2020年11月18日水曜日

自分のイヤなところを写す鏡

長女は七歳。

ぼくになついている。すごく。
朝はぼくと手を手をつないで学校へ行き、夜は「おとうさん本読んで」「おとうさん宿題見て」「おとうさんいっしょにピアノ弾こ」「いっしょにお風呂入ろ」と言い、隣で寝る。
休みの日もいっしょに遊ぶし、ぼくが出かけたらついてくる。

始終ぼくといっしょにいる。
そのせいだろうか、ぼくのイヤなところが似てきた。


たとえば他者のルール違反にやたらと厳しいところとか。
ぼくは長女の「約束を破る」とか「嘘をつく」に対してはすごく厳しく叱る。ゲームをしていても、手加減をしたりハンデをつけることはあってもルール違反は許さない。
だからだろう、長女も他人のズルやごまかしに厳しい。

ドッチボールで線を越えて投げたとか、おにごっこでタッチされたのに「タッチされてない」と言い張って逃げたとか。
そういうのを厳しく糾弾する。
しかも、ちっちゃい子がいまいちルールを把握してなくて結果的にずるになってしまった、なんてときにも厳しくたしなめる。

まあルールはルールだし、誰であろうと不正は不正なので、長女の言い分もわかる。
とはいえたかが遊びなので「まあちょっとぐらいはええじゃないか」「ルールの厳密さよりも場の流れのほうが大事だよね」ぐらいのゆるさでやったほうが楽しくやれるのもまた事実。

長女が明らかに意地悪や自己中心的な考えでやっているなら叱るが、正義感でやっているので注意すべきかどうか悩ましい。

おもえばぼくも小学生のとき、通知表に「他人に厳しい」と書かれていた。
イヤなところが似てしまった。


あと長女の次女(二歳)への叱り方とか。
理由はささいなことだ。次女が長女の持ち物を勝手に使ったとか、手を洗う順番を守らなかったとか。
長女は次女を呼びつけ、

「ねえさっき勝手に私のノートに落書きしたよね。ああいうことされたら私はすごくイヤなの。学校で使う大事なものだし。前にも注意したよね? わかる? 今度からはもうやめてほしいんだけど守れる?」

と、理詰めでねちねち責めたてる。

言っていることはまちがってないのだが、相手は二歳だ。くどくど説明してもわかるわけがない。「だめっ!」とか「やめてね」で十分だ。
なによりイヤなのが、長女の叱り方が、ぼくが長女を叱るときのやりかたであることにそっくりなことだ。

何をしたのか、その行為の何がダメだったのか、どうしたらよかったのか、今後はどうしたらいいのか。
ぼくとしては、こちらが感情的に叱っているのではなく、なぜ叱っているのかを言語で説明するようにしている。
だが客観的に聞いたらこんなにねちねちくどくどと聞こえるのか……。すげえイヤミな口調だな……。きらいだわー……。

「子どもは親の言うことは聞かないが、親の言動は真似をする」
と言われるが、まさにそのとおり。
悪いところだけじゃなくて良いところも似ているのかもしれないが、やっぱり目に付くのはイヤなところ。

自分の声を録音したものを聴くと
「ぼくってこんな気持ち悪いしゃべりかたしてんだ」
と絶望的な気持ちになるが、それとよく似ている。

世の中には「自分の子どものことが嫌い」という人がいるらしいが、きっと自分に似ているからなんだろうなー。


2020年11月17日火曜日

【読書感想文】池上彰のダメ番組のような / 中原 英臣・佐川 峻『数字のウソを見破る』

数字のウソを見破る

中原 英臣  佐川 峻

内容(e-honより)
私たちの身の周りにはさまざまな数字が溢れている。健康診断の正常値や失業率・有効求人倍率、テレビの視聴率など、個人にとっても社会にとっても、数字は大きな力を持っている。しかし、客観的でウソがないように見えるそれらの数字には、そのまま信じると騙されるものもしばしばある。例えば、テレビの視聴率の〇.一%の違いで広告会社は動くが、サンプル調査ゆえの誤差の範囲でまったく意味はない。医療・健康・経済・社会に関するいろいろな数字を取りあげて、そのウラを暴く。

 共著だが、二人が共同して執筆しているわけではなく、前半は医師である中原氏が医療分野について書いて、後半は科学評論家である佐川氏が経済や社会の諸々について語っている。
 ボリュームが足りないので二人の本をむりやりまとめて合本にした、という感じの作り。

 そして前半の中原氏のパートはいまいちだった。
「日本では〇〇という基準で医療をやっているが、欧米では□□という基準が使われている。だから〇〇は適切でない!」
みたいな論調なのだが、正直素人にはそれだけ読んでも〇〇と□□のどちらが正しいのかわからない。日本の基準のほうが正しくて欧米のほうがまちがってるのかもしれないし。

「厚労省が出した数字をそのまま信じるな」というのは首肯できるが、だったら中原氏の出した数字だってそのまま信じられない。
 結局この本を読んだだけだと「厚労省は〇〇と言っているが、反対意見もある」ということしかわからないんだよね。

 医療に関しては万人に通用する正解がない以上、ちょっと疑わしい数字でも「数字のウソ」とまでは言い切れないんじゃないかな。




 佐川さんのパートはおもしろかった。内容は古かったけど(2009年刊行なのでしかたないけど)。

 気象庁の天気予報が雨を降るかどうか的中させる確率は約85%だそうだ。
 85%と聞くとけっこう当たってるなという気がするが、2008年に東京で雨が降ったのは114 日だけ。

 この数字は、東京では、日に関係なく、いつも「明日は晴れです」と「予報」すれば68.8%、すなわち約70%の適中率になることを意味している。
 雨が降る日数というのは、年によっても、地域によっても異なるだろうが、おそらく日本ではところかまわず、「明日は晴れ」と予報しておけば、だいたい7割前後の適中率が得られる。
 ほとんど雨が降らない、たとえばアフリカの砂漠地域での「予報」を考えれば、もっと高い適中率が得られるのは容易に想像できるだろう。極端な例だが、乾燥した地方で、年間に2~3日しか雨が降らないとすれば、「明日は晴れです」という予報の適中率は99%を上回ることになる。
 ここでいいたいことは、日本で85%という数値を評価するときの基準は0%ではなく、70%からどれだけ高いか、ということだということである。それが本当の意味での予報の適中率の評価になる。70%の適中率は素人にも実現できるのだから。
 とすれば、気象庁の予報の適中率は、70%から15ポイントだけ高いということになる。気象衛星からの生のデータや蓄積した膨大な気象データをスーパーコンピューターで計算した結果の予報として、はたしてこの数字は大きなものだろうか。評価の仕方にもよるが、非常に大きいとはいえそうにもないような気がするが、どうだろうか。

 堀井憲一郎さんが『かつて誰も調べなかった100の謎』という本で、天気予報が当たってるかどうかを検証していた。
 その調査によると、雨が降った31日のうち、7日前に「7日後は雨」と的中させていたのはたったの1回だけだったそうだ。的中率は驚きの3.2%。ゲタを転がすよりはるかに的中率が低い。

 そして今でもほとんど天気予報の的中率は上がってないらしい。週間天気予報は基本的に当たらないのだ。
 そしてこの先も週間天気予報の成績が向上する可能性はほとんどない。どれだけコンピュータが進化しても、天気のような複雑なものを正確に予測するのはできないらしい(カオス理論)。
 だから「週末の天気は?」と訊かれたときは天気予報など見ずに「晴れるよ」と言っておけばいい。2/3以上は当たるから。




 そのほか、地球温暖化、株のナンピン買い、失業率、出生率、平均寿命など雑多な話。
 それぞれ興味深いんだけど、いかんせんテーマが多岐にわたりすぎているのですごく浅い。
「食品が製造年月日表記から賞味期限表記になったのは外国からの圧力によるもの」とかテレビ番組で紹介するぐらいならおもしろい内容だけど、本で読むにはものたりない。
 根拠とか洞察とかがほとんどないんだよな……。最近の池上彰さんの番組みたい。


【関連記事】

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』

【読書感想文】 小林 直樹 『だから数字にダマされる』



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2020年11月16日月曜日

古本屋の店主になりたい

古本屋の店主になりたい。

客は来ないほうがいい。一日に三人とか。
ひまなときは(基本的にずっとひまなんだが)本を読む。
だから客は少なくていいが、かといってまったく来ないのは寂しい。

基本的に買取はしない。
面倒だから。
好きじゃない本を店に並べたくないし。

店に並べるのはぼくが読みおわった本だ。
「おっ、それ買うの? お目が高い」
「あーそれね。イマイチだったんだよねー」
「その本は読む人を選ぶとおもうよ。大丈夫かな?」
とか心の中でつぶやきながら売りたい。

買ったけどずっと読んでいない本を店に並べておいてもおもしろいな。
客が手に取ったら「あっ、あっ、それまだ読んでないやつ」とドキドキしたい。
買われちゃったら「あー。あれおもしろかったんだろうなー。もっと早く読んどきゃよかったー」と後悔したい。
だったら店頭に置くなって話なんだが、でもたまにはドキドキしたいじゃない。古本屋の店主って刺激少なそうだもん。

もちろん利益なんかない。
それどころか光熱費にすらならないぐらいの売上しかない。家賃なんかもってのほか。
利益どころか大赤字だ。なぜならぼくが別の古本屋やAmazonで本を買ってしまうから。
もうずっと赤字。
「おっ、今月は赤字が2万円で済んだ。よかったー」みたいな感じでやっていきたい。

あまりにも客が少なすぎて、近所の人たちから
「あそこの古本屋、表向きは古本屋だけど裏でヤバい商売扱ってるらしいよ」
「『小松左京の初版本は入荷したかい?』って言えばカジノにつながる秘密の通路をあけてもらえるらしいよ」
みたいな噂が立つぐらい。

あー、いいなあ!



2020年11月13日金曜日

【読書感想文】男から見ても女は生きづらい / 雨宮 処凛『「女子」という呪い』

「女子」という呪い

雨宮 処凛

内容(e-honより)
男から「女のくせに」と罵られ、常に女子力を求められる。上から目線で評価され、「女なんだから」と我慢させられる。私たちは呪われている?!「男以上に成功するな」「女はいいよな」「女はバカだ」「男の浮気は笑って許せ」「早く結婚しろ」「早く産め」「家事も育児も女の仕事」「男より稼ぐな」「若くてかわいいが女の価値」…こういうオッサンを、確実に黙らせる方法あります!


 男として生まれ、男として生きてきたので、「女性の生きづらさ」について深く考える機会はほとんどなかった。

 だが娘が生まれ、彼女の将来を案ずるうちに遅ればせながら「女性の生き方」について真剣に考えるようになった。
「娘が大きくなったときに生きていきやすい世の中だろうか」という目で今の日本社会を見渡してみると、お世辞にも女性が生きやすい世の中とは言えない(男も生きづらい世の中だけどね)。

 昨年、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』という小説を読んだ。ふつうの女性がふつうの人生を送るだけなのだが、それだけなのに「女の生きづらさ」が浮かびあがってくる。小説の舞台は韓国だが、日本の状況と大きく変わらない。




 ぼくらの世代は、ちょっと上の世代とは違い、「男女は平等である」と言われつづけて育った。
 ぼくの通っていた中学校では男女ともに技術と家庭科をやり、名簿も男女混合で、体育祭では男子もダンスをして女子も組体操をした。
 ぼくにはひとつ上の姉がいるが、親から「男の子なんだから」「女の子らしくしなさい」と言われたこともない。「これからは男でも家事をできなきゃいけないよ」とは言われたが。

 本音はともかく、タテマエとしては「男女平等」に異を唱えることなど許されない時代に育った。

 だから「女は家で家事と子育てをしとけ」なんてことを言う人は、今の三十代以下にはほとんどいない。
 ぼくがいた会社でも「女性がお茶を出すように」なんて言うのは1960年代生まれまでだった。

 じゃあ女性が生きやすくなったかというと、そんなことはないんじゃないかとおもう。
 むしろ「男女平等」というタテマエがある分、「女性だけが損をしている」という声を上げづらくなったんじゃないだろうか。
 現実問題として「女のほうが平均給与が低い」という明確な格差があるのに、「今は雇用機会均等法もあって男女平等の世の中だよ」というタテマエがあるせいで、「あなたの給与が低いのはあなたが女だからではなくあなたの能力が低いからでしょ」と言われてしまうというか。




 この国では、男は経済的自立さえしていればそうそう責められることはない。しかし、女はその上で家事や育児まで完璧にこなすことを求められ、「男を立てる」ことまで要求される。仕事を続けたら続けたで「旦那さんの理解があっていいわね」なんて言われ、育児に手がかかったり介護を必要とする家族がいたりすれば仕事を続けていることを責められ、やむを得ず仕事を辞めて育児や介護に専念すれば、誰もねぎらってくれないどころか「気楽な専業主婦」扱いされる。
 一方で、結婚しない女、子どもがいない女は、時に無神経な言葉に晒される。

 ぼくは子どもと過ごすのが好きなので、休みの日はほぼずっと子どもといっしょにいる。
 妻が外で遊ぶのがあまり好きでないことや、ぼくががさつなこともあって、我が家では自然と「ぼくが子どもを連れて外で遊んでいる間に、妻が掃除や料理をしてくれる」という役割分担になった。

 子どもと遊んだり、子どもを連れて買物に行ったりしていると、けっこう「おとうさんえらいねえ」と声をかけられる。声をかけてくるのはほぼまちがいなくおばちゃん・おばあちゃんだ。「うちの旦那なんかなんもしてくれへんかったわ」と愚痴をこぼされることもよくある。

「ご主人子どもと遊んであげてえらいねえ」と言われることはあっても、「奥さん家事をしててえらいわねえ」「おかあさん、子ども連れて買物に行っててえらいねえ」と言われることはない(そして「ご主人仕事しててえらいわねえ」とも言ってもらえない)。

 2020年になっても「夫は仕事がメインで家事はオプション、妻は家事がメインで仕事はオプション」は根強く残っている。




「女は楽でいいよな」と言う男もいる。ぼくもかつてそうおもっていたが、最近気づいた。「女は楽でいい」なんてごく限られた時期の限られた人だけのことだ。

 二十歳ぐらいの女の人はだいたいちやほやされる。それはそれで悪いこともあるが、トータルで考えれば得のほうが多いとおもう。
「二十歳ぐらいで金もないし顔もよくない男」なんて誰にも相手にされなかったもん、ホント。世の中から「単純労働力」としてしか期待されてなかった。

 でも、黙っていてもちやほやされる時期はごくごく限られている。
 美人であっても歳をとったら、同年代の男より生きるのは大変だ。そして大変な時期のほうがずっと長く続いてゆくのだ。

 例えば一人親の貧困率が50%を超えるのは、この国の社会保障制度の設計に問題があるからだ。すでに時代遅れの「正社員の夫と専業主婦の妻、プラス子ども」みたいなものが標準世帯とされているので、標準世帯からもれる一人親世帯は貧困となるリスクが一気に高まる。当然、結婚していない単身女性の貧困リスクも高まる。単身女性の三人に一人が貧困(月の収入が約10万円以下)というのは有名な話だが、これが高齢者になるともっと大変なことになっている。65歳以上の単身女性の貧困率は52.3%(07年)で二人に一人だ。
 女性は、子どもの時には「父」という男が、そして大人になってからは「配偶者」という男がいなければ貧しくなるリスクが高まるのだ。そしてそれをカバーする制度は今のところ、ない。

 男女平等だのといっても、歳をとった独身女性が生きていくのは(歳をとった独身男性よりも)大変だ。社会のシステムが、女性が独身で生きていけるようにできていないのだ。

 娘の幸せを願う父親としては「娘にいい人と結婚してほしい」と願わざるをえない。もしぼくに息子がいても、そこまで強く「いい人と結婚してほしい」とは願わないだろう。
 令和の時代になってもまだ、女性の幸せは夫によって決まる部分が大きいのだ。

 この国では、なんて「普通に大人になる」ことが難しいのだろうと。例えば、カビさんの〈子供でいた方が両親は可愛がってくれると思ったから 大人になってはいけないと思っていた〉という一文。この言葉に、共感できる人は多いのではないだろうか。
 一方で、社会も「女の子」の「成熟」に変に敏感だ。年相応に、恋愛や異性や性的なことに興味を持つと「親」や「教師」的な存在からは全否定される。しかし、突然「大人の男」は「お前の性を売れ」という圧力を直接的・間接的にかけてくる。同時に「未熟であれ、成熟などするな」というメッセージも投げかけてくる。自分が成熟したほうがいいのか悪いのか、自分が何かトンデモなく隙だらけだから変なオッサンに声をかけられるのか、心も体もいつも傷ついてちぐはぐで、常に欲望の主体ではなく客体として扱われるので、自分は本当は何がしたいのか、当たり前にある自らの欲望と折り合いがつけられなくなる。そんな無限ループ。そして「女」であることから降りたくなる。

 恥ずかしい話だが、ぼくもやはり女を一方的に品定めしていた。男友だちと「あの女はアリ/ナシ」と語ったこともある。ひとりの人間としてではなく、顔と身体だけを見て。

 そして自分の娘が同じ眼にさらされるのだと想像してやっと、女性の置かれる状況の厳しさを思い知る。自分の娘が……という立場に置かれて想像をしないと気づけない。

 やっぱり大変ですよ、女のほうが。
 美人でも不美人でも男好きでも男嫌いでも仕事ができても仕事ができなくても生きづらい。
「ふつうぐらいの器量で、ふつうの性格で、ふつうに仕事ができるぐらいであってほしい」と我が子に対して臨んでしまうのだが、これがもう〝呪い〟だよな……。




 ところでこの本、4章構成なのだが、2章と3章は「メンタルを病んだ女性の生きづらさ」について書かれており、これは蛇足だったようにおもう。

 心を病んだ原因は「女であること」に由来するのかもしれないが、リストカットをくりかえしている人やAVで処女喪失したライターが飛び降り自殺をしたことを引き合いに出して「女は大変」って言われても、「大変なのはわかるけど〝女の生きづらさ〟を語るための例としては極端すぎるだろ……」としか思えない。
 ガソリンかぶって焼身自殺をした男がいるからって「ほら男って大変でしょ?」とは言えないでしょ。

 

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【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

男らしさ、女らしさ



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2020年11月12日木曜日

【読書感想文】作者はどこまで狂っているのか / 星野 智幸『呪文』

呪文

星野 智幸

内容(e-honより)
さびれゆく松保商店街に現れた若きカリスマ図領。クレーマーの撃退を手始めに、彼は商店街の生き残りを賭けた改革に着手した。廃業店舗には若い働き手を斡旋し、独自の融資制度を立ち上げ、自警団「未来系」が組織される。人々は、希望あふれる彼の言葉に熱狂したのだが、ある時「未来系」が暴走を始めて…。揺らぐ「正義」と、過激化する暴力。この街を支配しているのは誰なのか?いま、壮絶な闘いが幕を開ける!

 なんというか……。
 表現しづらい小説だな。

 序盤は商店街立て直し小説みたいな感じの導入だったので、徐々にサイコホラーになってきて戸惑ってしまった。え? なにこれ? この武士みたいなしゃべり方する女の人は何なの? って感じで(ちなみにその武士みたいなしゃべり方の女性はフェードアウトして途中からストーリーにほとんどからまなくなってくる。ほんとなんだったんだ)。

 決してうまくない小説なんだよね。武士みたいな女の人もそうだし、悪の黒幕的ポジションの図領も最後はほったらかし。登場人物が多いわりに細かく描ききれてないので「この人誰?」となってしまう。
 視点がころころ変わるんだけど、そういう構成の小説を書くにはちょっと技量が追いついていないような……。ストーリー展開も急すぎて「極限状態でもないのに人間がここまでかんたんに洗脳されるか?」という気になる。


 と、決して巧みとは言えない小説ではあったけど、しかしなんというかすごいパワーがあった。粗削りだけど、熱量とかオリジナリティとかはびんびん感じる。引きこまれた。

「それでノアとその一族を方舟に乗せて、残りの全人類を滅ぼした。動物はとばっちりだけどね。で、ノアは選ばれた人間ということになっているが、本当にそうなのか、というのがここで考えたいことだ。何しろ、世が新しくなるために本当に必要だったのは、ノアが生き残ること以上に、他の人間たちが死ぬことだったんだから。選ばれたのはノアじゃなくて、ノア以外の、死んだ者たちじゃないだろうか? ノアはむしろ、選ばれなかった、選に漏れた役立たずとも言えるんじゃなかろうか」
 栗木田はゆっくりと全員の顔を見た。
「今の世も腐ってるよな。だからディスラーも世直しに励んだつもりでいたんだもんな。洪水みたいなものも、世界中で起きている。まさに、古い時代は終わり、新しい時代が作られようとしてる。人類は少しずつ滅亡しようとしていると、私は実感してる。それで、方舟がどこにあるのかは知らないが、少なくとも私はその乗客ではないことは自覚している。本能的に知ってるというかね。おまえらもそうだろ?」
 今度は全員がうなずいた。
「大切なのは、滅びるほうだろ?滅びるべき者たちがその使命を悟って死んでいくから、世の中を新しく変えることができるわけだ。つまり、世を変えているのは、死んでいく側なんだよ。我々が、世を捨てるような自棄な気分じゃなく、強い意志を持って率先して消えることで、次のもっとマシであろう世を生むことができるんだ。変な言い方だが、無意味さを認めて死ぬことのできる我々には、生まれてきた意味がある。私はそちらの側にいたい。というか、いる。我々こそが改革者なんだ、選ばれた民なんだ!」

 登場人物の言動とかはめちゃくちゃなんだけどね。ぜんぜん筋道が立ってないし。
「洗脳されている側」がめちゃくちゃなのは当然として、「洗脳されている連中と闘う人々」のほうもだいぶヤバい。どっちもおかしい。いかれてる人しか出てこない。

 作者もどっか狂ってるんじゃないか。そう思わせる力がある。もしくは本当に狂っているか。

 矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』を読んだときにも同じことを感じた。これだけ粗いものをちゃんと活字にする出版社もすごい。


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