2020年4月1日水曜日

【読書感想文】小学生レベルの感想文+優れた解説文/NHKスペシャル取材班『老後破産』

老後破産

~ 長寿という悪夢 ~

NHKスペシャル取材班

内容(e-honより)
「預金が尽きる前に、死んでしまいたい」「こんなはずじゃなかった…」年金だけでは暮らせない。金が無いので病院にも行けない。食費は1日100円…。ごく普通の人生を送り、ある程度の預貯金もある。それでも、病気や怪我などの些細なきっかけで、老後の生活は崩壊してしまう。超高齢化社会を迎えた日本で、急増する「老後破産」の過酷な現実を、克明に描いた衝撃のノンフィクション。
貧しい老人の暮らしを書いたルポルタージュなんだけどね。
なんつうかね。
読みながらむかむかしたね。
なんだこの年寄りは何を言ってんだ、と。

金がなくて大変なのはわかる。家族がいなくて寂しいのもわかる。
その責任がすべて本人にあるとは言わない(でも一部はあるとおもう)。
ぼくらの納めた税金や社会保険費を彼らのために使うなとは言わない。

でもさあ。
「立派なお葬式を挙げたいから葬式費用を貯金している。貯金があるから生活保護を受けられない」
「長年住み慣れた思い出のつまった家を離れたくない。持ち家があるから生活保護を受けられない」
「若いころは旅行に行くのが楽しかった。でも今はとてもそんな余裕がない」
とかボヤいてんの、この本に出てくる貧しい年寄りたちは。

は? なにねぼけたこといってんの?

ぼくが葬式にも持ち家にも思い入れのない人間だから余計にそうおもうかもしれないけどさ。

高い金かけて葬式挙げたいとか、思い出いっぱいの家を離れたくないとか、完全にわがままじゃん。
べつにわがまま言ったっていいけど、他人の金で贅沢したいってのは身勝手すぎる。
 そもそも、年金額が生活保護水準以下であれば、権利として認められているのが生活保護だ。憲法25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としていて、この条文に基づいて、生活保護制度が保障されている。自治体によって差はあるが、単身者に支給される生活保護費は、月額13万円前後。収入がこれを下回る場合、差額を生活保護費として受け取る権利がある。しかも、生活保護を受ければ、医療費や介護費用は無償となる。つまり安心して病院に行けることになるのだ。
 しかし、実際に生活保護を受けている高齢者の割合は10%程度で、ほとんどの人は生活保護に頼らずに年金収入だけで切り詰めた生活を送っている。「身体の不調があっても、我慢できるうちは病院に行かない」と、医療費まで節約している人も少なくない。
 自分の収入や貯えだけで踏ん張って暮らしている高齢者が医療や介護まで節約せざるを得ない状況にある一方で、いったん生活保護を受ければ、医療や介護は無償で受けられるというのが今の生活保護制度だ。しかし、自分の力で頑張っている人にこそ、支援したいと感じている福祉現場では、制度の行き届かない部分にある「モヤモヤ感」を口にする人が少なくない。
 さらに大きな矛盾を感じるのは、自宅を所有している高齢者が生活保護を受けにくい現実だ。一生懸命働いて、ようやく手に入れた思い出の家を手放したくないという人は、自宅を売却して生活費に充てた後でなければ、原則として生活保護を受けられない。もし自宅を手放したくないというのであれば、年金の範囲内で暮らしていかなくてはならないことになる。
 57歳の定年までデパートの神士服売り場で働いた山本さんは、厚生年金は、なぜかもらっていない。
 当時、企業では、厚生年金を退職時に「一括前払い」で受け取ることができたためだ。この「厚生年金脱退手当金制度」をよく知らずに利用してしまったために、厚生年金を受け取ることができなくなってしまった人は少なくない。
「昔は、積み立てた厚生年金を退職時に一括でもらうこともできたんですよ。でも、退職した当時は、年金がこんなに大切な物だったって分からないじゃない。それで、その時一括してもらってしまったんです。だから今、厚生年金はないんです」
 当時、一括してもらったとしても、物価相場のことを考えると、それほど多い金額ではないだろう。一括受け取りは、今思えば、大きな損をしてしまったことになる。それも困ってから、初めて気がついたのだという。
払った以上の年金をもらっているのに「思い出の自宅を手放したくないから生活保護を受けられない」とか「年金を一括でもらって使い果たしてしまったから困っている」とか、たわごともたいがいにせえよと言いたくなる。
何を悲劇の主人公みたいに語ってるんだ。おまえらのために少ない給料から多額の年金を徴収されている若者の生活こそが悲劇だよ。

そんな甘っちょろい考えしてるから貧しく孤独な老後を送ってんじゃないのと言いたくなる(そうじゃない人もいるんだろうけど)。
ぜんぜん共感できない。



少し前、オフィス街で「年金支給額を減らすな―」「高齢者の医療費負担額を上げるなー」ってデモをしてる高齢者たちがいた。
ぼくはあっけにとられながらその光景を見ていた。

いや、言いたくなる気持ちはわかる。
誰だって自分が得をする制度であってほしい。
でもそれをオフィス街の、今働いている人間の前でやって共感を集められると思っている神経が理解できない。

「年金支給額を減らすな―」「高齢者の医療費負担額を上げるなー」って、「我々老人のために後の世代の負担をもっと大きくしろー」って言ってるのと同じだからね。
毎月給料から健康保険費だの年金費用だのをがっつり取られている上に将来還ってこない人たちの前で、払った分以上の年金と医療費をもらっている人間が「もっとよこせー」って言ってるんだよ。
それをオフィス街で叫べる無神経さに寒気がした。こいつらどこまで自分勝手な思考回路してんだ、と。

「我々は優遇されすぎです。もっと若い人のためにお金使ってください」と言えとまではいわない(言ってほしいけど)。
でも「若い人たちに養ってもらってありがとうございます」という気持ちは忘れんなよ、とおもう。

世代間の意識の差はこんなに大きいのかとぼくはため息をついた。
デモをしていた老人たちは、今の労働者がどれだけ税金や社会保険料をとられているか知らないし、知る気もないんだろうな。



ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』に書いてあった話。
ほとんどの動物は死ぬ直前まで生殖機能を有している。だけど人間のメスは例外的に寿命の何十年も前に閉経して生殖機能を失う。
それは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができたから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすかったのだそうだ。

ところが近代になって文字による伝達が可能になり、さらに技術や知識の発展のスピードが速くなったためにおばあちゃんの知識や技術が役立つ機会が減ってしまった。

ということで、現代の高齢者の多くは生物学的にみれば不要なものということになる(オスに関してはかなり高齢まで生殖機能を維持しているが、現実的に高齢男性が子どもを作るのは身体的にも社会的にも容易ではない)。
もちろんこれは生物学的な話であって、人間は生物学的な合理性だけで生きるわけではないので「老人は生きる価値なし」とは言わない。
でも「あんたらは社会から必要とされていない」というプレッシャーをいちばん感じているのは誰よりも高齢者本人なのではないだろうか。

金がない、仕事もない、子どもも産めない、世話をする子どもも孫もいない、誰かの世話になることはあっても役に立つことはない。
そういう状況で生きているのはすごくつらいとおもう。

ぼくは子どもを持ってから生きるのがすごく楽になった。
それは「役割」ができたからだ。子どもを育てる父親。おまけに勤労もして納税までしている。大手を振って社会のど真ん中を歩いていける。楽ちんだ。
大学卒業後に無職をやっていたが、そのときに感じていた生きづらさははるか彼方。社会から必要とされるってすごく快適だ。

『老後破産』に出てくる老人たちがいちばんつらいのは、金がないことではないとおもう。誰にも必要とされていない(そしてこの先も必要とされることがない)ことが苦しみの原因なんだろう。

『老後破産』は老人の貧しさを問題として掲げているが、それは切り口がちがうんじゃないだろうか
そりゃ個別に見れば貧しくて困っている老人はたくさんいるだろうが、それはこの時代の問題ではない。むしろ今の高齢者は歴史的に例のないほど「(金銭的には)恵まれた老後」を送っている。
百年以上前だったら、金がなくて家族のいない老人は死ぬしかなかった。死ぬほど貧しいんじゃない。貧しいから死ぬ。それが当然だった。
逆に今より未来の老人は、もっと貧しいはずだ。年金は減らされ、医療費も介護費負担も増大している。そりゃもうまちがいなく。団塊ジュニア世代以降の老人貧困率なんか今の比じゃない。はたして「健康で文化的な最低限度の生活」だって保障されるかどうかあやしいものだ。
「昔は持ち家を手放せば生活保護をもらって生きていけたんだって。いい時代だったんだなあ」となる可能性が高い。

今の老人がいちばん恵まれている。どんなに貧しくても生きていける。払った分以上の金がもらえる。
だからって貧困問題を解決しなくていいとはいわないけど、でもいちばんマシな世代を例に挙げて「ほらこんなつらい人たちがいるんですよ。若い世代がなんとかしましょうよ」と言われたってまったく響かない。
だって今の老人を救ったら未来の老人がもっと苦しむだけだもん。
 そうして、一面の焼け野原だったところに都市を築き、戦後復興を成し遂げてきた。それが今の高齢者の人たちだ。川西さんも、50年余り、誠実に働き続け、年金を納め、大きな借金をすることもなかった。それでも今、「老後破産」に陥ることを恐れ、不安な毎日を送っている。
 一生懸命に働き、一生懸命に生きてきた普通の人たちが報われない──。
 それが今の日本の老後の現実なのだ。
だからちがうんだって。
今がいちばん報われてるんだって。昔はもっと報われなかったし、未来の高齢者もまずまちがいなく今ほどいい暮らしをできない。
そこをわかってないんだなあ。



あと気に入らないのは、「〇〇さんはまっとうに長年働いてきた。なのにどうして老後にこんなに苦しまなくてはならないのか」って文章がくりかえされること。

意図はわかる。
これを読んでいるあなたも他人事ではありませんよ、って警告なんだろう。

でも逆効果なんじゃないか。
「まっとうにがんばって生きてきた人が報われないといけない」はすなわち「がんばっていなかった人は不幸になってもしかたない」だし、それはすぐに「不幸なあの人はがんばりが足りなかったからだ」という“自己責任論”と結びつく。

人間、誰だって探せばアラはいくらでも見つかる。三百六十五日四六時中まっとうに生きている人なんかいない。
誰だって、無職の期間があった、社会の仕組みについて勉強してこなかった、ギャンブルをやっていた、離婚した、趣味にお金を使っていた、一獲千金を夢見て失敗した、などの“落ち度”は見つかるだろう。
この本に紹介されている老人たちだって、なにかしら“落ち度”を抱えた人たちだ。助けない理由なんか探せばいくらでも見つかる。

だから「〇〇さんはまっとうに長年働いてきた。なのにどうして老後にこんなに苦しまなくてはならないのか」という主張は筋が悪い。
「それは十分まっとうに生きてこなかったからですよ」の一言でかんたんに覆されてしまう。

まっとうに生きてきたから救わなければならないのではない。人間だから救わなければならないのだ。
どうもこの本を書いたNHKスタッフたちは基本的人権の根本をわかっていないようだ。

「まっとうに生きてきたこの人がなぜ」は、貧困救済をしたいならぜったいに書いてはいけない言葉だとおもうよ。



『老後破産』に出てくる老人の多くは「もう死にたい」と口にしている。
家族も金も健康も需要もない、そしてなにより未来への希望がない。そんな状態で生きるのはさぞ苦しかろう。

中学生が「生きてたっていいことないしもう死にたい」と言ってたら「そんなことないよ。生きてたらいいことあるよ。今はつらくてもあと何年かしたら笑いとばせるようになるよ」と声をかけてあげられる。
でもお金も仕事も家族もなくて不健康な老人が「生きてたっていいことないしもう死にたい」って言ってたら「そうかもしれませんね。今後状況が悪くなることはあっても良くなることはほぼないでしょうねえ」と言ってしまいたくなる。だってほんとにそうだもん。

もう、安楽死しかないよね。
死にたいという老人がいて、彼らを求めていない社会がある。もう安楽死制度導入しかないじゃない。
生きるのがつらい高齢者も助かる、税金と社会保険費の負担が減る労働者も助かる、国家財政も助かる。三方良し。

残酷だけど、ぼくは見ず知らずの「もう死にたい」という老人がどこかで生き続けていることより、自分の社会保険費用が安くなることのほうがずっとうれしい。

いやじっさい安楽死があることで救われる老人も多いはず。
いつまで生きるかわからないから不安、いつまで生きるかわからないからお金がない(あっても使えない)。
死ぬタイミングを自分でコントロールできればそういった問題も解決する。

不健康で貧しい老後を三十年送るよりもそこそこいい暮らしを十年するほうがいいって人も多いはず。ぼくも後者だ。今の時点ではね(でもいざ自分が歳とったら生にしがみつくんだろうな)。

書き手の伝えたいメッセージとはちがうだろうけど、読めば読むほど「こりゃあ安楽死させてやるしかねえな」という気持ちが強くなっていった本だった。



というわけでぼくにとってはハズレ要素しかない本だったのだが、解説文を書いている藤森克彦氏(日本福祉大学教授/みずほ情報総研主席研究員)の文章はすごくよかった。
ちゃんとデータを出して、貧困に至る原因、考えられる政策などを解析している。
厚生年金の適用拡大、医療・介護費の自己負担軽減と財源捻出、家賃補助制度、高齢者向け生活保護制度など、具体的な案も示している。
こっちは読む価値がある。

本編のほうはケースを個別紹介しているだけで分析も提言もぜんぜんなく「こんな人がいます。かわいそうだなあと思いました」という小学生レベルの感想文でしかないので、余計に解説文の良さが際立つ。

本編より解説文のほうが1000倍読む価値がある本だった。


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2020年3月31日火曜日

【読書感想文】ザ・SF / 伴名 練『なめらかな世界と、その敵』

なめらかな世界と、その敵

伴名 練 (著)

内容(e-honより)
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの1度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曾有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6篇。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。

星新一が好きだったので学生時代に筒井康隆、小松左京、かんべむさしといったあたりのSFを読んではいたのだが何十冊か読んだところでSFが性に合わないことに気づき(気づくの遅いな)、久しく遠ざかっていた。
海外の有名作品をちょろちょろと読んでいたけど、日本SFはなんとなく敬遠していた。伊藤計劃ですら読んでいない。

で、久しぶりに手に取った国内SFが『なめらかな世界と、その敵』。
本格的なSF短篇集だ。
六篇が収録されているが、どれも文体やテーマがぜんぜん異なる。そしてそれぞれちがうおもしろさがある。これだけでも大した才能だと感心させられる。
SF界の将来を担う新進気鋭の新星、みたいな評価を先に知っていたので少し身構えていたのだが、なるほど前評判にたがわぬ短篇集だった。

とはいえ「ザ・SF」という感じなので、SF初心者におすすめはしにくいかな。



なめらかな世界と、その敵


人々が[乗覚]なる能力を身につけた世界が舞台。
[乗覚]というのはパラレルワールドをいったりきたりできる能力というか。教師からお説教を食らったからその間は[お説教を食らわない別の世界]に行ってやり過ごす、とか。交通事故に遭ったから[交通事故に遭っていない世界]に行くとか。
そういうことができる能力。

RPGでセーブデータを切り替えるようなものだろうか。
失敗したからリセットボタンを押して他のセーブデータに切り替える。

パラレルワールドへの移動自体はSFによくあるテーマだが、この作品の設定のすごいのはパラレルワールドが無数にあってその中から好きな世界を選択できること。
たとえば[水の上を走ることができた世界]なんかにも行けちゃう。こうなるともう何でもありだ。しかも世界中の人がこの能力を持っている。
もう収集がつかなくなりそうだが、それでもこの小説の登場人物たちは他の世界に行ったり来たりしながらそれなりの秩序を持って生きている。わけがわからない。

なのにちゃんと小説として起承転結の中に落としこんでいるのは高い筆力のたまものだ。
[乗覚障害]という乗覚を失った人物を出すことでさりげなく[乗覚]を説明するとことか、ほんとうにうまい。
こないだ読んだ某小説がそのへんほんとへたで不自然かつ冗長な説明をくどくど並べていたので、それと比べて余計に巧みさに感心した。



ゼロ年代の臨界点


日本のSF小説は1900年代の女性作家たちによってつくられた、という真っ赤な嘘をさも史実であるかのような語り口で説明。小説というか嘘ノンフィクションというか。

おもしろかったが、日本SFの黎明期を支えた星新一のファンとしてはちょっと複雑。フィクションとはいえ、星新一の功績がなかったことにされてるんだもの。

しかし現実には女性SF作家って少ないよなあ。ぼくが知らないだけかな。
ぼくが知っているのは栗本薫、新井素子ぐらい。漫画だと萩尾望都。古いなあ。
SFは特に女性が少ない分野だとおもう。だからこそこの作品が小説として成立する。ほんとに女性SF作家が増えたら『ゼロ年代の臨界点』のおもしろみが消えちゃうだろうな。



美亜羽へ贈る拳銃


伊藤計劃の『ハーモニー』や『虐殺器官』に対するトリビュート作品として発表されたものだそうだ。
ぼくは伊藤計劃作品を読んでいないので正しく評価できないとおもうのだが、それでもおもしろかった。
登場人物の造形がみんなつくりものじみている。リアリティのかけらもない。ふつうなら欠点でしかなさそうなものだけど、この人の小説に関してはそれがかえってしっくりくる。
ハードな設定のSFになまぐさい人間味はいらないのかもしれない。



ホーリーアイアンメイデン

自殺した妹が、生前に姉に宛てて書いていた手紙からなる短篇。
ううむ。書簡文学って嫌いなんだよなあ。不自然きわまりないから。相手も知っていることをそんなにことこまかに説明するわけがないだろ。
ストーリーにも意外性はなく、これは凡作かな。



シンギュラリティ・ソヴィエト

ソヴィエト連邦が西側諸国より先にシンギュラリティ(技術的特異点。人工知能が人間を超える瞬間)を迎えた世界が舞台。
ヴォジャノーイという人工知能が世界を統治し、人間は脳をヴォジャノーイに演算装置として貸しているという発想がおもしろい。
「あなた方は我々に勝つためにヴォジャノーイを作り、我々はあなた方に追い付き追い越すためにリンカーンを作った。しかしいつの間にやら、競っているのは我々とあなた方ではなく、リンカーンとヴォジャノーイそのものになった。ヴォジャノーイは勝利のためにあなた方やその他の生命を演算資源にしようとするし、リンカーンは勝利のために我々を眠らせようとする。チェスを指しているうちに、駒と指し手が入れ替わってしまったようなものだ。今この時も、ヴォジャノーイとリンカーンはそれぞれの国民を駒に見立てて、チェックをかけるため互いに戦略をぶつけ合っているが、盤上の駒に過ぎない我々には、戦略や戦局どころか、どこに動かされているのかさえ分からないし、自分が既に盤面から下ろされたのかどうかも分からない。……こちらがどうやって『これ』を見せているか、お尋ねにならないのですか?」
今は我々がコンピュータを外部の記憶・演算装置として使っているわけだけど、それと逆のことが起こるのだ。ふうむ。たしかに人間の脳ってすばらしくよくできているから、それを人間に使わせるのはもったいない。優秀な人工知能が使ったほうがよりよく効率的に活用できるかもしれない……。

ソヴィエトに敗れたアメリカ人たちは次々に現実逃避して電脳の世界ですばらしい世界(に見えるもの)を享受する。
人工知能に支配されているソヴィエト人と、人工現実の世界に救いを求めるアメリカ人。これぞ人類の終わり。でもどっちもそんなに不幸ではなさそう。
家畜がさほど不幸に見えないのと同じだな。

すごく精密な設定のわりに妙にばかばかしいオチはあまり好きじゃないが、設定はおもしろかった。



ひかりより速く、ゆるやかに


多くの修学旅行生を乗せた新幹線のぞみ号が突如動きを止めた。乗客も含め完全に停止した。……かに見えたが、よく調べてみると新幹線とその中だけ時間の流れがきわめてゆっくりになっているのだ。外の世界の二千六百万分の一の速度。このままだと、この新幹線が名古屋駅に停車するのは西暦四七〇〇年……。

意味不明の現象が起きたという導入はいいのだが、その後の展開がちぐはぐな気がする。
「名古屋駅に停車したら再び動きだす」という前提で主人公たちは行動しているのだが、それがまったくもって意味不明。元に戻る保証なんかまったくない。それどころか戻らないと考えるほうが自然じゃない?

その後も、きわめて少ないサンプルをもとに根拠の薄い憶測に従ってどんどん行動していく。
それも「1%でも可能性があるなら賭けてみる!」みたいな感じではなく、「前はこうだったからまた同じになるでしょ?(サンプル数1)」というぐあい。要するにバカ。
主人公たちがバカだから(バカの勘がたまたま当たったけど)共感できない。
設定はおもしろかったけどなあ。



ということでちょっと尻すぼみ。
全体的に「設定はものすごくおもしろいんだけどその後の話の転がり方に無理がある、不自然だ」という作品が多く、良くも悪くもハードSFらしい短篇集だったな。


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2020年3月30日月曜日

評価基準が外部にある人


評価基準が外部にある人はたいへんだろうな。

極力そういう界隈とか関わらないようにしているのだが、幼なじみにひとりだけいる。
しょっちゅうパーティーとかやって、Facebookに「今日は〇〇さんと会いました! 明日は△△でお食事です! 来月はロンドンに行きます!」みたいな報告をしているやつが。

なんだか見ているだけでこっちが疲れる。
「自分をよく見せる」ことに全身全霊を傾けていて、しかもそれがわかっちゃうものだから痛々しい。
本人はハッピーそうに見せているのだから他人がとやかく言うことではない。
彼の投稿を見るたびにうげえとつぶやいてそっとブラウザを閉じる。見なきゃいいじゃないかと言われるとそのとおりなのだが、でもときどき怖いもの見たさで見にいっちゃうんだよね。そしてそのたびにげんなりする。

ことわっておくが、そいつはいいやつなのだ。
そいつのことはぜんぜん嫌いじゃない。
まあいいやつに決まってる。周囲からよく見られたいという行動原理で動いてるのだから、当然明るく社交的で親切なのだ。嫌いになる要素がない。

だからこそ、しんどい。
いいやつが、勝ち目のないレースに参加しているのを見るのがつらい。

そう。勝ち目がないのだ。
「他人からよく思われるレース」に勝者はいない。全員が敗者だ。

だって、自己評価を他人の評価が上回ることなんてないんだもの。ぜったいに。
自分に対する自己評価が10としたら、他者が自分に下す評価なんてせいぜい2とか3とかだ。
5あったらいいほう。もしかしたら0とか-5とかかもしれない。

思春期のときなんかはそのギャップに悩む。ぼくも悩んだ。
でもだんだんわかってくる。この差はぜったいに埋まらないものなんだと。自分以上に自分を評価してくれる人なんておかあさんだけなんだと。

もちろんちょっとでも埋めようと努力するのはすばらしいことだけど、残念ながら努力しても差は縮まらない。それどころか開く一方。だって自分の努力をいちばんわかってくれるのは自分なんだもの。

だから他人の目なんか気にしなくたっていい。まったく気にしないのも問題だけど、それより自分がどう感じるかが百倍大事だ。
……とまあ、多くの人は二十代三十代ぐらいでこういうことをちょっとずつ悟るんじゃないかな。


しかしFacebookには「他人からよく思われるレース」出走者がたくさんいる(Instagramにもいるんだろうけどぼくはやってないので知らない)。

おれってこんないい暮らししてるぜ、オレっちはこんなに有名な人と付き合いあるんだぜ、ボクチンはこんな楽しい日々を送ってるんだぜ。

見るたびに心が痛む。
もうやめようぜ。そんな不毛な戦いは。
その先に幸せはないんだから。

やめてくれ。そんな必死に自己顕示をしなくたっていいじゃないか。
大丈夫だ、ぼくはわかっている。
そんなアピールをしなくたって、おまえが十分すごいやつだってことを。
ぼくは評価しているから大丈夫だ。おまえ自身の評価の二割ぐらいは評価してあげてるから。


2020年3月29日日曜日

六歳児とのあそび

六歳の娘と最近よくやる遊び。

◆ おぼえてしりとり

しりとりをしながら、これまでに言ったものをおぼえるという遊び。
「りんご」
「りんご、ごりら」
「りんご、ごりら、らっぱ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ、つみき」
……とだんだん長くなっていくしりとり。記憶力が試される。

高校時代、友人たちとの間でこの遊びが流行ったのだが、当時のぼくは無類の強さを誇っていた。ほとんど無敗。短期記憶が強いのだ。三十ぐらいまでならほとんど苦労せずに覚えられる。

さらに「かもしか」「いか → かい」のように同じ文字のワードを近接させると飛ばしてしまいがちになるとか、「なかよし」「げんき」のような抽象的なワードを言うことでイメージしにくくさせるとか、容赦ないテクニックを使って六歳児相手に連勝している。

ちなみにこれ、三人以上でやると格段にむずかしくなる。
自分の言ったワードより他人が言ったワードのほうが思いだしにくいからだ。

これの別バージョンとして「おぼえて古今東西」もやる。
赤いもの、というお題で
「りんご」
「りんご、ポスト」
「りんご、ポスト、トマト」

「りんご、ポスト、トマト、赤信号」

……とやっていくのだ。こっちは単語同士の間につながりがないためさらにむずかしい。

◆ キャラクターあてクイズ

「はい」か「いいえ」で答えられる質問をくりかえして、相手が思いうかべたキャラクターをあげるゲーム。
アキネイター の人力版だ。

選ぶのはぼくと娘の両方が知っている人でないといけないので、アニメのキャラクターや、親戚、保育園の友人など。

娘は慣れないころは序盤に「青いですか?」と質問したりしていたが(ドラえもんしかおらんやないか)、「人間ですか?」「女ですか?」「大人ですか?」のようにおおざっぱな質問をして徐々に狭めていくのがコツだよ、と教えると徐々に上達してたいてい十以下の質問であてられるようになってきた。

キャラクターだけでなく「場所」「動物」「食べ物」などでもやる。
ただし娘の知識が乏しいため、「卵を産みますか?」「いいえ」だったのにカメだったとか、「緑ですか?」「いいえ」なのにトウモロコシだったりとか(緑の皮に覆われていることを知らなかった)、意図せぬ嘘が混じって難問になることがある。

◆ めいろ、あみだくじ

娘は昔から迷路が好きだったのだが、最近は自分でそこそこ骨のある迷路をつくれるようになってきた。
以前は娘が作る迷路は分かれ道がなかったり、すべてが行き止まりだったりしたのに……。成長したなあ……うう……。

なので娘が作った迷路をぼくが解くことになる。らくちんで助かる。
昔は「めいろつくってー」と言われて十分ぐらいかけて大作をつくっても一分で解かれて「べつのつくってー!」と言われていたなあ……。あれはつらかった……うう……。

めいろもあみだくじも、ぼくも子どものころ好きだった。あとサイコロと。
単純な遊びなんだけど、おかげで高校数学の順列組み合わせとか確率とかを難なく理解できたので、何が役に立つのかわからない。

◆ めいたんていゲーム

1から7までの数字の中から、重複しない三つを紙に書いて相手に見せないようにする(2,4,7など)。
相手は、数字を予想して「1,2,5」と言い、それに対し出題側は「1つあたり」と答える(順番はどうでもいい)。
これをくりかえし、三つとも的中させるまでの質問数が少ないほうが勝ち。当然論理的思考力が必要になるが運の要素もあるので、三回に一回ぐらいは娘が勝つ。

ヒットアンドブローというゲームの簡易版。



娘には賢い人になってほしいとはおもうが、いかにも教育的なことはしたくない。

娘の友人たちは塾や英会話教室に通ったりしているが、ぼくはまだいいんじゃないかとおもっている。
足し算引き算を一、二年早くおぼえたところで十年たったらいっしょだし、それよりは学ぶことのおもしろさを今のうちに知ってほしい。

考える、知る、調べるっておもしろいんだよ、ということを伝えたい。

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四歳児とのあそび



2020年3月27日金曜日

ユニバーシティのキャパシティ


最近、大学の講義はチャットで質疑応答をしたりするところがあるらしい。

講義に対して質問や意見があれば、受講者はスマホを使いチャットで質問をする。
講師はそれを見ながら、回答・解説を講義に織りまぜてゆくのだという。

なるほど。
いい仕組みだとおもう。
手を挙げて質問をするよりぐっとハードルが下がる。文章でまとめて質問するほうが論理的な内容になるだろう。
講師にとっても、受講者の理解度がつかみやすいし、質問が文字として記録に残るので次回以降の講義にも活かしやすい。

しかし。
それだったら、もう一箇所に集まって講義をする必要もないのではないだろうか。
講義をネットで生配信して、受講者は自宅で視聴すればいい。どうせ質問はチャットなのだ。
どうせ大学の授業の出席なんてさして重要でないのだ。
そうすると講師は東京にいて、受講者は全国各地にいるなんてことも可能になる。
もしかすると大きな大学だともうやっているかもしれない。

待てよ。
この考えを突きつめていくと、そもそも大学の定員自体が必要なくなるんじゃないか?
入学試験という選抜制度をあたりまえのように認識しているけど、本来は物理的な制約から生まれた制度なんじゃないだろうか。
理想をいえば意欲と能力のある人なら誰でも勉強できるようにしたほうがいい。だけど教室に収容できる人数は物理的な制約がある。だから入学試験をおこなって選抜する。
ネットであれば制約はないに等しい。何万人が視聴しようが、せいぜいサーバーを増強するだけで済む。
だったら「ネット環境さえあれば誰でも受講できるよ! 日本中、いや世界中どこにいたってオーケー。年齢も職業も問いません。八十歳でもいいし、理解できるなら十歳でもいい。勉強したい人は誰でもウエルカム!」とできるし、少なくとも国立大学はそうするのが本来の在り方じゃないだろうか。

まあさすがに試験やレポートは採点の労力があるので人数無制限ってわけにはいかないが、講義に関しては一般無料公開でいいんじゃないだろうか。

もう希望者全員東大生でいいんじゃない?