2020年4月27日月曜日

それは愛ではない

子育てをしていていちばんおもしろいのは、子どもの成長を見ることよりも親の気持ちを追体験できることだ。

たとえば真夜中に子どもが目を覚まして泣いている。
どうしたのと訊くと「こわいゆめをみた」と云う。

正直「知らんがな」とおもう。「きにすな。はよねえや」とおもう。だってこっちも夜中にたたき起こされて眠いからね。
でもそうは言わない。
なぜなら、ぼくも子どものころに同じようなことを経験し、そのときに母親が「そう、じゃあおかあさんのおふとんでいっしょにねよう。そしたらだいじょうぶだから」と優しく言ってくれたからだ。その言葉に幼い日のぼくは心から安心することができたからだ。

だからぼくもめんどくせえなあとおもいながらも「そっか、じゃあおとうちゃんと手をつないで寝よっか。こわいゆめをみないように念じながら手をにぎっといてあげる」と言って、いっしょに寝る。
そしておもう。「ああ、あのときおかあさんも心の中では『めんどくせえなあ。しょうもないことで起こすな』とおもいながらも優しい声で接してくれたんだなあ」とおもう。


母親というのは無条件で子どもに尽くすものだとおもっていた。子への奉仕こそが母の喜びなのだと。
でも自分が人の親になり、とんでもないまちがいだったことを思い知る。

めんどくさい、うっとうしい、憎い、生意気で腹が立つ、やかましい、つまんない、くだらない、かわいくない……。
子どもに対していろんな負の感情を抱く(もちろんポジティブな気持ちになることのほうが多いよ)。

自分の母や父も、同じように感じていたんだろうな。
本気で憎んだりしてたんだろうな。
あのとき厳しく叱ったのは愛しているからこそではなく、ただ単純に心の底からいらだってたからだったんだな。
我が子だからって全面的に愛していたわけではないんだな。ときには我が子だからこそ本気で嫌ったりしていたんだろうな。

それがわかったからといって両親に対してに失望したりしない。むしろ余計にすごいとおもう。余計に感謝する。
だって愛する者を育てるより憎らしい者を育てるほうがはるかにたいへんだもん。

ぼくが子育てをする動機は愛じゃない。そんな気楽なもんじゃない。
使命感というか本能というか、あるいはもっとシンプルな物理法則(慣性の法則)によるものか。


2020年4月24日金曜日

診断されたし


娘の同級生、Tくん(六歳)。

元気な男の子だ。元気すぎるぐらい。
じっとしていられない、人の話を聞かない、怒ると手が付けられなくなる。無鉄砲で損ばかりしている。
まるで子どもの頃のぼくを見ているようだ。ぼくもあんな子だった。教師や親の話なんかぜんぜん聞いてなかったし、しょっちゅう喧嘩してたし、いろんな子を叩いてたし、そのくせ攻撃されると弱くてよく泣いて暴れていた。

だからちょっと自分と重ね合わせてTくんをかわいがっていた。
Tくんはこちらから追いかけると逃げる。でも放っておくと近づいてくる。かまってほしそうにボールをぶつけてきたりする。
素直じゃないところがかわいい。うちの娘は「いっしょにあそぼう」「今はひとりで本を読みたいから」とはっきり口にするタイプなので、余計に。


そんなTくんのおかあさんと話していたら、
「こないだ病院で診てもらったら、Tは発達障害なんですって」
と云われた。

えっ、と驚いた。
「え? たしかにちょっと落ち着きないところはありますけど、でも男の子ってそんなもんじゃないですか。他の子も似たようなもんだとおもいますけど。ていうかぼくが子どものころもあんな感じでしたし」

「まあ外だとちょっとマシなんですけどね。でも家の中だとほんとに手が付けられないんですよ。気に入らないことがあったらぜったいに譲らないですし、何時間でも抗議しつづけますし、大暴れすることもありますし」

「そうなんですね……。保育園とか公園で見るかぎりではそこまででもないですけどね……」

「まあ保育園とか公園ならね。でも小学校でじっと座ってるのはむずかしいから、小学生になったらもっと他の子と差がつくだろうって言われました」

「そうですか……」

ぼくはそれ以上何も言わなかった。

ぼくは専門家ではないから。家の中でのTくんの様子を知らないから。
そしてなにより、Tくんのおかあさんが決して悲嘆にくれているわけではなくむしろ晴れ晴れとした顔をしているように見えたから。

ここからはぼくの想像でしかないんだけど、Tくんのおかあさんは息子が発達障害と診断されて、もちろんショックを受けただろうけどそれ以上に安堵したんじゃないだろうか。



昨年、ぼくは熱を出した。全身がぐったりとだるく、食欲もなくなった。
風邪にしちゃあ症状が重い。インフルエンザだろうか。咳も出るし肺炎とかになってたらどうしよう。それとももっとめずらしい病気だったりして。
あれこれ考えていたが、病院に行って「ウイルス性の胃腸炎ですね」と診断されて薬を出されたとたん、ふっと症状が軽くなった気がした。
病院に行くときはふらふらと這うようにしながら向かったのに、帰りは足取りも軽かった。
まだ薬を飲んだわけではない。病気の身体を引きずって病院まで歩いていっただけなので、本当なら具合が悪くなることはあっても良くなることはないはずだ。
でも、ぐっと楽になった。自分の不調に病名がついて対処法が示されただけで、まだ何も手を打っていないのに楽になった。



Tくんのおかあさんも同じ気持ちだったんじゃないだろうか。

どうもうちの子は落ち着きがなさすぎる。他の子はもっと落ち着いているように見える。話も聞いてくれない。
何が悪いのだろう。これまでの育て方に問題があったのか。自分の対応が悪いのか。他の親ならもっとうまく対応しているのだろうか。それともこの子に重大な疾患があるのだろうか。回復の見込みのないような病気だったらどうしよう……。
あれこれと結論のない思いをめぐらせていたんじゃないだろうか。

で、病院に行って発達障害と診断された。
何が変わったわけではないけれど、余計な不安はなくなった。
生まれついての脳の問題だ。育て方が悪かったわけではない。誰が悪いわけでもない。どんな親だって手を焼いていたはず。
発達障害はとりたててめずらしいものではない。同じ問題を抱える親も多いし、対処方法もある程度確立されている。薬物療法で一定程度は症状を抑えこむこともできる。

原因とやるべきことが明確になるだけで、事態がまったく動いていなくてもずっと楽になった!

……ってことがTくんのおかあさんに起こったんじゃないだろうか。勝手な憶測だけど。

わかんないって何よりもつらいもん。



ぼくらがちょっと体調が悪くて病院に行くのは、治してもらうためじゃない。診断されるためだ。
町医者の仕事の九割は「診断」にあるんじゃないかな。治療は一割で。


医者があれこれ検査した結果、病名不明だったとする。
それでも「あーこれはホゲホゲ病ですね。大丈夫ですよ、薬出しとくんで」と言ってプラシーボ(偽薬)を出しておけば、患者の病状が良くなるとおもう。
「いろいろ検査しましたが結局わかりませんでした」と正直に言うよりも(だからって嘘をついたほうがいいとは言わないが)。

もしかしたら「発達障害」自体が、そういうニーズに応えるためにつくられた言葉なのかも。
「発達障害と言ってもらうことで助かる」という親を安心させるためにつくられた言葉。
じっさい、多くの親が「発達障害」という診断に救われているはず(ぼくが子どものころにも「発達障害」があればきっとぼくの親もいくらか楽になっただろう)。

だからどんどん病名を増やしていったらいいとおもうんだよね。
「勤労障害」とか「難熟考症」とか「起床不適応症」とか。
救われる人はたくさんいるはず。


2020年4月22日水曜日

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2020年4月21日火曜日

【読書感想文】維新なんていらない / 中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』

  100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』

中島 岳志

内容(e-honより)
リベラルな民主主義を支え導く「真の」保守思想とは?少数意見を認める寛容さや、個人の理性を超えた先達の良識を重んじる真の保守思想こそが、大衆化社会における民主主義の劣化を防ぐ処方箋となる──。利己的な「大衆社会」の暗部をあぶりだし、合意形成の大切さを説いた、いまこそ読み解かれるべき一冊。
先日読んだ中島岳志さんの『保守と立憲』にすごく共感できたので(感想はこちら)、その本の中でも挙げられていたオルテガ『大衆の反逆』を読んでみたくなった。

しかし原著はむずかしそうだなとおもっていたら、NHKの番組のテキストがあるではないか。しかも書いているのは中島岳志さん。これは読まねば!



オルテガとはスペインの思想家だ。あなたがたのような勉強不足の人間は知らないかもしれない。ぼくも先月まで知らなかった。
哲学者というとドイツやフランスが多いイメージで、スペインと哲学のイメージがどうもうまくむすびつかない。ラテン民族にも思索的な人がいるんだなあ(ひどい偏見)。

『大衆の反逆』が書かれたのは1929年。
タイトルから受ける印象は「さあ大衆よ立ち上がろうぜ! 貴族のやつらにひと泡吹かせてやろうぜ!」みたいな感じだけど、メッセージは真逆。
大衆でいてはいけないぜ、という内容だ。

オルテガのいう「大衆」とは生まれついての貴族に対するものではなく、「みんなと同じである」ことに喜びを見いだす人間のことだ。
大衆は多数派であることに満足し、己の正しさを疑わない。自らはいついかなるときも誤らない理性的な人間であると思いこんでいる人間こそが、オルテガの嫌悪した「大衆」だ。
 邪悪な人間は、自分が悪いことをしているという自己認識がある。それに対して、愚かな人間の愚かさは自己に対する過信によって成り立っているから、決して「治る」ことはないというわけですね。
 ここで言う「愚か」とは、偏差値が低いとか知識がないということとはまったく関係がなく、あくまで「自己過信」のことです。自らの限界に気づかず、その能力を過信して「何でもできる」と勘違いしている。自己懐疑の精神をもたず、「正しさ」を所有できると思っている。そして、そうした大衆の「正しさ」の根拠は何かと言えば、「数が多い」ことでしかない。それが何の根拠になるのかとオルテガは言い、彼らを自分が多数派だということにあぐらをかいている「慢心した坊ちゃん」と呼ぶのです。

『大衆の反逆』が世に出た1929年は世界恐慌が起こった年。
ムッソリーニがイタリアで独裁制を宣言したのが1924年、ナチスがドイツの第一党となったのが1933年なので、ちょうど社会が不安定になりファシズムが台頭した時期だ。
スペインでも1939年にフランコが総統になり独裁制を敷いている。世の中が「強い権力者」を求めていた。

ナチスやファシスト党は「個」による独裁と思われがちだが、実際は「大衆」の暴走だった。
彼らははじめ力ずくで権力を奪ったわけではない。市民から正当な選挙によって選ばれたのだ。

「ヒトラーという例外的に悪いやつがいた。自分には関係のない話」とおもったほうが楽だから、ついそう考えてしまう。
それ以上何も考えなくていいし反省もしなくていいしね。
だがヒトラーを生みだしたのは大衆で、大衆が大衆である以上は同じような独裁政権が誕生する危険性は常にある。

ほとんどの人は「自分はヒトラーのようにはならない」と自信を持って断言できるだろう。
だが「自分はヒトラーのような人物を選ばない。またはヒトラー予備軍のような人物が立候補したときに必ず選挙に行って対立候補に票を入れる」と断言できる人がどれだけいるだろうか?

たぶんほとんどの人は断言できないだろうし、断言できるとしたらそれこそ自分の理性を疑うことを知らない「大衆」だ。



オルテガは単なる思想家ではなく、自分の考えた道を実践しようとした行動の人でもあった。
 オルテガは、右か左かという二分法を嫌いました。「これが正しい」と、一方的に自分の信ずるイデオロギーを掲げて拳を上げるような人間が、嫌で仕方がなかったのだと思います。そうではなく、右と左の間に立ち、引き裂かれながらでも合意形成をしていくことが、彼の思い描いた「リベラルな共和政」でした。しかし、スペインでそれは不可能と考えた彼は、三二年八月に代議士を辞職してしまいます。
 その後、三六年二月の総選挙で左翼勢力が圧勝して人民戦線内閣が成立すると、左右の対立は決定的なものになっていきます。左派と右派の両方を批判する言論を発表し続けていたオルテガは、双方から激しいバッシングを受けることになりました。
中庸を行こうとすると両極から非難される。
いちばん多いのは中道のはずなのに、その道は険しい。
両極のどちらかに属して「アベはやめろ!」「安倍さんがんばれ!」と言っているほうがずっと楽だ。個別の政策や思想についてあれこれ考えなくて済むから。

かくして、極端な意見ばかりが幅を利かせて、穏健な思想を持っている人ほど政治的な発言を控えることになってしまう。
いちばん多いはずの声が拾われない。
ナチスを選んだドイツだって、ファシスト党を選んだイタリアだって、きっと大多数は中道に近い考えだったのだろう。しかし中道が声を上げなければ、一方の極の意見が通ってしまうことになる。

オルテガは、極端な意見に流される「大衆」にならないことが必要であり、そのためには「死者の声」に耳を傾けなければならないと考えた。
 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
 ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。
 そして、それまでヨーロッパ社会の秩序を支えてきたのは、「生きている死者」とともに歩むという感覚だった。死者は身体が失われたあとも私たちのそばにいて、この世の中を支えてくれていると考えられていたのですね。
 そうした感覚が共有されていれば、社会で多数派を占めているからといって、その人たちが勝手に何でも決めたり、変えたりしていいということにはなりません。過去の英知や失敗の蓄積の上に現在があるのだから、いま生きている人間だけによって、既存のとり決めを何でもかんでも変えていいわけがない。いくら多数決が民主制の基本とはいえ、そうした「限界」はもっていなくてはならない。
 ところがそんなことはお構いなしに、革命なるものが次々に起き、歴史的に構成されてきた世界を改変しようとしているとオルテガは感じていました。それが彼の言う「超民主主義」ですが、そうした過去からの教訓や制約に拘束されない民主制は非常に危うい、過去と協同せず、現在の多数派の欲望だけから解決策を求めようとすると必ず間違える、というのが彼の考えだったのです。
 これは、のちにお話しする立憲主義と密接にかかわる考え方だと思います。簡単に言えば、いかにいま生きている人間の多数派が支持しようとも、してはいけないとり決めがあるというのが立憲主義の考え方なのですが、そのことをオルテガは踏まえている。そして、現代が死者を忘却してきたことが、民主制の危うさにつながっていると指摘するのです。
今生きている人間の理性を過信しているがゆえに、既存のシステムを破壊してもうまくいくと信じてしまう。
だが長く使われているシステムには、人間の理性が及びもしない叡智が潜んでいることがある。

今の日本はコロナウイルスのせいでいろんなシステムが破綻しそうになっている。
それを生んだ要因の一つは、革新の名にさまざまな「旧来のシステム」を破壊したことだ。
耳に聞こえのいい革新的なスローガンを掲げた政治家があれも無駄これも無駄と言ってインフラの余裕を減らし、公務員を削減した。大衆もまた彼らに喝采を送った。
そして百年に一度の大災害が起きて、余裕をなくしたところから亀裂が走っている。

オルテガは「システムを変えるな」と言っているのではない。
理性に限界がある以上、完璧なシステムなど存在しない。だから「絶えず漸進的な変革が必要だ」という立場をとる。
ぼくも同意見だ。
内田樹さんがよく書いているけど、教育、インフラ、医療、政治といった制度に大改革はふさわしくない。百年単位で成果を測らなければならないものは、なるべくそっとしておくのが望ましい。「昨年度これだけ予算が余ったからここは無駄だ。削ろう」という考え方では百年に一度の疫病の流行に対応できない(今の大阪府のように)。



オルテガは死者の声を聴くべきだと説いているけど、ぼくは「まだ生まれていない人」の声にも耳を傾けるべきだとおもう。
むしろそっちのほうが大事だと。

「まだ生まれていない人」を考えたら「若者から多くむしりとって今の老人は払った以上の分をもらえる制度(厚生年金制度のことね)」なんてやっちゃいかんとすぐわかる。
「廃棄物の処理方法も決まっていない危険な発電所を動かそう」も「返しきれないぐらいの赤字国債を毎年発行しよう」もやってはいけないことだとすぐわかる。

某政党の話ばっかりになるけど「公務員も民間の考え方を持て!」なんてのはまったくの論外だ。
毎年利益を出さなければならない民間企業、ダメだったらつぶして新しいものをつくればいい民間企業の考え方と、公務員の考え方はまったくべつであるべきだ。



今の日本で「保守」のイメージはすごく悪い。
やれ教育勅語だ、やれ夫婦は同姓であるべきだ、といった「歴史上のある一点(しかも実際に存在したかどうかも怪しい一点)」に回帰しようという一群が「保守」を名乗っている。
本来の保守とはそうではない。
旧来のシステムを守り、守るために漸進的な変革をし、己の理性を疑い、それでもよりよい制度を求めて死者も含めてさまざまな人の声を聴こうとする立場こそが本来の「保守」だ。
 では、いまの日本で「保守」と呼ばれる人たちの考え方はどうでしょうか。ここまでたどってきたような、保守思想の水脈に位置付けられてきたものとはあまりにも異なっています。他者と対話しようとしない、オルテガが言う「敵とともに生きる」ことなど想像もしないであろう、もっとも「保守」とかけ離れた人間が「保守」を名乗っている。自分と異なる意見に対し、レッテル貼りをしながら放言する、そんな人たちが「保守」と呼ばれている状況です。
 さらには、あろうことか国会までが、そうした状況に陥っている。議論がほとんどなくなり、声が大きい人たち、多数派の人たちによって、すべてが強引に決められていく。こうした対話の軽視、リベラルな考え方の喪失こそ、オルテガの恐れた「熱狂する大衆」という問題だったのではないでしょうか。
本来の「保守」政党が現れることを心から望む。

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2020年4月20日月曜日

【読書感想文】村上春樹は「はじめての文学」に向いてない / 『はじめての文学 村上春樹』

はじめての文学 村上春樹

村上春樹

内容(e-honより)
小説はこんなにおもしろい!文学の入り口に立つ若い読者へ向けた自選アンソロジー。

はじめて文学に触れる青少年のために村上春樹自身が撰んだアンソロジー、だそうだ。
多くの漢字にルビがふってあるし、言い回しも子ども向けに書き直したりしているらしい。

ぼく自身にとってはもちろんはじめての文学でもはじめての村上春樹でもないのだが、小学生に戻ったような気持ちで読んだ。装丁が優しい感じがするんだよね。

で、「はじめて大人向けの文学作品を読んでみる小学生」の気持ちで読んでみておもったのは「村上春樹作品ははじめての文学に向いてねえなあ」ってこと。

翻訳調の気取った言い回しとか、現実と空想の境目がぼんやりしたエピソードとか、これといった結末のないストーリー展開とか、どう考えたって「はじめての文学」向きじゃない。
いくらルビをふって優しい装丁にしたって村上春樹は村上春樹。

村上春樹氏って誰もが認める当代を代表する有名作家ではあるけど、作風はかなり異端だからね。
はじめての文学が村上春樹って、はじめて音楽を聴く人にジャズを勧めるようなもんじゃない?

基本を知っているから、逸脱を楽しめるんだとおもうよ。



この本に収録されている作品でぼくがいちばん気にいったのは『踊る小人』。
「象をつくる工場」というシュールな舞台、なんともあやしい小人の存在、そして終盤の気持ち悪い展開に後味の悪いラスト。
うん、ぼく好みだ。
でも「はじめての文学」として誰にでもおすすめできるかというと……どうだろう。

ほんとに「はじめての文学」でこんなの読んだらトラウマになるかもしれない。
こういうのが好きな子どもはとっくに大人向けの本にふれているような気もするし。


若い日の経験を語る『沈黙』は、青春小説っぽいしわかりやすいので「はじめての文学」にふさわしいかもしれない。
現実的だしわかりやすい教訓も引きだしやすいし中学校の教科書に載っていてもおかしくないような話。
でもこれは村上春樹っぽくないんだよな……。
こういうのが読みたいなら村上春樹じゃなくていい。

改めておもう。村上春樹は「はじめての文学」に向いてない。



ぼく自身の「はじめての文学」はなんだろうと考えると、やっぱり星新一作品に尽きる。
文学と認めない人もいるかもしれないけど、ぼくにとってはまちがいなく読書の世界への入口だった。
『ズッコケ三人組』などの児童文学は好きだったが、大人向けの本は読むものじゃないとおもっていた。あるとき(小学三年生ぐらいだった)祖父の本棚にあった星新一『ちぐはぐな部品』を読んで、そのおもしろさに打たれた。
結末の意外性もさることながら、設定のスマートさにしびれた。
バーとかマッチとかの小道具が大人の世界って感じでかっこよかったんだよねえ。これみよがしでないのが余計に
また、やはり母の本棚にあったジェフリー・アーチャーの短篇集も夢中になって読んだ。
こちらは小学六年生ぐらいだっただろうか。
ちょっとエロい描写もあって(といっても女性が下着姿になる程度で今読むとぜんぜんなんだけど小学生には刺激が強かった)、いろんな意味でドキドキしながら読んだ。

子ども向けの文学というと、性や暴力の描写のない爽やかな青春小説みたいなのを考えてしまうけど、むしろ性描写や暴力描写はあったほうがいいんじゃないかと個人的にはおもう。
子どもは大人の世界に触れたいのだ。お金とかセックスとか犯罪とか。現実には触れられないからこそ余計に。

ということで、はじめての文学にふさわしいのは「はじめての文学」シリーズじゃないな。うん。

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