2024年8月31日土曜日

【読書感想文】ブレイディみかこ『他者の靴を履く』 / 他者に共感しないことも大事な能力

他者の靴を履く

アナーキック・エンパシーのすすめ

ブレイディみかこ

内容(e-honより)
「自分が生きやすい」社会に必要なものとは?感情的な共感の「シンパシー」ではなく、意見の異なる相手を理解する知的能力の「エンパシー」。この概念を心理学、社会学、哲学など様々な学術的分野の研究から繙く。うまく活用するために、自治・自立し相互扶助を行うアナキズムを提唱。新しい思想の地平に立つ刺激的な一冊。


「エンパシー」について語った本。

「エンパシー」とは何か。日本語では「共感」と訳されることがある。一方、「シンパシー」もまた「共感」と訳される。

 だが英語ではエンパシーとシンパシーは異なる意味を持つ言葉である(ただネイティブでも混用する人はいるそうだ)。

 英文は、日本語に訳したときに文法的な語順が反対になるので、エンパシーの意味の記述を英文で読んだときには、最初に来る言葉は「the ability(能力)」だ。
  他方、シンパシーの意味のほうでは「the feeling(感情)」「showing(示すこと)」「the act(行為)」「friendship(友情)」「understanding(理解)」といった名詞が英文の最初に来る。
 つまり、エンパシーのほうは能力だから身につけるものであり、シンパシーは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかといえば人から出て来るもの、または内側から湧いてくるものだということになる。

 エンパシーもシンパシーもどちらも「他社の気持ちになって考える」に近い意味なのだが、エンパシーのほうは能力で、シンパシーのほうは感情、つまり自然に湧いてくるものだ。

 かわいそうな人を見て我がことのように胸を痛める、これはほとんどの人が共通しておこなうことだろう。程度の差こそあれ。

 だが「憎い人間の心情を察して、あいつにもやむにやまれぬ事情があるんだろうなと考える」は誰にでもできることではない。成熟していない人間にはできない。

 この「(半ば意識的に)他者の内面を洞察する能力」がエンパシーだ。著者はこれを「他者の靴を履く」と表現している。他者そのものになることはできないけど、他者の靴を履くことでその事情を想像してみよう、ということだ。



 といって、エンパシーはすばらしいものですよ、みんなもっとエンパシーを持っていきましょうね! ……という心もおつむもハッピーな本ではない。


 子どものころから「相手の気持ちになって考えなさい」とはよく言われるが、相手の気持ちに立ったからといって人にやさしくできるとはかぎらない。

 そもそも、我々は往々にして「相手の気持ち」を見誤るのだ。

 いくら相手の気持ちになろうとしても、己を捨てることなんてできない。

「あいつはつらそうだけど、俺だったらこれぐらいの状況ならぜんぜん耐えられる。だからあいつは大したことないのにつらそうなふりをしているんだな」なんて発想に至ることもよくある。これだって相手の気持ちになって考えた結果だ。

 人々の表情を見せてどんな感情かをあてるテストをおこなったところ、人間よりもAIのほうが正答率が高かったそうだ。

 さらにエンパシーとシンパシーの対象の定義を見ても両者の違いは明らかだ。エンパシーのほうには「他者」にかかる言葉、つまり制限や条件がない。しかし、シンパシーのほうは、かわいそうな人だったり、問題を抱える人だったり、考えや理念に支持や同意できる人とか、同じような意見や関心を持っている人とかいう制約がついている。つまり、シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。
 しかし、考えてみれば、AIのほうが生身の人間よりも他者の感情を正確に認識できるのは不思議なことではない。わたしたちが他者に対するエンパシーを働かせようとするとき、自分自身の経験や思想の問題を完全に取り去ることは難しい。人間である以上、どうしても「自分がその立場ならこう感じるに違いない」という「マイ価値観」に立脚したものになりがちで、開かれたフラットな考察にはならないことが多いからだ。これは自己を対象に投射したエンパシーは本物ではないと前世紀半ばの心理学者たちが言ったことでもある。
 他方、AIには生身の人間としての人生経験や思想はないので、「マイ価値観」や「自分だったら」に目を曇らされず、ニュートラルに他者の感情を読むことができる。AIのエンパシーには「こんな汚い靴は履きたくない」という先入観もない。つまり、エンパシーのカテゴリー分けで言うところのコグニティヴ・エンパシー(認知的エンパシー。感情的にならずに理性的に他者の立場に立って想像してみる)という分野では、人間よりもAIのほうが能力的に上なのだ。

 人間は視覚的情報に「自分だったらこうおもう」という価値を付与してしまうのでまちがえる。

 「自分だったらどう感じるだろう?」と想像することはできても、想像はどこまでいっても想像でしかない。


 そのへんの「想像のまちがい」をぼくがよく感じるのは、街頭演説や政治デモだ。

 街頭演説やデモ行進を見るとぼくはたいてい「うっせえな」とおもう。政治に興味がないわけではない。人一倍あるほうだとおもう。それでも往来で自分の主張を大きな音で垂れ流している人に感じるのは「うっせえな」だ。比較的同意できる主張であってもやっぱり「うっせえな」だ。

 そう感じているのはぼくだけではあるまい。街頭演説やデモ行進などは「基本的に嫌い」が多数派だとおもう。

 じゃあ大きな音で自分の主張を垂れ流している人は、想像力がないのだろうか。他人のことをまったく考えていないのだろうか。

 そんなこともないだろう。主張はちがえど、みんなそれぞれより良い世の中にしたいと考えているから政治活動をしているのだ。自分さえよければ他はどうでもいいとおもっている人は、政治に熱心にならないだろう。

 じゃあ他人を思いやれる人がなぜ街頭演説やデモ行進などの“迷惑行為”をするのかというと、他人の気持ちを想像はしているが、その想像がまちがっているからだとおもう。

 自分は日本の未来を憂いている、政治を変えることが重要だとおもっている、大きな音で他人の主張を聞かされることは迷惑かもしれないがその迷惑を上回るだけの利点があるとおもっている、だからもし自分が「街頭演説を聞かされる側」だったとしたら許す、だから許してもらえるはず。こう考えているのだろう。

 他者の気持ちを想像することはできるが、その想像がまちがっていることはよくある



「人の立場に立って考えてみましょう」というお説教にはうさんくさを感じる。

 それって、人の気持ちを勝手に想像してるだけじゃないの? へたしたら何も考えないほうがマシじゃない?


 よく見るのは、恵まれない出自だったのに努力と才能と運に恵まれて成功を収めた人が、弱者にやさしくなるどころか、もともと裕福だった人以上に厳しくなること。

 あれってまさに「人の立場に立って考えている」からこそだよね。

 おれは不利な環境からがんばって成功を収めたんだ、おれがあいつの立場なら努力してそこから抜け出してる、やればできる、すなわちできないやつはやらなかったやつだ! という思考。


 よく言われることだけど、人は自分が通ってきた道に厳しいんだよね。子育てについて口やかましく非難するのは四十代~五十代ぐらいが多い、とか。

 あと自分が心がけていることをないがしろにしている人が許せない、とか。たとえばこんな経験がないだろうか。

 レジに並ぶときに、少し前から財布を取りだしてお金も取り出しすぐに支払えるようにしておく。するとひとり前に並んでいた老人が「〇〇円です」と言われてからようやく財布を取りだしゆっくりお金をさがしはじめる。「あらかじめ用意しとけよ!」と腹が立つ。

 ぼくはしょっちゅうある。これは「相手の立場に立って考えているからこそ許せない」だよね。



 もちろんエンパシーにはいい面もある。必ずしも悪いことではない。

 ぼくが言いたいのは「他者の立場に立つのはいいことと悪いことが同じぐらいある」ということ。だから「人の立場に立って考えましょう」はただの怠慢だとおもう。ぼくがそのお説教を垂れる側の立場に立って考えたら。


 他に、エンパシーを強く感じることの悪い面は「自分自身がしんどい」ということだ。

 あそこに貧しい人がいる、そこにも身体の不自由な人がいる、あの人は家を失った、この子はひどい家庭環境にある、世界の遠く離れた国では戦争で子どもたちが死んでいる……。

 世の中は不幸であふれているから、いちいち他者のために己の胸を痛めていたら身が持たない。マザーテレサはえらいかもしれないけど、みんながマザーテレサだったら人類はあっというまに絶滅するだろう。

 エンパシーを感じすぎれば、罪悪感をおぼえる。そんなに不幸でない自分が悪いことをしているような気分になる。

 つまり、わたしたちはguiltから解放されたいのだ。エンパシーの能力が高い人ほどguiltは強い。遠くの見知らぬ人々の靴まで履こうとするともう先進国の人間は罪の意識を感じるしかないからだ。そんな社会では、できればエンパシーのことは忘れたい。そんなものはないほうが楽に生きられるからだ。しかし、災害時にはエンパシーが罪の意識を伴わないものになる。それは互いを生き延びさせるポジティヴな力になるからだ。guiltの意味をオックスフォード・ラーナーズ・ディクショナリーズのサイトで見ると、こう書かれていた。
 
  自分は何か間違ったことをしたと知っていること、または思うことによって生ずるアンハッピーな感情
 
 このシンプルな定義を読むと気づく。罪悪感とか罪の意識とか言うとひどくヘヴィだが、guiltとは大前提としてアンハッピーな感情なのである。
 「助けなかった」というアンハッピーな気分に曇らされずに人生をハッピーに送りたいという欲望が人を利他的にさせるのだと考えれば、むべなるかなという気持ちになってくる。利他的であることと利己的であることは、相反するどころか、手に手を取って進むのだ。
 「迷惑をかけたくない」という日本独自のコンセプトは、一見、他者を慮っているようで、そうでもないのだろう。人を煩わせたくないという感覚は、ここに書かれている通り、人にも煩わされたくないという心理の裏返しだからだ。

 言われてみれば、ぼくは半ば意識的、半ば無意識的にエンパシーから逃げようとしている。

 悲劇的なニュースはあまり見ない(ただし凄惨な事件を扱った小説を読むことはけっこうある。フィクションなら被害者にエンパシーを感じなくて済むからね)。難民の支援をしている国連UNHCR協会に毎月寄附をしているが、会報はほとんど読んでいない。つらくなるだけだし、恵まれた環境にいるのに月数千円の寄附をしただけでいいことをした気になっている自分の罪深さをつきつけられるから。

 エンパシーを感じるのはしんどいのだ。

 ぼくは極力他人にお願いをすることはない。べつに自分を厳しく律しているわけではなく、なるべく迷惑をかけないから、こっちにもあんまり迷惑をかけないでねという自分勝手な思いがあるからだ。

 そういう生き方ができるのも、今のところぼくがまあまあ健康で、それなりに経済的に余裕がある、社会的「強者」の側でいるからだ。

 だがどんな人でも永遠に強者でいることはできない。老い、不健康になる。事故や天災で財産を失うことだってある。そんなとき、ぼくは他人に頼ることができるだろうか。

 エンパシーを感じないようにして生きてきたかつての自分自身の「なるべく迷惑をかけないから、こっちにもあんまり迷惑をかけないでね」という呪いから逃れることができるだろうか。



 他者に対してエンパシーを感じやすい人には、他者に従属しやすくなってしまうという一面もあるそうだ。

 そう考えると、エンパシーは個人を組織に従属させるツールにもなる。人間は常に一人の他者の靴しか履けず、複数の他者の靴をいっせいに履くことはできないという「エンパシーのスポットライト効果」を指摘したのはポール・ブルームだったが、逆にたった一人の靴を大勢の人間が履くことは可能だ。これを利用し、トップに立つ一人の人間に組織を象徴させれば、大人数の組織でも構成員の忠誠心を獲得することができ、政治的システムが出来上がって行く。トップが亡くなると構成員とのエンパシーによる忠誠を引き出す役割は、二代目、三代目のトップへと引き継がれる。だとすれば、どれほどAIが進化して人間よりも適切な判断を下すことができるようになったとしても、企業のトップに据えることはできないだろう。人間がAIの靴を履くことができるようになるまでは無理だ(もちろん、そうなる日が来ないとは誰にも言えない)。

 自信たっぷりな強烈なカリスマを前にすると、その人物にエンパシーを感じてしまう。それがよい方向に転ぶこともあるが、ブラック企業の経営者や、某元アメリカ大統領のような〝自身たっぷりの悪〟がほとんど信仰の対象になってしまうということもありうる。


 結局、エンパシーはそれ自体が善でも悪でもなく、使い方によって善にも悪にもなるんだよね。

「世間で叩かれる人にエンパシーを抱いて事情を理解しようとする」人もいれば、「被害者に過度の共感をおぼえてしまい炎上に参加する」みたいなケースもある。

「他者の気持ちになって考える」ことは重要な能力だけど、同時に「他者の気持ちにならずにいる」こともまた大事な能力だよね。


【関連記事】

書店が衰退しない可能性もあった

【読書感想文】あなたの動きは私の動き / マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿