2020年4月6日月曜日

不正解プレゼント


高校生のとき、遠足で京都・嵐山に行った。
ゆるい学校だったので、現地集合して、あとは友人同士で結成された班ごとに自由行動をして、現地解散。班員以外のクラスメイトとはほとんど顔をあわせない遠足だった。

ぼくはクラスメイトの男子六人で嵐山をぶらぶらと歩いていた。
土産物屋に入ったところで、Hくんが言った。「なんか買ってSさんにプレゼントしようかな」

HくんはクラスメイトのSさんに恋をしていた。
一方的な片思い。
ぼくらは「おっ、ええやん」「ついにコクるんやな! がんばれよ」とHくんの決断に声援を送った。

Hくんはしばらく土産物を見ていたが、やがてひとつの商品を手にぼくらの元に戻ってきた。
彼の手にあったものを見て、ぼくらは言葉を失った。

えっ、かんざし……。


そう、彼はかんざしを手にしていたのだ。
「Sさんに似合うとおもうんだよねー」と屈託なく笑うHくん。
ぼくは戸惑った。

それはキモくない……?

たしかにSさんにかんざしは似合うかもしれない。Sさんは色白できれいな黒髪をしたおとなしめの美人。控えめな色合いのかんざしは似合うだろう。
でもそういう問題じゃない。
似合うとか似合わないとか関係ない。

はじめてのプレゼントで、まして付きあってるわけでもないクラスメイトからのプレゼントで、かんざしは重すぎないか……?

でも当時のぼくは何も言えなかった。

「たぶんちがうとおもうけど、でも万が一ということもあるし、おまえ他人にアドバイスできるほど恋愛経験あんのかと言われたら答えはノーだし……」

と考えてしまい、かんざしを手にしたHくんに対して
「おっ、おお……。たしかに、似合いそうではあるな……」
と言うことしかできなかった。

今なら言える。
「いやぼくだって女心はようわからんけど、それでもこれだけはわかる。付き合ってるわけでもない女の子にかんざしは、ぜったいあかんやつやで!」
と。

「Sさんが気に入って学校に付けてきてくれたらどうしよう!」
と妄想だけで小躍りしているHくんを見たら何も言えなかった。
「そんなわけねえだろ!」とはとても言えなかった。


後日談。
Hくんはフラれた。そりゃあね。

ちなみにぼくも高校生のとき、想いを寄せていた女の子の誕生日にブリーフケース(ビジネス用のバッグ)をプレゼントしたという苦い思い出がある。
「好きという気持ちが出すぎないように」と考えすぎた結果、そんなわけのわからんチョイスになってしまったのだ。
他人のこと言えねえ。
え? もちろんフラれましたよ。そりゃあね。


2020年4月5日日曜日

中高生の居場所をつくるな


近所に「中高生向きの本を中心にした古本屋」がある。

これはおもしろい試みだとおもってぼくも応援の意味で何度か足を運んで本を買ったり(といってもライトノベルもヤングアダルト小説も読まないので一般書を)、Twitterをフォローしたりしていたのだが、そのうち見ていられなくなってフォローをやめてしまった。
店にもしばらく行っていない。

「見ていられない」とおもったのは、店主のおじさんがやたらと
「中高生の居場所をつくりたい!」
「本好きの若者の居場所になってほしい!」
といったメッセージを発信するからだ。
それを見るのがつらかったのだ。

いや、気持ちはわかる。
ぼくだって若い人に本を読んでもらいたい。
自分がそういう場をつくれたらすばらしいことだとおもう。

でも。
だったらそれを公言しちゃだめでしょ。
胸にしまっておかないと。

自分が中学生のとき。
「はい、ここが君たち中高生の居場所だよ! 学校や部活に居心地の悪さを感じている人はここに集まってね!」
と大人から言われて、そこに行きたいとおもった?

ぜったいイヤだ。
そういうのにいちばん嫌悪感を抱いた。
そこで「おれたちのための居場所なの? じゃあ行ってみよう!」ってなるタイプの中高生は読書に逃げ場所を求めないでしょ。


ぼくが中高生のとき、居心地のいい場所はいくつかあった。
友人Kの家とか、高校前の駄菓子屋とか、コロッケを安く買える肉屋とか、本屋兼レンタルCDショップとか、川原とか。
居心地が良かったのは、そうした場所がぼくたちのために何もしてくれなかったからだ。拒みはしないけど、招きもしない。行ってもいいし、行かなくてもいい。
そういう場所が好きだった。

だから、中高生の居場所にしたいなら、中高生の居場所にしちゃだめなんだよ。

って古本屋の店主に伝えたいんだけど。でも言えない。
言えるタイプだったらたぶん古本屋を好きになってない。


2020年4月3日金曜日

【読書感想文】奇妙奇天烈摩訶不思議 / シャミッソー『影をなくした男』

影をなくした男

シャミッソー (著)  池内 紀 (訳)

内容(e-honより)
「影をゆずってはいただけませんか?」謎の灰色服の男に乞われるままに、シュレミールは引き替えの“幸運の金袋”を受け取ったが―。大金持にはなったものの、影がないばっかりに世間の冷たい仕打ちに苦しまねばならない青年の運命をメルヘンタッチで描く。
オリジナルの刊行は1814年。原題は『Peter Schlemihls wundersame Geschichte』。
日本では『ペーター・シュレミールの不思議な物語』とも『影を売った男』とも。


主人公はふところからなんでも(馬や馬車まで)出せる男と出会い、金貨が無限に出てくる「幸運の金袋」と引き換えに自分の影を譲ることを承諾する。
いいものを手に入れたと喜んだのもつかのま、主人公に影がないことを知った人たちは急に冷たい態度をとるようになり……。

寓話なんだろうな、「影」というのは何かを象徴しているんだろうなとおもいながら読んだのだが……。どうもそうではなく、ほんとうに影の話だった。
影がないことを知られたとたんに急に迫害されたり仲良くしていた人が去ったりするのだが、なぜだかわからない。そのへんの説明は一切ない。とうとう最後までわからない。
なんだかわからないけど、この世界では「影」は金銭や人柄よりもはるかに大事なものらしい。影がないと人間扱いすらされないのだ。

さらに「姿の消える隠れ蓑」が出てきたり「一歩で七里を歩くことができる魔法の靴」を偶然手に入れたりと、次々に奇想天外な道具が出てくる。

「影」の意味はわからないが、影を奪った男の正体は物語中盤でわかる。影を返すことを条件に「魂をくれ」と持ちかけてくるからだ。
そうだね、男の正体はドラえもんだね。「ふところからどんなに大きなものでも出せる」「ふしぎで便利な道具をたくさん持っている」など、ドラえもんとしか考えられない。



謎の男=ドラえもん説はさておいて、そういえばドラえもんには『かげがり』というお話があった(てんとう虫コミックス1巻収録)。

「影切りばさみ」でのび太の影を切り取ると、影がのび太の代わりに草むしりをしてくれる。
ドラえもんはのび太に影を使うのは30分までにしろと警告するが、のび太が影にあれこれ命じているうちに30分経ってしまう。
すると影は次第に自我を持ち、言葉も発するようになってくる。対照的にのび太の姿は黒っぽくなっていき……。

というなんとも恐ろしい話だ。さすがに『ドラえもん』なのでコミカルなオチに落としこんでいるけど、『笑ゥせぇるすまん』だったら二度と還ってこられなかったところだ。

ひょっとしたら藤子・F・不二雄先生も『影をなくした男』を読んだのかもしれないな。



意味深なタイトルなのでぼくは寓話だとおもって読みはじめてしまったのが失敗だった。
奇想天外なファンタジー小説として読むべき小説だったな。
『不思議の国のアリス』や『オズの魔法使い』のように。
でもそれにしちゃあ意味ありげなんだよな。
「主人公が(著者である)シャミッソー氏に宛てた書簡」という形をとった語り口とか、宙ぶらりんの終わり方とか。

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【読書感想文】現代日本にも起こる魔女狩りの嵐 / 森島 恒雄『魔女狩り』

【読書感想】ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』



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2020年4月2日木曜日

【読書感想文】リベラル保守におれはなる! / 中島 岳志『保守と立憲』

保守と立憲

世界によって私が変えられないために

中島 岳志

内容(e-honより)
保守こそリベラル。なぜ立憲主義なのか。「リベラル保守」を掲げる政治思想家が示す、右対左ではない、改憲か護憲かではない、二元論を乗り越える新しい世の中の見取り図。これからの私たちの生き方。

刊行は2018年2月。発売後すぐ買ったのだが、2年間も積読していたので内容は古くなっていることが多い(当時ホットだった希望の党は消滅し、当時リベラルの星だった立憲民主党もその勢いを失った)。
とはいえすごく刺激的でおもしろい本だった。

特にオルテガ『大衆の反逆』を紹介しているあたりはおもしろかったな。
100分 de 名著のオルテガ『大衆の反逆』を買っちゃったよ。オルテガなんて名前も知らなかったけど。



 安倍内閣が「一隻の船」だとしましょう。この船は徐々に傾き、沈んでいっている。しかし、乗り移るべき別の船が見当たらない。あっちに移れば大丈夫という安心感や希望を与えてくれる代わりの船が見当たらない。仕方がないので、ズブズブと沈んで行く船にしがみついている。そんな状況が、最近の多くの国民のあり方なのではないでしょうか。
 従来の構図で言えば、右派政権に対抗するのは左派ということになるでしょう。しかし、彼らの一部は教条的で、時に実現可能性やリアリズムを無視した反対意見を振りかざします。その態度はしばしば強硬で、何か自分たちが「絶対的な正しさ」を所有しているような雰囲気を醸し出しています。
 多くの庶民は、その姿に違和感と嫌悪感を抱いてきたのだと思います。一部の左派の主張や行動には、「自分たちは間違えていない」という思い上がりが多分に含まれていました。生活世界の良識を大切にしてきた庶民にとって、その独断的でドグマ的な態度は、修正の余地を残さない「上から目線」と捉えられ、忌避されてきたのでしょう。
この文章は現状をよく表しているとおもう(書かれたのは数年前だけど)。
国民の九割以上は「安倍内閣は問題だらけだ」と気づいている。たぶん自民党支持者ですら大半は気づいている(だよね?)。
政治ニュースを見ている人で、この政権最高! とおもっている人は、よほど利権に与っている人以外にはいないだろう。この船がいずれ沈むことも知っている(もしくは安倍政権という船が他の船を全部沈ませるか)。

でも、全員が船を捨てようとはおもっているわけではない。
「あっちの船のほうがまだマシだ」「いやあっちはこっちより早く沈みそうだ」で揉めている。

ぼくは個人的には政権交代してほしいとおもっている。もっといい船はたくさんあるとおもっている。
だからといって、政権およびその支持者に対して何を言ってもいいとはおもわない。

昨年の参院選前、こんなことを書いた。





ここに書いたことには少しウソがあって、ほんとは「安倍辞めろ」とおもっている。でもそれをおおっぴらに言うことはフェアではない。

それは野球のゲームで無得点に抑えられているからって「相手のピッチャーひっこめ!」ってヤジるようなものだ。見苦しいだけだ。
ちゃんとルールにのっとってヒットを重ねることで、マウンドから引きずりおろさなければならない。
(とはいえ現状は相手ピッチャーがドーピングしまくっているのに審判が見てみぬふりしている状態なので言いたくなる気持ちはよくわかる。だとしても抗議する相手は相手ピッチャーではなく審判やコミッショナーであるべきだ。検察仕事しろ。)

「安倍辞めろ!」の人たちは、「安倍さん万歳! 安倍さんなら何をやっても許す!」の人たちと同じレベルでものを言っているということに気づいていないのだろうか。



過酷な労働環境で苦しんでいる人がいるとする。
長時間労働、低賃金、パワハラ。
客観的に見たら「そんな職場辞めたらいいのに」とおもう。

だからといって「そんな仕事してるやつはばかだよ。何も考えてないんだね。おれはよく考えてるからこっちの正しい仕事をするけどね」と言えばいいってもんじゃない。そんな言葉で相手が転職を検討するとはおもえない。
そんなこと言われたら相手は「何もわかってないくせに気楽なこといいやがって。たしかにきつい仕事かもしれないけどやりがいはあるしそれなりに楽しさだってあるんだよ。だいたい辞めたからってもっといい職場が見つかるとはかぎらないだろ。もっと悪くなるかもしれないし」と反発したくなるだろう。もしかすると余計に意固地になって仕事を続けるかもしれない。

必要なのは相手や組織の否定ではなく「こんな仕事もあるよ。あなたのスキルならこれぐらいの給料もらえるよ。そりゃこっちの会社だって完璧ではないだろうけど、転職することで状況が良くなる可能性が高いんじゃない?」という別の求人を提示することだ。

多くの「自称リベラル」がやっているのは、まさに相手や組織を否定することだ。「安倍やめろ」の人たちなんかまさしく。これでは仲間は増えない。
(ただ「野党は文句ばっかりで具体的な案を示さない」という批判も的外れだけどね。示してるのにおまえが不勉強なだけだ。)


ぼくは、政治家の仕事は究極をいえば「ビジョンを示すこと」だけだとおもっている。その他の仕事は官僚のほうが百倍優秀にできるわけだからそっちに任せたほうがいい。
政治家は理想論者でもいいとおもっている。
だから上から目線で政敵を批判するのではなく、ビジョンを示してほしい。それも二十年先とか五十年先とかそういうスパンの。
与党も野党もそういうの語ってくれないでしょ。五十年後に向けてこうしていきますとか。田中角栄は語ってたけど。
みんな目先の消費税の話とかばっかりで。
べつにまちがってもいいんだよ。五十年先なんか誰にもわからないんだから。でも方向性だけでも示してほしい。
それすらわからないから、消費をせずに金を貯めるし、子どもも増やせないんだよなあ。



この人の提唱する「保守リベラル」という思想は、ぼくの政治スタンスとほぼぴったり一致する。
そうそう、これがぼくの言いたかったことなんだよ! という感じ。
今日からぼくも「リベラル保守」だ!(でも世間一般のイメージの保守派とおもわれたくないので大っぴらにはいわないけど)。

政治的な視界がすごくクリアになった。

今「保守」というと、靖国参拝だとか戦前回帰みたいなイメージで語られることが多い。ぼくもそういう人だとおもっていた。要は日本会議の人たちのイメージ。

でも本来の保守はまったくべつのものだと筆者は語る。
保守は人間の理性を疑う。長年の間に蓄積されたシステムを信用する。だから激変を嫌う。「教育勅語を現代日本に!」なんてもってのほかだ。
ただし変わらないということではない。保守のためには絶えず変わりつづけることが必要だ。一気に変えるのではなく、漸進的に変えていくのが保守のスタンスだ。

憲法をラディカルに変えるのは保守ではないし、護憲を掲げ何十年も同じ憲法を使いつづけるのももちろん保守ではない。
たしかにねえ。
この本の枝野幸男氏との対談の中でも語られているけど、「憲法改正に賛成ですか?」ってほんとに無意味な問いだよねえ。
「ある人が転職を考えています。したほうがいいですか?」みたいなことだもんね。それだけじゃなんともいえない。その人のスキル、今の仕事、次の仕事を知らずに判断することなんかできるわけがない。

 懐疑主義的な人間観に依拠する保守は、常にバランス感覚を重視します。私が尊敬する保守政治家・大平正芳は「政治に満点を求めてはいけない。六十点であればよい」と述べています。大平は、自己に対する懐疑の念を強く持っていた政治家でした。自分は間違えているかも知れない。自分が見落としている論点があるかもしれない。そう考えた大平は、「満点」をとってはいけないと、自己をいさめました。
「満点」をとるということは、「正しさ」を所有することになります。また、異なる他者の意見に耳を傾けるということも忌避します。大平は、可能な限り野党の意見を聞き、そこに正当性がある場合には、自分の考えに修正を加えながら合意形成を進めていきました。これが六十点主義を重んじたリベラル保守政治家の姿でした。
すばらしいなあ。
今の国政にこういう政治家いるかなあ。いないんじゃないかなあ。いても目立たないだろうなあ。メディアは過激な発言をしてくれる人にしか注目しないから。

でも、こういう人こそが政治家に向いている。
自分はまちがってるかもしれない、相手のほうが正しいかもしれない、だから大変革ではなくいろんな人の話を聞いて微調整しながら漸進的に物事を進めていきましょう、って人が。
舌鋒鋭く敵を攻撃する人じゃなくてさ(そもそも他の政治家や国民を敵と認識している人に政治家をやってほしくない)。

大平正芳氏はスピーチが流暢ではなかったため(あと風貌のために)「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」とも呼ばれていたが、実際は知識量も多く、謙虚で思索的な人柄だったらしい。
「六十点を目指す」ってのはほんとに頭がいい人じゃないと言えないことだよ。バカはすぐ「自分はぜったいに正しい! 反対するやつはまちがってる!」って言うからね。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、未来の不確定な出来事を正確に予測する能力の高い人は、「自分の考えは誤っているかもしれない」と常に自省的である人だそうだ。
うーん。今国会議員をやっている〇〇氏や○○大臣とは真逆だねえ。

自分は百点だとおもっている人間じゃなくて六十点かもしれないと疑いつづけている人に政治家をやってほしいなあ。



ギルバート・キース・チェスタトン(イギリスの作家)の思想の紹介。
 ひとつの観念に固執する人間を、チェスタトンは「狂人」と見なす。狂人は常に明快で、一直線に論争相手を論破しようとする。正気の人間は、狂人との議論に勝つことができない。なぜなら、正気の人間には常に「躊躇」や「曖昧さ」がつきまとうからである。一方、狂人は過度に自己を信用するがあまり、社会生活を支えている良識や人間性を喪失している。

(中略)

「正気の人間の感情」を持つ人間は、自己に対する懐疑の念を有している。そのため、異なる他者の主張に耳を傾け、常に自己の論理を問い直す。「正しさ」を振り回すことを慎重に避け、対立する他者との合意形成を重視する。
 そこでは対話を支えるルールやマナー、エチケットが重要な意味を持つ。他者を罵倒し、一方的な論理を投げ付ける行為は、「理性以外のあらゆる物を失った人」のなせる業である。彼らは先人たちが社会秩序を維持する中で構築してきた歴史的経験知を、いとも簡単に足蹴にする。彼らがいかに「保守的」な言説を吐いていても、それは保守思想から最も遠い狂人の姿にほかならない。

子どもの頃のぼくは弁が立つガキだった。
口喧嘩ならまず負けなかった(と自分ではおもっていた)。
いくらでも言葉は出てくるし、比喩や極端な例を持ち出して相手が言葉に窮すまで追いつめることができた。教師相手でも負けていなかった。

今にしておもうと、当時のぼくはチェスタトンのいう「狂人」の姿そのままだったのだ。
自分は正しい、相手はまちがっている、だから相手が黙りこむまで徹底的に言葉を重ねる。
論戦に勝つか負けるかしかないとおもっていた。
相手が黙りこんでいたのは論戦に負けたからではなく、狂人であるぼくに愛想を尽かしたからだったのだろう。

今ではさすがにそこまでやりあうことはなくなったけど(妻とは口喧嘩をすることはあるが妻をやりこめても長期的に見れば損しかないのでほどほどにするよう気を付けている)、特にネット上の論戦なんかを見ているとこの手の「狂人」であふれかえっている。姿が見えないと余計にエスカレートしやすいのかもしれない(どんなに相手を怒らせてもぶん殴られる心配がないからね)。

さっきの例でいうと「安倍辞めろ!」の人は「安倍さん万歳!」の人たちと同じく狂人だ。自己の正しさについて疑いを持っていたらそんな発言にはならないだろう。

かくいうぼく自身も、正しさを振りまわす「狂人」になってしまうことがある。
自省しないとね。



すごく新しいことや過激なことを書いているわけではないが、いやだからこそ、染み入る内容だった。あたりまえのことを丁寧に言うだけでいいんだよ。こういうのを読みたいんだ(刺激的な文章も読みたいけど)。
著者が選挙に出馬したらぼくはまちがいなく票を入れるね。

特に一章『保守と立憲』、二章『死者の立憲主義』、三章の枝野幸男氏との対談『リベラルな現実主義』はおもしろかったな。

中盤以降はいろんな雑誌にいろんなテーマで書いた短文の寄せ集めなので、一冊の本として読むとぜんぜんまとまりがない。
後半は……個人的にはいらなかったな。

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【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

【読書感想文】 橘 玲『朝日ぎらい』



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2020年4月1日水曜日

【読書感想文】小学生レベルの感想文+優れた解説文/NHKスペシャル取材班『老後破産』

老後破産

~ 長寿という悪夢 ~

NHKスペシャル取材班

内容(e-honより)
「預金が尽きる前に、死んでしまいたい」「こんなはずじゃなかった…」年金だけでは暮らせない。金が無いので病院にも行けない。食費は1日100円…。ごく普通の人生を送り、ある程度の預貯金もある。それでも、病気や怪我などの些細なきっかけで、老後の生活は崩壊してしまう。超高齢化社会を迎えた日本で、急増する「老後破産」の過酷な現実を、克明に描いた衝撃のノンフィクション。
貧しい老人の暮らしを書いたルポルタージュなんだけどね。
なんつうかね。
読みながらむかむかしたね。
なんだこの年寄りは何を言ってんだ、と。

金がなくて大変なのはわかる。家族がいなくて寂しいのもわかる。
その責任がすべて本人にあるとは言わない(でも一部はあるとおもう)。
ぼくらの納めた税金や社会保険費を彼らのために使うなとは言わない。

でもさあ。
「立派なお葬式を挙げたいから葬式費用を貯金している。貯金があるから生活保護を受けられない」
「長年住み慣れた思い出のつまった家を離れたくない。持ち家があるから生活保護を受けられない」
「若いころは旅行に行くのが楽しかった。でも今はとてもそんな余裕がない」
とかボヤいてんの、この本に出てくる貧しい年寄りたちは。

は? なにねぼけたこといってんの?

ぼくが葬式にも持ち家にも思い入れのない人間だから余計にそうおもうかもしれないけどさ。

高い金かけて葬式挙げたいとか、思い出いっぱいの家を離れたくないとか、完全にわがままじゃん。
べつにわがまま言ったっていいけど、他人の金で贅沢したいってのは身勝手すぎる。
 そもそも、年金額が生活保護水準以下であれば、権利として認められているのが生活保護だ。憲法25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としていて、この条文に基づいて、生活保護制度が保障されている。自治体によって差はあるが、単身者に支給される生活保護費は、月額13万円前後。収入がこれを下回る場合、差額を生活保護費として受け取る権利がある。しかも、生活保護を受ければ、医療費や介護費用は無償となる。つまり安心して病院に行けることになるのだ。
 しかし、実際に生活保護を受けている高齢者の割合は10%程度で、ほとんどの人は生活保護に頼らずに年金収入だけで切り詰めた生活を送っている。「身体の不調があっても、我慢できるうちは病院に行かない」と、医療費まで節約している人も少なくない。
 自分の収入や貯えだけで踏ん張って暮らしている高齢者が医療や介護まで節約せざるを得ない状況にある一方で、いったん生活保護を受ければ、医療や介護は無償で受けられるというのが今の生活保護制度だ。しかし、自分の力で頑張っている人にこそ、支援したいと感じている福祉現場では、制度の行き届かない部分にある「モヤモヤ感」を口にする人が少なくない。
 さらに大きな矛盾を感じるのは、自宅を所有している高齢者が生活保護を受けにくい現実だ。一生懸命働いて、ようやく手に入れた思い出の家を手放したくないという人は、自宅を売却して生活費に充てた後でなければ、原則として生活保護を受けられない。もし自宅を手放したくないというのであれば、年金の範囲内で暮らしていかなくてはならないことになる。
 57歳の定年までデパートの神士服売り場で働いた山本さんは、厚生年金は、なぜかもらっていない。
 当時、企業では、厚生年金を退職時に「一括前払い」で受け取ることができたためだ。この「厚生年金脱退手当金制度」をよく知らずに利用してしまったために、厚生年金を受け取ることができなくなってしまった人は少なくない。
「昔は、積み立てた厚生年金を退職時に一括でもらうこともできたんですよ。でも、退職した当時は、年金がこんなに大切な物だったって分からないじゃない。それで、その時一括してもらってしまったんです。だから今、厚生年金はないんです」
 当時、一括してもらったとしても、物価相場のことを考えると、それほど多い金額ではないだろう。一括受け取りは、今思えば、大きな損をしてしまったことになる。それも困ってから、初めて気がついたのだという。
払った以上の年金をもらっているのに「思い出の自宅を手放したくないから生活保護を受けられない」とか「年金を一括でもらって使い果たしてしまったから困っている」とか、たわごともたいがいにせえよと言いたくなる。
何を悲劇の主人公みたいに語ってるんだ。おまえらのために少ない給料から多額の年金を徴収されている若者の生活こそが悲劇だよ。

そんな甘っちょろい考えしてるから貧しく孤独な老後を送ってんじゃないのと言いたくなる(そうじゃない人もいるんだろうけど)。
ぜんぜん共感できない。



少し前、オフィス街で「年金支給額を減らすな―」「高齢者の医療費負担額を上げるなー」ってデモをしてる高齢者たちがいた。
ぼくはあっけにとられながらその光景を見ていた。

いや、言いたくなる気持ちはわかる。
誰だって自分が得をする制度であってほしい。
でもそれをオフィス街の、今働いている人間の前でやって共感を集められると思っている神経が理解できない。

「年金支給額を減らすな―」「高齢者の医療費負担額を上げるなー」って、「我々老人のために後の世代の負担をもっと大きくしろー」って言ってるのと同じだからね。
毎月給料から健康保険費だの年金費用だのをがっつり取られている上に将来還ってこない人たちの前で、払った分以上の年金と医療費をもらっている人間が「もっとよこせー」って言ってるんだよ。
それをオフィス街で叫べる無神経さに寒気がした。こいつらどこまで自分勝手な思考回路してんだ、と。

「我々は優遇されすぎです。もっと若い人のためにお金使ってください」と言えとまではいわない(言ってほしいけど)。
でも「若い人たちに養ってもらってありがとうございます」という気持ちは忘れんなよ、とおもう。

世代間の意識の差はこんなに大きいのかとぼくはため息をついた。
デモをしていた老人たちは、今の労働者がどれだけ税金や社会保険料をとられているか知らないし、知る気もないんだろうな。



ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』に書いてあった話。
ほとんどの動物は死ぬ直前まで生殖機能を有している。だけど人間のメスは例外的に寿命の何十年も前に閉経して生殖機能を失う。
それは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができたから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすかったのだそうだ。

ところが近代になって文字による伝達が可能になり、さらに技術や知識の発展のスピードが速くなったためにおばあちゃんの知識や技術が役立つ機会が減ってしまった。

ということで、現代の高齢者の多くは生物学的にみれば不要なものということになる(オスに関してはかなり高齢まで生殖機能を維持しているが、現実的に高齢男性が子どもを作るのは身体的にも社会的にも容易ではない)。
もちろんこれは生物学的な話であって、人間は生物学的な合理性だけで生きるわけではないので「老人は生きる価値なし」とは言わない。
でも「あんたらは社会から必要とされていない」というプレッシャーをいちばん感じているのは誰よりも高齢者本人なのではないだろうか。

金がない、仕事もない、子どもも産めない、世話をする子どもも孫もいない、誰かの世話になることはあっても役に立つことはない。
そういう状況で生きているのはすごくつらいとおもう。

ぼくは子どもを持ってから生きるのがすごく楽になった。
それは「役割」ができたからだ。子どもを育てる父親。おまけに勤労もして納税までしている。大手を振って社会のど真ん中を歩いていける。楽ちんだ。
大学卒業後に無職をやっていたが、そのときに感じていた生きづらさははるか彼方。社会から必要とされるってすごく快適だ。

『老後破産』に出てくる老人たちがいちばんつらいのは、金がないことではないとおもう。誰にも必要とされていない(そしてこの先も必要とされることがない)ことが苦しみの原因なんだろう。

『老後破産』は老人の貧しさを問題として掲げているが、それは切り口がちがうんじゃないだろうか
そりゃ個別に見れば貧しくて困っている老人はたくさんいるだろうが、それはこの時代の問題ではない。むしろ今の高齢者は歴史的に例のないほど「(金銭的には)恵まれた老後」を送っている。
百年以上前だったら、金がなくて家族のいない老人は死ぬしかなかった。死ぬほど貧しいんじゃない。貧しいから死ぬ。それが当然だった。
逆に今より未来の老人は、もっと貧しいはずだ。年金は減らされ、医療費も介護費負担も増大している。そりゃもうまちがいなく。団塊ジュニア世代以降の老人貧困率なんか今の比じゃない。はたして「健康で文化的な最低限度の生活」だって保障されるかどうかあやしいものだ。
「昔は持ち家を手放せば生活保護をもらって生きていけたんだって。いい時代だったんだなあ」となる可能性が高い。

今の老人がいちばん恵まれている。どんなに貧しくても生きていける。払った分以上の金がもらえる。
だからって貧困問題を解決しなくていいとはいわないけど、でもいちばんマシな世代を例に挙げて「ほらこんなつらい人たちがいるんですよ。若い世代がなんとかしましょうよ」と言われたってまったく響かない。
だって今の老人を救ったら未来の老人がもっと苦しむだけだもん。
 そうして、一面の焼け野原だったところに都市を築き、戦後復興を成し遂げてきた。それが今の高齢者の人たちだ。川西さんも、50年余り、誠実に働き続け、年金を納め、大きな借金をすることもなかった。それでも今、「老後破産」に陥ることを恐れ、不安な毎日を送っている。
 一生懸命に働き、一生懸命に生きてきた普通の人たちが報われない──。
 それが今の日本の老後の現実なのだ。
だからちがうんだって。
今がいちばん報われてるんだって。昔はもっと報われなかったし、未来の高齢者もまずまちがいなく今ほどいい暮らしをできない。
そこをわかってないんだなあ。



あと気に入らないのは、「〇〇さんはまっとうに長年働いてきた。なのにどうして老後にこんなに苦しまなくてはならないのか」って文章がくりかえされること。

意図はわかる。
これを読んでいるあなたも他人事ではありませんよ、って警告なんだろう。

でも逆効果なんじゃないか。
「まっとうにがんばって生きてきた人が報われないといけない」はすなわち「がんばっていなかった人は不幸になってもしかたない」だし、それはすぐに「不幸なあの人はがんばりが足りなかったからだ」という“自己責任論”と結びつく。

人間、誰だって探せばアラはいくらでも見つかる。三百六十五日四六時中まっとうに生きている人なんかいない。
誰だって、無職の期間があった、社会の仕組みについて勉強してこなかった、ギャンブルをやっていた、離婚した、趣味にお金を使っていた、一獲千金を夢見て失敗した、などの“落ち度”は見つかるだろう。
この本に紹介されている老人たちだって、なにかしら“落ち度”を抱えた人たちだ。助けない理由なんか探せばいくらでも見つかる。

だから「〇〇さんはまっとうに長年働いてきた。なのにどうして老後にこんなに苦しまなくてはならないのか」という主張は筋が悪い。
「それは十分まっとうに生きてこなかったからですよ」の一言でかんたんに覆されてしまう。

まっとうに生きてきたから救わなければならないのではない。人間だから救わなければならないのだ。
どうもこの本を書いたNHKスタッフたちは基本的人権の根本をわかっていないようだ。

「まっとうに生きてきたこの人がなぜ」は、貧困救済をしたいならぜったいに書いてはいけない言葉だとおもうよ。



『老後破産』に出てくる老人の多くは「もう死にたい」と口にしている。
家族も金も健康も需要もない、そしてなにより未来への希望がない。そんな状態で生きるのはさぞ苦しかろう。

中学生が「生きてたっていいことないしもう死にたい」と言ってたら「そんなことないよ。生きてたらいいことあるよ。今はつらくてもあと何年かしたら笑いとばせるようになるよ」と声をかけてあげられる。
でもお金も仕事も家族もなくて不健康な老人が「生きてたっていいことないしもう死にたい」って言ってたら「そうかもしれませんね。今後状況が悪くなることはあっても良くなることはほぼないでしょうねえ」と言ってしまいたくなる。だってほんとにそうだもん。

もう、安楽死しかないよね。
死にたいという老人がいて、彼らを求めていない社会がある。もう安楽死制度導入しかないじゃない。
生きるのがつらい高齢者も助かる、税金と社会保険費の負担が減る労働者も助かる、国家財政も助かる。三方良し。

残酷だけど、ぼくは見ず知らずの「もう死にたい」という老人がどこかで生き続けていることより、自分の社会保険費用が安くなることのほうがずっとうれしい。

いやじっさい安楽死があることで救われる老人も多いはず。
いつまで生きるかわからないから不安、いつまで生きるかわからないからお金がない(あっても使えない)。
死ぬタイミングを自分でコントロールできればそういった問題も解決する。

不健康で貧しい老後を三十年送るよりもそこそこいい暮らしを十年するほうがいいって人も多いはず。ぼくも後者だ。今の時点ではね(でもいざ自分が歳とったら生にしがみつくんだろうな)。

書き手の伝えたいメッセージとはちがうだろうけど、読めば読むほど「こりゃあ安楽死させてやるしかねえな」という気持ちが強くなっていった本だった。



というわけでぼくにとってはハズレ要素しかない本だったのだが、解説文を書いている藤森克彦氏(日本福祉大学教授/みずほ情報総研主席研究員)の文章はすごくよかった。
ちゃんとデータを出して、貧困に至る原因、考えられる政策などを解析している。
厚生年金の適用拡大、医療・介護費の自己負担軽減と財源捻出、家賃補助制度、高齢者向け生活保護制度など、具体的な案も示している。
こっちは読む価値がある。

本編のほうはケースを個別紹介しているだけで分析も提言もぜんぜんなく「こんな人がいます。かわいそうだなあと思いました」という小学生レベルの感想文でしかないので、余計に解説文の良さが際立つ。

本編より解説文のほうが1000倍読む価値がある本だった。


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