2020年2月17日月曜日

【読書感想文】雑誌で読むならいいかもしれないけど / 渋谷 直角『ゴリラはいつもオーバーオール』

ゴリラはいつもオーバーオール

渋谷 直角

内容(Amazonより)
レジ横でターンテーブルをまわすコンビニ店員の異様な情熱、スティーヴィー・ワンダーのものまねをしながら文化祭のステージ上で火を噴いた友人の狂気―。何気ない日常に潜む、バカバカしくも愛おしい、イビツな人々のエピソードが満載!先入観や思い込みを捨て、何かに「気づくこと」の楽しさと大切さを再認識させてくれる珠玉のエッセイ集。

渋谷直角氏の漫画『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』もおもしろかったので(タイトルなげえな)エッセイも読んでみたのだが、読んだ後に残るものがなかった。

『ボサノヴァカバー』も『民生ボーイ』も底意地の悪い視点が随所にあふれかえっていたのだが、『ゴリラはいつもオーバーオール』はずいぶんライトでポップなエッセイで、「こんな変わったやつがいましたー!」「こんなおもしろ出来事があったんですよー!」ってな感じで、決してつまらないわけではないのだが突き刺さってくるものがなかった。

雑誌のコラムの寄せ集めらしいのだが、そのまま本にしたらこうなってしまうのもしょうがないのかな。
雑誌のコラムは主役じゃないから、アクが強すぎてはいけない。極端な主張や身勝手な思いこみはじゃまになる。
この本に収録されたエッセイはどれも収まりがいい。暴言も妄言もない。主張も弱い。「ぼくはこうおもうんですけど、ぼくだけですかね、アハハ……」みたいな感じで、雑談のトピックとしては合格だけど一冊の本にまとめられると退屈だ。
雑誌コラムの宿命かもしれない。


駆け出しライターだった頃の顛末も、せっかくのいい題材なのにただ事実を並べて書いてるだけだ。各方面に気を遣って書いた結果こんな毒にも薬にもならないお話になっちゃったのかな。

もっと人を小ばかにしたものを期待していたのになー。



おもうに、フィクションを書く才能ととエッセイを書く才能はまったくべつのものだ。

ほんとにごくごくまれにどちらもおもしろいものを書く人もいるが(今おもいつくのは遠藤周作と北杜夫ぐらい)、たいていの書き手はそのどちらかの才能しかない(両方ない人もいる)。

小説家がエッセイを書いても日記みたいな内容だったり、エッセイのおもしろい作家の小説を読んだらだらだら文章が並んでいるだけでヤマ場も落ちもなかったりする。

漫画家とか学者とか翻訳家とか歌人とか、小説家じゃない人の書くエッセイのほうがおもしろいことが多い(まあこれは「エッセイを書く小説家」と「とびきりおもしろいエッセイを書く他の職業の人」を比べてるから当然なんだけど。他の職業でエッセイがつまらない人にエッセイの仕事はまず来ないだろうから)。

フィクションとエッセイはまったく別の筋肉を要する作業なんだろう。
小説家だからといって安易にエッセイ執筆を依頼するのは、「マラソン速いんだから短距離走も速いでしょ」というぐらい乱暴なことなのだ。


で、渋谷直角さんはフィクション畑の人なのだとおもう。
自分でも雑誌ライター時代に「インタビューをとってそのまま書いてもつまらないから全部妄想で書いた」なんて話をしてるから、きっとそっちのほうが向いているんでしょうね。

ということで、今後は毒っ気の強いフィクション漫画を描いていってもらいたいものです。以上。

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2020年2月14日金曜日

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』

OUT

桐野 夏生

内容(e-honより)
深夜の弁当工場で働く主婦たちは、それぞれの胸の内に得体の知れない不安と失望を抱えていた。「こんな暮らしから脱け出したい」そう心中で叫ぶ彼女たちの生活を外へと導いたのは、思いもよらぬ事件だった。なぜ彼女たちは、パート仲間が殺した夫の死体をバラバラにして捨てたのか?犯罪小説の到達点。’98年日本推理作家協会賞受賞。
いやーよかった。
すごくイヤな小説だった。イヤなところがよかった。イヤな気持ちになる小説、好きなんだよなあ。

ある女性が、夫婦喧嘩の末に夫を殺害してしまう。死体の始末に困った犯人は、パート仲間である中年女性の雅子に相談をもちかける。
雅子は「なんとかするよ」と答えて、別のパート仲間とともに死体を自宅風呂場で解体し、遺棄する。
警察は別の男を逮捕。雅子たちの死体遺棄は見事に成功したかに見えたが、事件の裏側を知った貸金業者や誤認逮捕されたカジノ経営者が雅子に近づき……。

と、かなりぶっとんだ設定。
これ以上はネタバレになるので説明しないが、ここからさらにすごい展開になってゆく。

すごいのは、死体遺棄の首謀者である雅子が、夫を殺した女性と何の利害関係もないこと。
ただのパート仲間で、すごく仲の良い間柄でもない。
「金をくれたら死体を処分してあげる」といった取引をしたわけでもなく、脅したり脅されたりしたわけでもない。
「車で来てるから送っていってあげるよ。ついでだし」ぐらいの感覚で「夫の死体処分してあげるよ」とやっているのだ。

傍から見ているとまったく理解できない。
だからこそ逆にばれないのだろう。そこに奇妙なリアリティがある。

もしもじっさいにこんな事件があったら、やっぱり捜査は難航するだろうな。
まさか何の利害関係もない赤の他人が無料で死体処理を手伝うとは誰もおもわないもん。

完全犯罪でいちばんむずかしいのは死体の処理だと聞く。
でかい、おもい、目につく、腐る、臭う、ばらしにくい、怖い。そういうものを人知れず処分するのは相当むずかしいだろう。

赤の他人が死体を処理してくれるのなら完全犯罪も意外とかんたんなのかもしれない。
大人がひとりいなくなったって死体が出てこなければ警察もまともに捜査しないだろうし。

本格ミステリって「どうやって殺すか」「どうやって殺した場所から立ち去るか」「いかにして証拠を残さないか」などに重点が置かれるけど、現実には「いかに死体を消すか」がもっとも大事かもしれない。そこを成功すれば九割方成功したようなものかもしれない。
完全犯罪を試みるときのためにおぼえておこう。



赤の他人の死体を風呂場で切り刻んでばらばらにしてゴミ捨て場に捨てるというめちゃくちゃ残酷なことをやっているのにもかかわらず、そのへんの描写はどこかユーモラスで、その後主人公たちが警察の捜査からまんまと逃れるあたりは痛快ですらある。

死体遺棄犯側に肩入れしてしまうのは、それをやっているのが「冴えない中年女性たち」だからだろう。
社内のいじめが理由で会社をやめて夫や息子との交流もなくなった女、憎い姑の介護と身勝手な娘に苦しめられながらも家から逃げられない女、物欲に歯止めが利かず借金を抱えて男にも逃げられる女。
若くもなく、美しい容姿もなく、技能があるわけでもなく、誇れる家族がいるわけでもない。
男中心の社会から見れば「とるにたらないおばさんたち」だ。

だからこそ彼女たちの大胆な犯罪は常識の盲点をつき、警察たちは彼女たちを疑うことすらできない。
『OUT』に出てくる刑事は女性たちにセクハラを平気でおこなうデリカシーのない男として描かれているが、彼こそが「男社会における中年女性への扱い」を体現している。
彼にとって女は「家庭を守るもの」か「性欲を満たすもの」であって、まさかバラバラ事件のような大胆なことをしでかす存在ではないのだ。だから犯人を捕まえられない。

この刑事は、『OUT』に出てくるほぼ唯一の「まっとうな仕事をしている男」だ。
他の登場人物といえば、街金業者の元暴走族、殺人の前科のあるカジノ経営者、ブラジルからの出稼ぎ労働者などで、彼らは社会の周縁にいる“OUT”な人間だ。なにしろ社会は、正社員の男性を中心にまわっている(ことになっている)のだから。

だが彼らは“OUT”だからこそ、死体遺棄の首謀者である雅子の本質に気づくことができる。
決して男のいいなりにならない女、直接の利害がなくても死体をばらばらにできる女の本質に。
そして三人ともが雅子の本質に惹かれ、三者三様の形で雅子に近づくことになる。

これは追いやられた女たちから男へ、“OUT”の男たちから“IN”の男たちへの逆襲の物語なのだ。



死体遺棄、警察との攻防、その後の“ビジネス”、姿の見えない敵から追い詰められる犯人たちとどのパートもおもしろく読んだのだが、ラストの展開だけは好きになれなかった。

〇〇と雅子の魂の触れあいはさすがに異常すぎて理解不能で……。

でもまあ、それでいいのかもしれない。
結局ぼくは“IN”の人間だしな。だから『OUT』をフィクションとして楽しめるんだし。
これが心底理解できるようになったらぼくももう“IN”ではいられないだろうから……。


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2020年2月13日木曜日

気の毒な苗字


ぼくの苗字はごくごくありきたりの苗字だ。
日本の多い苗字トップ10に入っている。

めずらしい苗字にあこがれたこともある。
星野とか桜井とか月島とかの美しい苗字がうらやましい。

しかし「苗字をランダムに変えられるボタン」があってもぼくは押さない。
今より悪い苗字になるのが怖いからだ。

親が様々な想いを込めてつける名前とちがい、苗字は「なんでこんなのにしたんだろ」とおもうものがちょこちょこある。

その苗字で生きている人には悪いが、毒島とか大尻とか。
毒島なんて漢字もひどいし読みも「ぶすじま」で二重苦だ。つくづく「毒島じゃなくてよかった」とおもってしまう。ごめんやで。

江口とか。
ぜったいに小学生のときのあだ名は「エロ」で確定だもんな。

大学生のとき、同級生に田尾さんという女の子がいた。
田尾さんはあまり字がきれいではなく、漢字のヘンとツクリが離れてしまう、横に間延びした字を書く人だった。
あるとき友人のひとりが、左右離ればなれになった「尾」という字を見て「田尾さんの毛がはみでてる」と云った。
ぼくは大笑いしながら「名前が田尾じゃなくてよかった」とおもった。

前の会社に毛尾さんというおじいちゃんがいた。
苗字に毛がふたつも入っている。
当人は少し薄毛で、ぼくは毛尾さんに会うたびに「名前はあんなにふさふさなのに」とおもっていた。

もちろん口に出したりはしない。いい大人なので。
でもこれからも江口さんに会えば心の中で「エロ」と呼んでしまうだろうし、大尻さんに会えばこっそりお尻の大きさを観察してしまうのだ。


2020年2月12日水曜日

喪服のバラ売り

仕事で付き合いのあった方が亡くなくなり、お通夜に参列することになった。

葬儀なんて何年ぶりだろう。
ありがたいことに知人の死とはほぼ無縁の人生を送っている。親戚以外の葬儀に出席するのははじめてだ。

たしか喪服があったはず。ついにこれが役に立つ日が……。
あれ。
喪服はある。ジャケットだけ。ズボンがない。

ズボンだけがない。
衣装棚の服を全部調べた。ない。喪服のズボンだけがない。

そんなことあるか?
こないだ着たのいつだっけ。わかんない。喪服なんてめったに着ないから思い出せない。一度か二度しか着てないのに。

この喪服は、高校を卒業するときに母が買ってくれたものだ。
「こういうのが必要になるときも必ずあるから」と云って、数珠や袱紗と一緒に“葬儀セット”を買ってくれた。
さすがは母親だ。
息子が「こういうの」を自分では買わないことをちゃんとわかっているのだ。
もしものときに備えて買っておくなんてことはぜったいにしないし、いざ「必要なとき」になっても
「喪服買わなきゃいけないのか……。黒っぽいズボンとシャツじゃだめかな。なるべく文字が入ってないやつで」
とおもうか
「別の葬式と重なったことにして『葬式の先約があるんです』と云って行くのやめようかな」
と考えるかで、いずれにせよめんどくさいことから逃げようとする人間だということを、母はちゃんと理解しているのだ。すごいなあ。

その、母が買ってくれた喪服のズボンだけがない。

クリーニングの袋には入ってないから、クリーニングに出したわけではない。なによりぼくの性格的に、目に見えて汚れたわけでもないのにクリーニングに出すなんて面倒なことをするわけがない。

いつなくしたんだろう。喪服のズボンだけがどこかに行くなんてことあるだろうか。
前回お葬式に出たときに、ズボンを履かずに下半身パンツ丸出しで帰ってしまったとしか考えられない。
きっとどこかの葬儀場のトイレの中だ。我ながらうっかりさんだなあ。ウケる。

しかし、ないものを嘆いてもしかたがない。
問題は明日のお通夜をどうするか、だ。

時間はあるから、買いに行くことはできる。家から徒歩五分のところに紳士服屋もある。
さすがに結婚して子どもも持った今となっては「黒っぽいズボンと黒っぽいシャツ」というわけにはいかない。

でもなあ。
ジャケットはあるんだよなあ。
両方なくしたんなら潔く買い替えるんだけどなあ。
ジャケットは一回かニ回しか袖を通してないから新品同様なんだよなあ。ぼくは十八歳のときから体型も変わってないからまだ着られるんだよなあ。
このジャケットを紳士服屋に持っていって「これにぴったりのズボンください」って言って買えるのかなあ。むりだろうなあ。喪服のバラ売りやってないだろうなあ。

試しに他のスーツのズボンをあわせてみる。
いちばん黒っぽいの。
うーん。
やっぱりちょっとちがう。喪服は漆黒だけど、スーツは黒といってもちょっと明るいんだよなあ。
妻に訊く。
「これ、上下ちがうってわかる?」

「んー。明るいところでよく見たらぜんぜんちがう。でもまじまじと見なければ気づかないかも。敏感な人なら気づくかもしれないけど」

おお。
なかなかいい手ごたえじゃないか。
これならごまかせるかも。
そうだよな。よく見なきゃ気づかないよな。
それにお通夜って夜だしな。葬儀場って祭壇以外はそんなに煌々と照らさないしな。
うん、いける。
しかも黒ネクタイとか数珠とかの「葬儀セット」はちゃんとあるしな。そっちに目が行くしな。
そもそも誰も「この人喪服の上下そろってなくない?」なんて疑いもしないだろうしな。

よし、これでいこう!
大丈夫だ!


そして翌日。
喪服のジャケットと黒っぽいスーツのズボンでぼくは出かける。
そして玄関先で気づく。
真っ黒の靴がない。
まあこの黒っぽい靴なら……。黒というかダークブラウンだけど……。


2020年2月10日月曜日

【読書感想文】振り込め詐欺をするのはヤクザじゃない / 溝口 敦・鈴木 智彦『教養としてのヤクザ』

教養としてのヤクザ

溝口 敦  鈴木 智彦

内容(Amazonより)
芸人の闇営業問題で分かったことは、今の日本人はあまりにも「反社会的勢力」に対する理解が浅いということだ。反社とは何か、暴力団とは何か、ヤクザとは何か。彼らと社会とのさまざまな接点を通じて「教養としてのヤクザ」を学んでいく。そのなかで知られざる実態が次々と明らかに。「ヤクザと芸能人の写真は、敵対するヤクザが流す」「タピオカドリンクはヤクザの新たな資金源」「歴代の山口組組長は憲法を熟読している」―暴力団取材に精通した二大ヤクザライターによる集中講義である。
ヤクザに精通したふたり(といってもこの人たちはヤクザではなくライター)による「今のヤクザ」に関する対談。

幸いにしてぼくはヤクザとは無縁の生活を送っているのでヤクザのことなんて映画やマンガで出る覚醒剤、拳銃、抗争、ショバ代……ぐらいのイメージしかなかったんだけど、この本を読むかぎりヤクザはわりと身近なところにいるらしい。

なにしろタピオカ、精肉、漁業、建設、原発などいろんな産業にヤクザが入りこんでいるらしく、そうなるとまったく無縁の生活を送ることはほぼ不可能だ。
溝口 昨年、カナダで大麻が解禁されましたが、それまでマフィアは大麻でも儲けていたわけです。カナダ政府が大麻を解禁したのは、犯罪でなくなれば捜査の手間や経費がかからなくなるうえ、大麻産業から税金を徴収できるようになる。こういうソロバン勘定で、要するに、ヤクザの儲けを政府が奪ったわけです。
 日本のヤクザも、希少な高山植物を採りに行ったり、あるいは禁止されているかすみ網で、鳴き声が綺麗な小鳥を獲ったり。自分が追い込まれたり、困ったりしたら何でもやっちゃうという習性がある。そういう人たちなんです。その習性の一つとしてサカナもあるのかなと。基本的にこの見方はそれほど間違ってはいないと思う。
鈴木 絶滅危惧種だの何だの、「獲ったら大変なことになる。ウナギが食べられなくなる」と煽られれば煽られるほど、ヤクザとしては美味しいシノギになるわけですね。禁漁というルールがあるからこそ、ヤクザの付け入る隙が生まれてくる。
 実際、ウナギの場合は、もちろん減っていることは事実なんですが、必要以上に絶滅危惧種と煽られることで、稚魚であるシラスウナギの密流通の値が上がっている。これは事実です。
なるほど。禁止されているものを扱うのがヤクザの仕事なのか。
だから拳銃や覚醒剤はもちろん、希少なものであればヤクザの商売道具になりうるわけだ。たとえばゲームが禁止されたらヤクザがゲームが扱いだす、という具合に。

水産庁が「ウナギが減っているからウナギ漁を抑制しよう!」となぜやらないのだろうとおもっていたけど、その背景にはもしかしたらこういう理由もあるのかもしれない。
制限してしまうと密漁や密輸が横行してヤクザを儲けさせることになるのかもしれないね。
アメリカの禁酒法がマフィアが勢いづかせることになったように。
溝口 五輪の場合、スタジアムの建設や人材派遣に膨大な人手が必要だから、ヤクザの入り込む余地が生まれる。建設業界は被災地の復興で人が回せないという状況ですからね。人が足りなくなれば、暴力団から人材が供給されることになる。
鈴木 私が東日本大震災後に福島第一原発に潜入取材したときは、五次請けでしたよ。でも周囲には六次、七次、八次という業者もいた。
溝口 八次請けじゃ、暴力団が入っていても元請けの建設会社はわからないよね。
鈴木 わからないでしょうね。実際、福島第一原発の廃炉関連事業には暴力団関係者が相当入っていました。
廃炉作業なんてのはやりたがる人が少ないから、ヤクザを介在させるのは必要なことなのかもしれない。
暴力団関係者を徹底的に排除してしまったら作業をする人間がいなくなってしまう。だから関係者は暴力団関係者とわかっていても目をつぶらざるをえない。
うーむ、こういう話を聞くと、ある分野ではやっぱりヤクザは必要悪なのかなあとおもってしまう。
誰もやりたがらないけどやらなきゃいけないこと、ってのはぜったいにあるもんね。

東日本大震災復興予算のかなりの部分が、被災地と関係のないところに流れたと聞く。それは納税者としても一市民としてもぜったいに許せないことなんだけど、しかし「ヤクザ以外にやりたがらない仕事」のために使われた部分もあるだろうし、そのへんを完全に切り分けるのは難しいだろうから、やっぱり現実問題としてある程度ヤクザやグレーの企業に流れるのはしかたないことなのかなあ。



詳しくない人間からすると「ヤクザ」と振り込め詐欺をするような「半グレ」はどっちも同じようなものなんだけど、当事者たちからするとまったくべつの組織なんだそうだ。

昨年、芸能人が反社会的組織と付き合って話題になった。
ぼくは「ヤクザとの付き合い」だとおもっていたけど、あれはヤクザではないそうだ。振り込め詐欺などは、(基本的には)ヤクザの仕事ではないみたいだ。
溝口 暴力団の看板を一度背負ってしまうと、警察に登録されてしまっているから、今さら半グレにはなれないという現実的な問題もあるんですが、やっぱり、〝ヤクザ愛〟があるんですよ、彼らには。
鈴木 ヤクザとしてのプライドですよね。矜持がある。
溝口 山口組五代目・渡辺芳則は「我々は反社と呼ばれたくない」「反社会的集団ではない」と言った。織田も同じようなことを言っています。彼らの基準では、反社会的集団のなかに半グレも含まれてるし、特殊詐欺のグループも含まれている。そういうのと一緒にするなと。
鈴木 ヤクザであることに強いこだわりがある。ここが一般の人にはわかりにくいんですよね。
 半グレのほうが儲けているかもしれないが、裏社会のトップはあくまでヤクザであって半グレではない。反社のキングはヤクザであって、スリを捕まえて、「盗ったものを返してやれ」と言えるのはヤクザしかいない。
溝口 半グレからヤクザになることはあっても、その逆はない。
もちろんヤクザ(暴力団)は悪しき存在なんだけど、ヤクザと半グレを比べた場合、警察が扱いやすいのはヤクザのほうなんだそうだ。
警察はヤクザの組織構成はだいたいつかんでいるし、警察とヤクザの間である程度の取引もできる(ほんとはよくないことなんだろうけど)。
ヤクザには一種の美学もあるので、「罪のない年寄りをだまして金をまきあげる」ことに抵抗をおぼえるヤクザも少なくないかもしれない。
(だから年寄りを騙して金をまきあげてたかんぽ生命はヤクザではなく半グレ)

一般人からしても、どっちがタチが悪いかといわれれば、ヤクザのほうがまだマシなのかもしれない。
「金さえ払えば超法規的な手段でもめごとを解決してくれる組織」を必要とする人も多いだろうし。

ところが今、暴力団対策法によって暴力団の構成員が生活していけなくなり、昔だったらヤクザになっていたような人間が特殊詐欺グループに行くようなケースも増えてきているらしい。
ヤクザにはヤクザなりの秩序があったわけだが、その秩序すらない犯罪組織がどんどん拡大してきていると聞くと、はたして暴力団対策法っていいことだったのかなとふとおもってしまう。

かといってヤクザが幅を利かせている世の中ももちろんイヤなんだけど。

ヤクザに対する見方がちょっとだけ変わる一冊。

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