2020年1月9日木曜日

【読書感想文】河童の魔導士のソムリエ / 岸本 佐知子『ひみつのしつもん』

ひみつのしつもん

岸本 佐知子

内容(e-honより)
奇想天外、抱腹絶倒のキシモトワールド、みたび開幕!ちくま好評連載エッセイ、いよいよ快調な第三弾!

何度も書いてるけど、ぼくがいちばん好きなエッセイストが岸本佐知子さん(本業は翻訳家だけど)。
とはいえはたしてこれはエッセイなのか……?
元々嘘成分のほうが多いエッセイを書く人だったけど、最近その傾向がよりいっそう強くなり、この本に収録されている話など妄想のほうが多いぐらい。どこまでが真実でどこまでが嘘かわからないのが魅力なんだけど、とはいえさすがに嘘がすぎないか。
もう短篇集といったほうがいいかもしれない。

ぼくが特に気に入ったのは、

粗末な部屋にあこがれるあまりマーラーの作曲小屋をのっとる『大地の歌』

劇場で目にしたボブとサムがいつのまにか脳内に居すわってしまう『カブキ』

物干し竿が壊れて中からドロドロの液体が流れるのを目にしたとたんに自我の分裂がはじまる『洗濯日和』

……そうだね、意味わかんないね。
でも説明しようがないんだよね。岸本さんの摩訶不思議なエッセイって。
読んでくれというしかない。

すごいなあ。こんなキレのある文章書きたいなあ。思いつくままに書きなぐってるようで綿密に構築してるんだろうなあ。
本業の翻訳をしながら、ようやるわ。


 数人でレストランに行った。何かワインを頼もうということになった。
 胸にソムリエのバッジをつけた店の人がテーブルにワインを四、五本持ってきて並べ、端から順に説明を始めた。
 知り合いでも紹介するようにボトルの肩にほんぽんと手を置きながら、「これは○○地方の××という村でしか採れない特別のブドウを使っていて」とか「これは喉ごしはすっきりとしているんですが、後から洋梨とかベリーといった果物系の香りが鼻に抜けて」とか、果ては「じつはここのシャトーは一度経営が苦しくて廃業しかけたんですが、たまたま末の娘さんが結婚した相手が経営学の博士号を持っていて」などといった話まで、一本ずつじつに事細かに懇切丁寧に解説してくれる。
 ソムリエってすごいなあ。さすがだなあ。と思って耳を傾けているうちに、ふいに愕然となった。
 これ、全部作り話なんじゃないか。
 いったんそう気づいてしまうと、もうそうとしか思えなくなってくる。
これは『河童』の書き出しだが、この導入の鮮やかさよ。

「気づいてしまう」って書いてるけど完全に妄想だからね。
ふつうはこんなこと考えないし、考えても一秒で海馬から抹消してしまう。
ここから、ソムリエの正体が河童の魔導士だ、と話が展開していくのだが、うん、そうだね、意味わかんないね。
でもそのとおりなのだから他に説明しようがない。

読んでくれというしかない。

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2020年1月8日水曜日

詰将棋と成功者


六歳の娘が将棋の駒の動かし方をおぼえたので何度か対局したのだが、勝負にならない。
ぼくも決して強いわけではないが、娘の指し方がでたらめなので十枚落ち(つまりこちらは王将と歩兵のみ)でも完勝してしまう。ゲームにならない(ぼくも負けず嫌いなのでわざと失策するような手は指したくない)。

娘の指し方は、とにかく駒を大事にする。歩兵一個でもとられないように全力を尽くす。結果、歩兵を守ろうとして角をとられる、なんてことになる。
あえて駒を捨てるなんてぜったいにできない。

また、せっかく取った駒を使わない。後生大事に抱えている。結果、守りはどんどん薄くなる。
たしかに初心者にとって「駒を打つ」のはむずかしい。盤上の駒が動ける範囲は限られているが、持ち駒を打てる箇所は数十個もある。ルール上は、空いている場所であればどこにでも打てる(歩兵、香車、桂馬には一部制約があるが)。
五種類の駒を持っていれば打てる場所は理論上数百になるわけだから、そこからひとつに定めるのはむずかしい。
ある程度慣れた差し手なら「現実的に意味のない手」ははじめから除外するので選択肢はぐっと狭くなるのだけど、慣れていなければ選択肢がありすぎて混乱する。
「カレーとハヤシライスどっちがいい?」なら答えられても「ばんごはん何がいい?」だと悩んでしまうのと同じだ。

そういやAI将棋ソフトは、「ベテラン棋士なら無意識に除外する手」も含めて検討すると聞いたことがある。
六歳児はAIと同じことをしているのだ。そう考えるとすごいな。すごかないけど。


ということで、「駒の捨て方を身につける」「駒の打ち方を身につける」練習のために、子ども向けの詰将棋の本を買ってきた。
一手詰めや三手詰めの問題を盤上に並べ、娘に解いてもらっている。

詰将棋をやっていると、ぼくも子どもの頃に父と詰将棋をしたことを思いだす。
だが、ぼくはちっとも詰将棋を好きにならなかった(今はわりと好きだが)。
そのわけは、父が出題する問題が難しすぎたことにあった。
父は新聞に載っている詰将棋の問題をぼくに解かせようとした。好きな人なら知っているとおもうが、新聞に載っている問題はけっこう難しい。七手詰めとか九手詰めとか。そこそこやっている人でもじっくり考えないと解けないレベルだ。
とうぜんぼくはさっぱり解けなかった。まちがえたとしてもどこでまちがえたのかわからない。七手目がちがったのか、五手目がまずかったのか、三手目が誤っていたのか、それとも初手からやりなおすべきなのか。
七手詰めだと可能性がありすぎてちっともわからない。娘の本将棋と同じ、「選択肢がありすぎてわからない」状態だった。

その経験を踏まえて、まずは一手詰めの問題ばかりを娘に出している。
一手詰めだと王手の方法は四通りぐらいしかない。これはダメ、これもダメ、これもダメ、じゃあこれだ。ってな具合に総当たり消去法でも答えが出せる。
娘がまちがえるたびにぼくは「それだと王様はここに逃げるよ。じゃあここに逃げられないようにするためにはどうやって王手をすればいいかな」とヒントを与えてもう一度指してもらう。
いろんな問題に挑戦しているうちに、娘の腕も少し上がってきた。

困るのは、娘がいきなり正解を出してしまったとき。
じっくり考えてあらゆる可能性を検討した上で正解を導きだしたのであればたいへん喜ばしいことなんだけど、そうではなく、何も考えずに指した手が正解だったとき。

正解なので褒めてやる。
で、その上で「そうだね。たとえばこの手だったらこう逃げられるからダメだもんね。こっちに行った場合はこう逃げられるしね」と説明する。
……のだが。
後半の台詞を娘はぜんぜん聞いてくれない。
「やったー! さっ、正解したから次の問題!」
という感じで済ませてしまう。
ぼくが「なぜこの手がいい手だったのか」を説明しても「わかってたし」と言って耳を貸そうとしない。

これでは学びが得られない。

ああ、これか、と。
野村克也氏が言ったとされる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だ。
失敗には原因があるが成功はたまたま成功してしまうこともあるのだ。

成功者は成功の秘訣を真剣に考えない。
スポーツでもビジネスでもそうだ。
なぜ成功したのかをつきつめない。「おれがすごかったからだ」「がんばったからな」で済ませてしまう。他の選択肢を選んでいたらもっと良かったのではないか、他の選択ではどこがだめだったのかを考えない。
真剣に考えるのは今までのやり方がうまくいかなくなったときだけだ(そしてそのときにはもう遅い)。

詰将棋を通して、うまくいっているときこそ他者のアドバイスに耳を傾ける謙虚さを持ちなさいと伝えたいんだけど、まあ無理だわなあ。
だからぼくは、娘がまちがえた手を指してくれることをいつも願っている。


2020年1月7日火曜日

チェーホフの銃

最近のディズニー作品って、すごく人種に配慮してるじゃない。

たとえば『アナと雪の女王2』には肌の黒い兵士が出てくる。
はっきりとは描かれていないけどあの話の舞台(アレンデール王国)は中世の北欧っぽい雰囲気だから、黒人が出てこなくても不自然ではない。というか出てくるほうが不自然。
でも出てくる。
2015年の『シンデレラ』(実写版のほう)にもやはり黒人が出てくる。
どちらも、その役が黒人である必然性はない。「彼は移民の息子だ」みたいな説明もなく、ただいる。

それがいいとか悪いとかは言わない。
おもうところはあるけど、はっきり書くとややこしいことになりそうなのでやめておく。

まあいろんな事情があるのだろう、製作者もたいへんだ。


ところでこの傾向はどこまでいくのだろう。

この「あらゆる人種を平等に」を求めていけば、
「盲人がいないのはおかしい」
「どうして知的障害者が出てないのか」
「これだけの人がいれば同性愛者だって一定数いるはずだ」
「くせ毛の登場人物が少なすぎないか」
「どうしてこのミュージカルには音痴の人が登場しないんだ。現実には一定数いるはずなのに」
みたいな話になる。まちがいなく。

で、「いろんな人種の人をまんべんなく登場させろ」という声に抵抗しなかった製作者は、そういった声に反論することができない。だって前例に倣えば従うしかないんだもの。


演劇界には『チェーホフの銃』という言葉がある。
劇作家のチェーホフが「舞台に銃を置くのであればその銃は劇中で必ず発砲されなければならない」と語ったことに由来する。

つまり「意味ありげなものを出すなら必ず使えよ」「なくてもいいアイテムはなくせ」ということだ。
あえて意味ありげなものを置いて使わないことで観客の予想を裏切るというシチュエーションもあるだろうが、それはそれで「観客をミスリードする」という効果がある。

使われない、ミスリードにもならないアイテムなら使うな。観客が余計なことを気にするから。
ルールというより、「芝居をおもしろくするために守ったほうがいいこと」だ。

政治的な配慮のためだけにストーリーに関係のない属性の人をむやみに登場させた映画は、[発砲されない銃]や[昇られないハシゴ]や[撮影されないカメラ]だらけの映画だ。

その先にあるのは、[観られない映画]なんじゃないかな。


2020年1月6日月曜日

ノーヒットノーランの思い出


今から15年前のこと。
当時つきあっていた彼女(今の妻)と甲子園球場に行った。

ぼくは高校野球が好きで、毎年甲子園球場に足を運んでいた。
彼女のほうはテレビ観戦すらしたことがないぐらい野球に無関心。「一回ぐらい球場の雰囲気を知っておきたい」というので一緒に行くことになった。

2004年3月26日のことだ。
ぼくらは外野席に座り、東北ー熊本工の試合を観戦した。
特にこの試合を選んだ理由はない。二人の予定があったから。それだけ。
東北にはダルビッシュ有投手がいた。当時から注目されていたので、東北側スタンドは客が多いだろうとおもい、あえて逆の熊本工側のスタンドに座った。

熱心な高校野球ファンならピンときたかもしれない。
そう、ダルビッシュ投手が熊本工相手にノーヒットノーランを成し遂げた試合だ。

五回ぐらいからスタンド全体が「おいおいまだノーヒットだぞ」という雰囲気になり、七回、八回になると「まさか……」と観客席全体が浮足立ち、九回には全員が固唾を飲んで見守っていた。
もちろんぼくも大興奮。
「まさかノーヒットノーランを目の前で観れるなんて……!」と色めきたっていたのだが、ふと傍らの彼女に目をやると、なんともつまらなそうな顔でグランドを眺めている。

「このままいくとノーヒットノーランっていう大記録になるんだよ! 十年に一度ぐらいしか達成できないすごい記録! 1998年には横浜高校の松坂大輔が決勝で……」
とぼくは熱く語ったのだが、彼女は「ふーん。すごいねー」と気のない返事。

そこでぼくは気づいた。
そうか、ノーヒットノーランのゲームは野球に興味のない人にとってはすごくつまらないゲームなのだ。

ぜんぜん得点が入らない。ほとんどランナーも出ないから盛りあがりどころもない。おまけに熊本工側のスタンドに座っているからすぐ隣のアルプススタンドはお通夜のような状態。
野球ファンにとってはたまらないノーヒットノーランも、ルールもよくわかっていない人にとってはほとんど動きのない退屈な試合。
シーソーゲームの末に8対7でサヨナラ、みたいな展開であればルールがよくわからなくても楽しいのだろうが。

とうとうダルビッシュ投手はセンバツ大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。
感動に打ち震えるぼくと、つまらなそうにあくびをする彼女。その大きな温度差によって巨大な上昇気流が発生した……。



東北ー熊本工の試合だけ観て帰り、その後も彼女と球場に行ったことはない。
退屈なゲームに懲りたのか、二度と野球場に行きたいということはなかった。

ということでぼくの妻は、「ノーヒットノーランゲームしか野球の試合を観たことがない」というめずらしい人間だ。

2020年1月3日金曜日

娘と銭湯

六歳の娘とよく銭湯に行く。

娘は銭湯が好きだ。
風呂も好きだし、水風呂も好きだし、お湯と水がいっぺんに出るシャワーも好きだし、風呂上がりに牛乳やジュースを買ってもらうのも好きだし、それを飲みながらテレビを観るのも好きだ。

三歳ぐらいのときから何度も銭湯に連れていった。
妻はあまり公衆浴場が好きではないので行くときはたいていぼくと二人。
娘の友だちを連れていったこともある。幼児六人の面倒を一人で見たときはさすがにゆっくり風呂に漬かるどころではなく閉口した。

ぼくにとっても楽しい「娘との銭湯」だが、もうそろそろ行けなくなる。娘を男湯に入れることに気が引けるからだ。
条例では十歳ぐらいまでセーフだそうだが、さすがに十歳の女の子を男湯に連れていくのはまずいとおもう。自身も嫌がるだろうし。

六歳の今でも、「娘の身体をじろじろ見るやつはいねえだろうな」と周囲に目を光らせ、娘が歩くときはさりげなく前に立って身体を隠し、脱衣場ではすばやくタオルを巻きつけ、なるべく娘の身体が人前にさらされないように配慮している。

「娘を男湯に連れていくのは小学校に入るまで」と自分の中で決めている。
こうやっていっしょに銭湯に浸かれるのもあとわずかだなあ、と少しさびしい気持ちになる。


そんなふうにして、娘といっしょにできることが少しずつ減ってゆく。
手をつないで歩くとか、いっしょに公園で遊ぶとか、肩車するとか、おんぶするとか、寝る前に本を読んでやるとか、手をつないで寝るとか、娘の友だちの話をするとか、娘から手紙をもらうとか、髪をくくってやるとか、ピアノの連弾をするとか、朝起こしてやるとか。
今あたりまえのようにやっていることも、あるとき、娘から「今度からは一人でやるからいい」と言われて終わる。
(肩車やおんぶに関してはぼくのほうからギブアップする可能性もあるが)

いや、そんなふうに終わりを告げられるならまだこちらも感慨深く受けとめられる分まだいい。よりさびしいのは「気づけば終わっている」ケースだ。たぶんこっちのほうがずっと多い。

ふと「そういや最近娘と手をつないでないなあ」とおもう。最後につないだのはいつだったっけ。おもったときにはもう「最後のチャンス」は永遠に失われている。
「これが最後」と感じることもなく。
今までだって、おむつを替えるとか自転車の後ろを持って支えてやるとか、「これが最後のおむつ替えだな」とか意識することもなくいつのまにか終わっていた。今後もそうなのだろう。

娘の中でのぼくの居場所がちょっとずつ削りとられてゆく。娘もぼくも気づかぬまま。
あたりまえなんだけど、やっぱり寂しさはぬぐえない。
死ってある日突然訪れるものではなく、ちょっとずつ死んでゆくものなんだろうな。ぼくは今もゆるやかに死んでいっている。