2024年8月2日金曜日

魔女の宅急便と国語教師

 何年か前、Twitter(現X)で国語教師を名乗る人物が、国語の授業風に『魔女の宅急便』の解説をしていた。

 いわく、キキの心境はこうだったがこの出来事をきっかけにこうなった、キキが魔法を使えなくなったのはこれがきっかけである、キキが再び飛べるようになったのはこれが要因であると考えられる、と。

 解説はどれも的確だった。それを読むと、それ以外に正解はないようにおもえてくる。

 ぼくはおもった。すごい、さすがは国語教師だ! あんなに自由で楽しかった『魔女の宅急便』を、国語の授業風の解説をすることで、こんなに窮屈でつまらない物語に感じさせるなんて!


 どこまでも広がっているように見えた『魔女の宅急便』の世界は、「たったひとつの正解らしきもの」を提示された途端、ただの2時間弱のお話に変わってしまった。

 小さな子どもが、時間も、枠線も、技法も、他人からの評価も気にすることもなく自由に描いた絵を、きれいな額縁に入れて壁に飾られてしまったかのようながっかり感。


 ぼくが高校生のとき。

 現国の授業で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を取り扱った。

 ぼくは宮沢賢治が好きだったので、その謎に満ちた世界を深く考えることなく味わっていた。

 放課後クラスメイトの数人でしゃべっていると、ひとりの女の子が言った。

「銀河鉄道って死後の世界へと霊魂を運ぶ列車だよね。だから死んだカンパネルラは最後まで乗ってて、ジョバンニは乗る資格がないと言われた」

 ぼくはそんな意図をまったく読み取れなかったので、「ああそういうことだったのか!」と目からウロコが落ちるおもいがして、まさしくそれしか考えられないとおもい、同時に、そんなことを計算して書いている宮沢賢治に失望した。

「己の感性にしたがってなんだかよくわかんないお話を作る人」だとおもっていたのに、なーんだ、ちゃんと意図やメッセージを込めて論理的にストーリーを組み立てる人なのか、と。いや、宮沢賢治がどこまで計算して書いたか事実はわからないけど、少なくともそのときのぼくはそうおもった。


 ことわっておくが、『魔女の宅急便』の解説をした人も、『銀河鉄道の夜』の解釈を語った友人も、物語の価値を貶めるためにやったのではないだろう。むしろ「よく構成された物語だ!」と感心したからこそ、その構成をみんなに知ってもらいたかったのだろう。

 でもそれは「この手品ってほんとよくできてるんですよ! ここに隠してるタネに気づかれないようにこうやって他のところに注意を引き付けてるんですよ!」とタネ明かしをするようなものだとぼくは感じてしまったのだ。

 ぼくが『魔女の宅急便』を観てドキドキワクワクしていたのは、全部制作者の意図通りだったんだな、全部手のひらの上で転がされてたんだな、と。


 文章を読むうえで「作者の意図を読み解く」は大事なスキルだけど(契約書とかビジネス文書とかはね)、同時に「よくわからないものをよくわからないままに楽しむ」も大事なスキルだとおもうぜ。


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