2019年10月10日木曜日

【読書感想文】記憶は記録ではない / 越智 啓太『つくられる偽りの記憶』

つくられる偽りの記憶

あなたの思い出は本物か?

越智 啓太

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

自我が揺らぐぐらいおもしろい本だった。
この著者(本業は犯罪心理学者らしい)の『美人の正体』もおもしろかったが、こっちもいい本。
自分の専門分野ではないから、かえって素人にもわかりやすく説明できるんだろうね。

「虚偽記憶」という言葉を知っているだろうか。
その名の通り、嘘の記憶。実際に体験していないにもかかわらず実体験として記憶に残っていることがら。

かつてアメリカで、多くの人が次々に自分の親に対して「かつて性的虐待を受けた」として訴訟を起こしはじめた。
訴えられた親たちは戸惑った。なぜならまったく心当たりがなかったから。どうして成人した子どもたちが今になってそんなことを言いだすのか。
しかし多くの人々は自称被害者たちの言うことを信じた。なぜなら、わざわざ嘘をついて実の親を性犯罪の加害者にしようなんてふつうはおもわないから。嘘をつくメリットがない(というよりデメリットのほうが大きい)からほんとだろう、という理屈だ。

訴えた"自称"被害者たちは、ジュディス・ハーマンという精神科医の患者だった。ハーマンから「記憶回復療法」を受け、抑圧されていた記憶を取り戻したと主張していた。
その後、様々な検証がおこなわれた結果、今では彼らの「取り戻した記憶」はほとんど「記憶回復療法」によって植えつけられた偽りのものだったとされている……。

というなんとも後味の悪い話だ(想像だけど、ハーマン自身も悪意があってやっていたわけではなく誤った信念に基づいていただけで善意でやっていたんじゃないかなあ)。

そこまでいかなくても、嘘の記憶が発生することはある。
ぼくにも「今おもうとあれは虚偽記憶だったんだろうな」という記憶がいくつかある。

子どもの頃寝ていたら泥棒が寝室に入ってきてタンスをあさっていたこととか(家族は全員否定している)、

小学三年生ぐらいのときに断崖絶壁から落ちそうになったけど木にしがみついてなんとかよじのぼった記憶とか(たぶんこれは実際に起きたことが自分の中で誇張されてる。山の急坂からすべり落ちそうになったぐらいだとおもう)。

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第3章~第5章の『生まれた瞬間の記憶は本物か?』『前世の記憶は本物か?』『エイリアンに誘拐された記憶は本物か?』は、正直少し退屈だった。なぜならぼくが「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とおもっているから。

しかし著者は、「エイリアンに誘拐されたなんて嘘に決まってるだろ」というスタンスはとらず、エイリアンに誘拐されたと証言する人の共通点や時代による変化など、「なぜエイリアンに誘拐されたと信じるにいたったのか」を丁寧に検証している。
また「彼らの証言は疑わしく見えるものの、エイリアンに誘拐された人などいないという証拠が挙げられない以上、否定することはできない」とあくまで科学的謙虚さをくずさない。
このスタンスが立派だ。なかなかできることではない。
「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とハナから決めつけていた自分を反省した。


『ムー』的なものが好きでない人には第3章~第5章は退屈かもしれないが、その他の章はきっとおもしろいはず。
記憶に対する考え方が変わる。



SFだと記憶を植えつける装置なんてものが登場するが、じっさいにはそんなものを使わなくてももっとたやすく人の記憶は改竄できるそうだ。

こんな実験が紹介されている(ここに出てくロフタスという人は、ジュディス・ハーマンの虚偽記憶に対して反証した人だ)。
 たとえば、ロフタスは次のような実験を行っています。
 まず、目撃者役の実験参加者には、車が事故を起こす動画を見せます。その後、この事故について、目撃者からいろいろな情報を聞き取っていくわけですが、その中にその車のスピードを尋ねる質問があります。「その車がぶつかったときにどのくらいのスピードが出ていましたか?」という質問です。ただ、彼女はそのときの質問をいくつかのバリエーションで聞いることにしました。具体的には、「ぶつかった」の部分をニュアンスの異なったさまざまな語に変えて聞いてみたのです。
 興味深いことに、ここで使用される単語によって、実験参加者の回答は大きく変わってくることがわかったのです。たとえば、「その車が接触した(contacted)とき」と質問した場合には、実験参加者は自動車のスピードを時速三一・八マイル(時速五一・二キロメートル)と推定しましたが、「その車が激突した(smashed)とき」と質問すると、推定された測度は、時速四○・三マイル(時速六五・六キロメートル)になっていました。彼らが実際に見たのは同じ映像ですから、質問の仕方がその記憶の内容に影響してしまったのだということがわかります。
(中略)
 ロフタスは、この現象を示すために次のような実験を行いました。この実験で使われた動画では、じつは車が激突したとき、そのフロントガラスは割れていませんでした。ところが、スピードについて推定させたあとで、「車のフロントガラスは割れていましたか」と聞くと、「ぶつかった(hit)とき」と聞いた群の実験参加者は八六%が「割れていなかった」と正しく答えたのに対し(車のスピードについて質問しなかった群では、八八%)、「激突(smashed)」で質問した群の実験参加者は、「割れていなかった」と答えた人は、六八%に大きく減り、三二%が実際には割れていなかったフロントガラスを「割れた」と答えてしまったのです。

質問するときに使う単語のニュアンスだけで、同じ映像を見てもこれだけ記憶が変わるのだ。
まして、質問をする側に「事故加害者の罪を重くしてやろう」という意図があったりしたら、さらに記憶は大きくゆがめられることだろう。


じっさいには体験していない人に「子どもの頃に迷子になっておじいさんが助けてくれたことをおぼえていますか?」とくりかえし質問をするという実験の結果が紹介されている。
はじめは「おぼえていない」と語っていた被験者は(体験していないんだからおぼえていないのがあたりまえだ)、「たしかに経験しているはず」と何度も言われるうちにありもしない記憶を「おもいだした」そうだ。
 家族としばらく一緒にいたあとに、おもちゃ屋に行って迷子になったと思う。それであわててみんなを探し回ったんだけど、もう家族には会えないかもって思った。本当に困ったことになったなあと思ったんだ。とっても怖かった。そうしたら、おじいさんが近づいてきたんだ。青いフランネルのシャツを着ていたと思う。すごい年寄りというわけではないけど頭のてっぺんは少し禿げていて灰色の毛がまるくなっていて、めがねをかけていた。
また、ニーアンが、その記憶がどのくらいはっきり思い出せるかを一~一一までの段階で判断するようにクリスに求めたところ、「八」と答えました。
(中略)
いろいろな手がかりを頭の中で探すと、おそらく関連がありそうないろいろな記憶の断片が思い出されてきます。ユーアンの実験でいえば、ショッピングモールに行った記憶や、どこか(たぶんショッピングモール以外の場所)で迷子になった記憶、お母さんが見当たらなくて不安になった記憶や、見知らぬ男性と話した記憶などです。しかし、それらの記憶自体は、あくまで断片であり、いつどこでの体験なのかはあまりはっきりしないかもしれません。第1章でも述べたように、記憶の内容自体と、それがいつ、どこでの記憶(ソースメモリー)なのかを判断するのは、異なったメカニズムであるからです。
 しかし、本人はこのようにして想起された記憶の断片をそのとき」の記憶が蘇ってきたと考えてしまうのです(ソースモニタリングエラーです)。すると、ヒントとして呈示されたストーリーに従ってそれらの記憶がパッチワークのように貼り合わされていき、次第に現実感のある記憶が完成されていきます。さらに、頭の中でこれらのイメージを反芻するに従って、記憶はより鮮明で一貫した構造を獲得していきます。そして最終的には、リアルな偽の体験の記憶が形成されてしまうわけです。つまり、体験しなかった出来事でも一生懸命考えることによって、フォールスメモリーが完成してしまうのです。

会話をくりかえすだけであっさりと偽の記憶がつくられてしまうのだ。
しかも一度形成されてしまった偽の記憶は強固なものになり、「あれは実験のためにやったことでほんとはあなたはそんな体験していないんですよ」と説明しても「いやたしかに体験したことだ」と納得しなくなるそうだ。

ぞっとする話だ。

ぼくには六歳の娘がいるが、子ども同士の喧嘩を見ているとつい数分前の記憶があっさり書き換えられることがよくあることに気づく。

たとえばAちゃんがBちゃんを叩き、それをきっかけに喧嘩になる。
だがAちゃんは「Bちゃんが先に叩いてきた!」と主張する。涙ながらに一生懸命訴える。
「一部始終を見てたけど先に手を出したのはAちゃんだったよ」と伝えても、一歩も引かない。
このとき、たぶんAちゃんには嘘をついているという自覚はない。「Bちゃんが先に叩いてきた!」と言っているうちに、自分の中で偽の記憶が形成されてしまい、それを本気で信じているのだ。

よくある虚言癖の子どもというのも、たいていこういう経緯をたどって嘘をついているんんじゃないだろうか。
「嘘ばかりつく子」というより「想像や発言によって記憶がすぐに書き換えられてしまう子」なんだとおもう。


こうなると、私の記憶は本物か? という問いが当然生じる。
ぼくらはふつう、自分の記憶は正しいとおもっている。「私の記憶が真実であることは、少なくとも私自身は知っている」と思いこんでいる。起きたことを忘れることはあっても、起きていないことをおぼえていることはありえないとおもっている。
でもそれは誤りかもしれない。

って考えると自我が揺らいでくる。
自分の記憶がほんとかうそかわからないなら、何を信じて生きていけばいいんだろう……と。



しかし記憶が不確かであること、容易に改変されることは必ずしもマイナスであるとはいえないと著者は見解を述べている。
  これらの現象は病理的な現象のように思われますが、もっと広い観点から見てみると、このような記憶の改変は、じつは私たちの記憶システムがもっている正常なメカニズムのひとつではないかとも考えることができます。上記のような一見異常な記憶の想起でも、想起によって自らのアイデンティティを確認したり、自らの精神的な不調の原因を納得させようとする動機が含まれていましたし、いまの自分が昔の自分よりも優れていると思うために過去の自分の記憶を悪い方向に改変したり、また、高齢者になると自分の人生をよきものとして受け入れるために逆に過去の記憶を美化して書き換える傾向は、もっと頻繁に起こっていることがわかりました。記憶は過去の出来事をそのままの形で大切にとっておく貯蔵庫であるという考え方自体かそもそも間違っているかもしれないのです。
なるほどねー。

そういえば、地下鉄サリン事件で有名になった毒物のサリンには「記憶を強化する」という効果があると聞いたことがある。
記憶力が良くなるんならいいじゃないかとおもってしまうが、嫌な思い出(地下鉄でサリン事件に遭ったこととか)も薄れずに残ってしまうためPTSDなどに悩まされやすくなるのだとか。
すぐに忘れてしまうのも問題だが、忘れられないのもよくないのだ。

記憶があいまいなおかげで「自分は昔より成長している」とおもえたり、「私の人生は悪いものではなかった」とおもえるのなら、それはそれでいいことだ。

だから、重要なのは「記憶とは記録だ」という認識がまちがいだと気づくことだね。
記憶はすぐに改変される、だから自分の記憶も信用ならない、という認識を持っておくのが「記憶との正しい付き合い方」なのかもしれないね。


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2019年10月8日火曜日

有段者になろう


ぼくは段を持っていない。

おもえば、ずっと段とは無縁の人生を歩んできた。

格闘技は見るのも好きじゃない。
将棋や囲碁は趣味でやる程度。
書道のように集中力を要するものは苦手。

持っている資格は、普通運転免許、英検三級、漢検二級。それだけ。
英検や漢検に級はあっても段はない。
小学生のとき通っていたスイミングスクールで四級ぐらいまでいったけど、こちらも段はない。

だからだろう、「有段者」という響きにあこがれる。
「学生時代は剣道部にいました。剣道二段です」
なんて言われると、「まいりました」と言ってしまいそうになる。段を持っているだけで「技あり」一本とられた気分だ。

吉本新喜劇だったかで
「わしは柔道・剣道・空手・書道・そろばんあわせて七段や!」
「書道四段とそろばん三段やけどな」
みたいなギャグがあったけど、一段も持っていないぼくとしてはただただ「すごいじゃないか」とただただ感心してしまう。


たぶんこの先も段をとることはない。
なんだか悲しい。
ぼくの人生、無段で終えるのか……。

そうだ!
自分が家元になればいいんだ。
そして自分に段を発行すればいいんだ!
段なんて言ったもん勝ちだもんな。

だからぼくは今日から「読書感想文五段」を名乗ることにした。

柔道でいったら全日本選手権に優勝する人が五段だったり、将棋(プロ)でいうと四段になることで晴れてプロになったりするので、五段というのは相当な強さだ。

よしっ、今日からぼくは読書感想文五段!
プロフィールも更新したぜ!


2019年10月7日月曜日

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

超予測力

不確実な時代の先を読む10カ条

フィリップ・E・テトロック (著) ダン・ガードナー (著)
土方 奈美 (訳)

内容(e-honより)
「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果で注目を浴びた本書の著者テトロックは、一方で実際に卓越した成績をおさめる「超予測者」が存在することも知り、その力の源泉を探るプロジェクトを開始した。その結果見えてきた鉄壁の10カ条とは…政治からビジネスまであらゆる局面で鍵を握る予測スキルの実態と、高い未来予測力の秘密を、米国防総省の情報機関も注目するリサーチプログラムの主催者自らが、行動経済学などを援用して説く。“ウォール・ストリート・ジャーナル”“エコノミスト”“ハーバードビジネスレビュー”がこぞって絶賛し、「人間の意思決定に関する、『ファスト&スロー』以来最良の解説書」とも評される全米ベストセラー。

おもしろかった!
仕事、投資、政治、軍事、趣味その他いろんなことに使えそうな知見がぎっしり。

この本のテーマは「予測」だ。
著者は多くのボランティアを集め、大規模な予測実験をした。
「北朝鮮は三年以内に韓国に軍事攻撃をしかけるか?」といった近未来に関する問いをいくつも用意し、回答者たちは「その可能性は30%」などと予測する(途中で変更してもよい)。

「Yes/No」で答えられる質問ばかりなので、チンパンジーがやっても50%は正解する。
大半の予測者の成績はサルと大差なかった。
だが、その中に明らかに高い正解率を出した人たちがいた。研究機関の専門家よりも正解率が高かったのだ。
著者は彼らを「超予測者」と呼び、重ねて実験をした。すると超予測者の多くは続いてのテストでも高い成績を出した。

超予測者とはどういう人たちなのか?
彼らにはどんなやりかたで高いスコアをたたきだしているのだろうか?
そして我々が彼らのような高い予測力を身につけることは可能なのだろうか?

……という本。
わくわくする内容だった。



「超予測者」というと百発百中で未来の出来事を言い当てる超能力者みたいな人を予想するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
彼らもまちがえる。ふつうの人が50%まちがえる問題を、彼らは30%とか40%とかまちがえる。

なーんだそんなもんかとおもうかもしれないが、このちがいが大きい。
ルーレットで赤と黒が出るかを60%の確率で的中させることができれば確実に大金持ちになる。

超予測者自身も、重要なのはわずかな違いであることをを知っている。
100%は不可能。50%を60%にする、60%を61%にする。そのために学び続けられる人が超予測者になる資格を持っている。

つまり、予測の精度を上げるためには「自分はまちがっているのでは?」という反省を常にしつづけることが重要だということだ。

「おれは正しい! まちがってるはずがない!」って人はまちがえる。「私は誤っているかもしれない」という人が正解に近づける。皮肉にも。
 ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメートに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。「自分自身によるフィードバックとでも言おうか。『自分はこれに賛成するのか』『論理に穴はないか』『別の追加情報を探すべきか』『これが他人の意見だったら説得されるか』といった具合に」
 これは非常に賢明なやり方だ。研究では、被験者に「最初の予測が誤っていたと思ってほしい、その理由を真剣に考えてほしい、それからもう一度予測を立ててほしい」と要求するだけで、一度めの予測を踏まえた二度めの予測は他の人の意見を参考にしたときと同じくらい改善することがわかっている。一度めの予測を立てたあと、数週間経ってからもう一度予測を立ててもらうだけでも同じ効果がある。この方法は「群衆の英知」を参考にしていることから「内なる英知」と呼ばれる。大富豪の投資家ジョージ・ソロスはまさにその実例だ。自分が成功した大きな理由は、自らの判断と距離を置いて再検討し、別の見方を考える習慣があるためだと語っている。

知的謙虚さのほかに、超予測力のためには思考の柔軟さも必要であるとしている。

 ではなぜ二つめのグループは一つめのグループより良い結果を出せたのか。博士号を持っていたとか、機密情報を利用できたといったことではない。「何を考えたか」、つまりリベラルか保守派か、楽観主義者か悲観主義者かといったことも関係ない。決定的な要因は彼らが「どう考えたか」だ。
 一つめのグループは自らの「思想信条」を中心にモノを考える傾向があった。ただ、どのような思想信条が正しいか、正しくないかについて、彼らのあいだに意見の一致はなかった。環境悲観論者(「ありとあらゆる資源が枯渇しつつある」)もいれば、資源はふんだんにあると主張する者(「ありとあらゆるものにはコストの低い代替品が見つかるはずだ」)もいた。社会主義者(国家による経済統制を支持する者)もいれば、自由市場原理主義者(規制は最小限にとどめるべきだと主張する者)もいた。思想的にはバラバラであったが、モノの考え方が思想本位であるという点において彼らは一致していた。
 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

なんていうか、世間で大きな声で何かを叫んでいるのって柔軟とは真逆な人たちだよね。

政治家や評論家やアナリストとかが「これからこうなる!」って叫んでるけど、この人たちのありかたは「謙虚」「柔軟」とは正反対に見える。
自分の正しさを疑うことなく、思想信条に基づいて、新たな情報の価値を低く見る。

当然彼らの予測はあまり当たらない。チンパンジー並みの成績しか出せない(逆にいうとどんなバカの予想でもチンパンジー程度には当たってしまう)。
予測が外れてもろくに検証されずに「私は元々こうなるとおもっていた」という後出しじゃんけんの一言で済ませてしまう。
あるいは「こんな悪いことになったのは私の言うとおりにしなかったからだ!」「おもっていた以上に良い結果になったのは私ががんばったからだ!」と己の手柄に持っていくか。

これは、チンパンジー並みの正答率しか出せない政治家や評論家が悪いというよりも、そういう人の発言に耳を傾けてしまう我々が悪いよね。
だってみんなはっきりものをいう人が好きなんだもん。
「Aの可能性もあるしBが起こる可能性も捨てがたい。もちろんCが起こる可能性もゼロではないので備えを欠いてはいけない……」
という人より
「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」
って人の発言のほうをおもしろがってしまう。

だけどおもしろいからってチンパンジー並みの政治家を持てはやしちゃだめだ。それだったらまだタコにワールドカップの勝敗予想をさせるほうがマシだ(古い話だな)。



予測精度を上げるためには、検証が欠かせない。
 コクランが例に挙げたのは、サッチャー政権が実施した若年犯罪者に対する「短期の激しいショック療法」、すなわち短期間、厳格なルールの支配するスパルタ的な刑務所に収容するという手法である。それは効果的だったのか。政府がこの政策を一気に司法制度全体に広げたため、この問いに答えるのは不可能になってしまった。この政策が実施されて犯罪率が下がったら、それは政策が有効だったためかもしれないが、他にも考えられる理由は何百通りもある。反対に犯罪率が上昇した場合、それは政策が無益あるいはむしろ有害だったためかもしれないし、逆にこの政策が実施されなければ犯罪率はさらに高くなっていたかもしれない。当然政治家はどちらの立場もとる。与党は政策は有効だったと言い、野党は失敗だったと言うだろう。だが本当のところは誰にもわからない。政治家も暗闇で虹の色を議論しているようなものだ。
「政府がこの政策について無作為化比較試験を実施していれば、今頃はその真価がわかり、われわれの理解も深まっていたはずだ」とコクランは指摘する。だが政府はそうしなかった。政策は期待どおりの成果を発揮すると思い込んでいたのだ。医学界の暗黒時代が何千年も続く原因となった無知と過信の弊害がここにも見られる。
これはイギリスの話だが、日本の政治もほとんどが検証されていないようにおもう。

本来なら、政策導入前に「これを実施することによって〇〇の効果が見込めます。□□年までに××、□□年までに××の効果が得られなければ効果はなかったものとして中止します」といった検証プロセスを設定するべきだ。
(ちなみにぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、Webマーケティングの世界ではこれはやってあたりまえのことで、やっているからといって誇るようなことではない)

残念ながらぼくは寡聞にして、政治の世界においてこのようなプロセスが公表されているのを聞いたことがない(仮にやっていたとしても公表しなければ意味がない。なんとでもごまかせてしまうのだから)。

もちろん政治においては数値で検証不可能なことも多い。人々の幸福度を上げるのが目的であればどうやったって恣意的になるし、結果が出るまでに十年以上かかるような政策もざらだ。
でも、仮目標として指標を定めるなり、スモールゴールを設定するなり、やろうとおもえばできることはいくらでもある。
それをしないのは、「失敗を認めたくない人間」ばかりが政策立案をしているせいなのだろう。

さっきの例でいうと「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」っていうタイプ。言い換えると、チンパンジータイプ。


これはもう根本的に制度が誤っているんだろうね。
まちがえた人間を失脚させて、まちがえなかった人間を引き上げる制度にしていると、まちがいが減るかというとそんなことはない。
「まちがいを認めない人間」「まちがいをごまかす人間」ばかりになってしまう。そして予測精度は0.1%も改善しない。

改めるには、「まちがいを発見した人間(己のまちがいも含む)」に褒章を与えるような制度にしないといけないんだけどなあ。



この他にも、かつてドイツ軍が強かったのは「予測がはずれる前提で作戦を立てていた」からだとか、おもしろいエピソードがたくさん。

重要な意思決定に携わる人間は全員読むべき本だね。チンパンジーのままでいいならべつだけど。


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2019年10月4日金曜日

【読書感想文】設定の奇抜さ重視なのかな / 田丸 雅智『ショートショート 千夜一夜』

ショートショート 千夜一夜

田丸 雅智

内容(e-honより)
多魔坂神社のお祭りの夜、集うのは妖しの屋台と奇妙な人々…。欲しいと念じたものが出てくるヒモくじ屋。現れたゴロツキどもが引いたヒモの先には(「ヒモくじ屋」)、夜店ですくった人魚がみるみるうちに成長して(「人魚すくい」)、モデルにスカウトされたエリカが突然行方不明に(「ラムネーゼ」)、降り注ぐ優しい雨を、自分のものにする方法(「雨ドーム」)他、珠玉のショートショート全20編。いちどページを開いたら止まらない!わずか5分間の物語が、あなたを魅惑と幻想の世界へと誘います。巻末には、しりあがり寿さん描き下ろし「あとがきの夜」も特別収録。

神社のお祭りの夜をテーマにしたショートショート集。
全篇が「多魔坂神社のお祭り」に関係するという設定はおもしろい。神社のお祭りってあちこちでふしぎなことが起こってそうな気がするもんなあ。

ショートショートというと、どうしても星新一と比べてしまう。
死後二十年たってるのにまだ星新一とか言ってるのかよとかおもうかもしれないけど、ぼくにとっては神様みたいな人で物語の楽しみを教えてくれた人だから、どうしたって「星新一と比べてどうか」という目で読んでしまう。

ショートショートとは何かという質問に対しては、ぼくは短さ以上に「切れ味の鋭いオチ」が重要だと答える。
以下に意外性を見せるか、読者をだますか、余韻を残すかがショートショートに欠かせないものだと。

その基準でいくと、この『ショートショート 千夜一夜』はものたりなかった。
奇抜な設定はおもしろくて、起承転結の起承までは申し分ないのに、最後の最後で期待を下まわってくる。ハードルを上げて上げて、最後にハードルの下をくぐってくるというか。えっ、なにそのおもってたよりしょぼいオチ。悪い意味でだまされた気分。

まあショートショートに求めるものがちがうんだろうね。
この作者は、たぶん設定の奇抜さを重視しているんだろう。
大喜利のお題にいかに切れ味よく回答するかより、いかに独創的ないいお題を出すかに力を入れているというか。


しかしそんな中で『ストライプ』は設定もオチも秀逸だった。
ストライプのシャツの中から男の声がする、まるでストライプ模様が檻のようになって出られないようだ……という導入から、丁寧な話運びに「シャツ」「檻」を活かした鮮やかなオチ。
そうそう、ぼくがショートショートに求めるのはこれなんだよね!


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2019年10月3日木曜日

【読書感想文】計画殺人に向かない都市は? / 上野 正彦『死体は知っている』

死体は知っている

上野 正彦

内容(e-honより)
ゲーテの臨終の言葉を法医学的に検証し、死因追究のためとはいえ葬式を途中で止め、乾いた田んぼでの溺死事件に頭を悩ませ、バラバラ殺人やめった刺し殺人の加害者心理に迫る…。監察医経験三十年、検死した変死体が二万という著者が、声なき死者の声を聞き取り、その人権を護り続けた貴重な記録。

元監察医によるエッセイ集。あと小説もちょっと(たぶん実話をそのまま書くのはプライバシー的にまずいので事実に若干手をくわえて小説にしたんだろう)。

監察医とは、変死があったときに解剖をして不審な点がないかを調べる医師のことだそうだ。
「変死」と聞くとついつい「奇妙な恰好をした死体が姿を現した」という横溝正史世界的な死に方を想像してしまうが、医師が病死であると明確に判断したもの以外の死は法律的にはすべて「変死」という扱いになるそうだ。
だから交通事故死も自殺も変死になるし、自宅で心臓発作を起こして死んだなんて場合も変死扱いになるそうだ。
日本で死ぬ人の10~20%ぐらいは「変死」だそうで、だからそんなにめずらしいものではない。

「朝起こしに行ったら死んでいた」とか「風呂場で心臓発作を起こしたらしく死んでいた」なんてのはよく聞く話だ。
もちろんその大多数は病死なんだけど、ごくまれに「家族が殺して病死に見せかけた」というケースもあるそうだ。

で、解剖をしてそれを暴くのが監察医の仕事。
検死のプロである監察医が「病死にしては不自然な点がある」と判断すれば、そこから警察が捜査を開始するわけだ。

そういやこの前、テレビで「死体農場」というものを見た。
アメリカにある実験施設で、死体を様々な環境に放置して、死後どんな変化が起こるのかを観察するための施設だそうだ。
温度や湿度などを変えて死体の腐敗進行度合いを見ることで、犯罪事件の捜査に役立てるのだという。


日本ではそこまでのことはできないだろうが、監察医は死体に関する知識を多く持っているから、殺人事件の捜査には大いに貢献してくれる。
 臨死体著者の話を聞いたことがあるが、その人の場合は、かなり以前に死んだおじいさんが現われて、遠くの方からこっちへ来いと手招いていたが、行かなかった。もしもその通りにしていたら、自分は死んでしまったのかもしれないといっていた。
 私には臨死体験はないが、そのような現象があるならば、死に近づいたために心不全や血圧の低下の状態が起き、脳の血液循環不全のために幻想が出現したのではないかなどと、私は考えてしまう。その意味では、ゲーテが死ぬ前に残した有名な言葉「もっと光を!」は納得のいく言葉だと思っている。
 いまわの際の一言が、こうして現代までいい伝えられているのは、ゲーテという偉大な詩人の言葉であったからであろうし、とらえる側も言葉の中にゲーテを意識し、すばらしくふくらんだイメージを抱いて味わっているためでもあろう。
 だが、解剖生理学的に考察してみると、死が近づくと少なからず心不全、呼吸不全、脳機能不全などが生じ、神経系統の反応は鈍くなり、思考力も視力も衰える。体温も低下し、筋肉の緊張もゆるんでくる。
 バレーボールのような球形をしている眼球も、神経が麻痺すると緊張がゆるみ、たとえばラグビーのボールのような形に歪みが生じてくるのではないだろうか。そうなると正常時の焦点はズレて正しい像を網膜に結ばなくなる。
 脳機能の低下と焦点のズレなどから、明るさを感ずる力も弱くなるため、死期が近づくと、目の前が暗くなり、ものが見えにくくなる。

ふつうの医師は生きている人たちの病気を診るのが仕事だけど、監察医は死体を調べるのが仕事。同じ医師の資格を持っていても、相手はまったくちがう。

犯罪を見逃さないためには欠かせないポジションだね。

……とおもったら、この監察医制度があるのは全国で五都市だけ(東京23区・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)だそうだ。
じゃあその他の地域はどうしているのかというと、監察医ではなく、そのへんのお医者さんが呼ばれて調べるのだそうだ。近所の内科クリニックのお医者さんが検死をしたりするのだとか。

専門医が見れば「死後この時間でこうなっているのはおかしい」とか「自殺でこんな痕がつくはずがない」とか気づくようなことでも、一般の医師なら見逃してしまうこともよくあるだろう。

たぶん、「自殺や事故に見せかけた殺人」が見過ごされることもよくあるんだろうな。

ということで、もしも計画殺人をするなら監察医制度のある五都市以外でやるのがオススメだぜ!


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