2025年12月15日月曜日

【読書感想文】レイチェル・カーソン『沈黙の春』 / 外来種は環境にいいという60年前の主張

沈黙の春

レイチェル・カーソン(著)  青樹 簗一(訳)

内容(e-honより)
自然を破壊し人体を蝕む化学薬品。その乱用の恐ろしさを最初に告発し、かけがえのない地球のために、生涯をかけて闘ったR・カーソン。海洋生物学者としての広い知識と洞察力に裏付けられた警告は、初版刊行から四十数年を経た今も、衝撃的である。人類は、この問題を解決する有効な手立てを、いまだに見つけ出してはいない―。歴史を変えた20世紀のベストセラー。待望の新装版。

 環境問題について語る上で避けては通れない古典的作品。初出は1962年。今もって最も有名な環境問題の本といってもいい。

 (学生時代に英語の問題集に載っていたのでごく一部だけは読んだことがあった気がするが)刊行から60年以上たって、今さらながら読んでみた。



 今さら『沈黙の春』を手に取ったきっかけのひとつが、ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』に『沈黙の春』の引き起こした被害が書いてあったからだ。

『禍いの科学』によれば、『沈黙の春』が有機塩素系の農薬であるDDTの環境への悪影響を主張した結果、世界的にDDTの使用が禁止された。だがDDTはマラリアなどの疾病を抑えるためのきわめて効果的な薬だった。DDTが禁止された結果、ほぼ根絶できていたマラリアは再流行し、結果として5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは5才未満の子どもだった。

 ことわっておくと、『沈黙の春』にはDDTなどの化学農薬や殺虫剤をすべて使用禁止にせよとは書いていない。ただ、環境に与える害を述べ、不適切な使用、過度の使用に対して警鐘を鳴らしただけだ。

 だが、おそらくこの本は大きな反響を呼んでしまった。結果、カーソンが書いた以上に(カーソンはマラリア予防でのDDTの使用禁止は訴えていない)DDTは敵視され、過度に制限されてしまった。言ってみれば、科学肥料や殺虫剤のバカな使い方を批判したら、別のバカが過剰に反応してしまったというところだ。

「とにかく殺虫剤をばらまいて環境を破壊する人間」と「すべての農薬や殺虫剤を敵視してむやみに禁止させようとする環境保護主義者」は、主張こそ反対ではあるが思考はきわめて近いところにある。どちらも実験や観測を軽視して感情のために行動し、己の行動を顧みないという点が一緒だ。

 環境問題にかぎらず、あらゆる問題がそうだよね。政治的極右と極左とか、エネルギー問題とか、両端にいる人たちって実はけっこう似た者同士なんだよね。バカ同士仲良くしなよ、と言いたくなる。

『沈黙の春』は(おそらく著者の想定以上に)大きな反響を引き起こした。ちょうど、虫を殺すためだけに殺虫剤を使ったのに、他の虫や鳥や魚や獣まで殺してしまったように。


『沈黙の春』が過剰な反応を引き起こしたのは、刊行されたタイミング(科学の進歩によるひずみが表面化してきたころ)が良かったのもあるだろうし、カーソン氏の文章がうますぎるのもあるとおもう。情景を想起させる力が強いし、よくできたストーリーは人間の感情に訴えかけてくる。

 撒布剤、粉末剤、エアゾールというふうに、農園でも庭園でも森林でも、そしてまた家庭でも、これらの薬品はやたらと使われている。だが、《益虫》も《害虫》も、みな殺しだ。鳥の鳴き声は消え、魚のはねる姿ももはや見られず、木の葉には死の膜がかかり、地中にも毒はしみこんでいく。そして、もとはといえば、わずか二、三の雑草をはびこらせなため、わずか二、三の昆虫が邪魔なためだとは……。地表に毒の集中砲火をあびせれば、結局、生命あるものすべての環境が破壊されるこの明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。《殺虫剤》と人は言うが、《殺生剤》と言ったほうがふさわしい。
 化学薬品スプレーの歴史をふりかえってみると、悪循環の連鎖そのものといえよう。DDTが市販されてから、毒性の強いものがつぎからつぎへと必要になり、私たちはまるでエスカレーターにのせられたみたいに、上へ上へととどまるところを知らずのぼっていく。一度ある殺虫剤を使うと、昆虫のほうではそれに免疫のある品種を生み出す(まさにダーウィンの自然淘汰説どおり)。そこで、それを殺すためにもっと強力な殺虫剤をつくる。だが、それも束の間、もっと毒性の強いものでなければきかなくなる。そしてまた、こんなこともある。殺虫剤をまくと、昆虫は逆に《ぶりかえして、まえよりもおびただしく大発生してくるのだ。これについては、あとでくわしく書こう。とまれ、化学戦が勝利に終ったことは、一度もなかった。そして、戦いが行われるたびに、生命という生命が、はげしい砲火をあびたのだった。

 読んでいると「このままじゃだめだ。なんとかしないと」という気になってくる。60年後の日本人にすら強く訴えかけてくるのだから、当時の人々はより強い危機感を抱いたことだろう。

 多くの客観的な数字やグラフを並びたてるよりも、一行の詩のほうがはるかに力強く人間の心を動かしてしまう。



『沈黙の春』はそこそこのページ数があるが書かれている内容はシンプルで、だいたい同じことのくりかえしだ。

 害虫を殺すために殺虫剤を使っているが、その薬は他の生物も攻撃する。他の虫、魚、鳥、場合によっては獣やヒトも。直接害を及ぼすこともあるし、間接的に(殺虫剤を浴びた虫を食べることなどで)健康被害を受けることもある。

 また、狙った害虫だけを殺せたとしても、それがさらなる悪い結果を生むこともある。害虫が激減 → その害虫を食べていた虫や魚や鳥がエサ不足で減る → 捕食者がいなくなったことで再び害虫が増える(しかも薬品に対する耐性をつけている)、ということも起こる。

 これと似たようなことは、ほかにもある。私たちがふだんかまわずまったく無知のまひっこぬいている雑草のなかにも、土壌を健康に保つのに、なくてはならないものが、いろいろある。また、いま《雑草》と一言のもとに片づけられているものも、土壌の状態を的確に示すバロメーターとなっている。一度化学薬品が使われれば、もちろんこのバロメーターは狂ってしまう。
 何でも化学薬品スプレーで解決しようとする人たちは、科学的に重要な事柄――つまり植物の群落をそのまま残しておくのがほかならず科学的にどれほど大切であるか、を見落している。それは、私たち人間の活動がひき起す変化を知る物差なのだ。また、それは野生の生物たちのすみかでもある。

 生態系は無数の生物が複雑にからまりあって構成されているので、ピンポイントで「この生物だけを絶滅させる」「この生物だけを増やす」ということができない。何かが増減すれば、必ず他の生物も影響を受ける。



 そのあたりは納得できる。殺虫剤の農薬の過剰な使用は良くない。その通りだとおもう。

 ただ同意できないのは、終章『べつの道』で著者が提唱する化学薬品の代わりとなる手法。

 微生物殺虫剤というと、ほかの生物を危険にさらす細菌戦争を思い浮べるかもしれないが、そんな心配は無用だ。化学薬品と違って、昆虫病原体は、ある特定の昆虫をおそうだけなのだ。昆虫病理学の権威エドワード・スタインハウス博士は言う―――《本ものの昆虫病原体が、脊椎動物に伝染病を発生させたことは実験においてもまた実際にも一度もなかった》。昆虫病原体は、きわめて特殊なもので、ごくわずかの種類の昆虫だけ、ときには一種類の昆虫だけしかおそわない。高等動物や植物に病気をひき起すものとはまたべつの系統に所属している。スタインハウス博士が指摘しているように、自然界の昆虫に病気が発生するときには、その病気はいつも昆虫にかぎられ、それが寄生する宿主植物や宿主動物に及ぶことはない。

 要するに、ある種の虫を減らしたいのであれば、その虫の天敵となる菌、虫、鳥などを連れてきて、捕食(または病気に感染)させよ、というのが著者の主張だ。

 いやあ……。それはそれでだめでしょ……。

 外来種とかさんざん問題になってるし、沖縄でハブ退治のためにマングースを連れてきたらマングースがハブ以外の生物を食べて害獣化しちゃったなんて例もあるし、うまくターゲットとなる虫を減らせたとしてもどこにどんな影響が出るかわからない。

 60年後の世界から批判するのはずるいけどさ。でも化学薬品はダメで外来種ならいいというのは、やっぱり近視眼的だ。生態系は複雑で影響を予想できないのとちゃうかったんかい。


 環境問題ってつきつめていけば最後は「人間がすべての文明を捨てて原始的な生活をするしかない。子どもや働き盛りの人がばたばた死んでもそれはそれでしかたない」になっちゃうから、どこかで許容するしかないんだよね。農薬を使わないほうがいいといったって、農薬なしで今の人口を支えられないのもまた事実なわけで。

 まるで環境問題に“正解”があって、その“正解”を著者が知っているような書き方がきになったな。研究者として誠実な態度ではない。ま、だからこそ大きな反響を呼んだんだろうけど。世間は「Aが正しそうだがBの可能性もあるしCも否定できない」という人よりも、「Aが正解! 絶対A! 他はだめ!」っていう単純な人に扇動されてしまうものだから。


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