2019年8月30日金曜日
今からだとまにあわない! 読書感想文の書き方 ~感想文嫌いの小中学生のために~
やあこんにちは。
君は小学生? それとも中学生かな?
読書感想文の書き方が知りたいんですね。もう大丈夫ですよ。
おっと、ちょっと待った。
今、「なんかこのサイトはあやしいな。他のちゃんとしたとこを見よう」とおもいましたね。
まあそれはそれでまちがいじゃありません。
他のサイトに行くのもいいでしょう。
でも、これだけは言っておきます。
検索結果の上位に出てくるサイトには
「読書感想文を書くにはまず全体の構成を考えましょう」とか
「読書の前と後での心境の変化について表現しましょう」とか、まっとうなことしか書いていません。
君が求めているのはそういうのじゃないよね?
すばらしい読書感想文を書いて全国読書感想文コンクールで入賞しようなんておもってないよね?
ずばり言いましょう、君が知りたいのは「とにかくラクをしてそれなりの読書感想文を書く方法」ですね?
「宿題の締め切りぎりぎりでも間に合う読書感想文の書き方」ですね?
その答えはここにあります。
わかったらもう少しわたしの話に付きあってください。
まずはわたしの話をします。
なに? 時間がない?
まあまあ、そうあわてないでください。
大丈夫ですよ、宿題の提出が遅れたって怒られるのはわたしじゃないんですから。
わたしは読書感想文の専門家です。
なにしろ学生時代は年に一回のハイペースで読書感想文を書いていたんですから。
なに? 年に一回はふつうだって?
そうです。今のは君の読解力をテストしたんです。
「年に一回って多くないし」とおもった君は、今からでもそれなりの読書感想文を書ける能力がある。
おもわなかった君は……うんそうですね、笑顔の練習でもしたほうがいい。笑顔ではきはきと「すみません、宿題忘れました!!!」と言う練習です。
笑顔の相手に対して怒るのは案外むずかしいものです。
全力の笑顔を向けられたら、きっと先生も「おお……そうか……気をつけろよ」ぐらいしか言えないはずです。
何の話でしたっけ。そうだ、自己紹介の続きでしたね。
わたしはごくふつうのサラリーマンです。作家でもなければ書評家でもない。塾の講師でもなければ学校の教師をやった経験もない。
ときどきこうしてひまな時間に、あるいは忙しいはずの時間に趣味のブログを書いているだけのサラリーマンです。
だけど、君にぴったりの読書感想文の書き方を教えることはできる。
なぜか。
それは、わたしが学校の読書感想文とは何の関係もない立場にある人間だからです。
教師や書評家の教える「読書感想文の書き方」は、どれも正しい方法です。
本をしっかりと読みこみ、登場人物の内面や著者の内面にまで思考をめぐらし、己の内面と真摯に向き合い、読書の体験を通して得られた感情の揺れを的確な文字数・文章で表現する。そういった方法です。
私が教える書き方はそうじゃない。
ふだん本を読まない君が、文章を書くことが嫌いな君が、めんどくさがりやの君が、夏休みの宿題をぎりぎりまで溜めこむ君が、あげくにネットで検索して適当にお茶を濁そうとする君が、今も鼻をほじりながらこの文章を読んでいる君が、できるかぎり労力と頭を使わずに書く方法。
これをお伝えします。
読書感想文を書く前に、まず先生の意図について考えてみましょう。
君の学校の先生は、どうして読書感想文なんてめんどくさい宿題を出したんだとおもいますか?
読書の習慣を身につけてほしいから?
気持ちを言語化する練習をしてほしいから?
読書を通して己の内面を深く掘り下げてほしいから?
どれも不正解です。
正解は「先生が何も考えていないから」です。
君は誤解しているかもしれないが、先生は何も考えていません。意図なんてないのです。
他の先生も出しているから。毎年出しているから。
理由はそれだけです。
前例にならうのはいちばん楽な方法です。何も考えなくてすむ。
君がめんどくさいのと同じように、先生もめんどくさいんです。
だから判で押したように読書感想文の宿題を出す。
これはとても大事なことです。
先生もめんどくさい。これをおぼえておいてください。
先生はめんどくさい。
だから君が読書感想文を書いて提出したとしても先生はぜんぜん読まない。だって面倒だから。
ぱらぱらっとめくって、そこそこきれいな文字でそこそこの分量を書いていることが確認できれば、それでよしとする。
とはいえ、まったく読まないわけではありません。
ふだんから国語の成績がよく、大人の喜びそうなことを書いてくれる子の感想文だけはそこそこ時間をかけて読みます。
そして、その中でいちばんマシなものを選んで読書感想文全国コンクールに応募するんです。
つまり。
宿題が出された時点でもう勝負はついているんです。
君たちのような夏休みの終わりになってあわててネットで「読書感想文 書き方」で検索するようなタイプは、読書感想文コンクールのスタートラインにすら立っていないのです。
悔しいですか?
悔しくない? そうでしょう。
ここで悔しさを感じて発奮するような子であれば、ふだんからちゃんと勉強しています。
読書感想文の感想を探してネット検索して、そのついでにネットサーフィンをしたりしません。
君たちが書いた読書感想文は、誰も読まない。
どうですか、気持ちが楽になったでしょう。
どんなに一生懸命書いたって、どうせ誰も読まない。
だったら一生懸命書く必要はない。
一生懸命本を読んだり、しっかりと構成を考えたりする必要もない。
自由に書いてかまわないんです。
とはいえ「自由に書く」のがいちばんむずかしい。
それができる子なら、一ヶ月も前に読書感想文を書き終わっていることでしょう。
だから具体的な書き方を教えます。
まず本を読む。
一冊全部読む。
全部読むのが嫌なら最後の一章だけ読む。なぜなら最後には重要なシーンがあることが多いから。
一部だけ読むのも嫌ならまったく読まなくていい。
表紙や裏表紙を観察する。
どんな絵が描いてあるか、どんなあらすじが書いてあるか、帯にはどんなことが書いてあるか。
で、気に入らない点を探す。
どんな些細なことでもいい。どんな身勝手な理由でもいい。
気に入らないことを探す。
「台詞がキザ」
「説教くさい」
「難しい漢字を使いすぎてて偉そう」
「表紙の絵がさわやかすぎてかえって鼻につく」
「値段が高い」
いくつも見つかりましたね。
そうなんです、他人がやったことにケチをつけるのはかんたんなんです。
現実味のある話であれば「平凡。よくある話」と言えばいいし、
非現実的な話であれば「リアリティに欠ける」と言えばいい。
どんなものにでもケチはつけられます。特別な知識も技能もいりません。
「この歌手、歌へただよな」と言っている人のうち、その歌手より上手にうたえる人がどれぐらいいるでしょうか。ほとんどいないはずです。
でもそれでいいんです。批判はタダですから。
逆に、褒めるのはむずかしい。
ひさしぶりに会った親戚のおばちゃんから「あら~、かっこよくなったわね~」と言われたことがありますね?
かっこよくなったと言われて、君はうれしかったですか?
べつにうれしくないですよね。おばちゃんの褒め方が適当だから。
誰にでもあてはまることをうわっつらだけで言っていることがまるわかりですから。
夏休み明けにひさしぶりに会ったクラスの女子が
「あっ、〇〇くん……。ひさしぶり……。あの、なんていうか……かっこよくなったね……」
と頬を赤らめながら言ってくれたらうれしいですけど、それは発言者・状況・言い方すべてが適切だからです。
誰にでもできることではありません。
でも「おまえきもいな」という言葉を言われたら、どんな発言者でも、どんな状況でも、どんな言い方でも不愉快です。
褒め言葉はなかなか届きませんが、悪口はかんたんに相手に届きます。
悪口のほうが称賛よりもずっとかんたんなんです。
読書感想文を書くのがむずかしいのは、本のいいところを書こうとするからです。
おもしろかったところ、胸を打ったシーン、心に染みるフレーズ、人生の指針となるメッセージ。
そんな「いいところ」をさがして、かつ第三者に的確に伝えるのはすごくむずかしい。
本を全部読んで、書かれていることを正しく理解して、裏に隠れた作者のメッセージ(そんなものがほんとうにあるのかわかりませんが)まで汲みとって、気持ちを整理して、客観的な言葉にして書く必要があります。
けれど「気に入らないところ」ならかんたん。
むずかしい文章、読めない漢字、冗長なシーン、不自然な会話、退屈な結末、不当に高い価格、変に気取ったポーズの著者近影、著者のいけすかない学歴……。
読書が好きじゃない君にも、いや、読書が好きじゃない君だからこそかんたんに気に入らないところを見つけることができるはずです。
あとはそれを原稿用紙に書くだけ。
書き方も自由。
全体の構成なんて気にする必要もありません。どうせ誰も読まないんですから。
おもいついたままに
「〇〇が嫌でした。□□が気に入りませんでした。××がなければもっといいのにとおもいました。△△なところが肌に合いませんでした」
と書けばいいのです。
嫌いな理由もいりません。
「批評」であればどこがどう悪いのかを的確に示す必要がありますが、君たちが書くのは「感想文」です。イヤだからイヤ、これで十分なのです。
ただひたすら悪口を書く。
ふだんからインターネットで悪口になれしたしんでいる君にとっては造作もないことでしょう。
そして最後に
「以上のように欠点もあったが、さまざまな感情を喚起してくれるという点では刺激的な本だった。この本に出会えたことを感謝したい。」
と一文つけくわえておけば完成です。
最後の一文はべつになくてもいいのですが、これは自分に対する免罪符のようなものです。
悪口だけで終わってしまうと、「おれってなんて嫌なやつなんだ」と自己嫌悪につながってしまうかもしれません。
最後にとってつけたような感謝の一文を入れて「いろいろイヤなこともいったけど、これは愛情の裏返しなんだよ」と自分に嘘をつくことで、自己嫌悪に陥らずに済むのです。
以上が、読書感想文嫌いの小中学生のための感想文の書き方です。
では最後までお付き合いいただいたみなさん、どうせ今から書いてもまにあわないとおもいますので、笑顔ではきはきと「すみません、宿題忘れました!!!」と言う練習、がんばってください!
2019年8月29日木曜日
芸能オタク
会社に四十歳ぐらいの女性がいるのだが、やたらと芸能人の話をしてくる。
べつにどんな趣味を持ってようと勝手だが、うっとうしいのは「みんなが芸能ニュースに興味を持っている」かのように話をしてくることだ。
「○○が捕まったのショックだよねー」とか「○○と○○が結婚したのびっくりしなかった?」とか。
いや芸能ニュース観てないから知らんし。
っていうかそもそもその芸能人のことすらよく知らんし。
で、「その人よく知らないんですよね……」って言うと「ほら『□□』とか『□□』に出演してたんだけど」と言われる。
いやもっと知らんし!
話が拡がるのも面倒なので適当に「はあ」「あーそうですかー」とか言ってるんだけど、そんなことお構いなしに芸能人の話をしてくる。
こういう人、前の会社にもいた。学生時代のバイト先にもいた。
いや、いいんだよ。
芸能ニュース好きでも。ゴシップ好きでも。ドラマ好きでも。
ただ「自分はオタクである」という自覚を持って慎ましく生きてもらいたい。芸能オタクだと。
オタク同士なら好きなだけ話せばいい。
でも、サークル外の人に話題を押しつけちゃいけない。
ぼくは読書が好きだけど、相手が本好きかどうかわからないのにいきなり「○○が山本周五郎賞とったのどう思います?」とか「○○の新刊、過去作品に比べるといまいちですよねー」とか言ったりしない。
他の趣味を持つ人も同じだとおもう。
カメラ好きもアニメ好きも鉄道好きもアイドル好きも、趣味の話題をするときはちゃんと相手を選ぶ。
相手を選ばないのは、芸能オタクと、「阪神また負けたな」と言ってくるプロ野球好きのおっさんだけだ(後者は絶滅危惧種かもしれない)。
なぜか芸能人好きの多くは、芸能ニュースが一般教養だとおもっている。
「来年東京オリンピックだね」ぐらいの感覚で「蒼井優と山ちゃん結婚するのびっくりだよね」と言ってくるのだ。
ぼくが観測したかぎりでは、「芸能ニュースは一般常識」とおもっているのは例外なく1980年頃までに生まれた女性だ。
みんなが同じ番組を観て盛りあがっていた1990年代で時が止まっているのだ。
いや、トレンディドラマ全盛の頃でも人気ドラマの視聴率はせいぜい20%か30%ぐらいのはず。
当時からドラマを観ているのは少数派だったんだけどなー。なんでみんなが興味を持っているとおもえるんだろ(『おしん』は平均視聴率が50%を超えてたらしいから、『おしん』だけは一般常識だ)。
2019年8月28日水曜日
8月末になってあわてて宿題をやる小中学生向け 自由研究の書き方
ネットで検索してここにたどりついた君、もう大丈夫です。
自由研究だね? 何から手をつけていいかわからなくて困ってるんだね?
うん、わかるよ。
ぼくもかつては困っていた。困っていたなんてもんじゃない。途方に暮れていた。
でももう困っていない。
なぜかって?
学校を卒業したからだ。
そうだね、身も蓋もないね。
でもふざけてるわけじゃない。そのとおりなんだ。大人になったら自由研究で困らないんだ。
大人が
「学生の頃、ちゃんと英語やっとけばよかったなー」とか
「もっと歴史の勉強をしっかりやっておけばよかった」とか言っているのを聞いたことがないかい?
あるだろう。大人はいつも「もっと勉強しておけばよかった」とおもいながら、けれど勉強しない生き物なんだ。最高だね。
じゃあ大人が
「学生の頃、もっとちゃんと自由研究をしておけばよかったー!」
と嘆いているのを聞いたことがあるかな。ないよね。
それは、自由研究は何の役にも立たないからだ。
学生のときに自由研究に力を入れようが入れまいが、将来にはなんの影響もないんだ。
自由研究は役に立たないのに、どうしてやらなくちゃいけないのかって?
それは、役に立たないことをやる訓練のためだ。
大人になったら何の役にも立たないことをいっぱいしなくちゃいけない。
上司のつまらない話を興味深そうに聞くとか、断られるとわかっているのに電話で営業をかけるとか、妻の愚痴につきあわされた結果自分の意見を述べたら「そういうの求めてないから」と言われるとか。
大人は役に立たないことを我慢する対価としてお給料をもらったり、家庭内の平穏を保ったりしているわけだ。
君たちぐらいの年齢のうちから自由研究のように役に立たないことをやっていると、大人になって役に立たないことを押しつけられても動じなくなる。
だからこれはとても大事なことなんだ。
野球部がでかい声を出しながら走ったり、朝礼で校長先生が長いお話をしてくださったり、卒業式の練習にたっぷり時間をかけたりするのも、みんな「役に立たないことの修行」のためだ。
そこに疑問を持って「これに何の意味があるんですか」なんていうのは、君がまだまだ子どもだからだ。意味がないことに意味があることを大人は知っている。
【ここまでのまとめ】
自由研究は役に立たないことをする修行
君たちが「自由研究って何をやればいいの?」と困るのは、役に立つことをやろうと考えているからだ。
まずその前提を捨てよう。
自由研究は役に立たないことをする練習のためにあるんだから、研究の内容も当然ながら役に立たないものでなくちゃいけない。
たとえば「町内の道路標識の数をかぞえてみた」とか「神社の前に一日立って何人の人が訪れるか調べた」みたいなのがいい。
小学校低学年のとき、朝顔の観察日記をつけさせられなかったか? あれなんて「役に立たないこと」の代表みたいなものだ。
全国の小学生が何十年も観察しているものをいまさら観察したって新たな発見があるはずがない。キング・オブ・無用だ。
みんな朝顔の観察日記を入口にして「役に立たないこと」の第一歩を踏みだすんだ。
いくら役に立たないからといっても、おもしろいものはダメだ。
「コーラの缶をどれだけ振れば爆発するかやってみた」みたいなやつ。YouTuberがやっているようなやつだね。
おもしろいものは、先生から「こいつは自由研究を楽しんどるな。けしからん」とおもわれる。
さっきも言ったように、自由研究は精神を鍛えるための修行だ。
先生は、生徒が勉強を楽しむのが嫌いなんだ。
だから自由研究のテーマはつまらなければつまらないほどいい。
おすすめは、「誰でもやれるけどめんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないこと」だ。
そんなのつまらないよ、とおもうだろう。
でも研究というのはそういうものだ。
君たちは知らないとおもうけど、世の中にはたくさんの研究者がいる。たくさんのおじさんやおばさんが大学や大学院で一生懸命研究をしている。
研究者と呼ばれるおじさんやおばさんが何をしているかというと、ほとんどが
「誰でもやれるけどめんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないこと」だ。
考えてみてほしい。
役に立つことならとっくに他の誰かが研究しているはずだよね。
だから、ユニークな研究をしようとおもったら、誰でもやれるけどめんどくさいし何の役にも立たないことを研究しなくちゃいけないんだ。
先生の立場にたって考えてみよう。
めんどくさいことをした = がんばった
誰もやらないことをした = ユニーク
何の役にも立たないことをした = この子は自由研究の目的を正しく理解している
君の二学期の評価は爆上がりまちがいなしだ!
【ここまでのまとめ】
めんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないことを研究しよう
めんどくさいし何の役にも立たないから誰もやらないことをするのがいい、ということは理解してもらえたとおもう。
では具体的な研究方法について説明しよう。
たとえば
「コンビニの商品の数をかぞえてみる」
というテーマを選んだとしよう。
君は近所のコンビニに行く。
店員の目を盗んで、品数を数えはじめる。
断言しよう。
十分でめんどくさくなる。
もちろん、退屈な作業を根気強く続けられる人もいる。
だけどそういう人は夏休みの宿題をぎりぎりまでためこんで、あわててネットで検索したりしない。
つまり君たちはまちがいなくすぐに飽きる。
しかしピンチはチャンスだ。
人間はずっと面倒なことを乗りこえるために科学を発展させてきた。
すべてを数えるのが面倒なら、一部だけ数えるのはどうだろう。コンビニの棚の高さはだいたいどこも同じだから、一部だけ数えてそれを(数えた分の床面積/店全体の床面積)で割れば、概算ではあるが店全体の商品数がつかめるじゃないか!
……とはならない。
そういう知恵をはたらかせることのできる子はそもそも夏休みの宿題をためこんで(以下略)。
お店の人に聞く、チームを作って手分けして数える、コンビニ本部に問い合わせる……。
何度も言うけど、そういった気の利いた方法は君たちの仕事じゃない。七月中に自由研究に取り組む優秀な子たちの仕事だ。
だから君たちはただただ端から順番に商品を数える。
そして店員さんに言われるだろう。
「ごめん、他のお客さんのじゃまになるから買わないんだったら出ていってくれるかな」と。
ここで、あちこちのコンビニをまわって
「何分までなら店員に注意されないのか」「店員が注意するときの言葉はどんなものが多いのか」「セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートなどの店によって注意のしかたにちがいはあるのか」「注意されても無視しつづけたらどうなるのか」
を調べれば立派な研究報告になるんだけど、まあ君たちには無理だろう。
きっと君たちは注意されたことで、やめるためのいい口実ができたとおもって家に帰るだけだろう。
【ここまでのまとめ】
めんどくさいことはすぐに飽きる
結局、ほとんど何も調べられなかった。
君の手元にあるのは
「ジュース:40種類 コーヒー:13種類 お酒:33種類 何かよくわからない飲み物:2種類」
みたいなメモだけだ。
もう一度調べにいく気力はない。さっき店員に注意されたところだし、なにより外は暑い。一度家に戻ったら、もう二度と外には出たくない。
この一枚のメモをもとに自由研究レポートを書くしかない。
調査内容を適当にでっちあげるという方法もあるが、これはおすすめしない。
嘘をつくのがよくないからじゃない。嘘をつくのはたいへんだからだ。
それらしい嘘をつくためには知識や想像力や論理的思考力を必要とする。君たちにはないものだ。
もっともらしい嘘をつくぐらいなら、ほんとうのことを書くほうがずっとかんたんだ。
だから書こう。ほんとうのことを。
自由研究のテーマを決めたこと。コンビニまで行ったこと。はじめはちゃんと調査する気だったこと。すぐに飽きたこと。店員から注意されたこと。そのときの心境の変化。気恥ずかしくなってアイスを買って帰ったこと。暑さですぐに溶けてきたのでアイスを食べながら帰ったこと。溶けたアイスが手についてべたべたしたこと。とりあえず家に帰ったこと。家に帰ったらもう調べる気がなくなったこと。そのときの心境の変化。
これぐらい書けば、レポート用紙はそこそこ埋まるはずだ。
残すは、結論だけ。
結論、これが大事だ。
これがなければただの日記に過ぎない。だけど中盤がひどくても結論がそれっぽければ、一応研究レポートとしての体裁が整う。
それが書けないんだよ、とおもうだろう。
よしっ、特別だ。
ここまで読んでくれた君だけに、どんな研究にも使える万能の結論をお教えしよう。
このまま書き写してくれてかまわない。
どうだい。
気づき、もっともらしい小理屈、先生への媚び。どれをとっても完璧な結論だね。
ぜひ、この手法で自由研究のレポートを作ってくれ。
もちろん成果は保証しないよ。
【まとめ】
結論でそれっぽいことを書いておけばそれなりのものになる
2019年8月27日火曜日
スマホを持って三十年前にタイムスリップした人
あーこんなもんじゃないんだよ。ほんとに。
そんなもんで驚かれちゃこまるっていうか。
いや驚いてくれるのはうれしいんだけど。
でもほんとはこんなもんじゃないんだよ。
うん。この時代の人たちからしたら、こんなに小さな機械が時計とカメラとビデオカメラと電卓とボイスレコーダーとスケジュール帳と懐中電灯になるのはすごいよね。驚きだよね。
ほんとはね。
もっとすごいの、これ。
世界中のいろんな情報が一瞬で調べられるの。ニュース記事も読めるし、テレビも見られるし、百科事典も見られるし、漫画も読めるし、何万種類ものゲームができるし、こちらから情報を世界に向けて発信することもできるの。
本来ならね。今は無理だけど。
この時代に通信環境ないもんなあ。
携帯キャリアもないし、Wi-Fiも飛んでるわけないし。
通信できないからアプリも入れられないしな。そもそもアプリストアがないもんな。
電卓とかカメラとかはこの機械の本質じゃないの。
スマホ見て「電卓とカメラになるんだ。すげー」っていうのは、ドラえもん見て「動いたりしゃべったりするロボットだ。すげー」っていうようなものなの。それもすごいけど、いちばんすごいのはそこじゃないの。四次元ポケットのとこなの。
ドラえもんでいうところの四次元ポケットが、インターネットでありアプリなんだけど、この時代だとそれが使えないんだよなあ。ほんと残念。
あっ、ちょっと無駄に使わないで。
電卓なんかこの時代にもあるでしょ。
電卓機能で電池消耗させないで。電池なくなったら終わりなんだから。
電池あるよ、じゃないんだよ。
単三電池とかでしょ。この時代の電池って。
ちがう? えっ、ボタン電池かい!
ボタン電池なんてひさしぶりに見たわ。こんなの三十年後の未来じゃ誰も使ってないよ。だせー。
必要なのはバッテリーなの。いや車のバッテリーじゃなくて。いやピッチャーとキャッチャーでもなくて。それはわかるでしょ。
あー、充電器あればなー。
せめてちゃんと充電してたらなー。なんで残り5%のタイミングでタイムスリップしちゃうかなー。
え?
ああ、そうだね。そうだけど。
使ってるとちょっとあったかいからカイロとしても使えるけど。
それ、ドラえもんに「ちょっとトイレ行ってくるから荷物見といて」ってお願いするぐらいのどうでもいい使い方だからね!
2019年8月26日月曜日
【読書感想文】ふつうの人間の持つこわさ / 宮部 みゆき『小暮写眞館』
小暮写眞館
宮部 みゆき
写真屋だった建物に引っ越してきた高校生の主人公が、様々な心霊写真の謎解きを依頼され……というお話。
派手な犯罪や凶悪な登場人物などは描かれず、日常の謎系のミステリ。『ステップファザー・ステップ』みたいな味わい。
しかし、この謎解きはいただけない。オカルト頼り。
「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」って川柳があるけど、それならおもしろいんだよね。謎解きの妙があるから。
でも『小暮写眞館』は「幽霊の 正体見たり 幽霊だ」だからなあ。心霊写真が撮れたので調べてみたら正体は霊でした……ひねりがなさすぎる。
オカルトが好きじゃないんだよね、個人的に。 スパイス的に使うのならともかく、メインに据えられるとげんなりする。
怖いとかじゃなくて霊に興味がない。霊感があるだのどこそこのトンネルが出るだのこの部屋は前の住人が自殺して……だの言われても「あ、そ」としかおもえない。
見える人には見えるのかもね、自分には関係ないけど。
「南米の熱帯雨林に棲むイチゴヤドクガエルは強力な毒を持っているんだって。怖いよね」と言われても「ふーん。まあ自分には関係ないからどうでもいいけど」としかおもわないのと同じだ。
あと霊を感動させるための道具として使うことも気に食わない。なんかずるい。霊を出したらなんでもありになっちゃうじゃん。
宮部みゆき作品でいうと『魔術はささやく』もダメだったなあ。催眠術使うのはずるいでしょ。これも同じ感覚。
……ってな感じで上巻でずいぶんげんなりしながら読んだんだけどね。
でも下巻はおもしろかった。下巻はほとんど霊が関係なかったからね。わるいね、霊が嫌いなんだ。
上巻の伏線が下巻では生きて、幸せいっぱいそうに見える家族の病理も浮かびあがってくる。
下巻だけとってみれば、よくできた小説だ。
下巻には、我が子を亡くした母親が葬儀の場で親戚一同から追い詰められる様子が書かれている。
「どうして子どもを死なせたんだ」「なぜもっと早く気づいてやれなかったんだ」と。
追い詰めている人たちを駆り立てるのは悪意ではない。善意だったり、保身だったり、やりきれなさだったり、つまりはぼくらがみんな持っているものだ。
そういうあたりまえのものが、誰かを死の淵まで追い詰めてしまうことがある。
インターネットの炎上を見ていると、だいたいがそんなもんだ。
炎上する人も、させる人も、ほとんど悪意は持っていないように見える。正義感や見栄や義侠心や怯えが、炎上への引き金をひいてしまう。
『小暮写眞館』の読後感を一言でいうなら、よくある感想だけど「霊よりも生きた人間のほうがこわい」。
ふつうの人間のこわさがにじみ出た小説だとおもう。
くどいけど、霊が出てこなければもっとよかったんだけどなあ。
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2019年8月23日金曜日
【読書感想文】秘境の日常 / 高野 秀行『恋するソマリア』
恋するソマリア
高野 秀行
高野秀行さんの『謎の独立国家ソマリランド』は、とんでもなくおもしろい本だった。
紛争地帯でありながら氏族制度によって絶妙なバランスを保ち、海賊で国家の生計を立て、イスラム文化でありながらカート(覚醒剤みたいなもん)が蔓延している国ソマリランド(国際的には国家として認められていないけど)。
世界の秘境をあちこちまわった高野秀行さんがおもしろい国(国じゃないけど)というだけあって、なにもかもが異色。
西洋文明はもちろん、アラブやアフリカとも一線を画したユニークな国の姿を知ることができた。まだまだ地球には秘境があるのだ。そこに住んでる人もいるのに秘境というのは失礼かもしれないが、しかし想像の埒外にある文化なのでやっぱり秘境なのだ。
『謎の独立国家ソマリランド』多くの人に読んでほしい本だ。
で、その続編ともいえるのがこの『恋するソマリア』。
『謎の独立国家ソマリランド』を読んだ人には前作ほどの衝撃をないが、それでもソマリ人文化のユニークさはびしびしと伝わってくる。
なんちゅうか、一見乱暴な制度だ。
人が殺されたらラクダ百頭分を支払わなきゃいけないってことは、裏を返せばラクダ百頭分を支払えば殺してもよいということになりそうだ(じっさいはどうかわからないが)。
「加害者の娘と被害者の遺族の男子を結婚させる」はもっとひどい。
たとえば自分の親が殺されたら殺人犯の娘と結婚させられる、つまり殺人犯が義父になる(この本にはじっさいそうなった男性が登場する)。
それって賠償になるのか? 全員イヤな思いするだけなんじゃないの? という気もする。
まあ誰もトクしないからこそ痛み分けってことになるのかもしれないけど……。
しかし、現実にこのやりかたが今でも生き残っているということは、それなりに合理的な制度ではあるのだろう。
今の日本みたいに平和な国に暮らしていると、殺人事件が起こったら「どうやって加害者を罰するか」を考える。
でもソマリアのようにずっと戦いに明け暮れていた国だと、加害者の処罰よりも「どうやって報復の連鎖を防ぐか」のほうがずっと重要なのだろう。ひとつの殺人事件をきっかけに部族同士の抗争に発展して何十人もの死者を出すことになった、みたいな事例がきっといくつもあったのだろう。
「加害者の娘と被害者の遺児を結婚させる」というのは報復の連鎖を防ぐための方法なのだろうね。
当事者たちにはやりきれない思いも残るだろうけど「村同士の抗争を防ぐためだ。泣いてくれ」ってのは、それはそれで有用な知恵だとおもう。当事者の人権を無視した和解方法だけど、人権よりもまずは命のほうが大事だもんんね。
ソマリアで主婦たちに料理を教えてもらうことになった著者。
このへんのくだりはすごく新鮮だった。
日本だと「田舎に行ってその家に伝わる料理をおばちゃんから教えてもらう」みたいなテレビ番組がよくある。どうってことのない話だ。
これがイスラム世界だととんでもないことになる。
宗派にもよるが、イスラム教徒の女性は家族以外の男と話すことを禁じられていることが多い。まして夫のいない間に外国人を家に上げるなんて、宗派によっては殺されてもおかしくないような行為だ。
そんなわけで、外国人にはイスラム圏の女性の生活はほとんどわからない。
当然ながらどの国も人口の半分は女性だ。ソマリアに関しては多くの男が戦死しているので女性のほうがずっと多い。女性に触れないということはその国の文化の半分もわからないということだ。政治や経済のことは男性に聞けばわかるが、料理を筆頭とする家事や育児のことはヒジャーブ(イスラムの女性が顔を覆う布)に包まれたままだ。
そのガードを突破したのだから、うれしくないはずがない。
そういえばぼくが中国に留学していたとき、近くの商店街の二十歳ぐらいの女性と仲良くなり、「日本語を教えてくれ」と頼まれた。
今おもうと本気で日本語を学びたかったというより外国人がものめずらしいから話すきっかけをつくりたかったのだろうとおもうが、ぼくもうれしくなって商店街に通っては日本語を教えていた。きっと鼻の下は伸びきっていたはず。
母語を教えるのって楽しいよね。苦労もなく習得した言語なのに、特別な技能であるかのように教えられるもんね。女性相手ならなおのこと。
ソマリアは危険地帯のはずなのだが、読んでいるとずっと平和な旅が続く。紛争地帯っていったってこんなもんだよなあ、とおもっていたら急転直下、高野さんの乗っていた装甲車が武装勢力から銃撃される。
開高健の『ベトナム戦記』をおもいだした。
ベトナム戦争に従軍した著者のルポルタージュだが、圧巻は後半の森の中で一斉に銃撃を受けるシーン。二百人いた部隊があっという間に数十名になってしまう様子が克明に描写されている。読んでいるだけで息が止まりそうな恐怖を味わった。
それまではどちらかというと物見遊山という筆致で、戦争なんていってもそこには人間の生活があって兵士たちも案外ユーモアを持って過ごしているんだねえ、なんて調子だったのに一寸先は闇、あっというまに死の淵へと引きずりこまれてしまう。
人が死ぬときってきっとこんな感じなんだろうな。
予兆とかなんにもなくて、少々あぶなくても自分だけは大丈夫とおもって、「あっやばいかも」とおもったときには手遅れで、きっと死をどこか他人事のように感じたまま死んでいくんだろう。
戦死した兵士も大部分はそんな感じだったんじゃないだろうか。
その他の読書感想文はこちら
2019年8月22日木曜日
ちょろいぜ娘
娘のピアノの発表会が近づいてきた。
最近、母娘喧嘩が絶えない。
妻が「練習しよう」と言い、
娘が「もうやったからいい!」と言う。
それが毎日。
発表会は来週。
娘は十回中九回まちがえるのだが「弾けるから大丈夫」という。
十回中一回の奇跡が発表会本番にやってくると信じているのだ。その楽観性、うらやましい。
「まあ幼児のピアノ発表会なんてどんなに下手でも許されるし、むしろちょっとまちがえるぐらいのほうがかわいげがあっていいんじゃない?」
「練習しなくて本番で失敗して悔しい思いをするのもいい経験じゃない?」
とぼくは云うのだが、完璧主義者の妻には「本番でまちがえる」ことが許せないのだ。
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理想と現実はちがう |
妻からどれだけ練習するように言われても、娘は練習しない。
「もうできるからいいもん」
ぼく自身が叱られてばかりの子だったから、娘の気持ちがよくわかる。
「掃除しなさい」「早くお風呂に入りなさい」「宿題は早めにやっちゃいなさい」耳にたこができるほど言われて育ってきた。
だからわかる。
いくら「練習しなさい」と言われても、練習したくなるわけがない。
妻がぼくに云う。
「ぜんぜん練習してくれなくて困ってるんだけど。どうしたらいいかな」
しかたない。
めんどくさがりやのおとうさんが一肌脱ごう。
「よーし、(娘)がピアノ弾かないからおとうさんがやろーっと!」
そしてピアノの前に座る。
何度か練習しているうちに、それなりに弾けるようになってきた。
「わー、おとうさんもう弾けるようになってきた。(娘)よりうまいわ!」
妻も調子をあわせてくれる。
「ほんと、おとうさん上手だわ。発表会もおとうさんに出てもらおうかな」
「よーしっ、スーツ新調しないとなー!」
ここで娘が近づいてくる。
「ピアノ練習するから代わって」
しめた。かかったぞ。
だがここで焦ってリールを巻いてはいけない。もっと近づけねば。
「だめだめ。おとうさんが練習してるんだから。弾いたらだめ!」
「それわたしのピアノ!」
「でも使ってなかったでしょ。おとうさんが使ってるんだからイヤ!」
娘がぼくを押しのけるようにしてピアノの前に座る。
ぼくは立ち上がり、
「わかった。じゃあ一回だけ弾いてもいいよ。そしたらその後はずーっとおとうさんの番ね」
と云う。
「だめ! ずっと(娘)が弾く!」
「えー。ずるーい!」
と云いながら、内心で舌を出す。ちょろいぜ。
「教えて」作戦も有効だった。
「おとうさんも弾いてみたいから教えて」と娘に頼む。
「練習しなさい」だと反発する娘も、「教えて」と言われると悪い気がしないようだ。
しょうがないな、という感じでピアノの前に座り、
「ここまで弾いたら、五つ数える。で、次はここ。ちがうちがう、ドはおとうさん指で弾くの」
と教えてくれる。先生の真似をしているのだろう。
「ちょっと弾いてみせて」と頼んでみると、
「ちゃんと見といてよ」ともったいをつけて弾いてくれる。
「なるほどー。ありがとう」と云うと、満足そうにしている。
他人に教えることが自分自身の復習になっているということにも気づかずに。ちょろいぜ。
妻がぼくに「おかげで助かった」と云う。
いいってことよ。我ながら、子どもを動かすのがうまいぜ。
ん? 妻の顔が一瞬、ニヤリと笑っているように見える。
だがその笑みはすぐに消えた。
いや、ぼくの気のせいか。
そうだよね。気のせいだよね。
まさか、妻が「夫を動かすなんてちょろいぜ」とおもってるなんてこと、あるわけないよね。
2019年8月21日水曜日
ジジイは変わる
考えを変えることに対して厳しい人が多い。
特にインターネット上の言論だと、その傾向が強い。
過去の発言や著述をさくっと検索できるようになったからだろう。
「こいつはこんなこと言ってるけど五年前は反対のこと言ってたぜ!」
「それってあなたが以前にした発言と矛盾してますよね?」
なんてことを言う人がいる。
ええじゃないか。
考えが変わっても。
というか、変わるほうがいいでしょ。
たくさん本を読んで、他人の話を聞いて、あれこれ考えてたら、そりゃ考えが変わることもあるでしょ。
本を読むって少なからず自分の考えを変えるための行為でもあるわけだし。
生きていれば、持てる情報も変わるし、置かれた立場も変わる。自分が変わらなくても世界が変わる。
もしも石油がなくなったら原発反対派だって「ある程度は原発に頼らざるをえないよね」って考えになるかもしれないし、原発賛成派だって自宅の横に原発つくるって話になれば「ちょい待てよ」と言いだすだろう。
ぼくだって今は「年寄りに税金を使うな」とおもっているが、いざ自分がジジイになったら「年寄りを大切にしろ!」と言いだす可能性大だ。
自分がどんな立場に置かれても世界がどんなに変化しても主張が変わらないとしたら、それはもう主張というより信仰だ(信仰も往々にして揺らぐものだけど)。もしくは、はじめから何も考えていなかったか。
立場が変われば主張が変わるのも当然だ。
派遣社員だった人が経営者になれば、発言の内容も変わるだろう。
よく戦争反対を唱える人に対して
「敵国が攻めてきて自分の家族が殺されそうになっても同じこと言えるのか?」
なんて言う人がいるけど、そんな詭弁には意味がない。
「だったらあなたは戦争が起こったときはあなたがまっさきに徴兵されて最前線に送りこまれることになっても戦争できる国にしたいとおもいますか?」
と返されたら、そいつはきっと黙ってしまうだろう。
「〇〇になっても同じこと言えるのか?」は愚問だ。なんで異なる状況なのに同じこと言わなきゃいけないんだ。
考え方が変わるのは悪いことではない。いいことかもしれない。
「それってあなたが五年前にした発言と矛盾してますよね?」と言われたら、五年間で自分は成長できたのだと喜びたい。
ただ、変わった原因は自覚しておきたい。
本を読んだから変わったのか、人と会って新しい意見に触れたからなのか、自らの置かれた立場が変わったのか、環境が変わったのか。
そのへんの自覚なく変わるのは、思想をアップデートしたんじゃなくて流されてるだけだとおもうんだよね。
だから自戒を込めて。
油断しているとついつい「はじめからこうおもってましたけど?」って考えちゃうからね。
「ワシが若いころはお年寄りを敬う気持ちを持っておったもんじゃ」とか嘘八百を並べるジジイにならないように。
ちゃんと「若いころはジジババ早く天に召されろ!とおもっててすんませんでした」と言えるジジイになりたいとおもう。
2019年8月20日火曜日
夏休みの自由研究に求めるもの
お盆に実家に帰ったら、小学三年生の姪から「夏休みの宿題の自由研究の書き方を教えてほしい」と頼まれた。
よっしゃよっしゃと引き受けて「大卒学士様の力見せたるわい!」と教えはじめたんだけど、まああれだね。これはストレスフルな作業だね。
姪の中で『飼っているカブトムシの研究』という内容は決まっていたので、まずは姪の話をヒアリング。
「カブトムシはいつから飼ってるの?」
「どうやって捕まえたの?」
「エサは何をいつあげてる?」
「カブトムシAとカブトムシBのちがうところは?」
なんて質問をして、
「じゃあ『カブトムシをどうやって捕まえたか』『飼ってみて気づいたことはなにか』『カブトムシごとの性格の違い』という三部構成で書いてみようか」
と、全体の設計図を引いた。三年生でこの内容なら上出来だろう。
ここまではよかった。
「よし、それじゃあさっそく書いてみようか」
といったものの、姪の鉛筆が進まない。顔にも疲れが見られる。
全体の構成を考えただけで、すっかり疲れているのだ。
ぼくからしたらこんなの準備運動みたいなものでやっとここからがスタートなのだが……。
三年生ってこんなにも集中力がないものなのか。
少しだけ休憩をはさみ、姪は書きはじめる。
見ながら「その漢字ちがうよ」「ぜりーはカタカナで書くんだよ」などと指摘すると、あからさまにイヤそうな顔をされる。
ぼくとしては、表現の不自然さや言い回しのつたなさには目をつぶり、明らかな間違いだけ指摘するように配慮してるつもりなのだが……。
カブトムシの捕まえ方の項では、姪が
「ゼリーを木に塗っておいたら朝カブトムシが集まっていたのをつかまえた」
と書いていたので
「もっと細かく書いたほうが伝わるとおもうよ。『七月下旬の朝六時頃、〇〇神社のクヌギの木の幹に集まっていた』とか。カブトムシの他にどんな虫が集まってたかとか。絵を描いたらもっとわかりやすくなるとおもうよ」
とアドバイスしたのだが、
「いいっ。もう書いちゃったし」
とにべもない。
「でもこれはまだ下書きでしょ。隙間に書きたせばいいじゃない」
と言っても
「もういいの」
と迷惑そうにする。
おい教えてやってるのになんだその態度は、とむっとするが「ふーん、だったらまあいいけど」とぐっとこらえる。
これが他人だったら「もう知らんわ。自分でやれよ」となるだろうし、我が子だったならきっと喧嘩になっている(こちらだけでなく向こうの言い方ももっときつくなるだろう)。
どうにかこうにか自由研究は完成した。
「メスのAちゃんは男好きなのでずっとオスといちゃいちゃしてる」
「オスのBはCちゃんにふられたのに次の日にはAちゃんに近づいていってた」
という、カブトムシの生態よりも各個体の恋愛模様にスポットをあてた『あいのり』『テラスハウス』みたいな研究報告になったけど、それはそれで女子っぽくていい。
完成したときの姪の晴れ晴れとした顔を見て、自分が勘違いしていたことに気づいた。
自由研究に対して求めるものがぼくと姪とではまったくちがったのだ。
ぼくの目的は「文部科学大臣賞を獲れるようなすばらしい自由研究を書いてもらうこと」だったが、姪の目的は「最小限の労力で宿題を終わらせること」だったのだ。
そうだった。忘れてた。
ぼくが小学生のときもそういうマインドだった。
とりあえず怒られない程度のレベルのものをできるだけ少ない労力で作れればそれでいい、とおもっていた。
すばらしい自由研究を提出して褒められようなんてこれっぽっちもおもっていなかった。
そうだったそうだった。
小学生ってそうだった。忘れてた。
叔父さんを頼ってくれたのがうれしくて、ついついすばらしいレポートにしてやろうと意気込んでしまった。
そういうの求められてないんだよね。
次に手伝ってくれと頼まれたときは「楽にそれっぽいレポートをしあげるコツ」を教えてあげよう。
おじさん、どっちかっていったらそっちのほうが得意だぜ。
2019年8月19日月曜日
母との対立、父の困惑
娘(六歳)は、おかあさんの云うことを聞かない。
おかあさんに「手を洗ってきて」「早く着替えないと置いていくよ」と云われると、いちいち反発する。
「わかってる!」
「いっぺんに言わんとって!」
「おかあさんだってそんな言い方されたらいややろ!」
「ひとのことは言わんでいい!」
「いま忙しい!」
いちいちつっかかる。それか無視するか。
他の保護者に聞いても、「母と娘」は対立しやすいらしい。
でもおとうさん(ぼく)のいうことには、たいていおとなしく従ってくれる。
理由はいくつかある。
まずぼくのほうが厳しい。おとなげないと言ったほうがいいかもしれない。
「置いていく」といったらほんとに置いていく。
「じゃあごはん食べなくていいよ。おとうさんが食べるから」といったらほんとに娘の分まで食べてしまう。
妻はそこまでしないので、何をいっても口だけだと見透かされているのだ。
あとぼくのほうが力が強い。
駄々をこねる娘を引きずって風呂場まで連れていって力づくで服を脱がせてシャワーをぶっかけたこともあるし、わがままの度が過ぎるときに抱きかかえて押し入れに閉じこめたこともある(三分ぐらいね)。
幼児といえども本気で暴れたらけっこう激しいから、こういうことは力が強くないとできない。
妻にはむずかしい。
妻と娘が対立していると、困ったものだ、とおもう。
でも同時にちょっと優越感もくすぐられる。
けんかの仲裁に入るときは「しょうがないな。やっぱりおとうさんがいないとだめだな」と顔がにやけてしまいそうになる。
ほんとに困ったものだ(そんな自分が)。
2019年8月16日金曜日
【読書感想文】ブスでなければアンじゃない / L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』
赤毛のアン
L.M. モンゴメリ (著)
村岡 花子 (訳)
ご存じ、赤毛のアン。子どもの頃に読んだはずだけど「赤毛を黒く染めようとして髪が緑になった」というエピソードしか記憶にない。子ども心に「変な染料を使っても緑にはならんやろ」とおもったのをおぼえている。
で、三十代のおっさんになってから再読。
例の「赤毛が緑に」はかなりどうでもいいエピソードだった。
アンがいちご水とまちがえてぶどう酒をダイアナに飲ませてしまう、というエピソードがある。
これを読んでおもいだした。
まったく同じことをぼくもやった!
小学生のとき。
母が青梅に氷砂糖を入れ、そこに水を入れて「梅ジュースやで」とぼくに飲ませてくれた。おいしかった。
翌日、友人のKくんが遊びにきた。
台所に行ったぼくは、昨日の「梅ジュース」が瓶に入って置いてあることに気づいた。
ぼくは「梅ジュース」をKくんにふるまった。あの後母がホワイトリカーを注いで梅酒にしていたとも知らずに。
Kくんは一気に飲み、顔をしかめた。「なんか変な味がする」
「え? そんなことないやろ」ぼくも少しだけ口をつけた。昨日とちがう味がする。おいしくなくなってる。
「あれ。なんでやろ。昨日はおいしかってんけどなあ」
しばらくして、Kくんは気分が悪いといって家に帰った。
後からKくんのおかあさんに聞いた話だが、Kくんは自宅に帰ったあとに大声でなにかをわめきちらし、まだ夕方だというのにグーグー寝てしまったそうだ(Kくん自身も記憶がなかったそうだ)。
赤毛のアンのエピソードそのままである。
おもわぬところで昔の記憶がよみがえった。まさかぼくと赤毛のアンにこんな共通点があったなんて。
ちなみに、『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描いた朝の連続テレビ小説『花子とアン』にも友人にお酒を飲まされて酔っぱらうエピソードが描かれていたそうだ。
ところで、最近の『赤毛のアン』について言いたいことがある。
『赤毛のアン』は今でも人気コンテンツらしく、各出版社からいろんな版が出ている。
中にはイラストを現代風にしたものも。
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講談社青い鳥文庫(新装版) |
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集英社みらい文庫(新訳) |
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学研プラス 10歳までに読みたい世界名作 |
アンをかわいく描いちゃだめでしょ。
現代的なイラストをつけることに文句はない。古くさい絵だとそれだけで子どもが手に取ってくれなくなるからね。
だから、こんなふうに『オズのまほうつかい』のドロシーを現代的なかわいい女の子に描くことは大賛成だ。
でもアンはだめだ。
「やせっぽちで赤毛でそばかすだらけの見た目のよくない少女が、持ち前の明るさと豊かな想像力で周囲の人間を惹きつける」
これがアンの魅力だ。
アンを美少女に描いてしまったら設定そのものが崩れてしまう。
「アンは生まれついての美少女だったのでみんなに愛されました」だったなら、ここまで世界中の子どもたちから愛されなかったにちがいない。
この描写からもわかるように、アンは初対面のおばさん(しかも“しょうじき者”)から「きりょうが悪い」と言われるぐらいのブスで、そのことを自覚してコンプレックスに感じている少女だ。
だからアンの挿絵は美少女であってはいけない。『美女と野獣』の野獣がグロテスクなビジュアルでなければ話が成立しないように。
赤毛のアンの魅力をきちんと理解している本もある。
![]() |
ブティック社 よい子とママのアニメ絵本 |
![]() |
徳間アニメ絵本 |
ここに描かれているアンは、美少女キャラのダイアナにくらべて明らかに見劣りしている。アンを、がんばってブスに描いている。
身も蓋もない言い方をすれば、赤毛のアンは「ブスが美人より輝く物語」だ。
『白雪姫』や『シンデレラ』のような生まれながらの美女がいい目を見る物語が素直に受け入れられるのはせいぜい幼児まで。成長するにつれ、自分が「お妃さまに嫉妬されるようなこの世でいちばん美しい存在」でないことがわかってくる。
だからこそ、自分の見た目に悩みを抱える十一歳のアンの物語が世界中で読まれてきたのだ。
他の作品はどうでもいいけど『赤毛のアン』だけはちゃんとブスっ子にしてくれよな!
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2019年8月14日水曜日
ツイートまとめ 2018年12月
対案
「今から君たちには殺し合いをしてもらいます」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 3, 2018
「いやだ!」
対案主義者「では対案を出してください」
「え……?」
対「反対するのなら、君たちに死んでもらうための他の案を出してください。対案を出さないと議論ができません」
「殺し合いなんてだめだ!」
対「対案を」
生後二か月の遊び
五歳の娘といっしょに、生後二ヶ月の次女で遊んでる。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 5, 2018
交代で次女のおなかをなでたりくすぐったりして、次女が「アー」と声を出したら一点入るという遊び。けっこう盛りあがる。
パパイヤ
パパイヤって、なぞなぞと小太りアフロダンサーの話するときしか使わないな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 6, 2018
ドイツ
昔、ある授業で「いろんな国の人と話そう。相手の国の言葉を話してみよう」という課題があり、ドイツ人とペアを組むことになった。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 6, 2018
ドイツ人は「コンニチハ」「スシ」とか言ってくれたのだが、ぼくの頭には「アウシュビッツ」しか出てこなくてこれ口に出したら戦争になるとおもって冷汗かいた。
なぞなぞ
娘から「カメはカメでも水の中にいるカメはなーんだ?(答:ワカメ)」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 7, 2018
というなぞなぞを出されたんだが、カメもけっこう水の中にいるぜ。
謎謎
気づいたらかばんに入ってたんですが、これなんだろう……。 pic.twitter.com/lu8146U6bs— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 9, 2018
育児
妻が言うには、— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 10, 2018
「五歳の子を持つお母さん同士で話すと、うちの子はちゃんと成長してるんだろうかって悩みが話の中心になる。
でも上の子が小学生で二人目が五歳というお母さんだとそんな悩みはとっくに通りすぎていて、どの家具がいいとかどのコーヒーメーカーがいいとかの話が中心」
だそうだ。
値引き
値下げを強調しすぎるあまり肝心なところまで否定してしまう看板。 pic.twitter.com/Cf55pdXowo— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 11, 2018
ケーキ
かご盛りチーズケーキってのを買った。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 12, 2018
すごくおいしかったんだけど、ぐちゃぐちゃしたやつを皿にあけたら手盛り豆腐みたいになって見た目がすごく悪かったのでもう買わないと思う。
ケーキは見た目も重要だと改めて感じた。
理想の死
「後継者不足による倒産増加が深刻な問題になっている」というニュースを見たけど、「後継者不足で会社を畳む」って会社の終焉としてはいちばん幸せな形なんじゃないかな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 17, 2018
周囲にほとんど迷惑かけることなく惜しまれながら死ぬ、って理想の死では。
ブラ
下着の広告に「クリスマスブラ」って書いてあったんだけど、「クリスマスブラ」と「クリス松村」って似てるよね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 18, 2018
だべさ
少しも配慮がない雑なネーミング。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 20, 2018
「関西やねん」という店があったら、ぼくならまちがいなく不愉快になる。
この写真ではわかりづらいが、「東北・北海道料理」とも書いてあった。
つくづく雑だ。 pic.twitter.com/aGhgCIswtj
地獄
ペンギンの世界は皇帝がいるからペンギン帝国、バッタは殿様がいるからバッタ幕府、そして閻魔がいるからコオロギ地獄です。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 21, 2018
ポータブル
娘に携帯ゲーム機買ってあげた。 pic.twitter.com/5zkbgJuZIY— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 24, 2018
サンタクロース
サンタなんて欺瞞だと思ってたけど、うちの五歳児が枕元のプレゼントを見たときの反応「ん? なにこの袋? えっ、えっ、もしかして! サンタさん! サンタさん! 来てくれた! しかもほしかったやつ! やったー!(袋を抱きしめる)」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 26, 2018
を目にしたら、そんなのどうでもよくなる。
パチンコ
どういう文化環境で育ったら、文楽や上方演芸資料館や大阪市音楽団や大阪府立国際児童文学館や水道事業にカネを使うのは無駄だけどカジノと万博は無駄じゃないと思えるんだろう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 27, 2018
幼少期からパチンコ屋に入りびたってたんだろうか。
明石焼き
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 28, 2018
一網打尽
バルサン焚けばマックロクロスケも一網打尽。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 29, 2018
ちんどん屋
ちんどん屋の年末公演を見てきた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) December 29, 2018
はじめて見たけど、思ってたとおりにちんどんやってた。 pic.twitter.com/YPcCaYP71r
2019年8月13日火曜日
ツイートまとめ 2018年11月
アレクサ
アレクサのCMで、床に散らばってるレゴを踏んづけた親が— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 6, 2018
「アレクサ、電気つけて」っていうやつあるけど、
どう考えても頼むべきは
「アレクサ、遊びおわったら片付けるように言って!」
だろ。
ビートルズ
「若い子がビートルズを知らなくてビックリ」みたいな話を読んだんだけど、ビートルズは1970年に解散してるから今の60歳だってほとんどリアルタイムで知らないんだよな(解散時12歳)。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 6, 2018
みんな知らないのに知ってる気になってるだけじゃないのか。
居残り
教師の「給食ぜんぶ食べおわるまで遊びにいっちゃダメ」という言葉は、「業務をぜんぶ終わらすまで寝ちゃダメ」という呪いを自分自身にかけることにつながっているのかもしれない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 7, 2018
ホラー
寝てたらおもちゃの剣を手にした五歳の娘がぼくのおなかに乗ってきたんだけど、そのときぼくの目に映った光景。 pic.twitter.com/fjPf34fx9T— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 11, 2018
バス
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 13, 2018
調査
「いいと思う」の中には、— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 14, 2018
「上院で共和党が勝ったのでいい」と
「下院で民主党が勝ったのでいい」と
「ねじれているからいい」が
全部ひとまとめにされている。
その合計がわかったところで、何もわからないに等しい。
五十音順
逆に「相生市」には、なんとしてでも五十音順のトップにきてやろうというあさましさを感じる。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 15, 2018
裁ちばさみ
「裁ちばさみで紙を切るとはさみがダメになる」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 17, 2018
って話、知識としては知ってるんだけどいまだに納得いってなくて心のどこかで「うそだろ」って思ってる。
定型詩
五七五— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 17, 2018
ここで終われば
俳句だが
七七つければ
短歌になるよ
なぞなぞ
娘に「まわりだけ食べて、まんなかは食べないものなーに?」というなぞなぞを出したら(答え:ドーナツ)、— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 18, 2018
「とうもろこし!」という答えがかえってきた。
昨日、五歳児から— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 21, 2018
「ぶたはぶたでも、きれいな音が出るぶたはなーんだ?」
と出題されて、あれこれ考えたけどわかんなかったので
「わかんない。答えなに?」
と訊いたら
「忘れちゃった」
と言われて以来ずっとモヤモヤしています。
これを読んだ人にもモヤモヤを味わってほしくてここに書きました。
「パンはパンでも食べられないパンはなーんだ?」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 21, 2018
「おなかパンパン!」
千と千尋
『千と千尋の神隠し』のえほんを娘に読んであげたら— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 26, 2018
「ハクはなんで優しくしてくれるの?」とか「カオナシは何でこんなことするの?」とか「なんで千の名前が千尋に戻ったの?」とか質問攻めにされたけど、なにひとつ答えられなかった。
おとうちゃんにもぜんぜんわからねえんだよ!
溜飲
NHKのニュースでも— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 26, 2018
「ゴーン容疑者は3畳の拘置所で週2回しか風呂に入れない生活を……」
とかやってる。
他の容疑者のときはそんなこといちいち言わないのに。
金持ちが悲惨な目にあってるのを見て溜飲を下げさせるために報道してるんだろうな。
値下げ
相手「値下げしないと他を使うぞ!」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 27, 2018
ぼく「でしたらしかたないですね。またなにかありましたらお声掛けを(社交辞令)」
相手「おい、ほんとに使わんぞ! いいのか!」
ぼく「このたびはご期待に沿えることができず申し訳ございま……」
相手「ほんとに使わんぞ! いいのか!」
こういうやつなんなの。
爪痕
「オリンピックに万博、年寄りは昔の夢にしがみつきすぎ。今さらそんなのやっても経済効果はマイナス」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 28, 2018
と言う人が多いけど、それだったらまだマシ。
現実はもっと悲惨で、誘致している人たちは「うまくいかないことはわかってるけど任期中に何か爪痕を残したい」でやってるように思えてならない。
恐竜時代
ぼくも恐竜図鑑のうしろのほうに載っている「この時代に生きていた哺乳類」のページが好き。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 28, 2018
恐竜がはばをきかせている時代に生きるのはつらかっただろうなあ、と同情してしまう。 https://t.co/V5f75DCN03
ポイントカード
ペットショップの店員— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 28, 2018
「こちら犬猫1匹お買い上げごとにスタンプ1個押させていただきまして、30個たまりますと小型犬1匹と交換させていただきます」
一片の悔いなし
子どもがはじめて自転車に乗れた瞬間とはじめてさかあがりができた瞬間に立ち会えたので、もうこの世に思い残すことはなにひとつない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 29, 2018
プリキュア
今季のプリキュアは子育てがテーマだから、次は介護がテーマの「ハートフルケア!プリキュア」か「いきいき!プリキュア」のどっちかだと思ったのになー。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) November 29, 2018
2019年8月9日金曜日
【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』
世にも奇妙な人体実験の歴史
トレヴァー・ノートン (著) 赤根洋子 (訳)
いやあ、おもしろかった。これは名著。
科学読み物が好きな人には全力でおすすめしたい。
世の中にはおかしな人がずいぶんいるものだ。
ぼくにとっていちばん大事なものは「自分の命」だ。あたりまえだよね……とおもっていた。
でも子どもが生まれたことでちょっと揺らいできた。
自分の命を投げ出さなければ我が子の生命が危ないという状況に陥ったら……。
ううむ、どうするだろう。
そのときになってみないとわからないけど、身を投げだせるかもしれない。少なくとも「そりゃとうぜんかわいいのは我が身でしょ!」とスタコラサッサと逃げだすことはない……と信じたい。
そんな心境の変化を経験したおかげで、大切なものランキング一位がで「自分の命」じゃない人はけっこういるんじゃないかと最近おもうようになった。
「子どもの命」や「他者」や「信仰」や「誇り」を自分の命よりも上位に置いている人は意外とめずらしくないのかも。
『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、そんな人たちの逸話を集めた本だ。
この本に出てくる人たちにとって、大事なのは「真実の解明」だ。
彼らは真実を明らかにするために自らの健康や、ときには命をも賭ける。
毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。
こんなエピソードのオンパレード。
世の中にはイカれた科学者がたくさんいるんだなあ。
それでもこの本に載っているのは「クレイジーな人体実験をしてなんらかの成果を上げた科学者たち」だけなので、「危険な実験をして成果を上げる前に死んでしまった科学者たち」はこの何十倍もいたんだろうな。
「彼らはまず、安全だと現在考えられている量の十倍から服用実験を開始した」って……。
いやいや。
ふつうならまずネズミと犬が死んだところでやめる。犬が死んだのを見た後に、自分で飲んでみようとおもわない。
仮に飲むとしても、「安全だと現在考えられている量」から服用する(それでもこわいけど)。なんでいきなり十倍なんだよ。ばかなの?
しかしこの無謀すぎる実験のおかげで適量のモルヒネが苦痛を和らげることが明らかになり、モルヒネは今でも医療用麻薬として使われている。
こういうクレイジーな人たちがいたからこそ科学は進歩したのだ。偉大なるバカに感謝しなければならない。
今、うちには生後九か月の赤ちゃんがいる。
こいつはなんでも触る。なんでもなめる。口に入る大きさならなんでも口に入れようとする(止めるけど)。
「触ったら熱いかも」「なめたら身体に悪いかも」「ビー玉飲んだらのどに詰まって死ぬかも」とか一切考えていない。当然だ、赤ちゃんなのだから。
それで痛い目に遭いながら赤ちゃんは成長する(もしくはケガをしたり死んだりする)のだけど、この本に出てくる科学者たちは赤ちゃんといっしょだ。わからないから触ってみる、なめてみる、やってみる。
もちろん「死ぬかも」という可能性はちらっとよぎっているんだろうけど「でもまあたぶん大丈夫だろう」と考えてしまうぐらいに好奇心が強いんだろうね。賢い赤ちゃんだ。
この本に出てくる人たちのやっている実験は痛々しかったりおぞましかったり息苦しくなったりするのだが、そのわりに読んでいて陰惨な感じはしない。というか笑ってしまうぐらいである。
著者(+訳者)のブラックユーモアがちょうどいい緩衝材になっているのだ。
「実験失敗 → 死亡」なんてとても不幸な出来事のはずなのに、ドライな語り口のせいでぜんぜん痛ましい気持ちにならない。
人の死を軽く受け止めるのもどうかとおもうが、いちいち深刻に悼んでいたらとてもこの手の本を読んでいられないので、これはこれでいいんだろう。
読んでいるだけでどんどん病気や怪我や死に対する恐怖心が麻痺していく気がする。
この心理の先にあるのが……我が身を賭して人体実験をする科学者たちの心境なんだろうな、きっと。
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2019年8月8日木曜日
本好きは本屋で働くな
本屋で働いていたときがいちばん読書量が少なかった。
とにかく忙しかったからだ(1日の労働時間は平均して13時間ぐらい、年間休日は70日ぐらいだった)。
車通勤だったので移動中も本を読めないし(信号待ちのときに読んでみたことがあるけどぜんぜん集中できない)、慢性的に疲れが溜まっているので休みの日は人と会うとき以外は寝て過ごしていた。
もちろん本屋の業務をしているから、本の情報は入ってくる。
最近この本売れてるなーとか、なんだかおもしろそうな本が出たなとかの情報はいちはやくキャッチできる。
でもそうした情報を知れば知るほど、読みたいという気持ちが薄れていく。
「〇〇というキャッチコピーの帯をつけてから売れはじめて〇〇賞を受賞して〇〇年には映画化されるらしい」とかの周縁の情報を溜めこむうちに「どんな本だろう」という気持ちが薄れていってしまう。まったく読んでいないのに知ったような気持ちになってしまうのだ。
「あああれね」という気持ちになってしまうのだ。読んでいないのに!
あと、嫌いな本が増えた。
××の本なんか買うんじゃねえよ、とか。
××ですら低俗な本なのにその二番煎じ三番煎じの本が売れるのほんとくだらない、とか。
××出版社はゴミみたいな本ばっかり送りつけてくるな、××舎は営業の態度が悪いし、もうここの本は買わないぞ、とか。
それから、プライベートで本屋に行っても楽しめなくなった。
陳列の方法が気になったり、「うちは注文しても〇〇がぜんぜん入荷しないのにこの本屋にはこんなに入荷するんだ」と悔しくなったり、あと乱れている売場を無意識に整えてしまったり。
仕事モードになってしまって落ち着かない。
ということで、本屋で働いていたことは本を楽しむうえでプラスよりもマイナスのほうが多かった。
本屋なんて、本好きの働くところじゃないぞ。
ほんとに。
2019年8月7日水曜日
【読書感想文】失敗は見て見ぬふりの日本人 / 半藤 一利・池上 彰『令和を生きる』
令和を生きる
平成の失敗を越えて
半藤 一利 池上 彰
世界情勢、政治、天皇、災害、原発、インターネットといったテーマを切り口に「歴史やニュースをわかりやすく伝えるプロ」のふたりが平成という時代をふりかえった対談。
たくさんのテーマを扱っているので、ひとつひとつの話はちょっと浅くて物足りない。たとえば「平成の政治史」だけで一冊ぐらいの分量だったらもっとおもしろかったとおもう。
でもまあ、これ以上深い話はこの人たちの仕事じゃないか。入口まで連れていくのが半藤さんと池上さんの仕事だもんな。
「平成の失敗を越えて」とサブタイトルがついているように、話の八割ぐらいは「平成の三十年で悪くなったこと」についてだ。
年寄りのぼやきっぽさもあるが、こと日本の経済と政治に関してはまちがいなく劣化しているとぼくもおもう。
平成の三十年で、日本は数えきれないほどの失敗してきた。そしてそのほとんどはきちんと総括できておらず、いまだ手つかずの問題も多い。
政治の不調の原因は、特定の個人や団体にあるのではないとぼくはおもう。
「小選挙区制」というシステムの問題だ。
小選挙区比例代表並立制を生んだのは、1994年に成立した政治改革四法である。
小選挙区制のダメなところは今までにもさんざん書いているのでここではくりかえさないけどさ。
小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』
選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】
民主主義を破壊しかねない小選挙区制だけど、導入されたときは
「民主主義をぶっこわすために小選挙区制にしよう!」
とおもっていた人はほとんどいないんだろう。当時の人たちは「小選挙区制こそすばらしい制度」と信じていたんだなあ。
民主主義をぶっこわしたのは当時の日本人みんなだったのだ。
まあ失敗したこと自体はいいわけだよ。
現状を予想できた人は当時ほとんどいなかったんだろうし。
ダメなのは失敗を改める制度がないことなんだよね。
今の国会議員の多くは小選挙区制のおかげで当選できた人たちなので、それを変えようとしない。
政治制度なんて完璧になるはずないんだから、フィードバックが働かない制度をつくっちゃだめだよ。
現行の小選挙区制は裁判所もずっと違憲状態だっていってるのにいっこうに直らないんだから。
民意がそのまま反映されたら困る人がいるんだろうなあ。
選挙制度は利害関係者である政治家に決めさせちゃだめだよね。裁判所とかの独立した機関にやらせなきゃ。
特に最近は、情報の地域差はすごく少なくなったし、その一方で都市と地方の人口差は開くばかり。地域ごとに選挙区を分ける理由がどんどん薄くなっていっている。
個人的には、大選挙区制にしてしまってもいいんじゃないかとおもう。
原発について。
日本の原発の失敗を見てドイツやイタリアは原発廃止に舵を切ったのに、当事国である日本だけがいまだに原発にしがみついている。
失敗であることに気づきながら責任をとりたくないばかりに失敗から目を背け、取り返しのつかない事態へ突き進んでしまう。すごく日本らしい光景だ。
「日本軍が負けるわけがない」
「地価が下がるわけがない」
「原発が制御不能になることはない」
昭和も平成も、失敗に対する日本の体質は少しも変わっていないなあ。
ぼくはまだ三十数年しか生きていないけど、ここ数年で国内の空気はどんどん息苦しくなっているように感じる。
この本の中で池上さんと半藤さんが「我々もネットでは反日と呼ばれている」とボヤいている。
彼らは日本もアメリカも中国も北朝鮮も等しく「いいとこもあるし悪いとこもあるよね。悪いところはちゃんと批判しなければ」という立場をとっているとおもうんだけど、それでも「反日」になってしまうのだ。
日本政府礼賛でなければ「反日」、という風が吹いているように感じる。
この閉塞感は、経済と無関係ではないだろう。
残念ながら日本の経済力は(少なくとも相対的には)どんどん落ちていっている。日本は先進国ではなく衰退途上国だ、と誰かが言っていた。多くの日本人の実感に近いとおもう。
景気のいいときには「このままじゃ日本はだめだ。立ち止まって反省しよう」みたいな言説が主流だったのに、経済が成長しなくて閉塞感が高まるとかえって「威勢のいい話以外は認めないぜ!」という雰囲気になってしまう。
現実から目を背けたくなるのだ。
つぶれる会社ってこんな空気なんだろうなあ。
そういやぼくは以前書店にいたけど、出版業界ってもう衰退していくことが誰の目にも明らかだから、業界の集まりなんかでも逆に景気のいい話しか出てこないんだよね。
「こんな仕掛けをした本が売れました!」とか「〇〇出版社が業績アップ!」みたいな。
たぶん大戦に突入したときも同じような空気だったんだろうね。
以前、『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』という本の感想としてこんなことを書いた。
この体質は今もって変わっていない。
だからこそこうして半藤・池上両氏は「平成の失敗を振り返ろう」と警鐘を鳴らしているわけだが、そういう人は少数派で、多数派からは「せっかくの前向きな空気に水を差すなよ」と疎まれてしまう。
はたして令和時代は失敗を総括して軌道修正のできる時代になるんだろうか。
それとも、過去と同じように取り返しの失敗に突き進んでいく時代になるのだろうか。
ぼくの予想は、残念ながら……はぁ……。
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2019年8月6日火曜日
歯が抜ける恐怖
娘の友だちSちゃん(六歳)の歯がぐらぐらしている。
乳歯が抜けそうになっているのだ。
そうか、そんな年頃かー。
「へえ。歯が抜けそうなんだ」というと、とたんにSちゃんの顔が曇った。
「ちょっと見せて」というと、「いや!」と口を固く閉ざしてしまった。見ると、涙目になっている。
Sちゃんのおかあさんが
「歯医者さんに診てもらおうとおもって連れていったんですよ。でも大泣きして暴れまわって、結局診てもらわずに連れてかえってきました」
と教えてくれた。
Sちゃんにとっては歯が抜けるというのはめちゃくちゃ怖いことで、考えるだけでも泣いてしまうことらしい。
Sちゃんのおかあさんは「すぐに新しい歯が生えてくるから大丈夫、って言ってるんですけどねー。でもすっかり怖がっちゃって」と笑っていた。
そうかー。
ぼくはもう歯が生え変わるときの気持ちをすっかり忘れてしまったけど、たしかに最初は怖いだろうなあ。
だって身体の一部がなくなるんだよ。恐怖でしかないでしょ。
「もうすぐあなたの指が抜けます。最初は小指、それから薬指、中指、人差し指、そして最後に親指。だんだん指が腐ってぐらぐらしてきますが神経は残っているので痛いです。最後はおもいっきりひっこ抜きます。もちろん強い痛みを伴います。それが両手両足であわせて二十本分あります。大丈夫、すぐに新しい指が生えてきますから」
って言われて
「そっか、新しい指が生えるのか。だったら安心☆」
とはならないわけで。
2019年8月5日月曜日
医者をめざさない理由
高校三年生の進路面談で、ぼくの進路希望を見た担任の教師からこう訊かれた。
「なんで医学部をめざさないの?」
は……?
質問の意味がわからなかった。
逆ならわかる。
ぼくが医学部に行きたいと言っていて「なんで医者になりたいの?」と訊くのならわかる。
だが、医学部を志望しないことに理由がいるのだろうか。
「なぜダンサーにならないの?」とか「なぜ軍人にならないの?」とか訊かれても、 「いや、なりたいとおもったことないから……」としか答えようがない。
それと同じだ。
その教師(おばちゃんの体育教師だった)は受験のことなどまったく知らなかったので、 「医学部に行くには成績が良くなくてはならない」を「成績が良ければ医学部に行く」と勘違いして(命題が真だからといってその逆が真だとは限らないことを知らないのだ)、ぼくの成績がそこそこ良かったので医学部に行くのが当然とおもいこんでいたらしい。
その教師に対していろいろ言いたいことはあった。
医師がみんな崇高な使命に燃えていなければならないとまでは言わないけれど、勉強ができるから、金を稼げるからってだけで医師をめざすような風潮にはぼくは反対です! とか。
それってまるで医師を一段高いものに置いていて、ほかの職業を下に見ているようじゃありませんか! とか。
医師には医師のたいへんさ苦しさがあるだろうに、なれるならなっとけっていうのは本気で医学部を目指している他の学生に対しても失礼じゃないですか! とか。
しかしなにより、いちばん言いたかったのはこれだ。
「いやぼく文系やで! あんた文系クラスの担任なんやで!」
2019年8月4日日曜日
ショールームとエロ動画の本棚
いっとき、家を買おうとおもって住宅展示場やマンションのショールームをいくつか見にいったことがある。
ショールームなので、どの部屋もすてきな内装が施されている。
品のいい家具、シックな壁紙、高級そうな食器。住みたい! とおもわせてくれるインテリアだ。
だが、いくつかのショールームを見ているうちに気がついたことがある。
本がない。
どの部屋にも本がない。本棚がない。
なんてこった!
まあわかるんだけど。
本棚は場所をとるから、ショールームにそんなものを置いてしまうと部屋が狭く見えてしまう。だから置かないんだろうけど。
にしたって。
本棚がない家って、やっぱりなんか嘘っぽい(ショールームだから嘘なんだけど)。
世の中には本をまったく読まない人がいることはぼくも知ってるよ。
でも、まだまだほとんどの家庭には本棚の一架や二架や三架ぐらいは置いてあるもんじゃないだろうか(そうでもないのか?)。
ショールームにはワイングラスを逆さ吊りにするやつ(なんて名前か知らない)もあるのに、本棚はない。
ワイングラスを逆さ吊りにするやつ(名前は知らない)よりは本棚のほうが多いだろ!
それ以来気になって、部屋の写真を見ると本棚をさがしてしまう。
で、気づいたんだけど、じっさいに人が住んでいる部屋には本棚があり、そうでない部屋には本棚がないことが多い。
インテリア雑誌の写真とかテレビコマーシャルの部屋とかには本棚がない。
あっても洋書が数冊並べてあるぐらいで、インテリアとして存在するだけだ。読むための本ではない。
つくりものの部屋に本がないのは、本が住む人をイメージさせてしまうからではないだろうか。
「新書と自己啓発本ばっかりだな。おもしろみのないやつが住んでるんだな」
「うわあ。ハヤカワSFがこんなに。ちょっとめんどくさいSFオタクってかんじだな」
「この人は郷土史に興味があるのか。おじいちゃんかな」
「岩波、ちくま、河出……。おお、これはなかなかの読書家だな」
というように、持ち主の人となりが想像されてしまう。
とたんに生活感というかなまなましさが生じてしまうので、つくりものの部屋には本がないんだろうね、たぶん。
話は変わるけど。
エッチな動画では「部屋」が舞台になっていることが多い。
マンションの部屋に酔っぱらった女の子を連れこんで……とか。
家庭教師の先生の大きく開いた胸元に昂奮してしまって……とか。
シェアハウスに引っ越したら男はぼくひとりで……とか。
そういう動画には本が映っていることが多い。
本好きとしては、ついついそちらに目が行ってしまう(もちろん女性の裸にも目が行ってしまうんだけど)。
たいていは漫画とか漫画雑誌なんだけど、ときどき文庫が並んでいたり、ごくまれにハードカバーの小説が映ることもある。
おっ。こんなの読むんだ。
なんだか親近感が湧く。
エロ動画なんて「つくりもの」の典型のような作品なのに、意外にもちゃんと本が並んでいる。
あれはたぶん撮影のためにつくられた部屋ではなく、予算節約のためにスタッフとかがほんとに暮らしている部屋を提供しているんだとおもう。
だから本があるのだ。置物としての本でなく、読むための本が。
エロ動画の背景に映る本棚、ぼくはあれが大好きだ。
すごくリアリティを与えてくれる。バックに本棚があるだけでエロさが二割増しになる気がする。
ところで、エロ動画に映る本ってモザイクがかかっていることが多いんだよね。
だからタイトルまではわからなかったりする。
出版社や著者から「うちの本をエロ動画に勝手に使うな!」というクレームがつかないようにという配慮なんだろうけど、女の人のおっぱいにはモザイクがかかってないのに文芸書の背表紙にはモザイクがかかっているのはなんかおもしろい。
エロ動画制作の人たちからしたら本って裸よりセンシティブなものなんだなあ。
2019年8月2日金曜日
けったくそわるい
「けったくそわるい」という言葉がある。
たぶん関西弁。
意味としては、不愉快だ、胸くそ悪い、反吐が出そうだ、虫唾が走る、といったところだろうか。強い嫌悪を表す言葉だ。
用例としては、
「けったくそとは漢字で書くと[卦体糞]。[卦体]とは元々……なんてインターネットで三十秒で拾ってきた蘊蓄をならべてえらそうにすなや、けったくそわるい!」
のように使う。
ぼくは関西で生まれ育ったのでときどき耳にする。若い人やきちんとした身なりの人はあまり使わない。
昼間からハイボールを飲んでいるおじさんが口にする言葉、というイメージだ。
ただでさえお近づきになりたくない人が不快感をあらわにしているわけだから、「けったくそわるい」という言葉を聞いたらとるものもとらずにすぐその場を離れたほうがいい。「海辺で地震が起きたら高台に向かって走れ」と同じだ。
危険をあらわすシグナルではあるが、ぼくはこの「けったくそわるい」という言葉が好きだ。
なぜなら、「けったくそわるい」という言葉自体にけったくそわるさがにじみでているから。
「けったくそわるい」とつぶやいてみてほしい。
吐きすてるような言い方になるはずだ。「けっ」で痰がこみあげてきて「たくそわるい」でそれを吐きだすようなイメージ。
「けったくそわるい」と口にしたとき、自然にしかめっつらになるはずだ。
「けったくそわるい」と言いながら笑顔にはならないはずだ。
発声と身体動作が結びついている言葉はほかにもある。
「にやにや」というとき、自然と顔がにやにやしてしまう、とか。
「のらりくらり」と口にするときは無意識に顔の力が抜ける、とか。
「COOL」とつぶやくと体温が少し下がる、とか。
「クラムチャウダー」と言うと口の中でクラムチャウダーができる、とか。
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「けったくそわるい」の顔 |
2019年8月1日木曜日
【読書感想文】小田扉『団地ともお』
小田扉『団地ともお』
漫画の魅力を文字で伝えるのはなかなか困難だが、『団地ともお』という漫画の魅力は、センスのいい笑いと不条理な世界観の融合にある。
昔はトンカツのようなこてこてのギャグも好きだったが、歳をとると「どやっ、おもろいやろっ! わろてや!」って感じのギャグはもう胃もたれして受けつけなくなってきた。
その点『団地ともお』の笑いはぜんぜんもたれなくていい。うどんのようにおなかにやさしい。
主人公のともおは、団地に住む小学生。
団地というと高度経済成長期のイメージだが、ともおは現代に生きる小学生だ。
アイテムとしてパソコンも出てきたりするが、基本的にぼくが小学生だった1990年代とあまり変わらない生活をしている。
虫を集め、カードゲームに興じ、単身赴任中の父さんが帰ってきたら飛びあがって喜び、宿題を娯楽に変えられないかと頭を悩ませ、野球やサッカーで泥だらけになっている。
ぼくも同じような遊びをしていた。
ところがふしぎと、ノスタルジーを感じない。
ひとつには『団地ともお』を読んでいるときはぼくも男子小学生の気持ちに戻っているから。小学生が小学生の生活にノスタルジーを感じるわけがない。
そして『団地ともお』の世界は日常的でありながら非日常だから。
基本的に一話完結なのだが、突然パラレルワールドが描かれたり、過去に行ったり、幽霊が出てきたり、モノや動物が意識を持ったりする。そのことに対して、たいていの場合なんの説明もない。あたりまえのようにファンタジー世界が描かれる。
読んでいるうちに「どうやら今回はパラレルワールドの話らしいな」となんとなくわかるだけだ。
で、翌週には何事もなかったかのように現代の団地に戻っている。
かつてラーメンズの小林賢太郎氏が自分たちのコントについて「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常を描いている」と語っていたが、それに近い。
奇妙を奇妙と感じさせないように描く、ってなかなか易しいことじゃないよね。
これもまた小学生っぽい。子どものときって、異世界がもっと身近にあった気がする。
ふとした瞬間に妙な世界に行ってしまうことがたびたびあったんじゃないかな。たぶん気のせいだろうけど。
『団地ともお』には、しばしば死が描かれる。
死者が幽霊となって出てくる、みたいな軽快な話が多いが、中にはすごく現実的な描き方をしていることもある。
印象に残っているのは、どちらも初期の名作だが、
「過去に子どもをなくした夫婦がともおを預かり、冗談めかして『うちの子になっちゃう?』と言うエピソード」と
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」
だ。
どちらもセンセーショナルな死ではなく、日常からすごく身近なところにある死だ。
「過去に子どもをなくした夫婦」は、もう悲嘆にくれてはいない。子どもを亡くしたのは何年も前のことだからだ。悲しい思い出ではあるがそれなりに自分の中で消化して、日常を取り戻している。
しかしともおが遊びにきたことでかさぶたになっていた傷口が開いて、様々な思いが少しずつ流れだす。
この表現がさりげなくてすばらしい。
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」が伝えるのも、悲しみというより喪失感に近い。
ぼくは数年前旧友を亡くした。くも膜下出血による突然死だった、と聞いた。
亡くなった彼とは教室で言葉を交わす程度で、すごく仲が良かったわけではない。高校卒業後は同窓会で一度会ったことがあるだけ。死んでいなかったとしても、もしかしたら一生会わないままだったかもしれない。
けれど、訃報を耳にしたときは胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさを感じた。そうか、あいつはもういないんだなあ。涙を流すほど悲しいわけではない。病死なのだから誰かを恨むような気持ちでもない。ただ茫々とした寂しさがあった。
たいていの死はそんなものなのだろう。悲しくないわけじゃないけど、号泣したり憤ったりするほとではない。
子どものころに戻りたいとおもっても戻れないのと同じで「寂しいけどしょうがないな」ぐらいの感覚。
この感覚を漫画で表現できる(しかもユーモアで包みながら)漫画家はそう多くないだろう。
『団地ともお』にはときどきこうした文学としか言えないような回がある。
ばかばかしいギャグの間に質の良い文学がはさみこまれるのだから、たまらない。
主人公が男子小学生なので「男子から見た世界」が描かれることが多いのだが、『団地ともお』に出てくる女子もまた魅力的だ。
小田扉の初期の傑作『そっと好かれる』や『男ロワイヤル』で描かれていたような自由自在に生きる女性も魅力的だが、『団地ともお』の女子のリアルなたたずまいもいい。
乱暴者で男子にも喧嘩で勝つ女の子、まじめで先生からのウケはいいが男子からは嫌われている女の子、言いたいことをはっきり口に出せない女の子、集団になると強気な女の子、人の嫌がる仕事を人知れず引き受ける女の子。
どのクラスにもひとりはいたような子ばかりだが、彼女たちの悩みが丁寧に描かれている。
そういえば小学生のときって、男子にとっては女子という存在はひとしく"敵"だったよなあ。なにかというと男子と女子が対立。おとなしい子ややさしい子でも、女子というだけで敵だった。
彼女たちにもそれぞれの悩みがあるなんて、当時はまったく考えなかった。からっぽだとおもっていた。実はぼく自身がからっぽだっただけなんだけど。
そうかあ、あのおとなしい女の子たちもこんなことに悩んでたんだろうなあ。数十年遅れで女子小学生の気持ちがちょっと理解できたような気がする。
最終回もいつも通りの『団地ともお』だった。『団地ともお』らしい。
あんまり終わった、という感じがしない。まるではじめから自分自身の過去の思い出だったような気がする。
ときどきでいいから、また続きが読みたいなあ。