大変によく、また慕われており、たとえ小さな町の自治警相手でも気配りのできる人であった。むしろ、こういう周りに良い顔をしたい性格が、部下の働きに報いて自分の評判も高めるために無理やりにも成果を上げようとして、恐ろしい災禍を招いたとも云えるのであるが。

 ここで描かれる紅林刑事は謙虚で人当たりのいい人物だ。さらに知性派刑事であり、正義感の強い人物だったとも書かれる。いくつもの冤罪が知れ渡ったことで彼の刑事としての功績がすべて否定されるようになったが、それもまた逆方向に歪んだ見方であり、実際にまっとうな捜査で解決に導いた事件も多かったそうだ。

 紅林刑事は極悪非道な人物などではなく、むしろ正義感と責任感が強かったがゆえに違法捜査に手を染めてしまったのではないだろうか。

 紅林麻雄刑事が次々と冤罪を引き起こした根本的な原因に、この〈間接互恵性〉を成り立たせる原理である〈評判〉が関わっているのは明らかだからだ。
 紅林刑事は部下思いで誰にでも気配りのできる、〈共感〉能力の人一倍高い人だった。こういう人物が、マスコミにも注目される大事件で大勢の部下を引き連れて捜査をしているのに、一ヶ月以上も犯人を挙げることができず非難を浴びたらどうなるのか。〈浜松事件〉によって実像以上の権威に祭り上げられて、巨大なる虚構の〈評判〉をすでに得ていたらなおさらである。
 しかも、〈浜松事件〉の事例を見る限り犯罪捜査にはあまり向いていなかったようだが、彼の知性は極めて高く、また非常に熱心な性格であった。これらが組み合わさって初めて、あれだけの大掛かりな冤罪事件が引き起こせたのである。
 清瀬一郎弁護士も『週刊読売』で、こんなことを云っている。 「わたしは、紅林君には、なんの恩怨もない。熱心で、頭のよい、有能な刑事にはいる人でしょう。ただ、その方法が悪かった。そこを反省してもらわなくちゃあ」
 一連の冤罪事件でほんとうに怖いのは、紅林刑事が〈共感〉能力の高い、ある意味、善人だからこそ引き起こされた点にある。彼自身は悪を憎み、冤罪被害者をほんとうの犯人だと思い込み、でっち上げの意識は微塵もなかったと思われる。拷問や時計のトリックなども、彼の中では「真犯人」を逃さずにきちんと罰するためなのだろう。
 本書を読んで、自分が被害を受けたわけでもないのに紅林刑事を憎み、罰したいと思った読者諸氏の胸奥から突き上げるであろう感情は、〈間接互恵性〉の進化により人間が身につけた〈道徳感情〉だ。しかし、その同じ〈道徳感情〉が惨憺たる冤罪を生み出したのである。まず、この点を多くの人々が自覚せねばならない。

 このブログでも常々書いているが、正義は暴走する。これはまちがいない。とんでもなく非道なことをするのは、悪ではなく、正義だ。自分は悪だとおもっている人は、ほどほどのところで止める。なぜなら「これ以上やったら捕まるな」「結果的に損しそう」といった計算が働くから。だが正義はとどまることを知らない。どこまでも突き進んでしまう。

 以前、歩道橋の上で通路いっぱいに広がって「盲導犬のために募金をお願いしまーす」とやってる団体がいた。ものすごく邪魔だった。

 きっと彼らひとりひとりはふだんは常識人で「他の人の通行の邪魔をしてはいけない」という意識を持って行動しているとおもう。でも「正義」という大義名分を手にしてしまったとたん、「他の人の邪魔にならないように」なんて意識は己の正義の前にふっとんでしまい、平気で迷惑行為をできる人間になってしまう。

 ほとんどの人は平和を愛しているのに戦争が起こるのも、正義のせいだ。「隣の国を侵略してやれ」という悪意では、戦争のような大きな行動は起こせない。「愛する家族や友人を守るため」「殺された同胞の無念を晴らすため」という正義を掲げたとたん、ふつうの人がどこまでも残虐な行動をとってしまう。正義は法や常識や、もっといえば自分の命よりも強くなりうるので、特攻のような愚かな行動もとってしまう。



 断片的には興味深いことも書かれていたのだが……。

 とにかく読みづらい。話にまとまりがない。時代も空間もテーマもあっちへ行き、こっちへ行く。事実を事細かく並べているかとおもったら、著者の主張が滔々と展開される。

 なんでこんなに読みづらいんだろう。編集者のいない自費出版か?

 とおもっていたら……。

 本書はいくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに世に出すことができたものです。内容については誰も何も突っ込みを入れてくれなかったのですが、最初の編集者には「とにかく接続詞を入れろ」と、ただそれだけをうるさく云われました。
 仕方がないので、「だから」とか「そのために」とかの接続詞を入れていくと、バラバラだった話がどんどんつながって、ひとつの壮大なる〈物語〉になってゆくのにはいささか参りました。あらゆる事象を因果の織物として捉え、〈物語〉として読み取ってしまう人間の図式的理解を、すべての誤りの素であると批判する本書がそんなことで果たしてよいものなのか。
 もっとも、当方も、従来の冤罪本や歴史書の図式的記述が、それらの本で批判する冤罪事件や歴史的悲劇を引き起こした図式的理解とまったく同じ誤りを犯していたことを喝破する、という程度の〈図式〉は当初から用意して執筆をはじめたのでした。
 人間は、〈物語〉の形で提示しないと何事も理解はできないのですから致し方ありません。一冊でも多くの本を売ろうとする編集者が、バラバラの記述の羅列ではなく、ひとつの連なりとしての〈物語〉を要求するのは当然のことであります。かく云う当方とて、多くの人々に読んでもらいたいと思うからこそ本を執筆しているのであって、理解しやすい図式は用意します。また、読者も思った以上に〈物語〉を求めていることは、前著『戦前の少年犯罪』に対する反響で思い知ったことではあります。

 どうやら編集者は「もっと接続詞を入れてわかりやすく書け」と言っていたのに、著者の意向であえてわかりにくくしていたらしい。わざとまとまりをなくして、物語になるのを避けようとしていたそうだ。

 うーん……。裁判で「裁判員に予断を持たせたくないのでわざとストーリー性を排除した」とかならまだわからんでもないのだが……。でもなあ。やっぱり本として出版する以上は物語性って大事だとおもうぜ。時系列順に並べたり、時間や空間が大きく変わるときは章を区切ったり、接続詞を入れたり。

 物語性を排除した結果、読み終わった後の印象があまり残っていない。これでは元も子もないとおもうぜ。やっぱり何かを伝えるうえで物語性ってのは大事だよ。


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